692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/07(火) 18:36:01.12 ID:m1SOtcLP
続武家閑談より「洛中放火の企て顕れて悉く斬戮の事」
古田織部正は徳川方の陣から敵に内通し、味方の事情を矢文で城中に送っていた。
その事は権現様はご存じでなく素知らぬようになさっていたため、大坂方はこれ幸いと間者に用いなさっていた。
権現様が大坂夏の陣にお立ちになる時、織部は茶友の宗喜に「大坂方から洛中に放火せよとのことだ」と実行を頼んだ。
しかし法制が厳しく、尾張義直(徳川義直)の陪臣である甲斐庄三郎、金井伊兵衛両人に放火犯二人をからめとられた。
成瀬隼人正(成瀬正成)に言上させ、伊賀守勝重(板倉勝重)が五更から明け方にかけて罪人を召し捕り、七日のうちに徒党をことごとく斬刑にした、
ほかにも助力している者どもがいるだろうということで、五月三日より上杉景勝に命じ八幡山に布陣させ、遊軍させなさった。
甲斐庄三郎は「管窺武鑑」「佐久間軍記」などでは甲斐庄三平のようで(甲斐庄が苗字)
続武家閑談の作者・木村高敦か書写した人物が「甲斐庄」という苗字を知らず「甲斐・庄三郎」と思ったのかもしれない
693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/07(火) 18:50:43.34 ID:m1SOtcLP
冒頭は「続武家閑談」だと
「古田織部正は吾陣より敵へ内通し味方の事城中へ矢文ありしけれども其事権現様御ぞんじなかりしが左あらぬ様になされこれを幸ひと間者より用ひ給ふ也」で
「管窺武鑑」だと
「此織部、旧冬の御陣の時、御方にて御供し、味方の事を聞いて、矢文を射て城中へ告げたるを、権現様御存なれども、御存じなき体になされ、御武術になさる。
是れ反間を用ひなさる御名将の微妙なり。」
「給うなり」がついてるから「管窺武鑑」のように反間という意味が正しいと思います。
「ぞんじなりし」を「ぞんじなかりし」と間違えたのかもしれない
続武家閑談より「洛中放火の企て顕れて悉く斬戮の事」
古田織部正は徳川方の陣から敵に内通し、味方の事情を矢文で城中に送っていた。
その事は権現様はご存じでなく素知らぬようになさっていたため、大坂方はこれ幸いと間者に用いなさっていた。
権現様が大坂夏の陣にお立ちになる時、織部は茶友の宗喜に「大坂方から洛中に放火せよとのことだ」と実行を頼んだ。
しかし法制が厳しく、尾張義直(徳川義直)の陪臣である甲斐庄三郎、金井伊兵衛両人に放火犯二人をからめとられた。
成瀬隼人正(成瀬正成)に言上させ、伊賀守勝重(板倉勝重)が五更から明け方にかけて罪人を召し捕り、七日のうちに徒党をことごとく斬刑にした、
ほかにも助力している者どもがいるだろうということで、五月三日より上杉景勝に命じ八幡山に布陣させ、遊軍させなさった。
甲斐庄三郎は「管窺武鑑」「佐久間軍記」などでは甲斐庄三平のようで(甲斐庄が苗字)
続武家閑談の作者・木村高敦か書写した人物が「甲斐庄」という苗字を知らず「甲斐・庄三郎」と思ったのかもしれない
693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/07(火) 18:50:43.34 ID:m1SOtcLP
冒頭は「続武家閑談」だと
「古田織部正は吾陣より敵へ内通し味方の事城中へ矢文ありしけれども其事権現様御ぞんじなかりしが左あらぬ様になされこれを幸ひと間者より用ひ給ふ也」で
「管窺武鑑」だと
「此織部、旧冬の御陣の時、御方にて御供し、味方の事を聞いて、矢文を射て城中へ告げたるを、権現様御存なれども、御存じなき体になされ、御武術になさる。
是れ反間を用ひなさる御名将の微妙なり。」
「給うなり」がついてるから「管窺武鑑」のように反間という意味が正しいと思います。
「ぞんじなりし」を「ぞんじなかりし」と間違えたのかもしれない
190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/18(水) 21:31:30.49 ID:dj1xSr2p
槐記享保十四年四月十三日の記事から 織部とムクロ肩衝
茶の後の四方山話のついでに(家煕様が話された)「ムクロ肩衝という名物の茶入れがある。その首がないのが名の由来という。織部が誰かと茶の湯をした後、秘蔵の茶入れを茶坊主に片付けさせたところ、茶坊主が茶入れのなかに指を入れて中を拭っていたが、指がどうやっても抜けないので、首を叩き割って指を抜いた。茶入れ袋と一緒に織部の前に出し、『茶入れの首と人間の首とを、まさかお取替えにはなさらないでしょう』と申したという話だ。この茶入れは名物記にも載っている」
191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/19(木) 12:49:07.64 ID:1Lx5XXEG
割る前に報告してくれたら指を切り落とせたのにな
槐記享保十四年四月十三日の記事から 織部とムクロ肩衝
茶の後の四方山話のついでに(家煕様が話された)「ムクロ肩衝という名物の茶入れがある。その首がないのが名の由来という。織部が誰かと茶の湯をした後、秘蔵の茶入れを茶坊主に片付けさせたところ、茶坊主が茶入れのなかに指を入れて中を拭っていたが、指がどうやっても抜けないので、首を叩き割って指を抜いた。茶入れ袋と一緒に織部の前に出し、『茶入れの首と人間の首とを、まさかお取替えにはなさらないでしょう』と申したという話だ。この茶入れは名物記にも載っている」
191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/19(木) 12:49:07.64 ID:1Lx5XXEG
割る前に報告してくれたら指を切り落とせたのにな
348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/15(火) 12:28:20.72 ID:mKlVt3NR
或る本に、(新井)白石先生の曰く、古田織部正は古き珍宝の全き(破損等のない状態)を、
余りに思い所無しとして好まず、されば書画のような物でも、かの所を切りこの所を断ち、凡ての
茶具をも多く損ない破り、又補い綴いで用いた。
これを世の人達は皆、興ある事に思い学んで、世に全き物は無くなる程の有様と成った。
松平伊豆守信綱の実父である大河内金兵衛久綱は、常に側の人にこのように言っていた。
「この人(古田織部)は必ず災いに罹りて死ぬべき者なり。」
その後、実際に古田織部は罪を被って誅せられたため、人々は驚き「どうして予てからそのように
見て取っていたのか」と久綱に問うた所、
「古の宝物と聞こえていても、多くは世々の乱に失せて、今有る所の物は皆、神仏が護持してこそ、
世に残ったのだろう。そのような物に対し、自分一人の好みに随って破るような事は、必ず鬼神の
悪む行為に違いない。ならばその人も又、身を全うして終わることを得ないだろうと思ったのだ。」
そう言ったという。非常に金言と言うべき、古き人の物語を承った。これは此年(現代)に於いても、
萬に付け渡って心得有るべきことではないだろうか。
(新東鑑)
349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/15(火) 13:10:59.95 ID:hwFR7qrI
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9767.html
「彼は必ず禍に巻き込まれて死ぬだろう」
新井白石「藩翰譜」出典で出ていた
350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/15(火) 13:42:27.21 ID:qdlarutW
それも含めてのへうげっぷりならばよし!
351 名前:げひひ[] 投稿日:2022/02/15(火) 17:02:14.55 ID:MQXZMTnS
珍宝は
玉と砕けて
花と散る
或る本に、(新井)白石先生の曰く、古田織部正は古き珍宝の全き(破損等のない状態)を、
余りに思い所無しとして好まず、されば書画のような物でも、かの所を切りこの所を断ち、凡ての
茶具をも多く損ない破り、又補い綴いで用いた。
これを世の人達は皆、興ある事に思い学んで、世に全き物は無くなる程の有様と成った。
松平伊豆守信綱の実父である大河内金兵衛久綱は、常に側の人にこのように言っていた。
「この人(古田織部)は必ず災いに罹りて死ぬべき者なり。」
その後、実際に古田織部は罪を被って誅せられたため、人々は驚き「どうして予てからそのように
見て取っていたのか」と久綱に問うた所、
「古の宝物と聞こえていても、多くは世々の乱に失せて、今有る所の物は皆、神仏が護持してこそ、
世に残ったのだろう。そのような物に対し、自分一人の好みに随って破るような事は、必ず鬼神の
悪む行為に違いない。ならばその人も又、身を全うして終わることを得ないだろうと思ったのだ。」
そう言ったという。非常に金言と言うべき、古き人の物語を承った。これは此年(現代)に於いても、
萬に付け渡って心得有るべきことではないだろうか。
(新東鑑)
349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/15(火) 13:10:59.95 ID:hwFR7qrI
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9767.html
「彼は必ず禍に巻き込まれて死ぬだろう」
新井白石「藩翰譜」出典で出ていた
350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/15(火) 13:42:27.21 ID:qdlarutW
それも含めてのへうげっぷりならばよし!
351 名前:げひひ[] 投稿日:2022/02/15(火) 17:02:14.55 ID:MQXZMTnS
珍宝は
玉と砕けて
花と散る
45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 10:21:23.91 ID:heYgV3tr
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210917/k10013263731000.html
NHK 細川忠興が記した書物の裏に石田三成らの自筆書状
2021年9月17日 6時27分
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、細川家が九州の有力大名となる礎を築いた細川忠興が記した書物の裏に石田三成や古田織部の自筆の書状があることが
東京大学史料編纂所などの調査でわかりました。専門家は豊臣秀吉に仕えた武将たちの素顔がうかがえる貴重な史料だとしています。
細川忠興は戦国時代から江戸時代初期の武将で、豊臣秀吉などに仕え、細川家が九州の有力大名になる礎を築いたほか、茶道などにも通じた文化人としても知られています。
細川家の史料を保管している東京 文京区にある永青文庫と東京大学史料編纂所は共同で巻物になっていた忠興が記した書物を調べたところ、忠興が受け取った書状などの裏側を再利用していることがわかりました。
その中には、1586年ごろ、秀吉に一緒に仕えていた石田三成や古田織部が自筆で忠興に宛てた書状が含まれていました。
石田三成の書状では、秀吉から受け取った金の使いみちについて忠興に「自分たちは恵まれているのだから、金をため込むのではなく周りに配るよう」説いていて、
専門家は押しつけがましいともとれるほど生真面目な三成の性格や人間性がよく表れているとしています。
また、古田織部の書状は、織部を名乗る前の「左助」という名前で「刀を貸してほしい」という趣旨が記されていて、専門家はほとんど残っていない織部の若い頃の書状だとしています。
戦国時代の武将の書状は、公的なものほど書き記す家臣によって代筆されたものが多く、調査を行った史料編纂所の村井祐樹准教授は「緊密に交流する様子が
自筆の書状からわかり、豊臣秀吉配下の武将たちの素顔がうかがえる貴重な史料だ」と指摘しています。
46 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/18(土) 10:22:16.34 ID:heYgV3tr
今回、調査されたのは細川忠興が能に関して記し、その後、巻物にして保管されていた書物です。
調査を行った東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授によりますと、一部で裏側に書かれた文字が透けて見える部分があり、何かの裏紙を再利用したものと思われていましたが、
詳しいことはわかっていませんでした。
解体すると15点ほどの書状や記録の裏紙が使われていました。
この中には、石田三成と古田織部、それに前田玄以といった一緒に豊臣秀吉に仕えていた武将から忠興に送られた書状が5点、忠興が自分で記した書状の下書きが3点、
闘茶と呼ばれるお茶を飲んでその銘柄を当てる当時の遊びを行った際の記録が3点などでした。
石田三成の書状は、前段部分であいさつとして忠興が参加した茶会の感想を尋ねたあと、秀吉からもらった金の使いみちについて記しています。
三成の自筆の文字は黒くはっきりと記されていて、後段にいくにつれ書きたいことを詰め込むように行の間隔が狭くなっています。
また、古田織部からの書状では、忠興に対して「刀を貸してほしい」という趣旨に続いて、「あまり大きいものは困る」と細かい要望を記しています。
専門家はこの時期に行われた後陽成天皇の即位式に持って行くための刀を借りる用件だったと考えられるとしています。
古田織部からの書状は合わせて3点あり、いずれも織部を名乗る前の「左助」という名前が差出人として記されていました。
このほか、忠興が記した書状の下書きには、秀吉配下の武将である蒲生氏郷や高山右近などと連れだって京都の相国寺に行く途中に、予定を変更して秀吉のところに行ったことが記されています。
47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 11:46:31.16 ID:Y7Yr55+I
専門家もツッコんでるけど
褒美としてもらった金の使い道について横から口出しするの、まじで押し付けがましいな
48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 12:13:26.31 ID:4EEgrKPK
へうげものキャラでそのまま想像できるなw
51 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/18(土) 15:34:47.84 ID:4JKoITUS
>>49
豊臣秀次からも借金が有ったと言うし、本能寺から豊臣政権下で戦も重なってたとはいえ、現代感覚だと道楽とも取れる茶の湯やその他の趣味にも三成からチクリと言われちゃうほど注ぎ込んでいたのかねぇ?
52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 15:49:47.42 ID:akBVD7N6
三成面白いキャラしとるわ
49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 13:55:19.49 ID:0ISUQ5f6
まぁ三成の性格からして公儀から貰ったお金なんだから
公的な事(部下への褒美とか内政)に使えよって考えなのは理解できる
忠興は数寄関係でで金使ってたし
54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/19(日) 01:28:08.62 ID:mMAai4VO
>>51
刀貸してくれって織部に言われる辺り
見栄えの良い刀も数持ってたんだろうなって想像つくし
甲冑のデザインしてたって事は相応に色んな甲冑も所持してるだろうなって思うと
趣味に思いっきり散財してそうな感じではある
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210917/k10013263731000.html
NHK 細川忠興が記した書物の裏に石田三成らの自筆書状
2021年9月17日 6時27分
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、細川家が九州の有力大名となる礎を築いた細川忠興が記した書物の裏に石田三成や古田織部の自筆の書状があることが
東京大学史料編纂所などの調査でわかりました。専門家は豊臣秀吉に仕えた武将たちの素顔がうかがえる貴重な史料だとしています。
細川忠興は戦国時代から江戸時代初期の武将で、豊臣秀吉などに仕え、細川家が九州の有力大名になる礎を築いたほか、茶道などにも通じた文化人としても知られています。
細川家の史料を保管している東京 文京区にある永青文庫と東京大学史料編纂所は共同で巻物になっていた忠興が記した書物を調べたところ、忠興が受け取った書状などの裏側を再利用していることがわかりました。
その中には、1586年ごろ、秀吉に一緒に仕えていた石田三成や古田織部が自筆で忠興に宛てた書状が含まれていました。
石田三成の書状では、秀吉から受け取った金の使いみちについて忠興に「自分たちは恵まれているのだから、金をため込むのではなく周りに配るよう」説いていて、
専門家は押しつけがましいともとれるほど生真面目な三成の性格や人間性がよく表れているとしています。
また、古田織部の書状は、織部を名乗る前の「左助」という名前で「刀を貸してほしい」という趣旨が記されていて、専門家はほとんど残っていない織部の若い頃の書状だとしています。
戦国時代の武将の書状は、公的なものほど書き記す家臣によって代筆されたものが多く、調査を行った史料編纂所の村井祐樹准教授は「緊密に交流する様子が
自筆の書状からわかり、豊臣秀吉配下の武将たちの素顔がうかがえる貴重な史料だ」と指摘しています。
46 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/18(土) 10:22:16.34 ID:heYgV3tr
今回、調査されたのは細川忠興が能に関して記し、その後、巻物にして保管されていた書物です。
調査を行った東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授によりますと、一部で裏側に書かれた文字が透けて見える部分があり、何かの裏紙を再利用したものと思われていましたが、
詳しいことはわかっていませんでした。
解体すると15点ほどの書状や記録の裏紙が使われていました。
この中には、石田三成と古田織部、それに前田玄以といった一緒に豊臣秀吉に仕えていた武将から忠興に送られた書状が5点、忠興が自分で記した書状の下書きが3点、
闘茶と呼ばれるお茶を飲んでその銘柄を当てる当時の遊びを行った際の記録が3点などでした。
石田三成の書状は、前段部分であいさつとして忠興が参加した茶会の感想を尋ねたあと、秀吉からもらった金の使いみちについて記しています。
三成の自筆の文字は黒くはっきりと記されていて、後段にいくにつれ書きたいことを詰め込むように行の間隔が狭くなっています。
また、古田織部からの書状では、忠興に対して「刀を貸してほしい」という趣旨に続いて、「あまり大きいものは困る」と細かい要望を記しています。
専門家はこの時期に行われた後陽成天皇の即位式に持って行くための刀を借りる用件だったと考えられるとしています。
古田織部からの書状は合わせて3点あり、いずれも織部を名乗る前の「左助」という名前が差出人として記されていました。
このほか、忠興が記した書状の下書きには、秀吉配下の武将である蒲生氏郷や高山右近などと連れだって京都の相国寺に行く途中に、予定を変更して秀吉のところに行ったことが記されています。
47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 11:46:31.16 ID:Y7Yr55+I
専門家もツッコんでるけど
褒美としてもらった金の使い道について横から口出しするの、まじで押し付けがましいな
48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 12:13:26.31 ID:4EEgrKPK
へうげものキャラでそのまま想像できるなw
51 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/18(土) 15:34:47.84 ID:4JKoITUS
>>49
豊臣秀次からも借金が有ったと言うし、本能寺から豊臣政権下で戦も重なってたとはいえ、現代感覚だと道楽とも取れる茶の湯やその他の趣味にも三成からチクリと言われちゃうほど注ぎ込んでいたのかねぇ?
52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 15:49:47.42 ID:akBVD7N6
三成面白いキャラしとるわ
49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 13:55:19.49 ID:0ISUQ5f6
まぁ三成の性格からして公儀から貰ったお金なんだから
公的な事(部下への褒美とか内政)に使えよって考えなのは理解できる
忠興は数寄関係でで金使ってたし
54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/19(日) 01:28:08.62 ID:mMAai4VO
>>51
刀貸してくれって織部に言われる辺り
見栄えの良い刀も数持ってたんだろうなって想像つくし
甲冑のデザインしてたって事は相応に色んな甲冑も所持してるだろうなって思うと
趣味に思いっきり散財してそうな感じではある
285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/01(木) 19:56:03.79 ID:qiFsgFHO
大阪夏の陣の折、大阪方は古田織部を語らい、「両御所(徳川家康・秀忠)が京・伏見御逗留の間に、
洛中を焼き候へ』とあった故、織部は自分の配下である茶道頭の宗喜に申し含め、調議を廻らせていた所、
板倉伊賀守(勝重)はかねてからこう言ったことに心を懸けており、法度を厳しく申し付けていた。
この時、尾張宰相義直卿の家臣、甲斐庄三平(庄三郎?)、今井伊兵衛両人によって、火付けを二人
搦め捕り、成瀬隼人を以て言上した。
伊賀守はこれを請け取り、糾明して同類四十三人を捕らえ、それから七日の内に三百余人を検挙した。
そして彼らの棟梁は古田織部であり、磔に懸けられ、彼の徒党の者共も尽く罪科に行われ、
洛中安静となった。
この織部、先の冬の陣では幕府方の御供をし、味方の事を聞いて、矢文を射て大阪城内に告げている事を
権現様はご存知であったが、あえてご存知無き体になされ、逆に利用したのだという。
これは反間(間者)を用いられる、御名将の趣深さである。
(管窺武鑑)
大阪夏の陣の折、大阪方は古田織部を語らい、「両御所(徳川家康・秀忠)が京・伏見御逗留の間に、
洛中を焼き候へ』とあった故、織部は自分の配下である茶道頭の宗喜に申し含め、調議を廻らせていた所、
板倉伊賀守(勝重)はかねてからこう言ったことに心を懸けており、法度を厳しく申し付けていた。
この時、尾張宰相義直卿の家臣、甲斐庄三平(庄三郎?)、今井伊兵衛両人によって、火付けを二人
搦め捕り、成瀬隼人を以て言上した。
伊賀守はこれを請け取り、糾明して同類四十三人を捕らえ、それから七日の内に三百余人を検挙した。
そして彼らの棟梁は古田織部であり、磔に懸けられ、彼の徒党の者共も尽く罪科に行われ、
洛中安静となった。
この織部、先の冬の陣では幕府方の御供をし、味方の事を聞いて、矢文を射て大阪城内に告げている事を
権現様はご存知であったが、あえてご存知無き体になされ、逆に利用したのだという。
これは反間(間者)を用いられる、御名将の趣深さである。
(管窺武鑑)
672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/20(火) 14:14:29.64 ID:O4Ie7grK
古田織部について、彼は家康公の御意に入り、御懇意であった。
茶湯の者で、その上古田は度々功名があったのだが、世上に於いては茶湯のことばかり
沙汰され、武名を語られることは少なかった。これは茶湯が害と成ったのである。
家康公が、御庭の物数寄を古田に致させた所で、円座を御手自ら古田のために敷いたという。
これによって、諸大名は殊の外古田を敬った。
駿府にて、(池田)輝政様を始め諸大名が、御館に於いて、列座して料理を食していた半ば、
古田が表れ来ると、皆座を立って膳の前に座らなかった。
その時、「茶道がありますので数寄屋を見られるように。」
と、連れ立って数寄屋を見せ、脇道より帰されたという。
古田について、上記のように諸人崇敬したのだが、冥加尽きて逆心したのだという。
「烈公間話」
古田織部について、彼は家康公の御意に入り、御懇意であった。
茶湯の者で、その上古田は度々功名があったのだが、世上に於いては茶湯のことばかり
沙汰され、武名を語られることは少なかった。これは茶湯が害と成ったのである。
家康公が、御庭の物数寄を古田に致させた所で、円座を御手自ら古田のために敷いたという。
これによって、諸大名は殊の外古田を敬った。
駿府にて、(池田)輝政様を始め諸大名が、御館に於いて、列座して料理を食していた半ば、
古田が表れ来ると、皆座を立って膳の前に座らなかった。
その時、「茶道がありますので数寄屋を見られるように。」
と、連れ立って数寄屋を見せ、脇道より帰されたという。
古田について、上記のように諸人崇敬したのだが、冥加尽きて逆心したのだという。
「烈公間話」
600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/23(火) 14:14:56.86 ID:ciKhsDbE
古田織部殿の茶湯が盛りであった頃は、遠国よりも多くの人が伏見へ登り逗留して、
織部殿の手透きを伺って茶湯を所望していた。
織部殿の殊に気に合った塗師の道恵という者、都に住んでいたが、織部殿の余勢によって、
茶湯も家業も上手であると、京都の人々は褒めそやし、自身も運も良さを自慢していた。
その頃、田舎に住んでいる士が四、五人打ち連れて伏見へ赴く途中、道恵の家の側を通り、
そこで案内を通してこのように伝えた
「我々は伏見へ赴く者たちなのだが、織部殿の所にも折々出入りさせて頂き、そちらのこと、
かねてより承っている。このような折から幸いに思い、寄って御茶を所望仕りたい。」
これに道恵は喜び
「丁度釜の湯も湧いています。よく我が家を訪ねてくれました。」と、露地の戸を開き招待した。
互いに挨拶事が終わると、茶請けとして煎海鼠、串鮑、蒲鉾の煮染めた物を出し、茶を点て仕廻し、
時宜を述べて各々立ち帰った。
道すがら、道恵の作意について彼らの褒貶はまちまちであったが、その中で千田主水が難じたのは
「今日の茶請けは潔くなかった。不時の作意も無く、ただ残り物の類を出されたようで、気分が
良くない。道恵の茶湯には奥ゆかしさがない。」
そう言うと、聞いた人は皆是に同意した。
このような事は茶湯に限らず、時により人により、よくよく遠慮があるべき事である。
(備前老人物語)
601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/23(火) 16:39:36.11 ID:l3tNfJO0
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3557.html
千利休と親しい侘茶人
蒲鉾そのまま出すと前もって来ることを知ってたな
と言われるし
煮染めにすると残り物みたいだと言われるし
602 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/02/23(火) 21:21:11.16 ID:vk/HjP/K
こうして、京都市街の住民は不意の来客、ことに好まざる相手に対してはぶぶ漬けを出す様になったと言う。
(民明書房刊『日本全国県民性起源』より)
古田織部殿の茶湯が盛りであった頃は、遠国よりも多くの人が伏見へ登り逗留して、
織部殿の手透きを伺って茶湯を所望していた。
織部殿の殊に気に合った塗師の道恵という者、都に住んでいたが、織部殿の余勢によって、
茶湯も家業も上手であると、京都の人々は褒めそやし、自身も運も良さを自慢していた。
その頃、田舎に住んでいる士が四、五人打ち連れて伏見へ赴く途中、道恵の家の側を通り、
そこで案内を通してこのように伝えた
「我々は伏見へ赴く者たちなのだが、織部殿の所にも折々出入りさせて頂き、そちらのこと、
かねてより承っている。このような折から幸いに思い、寄って御茶を所望仕りたい。」
これに道恵は喜び
「丁度釜の湯も湧いています。よく我が家を訪ねてくれました。」と、露地の戸を開き招待した。
互いに挨拶事が終わると、茶請けとして煎海鼠、串鮑、蒲鉾の煮染めた物を出し、茶を点て仕廻し、
時宜を述べて各々立ち帰った。
道すがら、道恵の作意について彼らの褒貶はまちまちであったが、その中で千田主水が難じたのは
「今日の茶請けは潔くなかった。不時の作意も無く、ただ残り物の類を出されたようで、気分が
良くない。道恵の茶湯には奥ゆかしさがない。」
そう言うと、聞いた人は皆是に同意した。
このような事は茶湯に限らず、時により人により、よくよく遠慮があるべき事である。
(備前老人物語)
601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/23(火) 16:39:36.11 ID:l3tNfJO0
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3557.html
千利休と親しい侘茶人
蒲鉾そのまま出すと前もって来ることを知ってたな
と言われるし
煮染めにすると残り物みたいだと言われるし
602 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/02/23(火) 21:21:11.16 ID:vk/HjP/K
こうして、京都市街の住民は不意の来客、ことに好まざる相手に対してはぶぶ漬けを出す様になったと言う。
(民明書房刊『日本全国県民性起源』より)
599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/22(月) 16:19:09.58 ID:fuLE/6ii
古田織部殿が茶湯宗匠の頃、彼が気に入っていた大工で、喜右衛門という者があった。
その頃茶湯を心がける人々は、織部を崇敬する余り、喜右衛門とも親密になった。
ある人が谷出羽守(衛友)殿を上客として、相伴衆二、三人の内に、かの大工・喜右衛門を
加えられた。
その朝に臨み、出羽守殿が入来あると、喜右衛門が路地に出迎え、「今朝の御相伴に、早々より
参り候」と申した所、出羽守殿は気色変わり、
「先ず、茶湯の置合違たり!」
と、立ち返ろうとしたのを、相伴の衆が色々に取り持ったため、異事は無かった。
その頃、この事については様々に批評された。
(備前老人物語)
古田織部殿が茶湯宗匠の頃、彼が気に入っていた大工で、喜右衛門という者があった。
その頃茶湯を心がける人々は、織部を崇敬する余り、喜右衛門とも親密になった。
ある人が谷出羽守(衛友)殿を上客として、相伴衆二、三人の内に、かの大工・喜右衛門を
加えられた。
その朝に臨み、出羽守殿が入来あると、喜右衛門が路地に出迎え、「今朝の御相伴に、早々より
参り候」と申した所、出羽守殿は気色変わり、
「先ず、茶湯の置合違たり!」
と、立ち返ろうとしたのを、相伴の衆が色々に取り持ったため、異事は無かった。
その頃、この事については様々に批評された。
(備前老人物語)
344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/29(木) 16:48:58.29 ID:idWAWTqs
古田織部は家康公の御意に入り、御懇意だった茶道者である。そのうえで古田は度々功名があった。
しかしながら茶湯の沙汰ばかりで世上の武名は少ない。茶湯は害となるのである(茶湯害ト成也)。
御庭の物数寄を古田が致されたところ、(家康は)円座(敷物)を御手自ら古田へ敷きなさったの
だという。これによって諸大名は殊の外古田を敬った。
駿府で輝政様(池田輝政)を始め、御館で諸大名の列座で料理があった。その中半に古田が来られ
ると、皆が座を立って(古田を)膳に座らせた。その時、茶道が終わって「数寄屋を見なされ」と
連れ立って数寄屋を見せ、脇道から帰ったのだという。
古田は以上の通り諸人の崇敬があったのだが、冥加尽きて逆心があったのだという。
――『烈公間話』
古田織部は家康公の御意に入り、御懇意だった茶道者である。そのうえで古田は度々功名があった。
しかしながら茶湯の沙汰ばかりで世上の武名は少ない。茶湯は害となるのである(茶湯害ト成也)。
御庭の物数寄を古田が致されたところ、(家康は)円座(敷物)を御手自ら古田へ敷きなさったの
だという。これによって諸大名は殊の外古田を敬った。
駿府で輝政様(池田輝政)を始め、御館で諸大名の列座で料理があった。その中半に古田が来られ
ると、皆が座を立って(古田を)膳に座らせた。その時、茶道が終わって「数寄屋を見なされ」と
連れ立って数寄屋を見せ、脇道から帰ったのだという。
古田は以上の通り諸人の崇敬があったのだが、冥加尽きて逆心があったのだという。
――『烈公間話』
126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/01(木) 17:36:48.65 ID:4/OV32Gj
古田織部殿の時代は、金森出雲殿(可重)が最も目利きの巧者と言われた。彼が堺で肩衝を
金子3枚で買われて領地の飛騨に下り、火口の釉薬がむさいと焼き直された。
この行為について上方で取り沙汰され議論となった座に、薮内紹智という古い目利きの巧者で、
かつ有名なひねくれ者が有り、彼が
「みなさんそう言われるが、出雲殿は焼き直される目があって買ったのだ。みなさんにはその目が
無いのだろう。」と言った。
そのような事を誰の前でも高言したため、人々から大変憎まれた。その後、夏切口(茶壺に封じた茶を
冬まで待たず初夏に口を開くこと)として、客60人ばかり、大名衆、京町方への振舞があったのだが、
これを主催する人々は紹智を嫌っていたため彼を除外し、「紹智講」と名付けた。
その人々が翌春、東山に各々茶箱を持ち寄って比べられた時、金森出雲殿も上京された。
かれは茶箱に例の焼き直された茶入を入れ、蓋と袋(仕覆)も作り直したものを取り出された。
これを見た人々は「あの茶入ならば、類なき侘びしさだ。」と評した。この後、茶箱に唐物茶入を
入れることが流行した。
金森出雲殿にどのように焼き直したかを尋ねたところ、灰を湿らせて釉薬を残したい部分を灰の中に
押し込み、廻りに火を置いて焼いたのだとの事であった。
その茶入は後に伊藤掃部殿(元豊臣秀長家臣)の所持となったが、海に取り落とされたのだという。
(長闇堂記)
128 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/08/02(金) 12:33:33.45 ID:Ps3Ppnlx
>>126
薮内の名誉回復は無い話なのか
129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/02(金) 15:01:02.87 ID:Wd9Qn8xC
>>128
妙本だけど、書いてあるのはこれだけですね。
古田織部殿の時代は、金森出雲殿(可重)が最も目利きの巧者と言われた。彼が堺で肩衝を
金子3枚で買われて領地の飛騨に下り、火口の釉薬がむさいと焼き直された。
この行為について上方で取り沙汰され議論となった座に、薮内紹智という古い目利きの巧者で、
かつ有名なひねくれ者が有り、彼が
「みなさんそう言われるが、出雲殿は焼き直される目があって買ったのだ。みなさんにはその目が
無いのだろう。」と言った。
そのような事を誰の前でも高言したため、人々から大変憎まれた。その後、夏切口(茶壺に封じた茶を
冬まで待たず初夏に口を開くこと)として、客60人ばかり、大名衆、京町方への振舞があったのだが、
これを主催する人々は紹智を嫌っていたため彼を除外し、「紹智講」と名付けた。
その人々が翌春、東山に各々茶箱を持ち寄って比べられた時、金森出雲殿も上京された。
かれは茶箱に例の焼き直された茶入を入れ、蓋と袋(仕覆)も作り直したものを取り出された。
これを見た人々は「あの茶入ならば、類なき侘びしさだ。」と評した。この後、茶箱に唐物茶入を
入れることが流行した。
金森出雲殿にどのように焼き直したかを尋ねたところ、灰を湿らせて釉薬を残したい部分を灰の中に
押し込み、廻りに火を置いて焼いたのだとの事であった。
その茶入は後に伊藤掃部殿(元豊臣秀長家臣)の所持となったが、海に取り落とされたのだという。
(長闇堂記)
128 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/08/02(金) 12:33:33.45 ID:Ps3Ppnlx
>>126
薮内の名誉回復は無い話なのか
129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/02(金) 15:01:02.87 ID:Wd9Qn8xC
>>128
妙本だけど、書いてあるのはこれだけですね。
103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/21(日) 01:13:32.35 ID:tvy6NoWG
千利休の切腹は堺で行うと、秀吉公の御意があり、この時、淀に於いて船に乗るまでの乗物を、
三斎公(細川忠興)と古田織部殿の両人が手配された。利休の内儀がこの時礼を申されたが、
利休は
「もはや、それも要らぬことです。日本国の人々は皆私を知っていますが、このお二人ほどの事は
有りません。」と言った、
切腹を行う堺の屋敷に於いて、四畳半の小座敷で利休は「少しお待ち下さい。」と、炭を直した。
湯がたぎった時に四尺床に腰を掛けたが、勝手方に臂がつかえたので、「この置き合わせではない。」と、
床真中に寄った。
そして「介錯の人々は声を掛けるまでお待ち下さい。もし言葉が出ないようであれば、手を上げて
合図致します。」と言って、脇差を腹に突き立てた。
しかし思うように行かなかったため、また引き抜き、同じ所に突き立て直し、引き回して腸袋を
自在の蛭釘に掛け、そこで介錯があった。古今に無いものであった。
利休切腹の後、秀吉公の後悔は限りないものであった。彼が切腹した後は、秀吉公は釜の形の切紙が
上手く切れず、誰彼にかかわらず切らせたが、御意に入るものはなかった。
蒲生氏郷と三斎公が行かれた時も、「ハァ、一応参りましたというだけの面だ。」と仰せになった。
「たしかにその通りだった。」と、後に三斎公は語られた。
利休が天下一と褒めた石灯籠が有った。利休自身が打ち欠いて、色々に直し、天下無双であると気に入った
ものであった。
その石灯籠を三斎公が所持され、任国が代わる度、丹後に取り寄せ、小倉へ下し、肥後の八代に下し、
現在はまた京へ上らせておられる。そしてこれを大徳寺高桐院に立て置き、三斎公自身の墓標として、
名を彫りつけるおつもりでおられる。「灯明などを灯せば丁度よい。」と仰られている。
少し手軽く見える灯籠で、角々が丸く、大形では無いものである。
(筆者注・現在この石灯籠は細川忠興の墓石として、大徳寺高桐院の墓地に有る。)
(三斎伝書)
104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/21(日) 13:52:30.21 ID:cN9uq2nD
お茶くらい気にすんなよ
105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/22(月) 12:12:38.25 ID:umL4DwKU
よく知ってるね
千利休の切腹は堺で行うと、秀吉公の御意があり、この時、淀に於いて船に乗るまでの乗物を、
三斎公(細川忠興)と古田織部殿の両人が手配された。利休の内儀がこの時礼を申されたが、
利休は
「もはや、それも要らぬことです。日本国の人々は皆私を知っていますが、このお二人ほどの事は
有りません。」と言った、
切腹を行う堺の屋敷に於いて、四畳半の小座敷で利休は「少しお待ち下さい。」と、炭を直した。
湯がたぎった時に四尺床に腰を掛けたが、勝手方に臂がつかえたので、「この置き合わせではない。」と、
床真中に寄った。
そして「介錯の人々は声を掛けるまでお待ち下さい。もし言葉が出ないようであれば、手を上げて
合図致します。」と言って、脇差を腹に突き立てた。
しかし思うように行かなかったため、また引き抜き、同じ所に突き立て直し、引き回して腸袋を
自在の蛭釘に掛け、そこで介錯があった。古今に無いものであった。
利休切腹の後、秀吉公の後悔は限りないものであった。彼が切腹した後は、秀吉公は釜の形の切紙が
上手く切れず、誰彼にかかわらず切らせたが、御意に入るものはなかった。
蒲生氏郷と三斎公が行かれた時も、「ハァ、一応参りましたというだけの面だ。」と仰せになった。
「たしかにその通りだった。」と、後に三斎公は語られた。
利休が天下一と褒めた石灯籠が有った。利休自身が打ち欠いて、色々に直し、天下無双であると気に入った
ものであった。
その石灯籠を三斎公が所持され、任国が代わる度、丹後に取り寄せ、小倉へ下し、肥後の八代に下し、
現在はまた京へ上らせておられる。そしてこれを大徳寺高桐院に立て置き、三斎公自身の墓標として、
名を彫りつけるおつもりでおられる。「灯明などを灯せば丁度よい。」と仰られている。
少し手軽く見える灯籠で、角々が丸く、大形では無いものである。
(筆者注・現在この石灯籠は細川忠興の墓石として、大徳寺高桐院の墓地に有る。)
(三斎伝書)
104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/21(日) 13:52:30.21 ID:cN9uq2nD
お茶くらい気にすんなよ
105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/22(月) 12:12:38.25 ID:umL4DwKU
よく知ってるね
240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/10(水) 21:06:40.96 ID:txMoZn0l
寛永十四年十月五日 吉田御屋敷、三斎様御茶湯、御座敷開き
辻七右衛門殿、久重、誓願寺永玉、守顕。(茶会記略)
三斎公(細川忠興)が薄茶入を出された時、辻七右衛門殿が「この茶入はなんと言う名でしょうか。」
とお尋ねになった所、三斎公は「吹雪と申します。」と答えられた。
「この茶入の形は三斎様のお好みであると、世間では言われています。」と七右衛門殿が申されると、
「いやいや、これも利休が形を切り出されたものです。しかし最初に私が写したので、世間でそのように
言われているのでしょう。」と答えられた。
三斎公は、唐物茶入を持たずに、瀬戸の山の井肩衝(古田織部が天下一と称賛した古瀬戸肩衝)ばかりを
秘蔵していてもいかがかと思われ、唐物を持った上で、瀬戸を唐物よりも秘蔵すれば良いとして、
古田織部に、彼が所蔵する勢高肩衝(織田信長が所持し、本能寺で罹災した)を所望した。
すると織部は「金子二千枚頂ければ進上いたします」と返答した。三斎公が「肩衝に金子二千枚も出す
取引は聞いたことがない。」と申されると、
「それでは金千枚と、山の井肩衝を残りの千枚分として頂きたい。」と言った。
これに三斎公は
「それは駄目だ、勢高肩衝を所望したのも山の井のためであり、それは出来ない。」
とお答えになったという。
(三斎伝書)
寛永十四年十月五日 吉田御屋敷、三斎様御茶湯、御座敷開き
辻七右衛門殿、久重、誓願寺永玉、守顕。(茶会記略)
三斎公(細川忠興)が薄茶入を出された時、辻七右衛門殿が「この茶入はなんと言う名でしょうか。」
とお尋ねになった所、三斎公は「吹雪と申します。」と答えられた。
「この茶入の形は三斎様のお好みであると、世間では言われています。」と七右衛門殿が申されると、
「いやいや、これも利休が形を切り出されたものです。しかし最初に私が写したので、世間でそのように
言われているのでしょう。」と答えられた。
三斎公は、唐物茶入を持たずに、瀬戸の山の井肩衝(古田織部が天下一と称賛した古瀬戸肩衝)ばかりを
秘蔵していてもいかがかと思われ、唐物を持った上で、瀬戸を唐物よりも秘蔵すれば良いとして、
古田織部に、彼が所蔵する勢高肩衝(織田信長が所持し、本能寺で罹災した)を所望した。
すると織部は「金子二千枚頂ければ進上いたします」と返答した。三斎公が「肩衝に金子二千枚も出す
取引は聞いたことがない。」と申されると、
「それでは金千枚と、山の井肩衝を残りの千枚分として頂きたい。」と言った。
これに三斎公は
「それは駄目だ、勢高肩衝を所望したのも山の井のためであり、それは出来ない。」
とお答えになったという。
(三斎伝書)
59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/01(月) 00:57:48.62 ID:UePEq9TT
遠州殿(小堀遠州・政一)が伏見で口切り(茶壺を開封する儀式)をされた時、古田織部殿が翌朝
お出でになるという前日、相伴の桑山伊賀守殿(元晴)、天野屋覚甫、服部道巴の3人が、前礼のため
六地蔵の遠州殿の茶室へ参られた。そこには明日に使う釜が仕掛けて有ったのだが、彼等はその仕掛けようが
気に入らず「釜を据えなおされよ。これでは織部殿が気に入るはずがない。」と言われた。
しかし遠州殿は「先ずこのままお見せした後、悪ければ直しましょう。」と答えた。
翌朝、織部殿はこの3人を相伴として座敷に入られた。この時伊賀守殿が「釜の掛けようは、これで
良いのでしょうか?」とお尋ねになった所、織部殿は「この釜は、このようにしか据えようが無いだろう。」
と答えられた。
先の3人の予想と違ったため、それ以降遠州殿は一目置かれるように成った。
この釜は森右近殿(忠政)が所望されたため、譲られたという。
(長闇堂記)
これにも何気に森忠政が出てた
遠州殿(小堀遠州・政一)が伏見で口切り(茶壺を開封する儀式)をされた時、古田織部殿が翌朝
お出でになるという前日、相伴の桑山伊賀守殿(元晴)、天野屋覚甫、服部道巴の3人が、前礼のため
六地蔵の遠州殿の茶室へ参られた。そこには明日に使う釜が仕掛けて有ったのだが、彼等はその仕掛けようが
気に入らず「釜を据えなおされよ。これでは織部殿が気に入るはずがない。」と言われた。
しかし遠州殿は「先ずこのままお見せした後、悪ければ直しましょう。」と答えた。
翌朝、織部殿はこの3人を相伴として座敷に入られた。この時伊賀守殿が「釜の掛けようは、これで
良いのでしょうか?」とお尋ねになった所、織部殿は「この釜は、このようにしか据えようが無いだろう。」
と答えられた。
先の3人の予想と違ったため、それ以降遠州殿は一目置かれるように成った。
この釜は森右近殿(忠政)が所望されたため、譲られたという。
(長闇堂記)
これにも何気に森忠政が出てた
298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/23(日) 22:22:50.64 ID:hsEHnj/y
東山の相公(足利義政)は茶を以って楽とし、数寄の標式を定め、名画墨跡を壁に掛け、珍器宝壺を
座右に陳ね、専ら閑静を以って本とした。これが数寄の会として世の中でもてはやされ、世代を超えて
これを楽とした。
信長秀吉の時代になると、幕下の武将それぞれ数寄を学び、軍旅の仮初の暇にこれを以て風流とした。
珠光(村田珠光)は南京(奈良)の僧にて茶の湯に名誉を得た。当時の人は皆珠光の茶の湯に
参加することを以て栄誉とした。その門人である、宗悟、宗珠、善法と言った人々は、それぞれ数寄に
長じた。
武野紹鴎、初名は仲材といい和泉堺の産まれであった。武田信光の後胤である。祖父仲清は応仁の乱で
討ち死にし、父信久四方に流浪し、ついに和泉堺に居住した。紹鴎は三条右府(三条西実隆)に侍り、
因幡守となり、後に堺に隠居して数寄を以って楽とした。大徳寺の右岳に参して一閑居士と号し、大黒庵と
言った。
千宗易は元は田中氏にて室町殿の同朋千阿弥の筋故に、千を以て名字とした。数寄の道が世に専らのこと
彼の時代に盛んとなった。信長秀吉は彼を恩遇した。天正の行幸において、秀吉は数寄の名人に官位を
与えた。しかし宗易はこれを辞して受けず、居士号を受け、大徳寺の右渓に命じられて利休居士と号した。
また自ら抛筌斎と名乗った。この頃の諸侯、幕下の近士は居士を以て師として数寄道を嗜み、家々に数寄屋を
立て、座布を囲んで茶立所とし、宇治の園を盛んにして芳茗の可否を争うこと、この頃より専らであった。
浅井亮政(原文ママ)は居士に就いてこの道を聞き、居士を招請して床の内に秘蔵の妾を飾り、
明智光秀は居士を招いて床の内に片輪車という刀を置き、各々その道を信じてその誠を顕し、
己が家の秘物を以て数寄屋に飾った。
居士は大徳寺の山門を修造して、己の像にあしだを履かせ山門の上に安置した。しかし秀吉はその不義を憎んで
ついに傷害し、山門に置かれた像は一条の戻り橋に磔にして天下に示した。
その後古田織部正重然、元美濃の生まれで秀吉に仕え武勇の功も有ったが、利休に従って数寄道を得、
世の中は以て彼が伝える事を学んだ。
本来数寄道は東山相公が老いて東山に隠居し、義満の北山の風流を慕い写した故に、法服を着て法味を
静かにした、隠居放言の趣味であり、風流なことは風流であるが、大丈夫にとって必ずしも必要な道ではない。
況や古画名筆を求めて名のある器を欲せるなど、その数寄の道の中でも即座に卑しいこととされる。
しかし現在の風流であり、これをむやみに嫌うのも風俗にすたるという物であり、良く用いればまた
底から得るものも有る。そういう事であるから、現代まで廃らず続いているのだ。
(士談)
茶の湯の歴史について
東山の相公(足利義政)は茶を以って楽とし、数寄の標式を定め、名画墨跡を壁に掛け、珍器宝壺を
座右に陳ね、専ら閑静を以って本とした。これが数寄の会として世の中でもてはやされ、世代を超えて
これを楽とした。
信長秀吉の時代になると、幕下の武将それぞれ数寄を学び、軍旅の仮初の暇にこれを以て風流とした。
珠光(村田珠光)は南京(奈良)の僧にて茶の湯に名誉を得た。当時の人は皆珠光の茶の湯に
参加することを以て栄誉とした。その門人である、宗悟、宗珠、善法と言った人々は、それぞれ数寄に
長じた。
武野紹鴎、初名は仲材といい和泉堺の産まれであった。武田信光の後胤である。祖父仲清は応仁の乱で
討ち死にし、父信久四方に流浪し、ついに和泉堺に居住した。紹鴎は三条右府(三条西実隆)に侍り、
因幡守となり、後に堺に隠居して数寄を以って楽とした。大徳寺の右岳に参して一閑居士と号し、大黒庵と
言った。
千宗易は元は田中氏にて室町殿の同朋千阿弥の筋故に、千を以て名字とした。数寄の道が世に専らのこと
彼の時代に盛んとなった。信長秀吉は彼を恩遇した。天正の行幸において、秀吉は数寄の名人に官位を
与えた。しかし宗易はこれを辞して受けず、居士号を受け、大徳寺の右渓に命じられて利休居士と号した。
また自ら抛筌斎と名乗った。この頃の諸侯、幕下の近士は居士を以て師として数寄道を嗜み、家々に数寄屋を
立て、座布を囲んで茶立所とし、宇治の園を盛んにして芳茗の可否を争うこと、この頃より専らであった。
浅井亮政(原文ママ)は居士に就いてこの道を聞き、居士を招請して床の内に秘蔵の妾を飾り、
明智光秀は居士を招いて床の内に片輪車という刀を置き、各々その道を信じてその誠を顕し、
己が家の秘物を以て数寄屋に飾った。
居士は大徳寺の山門を修造して、己の像にあしだを履かせ山門の上に安置した。しかし秀吉はその不義を憎んで
ついに傷害し、山門に置かれた像は一条の戻り橋に磔にして天下に示した。
その後古田織部正重然、元美濃の生まれで秀吉に仕え武勇の功も有ったが、利休に従って数寄道を得、
世の中は以て彼が伝える事を学んだ。
本来数寄道は東山相公が老いて東山に隠居し、義満の北山の風流を慕い写した故に、法服を着て法味を
静かにした、隠居放言の趣味であり、風流なことは風流であるが、大丈夫にとって必ずしも必要な道ではない。
況や古画名筆を求めて名のある器を欲せるなど、その数寄の道の中でも即座に卑しいこととされる。
しかし現在の風流であり、これをむやみに嫌うのも風俗にすたるという物であり、良く用いればまた
底から得るものも有る。そういう事であるから、現代まで廃らず続いているのだ。
(士談)
茶の湯の歴史について
52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/03(火) 21:31:20.04 ID:XBNxngP4
大阪の陣の頃、数寄屋道具に織部焼と言って、厚手にして青黒い薬をかけた茶碗を用いていた。
上下ともに、その道具にて円座を敷き、茶を点てることが流行した。
その頃、馬道具などは大小名から下々まで、紫、または紅の大房の尻懸が流行っていた。
刀脇差の鞘は、のし付きの金銀、又は朱鞘などが用いられていた
(長澤聞書)
大阪の陣の頃の流行り色々
大阪の陣の頃、数寄屋道具に織部焼と言って、厚手にして青黒い薬をかけた茶碗を用いていた。
上下ともに、その道具にて円座を敷き、茶を点てることが流行した。
その頃、馬道具などは大小名から下々まで、紫、または紅の大房の尻懸が流行っていた。
刀脇差の鞘は、のし付きの金銀、又は朱鞘などが用いられていた
(長澤聞書)
大阪の陣の頃の流行り色々