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金の馬鎧

2016年02月25日 19:10

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 19:32:41.00 ID:OZ8/vebl
天正の初め、武田軍は中山、上野の尻高、中山、白井の諸城を攻め、真田勢もこれに随身した。
しかしそれらは屈強の要害であり、吾妻勢は度々利を失った。そこで真田昌幸は、
忍を入れて城を焼き落とすべしとして、唐澤玄蕃にこれを申し付けた。

唐澤はこの旨承り、割田新兵衛尉を相語らい、尻高城に忍入り放火した。

中山城に忍入った時、城主の中山安芸守は鼓を打って酒宴をしていた。中山は鼓が非常に下手であった。
百のうち一つもまともに鼓の音を出せなかったので、世の人は『中山殿の鼓にて百一つ』と語り合っていた。

そうして夜もふけ、皆寝静まり夜廻のものも油断した頃、唐澤玄蕃は中山城の納戸に忍入り、ここかしこを
捜索していると、金の馬鎧を発見した。これは畢竟の事だと思い、放火せずにこの馬鎧を盗みとって
帰陣した。

この馬鎧は、中山安芸守が、関東管領・上杉憲政の元に出仕した時拝領したもので、それを今度
唐澤に取られたのである。

唐澤玄蕃は一本気な若者で、その後合戦があればこの馬鎧を着けて出陣した。
ある時、西上野に出陣した折、唐澤は真田の軍勢に属していたが、これが信玄公(原文ママ)
の目に止まり、真田信綱を召して「あれは信州松山合戦の時に見た馬鎧だ」と仰せになった。
その頃は乱世であり、金の馬鎧など見ることは殆ど無かったという。その時「あれは何者か?」と
お尋ねになったので、「唐澤です」と申し上げた。このため、唐澤玄蕃は不意に高名を上げたのである。

(加沢記)

加沢記より、真田の忍・唐澤玄蕃のお話。後半の信玄は勝頼の間違いですかね?



377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 20:26:08.23 ID:IqQWvIY0
唐沢玄蕃といえば、
歴史秘話ヒストリアの真田昌幸・真田信之回でこの話をやってて、
金の馬鎧に目を輝かせて思わず盗んでしまう、おちゃめな忍者として描かれていた
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唐澤
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