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「名残常盤記」続き

2021年12月04日 16:36

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/03(金) 23:13:02.08 ID:pSaRneIZ
名残常盤記」続き
(常盤は頼康の寵愛を受け懐妊するが、ほかの側室たちに妬まれた。
また、世田谷吉良家譜代の内海掃部という美男の侍は、風紀の乱れを注意したことで玉の井の婢女(はしため)の恨みを買っていた。
頼康が主君かつ親族(頼康の正妻は北条氏康の姉妹とされる)の北条氏康の見舞いのため小田原に出向いた際、
途中の藤沢の宿において、掃部のたもとから常盤の手跡の恋文が挟まれた袱紗(ふくさ)がでてきた。
目をかけていた家臣と常盤との密通に激怒した頼康は内海一族を成敗し、常盤の殺害も命じた。
頼康の姉の淀殿は常盤の潔白を信じ「せめて子が産まれるまでは」と止めるが頼康が聞き入れないため、ひそかに常盤を逃そうとした。
しかし夜道を逃げる常盤に頼康の追手がおいついたため常盤は自害。享年十九、胎内の子は八ヶ月であった。)

さても御所には一旦憤り深く思し召し、情けなくも計らいたまえども、妹背の契り、かれこれ朝夕のおゆかしく思い給いて、ひたすら鬱々として、おものをも仰せられず。
人目忍び入り、御涙せきあえたまわず、御所しずまりかえり、さびしきおりから、文月九日の朝より、不思議や御殿震動することおびただしく、
山崎の辺より白鷺むらがり、なきさけぶことかまびすしく、そもおそろし。
御所にも御驚きましまして、諸山の貴僧高僧を集めて、さまざまお祈りありけるところ、
ふしぎや玉の井の婢女、にわかに狂乱馳せめぐり、しばらくありて口走る。
「我はこれ鷺の宮の神霊なり。汝ら三寸の舌をもって、あやりなき人を殺し、殊に若君を失いたてまつること、天の咎め逃れ難し。
常盤の方にはつゆいささか、曇りなき身を袱紗より、事発端し内海父子を滅ぼせしは不届きとやいわん。
(以下、側室と玉の井の婢女が共謀し、常盤に仕えていた右筆をだまして恋文を書かせ、藤沢宿の遊女をしていた婢女の妹に命じ、内海掃部が居眠りした隙に袖の中に袱紗を忍ばせたことをあばき)
汝らいちいち責め殺さで置くべきか」とはしりめぐりてどうとふし、
また起き上がり、掃部が声にてお恨み数々申し上ぐ。書きたるものを取り出し、御所様へ投げつけたてまつる。
出仕の銘々、魂きえ寄り添い、介抱してければ、物の怪去って静かなり。書きたるものを御覧ずれば
「おしおきは いろはのうちの下の文字」この心は、とがなくてしす、という事なるべし。
御所にもこのころの、奇怪さまざまなり。うち、物の怪の申したる事恐ろしく、御憤りに引きかえて、人々の思惑、淀殿の毎度の御異見おもちいなく、罪なき人を死罪せし、
我が身ひとつにふるなみだ、御機嫌あしく、近習外様、御叱りを、こうむらざる人もなし。

(その後、頼康は内海掃部と常盤の親族に詫びをし、事件に関わった女房たち十三人を水責めにして全てを白状させ、若林村で残らず成敗した。
胎児のまま死亡した若君のために一社を建立し、馬引沢中郷神戸(ごうど)若宮八幡として崇めたてまつり、
常盤の供養として法華経千部を書写し弁財天を勧請した)

さても修行者の空山(物語の聞き手)は、夢うつつとも幻に、ながなが由来を上臈(語り手、仙女と見紛う美女)の、御物語を聞きおりしが、
遠寺の鐘の告げわたり、日も西山に傾きて、黄昏しらす鳥の声。
上臈見ればましまさず、いかにいかにと我ながら不思議に覚え、
「おもかげは 程なく消えて 跡にただ 田の面に残る 草の葉の露」
と古歌を吟じて、行方は諸国修行の道と。
「とやかくと 書集めたる もしお草 いつわりばかり 世には残して」

名残常盤記 終

(鈴木堅次郎「世田谷城 名残常盤記」から鈴木氏が四写本を用いてまとめたものから抜粋・要約)

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/04(土) 00:04:07.31 ID:O9A6HOPb
なお常盤が殺された理由については
頼康の正室が北条氏のため、跡取りになるような男児が産まれるのを防ぐため、という説も
(黒田基樹「北条氏康の家臣団」によれば、
頼康には太郎・次郎・辰房丸という男児がいて、太郎と次郎は北条氏が嫁いだ時にはすでに生まれていたようだから成り立たないが)
結局のところ男児が全員死んだか、北条の血を引く辰房丸だけ死んだかで適当な後継がいなかったため
頼康は北条氏康の指定した氏朝(遠江今川嫡流の堀越六郎の子で母親は氏康妹の山木大方、正室は北条玄庵の娘)を養子に迎え、翌年病死。
この氏朝の代で小田原征伐が起き世田谷城から退去、その後は家康に従う。
https://i.imgur.com/SkH8d9K.jpg
「へうげもの」にも氏朝は少し出てくる



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ただちに名付けて「鷺草」と

2021年12月03日 16:45

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/02(木) 21:16:21.72 ID:WukBVQQP
Yahooニュースで数日前に世田谷の常盤姫のことが出ていたので
「名残常盤記」から常盤姫が世田谷吉良氏の吉良頼康に呼ばるまでの伝説を

頼康卿しばらく遊猟を好ませ給い、折節冬の時雨空、深雪積もりし曙に、御鷹野狩を催され、
深沢、野良田、等々力の辺、駒にまかせてあわしける所に、奥沢の深田にして、早くも御拳離されて、一羽の鷺をあわせたまう。
大平出羽守が境より出羽が屋敷へ御鷹は、鷺をつかんで落ちたりけり。
御よろこびの余り、大樹(頼康)みずからこれをおさえられ、えたる鷺を御覧あるに、短尺(たんざく)つけてあざやかに
「狩人の けふはゆるさん 白鷺の しらじらし夜の 雪のあけぼの」
とありければ、頼康卿さらに御不審たまわず、かの短尺をとくと御覧ずるに、いとあでやかなる筆の跡、いずちにいかなるものの婦の、書きしものと御心深う思い入る。
まことに絵にかける女に御心まどわし、おもいこがれておわします。
御近習に候うしたる橋本天王丸を密かに召して、こころを語り、
「近在をめぐりて、鷺につけたる短尺の、この筆主をたずねよ」と、仰せありければ、
天王丸かしこまり、「君言汗の如し」と古語を思いつつ、これよりもすぐに、行方定めぬ雪の朝、名を白鷺の跡をしたうて、天王丸が身の難儀なり。
(天王丸が鷺に短尺をつけた人物を探し、松原、経堂、北沢、船橋、八幡山、曾子我谷(祖師谷)、喜多見、用賀、鎌田、玉川、諏訪神社を、かけ言葉を使って尋ねていく描写あり)
(諏訪明神のご利益が)上野毛(かみのけ)たちておそろしく、むねはとどろく等々力の、村に流るる小川あり。
いずかたよりして若侍、会釈もなしにかけ来たり。
「我ら主君の秘蔵せし一羽の鷺、雪の旦(あした)に籠抜けして、行方しれず」とたずねける。
(天王丸が主君の頼康が鷺の持ち主を探していることを若侍に話し、二人で互いに喜び合う。
天王丸は頼康の元に戻り、短尺を書いた人物が大平出羽守の娘の常盤であると告げる)
頼康「鷺をこぶしにてとらせしときのかの一首、何ゆえ鷺へ付けてありけるぞ」
天王丸「父出羽、この姫を、あまりにいたわりいとおしみ、数多の鳥を飼い置きしに、
おりふし夜雪つもり、強くいためるその気色、自ら籠を押しひらき、かの短尺を結びつけ、放したまうと承る」
(頼康は年来思い焦がれていた常盤が短尺の筆者と知ったため、頼康の姉の淀殿を大平出羽守のところにつかわし宮仕をすすめ、
出羽守もよろこんで娘常盤を頼康の元に送り出した)
さてもこの度、常盤の君、御入殿なりしおこりこそ、ひとえに雪の白鷺の、わたせる橋の縁とて、折々ごとの御酒宴にも、
頼康「一羽の鷺を得しよりも、その因縁にその方を、宮仕うは我も満足、せめてその鷺とどめられしあとを、見まくほしや」
とのたまえば、ころしも水無月十五日
頼康「先頃鷹を合わせ、鷺をとどめし方はここらぞ」と、御馬を立たせ御覧ずるに、かしこもここも野も芝原、
さもうつくしく皆白妙に咲く花の、草花なれども見事さは、何にたとてん初深雪、
御所をはじめ、侍従まで、不思議と見る目、花のなりは、そのままに鷺の舞い立ちし、形に寸分違わねば、
ただちに名付けて「鷺草」と、末の世までも呼ばわりて、奥沢の野にありとかや。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1121.html
世田谷の鷺草・哀しい話

※PDF注意
https://www.city.setagaya.lg.jp/mokuji/sumai/010/002/002/d00026703_d/fil/26703_2.pdf
世田谷区が紹介する「サギソウ伝説」


のように世田谷の鷺草伝説はいろいろありますが、この伝説も有名らしいので