FC2ブログ

今、その第十の計りを用いる

2020年03月16日 18:45

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/16(月) 17:32:14.14 ID:vH5vpMMx
元亀二年の頃に成ると、尼子再興軍は毛利相手によく戦ったものの、兵糧は既に尽き、今は天下の扶助がなければ
どうやって大敵に打ち勝つことが出来るのかと、諸城を開け退き、或いは再び降人となって毛利方に出頭した。
このため、今や尼子勢は五千余騎に過ぎぬ有様であった。

山中鹿介の籠もる末石城内も飢饉に及び、士卒は軍務を尽くさず、夜々に落ち散る者多かった。
このような状況の中、鹿介幸盛は軍士を呼び集めると、このように申し渡した

「私は若年の初めより、勝利十法をよく学び得て、敵に当たるたびにこれを用い、勝たぬという事はなかった。
今、その第十の計りを用いる。

この幸盛、敵を偽り、降人となって衆命を助け、粮を求め、重ねて蘇兵を挙げる期を得ようと思う。
であるので面々は皆、故郷に忍び、時を待ち給え。」

そう命ずると、十月二十五日の朝、城門を推発すると、鹿の角の前立を指し挙げ「矢留である!」と呼びかけ、
ただ一人打ち出る。甲をうちかけ鑓を杖し、吉川元春の陣門にかき入り、仁王立ちし、大音にて言った

山中鹿介幸盛、弓折れ矢盡きて、今は衆命を助けるため、降人となって出て候!
願わくば、元春、元長の御慈悲を以て、鹿介の一命を助け、後扶助を預かれば、今後は大忠を尽くすと、大将へ申せ!」

そう高声に呼びかけると、陣門の警護、宿直の武士たちは大いに驚き、陣中の騒動は千車の轟に異ならず、幸盛を
討って大賞を得んと、我も我もと進み出て、彼をその真中に取り囲んだ。
しかし幸盛の勇気は項羽の武威を越えるもので、とうと青眼をむけ大きな怒りを含み

「我武運盡き、軍門に降る上は、汝等が心に任せよ!」
と、鑓を投げ捨て太刀を抜き、
「これぞ今、降人の現れである。早く大将に告げよ!」
と呼ばわると、その声は獅子の吼えるが如くであった。

しばらく有って「大将見参すべし、これは御入り候へ」と、勇士三十余人が、鹿介の左右の腕袂に取り付き、
陣屋の中に入れようとしたが、鹿はまた怒って、両手を振りほどくと左右の手に取り付いていた勇士たち
三十人は将棋倒しに倒れ、躓き伏せ、赤面して立った。

鹿介は吉川元春を前に跪き、頓首平伏した。この時駿河守(元春)は幸盛のその姿を見て
「昨日まで雨を施す龍王も、雲を得ずしては死した蛇にも劣る。御辺は日本第一の豪傑と雖も、兵粮が尽き、
兵が分散した故に降人として出てきたか。痛ましいことだ。

私は正兵を守り奇を用いない。降る敵を捨てず、一人を助け万人を喜ばせるための賞としよう。」

そう真心を以て語りかけ、鹿助に伯耆国尾高庄、周防国徳地ノ庄、併せて二千貫を宛行った。
こうして山陰道は再び元の如く、大江(毛利)の幕下となった。

鹿介は喜び無く、まもなく尾高庄に入部し、蟠龍が来復の気を呑んで、時を窺っていた。
そのような中、尼子孫四郎勝久が隠岐国に渡り、軍の用意を怠らなかったが、これが敵方へ聞こえ、
「早く討手を差し向け、芽のうちにこれを断つべし」と評定で決した。

鹿介はこの事を聞くと、急ぎ隠岐国へ飛脚を遣わし、勝久にかくかくと告げようとした。
所が彼の飛脚は割符を持っていなかったので、諸所の関所を通らず向かったが、伯州境にて彼の国の関守、
杉原播磨守盛重の廻国の警護の者たちに、怪しい奴とこれを通さず、搦め捕り拷問にかけた所、この飛脚は
白状し、笠の緒の中から、鹿助より勝久への密書が一つ出てきた。

「これは疑う所なし、あの鹿助を誅殺しなくては、またどのような世の変転が起こるかわからない」と、
急ぎ追手を向けたが、その時鹿介は既にこの事を伝え聞き、またかねてより妻子を、婿である亀井武蔵守(茲矩)の居る
京都へ上らせ置いており、直ぐに尾高を忍び出て、但馬国へ赴き、隠岐へ使いを立てて尼子勝久兄弟を招き寄せ、
濃州岐阜へと落ちていった。

雲州軍話首

第一次尼子再興運動の失敗と、山中鹿介の偽りの降伏についてのお話



919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/17(火) 11:52:39.52 ID:nKpdqadR
因幡では鹿介ら山賊となり村々を略奪しては女を凌辱又は奴隷市で売り軍資金を稼いでいたそうな
今でもこの地域には埋蔵金伝説がある
スポンサーサイト



山中鹿介、品川狼介、勝負の事

2020年03月13日 16:37

746 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 20:22:59.54 ID:72oODjjo
ここに石見国住人、品川半平という者があった。彼は吉川元春の陣に進み出てこのように言った
「この頃、関東には勇士があると言いますが、西国には鹿(山中鹿介)を討つ人もいない。私が一勝負仕り、
軍の睡りを醒しましょう!」
そう声高に訴えた。

彼の形相を見ると、身長は七尺(約212センチ)を越え、両眼は鬢(耳ぎわ)まで裂上がり、
手足は熊、目、口は虎に異ならなず、鉄をくり抜き。鐘の如くなる鎧を着、六尺(約180センチ)あまりの太刀を帯び、
彼が大将である吉川の陣に望んだその姿は、そのまま仁王の荒作り、又は当八毘沙門が貴見城の門に立って修羅を
攻め給う姿もかくやと怪しまれ、軍使悉く身を跪いて恐れをなした。

この時、吉川駿河守元春の長男・治部少輔元長は、その頃世に隠れ無き形相の人物であり、人は皆「鬼吉川」と
呼ぶほどの血気にて、仁義も勇も逞しき勇将であったので、彼は半平を一目見て
「さても汝の形相は、いかなる天魔鬼神も挫き、孟賁(秦の武王に仕えた勇士)の骨を砕くべき血気なれば、鹿介を
討たん事容易いであろう。先ずは受領を進むべし。」と、即時に『狼介勝盛』(鹿を狩る狼、また山中鹿介幸盛に勝つ、
という意味であろう)と名を与え、「早速敵陣に赴き、勝負を決すべし」と下知された。

狼介は喜び勇み、勇者の面目、且つ鹿を取ると名が明らかなのは自明の理であり有り難しと打ち笑い、
鋒より長い鑓を取って、大場谷の坂に望み、囲いを抜いて三度「誰人にても一人これに出給え!」と、
大音にて呼んだ。その声は余りに高く、谷峰を震わし山彦が響いて聞こえぬ所無かった。

城中では驚き、「これは如何なり、獅子象王の呻声か、事々しき音声である。早く出て事の仔細を聞くべし。」
と下知をした。そこで今川鮎介が飛ぶように走って見てみると、そこには閻魔大王に些かも劣らない大男が、
三間ばかりの鉾を携えて立っていた。

今川は驚き、「汝何者ぞ、化生か鬼か、名乗れ!」と言うと、狼はこれを聞くとあざ笑い
「我は鬼神にも非ず、石州益田住人、品川狼介勝盛という者である。御辺は誰か、名乗れ。」
鮎介はそう言われるとカラカラと笑った

「世の中に名前というものは多いが、その中で狼と名乗るのは片腹痛い。御辺は定めて鹿介と勝負を決するために
名字を変えて来たのだろう。しかしその身が獅子介、虎介と名乗ろうとも、鹿は現在、日本国に於いて万人が
指し示す大勇であり、殊に勝負の十方を研磨し、当たる敵に勝たぬという事はない。
今日、そんな鹿介に勝負を望むということ、嗚呼、御辺の運の尽き、滅亡を招かれたその謀、無惨である。
暫くここで待ち給え、鹿にこの事を伝えてこよう。」

そういって鮎介は山中に駆け入り、山中鹿介幸盛に、かくかくと告げた。
鹿介は目を閉じ黙然とし、上帯に太刀をおさめ、十文字の鑓を取って提げ、已に出向こうとした。
これに鮎助は走り寄り、鎧の組紐に取り付いて
「不覚なり。御辺は大将の身として、一騎の勝負は避けられるべきだ。」と鑓を取って控えさせると、
鹿はあざ笑って

「敵も我も同じ人である。例え本当に鬼だったとしても、どうしてそれを見て逃げるだろうか。
況や同じ人間であれば、私の鑓に先に懸って、いわゆる夏の虫と成るだろう。凡そ勝負には、勝つも負けるも
ここにあり。」

そう言って胸をホトホトと叩いた。これに鮎助は打ち笑って「もはや勝ったな、鹿殿」と誉め称え馬に乗せた。

747 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 20:23:19.18 ID:72oODjjo
鹿介は急ぎ谷口に表れ出て
「いかに狼殿、鹿は大将の身であるから一騎の勝負は不覚で有るのだが、末世まで勇士の名を立てるために
ここまで出てきた!さあ、一鑓仕らん!」

そういうと狼聞いて

「さても、勝負を決するのであれば太刀打ちの勝負をしよう!」

と、鑓を投げ捨て太刀を真っ向にかざし躍り出た。その形相はただ、閻魔大王が呵責の鬼を怒るのもこの時かと
訝しむほどの形相であった。
上の山には寄手大将吉川小早川、左右の峰には伊予河野、備中の三村、大旗小旗を靡かせ「狼、鹿取れ!」と
声援し、その声はまた、大地を震わし大山が裂けると錯覚するほどであった、

鹿も馬より下りて太刀討ち合いを暫く戦った。その間狼は、右の小鬢に痛手を負い流血、その血が目に入った。
このため「今は叶わじ」と思ったのか、太刀をカラリと捨て、無手となって組み付き、鹿を取って引き敷いた。
幸盛は元来気早なる勇者であったので、下より二刀差し通し跳ね返すと、狼はまた下になって鹿の向こう脛を突き、
双方手負いとなって別々にわかれた。しかし狼は深手であり、終に空しくなった。

さても世は定めなき習いであるので、鹿を取るべき狼が鹿に取られること無惨なりと、敵の毛利勢は眉をひそめて
音も無かった。

その後、何者が書いたのか、大場谷に落書が立った

『狼が 鹿に取らるる世となれば 負色見ゆる勝久の陣』
(狼が鹿に命を取られるような、世の常の道理が逆に成った世であるのだから、道理に従えば本来は勝つはずの
尼子勝久の陣営に敗色が見える、という意味であろう。)

雲州軍話首

山中鹿介品川狼介の勝負について。プロレスか格闘技の試合みたいですね。

前話
生後一月を越えると歩き、二月過ぎて食し、八歳にして敵を討った



748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 22:11:21.08 ID:+eHnhGXZ
「世の中に名前というものは多いが、その中で狼と名乗るのは片腹痛い。御辺は定めて鹿介と勝負を決するために
名字を変えて来たのだろう。しかしその身が獅子介、虎介と名乗ろうとも、鹿は現在、日本国に於いて万人が
指し示す大勇であり、殊に勝負の十方を研磨し、当たる敵に勝たぬという事はない。
今日、そんな鹿介に勝負を望むということ、嗚呼、御辺の運の尽き、滅亡を招かれたその謀、無惨である。
暫くここで待ち給え、鹿にこの事を伝えてこよう。」

突然こんな芝居かかった長いセリフを思いついてスラスラ言えるのだろうか

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 22:12:23.93 ID:hC0ZPjal
このまま漫画化できそうw

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 23:01:06.96 ID:7eHWEYO2
身長デカ過ぎ、台詞男臭過ぎ、原哲夫の漫画かよ

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 23:38:07.91 ID:pCfeW8zQ
まとめの4357
尼子さんの家の記録による、鹿之助vs狼ノ介
と同じ話?

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 23:53:04.58 ID:72oODjjo
>>751
すいません書き忘れました。こちらは
>>737
の続きです

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 00:17:54.35 ID:k7HRjE5w
鹿介と狼介に混ざって出てくる鮎介さん
なぜに鮎

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 01:26:39.69 ID:gX2mf2Gn
身長7尺の紹介の段階でかませキャラ感がある

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 12:23:29.38 ID:VmC0GDNg
この異様に敵の凄さを強調する登場シーンに既視感あると思ったら
モブの反応まで含めてワンピースとかキングダムの世界

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 12:46:53.84 ID:/E+YrFqV
講談の手法が漫画に取り入れられたのでは

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 16:55:40.94 ID:OASpozdO
>>755
?「鶏を裂くのに牛刀なんかいらんよw」

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 21:05:57.09 ID:jPTP3wxG
>>756
だね
何か普遍のものがあるんだろうね

生後一月を越えると歩き、二月過ぎて食し、八歳にして敵を討った

2020年03月11日 16:42

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/11(水) 00:13:04.83 ID:vaIWdH6B
今年(永禄十二年)の、尼子再興軍による山陰道の動乱は、山中鹿介幸盛の仕業であると、吉川元春小早川隆景
忿怒し安からず、
「誰か、毛利八万余騎の軍中、力抜群なる勇者は無きか、あの鹿毛を討ち取れば、懸賞はその望みに任せる。」と
触れ流したが、然し乍ら山中鹿介は日本無双の勇者にて、肢体の逞しき事、その長弓は尺を越え、矢束十八束を引き、
力は十人力を過ぎるほどであった。

天文十四年八月十五日、山中鹿介は雲州鰐淵山の麓、武蔵坊弁慶の育った屋敷にて生まれた。
生後一月を越えると歩き、二月過ぎて食し、八歳にして敵を討った。時の人は彼を『今弁慶』と呼んで恐れた。

今年、彼は漸く二十六歳で、五十六度の鑓を合わせ、謀は子房(張良)を呑み、武威は項王を欺く程の勇者であった。
そのため、前の尼子右衛門督晴久は、その四万余騎の群下の中より大勇十騎を選び出し、その第一の
定め初めは、当時山中甚次郎と名乗っていた彼であった。彼は兄甚太郎の鹿の前立の兜を譲られ、それ以降
武功はさらに世に響き名は高く、人呼んで『鹿介』と号した。

これほど名高く鬼神に勝る幸盛を誰が討ち取れるだろうかと、皆舌を震わせて嘯いた。

雲州軍話首

なんか凄いことに成ってる山中鹿介さん

続き
山中鹿介、品川狼介、勝負の事


738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/11(水) 07:10:57.09 ID:Jz+ipb+7
>>737
盛りすぎだろw

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/11(水) 10:25:09.19 ID:ODpSNoxO
忠義者だし范蠡にも喩えよう
息子は范蠡並の大富豪だし

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/11(水) 18:53:32.32 ID:aMeG75UG
>>737
勇猛な毛利緒将がガクブルとは
どんだけ強いんだ
良く覚えてないが信長からも傑物と認められてたような

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/11(水) 22:00:17.58 ID:DItAZV0j
>>739
三菱UFJの源流の一つだよな
三菱なんかよりよっぽど歴史が長い

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/11(水) 22:02:09.13 ID:GSVXddVj
戦闘民族扱いw

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/11(水) 22:31:38.40 ID:dCQfvbaT
評判が評判を呼びすぎて花の慶次が武力100になったようなもんだな

官兵衛さんもやっていた旗指し物案件

2019年12月01日 15:40

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/01(日) 11:19:45.27 ID:+TBKw16C
薩摩の島津に対し秀吉公が上洛を命じた所、それを拒否したとのことで島津征伐となり(九州の役)、
毛利家にその御先手を頼まれ、検使として黒田官兵衛が差し下された。
先ず吉川元春小早川隆景が九州に渡海し、翌日毛利輝元公が渡海され小倉城に入られた。

宇留津の城には賀久孫兵衛という者が入っていたが、彼の親類である東堂(引退した禅宗の住職)を
通して、降伏して城を明け渡すよう説得したが、孫兵衛は

「親である宇留津専慶が薩摩方であり、現在香原岡に居るのを捨てることが出来ない。
御公儀に対し奉り御敵仕るのは九牛の一毛(比較に成らないほど小さい)ではありますが、
攻めかかって来ればこれを引き受け、戦った上で切腹仕りましょう。」

そのように降伏を拒絶したため、暮方より城への攻撃が始まった。双方に手負い、死者が多く出た。

この時、城の尾首の高見にあった黒田官兵衛は、攻め口より自分の指物を城の中に投げ入れた。
敵方はこれを取ると、(分捕品という事か)城内にて振り回した。

ところが寄せ手の諸人はこれを見て「はやくも官兵衛は城に乗り込んだか!」と思い、
これに負けじと惣陣より一度に城に乗り込んだ。これは未明より取り掛かり、その日の七つ過ぎ
(午前四時頃)に落城した。城主の孫兵衛を始めとして城方は討ち果たされた。

(老翁物語)

官兵衛さんもやっていた旗指し物案件。



当家が弱目に成ってしまえば人心も変わる

2019年11月20日 18:01

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/20(水) 00:26:58.40 ID:Ok6QNADL
毛利元就公が6,70歳の頃、永禄七年に当たるか、御自筆を以て毛利隆元公、吉川元春公、小早川隆景公に
十四ヶ条、また三ヶ条にて御意を伝えられた。このうち他に漏れても構わない内容であったのだろうか、
端々を承った内容をここに記す。

一、前々から申していたことだが、あえてまた申す。三人(隆元、元春、隆景)の内、少しでも我を
  立てるような事をすれば、ただただ滅亡と心得るべきだ。たとえ仲が悪くなる事があったとしても、
  一人も他に漏らしてはならない。たとえ面目が傷ついても、名を失ってしまっては一人二人の
  面目など何の用に立つというのか。良くない事である。

一、隆元については、元春隆景と協力し、内外のこと共に相談すれば、何も問題はない。
  また元春隆景についても、当家(毛利家)さえ堅固であれば、その力を以てそれぞれの家に
  存分に申し付けることが出来る。現在、どれほどそれぞれの家中に存分に申し付けることが
  出来ているとしても、当家が弱目に成ってしまえば人心も変わるものだ。両人もこの心持ちが
  肝要である。

一、この間も申した事だが、元春隆景に何か間違いが有れば、ひとえにひとえに隆元が親の気持ちを
  持って堪忍すべきであり、また隆元に間違いが有ったとしても、元春隆景の両人は隆元に従わ
  なくてはならない順義である。元春隆景の両人は、もし当家に居たままならば、福原桂といった
  家臣達とともに何が有っても隆元の下知に従わなければならなかったのであり、現在他家を率いて
  いるとしても、内心ではその遠慮を持つべきである。孫子の代までその謙譲が有って欲しいし、
  それが有れば三家は数代を保つことが出来るだろう。そう有ってほしいが、現在は末世であり、
  そういうわけにもいかないだろう。しかしながら三人、一代づつこの事をしっかりと心得て
  おけば、名利二つを失うことは無いだろう。とにかく、当家の為には、別に守るための方法は
  無い。この定めは三人のためだけに固く申し渡すのではない。その子供までも、これを守るように。
  張良の兵法書にも増して、これを申しておく。

  現在のように三家が無二の関係を続けていれば、縁起でもない話だが、国内の者に寝首を掻かれる
  事も無いだろうし、他家他国の脅威もさほどでは無いだろう。

このように仰られた。御本家を肝要に取り立てるようにとの深き御心中が、御子、御孫までも伝わり
御家長久となるようにと、深く思われていることがはっきりと理解できる。君子は務本本立道成と
申す。こう言った事はおのずから叶うことが有るだろうか。また書には、曲がっても諌は直し、
君聞諌則聖人と申す言葉が常々書かれている。

同時に臣下たる人は忠を専らに守る心持ちの内に、君主の過ちを正し、外には君の誉れを挙げるべしと
書かれている。
例えば、安国寺恵瓊が広島城普請場において、普請奉行を叱りつけたことが有ったが、この時大声で
「だいたい上の申し付けが悪いからこのようになるのだ!(惣別上之仰付様悪敷に付て如此に候)」
と申した。この事を輝元公が伝え聞かれ、安国寺が御前に罷り居た時に、事のついでにこの噂を
語られ、安国寺の言ったという言葉も引用されて仰られたため、安国寺は殊の外難儀したという。

(老翁物語)

三子教訓状の話と思ってたら最後に安国寺さんがとばっちりを受けていた。



364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/20(水) 00:33:03.68 ID:xbymrJY/
後世では隆元は影が薄いけど、元就から見て毛利本家を任せられる逸材だったんだよな

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/20(水) 05:37:04.71 ID:Gvoy7/9T
元就の誤算は隆景が女嫌いだったことだろう
ちゃんとした跡継ぎさえいればなあ

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/20(水) 05:40:56.16 ID:Xmj/VIq6
元就何才やw

367 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/11/20(水) 06:49:00.11 ID:LbFGzYjF
>>365
義隆「ホホホ、麿の教育が良かったでおじゃるな」

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/20(水) 10:24:21.00 ID:E3OwGiOx
上司の愚痴は誰にも聞かせてはあかんのやな

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/20(水) 11:02:29.36 ID:vN8VC9T8
息子3人は仲良しでも孫世代まで協力し合える保証はないわな

371 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/11/20(水) 11:06:53.51 ID:GV/vynuH
仲良くせよだの団結しろだの言う家に限って兄弟仲は最悪なんだよねえ

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/20(水) 20:39:38.67 ID:1mY699y5
部下たちは毛利家のこと屁とも思ってないからせめてお前たちだけでも団結してないと明日には滅んでるちゅう
大名権力の弱い毛利家においては切実な話なんだよな。兄弟仲良くとか和を以ってとかそんな生易しい話じゃない

374 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/11/21(木) 09:43:49.25 ID:IthvKK8r
それこそ、元就自身も異母弟元綱を討ち果たした過去があるし、尼子や大内の内紛も見て来て思う所は多々あったろうからねぇ

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/21(木) 17:06:26.51 ID:zCB9AkGY
吉川家小早川家乗っ取りエグいしな、宇喜多を悪く言えないレベル

あまり顕栄でない血統の一貴族

2019年08月28日 16:01

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/27(火) 22:09:29.53 ID:6GqkOQEB
山口の王大内氏(大内義隆)と、その後を継いだ王(大内義長)が死した後、あまり顕栄でない血統の
一貴族(毛利元就)が、智慮と勇気とによりかの十三ヵ国の領主と成るに至った。山脈と日本の銀の
鉱山とを有する石見国 Yuami がその中に在る。この王は生存中常にキリシタンの敵であって、かつて
パードレを国内に入れなかった。彼が死して後に残した三人の男子は皆武勇と才幹の有る者であったが、
国を継いだ長子(隆元)が間もなく死し、後に残った一子(輝元)は未だ年少であったた故、二人の叔父を
後見として領内の支配を委任した。

年長の方の叔父は名を吉川殿 Quicauadono (元春)と言い、年齢は六十歳に近く、金銀の鉱山を有する
沿岸の諸国を納めている、

もう一人の叔父は小早川殿(隆景)と言い、年齢五十歳で、豊後の対岸に在る伊予国を治め、また天下の君
との交渉に任じ、その兄よりも有名になった。ただし両人ともその甥輝元 Teromoto を主君と奉じている。

同人は山口より5日路の安芸国の吉田 Yoxinda という城に居る。かの王たち(約40年前山口に於いて殺された)
の死後、かつて山口には居住せず、副王及び諸役人のみをそこに置いている。織田信長はその死に至るまで
多年この小早川殿と戦い、その信長の総指揮官として実際に戦い、勝利を得て6,7ヶ国を占領した者が、
今天下の君である関白殿(豊臣秀吉)である。

この山口の市(現在1万の人口を有するという)は、破壊されるまで日本で最も優れて人口の多い市であったが、
今は全く、昔の繁栄と異なった状態である。

(1586年10月17日(天正14年9月5日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

フロイスによる毛利についての記述



南條兄弟寝返り

2018年07月29日 18:20

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/29(日) 17:51:46.57 ID:Zeq2Dxw0
毛利家臣である南條伯耆守元続は、尼子氏の牢人である福山次郎左衛門(茲正)という者より、織田方への
寝返り工作を受けていた
「信長卿は武威日々に盛んにして、もはや肩を並べるものおりません。毛利家とても終には信長卿のために
滅亡するでしょう。そうなった時、毛利に属する輩は根は絶たれ葉を枯らすこと疑いありません。
早々に毛利一味の志を変じ、信長卿幕下に属されるべきです。」

このように利を責めて言うと、元続も尤もだとこれに同意し、兄弟である小嶋左衛門尉元清、そのほか
南條備前守、同九郎左衛門、山田越中守、以下家の子郎党を集め「この事如何か」と意見を聞いた所
何れも「この義、宜しいと思います。」と同意した。
そこで信長卿へ、「幕下に属し御馳走を遂げる」と、羽柴秀吉まで云い送った。

しかし、吉川元春はこの情報を察知し大いに怒り、南條家重臣である山田出雲守(重直)を芸州に呼び寄せた
「南條が心変わりしたこと疑いない!汝は知らぬのか!?」
これを聞いて山田は驚き、この事を些かも存しない旨、天神地祇を驚かせたと、起請を書いて差し上げた。

「然らば、南條兄弟に諫言を加え、この工作をした福山次郎左衛門を討ち取れ。」

元春のこの命に応じ、急ぎ伯耆に立ち帰ったところ、山田が安芸より急遽戻ってきたことを
福山次郎左衛門は心もとなく思った。そこで山田の館を訪ねてきた所を、出雲守は常よりも昵懇に
もてなし、過去のことについて物語などする中、傍に控えていた家臣の山田十右衛門へ目配せした。

十右衛門は打者の達者であった。彼は即座に抜き手で福山を切りつけた。
その刀を引かぬうちに、出雲守嫡子である蔵之介が続いて切りつけ、さしもの福山もやみやみと討たれた。

しかし、これを知った南條兄弟は山田出雲守の館に押しかけて来た。この時山田側には軍勢無かったため
戦うこと出来ず、一方の囲みを打ち破って芸州へと退いた。

(安西軍策)

天正4年に起こったとされる、南條兄弟寝返りについてのお話。


宇喜多直家は言葉巧みに

2018年07月27日 10:01

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 00:03:21.50 ID:nvc+W+Pq
備中国の住人、三村修理亮家親の子、元親、実親という兄弟があった。父家親は1年前に
宇喜多和泉守直家の為に殺され、その後この兄弟2人は芸州毛利家へ使いを下した

『親である家親は御味方に参り、ひたすら忠勤を成しました。しかし宇喜多直家に欺かれ、
益無く討たれたのです。父の敵である直家を何としてでも滅ぼしその恨みを晴らしたいと
考えていますが、我ら兄弟の力だけではいささか難し相手であり、御太刀影(助太刀)を
お頼みしたいのです。宇喜多を滅ぼし父が死んだ恨みを散らし、我ら生前の鬱屈を晴らしたいのです。
家親の忠志を思し召し、お忘れでないのなら、御憐憫を給われば、我ら二人もいよいよ御手に属し、
忠節を励まします!』

これを吉川元春に対して嘆き申し上げた。

ところが、宇喜多直家は三村兄弟が毛利へ訴えを行ったことを知るや、毛利を敵に回してはかなわないと
考え、洲波隼人入道如慶という者を小早川隆景の元に参らせ、また安国寺恵瓊を深く頼み
『三村浦上を退治し、備中一国を尽く輝元公に差し上げるでしょう。』と訴え申し上げた。

この時毛利元就は既に老病の中にあり、元春、隆景に対し「能くはからえ」と言うだけであった。
元春は「三村は父家親の時代より当家馳走の者である。宇喜多は一旦言葉巧みに、良きように
言ってきても、それを彼ら三村氏と取り替えるなど考えもできない。その上宇喜多は表裏の者である。」
そう再三に渡り主張したが、宇喜多は安国寺恵瓊などを通して様々に小早川隆景に哀訴し、ついには隆景も
「人質などを出す上は別儀無いであろう。」と、宇喜多の望みを叶えた。
小早川勢は南方(山陽)の担当であったため、山陽の勢力のことについては、隆景の判断に
任されていたのである。

その後、三村はついに宇喜多によって討たれたという。
(安西軍策)

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 01:45:54.66 ID:GayH9LlL
宇喜多に対するため織田と結んだ三村
織田に押されて織田に降った宇喜多

小早川は先を見る目がないな



955 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/27(金) 05:07:03.62 ID:G0Ciaoxc
この数年後に毛利は播磨で織田と戦う事になるけど、背後の岡山は宇喜多家の元で漸く安定しかけてたところだったから、
1575年に元春の言を容れて三村攻めずに宇喜多攻めてたら完全に叩けてたかは分からないし、下手したら織田の中国侵攻はより早いものになってたんじゃない?
隆景に先を見る目がなかったとは思わないけど

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 05:39:13.12 ID:DXVfv2KC
神の視点ではなんとでもいえる。最終的に維新を成し遂げたのは長州だしな。

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 09:53:30.89 ID:ZiRbSX6d
小早川は長州じゃないwww

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 10:27:07.00 ID:LPTjxN7n
揚げ足とり子猿

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 10:33:56.52 ID:LPTjxN7n
小早川家は最終的に毛利家から養子もらってんだけど

960 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/27(金) 12:43:23.48 ID:IaLFv6CX
長州「うるせー、やんのかコラ」

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 12:59:24.32 ID:p3aDYfYw
>>960
橋本はもう居ないんだ…

962 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/27(金) 18:11:46.66 ID:MkEPw/Kf
結局宇喜多のが良いコネ持ってたってだけの話だな
その良いコネを掴むのも実力のうち

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 18:29:19.50 ID:UiD44MF2
>>953
別に毛利家は義理人情に厚いわけじゃないし(むしろ…)三村と宇喜多でどっち選ぶかといったらねぇ。

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 19:12:48.21 ID:N/22wCO0
とはいえ相手に恩義を感じさせれば裏切らない駒が出来るわけで
わざわざ恨みを買って敵に回すのはアホのやること

965 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/27(金) 19:27:59.40 ID:vgKHLEqs
元春さんは情と付き合い(と宇喜多直家の腹黒さ)を重視して三村氏を
隆景さんは現実的と言うか実利的に判断したって感じかな?

後々も対秀吉で意見が食い違うこの兄弟だけど、2人の将としての資質や思想の違いも垣間見えた逸話な気がする。

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 20:24:45.44 ID:z/aV9ADT
鶴田もマサ斎藤もいない…。それどころか、三澤や冬木もいない…。
なのに、猪木はまだいる。

967 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/27(金) 20:36:55.33 ID:yleoGLak
>>966
天龍「俺は?」

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 21:16:31.42 ID:N/22wCO0
>>963
当時の勢力図を念頭に入れてから発言したほうがいいな
余りにもバカ過ぎる発言だ
それに三村を討ったのは毛利だし宇喜多が毛利と結ぶようになったのは天正に入ってからだろう

出雲方面と九州方面でしっちゃかめっちゃか

2018年07月26日 20:05

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/26(木) 17:11:37.47 ID:DAZzVT8a
尼子勝久の尼子再興軍が出雲に入って以来、城をかすめ取ること15城、その軍勢は六千余騎に及んだ。
そこに赤松の浪人たちも馳せ集まり、伯耆国岩倉の城を攻め取り、美作の蘆田、三浦、市といった一族も
これに一味した。毛利方は伯耆国の高田城には香川美作守、長左衛門大夫を去年から入れ置いていたが、
敵方に攻め囲まれ、日々攻め合いが止むことなかった。

また毛利家臣の福屋隆包は石見国に入ると、石見、その他所々で敵が蜂起したとの情報を得て、
長門国の下関、及び筑前国の立花に、この旨を日々注進した。これによって吉川元春小早川隆景
先ず出雲伯耆の城を落とすべきであると、米原平内兵衛を、高瀬城を堅固に守るようにと三百余騎を付けて
出雲へと向かわせた。彼らは石見の浜田に5日滞留し、「却って尼子に一味すべきである」と内通した。

また南條伯耆、山田出雲は下関勝山に在ったが、敵が羽衣石を囲むとの注進があったためこの両人を向かわせた。
南条は急ぎ羽衣石に入り、山田出雲は岩倉へ押し寄せ攻め落とし、敵63人を討ち取った。しかし山田家の家人も、
梶屋藤兵衛、林甚四郎、同又兵衛、長安神左衛門、谷川久充、その他中間8人が討ち死にした。

また福屋隆包が石見から帰ってきたが、その理由を聞くと、森脇市郎右衛門が立花より上がり石見に
到着すると三子山に立て籠もり、隆包の出した廻文を持たせ廻らせていた出家を見つけ出し搦め捕えて
獄門にかけたのだという。

筑前立花城攻めの陣中では、出雲伯耆はみな尼子に与したと聞こえ、多くの兵卒を出雲方面へ向かわせた。
この頃立花城攻めの兵もやや減ったため、一刻も早くこの城を攻め落とすべきと、一時攻めに
攻め寄せた。この勢いによって敵兵も防ぎかねている所に、「城を明け渡せば一命を助ける」と申し送ると、
城兵たちもその意に任せ城を明け渡した。彼らは全員一命を助けられ、士卒残らず大友の陣へと送られた。

(安西軍策)

永禄12年ころの、出雲方面と九州方面でしっちゃかめっちゃかになっている毛利の様子。


吉川元春と陶隆房の兄弟の昵契

2018年07月21日 18:14

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/21(土) 17:06:40.52 ID:t7W75aUO
天文18年8月3日、毛利元就、隆元、吉川元春小早川隆景の父子四人は山口へ下向した。
熊谷伊豆守、香川左衛門尉、飯田越中守、山県筑後守、山田の一族である羽仁己斐以下の者達も
これに従って下向した。大内義隆はこれを大いに喜び、毛利に随従してきた者達には安芸への帰国を許し、
毛利父子四人は山口に逗留させた。この時、大内義隆は家臣である内藤氏の娘を養女とし、毛利隆元との
婚姻を望み、婚約を調えた。

また吉川元春と陶隆房に兄弟の昵契を結ばせた。
この時吉川元春からは吉光の脇差が引き出物として出され、陶隆房からは、天下無双の名馬である「近江黒」が
出された。この馬は近江の六角氏より将軍足利義晴へ奉られ、柳営より大内義隆に下されたのを、陶隆房が
給わり、この度元春に進められたのだ、と聞き及んでいる。

(安西軍策)

陶隆房と吉川元春が義兄弟とされた時のお話


隆元と元春(2) 抜け駆け禁止令違反者の処分の事

2016年11月24日 14:35

345 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/24(木) 14:09:02.66 ID:BJS/7tYa
隆元と元春(2) 抜け駆け禁止令違反者の処分の事

>>332-333の軍令違反者による合戦は毛利方に大勢の手負いを出したものの、二宮・粟屋らの奮戦により敵方も城主、菅田一族の者が討死するなど両軍とも進退極まり兵を収めた。
普段ならば隆元や元春が士卒の功を称し、負傷した者の元を訪れ涙ながらに傷を撫でてくれるのであるが、今回は固く定めた軍法を破ったが為、労いの使者すら送られてこなかった。
一方、元春は隆元の元へ宮庄次郎三郎元正を使者として遣わし、この度の軍令違反者についてこう述べさせた。
「今回、我が手の者どもが軍法を破り、一戦を遂げました。
これにより味方は九十六人も手負いが出て、
そのうちの綿貫兵庫助と申す者が討ち死にしました。
このくだらない合戦を仕掛け、味方に多数の負傷者を出したのは、
粟屋・二宮の責任が大きいので、即刻首を刎ねなければなりません。
しかし、一歩引いて愚案を巡らせるに今回は陶と一味して初の戦となります。陶にその証を立てる為にも一戦交えるのが良かったのではないでしょうか?
そのうえ、元就公のご出馬がなく、隆元公と元春の二人が出てきています。
若い隆元公に私のような者がお供して、大将を名乗って打って出ていますので、
一戦しないのもいかがかと思います。
ですから今回は、どうかお許し願えないでしょうか」と再三申し入れた。
しかし隆元は
「そのように聞くと、確かにそのとおりだと心を緩めたくもなる。
だが固く制定した軍法に背いたのだから、これからの諸卒への見せしめのためにも、許すことはできない」と返答した。
これもまた道理なので、元春もどうにもできず、その後は何も言わなかった。

また、隆元と元春は武永四郎兵衛尉を父元就の元へ遣わしこの日の戦を報告させた。
元就は武永と対面すると、「詳しく様子を報告してくれ」と言い、武永は粟屋・二宮の鑓働きの様子やそのほかの諸卒の働きを細々と語った。
元就はすっかり上機嫌になって「お前たちはその戦場には行かなかったのか」と尋ねると、
武永は「私も及ばずながらそこに駆けつけ、鑓の者の脇で弓を使って補佐していましたが、
軍法を破る行為でしたので、隆元様・元春様のご機嫌を損ねてしまいました」と答えた。
元就様は愉快そうに笑うと、「軍法を破ったことは不義の至りだが今回は陶に一味してから初めての出陣だ。
陶との同盟の証拠として一合戦しなければならないところだ。
その若者たちは、よくそこに気がついて一戦してくれた。
粟屋の怪我は深いのか。二宮はどうだ」などと詳しく尋ね聞き、
武永にも盃を与えて褒美を取らせた。
元春への返事にも「今回は陶に一味した証拠に、それらしい合戦をしなければならかなった。
そこに御手の衆が比類なき働きをしてくれたのは、
今に始まったことではないとはいえ神妙の至りである。
戦功の軽重をただし、勧賞を行ってやりなさい」と送った。
これで、昨日合戦をしでかした者たちも胸を撫で下ろしたということだ。

この時、総大将の隆元が何を思ったかは誰も知らない。

続き
槌山城降伏の事 平賀隆保切腹の様子


346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 14:14:06.21 ID:8D69oZrn
自殺したくもなるね

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 14:52:23.92 ID:sw+eGJaZ
>>345
元春と元就の言い分が全く同じとか、お兄ちゃんの立つ瀬がねえw

はや此分にては身上続ましき…

2016年10月10日 10:34

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/10(月) 10:23:21.32 ID:cTGsgr3g
入道し毛利宗瑞となったTERUは祖父に鉄拳制裁を食らうわ叔父たちにガミガミ言われまくってた若き日々のことを回想しこう書き残している

…日頼様(元就)余御折檻候上に隆景元春さし合種々異見達被申、はや此分にては身上続ましき…

――『毛利家文書』より抜粋



妙玖の方、吉川家臣を説得

2016年10月05日 11:53

妙玖   
156 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/05(水) 07:57:16.26 ID:5J8+ztnF
妙玖の方、吉川家臣を説得

1550年、毛利元就の命令で布川(現広島市安佐北区深川)に隠居していた吉川興経は謀反の疑いを受け天野、熊谷率いる手勢により殺害された。
この報を受けた吉川家重臣、吉川伊豆守(吉川経世?)と森脇和泉守は直ぐさま郡山の城へ駆け付け、2人は元就に涙を流し抗議し
「興経を討ち果たすのであればどうしてお知らせくださらなかったのですか。
隠居蟄居の身となったのですから、どうして反逆など企てられましょう。
こうして誅罰なさるとは、なんともお情けのないことです。
私たちも、興経に対して私怨があってこのように(興経から元春への家督相続)したわけではありません。
吉川の家のことを考えたからこそ、一旦は主従の間を乱すような振る舞いをしたのです。
確かに興経に楯突いたと同じようなものですが、本当は家のためを思い、
それに興経の不義を正すために行ったのです。
こうなったら私たちも、縁側の片端を汚して自害させていただきます」と大騒ぎした。

元就はあれこれとなだめたものの、二人はまったくおさまらない。
その騒ぎを聞きつけたのか、元就の北の方が姿を現し、
「伊豆守殿にとって興経は甥ですが、わたしにとってもまた甥です。
甥を殺されたのが無念だといって自害なさるのなら、私も女の身ではありますが自害すべきでしょう。
伊豆守殿、どうか私に免じて自害を思いとどまってください」と、
一度は怒り、一度は涙を流して説得した。
吉川伊豆守はこれにしぶしぶ自害を思いとどまったので、森脇和泉守も強行することができずに涙を抑えて自害をやめた。
(陰徳記)

ちょっとツッコミどころの有る逸話なので悪い話に持って来ました。




157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/05(水) 08:09:09.82 ID:w5JhOUZD
切る切る詐欺か

158 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/05(水) 08:29:12.59 ID:5J8+ztnF
>>157
違う、そこじゃない

159 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/05(水) 11:18:22.35 ID:3PMHM5EC
妙玖(みょうきゅう、明応8年(1499年) - 天文14年11月30日(1546年1月2日))は、戦国時代の女性。
毛利元就の正室。妙玖は法名で本名は不詳。父は吉川国経、母は高橋直信の娘、兄弟には吉川元経、吉川経世ら。
子に長女(高橋氏人質、夭折)、毛利隆元、五龍局、吉川元春、小早川隆景。


あっ…(察し)

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/05(水) 13:20:12.96 ID:7Lcaw4B2
んー?わからんぞ

161 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/05(水) 13:24:48.02 ID:o/sCiXIJ
>>160
えぇ…
>>159の初めの辺りをよく読んで再度>>156を読めば分かる筈…

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/05(水) 16:16:28.54 ID:QTk5iYVv
黄泉返りなんて日常茶飯事

164 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/05(水) 17:44:42.46 ID:YH2lTrzx
MTHR「ウチの嫁が不細工とか適当書いてんじゃねーYo」

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/05(水) 18:56:59.20 ID:aJPKN53C
大女だったんだろ

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/05(水) 19:33:13.35 ID:QTk5iYVv
>>164
お前んち、大嫌いなんだもん

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/05(水) 19:40:19.74 ID:c3gMfmgy
周瑜は美人の妻を娶ったために早死にした。
一方孔明は不美人の妻を娶った。
よって孔明の方が賢かった。

というような評と同じく、むしろ元春が女色に溺れなかったことを褒めてたんじゃなかったっけ

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/06(木) 05:33:39.65 ID://aE3BIv
>>167
留守中に浮気してないだろうか?
子供は俺の子だろうか?

悩みの種が無くならないね

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/06(木) 05:45:34.63 ID:sSiOXkFU
晋恵帝「嫁が不細工な上に残虐で辛いです」

尼子再興軍、和議の使者を騙し討つ ~美甘塚由来~

2016年10月03日 14:56

150 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/03(月) 01:38:24.33 ID:Om5w01zA
尼子再興軍、和議の使者を騙し討つ ~美甘塚由来~

1571年、吉川元春の軍勢6000に囲まれた山中鹿介と神西元通の籠る末石城。
僅か500程度の城方に対し三層の櫓を組むと石礫や鉄砲、矢を撃ち込み攻撃する吉川勢。
守る城方も土塁を築き必死に抵抗し、3日に渡り激戦が続いた。
その中、吉川勢は和議の使者として地元の所子と言う所に住む美甘与一右衛門(みかもよいちえもん)と言う血気盛んな勇士を送り込む。
毛利氏の依頼を受けた美甘与一右衛門は目付の中原善左衛門と共に城へ入るが、和議に刀は不要と入り口で刀を取り上げられた。
交渉は順調に進み、和議成立となり歓待の宴が開かれる。宴も終わり、2人が退出しようとしたところ城方の兵士は不意に美甘と中原に斬りかかる。
未だ刀を返されていなかった美甘は身近にあった石を手に立ち向かうが、敢え無く中原と共に討たれて死んでしまう。
数日の後宍戸隆家、口羽通良を通じて城方は降参を申し出た為吉川元春は城を受け取った後、亡くなった美甘与一右衛門の義を讃えると共にその死を悼み、碑を建て厚く葬った。
現在も末石城跡には美甘塚が残り、美甘家の人が与一右衛門が城方に立ち向かった時の石を力石として碑の近くに保存供養を続けているとの事である。

当地に残る美甘塚の案内板などより



151 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/03(月) 06:46:55.58 ID:FrR4NjML
>>150
中原「ワシは何回死ねばええんじゃ…」

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/03(月) 19:18:04.90 ID:+ZXcHLbM
>>150
未だに供養が続いてるって凄いな。

川角太閤記から、秀吉の中国大返しのとき

2015年01月30日 18:40

603 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/01/29(木) 23:11:37.54 ID:Uq48cXXy
川角太閤記から、秀吉の中国大返しのときの逸話
秀吉は本能寺の変のことを毛利勢に隠して、霊社の起請文を取り交わし
「秀吉が上洛したとしても,裏切りの攻撃をしてはならない。
また、毛利家が引き退いたとしても、秀吉から約束を破ることはない」
という内容を約して、陣を引き上げた後のこと


毛利家には、上方に付けて置いた早打ちが四日の七つ下がり(午後四時過ぎ)に参着した。
「信長公が二日の卯の刻(御前六時頃)にご切腹いたしました。
(信長は)どうして遅々としているのか、と調べてみたら四条堀川の通りに鉄砲が厳しくなりました。
町人もどうしたことかとばかりに呆れ果てて、町々のくぎぬきを堅め一円に人を出さくなりました。
本能寺の事が終わり、明智殿の家臣溝尾少兵衛(溝尾茂朝)殿が、
『町々の者、静まりなされ。別の子細ではない。
惟任日向守殿が今日から天下殿におなりになったので、洛中の地子をお許しになられた。』
と、町々に触れまわっていました。それで明智殿の謀反と分かったのです。」
と申された。

それから吉川駿河守元春の陣屋へ、小早川左衛門尉隆景・宍戸備前守(宍戸元続)が寄り合って談合したことは、
「今日の誓紙は破っても苦しくありません。騙されたのです。」
ということであった。吉川駿河守は、
「このような時にこそ、馬を乗り殺すのです。早く早く。」
と勧めなさったという。

舎弟小早川左衛門尉隆景は、右のことには一言も言わず、しばらく考えて申出されたことは、
「元春の御考えは御尤もではございますけれども、昔より今に至るまでは何事につけても約束をするのは、
書物・誓紙を鏡として使うものであります。父である元就公が御死去のときにいたしましたときに、
『只今の輝元公を兄弟として取り立てよ』という誓紙を仰せ付けられました。
時日の下の判は元春公がなさいました。その次に私がいたしました。
さて、兄弟四人がそのようにいたし、元就公にお命があるうちにお目にかけましたことは、昨今のように覚えております。
その誓紙は元就公がいただき、一つは元就公のご遺言で、
『我が棺へ入れよ、一つは厳島の明神へ籠め奉れ。一通は輝元公へ上げ置き申すことにする。』とされました。
この二通は只今もご覧なさるがよい、条数の内に
『毛利家は、我死して後、天下のことは心に懸けてはならない。』と、一の筆に書かれてあります。」

「今日の御誓文を破られたならば、冥途におられる元就公の別意となる。
一つは厳島の明神の御罰、又は五常の礼儀の二つをも破ることに似ています。
羽柴筑前守が国元の播磨へ帰城されたとの知らせをお聞き届けになり、そのうえで御馬を出されてもよろしいでしょう。」
と語って、兄の元春へ異見を申された。
元春も隆景から道理で攻められ、生合点の形で納得申した。小早川はそれから自分の陣へ戻られました。

604 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/01/29(木) 23:13:00.75 ID:Uq48cXXy
小早川隆景は、舎兄元春の陣屋へ目付けを出された。その目付けが帰ってきて、
「何か存じませんが、御馬屋の馬に鞍を置かせ、家中もまたその通りに見えます。宍戸備前守の陣も同じように見えます。」
と申し上げたところ、隆景は
「異見を申し上げて、すぐに座敷からたち戻ってきたので、それは御立腹もあるだろう。
それは兎も角もしかたない。是非に及ばない次第である。
しかしながら、誓紙をお破りになったことは、必ず一通でも使いを我らのところにお立てになってもよいはずだ。」
と仰られた。

小早川隆景は、陣中を静められるためであろうか、鵜飼新右衛門(鵜飼元辰)・井上又右衛門(井上春忠)の両人を召されて、
「役者のものを召し出せ。肴の台などはどんなものでもよい。鼓などを調べさせよ。早く早く。」
と仰せ付けられました。両人は、
「かしこまりました。」
と申し上げ、さっそく役者のものを召し出した。家中では、
「これはいかなることであろうか。信長公のご切腹を満足だとお考えになって、その祝であるのかと不審が晴れぬ。」
と、下々の者は取り沙汰していた。

役者のものが隆景の御前に伺候し、はや乱舞が始まるかとばかり見えましたところに、
(役者は)めでたいものか、また修羅などのようなものか、どちらを歌いだせばよいのか、心にあきれていた。
そこに鵜飼新右衛門がただちに心得の小謡を一番歌い出しまして、
「四海波静かにて、国も治まる時津風」
と申しました。さて、役者のものは、
「めでたい(ものを歌えばよいのか)」
と、心得の高砂などかれこれ五番(歌い)、その中には三輪がございました。
先の鵜飼新右衛門が次の間を立って見回しましたところ、座頭の破れ衣一つがあったのを、
おっとり(体に)打ちかけて、急なことでありますので、
鼻紙を裂いては木の切れ端に挟み付け御幣の気持ちで次の間から舞い出て、「三輪」を一番舞い納めました。
この新右衛門は何事につけても殊の外しおらしい人でありましたから、ご座敷のようすがよく伝わってきました。

羽柴筑前守殿は天下を取ってのち、隆景が乱舞で毛利の陣を静められたことをお聞きになりました。
鵜飼が小謡を初めに歌ったところから「三輪」を舞ったことまでも詳しくお聞きになったということが聞こえてきました。

上様より小早川左衛門尉に五十二万石を下されましたことは、
「備中の陣のとき、毛利家陣中を乱舞で鎮めたから。」
と、のちに確かに聞こえてきました。
小早川が大名になった子細は、この末尾で詳しく書きつけることにします。
まず、このように書きませんと末尾への過程が申し上げられませんので、まずまずこのようなことにいたします。

吉川陣・宍戸陣には、まず馬の腹帯を締めてひしめいていたが、
「小早川殿の陣では能が始まりました。」
と、とりどりに申しましたところ、
「それならば聞き届けよう。」
と言って、両陣より人を遣わして聞かせたところ、
「能でありましょうか、あるいは座敷の囃子でありましょうか、中の様子は見えませんが、乱舞であることは間違いない。
上下の者達がざわめきあっていると見えました。」
と、使いの者が帰って報告しました。
それで、吉川もさすがに進めることが出来ず、両陣は泣き寝入りすることになったということです。




尼子義久の降伏

2014年11月10日 18:56

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/10(月) 00:36:56.01 ID:+UuGUWA/
毛利による尼子氏の本拠地月山富田城攻めは、永禄3年より始まり今永禄9年(1566年)に至って、
およそ7年の間続いていた。
その間、尼子方の城兵達は、あるいは討ち死にし、あるいは落ち失せ、あるいは降参したため、
今は僅かに300人ばかりが留まり残っているに過ぎなかった。その上兵糧も乏しく、
もはや落城も遠からじと風説されていた。

ところがこの5月の末、毛利元就が風気を患い、徐々に悪化して、様々に薬術を為してもその効なく、
病は日々重くなっていった。

そんなある夜、吉川元春小早川隆景の兄弟が全く同じ夢を見た。その内容は、
老翁が一人枕の上に立って

『今度の元就の煩いを治したいのなら、尼子の命を助けよ。
我は富田の八幡である。』

と宣ったのである。

この奇妙な出来事に元春・隆景兄弟は話し合い、元就の側まで行って相談した。
その結果

「先年、大樹義輝卿より、聖護院准后を以って、毛利・尼子和議すべしとの上命があった。
尼子はこれを了承したが、元就は八ヶ条の懸念があると上意を返されたが、その内容は
尤もなことであったので、義輝卿もこの件を一旦戻して扱われていた所、三好左京大夫義継、
松永右兵衛佐久通らが義輝を弑し奉るによりて、この和議については完全に停止した。

然れば今度、その旨を以って尼子の命を助け、下城させるべし。」

そう決定し聖護院准后道增の弟子である道澄に、元春・隆景はこの趣を言い含めた。
道澄は米原平内兵衛を以って、尼子方の立原源太兵衛尉に申し入れた

「先年、公方義輝卿が、毛利・尼子の和議を取り扱われましたが、尼子義久殿はこれを了承し、
誓詞の提出にまで及びました。その草案もここにあります。であれば、今この城を明け渡し、
諸士の一命を救われる事こそ然るべきと、義久殿に説得すべきである。」
そう詳しく説明した。

立原は帰ってこれを尼子義久に伝え、義久は家の子郎党を集め意見を聞いた。
各々はこう申し上げた
「当家は数年の籠城の間に、味方尽く敵に降り、残卒わずかに300ばかりになりました。
ではありますが、この城は無双の要害であり、今まで残り留まった者達は、義によって
身命を投げ出し、城に残った勇者たちですから、志を一つにして防ぎ戦えば、すぐに落城することは
無いでしょう。

ですが、兵糧は尽く尽きかけています。また諸方に後詰をしてくれる味方も有りません。
このような、行く末頼りない城にこもって餓死されるよりも、先ず一旦はこの和議を受け入れ、
時節をお待ちになるべきです。」

皆一同にこう諫詞したため、義久も同意し、その故を聖護院に返答したため、道澄もすぐにこれを
三家(毛利・吉川・小早川)に連絡した。
これによって永禄9年7月6日、尼子右衛門督義久、同九郎倫久、同八郎四郎秀久、
数代の居城を出て、毛利元就に降伏した。

元就は福原左近将監貞俊、口羽形部大輔通良が、二千余騎にて富田城を受け取った。
そして義久、倫久、秀久の兄弟3人は、侍7,8人を召して、元春。隆景の手のもの一千余騎が警護して
安芸国長田に送られ、そこで内藤下総守が請け取って、同所圓明寺という禅院に押し込め置かれた。
彼らの警護は念を入れられ、二重三重に柵をめぐらし、この他に元就からは桂少輔五郎、元春より
二宮木工助、隆景よりは宗近加賀守が付け置かれた。

(芸侯三家誌)

尼子の降伏に関する逸話である。




お前は大不敵者だ 毛利元春の初陣

2014年10月04日 18:50

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/03(金) 21:59:23.08 ID:Y3CfXWJH
お前は大不敵者だ 毛利元春の初陣

まとめ見たら以外にもまだ出てないようだったので投下、もしも既出だったらす万谷。

1539年(天文8年)11月、尼子晴久は祖父・経久や一族衆らの反対を押し切り、毛利元就
居城である吉田郡山城攻めを決意、翌1540年(天文9年)8月、尼子晴久は自ら3万の兵を

率いて月山富田城を出陣し、毛利家の吉田郡山城を包囲した。城に籠る毛利勢は近隣住民
も城に入り、総勢はおよそ8千。
尼子勢は城下に度々付け火したりして毛利方を城から誘い出そうとしたが毛利方は兵も民
も誘いに乗らず、逆に尼子勢を時には奇襲し、時には地の利を活かして戦い、寄せ手の尼
子勢に一歩も譲らぬ姿勢を見せた。
そうこうしている内に同年十二月初めには毛利元就からの支援要請を受けた多々良(大内)
義隆から派遣された陶隆房・杉重政・内藤興盛を大将とする兵2万が到着。
これを受け尼子勢は将兵共に士気が下がり、毛利勢は大いに息を吹き返した。とはいえ時節柄
寒さ風雪も強く、両軍ともに決戦に至ることなく年明けを迎えることとなる。
そして翌1541(天文9年)年1月12日、毛利元就から援軍の3大将に手紙が届く。

元就「翌13日に、宮崎に陣取る高尾豊前守・黒正甚兵衛・吉川治部少輔(興経)の陣を私の
愚息に命じて切り崩させます。敵に背後に回られては大事となりますので城近くへ兵を出
していただき、備えを堅めて尼子勢を防いでください。」
これを受けた山口の3大将はこれを承諾。元就は更に3将の使いと綿密に打ち合わせをし
て城へ戻った。
さて、翌13日卯の刻(午前6時)のことである。城内の兵3000余騎が堀の際まで打って出
た。元就はこの日、鎧を着ずに小袖を着て床几に腰かけ敵軍を見まわしていた。
そこに一人の少年が駆け寄ってきた。名を少輔次郎元春、後の吉川元春。当年12歳の少年
であった。

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/03(金) 22:00:21.70 ID:Y3CfXWJH
元春「このほどもたびたびの合戦のありました折、わたくしも馳せ向かおうと存じました
がお許しのないまま、むなしく控えておりました。今日は、ぜひともにお許しをこうむり、
お供いたしましょう。」
元就「先々にも言い聞かせてきたとおり、お前はまだ若輩だ。まずこのたびは留まってお
かれ。かさねて合戦のときには、必ず相具してやろうぞ。」
元春「弓矢取る身の幼いからとて、敵に向かわぬことがございましょうか。是非にお供い
たします。」
引かぬ元春に、元就は井上河内守に「少輔次郎を連れて帰れ」と命じるも、元春は大いに
腹を立て
元春「いやいや大人にも劣るまいものを、何という情けない仰せごとか」
元春は世にも恨めしげに元就を見やり、涙をはらはらと流した。これを見た井上河内守は
井上「少輔次郎殿は獅子翻睨の眼を具し、龍駒千里の威を抱いておられる。さすが元就さ
まのご子息よ。ご成長なされたならば、天下一の大剛将になられよう。さ、帰りますぞ」
と、大いに感じ入った後城内へ連れ戻そうとしたが、
元春「お前はわたしをやるまいとするのか!」
と言って、太刀を抜いたので、そののちはあえて留める者もいなかった。
元春は士卒を引き連れて、父元就に追いつき
元春「このうえは是非共にお許しをこうむり、お供いたします。」
と言った。
元就「お前はまだ幼いくせに大不敵者だ!」
と言いながらも、いかにも嬉しげに元春を見て「ここまで来たのなら、もはや連れてゆこう」
と、元春の初陣を許した。

陰徳太平記、文の大半は原本現代訳より




947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/03(金) 23:40:04.19 ID:u5DFSmdZ
>>944
なんか本多鍋之助の初陣を巡り元康に拒否られたのを彷彿とさせるな
鍋之助は確か10歳で拒否られたんだったか

吉川元春の嫁取り

2014年08月17日 21:01

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/16(土) 22:23:07.18 ID:xsgsEIHY
ある時、毛利元就は家臣の児玉三郎右衛門尉を呼んで、この様に言った
「我が子元春には未だに妻室が無い。誰の娘を娶るべきか、元春の心を聞いてきてほしい。」

そこで児玉が元春にこれを聞くと、元春は
「それに関しては、唯父元就の命に従うだけだ。ただ、私に選べというのなら、熊谷伊豆守信直の娘が良い。」

児玉はこれを聞くと
「熊谷の娘は、憚りながら悪女であると聞き及んでおります。もしや聞き誤り、かの娘が容貌美しいと思われて
いるのではありませんか?」

「いや、私も醜いと聞いている。しかれども今中国に、熊谷信直に勝る侍大将は居ない。
私が彼と親しくなれば、信直はいよいよ元就に対し忠志を尽くすであろう。
彼と私が元就の先陣にあって謀戦を励むにおいては、いかなる強敵・堅陣であっても、これを破るのに
難しい事があるだろうか。

これは父元就に対しては孝であり、私自身においては、武功を顕す謀ともなるであろう。」

児玉はこれを聞いて感じ入り、すぐに元就の元へ行きこの事を説明すると、元就も大いに喜び、
終に熊谷の嫡女を、元春のために娶られたという。

(芸侯三家誌)

吉川元春の嫁取りの逸話である。




541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/17(日) 01:45:30.42 ID:bLgdl1H3
ブス専だっただけ
理由は後付け

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/17(日) 02:32:54.03 ID:Q9NvVqIk
悪女って醜女の意味なのかな

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/17(日) 02:38:39.62 ID:xR3u/Nfx
名字に熊とか入ってるから
ヤワラちゃんみたいなのだったんだろう

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/17(日) 02:45:09.50 ID:ke4jFHHh
戦国版勇者谷かよ

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/17(日) 04:58:26.87 ID:jAAhxmxl
>>543
猪熊柔
羨ましい

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/17(日) 08:54:57.46 ID:60h2dRZF
吉川晃司って末裔だろ。要素入ってるのかねw

548 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/08/17(日) 09:43:55.87 ID:LA87lVqN
吉川広家が生きてた頃に纏められた書物には不美人とは書いてなく、少し後の陰徳記と陰徳太平記から不美人と言う記述がなされとるんよね。
また、武田光和に嫁いだ新庄局の叔母は美人だったと言われるし、陰徳記を書いた香川氏は熊谷氏の同僚(武田時代)から後年毛利傘下になってからはライバル視してたと言う話も有るし…
実は不美人ではなかったんじゃないかと思う今日この頃。

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/17(日) 09:50:44.70 ID:2DmfOBk9
当時の美醜の価値観って現代とどれくらい違うの?
平安時代のおなごは下膨れが~ぐらいしか知らない

550 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/08/17(日) 10:08:46.39 ID:jR02EXhj
現代でも
80年代→聖子ちゃんカット

から今までに至るまで髪型から服装とか色々変遷有ったからなぁ…

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/17(日) 10:12:34.24 ID:lsq+fZgL
つまり戦国一の美人であると言われているお市も現代の人が美人だと思うかどうかはわからないってことだな

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/17(日) 10:37:04.37 ID:bLgdl1H3
惜しいかな後世、お市の方を云いてお犬の方を云わず

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/18(月) 06:37:57.44 ID:Wv1ssEGW
>>552
お犬さまって佐治一成の母ちゃんか
畠山昭高に嫁いでいた不詳娘と勘違いしていた

余勢城と裏切り者とドウショウ坂

2014年08月16日 18:51

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/15(金) 22:00:09.78 ID:fEDArLrs
余勢城と裏切り者とドウショウ坂

尼子家に仕え文武に通じると評された、多胡氏の城である。現在この城の跡には当時の歴史を記した
碑文が多数並ぶ、碑公園となっている。

1559年に吉川元春と小早川隆景が城を攻めた際には城主多胡辰敬の弟、多胡正国と家老沖弾正正藤
の働きによって撃退される。
1561年に吉川元春が再び攻めるが、この時も城側の夜討ちにより児玉興三郎はじめ500の戦死者を出した
吉川軍は一時退散。戦死者500はかなり盛った数字と言われるが、吉川元春がこの城を攻めあぐねたのは間違いない。
同年12月、吉川元春は三度目の攻城を開始。
二度に渡り煮え湯を飲まされた元春は城側の重臣別所小三郎宗晴を調略。
1562年1月1日、別所は多胡正国の息子・秀光を殺害し、城の裏門を開いて吉川勢を城に入れた為、
城兵500は殆どが討ち死にし、生き残った多胡正国ら7名は隣の郡山城へ逃げ、家老沖弾正は城に火を放ち自害。
この後、郡山城もあっさり落とされ多胡正国は兄辰敬の岩山城へ逃亡するも、そこも落とされ多胡兄弟は自害し
多胡氏は滅ぶ。この多胡辰敬の娘が亀井茲矩の母であり、後、津和野藩を興す藩祖の父となるのであるが、それはまた別のお話。

なお、多胡氏を裏切った別所宗晴は毛利元就に信用されず、後に死を賜ったという。
毛利に敵対した主家を裏切った武将が辿る何時もの末路であった。

この余勢城から1kmほど行ったところに西隆寺という真言宗の寺がある。ここは多胡氏の菩提寺として
伝わる寺であるが、この寺の裏手にドウショウ坂と呼ばれる鬱蒼とした森に囲まれた坂がある。
この坂の途中にある杉の木の茂る場所は、かつて城の処刑場として用いられ、また吉川の余勢城攻めの時に
敗残兵が処刑された場所とも伝わり、実際ここには朽ち果てた五輪墓の跡が幾つも残り、近隣では恐怖のスポットとして知られ、
通る時にこの坂を上ろうか上るまいかどうしようか?と悩むことからドウショウ坂と言う名が付いたという。




946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/15(金) 22:58:51.55 ID:Bs48ykLc
弾正が、どうしょうになった、て話もなかったっけ

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/16(土) 08:11:25.13 ID:6ZJ9Kvda
読んでから最初の感想が
「血塗られた地名なのに鬼武蔵が関わった話じゃないなんて」なのは色々と毒されたようだ

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/16(土) 10:36:12.27 ID:oZ8TZBKa
前に鬼武蔵が関わってるのにいい話が投稿されて、
ありえないだろ!とか言ってたら、実は悪い話バージョンがあったことが
明らかになってワロタ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4700.html

949 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/08/16(土) 10:50:00.75 ID:4Y8NqYJl
           |
            |  彡^ミ
           \ (´・ω・`)また鬼の話してる
             (|   |)::::
              (γ /:::::::
               し \:::
                  \

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/17(日) 07:12:28.77 ID:6cNQD05V
鬼の話をしていると来年が来ちゃうぞ

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/17(日) 10:55:06.72 ID:kmmLxem8
????「クビオイテケ・・・ソノクビオイテケ・・・」

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/17(日) 13:14:55.03 ID:lsq+fZgL
豊久乙!

西国で川中島合戦にまつわる論評合戦があったらしい

2013年10月21日 19:45

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/20(日) 21:53:06.97 ID:0a8ryyVQ
西国で川中島合戦にまつわる論評合戦があったらしい。

毛利元就の在世中、甲斐の武田・越後の上杉から書札を受けていたものの、
当時元就の容態が思わしくなかったこともあり、
山中鹿介擁する尼子勢に手を焼いていた毛利家は、
なかなかその返礼をすることができなかった。
元就が亡くなってしばらくすると、次男の吉川元春は、
家臣の佐々木源兵衛尉を甲斐・越後へと挨拶に遣わした。
そのついでに、両国の情勢なども見て回らせた。

さて、佐々木が安芸に帰国して、見聞きしてきた川中島合戦の様子などを
元春に報告したところ、その話を聞いた杉原播磨守盛重は、
「謙信のこのようなところが油断である、
 信玄のこのようなところが落ち度である。
 いかに良将の聞こえが高くとも、間違いをおかすこともあるのだな」
などと、話に上った川中島合戦の批評をしはじめた。

同席していた天野紀伊守隆重はそれを聞くと、口を開いた。
「なるほど、御辺の意見も一理ある。
 しかし、我らごときの愚昧な考えで批判ばかりしていれば、
 まったく過失のない真の名将などというものは、
 この世に存在しないことになってしまう。
 信玄・謙信がもし、御辺の言うように凡庸な将だったなら、今の名声もないはずだ。

 時も場所も異なるところで何を言ったところで、まったく的外れなのだ。 
 地に伏せて耳を澄まさなければ、地の底を穿つ足音を聞きつけることもできない。
 そのとき、その場にいなかった御辺が、あれこれと批判しても意味はあるまい」

盛重は「もっともだ」とうなずいた。


個人的に耳が痛い話だったのでこちらに。




541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/21(月) 21:10:22.92 ID:EL6wb5qu
>>537
しかし現場以外無意味とか言ってると戦略や戦術なんてほとんど研究できないわけで



542 名前:537[sage] 投稿日:2013/10/21(月) 23:53:49.16 ID:cjfZqQ2P
>>537に関して補足をまとめようとしているうちに、昨夜は寝てしまいました。
少し続きがあります。


天野隆重に反論された杉原盛重は、相手の言い分を一応は認めたものの、
「しかしながら、信玄・謙信のような良将を論評すること
 それ自体がよくないと言うのであれば、納得できない。
 信玄・謙信は生まれながらにして一国の将で、その名はこの日本国中に知れ渡っている。
 この私は勇智が信玄・謙信に劣っていなくても、ようやく一郷一村の主でしかなく、
 人に名を知られていない。
 それなら批評するにも何の憚りもないはずだ。
 合戦の評論をする行為自体がよろしくないというのは、納得がいかない」
と食い下がった。

そこで同席していた熊谷伊豆守が、
「二人の論争は、未来永劫決着がつくことはないだろう。
 梅はすべからく雪に三分の白を遜るべし、雪もまた梅に一段の香りを輸すべし、
 という古い言葉もある。
 お互いに優れた言い分を認め合って、腹をおさめるといい」
と諭すと、二人とも大いに笑って退出していった。


以上です。



543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/21(月) 23:56:02.55 ID:PZYN8Rgz
元春はこの時何を考えていたんだろう

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/22(火) 01:08:07.03 ID:v/L45Kbq
熊谷伊豆守って孫が豊前守ってことだし、信直かな
年長者だし上手いこと纏めたな、といいたいが天野隆重の方が年上か

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/22(火) 02:32:01.65 ID:0DXDVwU+
笑ってすまずに殺し合いになる家が結構あるような

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/22(火) 11:52:35.54 ID:f028Go8Z
囲碁将棋観戦は命がけ

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/22(火) 13:38:46.16 ID:31RUWkyD
庭師「賭ける程度では生ぬるいわ」

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/22(火) 18:48:06.83 ID:p8wzde/m
兜持ち「便所いきてー」

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/22(火) 19:09:46.76 ID:NDrZswl7
>>542
お面杉原が大いに笑った・・・だと?

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/22(火) 22:45:57.29 ID:kHe1CpjK
お面のような顔は変わらず口から笑い声だけが・・・
見た人チビるな