飫肥城引き渡し

2016年11月09日 13:35

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/08(火) 20:32:26.56 ID:ZmqVOuEJ
天正15年、伊東祐兵豊臣秀吉より飫肥を拝領したが、島津家の将である上原長門守(尚近)は飫肥城から
退去せず、引き渡そうとする気色もなかった。

伊東家はその年の8月初めより川崎又右衛門尉を大将、川崎宮内左衛門尉を副えて郷原水城に陣を取り、
上原を説得したが、彼はこれに従おうとせず、あまつさえ8月10日には軍勢を出して、郷原において
苅田を行った。

伊東勢もこれに打って出て、飫肥城勢を広木田まで追い詰め、大勢を討ち取って引き上げた。しかし味方にも、
桜木藤七兵衛尉、海老原清左衛門尉の両名が討ち死にした。

この事は豊臣秀吉に報告され、秀吉は早速、土井九右衛門尉を上使として飫肥に差し下した。
土井九右衛門尉は豊臣家の朱印を持って、同年12月13日、飫肥に到着した。
彼は上使であったので一の城戸を騎乗のまま乗り通り、二の城戸まで乗り通ろうとした所で、
上原の門卒たちが「乗打無礼なり!」と腹を立て、九右衛門尉を始めとしてその一行のうち13人を
惨殺した。その時は伊東家からも、平原河内守、松浦甚助が案内者として同行していたが、平原は
殺され、松浦は生け捕りにされ、のちに解放された。

上原長門守は門卒たちの濫妨を聞いて驚愕した
「上使を殺した罪は逃れがたい!お前たちは私の首を斬ったのと同じであるぞ!」
そう悔やんだが及ばず、程なくこの事件は秀吉に聞こえた。

秀吉は激怒し、即座に上原長門守を召喚した。
上原は、とても逃れられないと思ったか、嫡子城之介を名代として大阪に上らせたが、上使を殺した罪により、
この嫡子が斬罪となった。
飫肥城は天正16年閏5月3日、伊東家に引き渡された。

(日向纂記)

島津家の上原尚近、よりによって秀吉の上使を無礼討ちにしたというお話。



282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/08(火) 23:42:29.86 ID:RvUCPlAS
息子を斬らせて助かるなんて…

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/09(水) 04:27:01.27 ID:LHaGcvNP
???「子供なんていくらでも産めばいいのよ」

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/09(水) 04:55:48.51 ID:oIThLz4f
何そのカテリーナ・スフォルツァ
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