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武功の人、名を頂戴す。

2011年07月04日 23:41

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/04(月) 20:22:43.81 ID:dVFz3ghY
武功の人、名を頂戴す。

三方ヶ原の戦いにおいてのこと。
細井勝宗は徳川家康に付き従って奮戦していたが、武運つたなく討ち取られてしまった。
しかし細井の家僕、木梨新兵衛は「主の仇!」とばかりに奮戦、身に7箇所もの傷を負いながらも主の仇を討つことに成功した上、首を取り返すという武功を上げた。
家康「お前は実に見事だ。永楽銭一貫文を褒美に与える。聞けば、黒い馬に乗って武功を立てたと聞く。向後は『黒』と姓を改めるが良いぞ」
新兵衛「ははーっ」

長久手の戦いにおいてのこと。
氏井孫之丞と渡辺忠右衛門守綱は、池田勝入の軍兵を弓で射ていたが、守綱は槍を落としてしまった。
それを見た氏井は馬で突撃して敵を突き倒し、槍を拾い、守綱に返したとのこと。
家康「この戦いぶりはかの武蔵坊弁慶にも勝る。これより武蔵と姓を改めるがよい」
孫之丞「ははーっ」

小田原の戦いの時のこと。
松平義正は家康に箱根山中を案内し、大いに手柄を挙げた。
家康「お前の目は侍の眼だ。これより後は本目と氏を改めるがよいぞ」
義正「ははーっ」

徳川家中にて武功を挙げた皆さんのお話。
別に大権現のネーミングセンスが悪い話ではない……多分。
(織田信長も似たような命名を家臣にしてるっぽいんで、当事の常識だったのかもしれないが)





474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/04(月) 21:29:20.14 ID:TWKerPc8
変な名前の方が由来をきかれやすいだろ。
そうやって子孫代々誇れるんだよ

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/04(月) 22:02:08.76 ID:/SjCvnUH
そう言えば、秀吉に戦いぶりを賞賛されて「鬼」という苗字を授かった人がいると聞いた事があるな。

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/04(月) 22:16:26.87 ID:L8jQAhO2
だいぶ前になるけど
三枝の「新婚さんいらっしゃい」で
秀吉から貰った姓と言う所縁があるという

「猿」さんが出てた。

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/05(火) 08:05:16.57 ID:YkL4qCA4
>>475
なんかテレビでやってたなぁ
子孫の方が現代にもいるけど苗字のせいでいっつも鬼ごっこの鬼やらされてたとかw

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/05(火) 09:12:07.74 ID:ELe65oin
義経からもらった風呂さんとか、由緒正しいと変な苗字でも自慢なんだろうな。

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/05(火) 21:33:07.72 ID:7j+HBVsd
鬼が縁起悪いって改名させられた人も居るのに、ラスボス気まぐれだなw

徳川家康苗字由来シリーズ「池谷」

2011年04月03日 00:00

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/02(土) 00:44:32.54 ID:iHp/3OM1
この前が爺ちゃんの立ち日だったから地元の逸話書くよー!

あるとき、徳川家康は武田軍との戦いに敗北し撤退していた。
なんとか駿遠の国境まで逃げてきたが、武田軍は間近に迫っており
このままでは捕まるのは確実である。もはや絶体絶命!
だがそのとき、ちょうど屋根を葺いていた宗高村(旧大井川町)の住民清右衛門が家康を見つけ、
屋根用の萱の中に家康を隠れさせることで難を逃れた。

さて、この機転によって命を助けられた家康は、恩賞として清右衛門を宗高村の代官に任じ、こう言った。

「此度はお主の萱によって生き永らえた。よって『生け萱』にちなみ『池谷(いけがや)』の姓を名乗るがよい」

さてはてセンスがいつもより冴えていたからなのか、
家康は後の大御所時代には鷹狩をしようと宗高村まで出向き
清右衛門の代官屋敷で休息をとっている。

家康の死後には清右衛門は家康を偲び、幕府に願い出て家康の休息地跡に霊廟を築いた。
宗高権現と称されるこの霊廟は池谷清右衛門家の代官拝命が三代で終わった後も残り、
現在では市指定文化財となっている。

……とここまでならいい話なのだが、やはりこの手の逸話は多数あるものである。
「逃げる家康を助けて名字を賜った」という話は他にもあり、概略すると次のようになる。

・升水:逃げてきた家康に水を升に入れて献じた
・白尾:家康が洞窟に隠れたとき、うっかりはみ出した白馬の尻尾を隠した
・一瀬:逃げてきた家康を背負って川(瀬)を渡った
・小粥:三方が原から逃げてきた家康に粥を献じた
・帯金:逃げてきた家康に金を貸してくれと頼まれ、着物の帯の間から金を出して献じた

家康、武田に負けすぎでしょう……。武田はこの手の逸話が皆無なのに。
というわけで負けた逸話ばかり残ってしまった家康にとって悪い話




455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/02(土) 00:47:40.91 ID:1oo6Dm0e
「谷」の読み方は三河から東は「ヤツ」で、尾張から西は「タニ」だっけ

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/02(土) 00:50:57.02 ID:RAq38X+4
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3524.htmlでは
三方ヶ原の家康に由来するとされる地名として
「よろい田」
「小豆餅」
「銭取」
「そうめん谷」
「布橋」
負けすぎ、というより無理やり権現様にあやかった地名がほとんどだと思う

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/02(土) 00:55:12.67 ID:iHp/3OM1
>>457
だからこそ、負けた逸話をたくさん残されて、というか作られてしまった家康にとっての悪い話ってことで

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/02(土) 01:01:43.66 ID:RAq38X+4
>>458
そういうことか、誤解してた
>>455東京にも
鶯谷(うぐいすだに)
茗荷谷(みょうがだに)
清水谷(しみずだに)
があるが、鶯谷は京都のウグイスを放したのが由来らしいし、
清水谷は紀尾井町(紀州、尾州、井伊)にあるから西の人が名付けたとして
茗荷谷(いまは小日向)は切支丹坂とかあるけど、これも西の人の命名なのだろうか

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/02(土) 02:05:57.64 ID:L0uDWuA7
鬼武蔵「地名の由来ならまかせろー」

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/02(土) 21:22:20.89 ID:IbQzwop5
武蔵「血の池にちなみ、茅野池と名乗るがよい」


462 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/02(土) 22:18:03.25 ID:ogYJUF3/
「谷」を「ヤツ」「ヤ」と読むのはアイヌ語の名残らしいので、
東日本に「タニ」があっても別に不思議ではない。

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/02(土) 22:37:03.33 ID:iHp/3OM1
>>462
戦国・江戸期に駿河までアイヌ語が伝わってたってこと?

468 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/02(土) 23:57:10.91 ID:ogYJUF3/
>>464
そのはるか大昔、関東にまでアイヌがいた頃の名残。

渥美助左衛門、家康が褒美に

2011年03月26日 00:00

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 22:54:21.20 ID:EBIyQvFP
ちょっと小ネタを。

渥美助左衛門という武将がいた。
父の代には高天神城主小笠原家の臣だったようだが、主家滅亡で浪人。
しかし「九戸の乱」にて井伊直正の軍勢に加わって武功をあげ、家康の賞賛を受けた。
なんでもその活躍は家康をして「無手なる活躍」と言わしめるものだったようだ。
「ろくに軍勢もない状況で活躍した」という意味だろうか?

家康「よし、褒美をやろう!」
助左衛門「はっ!(ワクワク ワクワク)」
家康「今後、無手右衛門と名乗るがよい!」
助左衛門「あ、有難き幸せ・・・・・・」

渥美無手右衛門。その後は井伊家に仕え、やがて結城秀康に引き抜かれて、
忠昌の代にもその名が越前松平家臣団の記録に残っている。

最初は「いい話」に投下するつもりだったんだが名前のインパクトが・・・・・・




346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 23:09:09.06 ID:lKMjDtF2
安心の家康クオリティ

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 23:15:39.07 ID:Cbkzwr4w
無手右衛門って武田家にもいたよね

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/25(金) 09:58:05.42 ID:/SZsq+Lc
変わった名前だと、理由を聞かれやすくなるだろ?
そんときに「この名は恐れ多くも神君家康様から……」と自慢できる。
だからわざと変な名前を与えてるんだだよ。たぶん。

長久手「血の池」由来

2010年11月19日 00:00

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/18(木) 00:16:05 ID:tFJEiQGt
天正12年4月9日の長久手の戦い。
秀吉の三河中入り軍を大いに打ち破った徳川軍は、近くにあった池で血に濡れた
刀や槍を洗った。その血の量があまりにおびただしく、そこは大きな池であったのに
全体が真っ赤に染まったという。

刀槍を洗ったこの池は、槍洗い池と呼ばれる。

と、それからのことである。この池では毎年長久手合戦が行われた頃になると、
必ず池が赤く染まるようになった。

人々、これは長久手合戦の犠牲者の血が浮かび上がるのだといい合い、かくして槍洗い池は
「血の池」と呼ばれるようになった。

現在、この池は埋め立てられ公園となり、桜なども植えられ長久手町の人々の
憩いの場となっている。
ちなみにこの公園の名は「血の池公園」である。


長久手の「血の池」という地名の、由来についてのお話。




641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/18(木) 00:23:08 ID:nkwyw5lt
何というか、ベタな話だね・・・

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/18(木) 00:23:30 ID:zeS6XxRZ
>>640
幽霊目撃情報が頻繁にありそうだな

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/18(木) 00:28:33 ID:yEdTOpGx
憩いの場が血の池公園って名前なのか…ちょっとゾッとしたぜ

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/18(木) 10:23:15 ID:H7MlkTNX
>>640-641
源平合戦の古戦場にもあったなあ
屋島山頂水族館の血の池でアシカショー、違ったか

権現様の命名シリーズ「味知」

2010年07月25日 00:01

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/24(土) 01:13:26 ID:+W64+YnF
権現様の命名シリーズ


徳川家康が駿河の広野村と言うあたりに鷹狩に出かけた時のこと。

昼時になるとその付近に家のあった家臣から、昼食の弁当が献上された。
その弁当が大変美味であったため、家康は礼を言うためその家臣の屋敷に立ち寄った。

その家の庭には一本の大きな柿の木があった。この時家の当主は、庭の木に成った柿を
茶菓子として家康に出した。するとこれが又、大変に旨い。
家康はほとほと感心をし

「この家のものは、食べ物の”味”というものをよく知っている。
今後この家は姓を『味を知る』、すなわち「味知(みち)』とするが良い。」


現在も続く、味知家に伝わるお話である。





286 名前:治部少輔[sage] 投稿日:2010/07/24(土) 01:25:42 ID:LuL2X6UK
「柿のことなら私もよく知っているが・・・」

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/24(土) 12:14:45 ID:FelqaoLn
>>285
これで子孫が料理人とかだったらかっこいいな

浅草、孫三稲荷由来

2010年07月15日 00:00

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/14(水) 19:51:43 ID:tlJf5afE
駿遠三甲信五ヶ国を制覇した徳川家康は、その首都を駿府に移そうと、天正14年(1586)、駿府の視察を行った。
そんなある日、家臣たちと共に安倍川を超えようとしたが、流れが強くどこをどう渡れば良いものかと
思案にくれていた。するとそこに、何処からとも無く一人の男が現れ、渡河する場所を案内。
家康一行を無事に対岸まで渡らせた。この男に名前を尋ねると、「孫三」とだけ答え、再び川を越えて
戻って行った。

後日、家康はこの孫三に礼を言い、褒美を取らせるため連れてくるよう家臣に命じた。
ところが、家臣たちが安倍川周辺をくまなく探してもこの、孫三という人物は見つからない。
途方に暮れた家臣の一人がふと、孫三が現れた場所にあった稲荷社を覗いてみた。
するとそこには『孫三稲荷』と書かれていた。

「これは!!」

さて大騒ぎになった。あれはお稲荷様の化身が家康公をお助けしたのだ!
この周辺の住民達はこれから、この稲荷社を大切に扱うようになった。


天正18年(1590)、徳川家康は関東に国替えになる。

この時安倍川周辺の住民は新たな江戸の町づくりの為に集団で今の浅草界隈に移住し。町を作った。
その名を阿部川町。
その街の中心にはあの、孫三稲荷が建て祀られた。

この阿部川町、今の台東区元浅草一丁目、二丁目の住人は現在も、
『阿部川町』の法被を着て、孫三稲荷のお祭りを、毎年盛大に行なっている。

浅草、孫三稲荷の由来である。




徳川家康、その揺るぎ無きネーミングセンス

2010年07月15日 00:00

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/13(火) 23:42:20 ID:3jGFqAC9
徳川家康、その揺るぎ無きネーミングセンス

・ある時のこと、駿府において鷹狩をしていた家康は、大岩村という所にあった
高台で休憩した。その高台は、素晴らしい眺望であった。

家康は家臣の金座奉行、後藤庄三郎光次に、「向こうに見える山は何というか」と名前を尋ねた。
すると光次
「南は八幡山、東に見えるのが清水山と愛宕山でございます」

「ふむ…。しかしここは、前に見た京の丸山(円山)の景色にとてもよく似ている…。
そうだ!今よりこの場所を、丸山と名付けよ!」

この地名、静岡市葵区丸山町、として今も残る。


徳川家康は駿河の瀬名で鷹狩を行っていた時のこと(鷹狩ばかりである)、喉が乾いたので
家臣に水を持ってくるように命じた。ところがその時たまたま誰も、水を持っていなかった。
さてどうしようと騒いでいるところに、瀬名の百姓、源右衛門と言う男の女房が気を効かせ、
畑から梨を取ってきて家康に差し出した。
これを食した家康、その美味しさに感心し、

「そうだ!今よりこの地を、水梨と名付けよ!」

もしかするとこの地名は少しひねって、「梨」と、「水が無かった」事をかけたのかも知れない。

この「水梨」の方は、残念ながら地名としては今は残っていないが、
この梨を出した源右衛門の家は、周囲から『水梨の大屋』と呼ばれ、今もこの地に
続いている。




857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/13(火) 23:47:38 ID:fviLTClK
>>856
いい話のような気もするんだけどw

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/14(水) 02:36:43 ID:Fkt0Btco
梨の代金で追いかけられたりしたら完璧なんだけどなぁw

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/15(木) 20:08:16 ID:EMIYrsyi
>>856
水梨の地名は現在も当地のバス停や町内会などに残ってる。
なお、にその時の梨の報酬として家康公は体の不自由だった源右衛門に
「お前が歩いただけの土地をやるから歩けるだけ歩け」と命じ、源右衛門は数町歩の土地を手に入れた。
その時家康公は、証拠として葵の紋の茶釜と槍、そして渡邉の名字も与えたという。
ちなみにその子孫は金八先生に出演したりもしている…
(以上、元地元民の補足)

簑笠之助

2010年07月14日 00:02

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/12(月) 23:24:08 ID:QpdjechE
簑笠之助

本能寺の変により、堺を遊覧していた徳川家康一行は命からがら三河に逃れた。
いわゆる「神君伊賀越え」である。
信長横死の一報を伝えたのは茶屋四郎次郎であるが、伊賀の住人・服部平太夫が伝えたという
異説がある。

平太夫の妻は西郷正勝の娘で、妻の連れ子であった「西郷局」は平太夫の義理の娘にあたるので、
いち早く家康に危難を伝えたというわけである。
そして、伊賀の地理に明るい平太夫の道案内で伊賀加太越えをしていた家康一行の前に、柘植城主・
服部出羽守の使者が現れた。
使者の口上は「家康一行を城でもてなしたい」とのこと。家康一行は大いに喜んだが、平太夫はその使者
に適当な返事を持たせてそのまま帰らせてしまった。

なぜ平太夫は出羽守の使者を適当に返したのか?
実は服部出羽守は服部平太夫の従兄弟にあたり、出羽守が家康謀殺を企んでいることを未然に察知した
からだ。
では、出羽守はなぜ家康謀殺を企んだのか?
出羽守の娘である伏屋姫は明智光秀の正室だったからである。

平太夫は出羽守の追手にかからぬように、家康に蓑と笠を着せて偽装させてこの窮地を救った。
それが縁となって平太夫は「簑笠之助」の名を与えられ幕臣に取り立てられたという。

嫁の縁で家康の命を狙った男と、命を救った男の話。




153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/13(火) 01:58:31 ID:qLLoyVFz
蓑笠之助>また権現様のネーミングセンスときたら・・・

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/13(火) 02:07:38 ID:7lOVSouE
権現様のネーミングセンスもブレないなwww

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/13(火) 07:57:19 ID:Yp//98wt
本多山県「俺の名前よりマシじゃね?」

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/13(火) 20:08:22 ID:eXT1woHq
>>153,154
こういうのは逆にストレートな名前の方がいいんじゃない?

西福寺開山伝説

2010年07月13日 00:03

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/12(月) 11:33:52 ID:844XMlJj
家康19歳の時と言うから、永禄5年(1562)の頃の事である。

その日徳川家康は、松平家菩提寺である岡崎の大樹寺に参詣した。
ところがその際、野武士の集団に襲われたのである!
墓への参拝のため家康の一行は数も少なく、武装もしていない。
絶体絶命の大ピンチ!その時である

「うりゃりゃりゃりゃりゃーーーーー!!!!」

素道房了伝という一人の筋骨隆々たる坊主が、大樹寺の門の貫抜を抜き、それを振り回して
野武士の集団に踊りかかった!
この了伝、50人力と言われたほどの大力の持ち主であったそうだ。
野武士たちもこれに堪らずとうとう退散。家康はピンチを脱した。

了伝に深く感謝した家康は、彼に新たに寺を寄進し、自分を助けた恩に報いたそうだ。
この寺は、西福寺と名付けられた。

ちなみにこの西福寺、その後も家康の深い庇護を受け、慶長三年(1598)には三河から江戸の、
現在の千代田区淡路町にに移転された。
この寺の住職は、江戸時代には一万石を与えられ、大名並の待遇を受けたと伝わる。

西福寺は何度かの移転を経て、今も東京都台東区蔵前にその姿を留める。


西福寺に伝わる、開山伝説である。




147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/12(月) 19:57:41 ID:DVKLQ/5U
坊主であっても徳じゃなくて武勇で出世するあたりがさすが戦国だなw

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/12(月) 20:47:25 ID:GrDY7WDu
平安時代なら立派な僧兵になっていたな。

「一生に一度、一言(だけ)の願いを叶えてくれる」観音様

2010年06月16日 00:00

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/15(火) 21:51:26 ID:0ZK/fw/M
まあ駄洒落っつても字を変えてくれるだけマシじゃないかと思う。


元亀三年、遂に西上を開始した武田軍を阻止すべく
天竜川を渡った徳川家康だったが、
三箇野川(今の太田川の支流)近辺でボッコボコにされて撤退を決意。

しかし磐田原台地の西端で馬場隊に捕捉されてしまう。
ここで殿軍をつとめて大活躍し、
「家康に過ぎたるもの」とうたわれたのが、かの本多平八郎忠勝だが、
有名なので省略。

またこのとき、近隣の村にあった
「一生に一度、一言(だけ)の願いを叶えてくれる」という
微妙に凄いんだか凄くないんだかよく判らない観音像に
家康が戦勝を祈願したところ、たちどころに徳川軍が盛り返した、
という伝説も有名なので省略。


で、本題。
この観音像のご利益に気を良くした家康は、村長にこう言った。

「これからこの村は一言と名乗るが良いぞ」

村長や村人、周囲の家臣らがどう思ったかは伝わっていない。




406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/15(火) 21:53:48 ID:fCrJ/xwO
流石のネーミングセンスで安心しました

権現森

2010年05月26日 00:04

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 15:01:10 ID:NnKvGHgs
糟屋武則の逸話でなくて大変申し訳ないんですけど


元亀年間のこと。

あるとき家康は数人の従者のみを連れて
今の磐田市白羽周辺にやってきていた。
そして家康がふと周囲を見ると……武田信玄軍の一隊が!

家康はとっさに近くの森に逃げ込んだが、
そこは地名の由来にもなっている白羽神社の鎮守の森であった。
家康がお宮で一心不乱に無事を願うと、それが通じたのか、
武田軍は家康に気付くことなくそのまま過ぎ去っていった。

ために、この森は後に権現森と呼ばれるようになったという。


……ところで、皆さん疑問に思ったでしょう、
なんで家康が最前線を少人数でうろついてんの?と。

これは、磐田原で武田軍に負けて敗走してきたからだとか。


三方ヶ原合戦を除けば生涯不敗という家康ですが、
実はいくつかの敗戦を隠していた疑惑が、という悪い話。




21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 17:38:10 ID:wVPoxa/H
>>20
三河統一戦・一向一揆戦で何度か負けてたんじゃなかったっけ?

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 21:03:55 ID:by8LawWD
家康は結構負けてるよね。ただ「大敗」と言うレベルだと三方ヶ原だけだな。

家康の逸話で、武田がらみで、敗走、撤退って話は結構あるとおもう。
別に隠してもないとも思う。

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 21:33:11 ID:Mvz718lW
武田に負けるのは恥にならない。
支え続けて最終的には甲信駿奪ったし。
あと、甲州流の陣法使った徳川の旗本が強いんだから本家の武田が強いのも仕方ないよね!

とかなんとか、いろいろ言い訳ができて隠してなかったと思う。

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 21:34:56 ID:bUdvt67J
そういうの積み重ねての関ヶ原だと思うと感慨深い

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 23:34:03 ID:Yos3GF4Y
>>24
その後もさらに色んなものを積み重ねていって大阪夏の陣の旗が~に繋がるんですね、わかります

徳川家康と「藤咲村」

2010年04月11日 00:05

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/09(金) 18:38:28 ID:rs11C9Mf
スレの最初なんで地元に伝わる地名関連の軽い話を一つ。

徳川家康が天下を取り江戸幕府を開いてから数年後のこと、
家康はある日、鷹狩をしたいと思い家臣を引き連れて東金へ行くことにした。
とはいっても当時としてはそれなりに長い道のりなので、途中のとある村で休もうと考え、
村内でも見晴らしがよく、休むのに絶好な子安神社という場所でのんびりしていた。
だが家康もただボーっとしているのもヒマなので、境内の高台から周囲を見降ろしてみると、
下では藤の花が咲き乱れ、まるで村全体に紫の幕がかかったようになっていた。
それに感動した家康は、子安神社の祭神が"富士"山の神である木花"咲"耶姫であることと
かけてその地を「藤咲村」と名付けたそうだ。

これだけだと普通に良い話なのだが、家康が死んで数年後のこと藤咲村では、
「藤”咲”村なんてサクヤビメ様と同じ字を使うのは畏れ多くないか?」
「将軍様がわざわざつけて下さったのはいいけど確かにちょっとなぁ」
「そういえば畑の実りが名前変わってからよくない気が…」
「藤の花も最近奇麗に咲かなくなってきたよね…まさか祟りじゃ!」
などという話をする者が現われ出し、サクヤビメの祟りという噂は村中に広まった。
村人の中では村名を改めようと、地元の旗本や幕府に直訴しようという者まで現われ出し、
この事態を重く見た旗本は、藤”咲”を藤”崎”に改めることで決着がつけることにし、
現在もその藤崎の名は町名として残っている。
天下を取った男の権威も人々の噂には勝てないという家康にとっては悪い話。




8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/09(金) 18:47:07 ID:Xq1U6Sjq
>>6
きれいで村の特徴も出て、ちょっとミーハーだけどきょうびの変な新町名に比べて
よっぽどいいじゃないかと思ったけど、
神様からとるなんて畏れ多いって考え方するんだな
時代性が出てて面白い

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/09(金) 19:51:44 ID:lDYem9MN

>>6
東金って千葉の東金かい?

この話で思い出したんだが、以前、新聞に挟まれていた何かの広報誌に、
家康が鷹狩りの際に通ったという御成街道と、途中にある沼?かなんかでの話が載っていたことを思い出した
何だったけな…かなりあやふやだから↑(特に沼)は記憶違いかもしれんが、
家康関係だったのは確かだった気がするんだよなー

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/09(金) 20:27:35 ID:atwj6awi
>>9
沼の話は知らんが、東金御殿といえばそこにあった家康手植えの杉の老大木が、
明治40年頃の高等女学校(現東金高校)の造営で切り倒されたのは
個人的にかなり悪い話。

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/09(金) 22:42:54 ID:iRsujmCI
椿海じゃないか?

21 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/04/10(土) 01:12:23 ID:70VELQHr
>>10
なんか腹立つ話だな。
植え替える位しろよ。
似たような話で、古墳があった場所に明治時代に石碑を
建立して、古墳を破壊した話を思い出した。
(確か民権運動がどうとかの、くだらない石碑)

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/10(土) 01:15:56 ID:7jS+WrOB
>>21
石碑建てるだけマシじゃね?
と思ったら、全く関係ない石碑かよw

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/10(土) 01:21:12 ID:nNLDsZr/
倒幕後の意識改革の名残じゃないの?

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/10(土) 01:34:22 ID:zX2MfX+V
>>21
松永弾正「古墳の上に石碑建立とか罰当たりにも程があるな」

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/10(土) 01:43:07 ID:VSBam5Gc
>>25
おいww
お前の場合石碑建てるどころか城建ててるし
しかも、普通の古墳じゃなくて天皇陵だしwww

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/10(土) 20:43:57 ID:y2BP60+2
>>6
津田沼駅の近くの地名である藤崎(習志野市)の由来の話か・・・。
Wikipedia(津田沼の項)にも記述されていたのは気がつかなかった。

銭取由来

2010年03月26日 00:00

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/25(木) 18:43:00 ID:Ct4R401L
三方ヶ原というと、この前浜松城に行った時に銭取という
地名の由来が書いてあったな。

なんでも三方ヶ原でコテンパンにやられた家康が逃げてる
途中に、喉が渇いたか小腹が空いたかで立ち寄った茶店で一服
してるとそこに武田の追っ手が!
 たまげた家康は代金も払うのを忘れて馬に乗って逃げ出すと、
茶店のバァさんは食い逃げされたんじゃたまらんとこれを追いかけ、
件の銭取と言われる様になった地域で遂に追い付き、無事に
代金を払わせたという。

馬並みの脚力のバァさんが悪い話なのか、命が掛かった
逃亡劇の最中に一服する家康が悪い話なのか、律儀に代金払う悪い話なのか解釈に迷うお話し。

もしかすると、有名なしかみ図は食い逃げそびれた悔しさを
写し取った物なのかもしれない…。




654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/25(木) 18:50:00 ID:/vZwEg0x
婆さんも空気読めないよな 見てりゃ命懸けで逃げてるのわかるだろうにw
ひょっとして雑兵のふりして逃げてたから家康だとわからなかったのかもね

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/25(木) 18:54:33 ID:iWWTDYvn
こんなハイスペックな婆さんなら家康を討ち取れば武田からたんまり褒美もらえたのに・・

656 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/03/25(木) 18:57:27 ID:nxXClPMY
そのエピソードは、私も知ってるぜ♪ここで重要な点は、婆さんの店が戦の最中に「営業中」だった点だと思う。

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/25(木) 19:09:28 ID:RjuBmi+t
見物客が食べに来るんで書き入れ時なんじゃない?


658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/25(木) 19:15:02 ID:GUUyZXEy
>>657
戦見物ってものすごい特殊な状況でのみ発生したもので(特殊だからこそ記録された)、
普通はみんな避難する。じゃないと雑兵の掠奪の対象になるから。

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/25(木) 19:20:03 ID:Lp3clBqm
>>653
色々とツッコミどころが多すぎて少々頭が痛くなるような、有名な逸話ですなw
件の茶屋があった場所が、現在の『小豆餅』とされてますけど、Wikiによれば、三方ヶ原での戦死者
を供養するために餅を供えた事が地名の由来だそうです。
>>657
そもそも当時の三方ヶ原台地には、人家も何も無かった可能性が高いようですがねw

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/25(木) 19:23:13 ID:1ssvrANT
茶店のババアの出現率は異常

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/26(金) 16:17:56 ID:hVm8Mgbm
>>657
織豊時代の医師・板坂卜斎の覚書には、関ヶ原の前哨戦である大津城攻防戦において、
「京の町人共重箱を堤げ、水筒を持たせ、三井寺観音堂にて、恐ろしげもなく見物を申し候」
と、戦争を見ながら弁当に舌鼓を打つ庶民の姿が描かれている。
また他の日記にも、「出陣のあいだ、見物のため寺家衆を率いて遊覧」とか、「諸勢の陣替えを
見物に遊覧」とある。


679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/26(金) 16:33:01 ID:m2vNqE+P
「右手に見えますのは、○○の陣でございます、そして左手にみえますのは(ry」なんて事をやってたのだろうか。

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/26(金) 18:11:17 ID:PpyH1sZu
京の連中の戦慣れ度は異常

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/26(金) 18:14:16 ID:TEOUVpLd
>>678
逸話として投稿して欲しいわ

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/26(金) 18:29:55 ID:O4ujadcx
>>676
葡萄牙船を沈めて家康に褒められた大名もいたような。
「南蛮人風情になめられちゃいかん」とかなんとか。

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/27(土) 19:54:01 ID:as9Zp2FQ
>>678-680
信長はこの庶民の戦見物を決して許さず、「見つけ次第なで斬りにせよ」と配下に命令している。

695 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/03/27(土) 19:56:15 ID:XeNnWrW0
撫で斬り好きやなー

徳川家康、今泉村の小さな寺に

2010年02月28日 00:05

272 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/02/27(土) 18:52:06 ID:inAtCu7F
家康が浦和周辺で鷹狩りをしたときのこと。
今泉村というところを通りかかると、小さな寺があった。
家康が住職に寺の名を聞くと、住職は片田舎なので名は特にありませんと答える。
家康がふと脇を見ると、軒下に十連なりに野菜が干してあった。
そこで、家康は、
「今日から干菜山十連寺と名乗るがよい。」と名付け、以後、寺を保護したという。

田舎の寺にも名前を考えてあげる家康のいい話・・・なのだが、
名付けのセンスについてはあまりなかったようである。

過去、まとめスレに出てきた家康の名付けの例

また、一番やり→又一と名乗れ。
七の字を書くとき最後に左に曲げた→左七と名乗れ。
本多家に山県昌景と同じ障害を持った子が生まれた。→本多山県と名乗れ。




273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 18:55:17 ID:aBgqETHL
ネーミングセンス無いってちょっとかわいい(?)よね
付けられた方は堪ったもんじゃないと思うが

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 19:11:30 ID:1H/hPpKI
奇妙とか茶筅とか・・・

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 19:28:41 ID:1YWh0T7N
信長のそれはある意味センスあるだろw

家康は実用一点張りって感じ
写実派というかw

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/27(土) 19:31:13 ID:Uu8ny0CJ
>>272
山県昌景と同じってことは口唇口蓋裂ってことか
なんにしても某ゲームではあんな美男子なのになあ…当時知ったときはショックだった
幸村も腰のひねくれ曲がった爺ちゃんだったらしいし

鼻紙朱印状:家康と浄山寺、謎の寺領寄進

2010年01月31日 00:06

472 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/30(土) 09:31:54 ID:nn6/izNM
地元の事調べてたら、越谷でもう一つ小ネタが見つかったので投下しますよ。

【鼻紙朱印状:家康と浄山寺、謎の寺領寄進】
小田原征伐も終わり、関東へ加増転封された家康。
彼が趣味と領内見回りを兼ねて、頻繁に鷹狩を行っていたのは、もはや有名な話。

越谷でも、どうやら鷹狩を兼ねながら、自ら各地域に寄っては実際に人と会い、
小豪族の所領安堵,寺社への寺領寄進等も一緒に行っていたらしい。
さて天正19年11月、越谷野島にある浄山寺にも、鷹狩のかたわら家康が寄りに来た。

「おお、住職殿!いやあ、丁度近くまで鷹狩へ来ていましてな」
「これはこれは。わざわざ当寺に御労足頂き…(自ら何の用件だろ?ドキドキ)」
「まだ渡してないと思いましてな。…コレ、朱印状!」っ寺領寄進
「おお、何とありがたい事です…。(おいくらでしょうか?)…って、ええ!?」
『浄山寺へ、寺領300石を寄進』
「さ、300石!?」

この数字、大名の石高や、万単位の寺領を得たような寺社と比べれば小額かもしれないが、
同時期に越谷各地の寺が受けた寺領寄進は軒並み一桁。
立派な山門を持つような所でも数十石。いきなし三桁寄進の寺なんて見当たらない。

(い、いったい何で?そりゃ小さい寺じゃないけど、言う程大きくもないぞ。
他寺との違いったって…武蔵七党野島氏の館跡ってくらいだし…)
「いやいやいや、ウチにはあまりに過分です。こんな沢山受け取れません!」
「えー」
住職はこれを過分として辞退。どの位過分だったかは、以下を見れば分かる。

「っても書いちゃったしなあ。うーん、他に何か紙はあったかなあ」
ごそごそやって、懐に一応紙があるを見つけた。
「紙あった…けど、これしかないんだが」
鼻紙(懐紙?)。
家康はその場でこれに書き直し、平均的な3石に決めなおし改めて住職に渡したという。
これが、野島浄山寺に現物が残る『鼻紙朱印状』の話である。
他、家康はこの寺を『野島浄山寺』と改めるようにも言ったという。

ドケチに定評のある家康が、何で急に太っ腹になったのかが謎だ。
特に肩入れする理由も見当たらないし、浄山寺にいったい何が…。

っ鷹狩

(元々の寺の土地,大小,由緒などなど)× 鷹狩の成果。かねえ?
事前の鷹狩のボーナスポイントで×100か。随分でかいなw

まあ、無欲だった住職の良い話ってことで。




473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/30(土) 12:48:35 ID:7Ic0Jyxv
300石は現代の米の値段(1kg=450円として)で考えると、約2000万円。

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/30(土) 12:53:03 ID:l6s3CWuw
本多忠勝「あんなに気前の良いお方であったか?」
酒井忠次「わが息子にももっと気前良くして頂きたいものですな」

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/30(土) 13:32:35 ID:+L31MNQo
井伊直政「pgr」

家康、本多百助の息子の名を

2010年01月31日 00:03

173 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/30(土) 20:19:00 ID:u1yI5pgV
徳川家康の家臣に本多百助というものがいた。
長篠の合戦後に長男が生まれたが、不幸にして兎唇であった。
本多百助が嘆いていることを聞いた家康は、百助を呼び出し、
「武田四天王の山県昌景も兎唇だったというではないか。お前の息子はあの
名将山県の生まれ変わりじゃ。」
と言い、その子の名を、本多山県にするよう命じた。

家康の家臣を励ますいい話ともおもったが、名前に山県はないだろうとも思ったので、
家康のネーミングセンスが悪い話。




174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/30(土) 20:25:32 ID:O+gcxJ1l
兎唇は勇者の証って言われてたのは、この辺から来てるのかな

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/30(土) 20:55:56 ID:fz98y8Zc
>>173
>名前に山県はないだろう
そこまで読んだ瞬間思ったよw
なんで三郎兵衛や昌景じゃないんだw

鳩ヶ窟

2010年01月22日 00:06

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/21(木) 01:07:47 ID:6M65VgDu
多少出遅れた感があるが、逃亡する家康由来の地名シリーズで。

1563年、家康は三河一向一揆と激しい戦いを繰り広げていた。
ある日、家康は一揆勢との戦闘に敗れ、逃走する。
そして山中八幡宮という神社の洞窟に身を隠した。

家康は息をひそめて追手の目を逃れようとするが、
門徒衆は家康のいる洞窟を見つけ、中を覗き込もうとした。

家康がもはやこれまでかと、覚悟を決めたそのとき!

ばさばさばさっと二羽の鳩が洞窟から飛び出した!

「うわ、な、何だ!」
「なんだ鳩じゃないか、びっくりさせやがって。」
「今まで鳩がいたんなら中に誰かいるわけないな、別の場所を探そうぜ。」

追手たちはこう言うと中を探さずに洞窟の前を立ち去り、家康は難を逃れた。

以後、この洞窟は”鳩ヶ窟”と呼ばれるようになったということである。





三方ヶ原で敗走中の家康にまつわる伝承地、地名

2010年01月21日 00:08

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/20(水) 00:46:12 ID:1v2PKVZN
「三方ヶ原で敗走中の家康にまつわる伝承地、地名」
佐鳴湖の北富塚には、逃亡途中に鎧兜を投げ捨て、百姓に成りすまして難を逃れた「よろい田」
追分の南には、逃げ帰る家康が腹を空かせて餅屋に飛び込み小豆を食べ、
代金を支払わなかったため店の老婆に追いかけられて金を払ったと言う「小豆餅」や「銭取」
浜名湖東岸の村櫛には、腹を空かせて逃亡中の家康が素麺を食べて急場をしのいだ
「そうめん谷」などという地名が残っている




180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/20(水) 00:53:26 ID:Al3S1n+g
>>179
弘法様ゆかりの地、みたいだなw
多分その辺の地域のいろんな時代の落ち武者の話が、家康って名前に集約されちゃったんだろうなあ。

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/20(水) 08:30:16 ID:dNxDXqou
讃岐じゃよくわからないことは全て御大師さまのやったことにするという不文律があるんだが
同じ感じで三河~駿府あたりは全部家康のやったことになっちゃったのかw

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/20(水) 08:43:24 ID:M11Nel86
讃岐は更に狸までいるからややこしい

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/20(水) 09:13:37 ID:QxLOfzjS
全部魔王上皇様の祟りじゃ

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/20(水) 11:01:17 ID:HD1dHNsp
孔明の罠理論

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/20(水) 13:41:50 ID:WDuT2KKU
>>179
味噌を漏r・・・落とした場所はないのですか?

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/20(水) 14:55:03 ID:JegZKg1o
>>179
浜松にはこんな地名もあるよ
「布橋」
武田軍との戦いの時、、
犀ヶ崖の上に大きな道の橋があるように見せかけるために、
両端に布を掛け、その上に土をのせ、らんかんを紙で作る。
多くの兵士が落下して死んだ。布橋の地名は「布でつくった橋」


187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/20(水) 15:41:37 ID:P4so1OGI
>>186
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2779.html

『安倍川餅』由来

2009年10月22日 00:09

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/21(水) 16:44:48 ID:16+ulZD6
関ヶ原も終わり、家康は天下を取ると、かねてより構想があったのだろう、さまざまな施策を
一気に推し進めた。新田開発、治水事業、通貨政策、街道の整備、貿易振興…
その中に、大久保長安などを抜擢しての、鉱山開発も含まれていた。

家康が大御所となってのお膝元、駿河においても、海野彌兵衛を奉行に、安倍川の源流地域にある
井川(静岡市)の笹山金山や、梅ヶ島(静岡市)の日影沢金山などの採掘を盛んに行った。

これにより、これらの金山からは年間、四斗樽(72リットル)に三百杯と言う、多量の採掘を見た
そうである。

さて、ある時家康がこの金山に、直々の検分に出向いた。
この時金山の者達が餅を搗き、これに黄粉をまぶして献上した。

「黄粉は、この金山から安部川に流れる砂金をイメージして
まぶしました。よってこの餅は金粉餅』と申します」

家康はこの餅を大変気に入り、金山の者達の褒美を与え、改めてこれを
『安倍川餅』と名付けた。

これ以後、『安倍川餅』は東海道の名物となり、京から江戸に下る勅使や八代将軍吉宗、
また、西郷隆盛などもこの餅に舌鼓を打ち、今に至るも多くの人々に愛されている事、
ご存知の通りである。

『安倍川餅』由来のお話。




804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/21(水) 16:46:49 ID:sv5HtGuB
それまでは黄粉まぶして餅を食う習慣はなかったのか
あっても呼び名がなかったのか

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/21(水) 17:11:55 ID:uZM1itvC
家康って餅関係の逸話多いよな。

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/21(水) 17:23:01 ID:roPX3UNJ
尻から餅を出せるしなー

808 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/10/21(水) 17:52:45 ID:vdfN36yy
>>804
大豆は縄文時代からあるから、似たような物は
あったと思う。
ただ、安倍川餅は江戸時代、当時まだ珍しかった
「白砂糖」をつかっていたため、東海道の名物
として広く喧伝されたみたいだね。

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/21(水) 18:49:20 ID:gUZsMDs/
江戸時代は遊山目的の旅も増えて庶民の購買力も高まったから
各地域で名物を作ったり名所を作ったり、という今と同じことをやり始める

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/21(水) 19:47:13 ID:Cy0dRL93
きな粉か。金粉をまぶしていたら大変なことになっていたな。

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/21(水) 20:36:14 ID:UQc25V8c
別にいいんでは?金粉の入った食品って結構あるし

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/21(水) 20:39:55 ID:16+ulZD6
土地柄なんだろうけど、金沢は和菓子店も洋菓子店も、お菓子に軒並み金箔を使いますなw
もはや一種の調味料だ。

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/21(水) 22:57:33 ID:Wu8nzTL0
まあ金は唾液や胃酸じゃ溶けないだろうし触感はあるかもしれないけど
味はしないよな?

命名「竹千代」

2009年10月04日 00:11

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/03(土) 19:56:39 ID:IlOIJGpJ
天文十一年(1542年)
三河の小名、松平広忠に嫡男が生まれた頃の話であります
現在の碧南市にあります、称名寺という寺で、
連歌の会が行われ広忠もこれに出席していました
広忠はここで前日に見た不思議な夢を題材に歌を詠みました

めくりはひろき園のちよ竹

美しい広い竹林を歩く夢を見たのです
その歌を聞いた称名寺の住職が
前日生まれた広忠の嫡男には、この縁起の良い歌から取った
「竹千代」という名前を付けるのがよいのではないかと提案し、
広忠もそれに同意して、彼の嫡男は「竹千代」という名前になったそうです