大友宗麟の日向出陣に

2016年10月30日 20:58

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/29(土) 20:13:58.54 ID:D/qq4jRl
天正5年(1577)、日向国伊東三位入道(義祐)は、薩摩の島津義久に打ち負け国を追われ、
豊後の大友宗麟を頼った、宗麟はこれを受け入れ、重臣を呼び出し、命じた
「伊東入道のため日向に出陣する。直ぐに国々へ陣触れを出すように。」

これを聞いた重臣の一人、斎藤重実は即座に申し上げた
「御出陣なされるという事は御尤もに思います。ですが、一旦下がって愚案を巡らして見るに、
これまで毛利陸奥守(元就)が度々我らに軍勢を差し寄越しましたが、遂に一度も利を得られず、
これについて子息(原文ママ)の右馬頭輝元は骨髄に思い入り、当家の盛衰に常に注目しています。

そのような中で島津義久と取り合いが起こり、御合戦で他に対処できない状況になれば、輝元が
豊前筑前に対し手を出すこと、疑いありません。そもそもこの両国は一度元就に内通した前例が
あるのです。輝元が旗を出せば、前々と同じようにするでしょう。

龍造寺隆信に関しても、彼は手の裏を簡単に返す、表裏者なのですから、我らが輝元、義久と
戦う状況になれば、彼も手を出してくること疑いありません。隆信一人でも、3万余りの軍勢を
有しているのですから、簡単に崩すことは出来ません。

それといいこれといい、今度の御合戦、大友家が直接関与すべき事ではありません。
ともかく、先ずは時をお待ちに成るべきです。」

そう出陣に反対したが、宗麟は承知無く、「急ぎ国々に触れを出し、各々支度をさせるように。」と
命じたため、斎藤も畏まり、御前を罷り立った。
その後、大友家老中である吉弘鎮信の元へ立ち寄り、終日日向出陣の事について相談し、様々に物語
した中で、吉弘鎮信はこう言った

「誠に、私ごときでは申しにくい事では有るが、今度の御弓箭は御大事な事だと考えます。
近年、大友家の御仕置は一つとして良き事がなく、御領分の六ヶ国の諸人は疲弊しています。それなのに、
何の好で一命を捨てて戦かおうとするでしょうか。

宗麟公は田原紹忍という大佞人を尊敬し、国家の仕置を彼に仰せ付けたため、御加恩は諸人を越え、
己が威勢のみを楽しみ、宗麟公に誤りがあっても、御異見など申し上げては御意に背き身のために
成らないことを痛み、とにかく御意をさえ取り請けていれば我が身長久であると心得、上にへつらい
下を掠め、あまつさえ宗麟公をたぶらかし、切支丹の敵であると、国々の大社伽藍を焼き払い、
或いは打ち崩し、咎なき出家、社人を殺されたこと、昔も悪行の例は多いと言えども、このような事は
終に承った事がありません。

今度の御陣は、仏神を破却された天罰に寄っても、お負けになってしまうでしょう。もし立花道雪が
旗本に居れば、そのように悪しきことばかりはないのでしょうが、現在毛利の押さえのために、境である
筑前に遣わされています。この事についても、宗麟公の御内意を知らない人は、当然の人事であると
考えているようです。ですが武勇に関して、道雪に劣らぬ人は、斎藤鎮実を始めとして、他の者を
遣わしても不足はありません、あれは道雪が近くにいることを、宗麟公が嫌がったため遣わしたのです。

吉岡宗観、臼杵越中が生きている間はお仕置きも良かったのに、両人が死んだ後は田原紹忍に仕置を仰せ付け、
国家は無道に成り、当家滅却の時期到来かと考えています。

島津中務(家久)が籠もる高城を攻めている間は、諸軍は戦うふりもするでしょうが、城中難儀に及べば、
義久の大軍によって後詰めがあることでしょう。その時、当家六ヶ国の諸軍の旗色は心もとないものです。
あなた方や私は、ただ身の恥を悲しみ討ち死にするより他ないでしょう。」

これを聞いて斎藤は
「仰せの通り、今度の出陣は、義統公を始めとして当然相談のあるべき内容ですから、様々に申し上げたのだが
ご承知無く、誠にご運の末であるのかも知れない。こんな事を言えば、島津に怖気づいているように思われるかも
しれないが、弓矢の道において島津に負けるとは夢々思わない。さりながら宗麟公が天理に背いて居る。
その咎から逃れることが出来るだろうか。
その家が滅ぶべき前兆として、様々な事が乱れるものなのだな。」
そう、涙を流して悔やんだという。

(大友記)

大友宗麟の日向出陣に対しての、大友家重臣たちの反応である。



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