FC2ブログ

小早川隆景の事

2019年11月30日 17:47

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/30(土) 08:25:29.97 ID:f6sI2SvR
豊臣秀吉公によって天下が制せられた頃、毛利輝元公に小早川隆景公がお供して上洛を成した。
秀吉公と参会したが、大方ならない非常に丁寧な接遇であった。この事は桂美作守が詳しく
書き置き、その書物は今もかの家にあるり、その概略をここに示す。

この時、秀吉公の御意に
「私は主君の敵を討ったことで、その本意が天道に叶ったためであろうか、このように
日本を従え、高位にも上った。しかしながら隆景、安国寺のような優れた家臣を持っていない。
そこは輝元に劣っている。」
と仰られた。

小早川隆景は毛利元就の三男であり、十二、三の頃より元就公を助け、御一生の間、子の刻(夜0時頃)
に寝て寅の刻(午前四時頃)に起きると言われているように、不断に夜半過ぎまで伺候し、曉天に
起きられ火を灯して朝御膳をまいらされ、終日御前に在って、諸方への御用、御調を成されていた。
元就公、隆元公が御他界の後は輝元公を一層御尊敬になり、吉川元春公は、その輝元公を取り立てる
あり方を、周公旦の道に学んでいると仰せに成っていた。これはどういう事かと言えば、周の文王、
武王、周公旦は唐土四百余州の大聖人であることが書物に様々に見え、中で周公旦は文王の子、
武王の弟で成王の叔父であり、天下で誰一人その地位を争おうと思わない高貴の人であったが、
成王に仕えて、一回の髪を洗う間に三度も止め、一食の間に三度も口中の食べ物を吐き出して天下の士に
まみえたという。その行いと隆景公のあり方に違いがないと思われたのであろうか。

隆景公が輝元公の御座の前をお通りに成る時は、必ず膝を折り手をつかれてお通りに成った。輝元公が
その座に居られる時は申すに及ばず、御座に居られない時でもそのようであった。
この事ひとつを以ても、全体に於いて隆景公が輝元公にどのように接して居られたか推し量ることが
出来るだろう。またこのようであったので、隆景公の御行儀は日本一であると諸国でも申した。

先程の秀吉公の言葉の最後に言われていたように、後々に隆景公は日本国の御政道の御教書に
御連判もされ、輝元公、隆景公、前田利家公、宇喜多秀家公、徳川家康公の御上判にて諸国に
命が出された。そして後には東三十三ヶ国を家康公、西三十三ヶ国は輝元公にその進退をお預けになり、
このため西国の大名衆は折々に御挨拶に訪れた。

(老翁物語)

小早川隆景について



390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/30(土) 17:18:19.23 ID:JVFouEOb
>>389
隆景が長生きしてたら関が原はどうなったかなぁ
スポンサーサイト



毛利輝元「これも私の分の悪さです」

2018年09月26日 17:46

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 00:19:16.40 ID:Il7Ru6Vb
毛利輝元「これも私の分の悪さです」


毛利家の重臣吉川広家毛利秀元は仲が悪かった。
毛利輝元は一人娘の竹姫を種々の事情で、広家の息子・広正に嫁がせることにした。
下記はそのことについて、秀元に説明する書状の抜粋&意訳。


こちらで話そうと思っていましたが、(あなたが)上国していて出来なかったので
この者をさし下して、あなたに内談することとします。
お姫(竹姫)の身上(縁談)のことは、おあちゃ様(阿茶局)にお任せすることに
していて、もし家中で縁談が出来るならあなたの息子とするのがいいかなと
思っていましたが、あなたには息子がいないので、どうすることも出来ません。

それでこれより以前、広家が「息子と縁談して下さい」と申していました。
「まず家中にお姫を置くことが決まらないと(答えられない)」と言ったので
最近はそのことを(広家は)申して来なかったのですが、(私が)
「公儀から仰せ付けられるかもしれないので、分別を持ってくれ」と言うと
「(息子との)縁談を整えたあとでも、(公儀の縁談が来たら)家のためですから
 文句を申すことはないし従うつもりです」
と広家は申しました。
また広家はあなたが宗休(毛利元政)に「然るべき所と(縁談を)するべきだ」と
配慮の話をしたことを承っていて、宗休にも(縁談の話を)申していました。

世上のことはどうなるか分かりませんから、日頃から縁談を決めておかなければ
整うものではありません。お姫は少しも根気がなく、もっての外短気なので
他国との縁談は気兼ねすることが多いでしょう。秀就の縁談も大事でした。
秀就は男なので(他国の姫と)縁談しましたが、後悔しているくらいです。
(秀就が)よからぬことをしでかして、家が崩れることにならないかと思い
日夜並々でない気遣いをしています。

この上お姫を他国などと縁談してしまえば、(私の)気遣いが及びません。
しかも女の身なのですから、(お姫が縁談相手を)不愉快にすることがあれば
中々他国でのことをどうにかすることも出来ません。そうであるので家中に
(お姫を)置かなければ家は滅亡するのです。

このように言うと、ただ広家と縁談したいからこんなことを言うのだと
思うかもしれません。神に誓って言いますが、そんなことはありません。
私の身にもなって下さい。藤七(秀就)のことは全く迷惑千万になったので
むしろ近くの者と縁談する方が支障がありません。(他国と縁談するのは)
外聞のために実を失うようなことだと、朝夕気が気でないのです。

お姫が丈夫で貞心だったなら、気遣いと言っても(お姫のことを)当てにも
出来ますが、体が弱く正気ではないので、突然一大事となってしまうでしょう。
家中でも人にやることは大事だと考えているので、他国にやることなどは
言うに及びません。このことを(あなたに)話しておきたかったのです。

広家と縁談すれば手元に(お姫を)置いて、まずいことになれば私のところへ
呼び戻すことも簡単に出来ます。また家中のためにもなるでしょう。
あなたに息子がいたら本望でしたが、これも私の分の悪さです。
(以下略)


ーー『毛利家文書 一一八八号』

ちなみに輝元の他の書状を読むと、元々お互い子供がいないときに輝元が
「子供が出来たらお前にやるよ」とふざけて言ったのを、広家が本気にしたらしい。



202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 02:35:15.07 ID:2rEkY+vu
てる夫の口の軽さはいかにもお坊ちゃまらしい
よく言えば鷹揚、厳しく言えば軽率と

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 06:59:36.43 ID:59seQf71
吉川は裏切り者だから宗家となんとしてでも縁組しないとね

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 16:07:48.69 ID:wQDBsTHB
>>201
お姫様が酷い言われようで草
説明のために大げさに盛ってるかも知れないがそれでもこれは…輝元に似たのかなw?

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 21:54:37.66 ID:hy17lFhD
>>203
むしろ逆
公儀と繋ぎが取れてるのは吉川の方で輝元がそれを頼りにしてる状態

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 07:19:42.68 ID:xClyAv6P
>>205
とはいえ、支藩扱いになろうとする吉川と家中統制のためにそれを抑え込もうとする毛利宗家の
争いが幕末まで続くわけだが。

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 09:17:42.46 ID:hSj2UTzI
>>207
それ逆だよ。
幕末の争いがあったから広家にまで遡及して仲が悪かったことにされてるが
広家の時期にはまだその手の問題はなかった

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 12:05:41.24 ID:h9l33jpv
独立大名になろうとした騒動を巻き起こしたのも秀元の方だしなあ

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 12:22:06.35 ID:fKw4E6eC
関ヶ原では吉川の内通のせいで秀元は動けなかった
このため長束や長曾我部も棒立ち
内通のお陰で毛利は取り潰しを免れたというが南宮山が動いてたら金吾はどうしただろうな
吉川は忠臣じゃなくて裏切りモノだよ
秀元が広家を嫌いなのはこの一件が大きい気がする

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 13:10:37.85 ID:DY2JVs++

>>210
輝元じゃ関ヶ原に勝ったとしても日本統一なんて無理だし、目先の勝ちより未来を見据えた広家は忠臣だと思います。

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 18:40:57.66 ID:h9l33jpv
実際の和睦には福原も噛んでるし広家が独断で進めた形跡はないんだよね
家康到着後に慌てて交渉を始めてるからよほど兵力差があって勝ち目なしと判断したんだろう

岩国の白蛇

2016年12月29日 16:19

472 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/29(木) 05:25:12.47 ID:apC56xYr
吉川広家の姫様が城の近くで遊んでいると、一匹の白蛇が姿を現した。
白蛇の澄んだ瞳に惹かれた姫様は白蛇を大層可愛がっていたが、父広家の岩国転封の為共に米子を去って行った。
この時、姫様が可愛がっていた白蛇も引っ越して行く吉川様の一行に見え隠れしながら岩国へついて行き、錦川のほとりに住みついた。
その子孫は今も岩国の地に生きており、現在では国の天然記念物となっている。

(米子の伝説)

ただし、岩国の白蛇の最も古い文献記録は岩邑年代記によると1738年のことであると言う。

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/29(木) 07:27:09.50 ID:wiFOOTs2
ちなみに、岩国の伝説では、
吉川藩の米蔵の米を食べたネズミを食べた蛇が、米の白さで白くなったのが白蛇です。

474 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/29(木) 07:44:31.86 ID:apC56xYr
>>473
補足ありがとうございます



米子城の伝説

2016年12月23日 21:07

456 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/23(金) 07:54:36.77 ID:a79PnZ+I
米子城の伝説

吉川広家中村一忠の築城で米子城の本丸が飯山から湊山へと移り変わった頃の事。
米子城に夜な夜な化け物が出ると噂が立った。
ある時村河与一衛門と言う勇気有る侍が化け物の正体を暴いてやろうと、夜の城を見回っていると、
本丸付近の鉄(くろがね)御門をくぐって石段を上に上がろうとしたその時、暗闇の中に突如灯りが立った。
よく見ると、白衣に緋袴を履いた女が灯りを持ち立っているのが見えた。与一衛門が
「怪しい奴、何者か!?」
と強く誰何すると女は
「私はこの城の主人である。我が城の見回り中じゃ」
と言って与一衛門を見向きもせず去ろうとした。
与一衛門は「この城の主人は殿様じゃ」
と刀を抜いて斬りかかり、女と暫し攻防が続いた。暫くして女は
「私の負けだ。私は飯山の主の大蛇でこの湊山に城が移って飯山は廃れてしまい、それを恨みに思って化けて出たのだ。
そなたは強い、今夜限りにもう姿を現わすのはやめにする。これはその証じゃ」
と言うと、与一衛門に二枚の皿を渡して大きな音と共に姿を消した。
明るくなって与一衛門が二枚の皿を確認すると、それは大きな蛇の鱗であったという。
村河家では代々その鱗を大事にした。



吉川広家(中村一忠)と人柱 人柱久米と河童の怪

2016年12月17日 21:16

432 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/17(土) 13:08:32.96 ID:edoflzSk
吉川広家(中村一忠)と人柱 人柱久米と河童の怪

1591年に太閤秀吉の命で叔父、末次元康の代わりに出雲伯耆隠岐の支配を任された吉川広家は、城下町を作るのに不便な月山富田城に代わる本拠地として米子の飯山城に目を付けた。
隣接する湊山に天守閣を建てる計画を立て、米子城の築城が始まり二の丸三の丸の建造は順調だったものの、天守閣の石垣を組もうとすると、その度豪雨に見舞われ石垣は崩れてしまい工事は進まなかった。

この事態に人夫達から人柱を立てねば祟りが続いて工事はままならないと声が上がり、吉川広家は普請奉行の祖式九右衛門らと相談して人柱を立てて地鎮を行う事にした。

そして、町で開かれていた盆踊りの場から久米という名前の美しい娘を無理やり、または口車に乗せ連れ去り人柱にしてしまった。
この後、吉川広家は関ヶ原の敗戦で岩国へ転封となり後に入った中村一忠の代に米子城は完成したものの、天守の石垣付近では人柱にされた久米の幽霊が度々現れ人々を恐れさせたと言う。
また、米子の人々は人柱にされた久米を偲んで米子城の事を久米城と呼ぶとともに、盆踊りを開くと人攫いが現れ人柱にされてしまうと噂し、近世まで米子では盆踊りが開かれる事がなくなった。

久米が人柱として埋められてから暫くして、米子の町では夜に厠へ入ると毛むくじゃらの腕が現れ尻を撫でられると言う事件が多発した。
そこで一人の力自慢の侍が退治してやろうと夜に厠へ入るとやはり毛むくじゃらの手がにゅっと出て来て侍の尻を撫で回す。
侍は手を掴むと一刀の元にその腕を切り落とし、家に持ち帰った。
すると、河童が侍の前に姿を現しもう悪戯しないから腕を返してくれと頼むので、腕を返すと河童はそのお礼として侍にどんな傷も治すと言う薬を渡して米子を去り、日野町の黒坂へ移りそこで悪戯をする様になったと言う。

米子の人々はこの河童を久米の生まれ変わりではないかと噂したそうな。




433 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/17(土) 13:45:45.24 ID:gUr9WE8G
美少女に生まれたけど人柱にされて河童に生まれ変わっておっさんのケツ撫で回す人生とかどんな罰ゲームだよ

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/17(土) 13:50:28.31 ID:FgX/RKrK
人柱にされた美少女は実は痴女で、イケメン侍の尻を撫で回していたと思おう。

435 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/17(土) 14:12:34.44 ID:edoflzSk
http://i.imgur.com/YcHQjVX.jpg
YcHQjVX.jpg

黄桜河童なら…

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/17(土) 16:56:51.14 ID:LFsLigeo
>>432
話が混じりすぎてカオスw

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/17(土) 23:40:02.02 ID:FQR9CdkD
>>432
松江城のコノシロの話と似てるね
河童の前までだけど

慶長五年九月二十五日、毛利輝元書状

2014年09月22日 19:19

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 17:33:03.35 ID:Y7ZVFnF2
慶長五年九月二十五日、毛利輝元より吉川広家への書状

そなたはとてもよくやってくれている。
ワシにはもうそなただけが頼りなんじゃ。

それはそうと、
福島正則と黒田長政が毛利の為に立ち回ってくれているようだが
こいつらはおべっか遣いも有るから頼りにはならないんだよ。
つうか、いまだ井伊直政に対面叶わずでお頼み入り出来てないみたいじゃん?
これはヤバいよ。
毛利家どうなっちゃうの?
とても心配だよ・・・。

(吉川家文書)




849 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/09/21(日) 19:09:40.25 ID:xjz5QUXq
どこがいい話なの?

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 20:14:36.63 ID:Y7ZVFnF2
>>849
すまねえ
どうやら悪い話の方だったようだ

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 20:47:00.95 ID:ayMSSC2t
>>849
TERUの調子のいい話

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 20:53:21.16 ID:dVF6Y+ZT
吉川ってのは本当に空気が読めないよな
親が親がなら子も子だ
立ち回りが下手すぎる


856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/22(月) 19:29:01.43 ID:82Ys0sln
>>848
こういうのは原文も併記して欲しいな。

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/22(月) 23:09:04.45 ID:R+fUIXZj
>>856
後半部分のみならこうらしい

羽左太黒甲両人衆之手前、愈以無親疎段被申候由、尤専要候、於此方も其見懸ニ候、
乍然それは其身々々忠義ニ成候所をこそ可被存候条頼には難成歟、
いまだ井兵少へ御直面にて御たのみ入、不相調候段、此儀笑止迄ニ候

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 13:41:49.60 ID:R4jIaMgz
黒甲ってのは黒田甲州なんだろうけど羽左太は羽柴左衛門大夫の略?
すぐ名前略しちゃうのは日本人の大昔からのクセなのか

黒田家と吉川家の関係について

2014年05月24日 20:30

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/23(金) 20:06:29.37 ID:bY0iimsq
黒田如水は元来、吉川元春、その嫡子元長に厚意があった。
その吉川家では、元春が天正15年(1587)に死去し、元長もその翌年に卒した。
家老たちは、元春の次男である元氏を立てようと協議していたが、この時、黒田如水が考えたことには、

『元氏は病弱であり、現在の戦国の時代に家を継ぐべき器量ではない。元氏の弟である広家は、
その家督となるべき器量がある。これに家を継がせるのが然るべきである。』

そして広家の家臣、香川又左衛門と相談し、豊臣秀吉へと言上して、終に広家は吉川毛の家督を
継承した。このころ広家の年齢は二十歳より下であった。

このように、吉川家が黒田家の恩意を被ったのは、関ヶ原で東軍への内通の頼みとしただけでなく、
以上のような由緒もあったのである。

吉川広家は寛永2年(1625)9月21日に死去したが、この時以下のように遺言した。

『私は如水・長政と多年約束をし、一生の間、互いに裏切ったことはなかった。私の没後、
子孫に至るまで親懇の筋目を忘れないようにと思う。
紫野大徳寺龍光院は、如水・長政の菩提寺である。両公の塔の傍に、我が遺骨を葬り、
収めるように。』

そして遺言のとおりに葬られ、石塔を建て、金光院中厳如兼と称した。
それ以後、代々の吉川家は黒田家対し心の入った篤心であること、その先祖の言葉を虚しくしていない、
と言うべきであろう。

(黒田家譜)

黒田家譜より、黒田家と吉川家の関係についての記述である。




12 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/23(金) 20:17:49.12 ID:+AyOeJaT
そんな元氏さんは広家さんより長生きしてたりするからわからんものよね~

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/23(金) 23:41:32.17 ID:6NDjPT4e
元氏は他家を継いじゃったからな

防長二州安堵顛末

2014年02月15日 19:00

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/14(金) 21:06:30.66 ID:7BjaOQEG
関ヶ原合戦の戦後処理において、毛利輝元については、今回石田三成に与し、奉行衆もこれに一味して
西の丸に移り、諸方に内通を勧める回状に判形し、あまつさえ四国へ派兵し、その罪は莫大である。
しかしながら一族の吉川広家が、東軍に志を通じたその功績により、輝元は死罪・流刑を相赦し、
広家には中国地方のうち1,2ヶ国を与えるべきである、と議定した。

これにより広家を兵部少輔(井伊直政)宅に召し寄せ、『広家の今度の忠義に感じ入った故に、
中国の押さえとして周防長門の両国を与える』という徳川家康の内意を伝え、毛利家よりの人質であった
粟屋十郎兵衛も差し返した。
しかしこれを聞いた吉川広家

「思いもよらない、身に余る有難き仰せではありますが、もとより今回のことは、自分の身上を考えて
行ったのではありません。あくまで本家である毛利輝元の家を御立て下さるようにと存じ、先にも私は、
私に対しての報奨はお断り申し上げました。

今度のことは、決して輝元の心底より出たものではなく、ひとえに安国寺が策略をめぐらし、
奉行衆の言うに任せて、秀頼様のご命令であると信じてしまったために、是非に及ばず
ああなったのです。輝元に思慮がないことは、内府様も良くご存知のことです。

勿論、輝元のこれまでの分国を相違無きように、などということは申し上げるべきもない話ですが、
私に拝領される予定の国を、輝元に下されますように、どうか取り持ちをお願い致します。
もしこれをお聞き届けないのであれば、私についても、輝元同様に申し付けて下さるように、
幾度でもこれを申し上げ続ける覚悟を決めました。」

この返答に、黒田長政は福島左衛門大夫(正則)、井伊兵部少輔(直政)と相談した上で、
書状を広家に送った。その詞には

『尚々、今回のことは兎にも角にも井兵少(井伊直政)、福左大(福島正則)、そして私の
3人に任せ置いて下さるようにして下さい。さらにこの他に頼るような事は、決して無いようにして下さい。

さてもさても、中国についての事は、今日明日にも決定されます。あなたのご分別次第なのです。
井兵少に仰せになったあなたの御覚悟は、とても不可能なことだと思いますが、必ず、私と福左大が
家康公にお目にかかり、あなたの心底を残らず申し上げます。

しかし、中国の内、せめてあなただけでも大名として残ることは、家祖である毛利元就公に対し
報告するのにこれに過ぎた事は無いでしょう。中納言殿(輝元)と同じ処分を望まれるというのは、
一応二応まではご尤もにも思います。ですがそれで、あなたご自身も滅ぼしてしまえば、元就公に
どのように報告されるのでしょうか?どうか、分別のない考えはしないで下さい。

10月7日     長政 判
     吉殿様参       』

しかし広家はこれでも承知せず、返書に、長政および福島正則に宛てて、起請文を付けて、心底の趣きは
変わらないということを申し越した。この事はついに家康の聞き及ぶこととなり、広家の誠実さを、
律儀至極であると感じ入り、「輝元の今回の罪は莫大であるが、安国寺の策略によってああなったというのは
紛れも無いと、輝元も誓紙を以って釈明したのであるから、この上は広家に与えるはずだった防長二国を
輝元親子に仰せ付ける」と決まった。

(黒田家譜)

毛利家が防長二州を安堵されるまでの顛末である。




366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/14(金) 22:23:17.97 ID:Nf6SSgKt
とある作品では輝元を減封で留めるために
家康と広家で一芝居うったって事にしてたな

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/15(土) 16:33:15.67 ID:kB1KU6h5
>>366
黒田家譜読んだら恵瓊も
輝元の泥を被らされただけなんじゃないかと思えたり。

吉川広家漁火をみて敗兆を知る

2013年05月08日 19:51

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 13:10:00.33 ID:97/v4Lob
吉川広家漁火をみて敗兆を知る

広家は石田三成に与力していたが、ある日美濃路をさして来る
敗軍の士卒があった。戦いも始まらないのになんびとだと尋ね
させると水口城主長束正家であった。

正家は「あれを見てくれ、海上に雲霞の如く兵船が押し寄せて
敵に取り囲まれたらどうしようかと存じ、あなたと合流してから
戦おうと人数を引き取ってきた」と言う。

広家が水上を見るとそれは漁火の影であった。「これは兵船に
あらず漁火の光です」と告げると正家は言葉も無かった。

広家はこれは衰運のなすところこそと思い、たちまち心を翻し
徳永法印も諭したのを幸いとして遂に関東に味方した。

このたび広家がもし関東に味方せずば、いかに毛利家に西国を
賜うことが出来たであろうか。

知勇兼備よく機変を考え禄を本家へ譲り周防長門の主となったが
自身は退いて陪臣となった。

(近古武談)




223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 13:46:11.03 ID:SeK/Wbwr
美濃路で海上も糞もないだろうに
漁火って木曽川とか長良川の鵜飼の篝火かね?

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 13:51:33.49 ID:GqUWQBhZ
>>223
多分伊勢路と間違えているんだと思う

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 14:46:59.92 ID:HDRoXa+z
琵琶湖じゃね?淡海ってことで

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 15:17:29.21 ID:cV3DKTfK
伊勢の安濃津城攻めの後だろう

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 15:38:53.99 ID:97/v4Lob
家康と誤認して正家が動揺したと言われるのは、一般的には阿野津攻めの前かな。

史実では8月5日頃に正家と恵瓊が伊勢へ向かい。
広家もその頃までは瀬田で普請をしてて、同じ時期に伊勢に陣替えになった筈。

横道権之丞、交戦中の敵へ使いする心得

2012年09月17日 20:31

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/16(日) 19:58:27.10 ID:OaS8+f8c
吉川広家の家臣に、横道権之丞と言う者があった。

さて、天正15年(1587)の、肥後国人一揆において吉川広家は黒田孝高・長政親子らと共に、
城井鎮房の籠る城井谷城を攻めていたが、城井方のゲリラ攻撃に長政が不覚を取るなど、
大いに苦戦していた。

そこで広家、孝高・長政親子は相談をし、城井鎮房に対し和議を提案することとし、
その使者を吉川広家より出すことと決めた。

広家はこの使いを、横道権之丞に命じ、城井鎮房に対し

『あなたが黒田に対して何の遺恨もないのに防戦に及ぶことは、秀吉公の意に逆らう行為です。
早々に和睦を受け入れ、黒田親子の下知に従うのが、最も良い選択です。
過去の戦闘の罪は、この広家が善きように処理します。
秀吉公より御赦免いただき、またあなたの本領が相違無く黒田親子より渡されるように私から
言っておきます。』

そう言い伝えるよう命じた。

ところが権之丞はこの使いに直ぐに向かおうとせず、日が暮れ夜に入ってから、大松明に火を付けさせ、
少しの忍ぶ景色もなくテクテクと歩いて行き、城の近くまで来ると

「吉川蔵人頭広家の使いである!!」

と、頻りに呼びかけたので、これを聞いた城中の者たちはすぐに城井鎮房に知らせた。
城井鎮房は人を出して権之丞に目的を尋ねると、彼は広家に言われた内容を伝えた。
これを聞いた城井鎮房は広家の提案した和議条件に同意し、直ぐ様降伏して黒田親子の手に属した。
まあ、この和議が後にどす黒い事態を起こすのだが…
ともかくも横道権之丞は見事大事の使者に成功したのである。

その後、ある人が横道権之丞にこの時のことを聞いてきた
「あなたはどうして、日が暮れてから城に向かったのですが?」

これに権之丞答えて
「こういう使いに、白昼うかうかと行っては、もし伏兵などに取り巻かれた場合、自分は
和平の使者だ、なんて自分の説明をしても、雄に逸った若者なんかは『そう言って騙す気だな!』なんて
言ってきて、確認も無しに討たれる事もあるんだよ。
だからわざと夜になって、松明を燃やし、何も隠さない形で行ったのさ。

そういうふうに行くとね、敵も『あれはなんの用がある使いだろう?』と考えて、うかつに
討ち取ったりはしないものなのさ。
俺はそういうふうに考えて、日が暮れてから城に向かったんだよ。」

と、その様に語ったそうだ。
(陰徳太平記)

横道権之丞の、交戦中の敵へ使いする心得についての逸話である。




496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/17(月) 08:20:13.27 ID:ggqP0q70
城井戦での広家の活躍もちゃんと記録されてるんだな
広家の逸話はもっと発掘されて欲しい

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/17(月) 10:34:00.46 ID:IUG41wpy
和議の使者なら白昼堂々とやってくるものだが・・・怪しい!!!!とはならないんだな~

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/17(月) 10:47:43.78 ID:9G+wQdsj
横道さんて、昔尼子にいた横道兄弟かな

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/17(月) 11:36:33.59 ID:rT5UwMWz
尼子十勇士の横道兵庫介?

そんな親バカ官兵衛さん

2012年09月16日 20:58

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/15(土) 20:05:45.48 ID:B5pwwuHK
天正15年(1587)の、肥後国人一揆の時の事

この一揆平定に従軍した吉川広家が、黒田官兵衛に以前のことを尋ねた

「先日私が萱切山において一戦せんと申し上げた時、あなたはそれをしきりに止めるよう言われました。
老巧の人の意見であり、また我が父元春も、万事あなたの指図に任せよと言っておられました。
その為どんな事でもあなたの言うことには背かないよう決心していたので、あの時は戦うことを
断念したわけですが…

改めてお尋ねしたいのですが、官兵衛殿はあの時、一体どういうお考えで私が合戦を行うことを
止められたのでしょうか?」

これを聞いた官兵衛、ニッコリと笑って

「ああ、あの日、広家殿が合戦を行えば間違いなく勝利されたでしょう。だから止めた。」

「!?、必ず勝利すると思われたのに、ではどうして止めさせたのですか!?」

「それはね?あの日広家殿が戦をして大利を得られては、ほら、その前にうちの息子の長政が、敵を侮って
負けちゃったでしょう?それとこれの優劣が比較されて、長政にケチが付いてしまうなと、そう思ったのです。
ですからあなたが戦をしようとするのを、堅く阻止したわけなのです。
私はあなたと兄弟の約を成した間柄ではありますが、そんな盟約も、実の子への愛には
勝てないものなのですねぇ。」
(御辺吾等兄弟の約を成し申したりとは雖、実の子の愛には不勝候そやと宣けるにそ。)

広家これを聞いてさすがに呆れ

「と言うことは、私は黒田官兵衛に方便をされていたのか!
いやはや、あなたの真意をもっと早く察していれば、制止されても聞く耳持たず一戦した物を!」

そう言って大笑いした。

黒田官兵衛と吉川広家は多年の親友であったので、官兵衛も自分の思っていることを正直に語り、
広家も方便をされても、さらに恨むことはなかった、とのことである。
(陰徳太平記)

そんな親バカ官兵衛さんのお話である。


関連
黒田孝高の親バカ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2432.html


446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/15(土) 20:53:49.73 ID:6JeLg8Af
広家さん、若いころと家督ついでからのギャップありすぎだよね

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/15(土) 22:10:10.31 ID:Nm1+L9EV
如水さんほんと息子大好きだなw

毛利輝元母・尾崎局書状

2012年09月04日 20:50

尾崎局   
288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/03(月) 20:29:16.37 ID:hMLsxde/
元亀2年(1571)6月14日、毛利元就死去。これにより弱冠18歳の毛利輝元が当主として残されたが、
この時その母、尾崎局が吉川元春に送った書状である

『さてもさてもじいさまの事、御年寄りとは申しながら、こんなに不意の事になるとは思いもよらず、
突然にお隠れになられて、さぞさぞご心中の方、おしはかり申し上げます。

輝元の御事、ひとえにひとえに、そなた様(元春)と隆景様(小早川)にお頼み申し上げます。
輝元の親となっていただき、お力もお貸しくださるよう、うち頼み申し上げます。
申すまでもない事かも知れませんが、申させて下さい。(申まてハ候ハすとも、申事ニて候)
この事、重ね重ねお願いいたします。』

息子輝元の今後を憂う母の気持ちが、痛いほどに見えて来る書状である。
いい話でも悪い話でもないと思うので、とりあえずこっちに
(毛利家文書)




豊臣秀吉は吉川広家について曰く

2012年07月30日 20:56

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 17:05:11.63 ID:m2Ls1l1C
豊臣秀吉吉川広家について曰く

「広家は尋常の者ではない。五万、三万の大将となっても不足はあるまい。
元春が最近、武威を振るっているのは当然であろう。

毛利元就は吉川元春、小早川隆景を先鋒として西国に武威を震わし、
また元春は元長、広家を先陣として敵を破った。

わしは弓箭においては元就、元春の十倍であるが、良将の器ある子を
持つという点では劣っておる。

ああ、もし男子が三人おれば一人に天下を譲り、二人は関東と関西の
鎮として置くのだがなあ」

世の人もまた、たとえ隆景死すとも広家がいる限り、毛利の政道に
邪法なく、弓箭も前代に劣ることはない、と語った。




748 名前:たかとら・かずとよ[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 18:07:22.20 ID:PHP5Wd49
>>747
然り気無く太閤様が元春様disってる気もするが、最後に広家のみにしか触れてないの
が元春、元長死後の評かな?

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 19:00:41.98 ID:7Ci8/Lj3
毛利一族はみんなすごいんだお!天下一だお!バカなんていないお!

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 19:41:07.13 ID:qrNaWWrX
>>749
まあTERUは天然なのか策士なのか、野心家なのかそうでないのかよくわからんところがあるしなあ。
つかみどころがない点では元就以上。

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 19:46:48.06 ID:Aa25Wzxv
まあTERUさんも馬鹿ではないんだよ。勇み足しちゃっただけで。
関ヶ原は一門や重臣の、当初の反対意見ばかり取り上げられるが、どうも輝元の近習たちは
積極的に参戦に賛成していたっぽいのね。野心あふれる当主近習と保守的な一門重臣という、よくある対立が
毛利家でも起こっていたっぽい。

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 22:48:43.14 ID:Sv9YTkEF
TERU「鳴かぬなら 部下が鳴かして 俺そうせい」

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 23:43:46.70 ID:JcTh/gHK
TERUはふつーに東西対立してる間に毛利家の勢力拡大して漁夫の利を得る作戦だったっぽいからなー
上杉と狙いは一緒なんだよね

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/31(火) 00:58:44.02 ID:PqUseq/E
誤算は三成があまりに役に立たないかったwってことか。まーくんとクロカンとかもそう思ってそうだけど

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/31(火) 01:03:03.14 ID:mgl8fCwQ
一日で負けただと…!?状態だったんだろうな

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/31(火) 01:06:55.47 ID:BrrjkW2h
押したり引いたり
城を取ったり取られたりが続くと思ったんだろうね

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/31(火) 01:27:27.24 ID:UeWVt17J
そこんとこは家康すごいけど、
あっさり大阪城明け渡したのがマイナスかも。

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/31(火) 02:04:41.66 ID:ZLNmB6t4
そもそもどこぞのAKに
「輝元様ご謀反の風聞が立っておりますぞ!至急上阪なさいませ!」
なんてだまされて大阪に引っ張ってこられたあの人に
やる気なんてあるわけがない

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/31(火) 11:44:08.72 ID:yrIAWaaI
>>751
負けてから俺には負けるのがわかってた上がバカだから~とか言い出す人は
古今東西よくいるからねえ
酷いのになると戦前は戦煽りまくってといてとかさ・・・

しかし、隆景の考えは違った

2012年06月02日 21:02

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/02(土) 06:33:55.03 ID:MavVg8yk
九州征伐のさなか、小倉で病死した吉川元春の後を継いだのは長男・吉川元長であった。
しかし、その元長も日向で病死してしまう。

元長には子が居なかったが、幸いにも弟が二人いた。
他家に養子に出ていた元春の次男・繁沢元氏と三男・吉川経言である。
吉川家の当主はこの二人から選ばれることになった。

秀吉はこの件に関しては隆景に任せると言う。
あとは隆景次第である。

このとき輝元は元氏を推した。
元氏も父・元春や兄・元長に負けず劣らずの将であるし、順番からいえば次男の元氏を推すのは
妥当なところである。

輝元「そんなわけで元氏が良いと思うんだけど~」

しかし、隆景の考えは違った。

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/02(土) 06:41:56.74 ID:MavVg8yk
「吉川家は秀吉公からあまり良く思われていません。
そして我が兄・元春と元長は秀吉嫌いで、元氏も考えはそちらに近いです。
なので、大坂に人質に出したこともあり、秀吉公に気に入られている経言を当主にした方が良いでしょう。」

こうして三男の経言が吉川家を継ぐことになった。
秀吉のバックアップもあり、次男である元氏を差し置いて継いだことも特に問題とはならなかった。

経言は広家と名を改め、吉川家の当主・吉川広家としてその後も活躍したのはご存知の通りである。




539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/02(土) 07:28:13.53 ID:ufBBpix2
秀吉「隆景よ、分かってるな?」

隆景「ははー、お任せください。」

実際は↑こんな感じだったと予想

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/02(土) 07:29:34.89 ID:Bg/PK326
元氏は養子に出しているんだから元春の手元に残っていた広家が後を継ぐのはわりと自然とは思うんだけど
てる様は相変わらずやんわりとながら自分の考え否定されちゃうんだな

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/02(土) 08:24:48.42 ID:g4bm7aX/
>>539
黒官「殿下、私の広家に横恋慕はやめて頂けますか?」
三成「広家め!殿下の寵愛を受けるとは憎い奴!」
隆景「豊臣家ってほんとおもしれぇ」

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/02(土) 09:33:33.46 ID:rruDBlyo
「輝元に任せる」じゃない時点で余り良い話に感じないw

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/02(土) 10:21:37.32 ID:s545rIzc
輝元「どうせ最初から意見聞く気なんて無いお・・・」

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/02(土) 10:32:55.62 ID:6vEISf0e
隆景「殴り足りなかったか?」

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/02(土) 10:39:49.93 ID:TksAyadx
テル「顔はやめて下さい!家臣たちにバレちゃう!」

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/02(土) 10:42:04.81 ID:IvlsXrMz
このスレ見てると輝元殿がダメ人間に見えてくる不思議

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/02(土) 10:56:13.24 ID:g4bm7aX/
>>546
自分の意見より優れた意見があれば即採用する良将なのにね

吉川広家は自らの判断で

2012年04月08日 21:30

557 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/04/08(日) 14:18:09.65 ID:9PU9FJyJ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5710.html このエピソードと関係がある逸話(だと思う。)

天下統一を果たした豊臣秀吉による慶長の役で朝鮮半島に渡った吉川広家は、加藤清正の籠る
蔚山城が約7万の明・朝鮮連合軍に包囲された際、毛利秀元や黒田長政らとともに救援に駆け付けた。そして、軍議で
総攻撃は翌日と定められていたにも拘らず、敵陣の動揺している様子を見て好機と捉え、自らの判断で出撃しようと考えた。
これを、元は毛利家の外交僧で、秀吉に取り立てられ大名となった安国寺恵瓊から

「勝手に出撃するなど軍法違反ですぞ!」

と制止されると、広家は

「兵法は武士のもの。坊主の指南は無用!」

と言い捨て、兵を進めて敵を撃退するきっかけを作ったという。



黒田のところに遣わされた吉川家臣から主君広家への書状

2011年12月30日 22:00

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/29(木) 19:30:06.71 ID:OTcdrYIC
長政で思い出した取るに足らない話なんだが
吉川家文書読んでて黒田さんちの長政の発言内容があまりにイメージ通りで吹いた。
黒田のところに遣わされた吉川家臣から主君広家への書状。

「急ぎ申し上げます。筑州(黒田長政)は昨晩この地に到着しました。供の衆は今朝帰りました。
 私がすぐに(広家の)ご宿所に行ったのですが、
 すでにそちらに下向されたと坊主が申しておりましたので、それをお伝えしたところ、
 『今少しお待ちなられ候はで、沙汰の限り』って言ってました。
 どうか早々にこちらにいらしてください。

 先日の条件について、半分以上片付きましたので、ご安心ください。
 大小のことは存じませんが、筑州が江戸で私に
 『広家へ知行取候てまいらせたるぞや』と言っておりましたので、
 恐れながら、おめでたく存じ奉ります。
 どちらにしても、こちらで取り急ぎご談合されるべきですので、
 できるだけ急いでください。(後略)恐惶謹言

   7月16日      末長良昧

 まだ少々ご気分が悪くとも、必ずこちらにいらしてください。
 (長政は)ゆうべご到着されましたが、今は忍んでいらっしゃいますので、
 話題にしたりなさらないように。以上」


「沙汰の限り!」と怒るとか、さすが短気なイメージがブレない人だ。


というかこのときの状況自体がものすごく気になるんですが。
長政が「筑州」で7月だから慶長6年以降なのは間違いなさそうなんだけど
お忍びで密会とか知行云々とか何の悪だくみ(?)してたんだ、この人たち。




531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/29(木) 19:50:11.08 ID:ELHGjKYe
徳川体制で生き残っていくために
色々気心の通じた者どうしで相談したいことがあったんじゃないの

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/29(木) 20:14:01.48 ID:SI0hf90D
広家に知行を取ってきたというから、
長政が幕府に運動して広家に知行が宛がわれるようにしたってことじゃない?

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 09:58:55.93 ID:qwDeVqhH
ところで長政のセリフまんま書いてあるのかな
諱って口に出して呼ぶこともあったのか?

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 10:22:03.77 ID:RKazZZ1c
本人がお前と俺の仲だから諱で呼び合おうといえばok

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 10:59:52.17 ID:qwDeVqhH
>>534
そっか、ありがとう
長政と広家は本当に仲よさそうだな
関ヶ原の時の広家も、徳川に内通したっていうより、
黒田父子にべったりだっただけなんじゃないのかと思えてきたw

花房助兵衛職之、友人への書状

2011年12月18日 22:01

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/18(日) 15:53:40.71 ID:2PhTy4Yv
主君、宇喜多秀家の怒りをかって殺されそうになった花房助兵衛職之は、
家康の仲裁でお預けとなった佐竹義宣の領地から、友人に手紙を送った。

「このあいだ御状をいただきましたが、片便につきお知らせが遅くなってしまいました。
 拙者は思いがけずこちら(常陸)に罷り下り、遠国に住むことになりました。
 罷り退くことになった事の次第はきっとお聞き及びでしょう。
 これ以上生きても仕方のない身ではありますが、是非もありません。
 しかしながら、上様が御慈悲で少々堪忍料を仰せ付けられ、かたじけなき次第です。
 
 ああ、今一度お目にかかりたい!(哀々今一度懸御目度念願迄候)
 御事が親しい仲と思し召されてご連絡をくださったのは本当にありがたい。
 できたら、隆景様にお取り成しをお頼みしたいと思っております。
 
 道三(曲直瀬玄朔、秀次事件で連座して佐竹に預けられた)もこちらに逗留しています。
 拙者が居住しているのはいかにも人通りの絶えた山中ですので、
 折につけ道三と行き来して、寂しく語り合っています。どうかお察しください。
 せがれ(職則)も連れてきており、一緒にいます。ご承知おきを。
 それではまた。恐惶謹言
 
  広家様へ      花房助兵衛尉入道 道恵より」(吉川家文書)

秀吉に悪態をつき、秀家に果敢に諫言し、後には家康にも噛み付いた助兵衛さんだって
虚しかったり人恋しかったり友への懐かしさに胸震わせることもあるんだね。

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/18(日) 16:24:06.14 ID:2PhTy4Yv
>>67の余談ですが。
助兵衛さんは黒田長政とも仲が良かったようで、
同文書を見る限りでも、長政から広家宛の自筆書状に
「花助兵と談合します。私のところでは人が多いから、夜に助兵のところに来てください」
てな感じで登場している。時期が不明なのが惜しい。
このメンツでいったい何の密談をしてたのか激しく気になる。
豊臣政権下で築かれた武将同士の横のつながりって面白そうだ。




69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/18(日) 16:48:56.73 ID:23WqZsF8
>67
また「広家様」か
名前を書くのさして珍しくないのか
それとも広家だけの現象なのか、どっちだ

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/18(日) 16:55:18.81 ID:PyQIR91i
>>69
珍しくないよ
口に出して呼ぶのは憚られるが
書状ならOKって感覚なのかな

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/18(日) 18:52:12.47 ID:7NMiqQFQ
諱って文書や書類用の呼び名なん?

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/18(日) 19:50:43.33 ID:xGSQNhVv
書状に諱を使うのは、現代でいう欧米でファーストネームを呼ぶような、親しみを込めた表現。
当然ある程度以上親しい人でないと、使うのははばかられるし、逆にある程度以上親しいのに
諱を使わないのは、ちょっと空々しいと取られる。

書状も出す人それぞれで、色々と空気を読んだ表現を使わないといけないのだ。


73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/18(日) 20:16:03.81 ID:8efod3Ub
広家って吉川広家の事か
>>68は助兵衛がまだ上方にいる時期って事だろうから1595年以前かな?
文禄と慶長の間くらい?

毛利輝元「まるで先祖伝来の重宝のように」

2011年12月08日 22:04

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/08(木) 16:51:29.41 ID:ClsVNs56
慶長8年(1603)、毛利輝元が江戸からの帰路、伏見より出した吉川広家への書状

『ご子息がいよいよご成人なされると聞きました。前よりも一段と利発に見えると、竹庵が聞かせてくれました。
心からお喜び申し上げます。藤七郎(秀就)にも私から伝えておきました。本当に吉事ですね。

先日頂いた書状に付けて、思いもよらず御酒2樽、それに加えてこちらでは珍しい野大根の漬物まで頂き、
ご厚志の至だと感じ入っております。

今私はとりわけて、これらを賞味しています。お酒は特にいいですね!
両方とも私の直ぐ側に置いて、日夜頂いています。
まるで先祖伝来の重宝のように、秘蔵しているのですよw』

(吉川家譜)

吉川広家に贈ってもらったお酒と漬物に、大いに喜ぶ毛利輝元という、
ちょっとほっこりするお話。





939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/08(木) 17:03:03.25 ID:QNTDHXVF
関が原後でも仲良さそうで良かった、実に良かった

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/08(木) 18:19:23.25 ID:8rP/6yQc
社会人としてのマナー

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/08(木) 18:38:46.57 ID:Yl/Jmt+7
吉川が冷遇されだしたのは関ヶ原後じゃなくて江戸期に入ってからだぞ
そのあとのお家騒動でぐだぐだになったんであって
関ヶ原でこじれたのではない

942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/08(木) 18:59:52.40 ID:tD6YN2m6
吉川が冷遇されたのって広家の代か?広家以後か?

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/08(木) 19:10:33.86 ID:ps204bLX
吉川冷遇は江戸後期、毛利宗家が毛利秀元系になってから。

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/08(木) 19:17:13.51 ID:92Ca0BMr
支藩が独立したいって言い出してからだよね、揉めだしたの

945 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/12/08(木) 23:19:13.29 ID:UZMJMXDq
広家の嫡男、広正の嫁は輝元の娘だし
萩藩の財政を握った益田元祥の嫁は元春の娘であり広家の姉妹だし
輝元の姉婿の吉見氏に養子に入ったのも広家の次男だし

なんだ、江戸初期はけっこう大事にされてんじゃん、吉川
ほっこりしたw

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 00:31:52.37 ID:jNZKzdb4
こういうのはあくまで政略結婚だろ。感情が入り込む余地がない
てか秀元系になってから軋轢が生じたってことは
裏を返せばその時代まで関ヶ原の因縁が根絶しなかったってことじゃないの

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 00:39:55.65 ID:iZwvPy1k
>>946
毛利宗家と吉川家との軋轢は江戸後期からであり、それも江戸期においてのいきさつが積もり積もった
面のほうが大きい。
さらに言えば関ヶ原後吉川広家と毛利秀元は完全に連携して輝元を支えており、そこに確執は
全く見られない。

さらに言えば、関ヶ原云々を言い出したのは幕末、親幕府的だった吉川家岩国藩に対し
本藩の反幕府過激派が罵倒として言い出したことであり、決して歴史的にそう言われたことではない。

過程をすっ飛ばして、結末から過去を類推してはいかんよ。

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 01:57:45.55 ID:smQJjfNe
相変わらずためになるスレだ

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 08:03:30.77 ID:VeOVHRRz
毛利家文書に、広家と秀元の仲を輝元が取り持ったときの書状とかがあるから、
確執がまったくなかったってわけでもないんだろうね
険悪な状態だったからこそ輝元がテコ入れしたんだろう
本人同士はどうあれ、少なくとも家来たちの衝突はあったみたいだ

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 10:42:53.67 ID:izhjoEs0
>>947
なんで毛利本家は岩国藩だけ藩として幕府に届け出なかったの?

徳山藩、長府藩の藩祖よりも若干家格が下だからかな?

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 10:54:54.18 ID:IP4dQZ5g
>>950
まあ、いたって正当な理由ではあるな。
吉川広家は『吉川』元春の子供であって毛利家の子供じゃないしな。

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 11:00:48.84 ID:5HCtQl0O
逆に言うと、なぜ元氏は毛利姓になったんだろ?

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 11:21:02.24 ID:iZwvPy1k
>>950
岩国だけじゃないぞ?長府や下松もあくまで本藩支配下の支藩としているわけで。

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 19:17:26.85 ID:+urX3RXs
>>953
いや、長府や徳山は「支藩」にはなってるわけでしょ?
岩国はなってないので、本藩の家老の領地とかと同じ扱い。

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 19:27:21.21 ID:iZwvPy1k
>>959
この通りだと思う

> 元々輝元の養嗣子でありながら、輝元の嫡子誕生によって豊臣政権から分知を認められて大名としての
> 資格を得ており、宗家継承権も有していた秀元の長府藩や、輝元の実子である毛利就隆の徳山藩の両藩と
> 輝元の従兄弟である広家との血縁の親疎を考えた場合、輝元の子を祖とする長府・徳山と
> 庶家の1つでしかない岩国の間に処遇が違いが発生する余地はあり、岩国藩吉川家が冷遇されたというより
> 長府藩毛利家の家格が上昇したと見た方が適切との見方もある
>
> (参照:脇正典「萩藩成立期における両川体制について」(藤野保先生還暦記念会編『近世日本の政治と外交』(1993年、雄山閣
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%9B%BD%E8%97%A9

吉川広家宛・福島正則書状

2011年11月10日 22:01

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/09(水) 23:59:57.58 ID:fNLjKQzd
福島正則の自筆の手紙が吉川家文書に収録されていたので、拙訳を投下。
どうやら正則が吉川広家を朝食に招待し、来てくれた広家に対しての礼状らしい。

「ひろいえ様へ     福左太(福島左衛門太夫の略)より

 特に何もないのに来てくださり、ありがとうございました。
 今朝おいでいただいて、ゆっくりお話ができ、嬉しく思います。
 これからお礼にうかがおうと思っていましたが、
 先立って、お礼のために重ねておいでいただき、この身に余るお取扱い、
 書中ではとても感謝しきれません。
 もっとも、今からそちらに参って御礼を申し述べたいところですが、
 少々来客があるので、先んじてこの書状で申し入れておきます。
 また参上してお礼を申します。

 十一月八日     正則」

という内容が、ほぼ ひ ら が な で綴られていた。

正則は幼少から武士としての教育を受けていたわけではないので、
一般的な漢文調の手紙は書けなかったようだ。
しかしこうして、ひらがなで堂々と書状を出している。
もちろん公的な挨拶状などは祐筆に任せていたようで、そっちは漢文調だった。

そこでもう一つ注目したいのが、宛名だ。
祐筆の手による書状は「吉蔵(吉川蔵人の略)様」とスタンダードな表現なのに対し、
正則自筆の宛名は「ひろいえ様」。
二人の親しさと、正則の人懐こさがうかがわれる。

それにつけても市松かわいい。




451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 00:09:37.32 ID:e5K0BRyY
私的な手紙って武将の素顔を想像できてちょっと嬉しいよね
何年頃の手紙なんだろう?

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 00:32:31.58 ID:x3E77WCf
官位名じゃなくてひろいえと書く所が、親密さを表しているな

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 00:33:12.27 ID:qijdJ/5F
残念ながら年は不詳。
広家が家督して経言から改名した天正15年(1587年)以降、というくらいしかワカランです。

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 01:08:05.99 ID:UjE+ztyZ
しかし、かなり気を使って書いてるようにも見えるんだよな
来てくれた事にお礼し、お礼に行けない理由を説明し、最後に必ずお礼にいくと改めて約束してる
それに、あえて平仮名の直筆ってとこにも誠意を感じるね
平仮名しか書けないと先方に分かったら恥ずかしいし、漢文が正式な書式なんだから代筆でもおかしくない
そこを曲げて直筆ってのは真剣な気持ちが伝わってくる
うーむ、この細かい気の配りよう、市松とは呼べないな

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 01:20:16.47 ID:HFUaTEBK
2人同い年なんやね

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 08:39:14.51 ID:bkZm0h5n
昔はなにもなくてもお手紙書くのがあたり前だったらしいからね~


457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 11:05:09.98 ID:edIE5KZ5
私的な書状は後世の人間が読んでも楽しいね。
「〇〇殿へ ××の件、詳しくは△△(使者の名前)から申し上げます」
は史料として重要でも味気なくて。


458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 11:16:35.37 ID:0Tats9ld
公式な文面じゃないからということで他人の悪口や失敗談を平気で書いてあったりとか
大名間の交友関係が想像できたりするよな

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 11:47:32.91 ID:EDl44vrl
三成さんはこういう付き合いをあんまりしなかったから嫌われたんかねえ

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 12:18:50.36 ID:93isZFKi
いまだってとりとめもないことで友達や恋人と電話やメールするじゃろうが

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 13:00:44.94 ID:EDl44vrl
広家さんと市松は恋人同士、ちぃ覚えた

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 14:13:50.13 ID:4KBaWTkO
関ヶ原後に安芸に入った正則が対毛利の最前線として築いた巨城・亀居城は
広家の岩国とは峠を隔てた位置
そういう時代とは言え過酷だな

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 14:23:21.55 ID:UJyW/bsg
そのへん割とさばけてるよな、この時代の人
個人的な仲良しと政治的な対立は別というか

それにつけても可愛いな、市松。

黒田官兵衛の「こりゃねーよ」

2011年10月31日 22:01

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/31(月) 08:01:33.05 ID:iv4OAaW2
山本勘助じゃないが名軍師つながりで(?)黒田官兵衛の「こりゃねーよ」って話。

黒田官兵衛といえば毛利家中でも「黒官殿」の略称で親しまれ、
毛利の家臣たちをキリシタンに引きずり込むほどの影響力を誇った。
それは官兵衛が毛利家と秀吉との間でこまめに働いて信用を勝ち得たからこそで、
特に吉川広家とは文通したり、広家が秀吉の養女(宇喜多秀家の実姉)を娶る際には
嫁入り行列に付き添って新庄にしばらく滞在するなど、それは親しく付き合っていたようだ。
なぜ官兵衛がここまでしたかというと、こんなわけがあったらしい。

「黒田は先年より秀吉公へ吉川家の事取り次ぎ給ふのみならず、
 経言(広家)世に優れて容貌美麗に御座しければ、断袖分桃(男色のこと)の好み深かりける故、
 世に親切に思い給ひ、万事の後見を作し給ひけり」

出典は「陰徳太平記」なので、吉川のことについては詳しい。
ひょっとしたら吉川家中では「黒官殿はウチの殿様に懸想してる」という認識だったのかも。




638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/31(月) 09:53:40.45 ID:BsP+PjGo
>>637
普通は「自分の接待の前後に死んだ元春と吉川家に負い目がある」とか
考えてやるべきなんじゃないのかw

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/31(月) 13:35:30.72 ID:PpWKy/eX
あたし男だけど分桃って、とてもポエミィで素晴らしい表現だと思いますわ。

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/31(月) 15:02:57.36 ID:Vl8I6ITL
>>639
とある皇帝が愛人(男)が食べてる桃を物欲しそうに見てたら「あげる」って渡された微笑ましい話だね
 
 
後に寵愛が無くなったら「食いかけの物を出した!」って死刑にされたけど

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/31(月) 15:06:42.28 ID:oUsVU9ux
断袖はあれだっけ
床を共にして帰る時間になったんだけど、腕枕して寝ている相手を起こすのがしのびないので
袖を斬って帰ったって話からだっけか

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/31(月) 15:21:04.82 ID:3WmoIW/K
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2432.html
同じ陰徳太平記でも、こっちでは断袖の交わりではなく断金の交わりと、普通の友情に

それはそうと、TERUの桃を三成が拒絶したのは誤解したからではないよな

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/31(月) 15:23:29.44 ID:oUsVU9ux
どうでもいいけど、陰徳ってタイトルがまた何か色々凄いね

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/31(月) 15:33:29.20 ID:3WmoIW/K
雲陽軍実記や甲陽軍鑑は、
南=陽(山の場合、河の場合は逆)という概念があって、それから雅称として
地名に陽をつけるようになった、とか前に
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5419.html
「陰徳」は尼子の「雲陽軍実記」の「陽」に対比させてつけられたのかも、とも

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/31(月) 15:35:24.08 ID:oUsVU9ux
>>644
なるほど 陽って文字よく見かけるなと思ったらそういう意味があったのか
タイトルにも拘りがあるんだね

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/31(月) 15:36:04.12 ID:3WmoIW/K
と、コメント欄に「陽」は雅称じゃなくて都市の意味もある、と書かれていたのか

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/31(月) 16:04:45.63 ID:RmNCFHua
山陰の尼子が陽で、山陽の毛利が陰なのか

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/31(月) 17:55:27.72 ID:Jg8NT6SS
陰徳は、意識せずに積む徳(陰に隠れた徳)という意味だが。
陰徳太平記は、もともと陰徳記を元にした本だったよね。

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/31(月) 21:06:22.35 ID:1usud8Vo
富士山は駿河側が表ってことか

664 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/11/01(火) 02:15:40.13 ID:sd/y8fud
>>637
広家に容姿端麗説があったとは

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/01(火) 12:23:53.64 ID:d9V6vwVw
>>664
母親はブスだと書いておきながら>陰徳太平記

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/01(火) 12:26:55.47 ID:mQ3z6UBT
肖像画の広家は東国原元知事に似た面長だよな

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/01(火) 12:35:55.18 ID:inc8dMqX
肖像画といえば、道雪さんの眼力は初見びびったな
夜中に見るもんじゃなかった

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/01(火) 14:01:12.93 ID:/nfSriOv
>>671
叔母が絶世の美女って話なのに…
疱瘡でアバタだらけになったんかね?

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/01(火) 14:11:56.57 ID:FGC7oL1c
女性の美醜の記述に関しては、あんまり信じられないなあ
政治的思惑とか、個人的恨みとか、いろいろと絡んでるだろうし

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/01(火) 14:19:59.15 ID:inc8dMqX
お市の方は、北ノ庄城落城の時
30代半ばなのに、まるで20代のような若々しさだったって記述あるようで
それもまた戦国一の美女と言われる要因の一つだったのかな


677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/01(火) 16:52:59.12 ID:j/og6hno
きっとお市の方はいいものをたんまり食ってて、ストレスの無い生活をしてたんだろう
あんなに辛酸をなめた人生なのだから普通は人並み以上に老けこむはず