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「一に吉良、二に荒川、三に今川、四に一色」と申し候

2021年06月30日 18:11

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/30(水) 02:26:44.47 ID:5rhC7FXr
一、清康公(松平清康)は享禄2年、吉良へ御働きになり、小嶋の城主・高部屋ホコノスケを
  御攻めになって、城主は淵に飛び入り水をくぐり、落合より没落した。この時、八面荒川
  東城の持広(吉良持広)が降参あって、持広を妹婿になさり、吉良庄御平属す。

  後に持広は広忠(松平広忠)の加冠となり“広”の字を賜る。持広は子無くして義照(吉良
  義安)に譲り、八面の荒川甲斐守義篤(義広。吉良持清の次男)は家康公の妹婿に遊ばさ
  れる。

一、荒川殿の御屋敷は、山田市郎左衛門の居り申す所なり。本城に三の丸の堀跡が見えている。

  荒川と申すは「一に吉良、二に荒川、三に今川、四に一色」と申し候。

  また荒川大夫殿と申し、1千3百石を取り申され、屋敷あり。荒川の家来は中神藤左衛門、
  鳥居、岡田、加藤、これら13人が今川の桶狭間の合戦で戦死した。

  今の尾州の荒川小次郎がこの子孫である。

  ――『三河東泉記』



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