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那古野山三郎の弟のこと

2019年08月15日 17:13

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/15(木) 17:00:58.55 ID:u77QSgOW
那古野山三郎の弟のこと

「因幡殿若死 宗因殿おと子にてこれ有る故 遺言にて山三郎殿子分に成され候」

那古野蔵人(宗因)は父那古野因幡守(宗慶)の遺言に従い
急死した兄那古野山三郎の子として養育され
森忠政からはじめ千石賜り、那古野氏の家督を継いだ。

--『各務氏覚書』

父、雲甫宗慶大居士(那古野因幡守、)は織田信次家の女婿となり後年織田信包に仕えた
慶長十年十二月四日没
母、養雲院殿は後年大徳寺170世清巌宗渭の育母であった
寛永三年二月五日没

--『名越氏先宗牌名』

家督に関して那古野因幡守の遺言という経緯があったという。



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三人は因幡守家の従縁です

2018年10月19日 21:45

淀殿   
375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/19(金) 04:44:55.46 ID:9DVEMnqs
噂が独り歩きして邪知淫乱とか密通とか不義の子とかボロクソに書かれている淀殿だが
ttp://uploader.skr.jp/src/up10490.jpg 
up10490.jpg

那古野氏側にも庶民の噂話とはちょっと違う淀殿の記録が伝わっている


「浅井備前守長政室信長公の御妹とも因幡守は従弟也
京極若狭守忠高若狭小浜少将の母公浄光院二女
秀忠公御台宗源院様三女
秀頼公の母公淀殿一女
此御三人因繙守は筋違の従弟也」

浅井長政に嫁いだお市の方と因幡守は従兄弟です
故に京極家に嫁いだ浅井氏二女
徳川秀忠に嫁いだ三女
豊臣秀頼の母一女淀殿
三人は因幡守家の従縁です
(先代実録)(岡山県史)


那古野氏は母方が小谷落城時にお市の方達を庇護した織田信次の娘(孫)でお市の方と従姉妹という縁もあり
後に豊臣氏から手厚い庇護もあり二女の智勝院殿は森氏に、四女の大林院殿は各務氏に嫁いだ。


*読売次掲載は松の丸殿(京極竜子)と那古野山三の艶書(不倫)特集



大阪が滅びたのは

2014年10月18日 17:24

淀殿   
546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/17(金) 19:20:43.94 ID:xGKd6YAm
豊臣秀頼は秀吉の実子ではない、と密かに言う者がある。これは秀頼が生まれた頃、
占卜に妙を得た法師があって、その事を言い始めたそうだ。
その内容は、淀殿が大野修理と密通して秀頼を産んだとされる。
それは秀吉の死後、淀殿は荒淫となり、また大野修理も邪智淫乱、かつ容貌も美しかったためであったという。

また名古屋山三郎が美男であったため、淀殿は彼に思いを懸け、不義のことがあったともいう。

大阪が滅びたのは、ひとえに淀殿の不正から起こったことなのである。

(明良洪範)




547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 07:25:14.16 ID:l4SPivIB
(週刊実話)

みたいなネタだよなこういうのってw

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 09:54:56.41 ID:CwKUNg21
なぜか突然に名古屋山三郎まで淀君とヒャッハーした噂に??

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 10:29:09.74 ID:xEZK3GkH
そりゃとてつもないイケメンで当人も遊び人だから

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 14:26:02.95 ID:ptRl+AVr
いきり立ったマラを軸に大車輪を回せたらしいな

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 14:36:12.26 ID:2Og4xpmO
森家で や ら な い か ?

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 14:54:43.01 ID:X8Hzw79J
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4981.html
その原型になった話が前に投稿されてた

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 18:35:28.01 ID:3Od1geXV
>>550
それなんて嫪毐?

文禄4年のスキャンダル

2010年12月23日 00:00

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/22(水) 00:44:16 ID:t113YYki
某事件で降板した歌舞伎役者さんが本来やるはずだった人物のスキャンダル

文禄4年(1595年)頃にあるスキャンダルが大坂中の民に知れ渡った。

ある一行が道中、秀吉側室が疲れたので茶屋にて休憩するに至ったが、無論中にはお付の侍女らしか
居らず、周りには太閤から信頼のおける者が数名警護にあたっており出入り口を通れた者は
門番の厳しいチェックを受けた者で、実際に通る事が許されたのも身分ある女性だけだったが
名古屋山三郎が女装してあっさり入って暫くのち出てきたが為に不義密通疑惑の大騒ぎになる。

この出来事に関わったと言われている者たちは誰も死罪等を言い渡されておらず
大抵の者が処分がない事から、山三郎が行き付けの茶屋で先客として既に居た所を偶然居合わせ
太閤殿下の側室だからと云って"すぐ出て行けとは横暴である"と断り、のんびりして出てきた場を
たまたま野次馬に目撃され民草たちが大げさに話を広げたと云う話であるが山三郎はこの直後、
帝の直轄地として太閤と云えども手出しのし辛い四条に隠れた事や、この時の門番を任されて
いたいう太閤秀吉から信頼の厚い馬廻衆、小沢彦八郎と云う若衆が職を奪われている。

この事件の翌年、慶長元年(1596年)から約三年もの間、舞太夫として太閤に招かれたのは
村山又八ら狂言師が伏見に招かれ太閤の前に狂言尽を為す”と"事始"などに記録されてる通り
山三郎本人ではなく、山三郎の直弟子達が代わりに太閤に贔屓されるに至っている事も
噂話に変に尾ひれがついてしまったと云われる。(村山又八は京芝居の祖と云われる人物)

更に翌年、慶長元年(1597年)には浪人の身で各地放浪をしていた小沢彦八郎が三十人程いた
森忠政側近衆の一員として仕官するに至り、後に山三郎が森家中に加わった際に
山三郎の末妹を娶る事を森忠政から許され、森家中でそれなりの地位となった事や
山三郎が出家した事がこの噂話に変な真実味を加えたのではないかと言われている。

実際には、このスキャンダルが流れた時期に太閤秀吉は山三郎の妹が森家へ輿入れする際
自身の結婚を山三郎と新婦の父に祝ってもらった事を諸将によく自慢しており亡き弟
秀長に代わり豊臣、名古屋の両家を代表して嫁ぎ先の森家へ名刀"鎌倉一文字"と
祝いの書状を送っている事から両者の仲はむしろ親密で山三郎が一時的に大阪から
遠ざかったという事実だけで噂が独り歩きしていって収拾がつかなくなっていった次第である。

この大坂スキャンダルは民草に目撃された雑説として知れ渡っていた事から江戸期に
なっても調べ上げる者が多く、この謎の側室が誰であったかを淀君と主張する
"近世奇跡考""嬉遊笑覧""塩尻"を始め、松の丸殿と主張する"泰平漫録""梅屋日記"など
側室が誰であったのか以外はどの書物からも時期、時間、場所等が一致しており
"異本大阪物語"に至っては、御丁寧にこと細やかに逢引方法が書かれている。

が、こんな下地のあるネタが淀殿バッシングの激しい徳川天下の時代で利用されないはずが無く
戦国期にはこの側室が誰か判らない事が民草の想像を駆り立て噂が広がったが、
江戸期にはこの女性を完全に淀殿と断定し、山三郎は弟子の村山又八の息子らが江戸に
歌舞伎座を起した為に現代でも歌舞伎直系の祖とされているが、恰も"歌舞伎役者"名古屋山三郎
戦国の時代に存在したかのように脚色され、歌舞伎発祥以前に淀殿が若い歌舞伎役者連れ込んで
浮気をしていたと云うあべこべ話が成立してしまい、この偶然が重なっただけかも知れない
大阪での出来事は真偽はともかく、最終的に淀殿の不義密通説の土台として定着し、
時期を変え、相手を変え、秀頼の出生まで疑われることに大いに貢献する事になった・・・。

ただの噂が原型を留めずに変わっていく悪い話




120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/22(水) 01:07:56 ID:w0lRq0It
ab蔵もこの時代のかぶき者と比べれば可愛い方だなw

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/22(水) 01:14:21 ID:kxcv72cu
山三郎はハッタリじゃなくて喧嘩がマジ強いAB蔵ってイメージ

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/22(水) 23:39:35 ID:7IbjQlmt
歌舞伎役者と~~~ってな話しは、江島生島事件とかそんなネタがあったような気がしたけど板違いかw