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ただ慎重を期すために

2021年11月13日 16:36

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/13(土) 15:51:20.18 ID:Yu5pwVdZ
名将言行録に、京都所司代の勝重が重昌と兄の重宗とに対しある訴訟の是非について答えよと問う場面がある。
重昌はその場で返答したが重宗は1日の猶予を求めたうえ、翌日に弟と同じ結論を答えた。
周りのものたちは重昌の方が器量が上だと評価したが、父の勝重は、重宗は重昌同様に結論を早く出していた、ただ慎重を期すためにあのような振る舞いをしただけであり、重宗のほうが器量が上であると評したという。

難題は1日寝かせるのがいいらしい。
教訓、結論急ぐと死ぬ。



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光秀のその明鑑

2020年06月25日 17:01

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/25(木) 13:51:19.37 ID:zIRpi3LD
明智光秀が未だ十万石ばかりの頃、堀辺兵太という浪人が有り、荷俵を背負って現れ、「千石賜らんや」
と言った。光秀はこれを聞き、彼に料理などを出すよう申し付け、その間に密かに彼の荷俵を開かせて
みると、中には長身の刀槍が、いかにも見事に研ぎたて入れ置かれていた。光秀はこれを見て
「面白き志の侍なり。」
と言い、そして望みに任せて千石を与え召し抱えた。

その後、彼は数度の武功があり、丹波にて光秀が負け戦の時、堀辺は一番に取って返し討ち死にした。
人々は光秀のその明鑑に服した。

名将言行録



五重の天守を建てられ然るべし

2020年06月24日 18:00

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/24(水) 05:42:21.15 ID:HdBIPCnD
織田信長が安土に城を築く時、明智光秀に意見を問うた。光秀は里見義弘、大内義興等の天守の事を申し、
「当御城の義は天下を知ろしめすべき御城なれば、五常五行を表し、五重の天守を建てられ然るべし」と、
故実などを委細に申すと、信長は大いに喜び、光秀を奉行として天守を建てられた。

名将言行録

里見義弘や大内義興に天守を建てたという話があったみたいですね。



148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/25(木) 15:01:34.87 ID:Dcg4FVjg
安房国館山が三層の天守、周防国山口が四層閣らしいぞ

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/25(木) 15:10:40.60 ID:Dcg4FVjg
ただし館山は義頼、義康が築城したらしいので創作くさいね

光秀は寺跡ばかりに心を入れたる

2020年06月23日 17:15

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/23(火) 14:37:15.71 ID:7CjeOt33
朝倉義景明智光秀に問うて曰く

「昔は要害のために山に城を築いたが、近年は鉄砲が出来た事で、何れの場所が居城に然るべしと考えるか。
詳しく語り聞かすべし。」

これに光秀は
「御意の通り、高所に登り大銃を撃ちかけます故、要害から二十余町も外の山は問題は有りませんが、
ただし兵法に『国を治め家を安んじ、人を得る也』と申します。また軍歌に『人は城、人は石垣、人は堀
情けは味方怨は大敵』とあることも考えれば、あながち城郭に頼り切るべきではありません。

但し、当国の事について思案を廻らせると、平城にては北庄、山城であれば長泉寺が、然るべき城地であると
考えます。」

義景が重ねて問うた
「加賀に於いてはどのような場所があるか」

「加賀に於いては、小松寺の辺りが、大形の地であると考えます。」

「また上方に於いてはいかなる勝地があるか」

「京都近辺には見及びません。さりながら殿の御縁者である摂津大阪の本願寺の寺内こそ、無双の境地と
考えます。」

そう答えると、義景はこれを聞いて
「光秀は寺跡ばかりに心を入れたる者なり」
と言って笑ったという。

名将言行録



136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/23(火) 14:43:48.93 ID:migwR6XE
名将言行録はほんとにアレだな…
作者自身が作ったような逸話が平気で載る。

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/23(火) 16:44:29.64 ID:gfEb8r5a
そもそも作者が「巷の俗説や怪しい話もあえて載せた」と断ってるしこの手の逸話集には珍しく出典も入れてる

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/23(火) 16:53:41.79 ID:zixBkBM0
あえて載せたと言って断ってるものを鵜呑みにしてた読み手さんサイドの問題か

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/23(火) 18:02:25.81 ID:zm69SwQt
開山した空海や最澄、蓮如なんかは築城に秀でた兵法者って事でいいのかな?

雀の楽しみを楽しみ候へ

2020年06月21日 17:55

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/21(日) 10:54:20.63 ID:+NODlI7m
滝川一益が関東の管領であった時、山屋敷に亭を造り、閑暇の時はここにて休憩をした。

ある日、広野に鶴が数多下り餌を食らっていた。これを見るに、鶴の中でも番をしている鳥は
四方を幾度も見合わせて、一声鳴く時も用心し、他の鳥とは格別であった。
また植木の枝、亭の軒端には雀多く来て、人をも恐れず餌を食らい、友鳥戯れていた。
一益は近臣に

「あれを見よ、鶴が用心するのと、群雀の何心無きは、人と比較すれば、鶴は私の冥加に叶う。
大名と成り、国郡多く領知して、数万人を我が物にすれども、一言をも遠慮して粗末に言わず、物を食するとも、
膳番目付などと役人が有り、濫りに食うことをしない。夜は寝ずの番、外には夜回り時回りという役人が
有って、我一人寝た後までの用心をし、家中大小上下領内の万民も、我一人を目当てにするのだから、片時も
身を楽々と持つこと出来ない。あの鶴の身持ちと同じことだ。私の昼夜の心遣いを察して見よ。
汝等は鶴を羨まず、雀の楽しみを楽しみ候へ。」

そう言ったという。

名将言行録



柴田勝家の最期

2020年06月20日 17:47

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/20(土) 11:05:28.43 ID:LeVTVuZE
賤ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家は、北庄の城に馳帰り、籠城の手配をした。
その明日、羽柴秀吉はその城を十重二十重に取り囲み、先ず愛宕山へ登り城中を見渡すと、
種々の紋が描かれた旗、馬印が夥しく押し立てられ、静々と控えていた。
秀吉はこれを見て感歎し

「城中を察するに、柳ヶ瀬の出陣に従わなかった老人、又は女童の、物の役にも立たざる者共に、
敗れ帰りし者共相加わったのであろう。それを巍々しく城を飾りし形勢、流石に武勇を天下に
顕せる柴田程ありけるよ。」

と繰り返してこれを称賛した。
勝家は死に臨み、気象少しも平常に違うこと無く、夫々に功ある者を賞し、やがて腹掻っ切って死した。

名将言行録



柴田勝家の刀狩り

2020年06月19日 18:06

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/19(金) 00:53:50.92 ID:A3E0IVhU
朝倉氏の亡んだ後、越前国では一揆が度々起こり、強敵が蟠り居りけるを、柴田勝家が数年かかって
攻め伏せ、漸く一国平均した。
そうして勝家は村里へこのように触れを出した

『よろず掟を正しくして撫育を致すにつき、自今以後、一揆を起こすべき覚悟が無いという事を
汝らが相断った事、尤も神妙の至である。この事は信長公にたしかに申し上げた。
であれば、汝らの持っている武具は、もはや所持していても益のない物なのだから、少しも残らず
上へ差し上げるべきである。その代わりとして、我等は農具を拵え、各々の望みに任せて、何程も
下し賜るべし。もし兵具の類を隠し置き、なんのかんのと違背するような輩は、心底に悪事を
挟んでいるのではないだろうか。』

そう言い渡した。郷民等に承り届くと、遅参に及べばどうなるかわからないと、弓銃は勿論、太刀、鞍、
鎧等まで己が村中を穿鑿し、我劣らじと持ち参った。
集まった兵具は幾千万とその数を知れず、山のごとくに積み上がった。勝家は鍛冶を召し寄せ、農具に
打ち換えて与えると、国中いよいよ静謐にして、一揆の沙汰は無くなった。

名将言行録

柴田勝家の刀狩りについての逸話ですね。



長氏はその虚を窺い

2020年06月18日 18:13

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/18(木) 12:37:29.89 ID:s7L3jsJD
北条長氏(伊勢宗瑞)既に小田原を取り、その威は遠近に奮った。相模の豪傑は皆来て降ったが、
独り三浦陸奥守義同、同荒次郎義意は戦を挑むこと連年に及び、雌雄を決することなかった。
毎年六、七月に三浦より小田原の攻め入り、退き去る時は必ず馬入川にて遊泳し、汗馬を水に入れて
帰ること、数度に及んだ。しかし長氏は外に柔弱を示して共に争わなかったため、三浦の兵には
徐々に怠りが見えた。

明年、三浦の兵攻め来たり、民屋を放火し田圃を荒らしたが、長氏は兵を出さなかった。
故に三浦の兵は益々侮り、かの川辺にて酒宴を催した。長氏はその虚を窺い、これを襲った。
三浦の兵は驚き慌て、弓矢矛戟を捨てて四方に壊乱した。これより三浦の兵は濫りに小田原を
攻めなく成ったという。

名将言行録



暇を取らせた隙を考え

2020年06月17日 18:36

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/17(水) 17:03:07.84 ID:IBSnElbG
北条長氏(伊勢宗瑞)が妻田八郎を攻めた時、逆に追い崩され引き下がったが、今一返しせねば叶わずと励み、
酒肴を諸卒に与えてこれを鼓舞し、引き返して八郎を討ち取った。臘月(十二月)の末であり、八郎は
「戦には勝ちたり。皆々在所へ帰りて越年せよ」
と暇を取らせた隙を考え、長氏は還攻したのである。

名将言行録

これは武田信玄の初陣の、海ノ口城攻めの改変ですかね



牛を切るほどなのだから

2020年06月16日 18:17

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/16(火) 11:54:42.05 ID:XAEfDeGz
前田玄以は人となり智慮深く、色欲無く、多くの物事に通じ、強いて細事を勤めず、内典外典の
学術から歌道に至るまで兼学し、有識の聞こえが有った。

彼が所司代と成り京中を巡見の時、東寺の辺りで牛車が路に横たわっていた。玄以は以ての外に
立腹し、「所司代の通る先に、道を塞ぐこと奇怪なり!それ切って捨てよ!」と命じた。
しかしこの命を従者たちは誠しからずと思って動かずにいると、玄以は
「又主人の下知を背く曲事なり!」
と散々に怒ったため、従者たちも是非無く牛を切り殺した。

これを見聞きした者達は「此の度の所司代は乱心している。牛を切るほどなのだから、人に気に違う
事が有れば、一言も言わせず切るだろう。一体どんな目に遭わされるのか。」と甚だ恐れた。

このために、玄以は所司代に在任している最中、牛を一匹切っただけで、公事(訴訟)という事も
少なく、人を殺したこともなかった。

名将言行録



今からでも取り掛け申すべきを

2020年06月15日 17:50

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/15(月) 16:45:17.03 ID:snZwuq8m
寛永四年(1627)二月、加藤嘉明が会津に封ぜられた。この日、伊達政宗は殿中で嘉明の子である
明成と行き逢い、このように声をかけた

「足下父子に会津の地を預け賜ると承った。会津は全く、陸奥の鎮衛の地であれば、この老耄を
よく防げ、との御事であろう。しかし足下父子によって、容易くは防ぎ留められまじ。」

そう大声を出して笑った。これに明成はその笑い声の下より

「老黄門(政宗)、もし今の禄に倍して百二十万石をも領し給われば、今からでも取り掛け申すべきを。」

と申したという。

名将言行録



瓢箪から駒が出たぞ

2020年06月14日 17:24

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/14(日) 11:50:10.73 ID:dWadqL55
大阪冬の陣が和睦となって、従軍した諸大名も皆閑暇となり、このため幕府方の陣中では訪れた者に対し、
何れの方でも、景物(景品)を競う香合せ(香の香りで銘を当てる遊び)をしていた。

そのような所に伊達政宗が参った所、「幸いなり香をおかぎあれ」と勝負をした。
何れも鞍、障泥(馬の鞍の下にひく泥除け)、弓箭などを景品として出したが、政宗は腰につけた瓢箪を
出した。これに対しては何れも、可笑しな景品であると言って取る者が居なかった。
最終的にはこの香合せの亭主の家来が、この瓢箪を取って終了した。

政宗が帰る時、飾りをつけたままの自分の馬を「瓢箪から駒が出たぞ」と言って、瓢箪を取った者に与えた。
はじめ「奥州の大将の景物よ」と笑った者達は、この時に至って羨ましがったという。

名将言行録

関連
伊達政宗と瓢箪から駒・いい話


上様より拝領申したるぞ、汝らも有り難く存じ頂戴せよ

2020年06月12日 17:45

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/11(木) 19:54:17.42 ID:VjWg7rQ8
豊臣秀吉がある時舟遊びに出た時、伊達政宗にも供すべきとの事であったが、遅参して船の出た後に
やって来た、このために、馬を引き寄せ打ち乗って、ただ一騎で船を見ながら住吉の方へ乗り行った。

秀吉はこれを見て「あれは大方政宗であろう」と言われた。船は住吉にも着けられず、また漕ぎ戻された
ために、政宗もまた乗り返し、着船される所に参ると、秀吉は

「只今の馬は政宗であったか。武者振り見事なり。定めて草臥れたであろう」
と言って、饅頭の入った折を賜った。

政宗は頂戴して折を傾け、自分の着物の前を広げその中に移し、入れ包んで立ち退き、自分の
家臣を呼び寄せて「上様より拝領申したるぞ、汝らも有り難く存じ頂戴せよ。」と言って
残らず与えた。家臣たちは何れもその厚志に感じ入った。

名将言行録

こちらは長曾我部元親の逸話が政宗のものに変換されてますね



曲者めが、また先へ廻った

2020年06月09日 18:35

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/08(月) 21:46:33.67 ID:WutUdWiN
豊臣秀吉は大きな猿を飼い、諸大名が登城する時、通る側につなぎ置いた。この猿が歯を剥き飛びかかる時。
諸人が狼狽する体を、秀吉は覗き見ていた。

伊達政宗はこの事を聞き、病と称して登城せず、秀吉の猿の猿引を百方手をつくして捜し、密かに猿を借り
玄関に繋ぎ置いた。猿は政宗を見ると歯を剥いて飛びかかろうとするが、政宗は鞭でしたたかに打ち竦めた。
このように度々した所、かの猿は最後には政宗を見ただけで?息した。こう仕込んだ上で猿を返した。

その後、政宗が登城した所、秀吉はこの事を知らず、政宗の様子はいかがかと覗き見た所、政宗が玄関を
上がる時、猿は飛びかかろうとしたが、政宗がはったとにらみつけると、かの猿萎縮して退いた。
秀吉はこれを見て「曲者めが、また先へ廻った」と笑われたという。

名将言行録

猿の話は太田道灌のものが有名ですが、政宗のものもあるのですね。



122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/08(月) 21:59:33.69 ID:iRM7GFQX
大友宗麟もだっけ、こういう話あるの
痘痕持ちの女性を正室にした話と一緒で登場人物だけ入れ替えてお話一緒シリーズって感じね

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/08(月) 22:47:21.19 ID:iflZPDLi
>>121
今は政宗のが一番有名だろう

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/09(火) 05:39:56.38 ID:jQPrYPKQ
こういうドッキリって真似したくなるよね

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/09(火) 11:45:37.40 ID:StWSoDZL
>>122
明智光秀は疱瘡女か

四国に行って魚の餌になるがましか、ここにて死にたるがましか

2020年06月06日 17:03

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/05(金) 23:51:00.79 ID:wt4PFcb/
文禄4年、関白秀次に謀反の聞こえあった時、伊達政宗もこれに与しているとの説があった。
豊臣秀吉は怒り、政宗の領地を伊予に移すとした。

政宗は伊達上野、他一名を以て徳川家康の元に遣わし、「このように仰せ付けられ、伊達家の浮沈は
この時に極まりました。もはや家康公の賢慮を仰ぎ奉るより他ありません」と訴えた。

家康はこれを聞いて、両使に茶飯などを与えた。暫くして彼等は「政宗はさぞ待ち遠しく思っているでしょう。
早く帰り、ご返事を申し聞かせたいのです。」と申し上げると、家康は大声で言った

「各々が主の越前(政宗)という男は、当たりは強いように見えるが腰の抜けた男であり、後ろの弱きゆえに
そのように狼狽え付くのだ。四国に行って魚の餌になるがましか、ここにて死にたるがましか、よく分別
あるべしと言え!」
そして重ねて、秀吉より催促の有る時の返事のやり方を、細々と教え、両使は罷り出た。

間もなく、家康は秀吉の所に至った。また秀吉より政宗に使いがあり、
「昨日の要請についてどうなっているのか、早々に予州へ下るべし」と伝えに来た。

この使いが政宗の宿所に来てみると、門前には弓鉄砲、長刀を帯びた者達がひしと居並んで、今にも
打ち出しそうな有様であった。御使有ると聞いて、政宗は無刀にて出迎え、座に招いて御使の旨を聞くと、
涙をはらはらと流して申した

「上様の御威勢ほど、世に有難き事はありません。人間の不幸の中に、上の御勘気を蒙るほどの不幸は
無いと、今日こそ思い知っております。私に於いては、たとえ今回の事で御不審を蒙り首を刎ねられても
異議は申しません。況や国郡を下し賜って所を変えるとの事に、何の不満があるでしょうか。

されども我が譜代の家僕たちは、何れも訴えてくるのです。『どうして数十代の御領を離れて他国に流浪する事が
有るべきか、速やかにここにて腹を斬られ、我々も一人も生きて所を去り渡すような所存はありません』と
言い切って、ひたすらに自害を勧めるのです。私は色々と義を尽して申し聞かせましたが、家臣たちは一向に
同心せず、あなた方もご覧の通りの、狼藉の至りの有様です。

つまり、偏に現在私が御勘当の身に罷り成っている故に、数十代の家人さえ我が下知を用いず、恣にしており、
是非に及びません。」
このように述べ、使いは帰ってこの旨を報告すると、秀吉の傍に在った家康も申し上げた

「いかにも左様に、私も承っております。政宗一人の事であれば、上意を違背し旧領を去り渡し奉らざるに
於いては、私に仰せ付けられれば、即座にかの旅宿へ押し寄せ踏み潰すことに、何ほどの事があるでしょうか。
しかし、今度こちらに供を仕った、政宗の千に足らざる小勢にてさえ、家臣共が左様に思い切っているのであれば、
旧領に残り留まっている郎従達は、国を退くとは何としても言わないでしょう。
政宗の郎従等を追い払うべき賢慮がお有りでしたら、政宗については、どうぞ私にお申し付けになって下さい。
ではありますが、累代の所領を没収することで、彼の郎従たちが愁訴する事も、不憫に思います。
ですので、枉げて今回は、ご赦免も有るべきではないかと。」

このように申し上げると、秀吉は「兎にも角にも家康の計らわれることに若くはあるまじ」として、
国替えのこと沙汰無くなりその事止み、その後勘当も免されたという。

名将言行録



261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/06(土) 00:10:30.36 ID:QjiO30i5
まるで道化だな

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/06(土) 00:28:15.16 ID:orWYLZXD
>>260
伊達上野って留守政景か
後半の訳が力尽きてることも併せて
スレを盛り上げようとする意気は素晴らしいけど
無理に全文貼る事もないと思うよ