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「博多記」から李文長関連の話

2023年04月20日 19:12

李文長   
819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/20(木) 18:06:48.40 ID:gtI08+75
「博多記」から朝鮮人捕虜で桃山文化史でも重要な李文長関連の話

西昌山本岳寺は昔は今熊町にあった。
大友宗麟から筑前国別府村の土地、十五丁の寄進の文書が今もある。
また朝鮮人李文長という者が博多に来て滞留した。
本長寺(本岳寺?)についての寺記を書いたのが今もある。
李文長は慶長十九年(1614年)春に客星が出たことと、大坂城の天守から黒雲風が立って天を覆ったことから占ったそうだ。
(大坂の陣と豊臣滅亡について?)
また博多に滞留した時、あちこちの記事を書いた。
儒者で、占いもよくしたという。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13618.html
秀頼薩摩落の事


この記事の、大坂城から後藤又兵衛と落ち延びた朝鮮人のことではないかというので前に出ていた。

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/20(木) 18:40:47.35 ID:tB8DIojS
李文長が客星(彗星)について占ったことは
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13254.html

大阪周辺の治安が悪すぎる
に、天守からの黒雲云々について占ったことは家康が肉人(ぬっへふほふ?)を見たことも書かれている
「一宵話」に以下のように書かれていた。

「一宵話」から「朝鮮の易者」

慶長の頃、朝鮮が降伏したため、俘虜たちを返還したなかで李文長はどういうわけか日本にとどまった。
甲寅の年(上記の1614年)、大坂に乱が起ころうとした時、城の殿主(天守)の上に火煙がいきなり燃え上がった。
城の内外が驚き騒ぎ、駆けつけて消そうとしたが、どこにも火は見えなかった。
そして人が静まったらまた燃え上がった。(原注:二月五日のことか?)
このようなことがたびたびあったため、片桐且元に命じて李文長に占わせた。
李文長「焦氏(焦延寿)の「易林」によって占うと
「艮が謙に変ぜり。艮益。尋兵争強。失其貞良。敗之殽郷。奚予孟明。否謙。人面鬼口。長舌利歯。劉破瑚璉。殷商絶祀。」と出ました」
籠城の始めから終わりまで、この占いにつゆも違わなかったとは、すぐれた易者であった。
焦氏易は昔から占いに多く使ったわけではないのに、李文長はよく伝えたものだ。
李文長は書法の達人でもあり、中楷で書かれた孝経を見たところ、たいへん見事であった。(浅井氏蔵書)




826 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/04/21(金) 21:12:57.90 ID:LUHBz44e
>>820
「易林」の引用部分が意味が分からなかったので調べてみた。
最初の「尋兵争強。失其貞良。敗之殽郷」の部分は、艮之益の「秦兵爭強,失其貞良,敗於殽鄉」だと思う。
注に「秦穆公違蹇叔之諫,命孟明伐晉,師敗于殽」とあって、秦の穆公が諫めを用いず晋を攻めて(秦兵爭強)殽で大敗を喫し(敗於殽鄉)、
孟明視(百里奚の息子で名は視、字は孟明)ら三人の将軍が捕虜になったこと(失其貞良)を指すらしい。
秀頼が諫めを用いず戦をして将卒を失ったことを予言するのかな。

827 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/04/21(金) 21:31:36.16 ID:LUHBz44e
途中で送信しちゃったので続き
「奚予孟明」はよくわからないけど、易林の本文にはないので注が混じったかなんかかな。
「人面鬼口。長舌利歯。劉破瑚璉。殷商絶祀」は否之謙に「人面鬼口,長舌為斧;斲破瑚璉,殷商絕祀」というのがある。
「人面鬼口」は昔は鬼は九と通じたらしく、「人面九口」と同じらしい。「長舌為斧」と合わせて、口は災いの門とかそんな感じか。
「斲破瑚璉,殷商絕祀」は注によると「商紂無道,微子抱祭器奔周,其後武王伐紂,遂滅商焉」で
無道な商が祭祀のための宝器も失い子孫も死滅したことを言うらしい。
大阪方の方針がなかなか決まらず無駄な軍議のみ重ねて最後は豊臣家が滅びたことを予言しているんだろう。
ただ、商の紂王を指してるのが本当だとしたら、わりとストレートに秀頼ディスってることになるけど大丈夫だったんだろうか。

828 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/04/21(金) 22:10:10.09 ID:LUHBz44e
しつこくてすまんけど、「人面九口」もよく意味わからんからもう少し調べてみたら
どうも、「人面鬼口」「人面九口」も「八面九口」の意味っぽい。
これだと色んな人がてんでに自分の意見を言い合って話が全くまとまらないって感じなのかな。

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/21(金) 23:33:52.19 ID:XSWnTD4j
人と八、鬼と九
字面が似てるけど間違えて覚えたやつが広まったのか?

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/22(土) 11:21:00.14 ID:5o7Pygfj
李文長自体は豊臣家に重用されたけど、
占いにかこつけて秀吉を殷の紂王にたとえて朝鮮出兵を批判して、豊臣の祭祀が滅びるぞ、と言ったとか

831 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/04/22(土) 11:49:18.71 ID:adN4jV/6
>>829
人と八はたぶんただの読み間違いor書き間違いだと思う。
鬼と九は、易林釈文の注に「陳第の毛詩古音考に人面九口を引用して
昔は九と鬼が通用して、例えば九候を鬼候とも書いた」と書いてあるんで、
これが正しければ、古い時代は鬼と九の音が似ていた(或いは同じだった)ために
同じ字として扱ったってことだと思う。

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/22(土) 13:00:01.55 ID:l5yoKC5/
William M. BaxterとLaurent Sagartの「Old Chinese: A New Reconstruction」の鬼・九の上古音(「毛詩(詩経)」などをもとに再構築)
鬼: *k-ʔujʔ
九: *[k]uʔ

落合淳史「漢字の音」によればBaxterの再構成音は複雑だから当てにならないそうだけど

833 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/04/22(土) 13:14:46.93 ID:adN4jV/6
支那語の上古音については無知なんで鬼と九が通ずるという説が正しいかどうかはわかんない。
ただ、易林には「人面鬼口」「人面九口」「八面九口」「八口九頭」「八面九口」という句が
だいたい「長舌為斧」「長舌破家」という句の前に出てくるみたいなんで、鬼=九は腑に落ちるかなと。
あと、この李文長の占いの逸話は日本外史にも載ってるみたいで、デジタルコレクションに「日本外史解義」
という本が収録されていて詳しい注釈があった。
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「博多記」から神屋宗湛

2023年04月16日 16:20

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/15(土) 19:04:07.05 ID:9+E2Bn0r
「博多記」から神屋宗湛

神屋宗湛は肥前国唐津に仮住まいをしていた。
そのころ天下に名の知れた茶人である千利休や天王寺屋宗及(津田宗及)にも会い、自分も名を世上に知らしめようと唐津を出て入京した。
茶道において有名な京大坂の僧俗の間でも抜きん出ていたため、秀吉公がはなはだ感心なさった。
天正十五年(1587年)正月三日、秀吉公が大坂城で諸大名を招き茶会をなされたときも宗湛を召して茶をあがらせた。
この時、石田三成の取り持ちで名器を秀吉公に進上した。
虎皮二枚、豹皮一枚、照布(上等の麻布)二編、沈香一斤であった。
天王寺屋宗及がこれを取り次いだ。
このときから秀吉公の寵を受け、茶会でも近侍し、諸大名にも招かれた。
秀吉公の弟の大和大納言秀長卿も、大和郡山城に在城されていた時も参謁した。
こうして秀吉公恩顧の者となったため、秀吉公が筑前に下向された時もつき従い、(島津軍により)焦土となった博多を御覧になった時も御供した。
また天正十五年六月十九日、秀吉公は御陣所にて神屋宗湛と島井宗室にお茶をくださり、
二十五日には筥崎赤幡坊で秀吉公へ宗湛は御茶を立てた。細川幽斎も御相伴であった



「博多記」から島井宗室についての話をふたつ

2023年04月14日 20:14

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/14(金) 16:51:10.92 ID:q22LVapy
鶴田自反「博多記」から島井宗室についての話をふたつ

島井宗室の家に名物の楢柴という茶入(楢柴肩衝)があったのを、秋月種実が所望した。
秋月が押しかけるという風聞があったため、島井一家は宗室に「秋月に譲ってしまえ」と意見した。
こうして秋月から遣いがきたため、宗室は数寄屋で饗応し、楢柴の茶入れを渡した。
使者が門外に出るやいなや、宗室は数寄屋を崩した。
秋月からは楢柴の茶入の礼として大豆百俵が参ったそうだ。
そののち秀吉公が島津征伐に御下向の時、秋月種実は嘉麻郡芥田村までまかり出て茶入を献上したという。

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/14(金) 16:52:27.12 ID:q22LVapy
秀吉公が大坂城で島井宗室をお呼びになったため、島井宗室は夜に日を継ぎまかり出た。
大坂川口で石田三成が出迎えて宗室に言うには
「このたびその方を呼んだわけだが、朝鮮征伐を秀吉公が思しめした。
その方は朝鮮にも度々渡海いたしておるため、詳細をお尋ねになるであろう。
そこでこのように申し上げよ」
といちいち申し合わせた。
さて秀吉公が御対面あそばされ
「このたび朝鮮征伐を思い立ったため、その方を呼んだ。
ついては思うことをいちいち申せ」
との御意であったため、宗室は
「朝鮮は韃靼につづく要害の地で日本とはかなり異なります。
征伐はなさらぬが良いでしょう。」
と石田三成の教えの通りに申しあげた。
ことのほか秀吉公は御機嫌を損し
「われが思い立てば、唐土四百州を押し潰すことでさえ、たなごころをかえすほどである。
商人ゆえにそれさえも知らぬようだ」
と仰せになり、奥にお入りになられた。
宗室はこれ以来、秀吉公に呼ばれなくなったという。



744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/14(金) 19:29:09.22 ID:0Zo8UGwy
https://i.imgur.com/alxP07H.jpg
https://i.imgur.com/7rDgat9.jpg
天下三肩衝と言われた楢柴肩衝といえど命には換えられない
(大豆百俵は安すぎるけど)

この香は破れ笠

2022年06月18日 16:11

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/17(金) 19:06:51.60 ID:lpnKPrs/
福岡・博多の地誌「石城志」から組香(香の聞き分け)の名人の話
(享保の頃に書かれた鶴田七右衛門「博多記」出典という)

綱輪町に沈香屋宗有というものがいた。
香をきくこと、世に名人と称されていた。
ある時、黒田長政公が彼を召して香を聞かせなさった。
宗有は「これは肥後殿が貯えなさっている「破れ笠」と号する名香でしょう」と判じた。
長政公は驚き、どうしてその香を知っているのかと問いなさった。
宗有が答えて言うには、
「三十年以前、伏見で女が焼いている香を聞いたところ、名香であったため、出所を尋ねたのです。
すると肥後殿近習の士からもらった破れ笠という香と申しておりました。
この香は破れ笠に相違ありません」
と申したそうだ。