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小柄な馬を用いるべき

2017年11月01日 23:14

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 20:29:31.41 ID:jQaAtfFj
信長秀吉の頃より、大柄な馬を用いなくなり、多くは小柄の馬を用いるようになった。
これは武具を着けて、口取りの者が居ない状態で乗った場合、大馬を乗りこなすのは
非常に困難なためであった。

元暦の頃(源平合戦の頃)に用いられた馬は、多くが大型のものであった。
大河を越え、岸石を駆け上がるのは、小柄な馬では出来ないことであった。
しかし駆け引きが自由で、戦を快く致すため思い通りに乗り下すには、小馬に限る。
ある人が言うには、和田伊賀守(惟政)、滝川一益竹中半兵衛などは、何れも小馬に乗っていたそうだ。
豊臣秀吉も、賤ヶ岳の時に乗っていたのは、『小黒』と号した2寸(4尺2寸、約160センチ)に足れる
馬であったという。

考察して見るに、日々弓矢盛んにして戦競り合いが暇もなく行われる時代には、小柄な馬を
用いるべきなのであろう。

(士談)



368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 21:17:19.48 ID:l2YmBqit
何で四尺二寸で160センチなの?

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 21:22:14.12 ID:NdoPDHxu
半兵衛は牛やろw

小黒の2寸って約130cmじゃないの?
160cmなんていったら希な大型馬だわさ

>>368
おそらく鯨尺

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 22:09:43.86 ID:fV6F543b
パッと鯨尺が出てくるってことは和装屋さん?
とにかくスゴいね

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 22:54:13.10 ID:l2YmBqit
>>369
37.88センチなのね
また一つ利口になった有り難う

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 22:58:46.64 ID:gmo4JNSz
曹操の7尺がなんで小男なのか分からなかったなあ
なまじ字が同じだから混乱する

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 23:27:09.34 ID:5JFwwVmX
孔子「六尺の孤を託すべし(身長六尺の孤児を保護してくれるだろう)」
身長180cmならとっくに成人してるじゃん!
とつっこんだ思い出

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 23:32:22.91 ID:5JFwwVmX
孔子じゃなくて曾子だった

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/01(水) 01:06:32.63 ID:YQViDZEX
日本家屋の戸口が横三尺縦六尺基準で作ってるものだから、身長180センチ以上の日本人は苦労するという

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/01(水) 01:22:39.68 ID:HrvqbaGt
>>375
2m超の友人は電車に乗るたびに吊り広告が暖簾みたいになって鬱陶しいとぼやいてた
昔、姫路城の天守閣に上ったらしいが狭すぎて最悪とも言ってたな

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/01(水) 02:13:14.33 ID:P79UcJ+O
2mなんていってなくても170台後半ですでに色々頭ぶつけるぞ

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/01(水) 11:39:43.34 ID:qp2MZxTP
実際は床やら敷居やらの関係で6尺切るから180行かない程度でも頭を打つ
打つというより、頭頂部をかする感じで勢い良く擦るから一番痛い
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摂州白井河原の戦い

2017年10月02日 10:30

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/02(月) 09:48:09.84 ID:I3B0BlWP
永井隼人佐道利は、濃州金山城の城主であったが、織田信長による美濃平均の時流浪し、
その後足利義昭に仕えた。

ある時、摂津において、池田正勝を追放し池田衆を率いる荒木村重と、和田伊賀守(惟政)とが相戦う
ことがあったが、この頃、道利が和田の元へ使節に参った。その時、合戦について言った

「今の敵に対する軍立ては心得られませんし、地利も良くない。ここは待って戦うべきです。
さもなければ必ず敗北するでしょう。」

しかし和田は
「池田衆との戦では、普段から見方が少人数でも大利を得ている。池田方の兵の事など全く気にならない」
そう、大いに侮った。

和田は糠塚に陣をはり、荒木は馬塚に陣をはっていた。
この間は、荒木の方がつま先上がりの地で、和田方のほうが地形低く、掛かりやすい場所であった。

果たしてこの日、和田は敗軍し、義昭の使節であった永井道利も巻き込まれ討ち死にした。
これを摂州白井河原の戦いといい、元亀2年(1571)8月28日の事だという。

(士談)



信長のきてはやぶるる京小袖

2016年11月11日 11:12

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/10(木) 23:19:34.25 ID:K23paop2
摂津国高槻の城主である和田という侍。
信長公の御前で出世し出世頭となった。


信長のきてはやぶるる京小袖     わたがさしでてみられざりけり

信長から貰ったため着過ぎて破れてしまった京小袖 
綿が出てきて(和田が出しゃばって)見られないものになってしまった
                                  
(醒睡笑)





白井河原の合戦 和田惟政の最後

2011年05月14日 00:00

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 17:46:07.00 ID:1EOL3Cdz
白井河原の合戦 和田惟政の最後(1)

フロイスの日本史において何度も触れられる和田惟政、
彼はキリスト教の布教に大いに協力した。
フロイスに信長との会談を何度も取り次ぎ、その教義にも耳を傾け続けた。
が、遂には授洗しないまま最期を迎えた。終焉の地は白井河原であった。
1571年、当時の摂津であるが、名目上諸侯、国人は信長に臣従しつつも、
互いに牽制、鎬を削る緊張状態であった。
特にこの地の旧家池田勝正を放逐した荒木村重、及びその茶仲間でもある中川清秀、
それに対する和田惟政と茨木茂朝とが敵対し、遂には信長の配下同士が勝手に合戦をする
というということになってしまった。
和田惟政が白井河原の戦場に到達したとき、彼の配下はわずかに馬回り200名に過ぎず、
500以上の主力は息子の惟長と共に到着が遅れたのであった。対する荒木村重勢は2500である。


144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 17:48:45.41 ID:1EOL3Cdz
困った和田惟政、河原の草むらに軍馬を隠し後続の到着を待つことにした。(2)
この時の和田惟政のいでたちは、南蛮風白銀造の鎧、胸に十字架、
兜の上にイエズス会、カブラルから贈呈された帽子をかぶっていた。
枢機卿の帽子の如く、高価な羅紗でできた真っ赤な幅広帽、ひどく目につくものであった。
目ざとくこれを見つけた荒木村重、大音声で遥か川向う、身を潜めたつもりの和田惟政に声をかけた。
「されもきらびやか、派手やかな和田殿の大将ぶり、見事なもの。さえど臆されたようでござるな、
尋常に勝負をいたそうではないか、なんなら大将同士でもよいぞ。なんだ、なんだ、隠れたつもりでござるか、
耳が遠くなるにはまだ早いのではござらぬか、聞こえているはずだが、
急に耳の具合が悪くなったのでござるか?南蛮の教えならよく聞こえるのでござろうがな。」

両陣の兵、荒木村重の軽妙な挑発に、どっと哄笑を上げた。
これにみるみる赤面し激した和田惟政、周囲の諫めに耳を貸さず、決戦に応じてしまったのである。

善戦するも、和田惟政、村重の鉄砲で深手を負い戦場からの離脱を図るが、これまた村重の目にとまる。
村重が、討ち取ったものには恩賞を約すると、中川清秀が馬を駆け、惟政の首を上げたのであった。

信長に西摂津守護を任じられた和田惟政のあっけない最後






146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 18:00:34.65 ID:LGVCBko7
両陣って味方にまで笑われたのか?

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 18:07:27.06 ID:V6VEQzNH
元亀二年に南蛮鎧・・・

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 20:55:16.21 ID:sIauZOqv
和田惟政討ち取ったり、本願寺に兵糧をこっそり売って
荒木村重謀反のきっかけをつくったり
妹がゲヒ殿の嫁だったりとなかなか面白い中川清秀

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 21:10:23.02 ID:sFpiHO4U
>>147
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1163.html

さすが良く御存じ、この時代には南蛮鎧ありませんでした。

黒木了「荒木村重、惜命記」に載っていたのを鵜呑みにした間違いです。