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島原の「イギリス」

2014年12月28日 17:02

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/28(日) 02:47:29.14 ID:LPYpM6C+
島原の「イギリス」、英国とは無縁 海の産物に今治を懐古
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO77704980Z20C14A9EL1P02/
長崎県の東南部に延びる島原半島に「イギリス」という一風変わった名称の郷土料理がある。寒天の原料であるテングサに似た海藻を使って作るかまぼこ状の食べ物だ。
この素朴な庶民料理、江戸時代の島原の乱にさかのぼる歴史が関係しているという。長崎市から電車を乗り継いで1時間半程度の島原の地を訪ねて歩いてみた。
異国情緒豊かな長崎の食べ物だし、ハイカラな名前だから英国と関係があると思いきや全く違っていた。長崎市在住の郷土料理研究家、脇山順子さん(77)が説明してくれ
た。「名前の由来は有明海で採れる『イギス藻』という海藻。干したイギス藻を水でさらして具材を混ぜて作るのがイギリスです」
島原市内で唯一提供している郷土料理店「中屋商店」を訪ねた。小皿で出てきたイギリスは、ベージュ色で表面がつるつるしている。四角い練り物のようだ。
きんぴら風に仕上げた白身魚とニンジンが入っていた。しょうゆに付けて食べると、自然の淡い味覚とともに、磯の香りがほんのり鼻孔に広がった。最初は
「インパクトがどうも薄い」と感じたが、食べ進めるにつれ、塩加減がほどよく効き、飽きがこない味覚だ。
女将の中島ふみえさん(87)は「昔の島原の日常食。最近では自宅で作る家庭が少なくなり冠婚葬祭などの席で食べることが多いですね」と説明してくれた。
「懐かしい」と土産用に買って帰る人も多いという。
島原半島の先端にある南島原市で民宿を営む鬼塚美佐子さん(64)に実際に作ってもらった。まず、うるち米のぬかのとぎ汁で乾燥させたイギス藻を洗い、
えぐみや不純物を除く。水洗いしながら汁を捨て、再びぬかをもみ出した2番汁にイギス藻を鍋いっぱい入れて弱火で煮溶かしていく。
20分ほどで海藻は形を残さないほど溶け、スープ状になった。鬼塚さんは用意した具材(キクラゲ、シイタケ、ニンジン、厚揚げ、アジの魚)をフライパンで手際よくいため、
しょうゆとミリンで味を調えた。これを鍋に入れて煮込むこと10分。熱々の煮汁を金属製の流し箱に移し、冷やして固めれば出来上がりだ。
鬼塚家のイギリスは、しょうゆ味でキクラゲの効果でしっかりした歯応え。イギス藻は毎年5、6月に浜辺に打ち上げられる。「はまのもの(浜で採れる)で
食べられないものはないと祖父母から子供時代に教えられました」(鬼塚さん)
 イギリスのルーツとされるのが、愛媛県今治地方に伝わる「いぎす豆腐」だ。イギス藻を原料に使い、生大豆粉を混ぜ、小エビなどを入れて煮固めて作る。
今治地方観光協会の関清剛・事務局長(62)によると、地元の小料理屋で食べられるほか、スーパーや総菜屋でも普通に売っているという。写真を見ると、表面にゴマが
かかり、見た目は高野豆腐のよう。酢味噌などに付けて食べるという。
江戸時代の1637年に起きた島原の乱では、一揆に加わった農民の多くが死亡し、人口が激減した。復興対策として幕府は四国の各藩から強制的に農民を移住させた。
免税特権を与えられ「公儀百姓」と呼ばれた移民が持ち込んだのが、イギス藻を使う瀬戸内の食文化と言われる。島原特産のそうめんも小豆島由来という。
鬼塚家のある南有馬地区は、島原の乱の戦場だった「原城」跡から車で数分の距離。「この辺りは先祖が四国出身という旧家が多く、瀬戸内海沿岸で
よく見かける村落のように、海を見渡せる小高い所に家を構えています」(鬼塚さん)
四国の農民たちは目の前の海でイギス藻が採れるのを発見し、懐かしい古里の料理をまねして作ったのだろうか。だが大豆の利用法までは伝わらなかった。
いぎす豆腐から豆腐が消え、次第にイギリスという呼び名に変わっていったのではないか」と、料理研究家の脇山さんはみる。
「今治の夏の定番食が遠く離れた場所で大事にされてきたことに感銘を覚えます」と、今治地方観光協会の関さん。イギリスは四国からはるばる連れてこられた
名もなき民たちと、島原の豊かな自然がはぐくんだソウルフードだった。

島原の乱で空白地帯となったところに入植した今治からの入植者が、瀬戸内海の文化を有明に伝える



445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/28(日) 03:36:57.90 ID:HMtlJK38
>>444
シベリアとかトルコライスみたいなモンか

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/28(日) 05:12:40.75 ID:RZTU37Dw
この間の移民政策の結果か

449 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/12/28(日) 23:20:50.61 ID:TQRT08Wv
>>444
イギリスのウェールズの郷土料理「ラバーブレッド」に関係ないのか?
ラバーブレッドは、岩海苔のこと
海苔の佃煮みたいなもので、それをパンに塗ったり、ハンバーグや
グラタンに入れて食べる
世界でも海苔を食うのは、日本人とイギリス(ウェールズ)人ぐらいだ

453 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2014/12/29(月) 09:53:41.92 ID:q0v+HLUl
>>440,444
島原と宗茂でふと思い出してまとめを読み返してみたんだけど、
島原の乱では細川忠興・真田信之・立花宗茂・水野勝成など戦国の生き残りが、
自ら戦場に出たり、戦場未経験の若手らに助言をしたりしてたんだよね。

政宗も本当にもう少しだけ長生きしてたら、家光や信綱に助言とかしてたかな?
さすがに自ら軍を率いたいとは言わない……よね?

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汝は侍の眼を持っている

2014年08月09日 18:55

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/09(土) 15:38:50.47 ID:FYbOX1wM
徳川家康の家臣である本目権左衛門義正は、もともと苗字は松平氏であった。
彼は小田原陣の折に、箱根山中に案内をして高名があった。
これに徳川家康

「汝は侍の眼を持っている。この後は本物の目の持ち主ということで、”本目”と
改めよ」

と仰せになり、それより本目と改めたという。

(徳川実紀)

権現様命名シリーズ




482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/09(土) 16:32:42.14 ID:ZhboR2P7
なぜそっちの名前になるw
安定感あるな権現様は。

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/10(日) 00:06:13.88 ID:zK7iNSJp
>>481
松平姓から改名って子孫はだいぶ損した気分だったんじゃw

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/10(日) 16:35:04.79 ID:Cmq6S9gA
>>484
松平もピンきりだからなあ。へたな松平よりも「権現様ご由緒」の苗字の方が江戸時代は価値が高かったと思う。

『猪之助』

2014年07月14日 18:58

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/13(日) 22:03:39.98 ID:B1iJhDnX
慶長10年、春田半兵衛将吉が死去した。73歳であった。
彼は始め、與八郎、又は猪之助と言った。
岡崎三郎(松平信康)に仕え、天正3年5月21日、三河長篠・有三原の戦いで三番鑓をして報償を得て後、
家康に仕えて、長久手の戦では岩ヶ崎の城に使いをしたが、はや落城しており、城主丹羽二郎助の首を
敵兵が取って去ろうとしていた所を、追いかけその首を取り返したことで御感を被った。

また、天正13年、徳川家康の吉良での鷹狩に供奉し、手負った猪が猛り向かってくるのを組み止めた。

家康はこれに大いに感じ入り、彼に『猪之助』という名前を賜った。

(徳川実記:台德院殿御實紀)

大権現の安定のネーミングセンスを物語る逸話である。




301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/13(日) 22:52:31.58 ID:aab7x1lO
もらった名前変えちゃったかあ

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/13(日) 23:36:05.25 ID:nkHQJv3r
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6588.html
出典はないが既出のような

大がき(大垣)既に手に入りたり

2014年02月09日 20:03

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/08(土) 20:43:21.72 ID:DYVeuB5O
徳川家康公は慶長5年(1600)9月朔日に江戸をお立ちになり、その日は武州神奈川に御宿陣、
同10日、尾州熱田に御着、11日に清州城に入られた。軍兵は城中から溢れ、町中付近に
充満した。

清須に1日滞在され、人馬の労を休め、13日岐阜に御着された。翌14日朝岐阜をお立ちになり、
この日は進軍する姿を敵に見せないために大垣の敵方をわざと避け長良川を越えて、横大路呂久川を
渡り、西の保片山を経て赤坂の後ろ、虚空蔵山と、その北南禅寺山との間にある金地越を通られた。

赤坂に居た東軍諸将は途中までこれを御迎えに出て家康公に拝謁した。家康公は、諸大将の
これまでの苦労を謝せられた。

ここで本多中務大輔(忠勝)が、家康公の輿の傍に寄り、あたりの人間を密かに下がらせ、申し上げた

「黒田甲斐守(長政)の計略により、筑前中納言(小早川)秀秋、御味方に参られ返り忠を
仕るということで、甲斐守より互いに人質を取り交わし、堅く契約申し置いたということです」

この詳細を聞くと、家康公は御輿の中より高らかに言った

「筑前中納言が、味方に参り返り忠をすると申し入れてきた!合戦はもはや勝ったぞ!」

諸人はこれを聞いて、喜び勇むこと限りなかった。

この日、西の保を通られた時、美濃国安八郡八條村瑞苑寺の禅僧が、大きな木練柿を一折り、
杭瀬川の傍で家康公に献じた。

家康公はその柿を一つ手に取られて、「大がき(大垣)既に手に入りたり!」と仰せられ喜び、
残りは近習に与えた、ちなみにこの瑞苑寺には後で田地を附け与え、寺号を『柿寺』と改めさせた。

14日午の刻(正午)、赤坂の岡山に到着された。

(黒田家譜)

黒田家譜より、徳川家康が江戸を出て赤坂に到着するまでの模様である。
ここでも神君のネーミングセンスが遺憾なく発揮されていたのである。




326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/08(土) 20:52:09.55 ID:o7IPbrK/
>>325
柿寺www
坊さんも渋いのかな、やっぱり。

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/08(土) 20:54:15.11 ID:34l7ZZPm
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8204.html
このコメントで
>209
家康「大柿が手に入ったわい」
ってあったのはそのせいか

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/08(土) 23:49:41.14 ID:QmtTzYi7
神君流石です

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/09(日) 09:16:01.75 ID:lmtg7MGE
二重スパイとかいなかったのかな。
いろんな武将の前でこれから敵の誰かが裏切るとか言ってていいんだろうか。

溜池由来

2013年09月07日 20:04

54 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/09/07(土) 14:24:20.33 ID:59SWZme6
溜池由来

東京の地下鉄溜池山王駅の近くには溜池発祥の碑があり、その由来についてこのように書かれている。

「溜池は江戸時代のはじめ、江戸城の防備をかねた外堀兼用の上水源として作られ 水道の発祥地ともなり、
徳川秀忠時代には 鯉、鮒を放し 蓮を植えて上野の不忍池に匹敵する江戸の名所となった。
徳川家光は遊泳したとも伝えられ,、江戸後期には日枝神社より赤坂四丁目に通じる 料金を取った銭取橋が
架設され 「麦とろ家」数軒と出店で、にぎわったと云われる。(後半略)」


明治時代に埋め立てられて今に至るのであるが、秀忠公が戦国の時代を忘れないながらも庶民の暮らし・娯楽にも
配慮したお話。




55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/07(土) 19:13:10.49 ID:ob4rvdHM
非常食

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/07(土) 19:46:50.18 ID:hBWbco2M
こんな事もあろうかと池に竹千代を!

海苔と家康

2013年09月04日 19:52

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/04(水) 15:40:19.73 ID:pZojWgQq
高級食材を庶民に普及 海苔と徳川家康

皆さんご存知の『海苔』は、江戸時代までは貴重品でした。
古く『大宝律令』にも献上品とされるほどの、希少な珍味が、
庶民の食卓に上がるきっかけになったのは、徳川家康のお陰。

江戸幕府を開いた家康に新鮮な魚を献上する際、悪天候でも
漁に出る事無く、安定して魚を供給できるように、生簀を作った所、
柵として海中に埋めた雑木に、大量の海苔が付着したのです。

家康は海苔が好物だったらしく、大いに喜び海苔の養殖を奨励。
江戸近辺の品川・大森で海苔の大量生産が始まったそうです。

その後、浅草で紙づくりの技法を応用した板海苔の製造が盛んに。
江戸の名物として持て囃され、全国の庶民に広まったそうです。

ソースは『海苔 家康』で検索すると、詳しい説明がされています。




39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/04(水) 15:54:27.65 ID:0hSh/XBf
それにしてもこの権現様、ノリノリである

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/04(水) 17:05:50.59 ID:B8mLSUxC
自分の場合海苔は味付じゃないほうが好き
家康公はいい仕事したな

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/04(水) 23:38:36.09 ID:ImEPggs9
アサクサノリは浅草で採れた海苔ではなく品種名

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/05(木) 00:18:40.58 ID:2YHlU/b5
ブラタモリでやってたけど、今でも徳川家に白魚を毎年献上してるんだよな

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/05(木) 00:23:03.45 ID:Z7myl96m
対岸の下総沿岸部も瀬戸内には及ばない規模ではあったものの塩づくりを奨励されてたね
気候と治安の落ち着き、流通網の確立で各地で芽吹いていた特産品づくりに拍車がかかった感じかな

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/05(木) 11:29:59.09 ID:4Vaypoev
>>41
そうなんだ
目黒のサンマみたいなもんかね(違う)

肴町

2013年08月23日 19:56

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/23(金) 06:32:10.56 ID:0AzTc+dD
肴町


徳川家康ゆかりの浜松には家康由来の地名が多いが、浜松駅近くの肴町もその一つ。
先日某番組で放送していたところによると当時は浜町駅の近くまで海が迫っており、付近では魚市場が栄えていたため、家康が肴町と名付けたのだとか。

駅前の繁華街となった今でもその名残を残す卸問屋があり、その歴史を伝えている。

なお、その肴町を整備したのは本多・高力・天野の三奉行である。

約100年後の寛文8年には時の浜松藩主・太田資宗より家康由来のため専売の権利がある旨再確認された。

ちなみに浜松の茄子町・小豆餅についても取り上げられていて、茄子町はもう茄子は作られていないが、小豆餅は今でも美味しいお店があるらしい。

家康公の威光が100年続いたいい話?




956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/23(金) 10:10:58.85 ID:IxPvfyLU
小豆餅、銭取の逸話だと家康の威光と言っていいものやら

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/23(金) 22:51:14.52 ID:CVNQNxzl
家康はなんで餅屋のばあさんに追いつかれたんだろうなw
普通追いつかれないだろw

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/24(土) 04:14:40.22 ID:v48JZHfQ
高速道路で車を追いかけてくる婆ちゃんの先祖だったから

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/25(日) 21:39:04.86 ID:pQVN68TX
>958
馬よりも速く走る老婆がいたからだろ。

不可解なことだが、武田の騎馬武者より速く走る老婆に追われたら焼味噌くらい漏らしてもおかしくはない。

「神主、久しうおじゃる」

2013年01月27日 18:56

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/26(土) 20:50:18.57 ID:SGWhGIN4
地元(愛知県豊橋市)の薄い情報誌に載ってた話と現地の看板に書いてあった情報をまとめて書きます

徳川家康公は天文二十三年、まだ竹千代と呼ばれ吉田城内におられた頃、
正月十四日に安久美神戸(あくみかんべ)神明社に参拝し、太刀を奉納。
社頭の松の根元に腰を掛けて、祭礼(鬼祭・おにまつり)を興味深くご覧になられた。

その後、慶長八年に家康公は京都の伏見城において神明社の神主司守信を召され、
「神主、久しうおじゃる。今も神式にちんばの真似をするか」を昔の祭礼の様子をお尋ねになられ、
以来、例祭鬼祭の司天師田楽は「ちんば踊り」と呼ばれるようになったという。
またこのとき、朱印領三十石と太刀を奉献された。

このエピソードから「家康公御腰掛松」として社頭の松が江戸時代より奉られていたが、
明治十七年、当時の神明社を現在の地に御遷座の際に腰掛松の代わりの松が植えられたそうです。

権現様の記憶力のいい話に、また新たな一ページが・・
そして、おそらくその田楽
ttp://www.youtube.com/watch?v=UBY8m2ypKWU




191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/26(土) 22:01:01.62 ID:myop0T57
久しうおじゃるとな…
神主も長生きでよかったな

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/27(日) 03:31:36.61 ID:qblIWjhU
そういえば家康は普段から駿河ことばをしゃべっていたという話を聞いたことがある
実際はどうだったんだろ

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/27(日) 12:36:15.15 ID:QIDNfp5f
静岡市から来た女の子の、そのの~の~ぉ、という
実におっとりたおやかな言葉というかイントネーションが忘れられない。
「その」の一言が何故そうなる。特別おっとりしてる子だったからなのかなぁ?

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/27(日) 14:57:36.91 ID:Y8uZjrdl
「おじゃる」って今川家の駿府御所では日常的に使ってたのかな

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/27(日) 16:15:10.41 ID:6yH5abUi
名門武家だしそんな庶民の言葉使わないんじゃないの

196 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/01/27(日) 16:50:32.10 ID:J/9EibcW
国替えで遠くへ行くと方言問題で苦労しそうだな。

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/27(日) 16:58:17.53 ID:dgcfI0ri
宇和島だと武家だけ東北訛とかなんだっけ?
風習やら行事なんかはまんま宗家と同じにやってたと聞いたけど~

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/27(日) 17:02:34.61 ID:7zAyEVUi
越後長岡藩も武士だけ三河訛りだった、とかいう話だな。

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/27(日) 18:33:33.35 ID:dl4u/371
その理屈だと、土佐藩上士は尾張訛りだったとでもいうのか?

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/27(日) 19:53:54.87 ID:fsrXLPkh
母方の実家が宇和島藩士の家系だけど聞いた事なかったな…実際はどうなんだか

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/27(日) 20:33:51.74 ID:t31kz6b9
そんなこと言いだすとキリがない気がするがw

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/27(日) 23:18:36.20 ID:jvPVyfDO
ただ、殿様連中は普通に江戸弁で幼少期を過ごしているからなぁ。
[ 続きを読む ]

大久保忠世が杉浦久勝とコントをしていた時のこと

2012年12月17日 19:50

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/17(月) 00:20:00.55 ID:FKRQZc1P
光明勝栗由来

大久保忠世が杉浦久勝とコントをしていた時のこと。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3049.html

この時、光明山の住僧高継の案内で徳川家康が寺中に立ち寄ったところ、
高継は家康に勝栗を献じた。

家康は勝栗をひとつ食して機嫌良く「光明山で勝栗を食ったぞ!
これぞ、まさにこうみょう勝栗なり! 行末目出度き吉兆だ!」と言った。

これより後々までこうみょう勝栗といって、かの寺より奉る御佳例になったという。

――『徳川実紀(光明山書上など)』

光明だけに功名ってか。




800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/17(月) 00:35:37.28 ID:mTxjSZHZ
なにが悪い話なのかわかりにくいが
シャレが寒すぎるくらい寒いから、なのか?

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/17(月) 00:37:19.47 ID:mTxjSZHZ
毎度お馴染みネーミングセンスの悪い話

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/17(月) 00:38:07.39 ID:mTxjSZHZ
あ、ID被った

徳川家康「名前はよく考えろ」

2012年08月10日 21:40

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/10(金) 12:09:59.23 ID:XzAs2U1Z

大坂の陣にて、塙直之が蜂須賀至鎮に夜討を仕掛けた時、
至鎮の家臣、稲田九郎兵衛は十五歳にして大功を立てたので
徳川家康から感状を下された。

この時に家康が近臣に向かって曰く、

「子に名前をつける時はきちんと考えなければならないな。
九郎兵衛はわずか十五だというのに、無闇に大人らしい名前を
つけるから散々なことになる。

何丸とか何若とかつけておいたなら、今度の働きも珍しいこととして
評判になるだろうに。いやー、惜しい惜しい。皆もよくよく心得ておけよ」

――『徳川実紀(天元実記)』

名前はよく考えろって、それなんてブーメラ(ry




913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/10(金) 12:15:00.55 ID:BqjjkEmG
>>912
>>何丸とか何若とかつけておいたなら、今度の働きも珍しいこととして
評判になるだろうに。いやー、惜しい惜しい。皆もよくよく心得ておけよ

なるほど、珍しい名前をつけておけば評判になるのか

さすが権現様

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/10(金) 12:28:31.39 ID:nUTaD59d
権現様のネーミングセンスの根源を垣間見た気がした

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/10(金) 12:29:04.59 ID:ZfC0qa9S
>>913
逆逆。九郎兵衛が子供なのに珍しい(大人っぽい)名前だったから今一インパクトがないよ、
子供らしい平凡な名前だったらもっと評判になったのに、って話だよ。

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/10(金) 12:36:52.46 ID:q3WwlswE
子供らしく…奇妙丸とか茶筅とか?

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/10(金) 12:55:58.13 ID:3b6zioRa
15で九郎兵衛なら通称じゃないの?
こういう事言われるって事はまだ元服前で幼名九郎兵衛ってことか
親は凄いセンスだな

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/10(金) 13:02:30.74 ID:WLFh4AEK
ちやほやされすぎて天狗になり、狭量な人間になってしまったかも知れないし
人間がどう成長なるかなんてわからんけどね

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/10(金) 14:39:31.79 ID:ur+b5Yrw
恩賞ケチるための口上なだけでは?

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/10(金) 18:18:42.69 ID:Vp9vd+Sj
>無闇に大人らしい名前をつけるから散々なことになる。

九郎兵衛だけに苦労するんですね、判ります
でも神君が名前ネタでいじって後世に名を残せるように計らってくれて
九郎兵衛も末代までの誉れになったから良かったね

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/10(金) 21:31:34.89 ID:ZH26C3W8
稲田九郎兵衛=稲田植次は明治維新時の庚午事変でも有名な
徳島藩筆頭家老稲田氏の嫡子だからなあ
物々しい名前も付けられるってもんよ

そんな大身の御曹司でありながら感状を賜るほどの目覚ましい
働きは大したもの

手負いの猪が家康に向かって突っ込んできた

2012年07月09日 20:57

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/08(日) 19:36:18.43 ID:Zx16X9vo
天正の頃、徳川家康が三河の吉良で狩りをしていたところ、
手負いの猪が家康に向かって突っ込んできた。

その時、馳せ出たのが春田半兵衛将吉だった。
将吉は突っ込んできた猪を見事に組み止めてみせたのである。
その姿に気分を良くした家康は思いついた。

「お前、今日から猪之助に名を改めろ」

その日より将吉は春田猪之助と名乗るようになった。


安直な上に普通のネーミングっすね、権現様。




313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/08(日) 20:26:36.87 ID:LQjSos2g
武士の名前に猪ってあんまり喜ばれなさそうなんだが
周りの奴らはダセェ!って思わなかったんだろうか
それよりも家康が変なセンスを発揮しなくてホッとしてたのか

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/08(日) 20:47:39.84 ID:+SKwhbOx
猪は「後退しない」だからいい名前じゃないかな

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/08(日) 20:49:03.93 ID:xi1I8/AM
猪俣邦憲に謝れ!

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/08(日) 20:54:29.70 ID:7HwaJRNq
猪武者てのは…なぁ…

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/08(日) 21:00:01.30 ID:yyV9t9gM
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5543.html
権現様がこの話を知ったら
「おなごの身でありながら見事!これから小松姫をあらため猪姫となのるがよい!」


319 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/07/08(日) 21:28:20.03 ID:4HxlL9p0
扇子で権現様の顔を・・・
いや、さすがあるまいて・・・

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/08(日) 21:28:53.17 ID:sefzcYSH
山中鹿之助「ちょうどいい春田どの!我らと共に尼子再興を目指そうではないか!」

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/08(日) 21:30:28.70 ID:2TynslHt
叔父御を屏風の陰に引きずり込もうとする猪姫…

322 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/07/08(日) 22:00:38.79 ID:4HxlL9p0
>>320
あとは蝶か・・・

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/08(日) 22:41:59.85 ID:XX825fYu
帰蝶「・・・」

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/08(日) 22:49:47.00 ID:FNk8734A
大谷古猪之助なら尼子十勇士にもういるけど

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/09(月) 12:37:53.26 ID:/tTwnmwW
>>302
尾張藩・紀州藩「ちょwwww神君裏切るとかありえねーしwwwwwww」

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/09(月) 12:58:20.16 ID:pibxpgLD
>>286
信長「わたし鬼武蔵がすき‥世界でいちばん偉大で高貴な生物だと思うの」

・・・いやすまん。夜勤明けで疲れてるんだ。

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/09(月) 14:01:00.81 ID:v1qOjcae
( ´・ω・)「それ、ひとつ持ちあげてみようか」
志村「殿、冥土からは出られませぬ」

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/09(月) 16:38:00.94 ID:DmjvTnK5
>>312
家康のネーミングって、名前を聞けばどういう功績があったのか
すぐ思い出せるように自分のために付けてるよな。
人名をそのまま付箋紙かメモ帳代わりにしてるのか?
でもまあ家臣も自分の功績が一生モノになるわけだから利害が一致してるか。

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/09(月) 22:05:32.93 ID:TAGPVkyK
でも、本多山県はあんまりだと思う

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/09(月) 22:09:17.92 ID:Um77HLya
肥後加藤家某足軽「僕なんかキンタマですよ…」

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/09(月) 23:00:48.98 ID:eINvvjVN
>>312
一豊「わしも猪右衛門というが…」
[ 続きを読む ]

「富士の道芝」

2012年07月05日 21:00

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/05(木) 19:25:43.57 ID:gOW61cH5
徳川家康が大切にしていた駿馬がいたのだが、ある時、家康はその実力を試してやろうと
馬に重荷を負わせて富士山を登らせた。すると馬は少しも疲れる様子がなかったので、
家康はこの馬を「富士の道芝」と名付けて寵愛した。

しかし道芝はかなりの暴れ馬で誰も手懐けることができなかった。そこで金悟秀秋の旧臣で
精騎と名高い村上吉正を乗せてみると、難なく乗りこなしたので感じ入った家康は吉正に
道芝を預け飼わせた。家康は後に吉正が道芝を返した時、馬具を与えその労を賞したという。




270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/05(木) 20:37:13.69 ID:/Uhh2VQQ
馬「人生は重き荷を負うて遠き道を駆けてゆくがごとし」

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/05(木) 21:13:47.79 ID:S1vqZhYy
権現様は「実はワシなら乗りこなせるけど大将が駿馬に乗ってもしょうがないし」とか
もしくは「自分の馬術を過信して落馬するとか大将失格だよね」とか考えちゃうんだろうか?

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/05(木) 21:37:52.51 ID:HMdk5ig+
権現様は基本的に合理的でドライな考え方だよね。

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/05(木) 22:26:00.28 ID:C+cOl4Xe
>>269
金吾もな

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/05(木) 22:30:57.69 ID:GviUIa8o
家康「どれ実力を試してやろう。よいしょっと。」

馬「鎧なしで人間ここまで重たくなれるものなのかとあのとき初めて思いました。」

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/05(木) 23:07:05.63 ID:WP9uoxZZ
>>267
権現様のネーミングの割には普通じゃないか

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/05(木) 23:29:01.60 ID:BfWlqBwk
>>275
あ、ほんとだ。しかも道芝って道案内の意味もあるんだ。
洒落てやがる・・・!?

277 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/07/06(金) 00:41:12.85 ID:1UViccHM
馬「クソ漏らすのだけは勘弁してくださいよ!!」

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/06(金) 02:23:29.80 ID:V6YLX5Kl
父アドマイヤフジ
母シーヴァ

馬主ふじのなんちゃら

よし、馬名決まったな!

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/06(金) 09:09:22.46 ID:sug5sgfj
そういや久能山東照宮に家康の愛馬の墓もあったな。
あれが道芝の墓だったのかな?

徳川家康「今日からは昔の勇将になぞらえて名を変えよ!」本多忠光「じゃあ…」

2012年06月09日 21:31

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/09(土) 13:18:34.56 ID:eVT7GmrD
本多忠光は忠勝の孫で忠政の三男。大坂の役の時、十四歳の若年ゆえに
御供を許されなかったが強情に請うたので供奉を許され、首級まであげたので
徳川家康は大いに満足した。

「若年にも関わらず名を上げるとは天晴れ大将の器なり!
今日からは昔の勇将になぞらえて名を変えよ!」

「じゃあ弁慶がいいです」

「弁慶はたいしたことないなあ…イマイチ。
鎮西八郎為朝とか能登守教経とかのほうが絶対にいいぞ!よし今日からお前は能登だ!」

しかし通字の忠はさすがに変えられない。
家康は林道春に相応しい字を選ばせ、その日より忠光は能登守忠義と名を改めた。

本多忠義の(家康があまりひねった名前を考えなくて良かった、
あるいは本多弁慶にならなくて良かったという意味で)いい話。




713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/09(土) 14:00:38.76 ID:up0LpR8N
弁慶だと坊さんになっちまうぞw

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/09(土) 14:12:16.46 ID:t6cEnj+3
>>712
やはり忠勝とは言えなかったのかな?
もし言っちゃったら神君含め非難轟々か?
それとも沼田から刺客が放たれる?

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/09(土) 14:15:09.68 ID:LsTYsjOH
長可なんてどうかな? あるいは恒興。
権現さま、「池田父子や森武蔵に比べれば、関が原の西軍なんて軽い軽い」と
いったじゃないですかー(ただし出典は軍記物)

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/09(土) 14:16:56.74 ID:DPP4Fy/i
跡継ぎでもなんでもないのに能登守か
もうけたな
まあこの頃は官位貰っても何にもならねーよって感じだろうけど

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/09(土) 15:20:55.58 ID:FaXItRA/
正式に朝廷から貰ったわけじゃなくて、自称していいよということじゃ>官位

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/09(土) 15:49:26.40 ID:6GH/DRlv
>能登守忠義と名を改めた
てっきり為朝や教経から一字もらうのかと思ったら
もらったのは官位の方か

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/09(土) 15:54:45.76 ID:WWEFQ/HT
もし
権現様「よし、お前は弁慶にちなんで武蔵守だ!」
とかなって代々武蔵守を名乗っていたら、公方様に不敬だとか言われたんだろうか

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/09(土) 18:49:03.91 ID:YBGDvquI
そういう場合は神君お墨付きとか言われて例外扱いだと思う。

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/09(土) 19:43:57.31 ID:JOipi6Hi
ちょっと橋の番人切ってくるヒャッハー

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/09(土) 20:19:28.27 ID:hjYTiFqa
上総介様のお墨付きは勘弁してください

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/09(土) 20:26:48.89 ID:6c7EVCth
のぶさんと鬼武蔵コンビはほんま人気やでぇw

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/09(土) 21:41:29.26 ID:j63P+lFk
はっ!
それが武蔵坊弁慶を却下した理由か!

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/09(土) 23:41:46.10 ID:ePPgi0Mc
鬼武蔵が徳川家に誕生する恐怖

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/10(日) 00:22:00.41 ID:S6cg7GP9
でしたら日向守でも…

草加宿由来

2011年12月31日 22:00

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/31(土) 20:37:16.02 ID:4odn/nQC
慶長11年(1606)の事だという。
将軍徳川秀忠が鷹狩りを大原村(現埼玉県八潮市)行い、舎人(現東京都足立区)の御殿で宿泊することとなったが、
その頃大原と舎人の間は草野が広がり、また沼も多く、人馬が進むのに誠に困難な場所であった。

そこで秀忠は旗本の大川図書に道の補修を命じた。
大川は近隣の領民を集め草木を刈りそれをもって低湿地を埋め、千住から越ヶ谷間までを、
ほぼ一直線に結ぶ新往還道を一挙に築き上げた。

この街道の完成に秀忠は大いに喜び、

「草を以て沼を埋め、往還の心安すきこと、これ一重に草の大功なり。このところ草加といふべし」

と命じた。「(沼地に)草を加えたことによって街道となった」ということである。
これによりその地は『草加』と呼ばれるようになったという。

家康に比べて地味な秀忠ですが、彼にもこんな命名伝説があるのですw
(草加宿由来)



207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/31(土) 21:00:00.08 ID:pmYKcd7y
親父よりはネーミングセンス良かったのかね?>秀忠

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/31(土) 21:39:21.91 ID:Hhi2Ygrk
小豆餅と銭取よりはいいな

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/31(土) 22:19:42.04 ID:ea1ytrxg
仮に家康が命名したならどんな名前になっていただろうか

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/31(土) 22:20:16.18 ID:ykG7ZBvs
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5697.html
秀忠のネーミングセンスはこういう話もあるからな
なんというか、無難?

鎌倉大長寺縁起

2011年12月19日 22:01

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/19(月) 01:34:57.70 ID:hDBjMLA8
鎌倉に浄土宗『大長寺』というお寺があるが、この寺の名前は元々『大頂寺』と言う
というのも、この寺を建立したのは北条綱成であり
寺の名前は、綱成の妻の戒名『大頂院殿』から来ている つまり、綱成の妻の墓なのだ
それなのに何で名前が変わったかと言うと、原因は家康である

家康がこの寺を訪れとても気に入り
「山号が『亀鏡山』なら『大長寺』が似合う」と言って、寄進状に『大長寺』と書いたことから
寺名が改まったと伝わっている

ここまでなら、またいつもの家康のネーミングセンスの悪い話になるが
家康はこの寺がそうとう気に入ったらしく、かなり多くの寄付があったり
境内には家康お手植えの銀杏があったとかいう話もある

また、家康が鷹狩りの際に、門前で杖を振り回して、杖にさされた土地を
大長寺に与えたと言われ、以後その農地は「家康お杖先の田」と呼ばれ
戦後の農地改革まで、その土地は大長寺の土地であったという




今日からお前は七九郎

2011年12月04日 22:00

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/03(土) 22:44:13.17 ID:R2CBAOhA
徳川氏の家臣で三河の武将・柴田政之の子に、柴田七九郎康忠という者がいた。

永禄4年に徳川家康に仕え、吉良義昭との戦に従った。
永禄6年の三河一向一揆においては、一向宗徒であったが反乱には賛同せず、
自らの宗旨を浄土宗に改宗し、家康側に味方して一揆衆と戦った。

得意の弓技を活かし一揆を鎮圧する働きを行い、
家康から康の字を拝領するほどであった。


康忠はよほど弓の腕があったらしく、自らが放つ矢には名前を刻んでいた。
あるとき康忠と戦った相手がその名前に気が付き、彼の武勇を讃えて、
合戦で収集した康忠のサイン入りの矢=63本を
その矢で負傷した者の名前の列記と一緒に送り返した。


それを伝え聞いた家康は、奮戦の証として賞賛し、

「先の戦で63本も敵に矢を当てるは凄まじい武勇だ。
 今日からお前は七九郎と名乗るが良い」




この頃、家康は算盤に熱中しており、
63は算法の7×9で七九だから、七九郎を柴田康忠に名乗らせ、
旗の紋も63の文字で描かせたという・・・。

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/03(土) 22:46:53.00 ID:BWyd7Y2o
後一本射ってたら
八八郎だったのか
七九郎はまだまともでよかった

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/03(土) 22:50:48.98 ID:YKZTfaPB
>>865
彼、結構武功立ててたんだけど、大名までは行かなかったんだよな・・・
徳川家臣の中でかなり地味な存在

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/03(土) 22:52:04.14 ID:Mx75hyvI
だんだん鉄砲にお株を奪われていったのだろうか

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/03(土) 22:54:27.45 ID:Jea1bxc2
家康にしてはひねったな
六十三郎にならなくてよかった

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/03(土) 23:28:42.17 ID:bY0Tu3/v
>>869
道場「…」

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/03(土) 23:29:49.20 ID:gdJA22iw
超人的やな

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/03(土) 23:40:05.75 ID:x8lG77Nz
そのころ九九があったのかね。

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/03(土) 23:43:39.42 ID:Ve3IEC7Y
wikiより
日本には大和時代に百済から伝えられ、平安時代には貴族の教養の一つとされていたという説があったが、
奈良市の平城宮跡で出土した「九九」を記した8世紀の木簡に、中国の数学書「孫子算経」と同じ
「如」の文字が書かれていることから、九九は中国から伝来したと考えられると、奈良文化財研究所が
2010年12月3日に発表した

思いのほか古くて驚いた

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/03(土) 23:48:07.83 ID:1PpWNSF0
複式簿記っぽいものあったらしいからな~
寺子屋では、読み書き算盤 って言うくらいだからその頃には九九はある筈だよね?

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/03(土) 23:49:12.60 ID:1PpWNSF0
ガッ!w

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/03(土) 23:52:07.42 ID:JynULWh7
先物とか為替があったのは知ってたけど、
複式簿記(っぽいもの)まであったのか

すげー、中世すげー

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/03(土) 23:55:51.00 ID:BWyd7Y2o
塩野七生の本で、複式簿記はヴェニスの商人が発明したとか書いていたが
日本にも似たようなものがあったとは

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/04(日) 00:09:28.59 ID:W2CxB3oN
宗教関係以外で一番早い時期に活版印刷された本(聖書の次に印刷されたとか)の中に、
複式簿記の説明が含まれてると教わったな~


三成さんが領地が減ってアップアップしてた島津さんに、
複式簿記っぽいものを教えて財政管理の基本に役立てたと聞いた覚えがあったので
まぁ、ソースは忘れたしなんの根拠もない

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/04(日) 03:05:22.68 ID:l2eG2DQL
>>873
先週の世界不思議発見でやってたな
平安時代前期の九九を練習したと思われる木簡っが出てきたけど計算が間違ってたってw

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/04(日) 07:53:59.49 ID:qXp58kMb
お前ら、複式簿記がどんなものかちゃんと分かってるの?
簿記の試験を受けた人なら分かるだろうけど

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/04(日) 08:16:58.12 ID:b3SM0iLN
2chソースは信用するに値しないって見本みたいな話

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/04(日) 13:57:34.86 ID:olXbQ3YB
紙だけだと面倒だけどなw

冷酒清兵衛

2011年10月26日 22:01

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 17:17:12.19 ID:0rIQB5pP
徳川家康が武田信玄との抗争を繰り広げていた頃のこと。

ある時徳川家康が少数の家臣を従え遠江の巡見をし、浜松へと帰城する途中、この頃武田信玄も遠江へと
進出し、物見によって家康の動向を知ると、これを討たんと緊急に兵を出した。
この事を知った家康は帰城を急ぐ!そして見付宿(現静岡県磐田市)まで来る。

この頃見付宿に、上村清兵衛という心剛なるものがあった。
彼は家康の危難を防ごうと、自分の家、および見付宿の中三ヶ所に火をつけ大いに煙を立て
武田勢の進路を防いだ。
武田勢としては、ここを迂回しようにも南には今之浦という大池があり、また深田であり、北は山が多く
まともな道も無いので、致し方なく火災が止まるまで見付宿の前で指をくわえているしか無かった。

この間清兵衛は、家康に天竜川を越えさせようと、見付宿から天竜川へと出る道を案内し、
川端に出ると船頭を捕まえ早々と川を渡り、「川向うに戻った後その船を水中に沈めよ!」と命じた上で、
そこから半里ほど西にある橋羽村の妙音寺まで案内をした。

家康一行はそこに一宿し、翌日浜松へと帰城した。家康は清兵衛の功を称し、自ら刀を与えた。

このことがあってから家康は、
見付宿の近辺に出馬する度に清兵衛の家に立ち寄った。
その頃は酒を売るものも稀であったが、清兵衛はもとより酒を好んでいたので、酒を作り置き、
家康のお立ち寄りさいはその酒を献じ、お供の面々にも茶碗に酒を注いでこれを薦めた。

そのうちに家康は、この上村清兵衛が常に冷酒を好んでいたので、彼のことを「冷酒、冷酒」と呼んだ。
これによって遠江の国中の者たちも、彼を『冷酒清兵衛』と呼ぶようになった、とのことである。

遠江に伝わる『冷酒清兵衛』のお話
(近古武談)

ちなみにこの冷酒清兵衛、家康の御朱印酒屋となり、当主は代々冷酒清兵衛を名乗りました。
その屋敷は今も磐田市に残っています。お近くにお寄りの際は是非、家康の気分でお立ち寄り下さい。




264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 17:31:27.15 ID:K2OJohb4
やはり、なんだかんだで名前は付くんだな!

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 17:46:05.96 ID:0dZK1fvD
ひやざけ?れいしゅ?

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 17:54:08.34 ID:0rIQB5pP
>>266
「ひやざけ」ですね

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 18:37:35.99 ID:0dZK1fvD
>>267
ありがとう

清正の虎退治異聞

2011年10月04日 22:25

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 13:24:12.42 ID:/28pMXmp
清正の虎退治異聞

朝鮮の陣でのことである。加藤家の足軽某が、虎にくわえられて連れ去られてしまった。
虎はすぐには食おうとはせず、鼠をいたぶるようにじゃれていたが、いつしか寝てしまう。
そこで足軽が腹や脇の下を撫でてやると、気持ちよさそうにしている。足軽が周囲を見回すと、
木々に蔦葛が絡まっていた。このツタを噛み切って伸ばして、その先で虎の「キン」を撫でてやったら
熟睡してしまった。足軽はツタの先を木に結わえ、もう片方を虎のキンにくくりつけた。
そこでダッシュして逃げようとしたところ、虎は目覚めて襲いかかろうとしたが、くくりつけられた
ツタが締まってキンが潰れてしまい絶命したという。

無事帰還した足軽は仲間を呼んで虎の死骸を持ち帰った。

清正は足軽を大いに褒め、侍に取り立ててやった。そして「きん玉」という苗字をつけてやったという。


参謀本部編「朝鮮の役」より引用
原典は「吉田物語附尾」




952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 13:33:40.59 ID:1ega2uXN
落ちで笑った
褒美で金玉だから回りは笑えないだろうからきついだろうなw

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 13:54:01.78 ID:m8/6VeaV
子孫が残っていたら間違いなくいじめられる

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 14:01:31.96 ID:/HDIGoBr
金玉と緊玉を掛けて……たりはしないかな、やはり

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 14:03:54.98 ID:PUmLoT9A
金玉さんは昭和まで残って改姓してる


956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 15:06:26.17 ID:oThxZfUm
>>955
そうなのか
でも営業だと、名前だけでウケが取れるから「もったいないな」と思わなくもないw

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 16:10:42.46 ID:Y4fG9gwC
虎丸とかにしてあげればいいのに
いくらなんでも金玉はあんまりです(´;ω;`)

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 18:01:02.40 ID:MWv32dzc
これで名前が均(ひとし)になったら、暗殺された上、バラバラにされかねない

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 20:00:57.47 ID:+EgqQdzO
>>951
たぶんこうだ。
加藤清正「式部(榊原康政)どの、馬印をお貸しいただきかたじけない。」
榊原康政「いやいや、なんの・・。それよりウチの殿の命名がさ・・」
加藤清正「!・・・新しい・・・。われも習わん。」

「一富士二鷹三茄子」由来異説

2011年09月16日 22:02

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/16(金) 00:06:07.80 ID:oJyoXN/l
これ既出だったっけ? 悪い話ではないと思うのでこちらに


徳川家康が大御所として駿府にいるころ
ある年茄子が不作で大変高価になったところ、家康がたわむれて、

「当国で一番高いのは富士、二番目が愛鷹山、三番目が茄子だの」

といったのが、いつのまにか初夢の
「一富士二鷹三茄子」と付会されたという

初夢のは色々説があるけど、家康公がいたのでつい




624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/16(金) 07:52:30.43 ID:B35dlLEV
このセンス、さすが大御所www

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/16(金) 10:15:37.99 ID:AcYH9ZQe
>>623
縁起の良い初夢の話は権現様の文言が元になっているのは知っていたが
愛鷹山から鷹になったのか
鷹狩が好きだったからだと思っていた
当時の茄子ってやっぱり高かったのか?

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/16(金) 12:22:06.39 ID:IjqqNn1F
え、これギャグだったのかw
知らんかったw

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/16(金) 18:46:49.29 ID:oJyoXN/l
>>625
茄子自体は奈良時代からあるけど、茄子は傷つきやすい野菜なので
遠方に届けたりするのには不向きだったみたい
駿河の三保では早出し栽培というのをしていたらしい

茄子は暑さに強いが寒さに弱い、夏季やハウス栽培向きの野菜なので
油紙を張った障子で囲って促成栽培していたみたいよ
手間暇かかるし、傷付きやすいから、初物の茄子は高価なのかね

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/16(金) 21:52:21.80 ID:AcYH9ZQe
>>631
豆知識㌧です
しかし家康も上手い事言ったね

祖母昔・由来

2011年07月10日 23:32

942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/09(土) 22:49:31.56 ID:XARsmpfy
銘茶として知られる宇治の抹茶の中でも、最高峰のものを『初昔』『後昔』という。

『昔』字については、現在の直射日光を避けて育て、蒸してから乾燥させる製法に対し、昔ながらの製法で
作ったからという説と、いわゆる八十八夜、旧暦三月二十日のこと(二十日→廿日→一字にまとめて『昔』)
であり、『初』『後』は茶葉を摘んだのが二十日の前か後かを示す、という説がある。

閑話休題。

「うーむ・・・うまい!これはどこの茶だ?」
宇治代官で、茶師の元締めたる上林掃部丞が献じた抹茶に舌鼓を打った徳川家康は、上林に出所を聞いた。

「はっ!その茶、実は手前の祖母がなかなかの名人にて、自分で摘み、作った茶にございます。」
「この風味、『初昔』などの銘茶にも劣るまいぞ。よし、お主の祖母に褒美として宇治若森の茶畑を与える。

そしてこの茶には、『 祖母昔 』の銘を与えるぞ!」


・・・珍しくGONGENが茶の湯に関わる逸話かと思えば、相変わらずのネーミングセンスで申し訳ないが
永禄以来450年の伝統を誇る老舗・上林春松本店さんに由来書が現存する、ウソのようなホントの話。
ttp://www.shunsho.co.jp/2008/03/matucya02.php

まぁ、名前に騙されず飲んでみてよ!

つ旦  ←銘茶『ババアむかし』




943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/09(土) 22:57:13.67 ID:Ky9Wq8Ub
茶器にも「祖母懐焼」とかあるので、当時としてはそんな変な名前でもないと思う。