小早川隆景、新城を血に染める

2014年06月23日 18:54

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 00:21:46.22 ID:IN14G2Ii
小早川隆景、新城を血に染める

発生時期や誅された人物がちとハッキリしない逸話ですが、小早川隆景にまつわる悪い話

元亀元年(1570年、ただし1590-92年の天正年間説もあります。)
小早川隆景は新高山城に変わる新たな居城、三原城の完成に伴い新城の完成を祝う祝宴を三原城で開催。
その宴に呼ばれた者の中に、1人の偉丈夫の姿があった。備後本郷城の城主、古志清左衛門豊長(元綱とも)
身の丈六尺三寸、大力にして驍勇無双といわれた豪の者である。
出雲佐々木氏を先祖とした古志一族の者であり、尼子攻めや隆景の宇和島攻めにも参加し活躍した(殺害が天正説の場合)という。
ある戦で味方が危ういと見るや、槍を取って大音声を上げ、瞬時に敵数人を突き倒して形勢を逆転させる程の武勇の持ち主である。

この三原城の宴の直前、彼の武勇を妬んで主君・隆景に古志豊長が敵方に通じていると讒訴する者があった。
隆景はこれを信じ、家臣に古志豊長を殺害するよう命じた。

酒宴もたけなわの頃、酔って寝てしまった豊長の首を、隆景に命じられた家臣が太刀で斬って落とす。
すると、胴を離れた豊長の首は目をかっと見開き血を吹きながら転がり、首を失った胴体は刀を抜いて
立ち上がり、数歩歩んでからその場に倒れた。

豊長の家臣達も1人を残して皆討ち取られ、唯1人生き残った井上大炊介という家臣がこの血の宴を脱出して
本郷城に急を知らせた。城に居た15歳になる豊長の嫡子は直ちに三原城へ赴き、隆景と対面して父の遺骸を受け取ると、
自らの城下に持ち帰り葬った。だが、その墓前で念仏を上げていたところを追っ手に討たれ、古志氏は断絶したという。
この無残な出来事を知った領民達は、口々に小早川の繁栄も長くはあるまいと噂したと言う。

(水野記、広島県史など)

なお、資料によっては古志氏はこの後も名を和田と変え、毛利家の家臣として存続したが、関ヶ原の戦後、毛利家の転封に
付いて行かず、武士としての歴史を終えたとも言われている。




570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 10:46:24.93 ID:VmKU1xPn
前期なら讒言に惑わされる普通の人
後期なら養子のために御しえない人物を粛清しただけ
と思ったけど、“小早川秀秋”が誕生するのは文禄3年か

571 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/06/23(月) 11:44:40.79 ID:NFDW0WCH
他にも1572年に古志豊長と不仲の鷲尾山城の杉原氏が戦って小早川隆景の調停で仲直りしたと言う記録も有るし、
天正期には小早川隆景の国人衆に対する国替えに反発して秀吉に直訴しようとした古志豊長(元綱)が誅されたって資料も有ったり、天正20年8月の古志豊長の墓?も有ったりで色々と訳ワカメ
まぁ、逸話スレなので史実うんぬんはとりあえず置いときますかね。

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 13:18:03.78 ID:+4C+UDH6
備後の国人がどこと手を結び謀反を起こそうとするんですかw
元亀の線はないと思う

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 20:29:30.75 ID:lYZpV49i
出雲佐々木氏ってことは尼子と同族なんじゃない?
尼子の残党とか?

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