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潔きこと誰がこの上に立てようか

2020年05月14日 17:22

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/14(木) 06:05:02.71 ID:s3NizvQB
本巣郡山口の城主は、

古田左金吾安長、安長弟の同吉左衛門長宗、長宗弟の同兵部少輔長政、長政子の同織部正長脇(古田織部)。

この城は昔、梶原平三景時の居城であった。当城に居住した折に、この場所の鴨を取って頼朝に献上したと
『東鑑』に見えている。また文治(1185~1190)の頃、判官義経を来振寺で調伏したという。この
事は五大尊寺にあるなり。

さてまた古田吉左衛門は羽柴秀吉に仕えて、播州三木の城攻めの折に討死した。その子に古田兵部少輔長幸
(重勝)と二男の大膳大夫長盛(重治)という2人がいた。慶長5年(1600)、勢州松坂の城主となり
6万石を領した。その後、兵部少輔は病死した。

その時に6歳の狐子(古田重恒)がいたが、将軍家康公より大膳大夫に兄の跡目を相続し、兵部少輔となる
ようにとの旨仰せがあった。大膳が承って申すには「有難き上意でございますが、狐子を成長させて父の名
ですので兵部少輔と名乗らせ申したいのです」との由を望んだ。家康公は聞こし召して「今の世には希なる
者かな」と感じなさった。

狐子がようやく成長すると、父の挙具を残らず目録をもって元和6年(1620)の頃に渡し、もちろん6
万石の地をも付与して、自身は物寂しき様子で江戸に住んだ。潔きこと誰がこの上に立てようか。稲葉内蔵
助(道通か)・一柳監物(直盛)なども兄の跡目を名代として相続したが、いずれも古田に及ばないという。

――『美濃国諸旧記』

ちなみに美濃国諸旧記は寛永末から正保中(1624~1648)の成立と言われるが、正保3年に古田騒
動が起こり、その後の慶安元年(1648)に重恒は狂気により自殺したという。



173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/14(木) 14:43:51.84 ID:rbOONCHf
重治とご内室の不義の子だもんな
真実を知って気狂いしたんだろ
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