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おうた子に教えられ、川を渡る

2022年09月05日 17:40

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/05(月) 14:50:01.20 ID:SG6/So3y
徳川家光公の御治世に、「万事御政道は、東照宮の通りに成されるべき」と仰せになられたところ、
伊達陸奥守政宗は
「家康公より、百万石を給わらんとの御書付が有りますが、政宗としても現在は御代も代わった事でもあり、
それは反故であると存じていましたが、今度の仰せについて、この御証文の写しを御覧に入れたく思います。」

との御書付を献じられた。

この事は上聞に達し、土井大炊頭利勝を召されて
「陸奥守に百万石を下すというのは、有るまじき事では無いが、これはその当時の御謀であり、このような事を
取り上げていては、他家よりもまた、この類のことを願ってくるだろう、いかがすべきだろうか。」
と御尋ねになった。

利勝はこれに「井伊掃部頭(直孝)に御相談されるべきでしょう。」と言上したため、すぐに掃部頭を召し出され、
これこれの旨を仰せ聞かされたところ、直孝は承って、伊達家に参り、政宗と対面して申した

「只今、風説を承るに、今度仰せ出されたことについて、御先祖(家康)より下された御証文の写しを
差し出されるとの事ですが、これは実説でしょうか?不審に思い、罷り越しました。」と申した。

陸奥守答えて「いかにもその通りである。御代も代わった故に、この御書付も反故と存じていたのだが、
今度の仰せ出されにより、御覧に入れるのだ。」

直孝は尋ねた「その御証文は御自筆でしょうか?」
「全く、御先祖の御筆である。」
「もし出来るのであれば、それを少しばかり拝見仕りたく思います。」

そのように申したため、政宗は家臣を呼び出し、御証文の入った筥を取り寄せ、井伊の前に置くと、
直孝は御証文を出して押し頂き、とくと拝見して政宗に対し

「かような事は御謀であり、貴殿もその事は御存知であるはずです。誠に反故にて候。」

そう言いながらこれを二つ三つに引き裂いた。政宗はこれを見て興醒めして

「なるほど、左様である。これはおうた子に教えられ、川を渡る(負うた子に教えられて浅瀬を渡る)と
申すものであるな。」

と笑われ、種々の饗応あって後に、直孝は伊達家を出てそれより直ぐに登城して、この趣を報告すると、
家光公はご機嫌斜めならず、利勝も大いに感心したという。

(新東鑑)



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周防守は、身を踏み込んで勤る者である

2022年08月31日 18:56

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/30(火) 07:51:04.79 ID:rNXzoC2O
板倉周防守(重宗)が江戸に下向された時、松平伊豆守信綱がこのように言った

「上様(徳川家光)にも、段々と政務に御心を尽くされています。上方のことも仔細に
聞いてみたく思っておられるようで、今後は仲間に遣わされる書状にも、今少し
御念を入れられ、上方の事を上聞されるようになさるべしでしょう。」
(重宗は何れも上の御機嫌を伺い、さらに堂上方に別儀なき儀ばかりを書いたという)

これを聞いて周防守は
「上方から百二十里隔てている以上、上様がどれほど御発明であっても、その情報は及び腰になり、
御存これ無き儀となります。そのために拙者が差し置かれているのです。ですので、
申し上げるには及ばざる事と存じ奉ります。」
と言った

この事を家光公は聞き召され、「周防守は、身を踏み込んで勤る者である。」と。
御感悦斜めならずであったという。

新東鑑



一季居、耶蘇教、負傷者、煙草、屠牛ニ関スル禁令五ヶ條

2019年06月09日 09:27

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/09(日) 03:07:24.08 ID:cxXeu6pY
  六日、幕府、一季居、耶蘇教、負傷者、煙草、屠牛ニ関スル禁令五ヶ條ヲ頒ツ

 『令條』

  条々

一、一季居(一季で雇われた者)の事。堅く停止された以上は、侍はもちろんのこと中間・小
  者に至るまで抱え置く輩は速やかに罪科に処される事。

一、伴天連門徒は御制禁なり。もし違背のある族はたちまちにその科を逃れられない事。

一、手負いの事。上下に関わらず傷付いた者がいれば、その場所の給人・代官に詳細を申し届
  けなければならない。ならびに他の場所から手負いの者が来たならば、すなわちその手負
  いを留め置き、交名を註して必ず言上すること。万一隠し置けば、重科に処される事。

一、煙草を吸う事。制止とされるに至り、その上で売買する者までも見付けた輩がいたならば、
  双方(売る者と買う者)の家財を、見付けた輩に下されるものである。もしまた、路次に
  おいて見付けた場合は、煙草ならびに売主をその在所に押し置いて言上せよ。付いて来た
  馬・荷物以下は改め出した者に下される事。

  付いてはどこの地においても煙草を作ってはならない事。

一、牛を殺す事は御制禁なり。おのずと殺すような輩には一切(牛を)売ってはならない事。
 (牛を殺事御制禁也、自然殺へき輩には、一切売へからさる事)

  この趣を領内に必ず触れさせるように。この旨を堅く仰せ出されたものである。よって
  件の如し。

     慶長17年(1612)8月6日        青山図書助(成重)
                            安藤対馬守(重信)
                            土井大炊助(利勝)

            藤田能登守殿(信吉)

(原注:幕府が一季居を停止したことは慶長14年正月2日に。煙草を禁止したことは、同年
7月是月に。また耶蘇教を禁じ、京畿の耶蘇寺院を破壊せしめたことは、本年3月21日に。
また一季居などに関する法令を頒布したことは18年3月是月に各々その条あり。参照すべし)
                      
――『大日本史料』

その7日後>>129



135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/09(日) 21:52:07.77 ID:mD08Q13s
キリスト教については分かる
煙草もなんとなく分かる
その他はどういう理由なんだろうね

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 12:58:13.75 ID:Cv0VNwoU
>>134
牛を殺すことの禁止はキリシタン弾圧の一環かな

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 13:30:40.56 ID:E0Guiztx
キリシタン弾圧って言うより、牛を食うという行為が農民から相当嫌悪感を持って見られてたらしい。
秀吉のキリシタン追放令の理由の中にも「牛を食うこと」が入ってる。

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 13:44:22.19 ID:ZI8DPZsm
自分の親が牛に転生してるかも、と思うと食えないな

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 14:56:31.46 ID:YuoSwCCz
カムイ伝みたら穢多が死んだ牛食ってた

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 16:54:35.54 ID:/xDs3wXj
彦根藩の特産品は干し肉と味噌漬けだったりする。
彦根藩から届く肉を楽しみにしていた大名は多く徳川斉昭もその一人だったが
井伊直弼が藩主になると肉食を禁じてしまう。
しつこく肉をねだる斉昭と頑なに断わる直弼の仲は険悪になり
安政の大獄や桜田門外の変の遠因になったとかならなかったとか…

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 17:30:23.91 ID:n8keEJU7
食べ物の恨みは怖いな

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 18:30:43.06 ID:ZI8DPZsm
>>144
慶喜「父上も近江牛がなければ豚を食べればいいのに」

この利勝である

2018年10月18日 19:31

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/18(木) 16:00:43.03 ID:hz70uM1d
水野信元処断の頃)

信元は讒者のために家国を失い遺跡は絶えてしまったが、女子2人あり。これは女なので子細ある
べからず。この他に2歳の男子あり。これは如何許らんやと家人らも思い煩った。

その頃、水野家に客人と称した女房がおり、この女房は機転のきく者で男子を我が子であると披露
して懐に抱き、浜松に赴いて民間に隠れて養育した。この子は成長に従って聡明英才に見えたので

徳川家外様の侍・土井小左衛門利昌が養い取って子とした。神君(徳川家康)はその由緒を聞こし
召されたのか、天正10年(1582)4月7日、長丸殿(徳川秀忠)の御誕生の時に7歳の

この子を召し出され長丸殿に付けられたのだが、その頃は甚三郎利勝といった。後に追々出身して
下総古河城主となって16万石を領し、大炊頭といって天下大老職に昇ったのはこの利勝である。

(原注:一説によると神君が御鷹狩に出られた時、1人の女が小児を抱いて御乗物に向かって涙に
咽び口説き申す事があった。神君はその小児をただちに召し連れられ帰られた。後に土井大炊頭と
申したのはこの子であると、その説に見える)

――『改正三河後風土記』



376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/19(金) 23:21:15.89 ID:HsflDq2G
>>373
>人の女が小児を抱いて御乗物に向かって涙に 咽び口説き申す事があった。

神君「床を敷けぇい」

利勝の知慮は衆人の及ばぬところ

2017年06月17日 09:58

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/17(土) 04:08:56.99 ID:bAhFoq+C
土井大炊頭利勝は土井小左衛門利昌の養子である。実は水野下野守信元の次男なり。
一説には神君(徳川家康)の御落胤であるという。

ある人が殿中で利勝の髭を見て、「貴殿の髭は神君の御髭によく似ている」と、言った。
利勝は、翌日に髭を剃り落として登城した。この頃までは、髭を立てて置くのが風俗で
あったが、利勝が剃り落としたのを見て人々は追々髭を剃り落としたのだということだ。

この利勝は衆人よりも智謀に優れた人だった。先年、関白秀次が太閤の御不審を蒙り、
一大事となるという時、利勝の智謀によって秀次の謀の罪に陥らず、台徳公(徳川秀忠
と御同道で太閤の御前へ出なされば、太閤は殊の外喜びなさり、

「さすが新田殿の子孫である」と賞美なさった。神君も御上京なさり、利勝の智謀の計らい
を御賞美なさった。その時、利勝は17歳であった。

後年、執権であった時、密事を評議することがあった。しかるに、これまでは密事を評議
するには茶室などのような狭い所でその周辺の障子襖などを皆仕切って評議したが、

この度は利勝が大広間の真ん中に座り、その周辺の障子襖を残らず取り払って評議衆
のみ一座し、他は人払いして評議したため、余人が忍び聞きすることはなかったので、

これ迄のように密談が漏れる事は少しもなかったのである。利勝の知慮は衆人の及ばぬ
ところと、将軍家(徳川秀忠)も深く賞美なさった。

また本多正純が罰せられた時、ある人が言ったことには、「正純は不届きとはいえ、正信
以来旧功の家であるのに、此度の御仕置きは余りに厳重すぎである」とのことだった。

利勝はこれを聞いて、「いまは天下創業の時なれば、賞罰などは厳重でなければ平天下
長久ならず。それにはまず御譜代を厳重に罰しておくことが天下への示しである。正信が
どうして泉下において、恨み申すことであろうか」と、申したということである。

――『明良洪範』


今は、天下創業の御政務である。

2017年03月15日 19:17

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/15(水) 17:53:08.67 ID:FwIHOceO
ある人が言った
「大久保相模守忠隣、本多上野介正純などは、父祖代々御当家に仕えて大功のある人々の子です。
であるのにその一身が修まらざるによりて、最期には辱められ、彼らに縁のあった大名たちもまた、
名家、あるいは数代の武臣であったのに、多くがこの事によって改易されました。
これは非常に荒い御政務ではないでしょうか。」

これを土井大炊頭利勝が聞いた
「愚かなることを申す者かな。私などは今、武家(将軍家)執事職を兼ね勤めていると言っても、
子孫が君命に背くなら、他の者よりも罪を糾明されてこそ本意である。
またその上で、折が有れば、大久保・本多といった罪を問われた人々に存命の子孫が有れば、
宜しく召し仕わされる事、これが仁政である。

今は、天下創業の御政務である。
だからこそ、先ず御譜代より厳しく戒め置かれているのは天下に恐れられている。
御譜代の者が別してその罪を深くしてこそ、上の後威光が増すのである。

忠隣、正純の父である、大久保忠世、本多正信も、息子に対して泉下で憎んでいるだろう。
仮に存命していれば、共に子を勘当したであろう。
彼らはそういう人物であった。」

そう申されたという。

(武野燭談)



668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/15(水) 19:41:25.77 ID:jC7m6Npx
>>667
いい話じゃない?

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/15(水) 21:45:02.10 ID:kjNWxgyd
正純の父が正純
※訂正済みです
670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/15(水) 22:44:16.45 ID:ccF9VRfj
Oh!マサズミホンダJrのコトダネー

この両説は、確かには分からない。

2016年12月27日 17:40

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/27(火) 04:54:42.37 ID:M9KwdTmq
さきの土井大炊頭(利勝)は、

権現様(徳川家康)の御乳人の召使いに“松”という女がおり、これを
榊原の家来・土井氏と出合わせて持った子である。

一説には大方様(於大の方)の女房たちの子であるという。であれば、
水野下野守(信元)の落胤だろうか。

この両説は、確かには分からない。

――『武功雑記』



隙を見て豊臣秀頼を暗殺いたさん

2016年05月25日 19:50

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/25(水) 15:33:00.47 ID:K18+45UD
悪い話スレとどっちかいいのかわからなかったんだけどカキコ

慶長十九年十一月、大坂の陣の直前のことである。
駿府から出陣した大御所・家康と合流していなかった将軍秀忠は、
側近の土井利勝を家康のもとに遣わした。

「以前ご勘気を被って蟄居していた山口重政
 『大坂城に入場し、隙を見て豊臣秀頼を暗殺いたさん』と
 申しております。 いかがいたしましょう?」

しかし家康はこの案を容れず、徳川方と豊臣方は全面対決することになる。
この時の家康、秀忠、重政の心境はどんなものだったろうか?
蟄居の身の山口重政はどうしても幕府と大御所に恩を売りたかっただろう。
秀忠にしてみれば、秀頼が暗殺されれば
千姫がどうなるか気になっていただろうし、
それは家康も同じだっただろう。
それとも、幕府の威信にかけて正々堂々勝負すべきとして
家康は重政の提案を退けたのだろうか。
戦国の最後を飾る大舞台、人々の思案をめぐるお話。               



昨日、不始末をし叱った坊主を

2016年01月27日 18:37

42 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/01/27(水) 08:33:42.92 ID:QK5rajFN
土井大炊頭が、坂崎出羽守愛用の三池典太の脇差を所望し、家臣の寺田某を
坂崎の屋敷に遣わした。寺田から話を聞いた出羽守は
「大炊様から脇差を所望されたのは、名誉なことである。斬れ味
を確認して頂いた上で進呈することとしよう。」
といい、家老を呼び、罪人がいるかどうかを尋ねた。
家老が
「今日はいません。」
と答えると、出羽守は
「昨日、不始末をし叱った坊主がいるだろう。そいつを
連れてこい。」
といい、連れてこられた坊主を木に吊るし、その脇差を抜き打ち
に胴切りにし、坊主の体を両断した。その一部始終を寺田に
見せた上で、脇差を渡した。

坂崎の凶暴さとともに、脇差の抜き打ちで胴を一刀両断にする
恐ろしい腕の冴えを伝えるお話し。

「元禄世間話風聞集」



43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/27(水) 10:07:02.40 ID:bmM4omYX
試し切りされる程の不始末ってどの程度の物なんだろ?
三才様家の庭師レベルなんだろか?

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/27(水) 12:27:56.12 ID:+L0D7x0A
銘「大炊、刃に丸」

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/28(木) 01:54:28.78 ID:jd9xfX/V
土井利勝に刀をもっていかれてムカついたんだろうなコレw

謀叛の廻文

2015年12月22日 07:55

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/22(火) 06:51:58.19 ID:Qsqv1Uho
大御所徳川秀忠が死去した後、諸大名の元にどこからともなく、
『将軍家光を殺し駿河殿(徳川忠長)を新将軍として立て参らせん』との内容の書状が廻ってきた。

この時、伊達政宗が最初に家光の元に参り、このような物が来たと申し上げた。
藤堂高虎がそれに続き、その他の大名も皆この事を告げたが、加藤肥後守忠広父子からは
報告がなかった。また徳川忠長も、この事を知りながら早く報告しようとしなかったため、
彼らは罪を被ることとなった。

実は、この謀は土井利勝より出たものだという。利勝はこう考えた
『今の世の中、普通の大名が謀反を企てても、誰もそれに組しようとはしないだろうが、
御一門の人々が決断すれば、あるいは組するもののあるだろう。』

そこで秀忠が逝去してから、罪を被った風を装い引き籠もって、密かにこの廻文を巡らせたのだ。
加藤父子の罪が定まってから、利勝はいつの間にか再び出仕するようになった。

古き人は、私にこのように語った
「利勝は深い謀のある人で、永き当家の忠臣であった。」
誠にその通りである。

(藩翰譜)




丹羽長重が赦免された理由

2015年11月27日 17:47

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/26(木) 21:19:33.99 ID:UmHPvjDh
関ヶ原の戦いのあと、丹羽長重が赦免された理由の一つとして、
大相国家(徳川秀忠)が未だ童形であった頃、この長重と親しく語り合い、
『如何なる事があってもこの好を決して忘れない!』と、
固く誓った事があった。

このことを密かに家康に伝えた人があり、それもあって赦免に至ったのだという。

これを家康に伝えたのは、土井利勝だとも、本多正信だとも伝わる。

(藩翰譜)

徳川家康、息子の友だちならしゃーないと丹羽長重を許すの巻



39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/26(木) 23:43:35.70 ID:Anv+yfLZ
前田利常が人質だったときの逸話があるし、仁徳者だったんだろうね

「天下の乱の元と存じました」

2015年04月22日 18:30

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/21(火) 20:45:49.19 ID:dtcF3OWH
将軍徳川秀忠が諸大名を召して、土井大炊頭利勝を以って、来年嗣君(家光)に世を譲る旨を
発表すると、何れも祝う所に、井伊直孝一人黙然としていたため、土井利勝は側に招いて
「どうかしたのか?」と問うた所、直孝は

「天下の乱の元と存じました。めでたい事とは全く思いません。」

「それはどういう理由か?」

「それについては、大阪の乱のあと。江戸城の石垣の造営、日光の御造営とうち続いたため、
天下の諸大名は以ての外に困窮しております。そんな状況でこの上御代をお譲りなされば、
諸大名はその祝の献上品のため費え多く、また将軍宣下の饗礼を執り行えば、更に困窮に及んで、
支配下の民を苦しめる以外に方法が無くなるでしょう。
これによる万民の嘆きは、乱の基であると存じます。」

土井利勝これを聞くと
「至極の事である。それをありのまま、秀忠公に言上すべきだ。」
そう言って直孝を御次の間に伴い、利勝は御前に進んでしかじかの旨を言上すると、直ぐさま直孝は
御前に呼ばれ、秀忠よりこのように言われた

「汝が申す所は尤もである。しかし、一旦言い出してしまった以上、止めることは出来ない。
なお、今後も憚ること無くどのような事でも私に申すように。」

ところが直孝は、これに全く納得しなかった。
「直孝の只今の旨、然るべからずと思召したのであればそれでよいでしょう。
しかし!臣の言葉を尤もと聞かれたのに、用いられないのは、仰せとも思えません!」

これに秀忠は、暫く言葉もなかったが、ここで利勝が申し上げた
「私は既に年老いました。しかし彼のような壮年の者がこのように直言申し上げるというのは、
誠に天下泰平の基であります。明日、大名を召され、掃部頭(直孝)が申す旨尤もなるにより、
昨日の事は止められると言うことを仰せになるのが、然るべきと考えます。」

これに、秀忠は彼らの諌めに従う事にした。
直孝は「私が申す旨を用いて頂き、忝く思います。」と謝して退去した。

この事について当時の人々は、秀忠が諌めを入れたこと、直孝の直言、誠に君臣とも美を為し
善を為したと語り合ったという。


(明良洪範)


使いの不首尾も

2014年11月16日 17:28

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 15:27:01.02 ID:9qNWEAcA
土井大炊頭利勝殿へ、蒲生下野守殿(忠郷)より子細あって安達内匠という者が
使いに遣わされた。大炊頭殿がお会いになって用事を申されたところ、

内匠は暫く黙して手を突いていたので、大炊頭殿は「腹痛などではないだろうか」
と案じなさった。すると、内匠は「口上を忘却いたしましので、恐れ入りますが、
御次の間で思案いたして申し上げたいのです」との旨を述べたため、

大炊頭殿は「それならばゆるゆると思案しなさい」と申された。やや暫くして、
内匠は御目にかかり、口上の首尾を案じ出して申し上げたということである。

大炊頭殿は「人多しといえども内匠の如き使いはおるまい。ひたすら当座の首尾に
合わせてしまって、忘れたことも押し隠すものである。嘘偽りの無いことだ」と、
甚だ感心なさり、

下野侯に「褒美なさいませ」と申されたということである。大炊頭殿の寛仁により、
使いの不首尾もよく取り成して申されたことは、有り難きことである。

――『責而者草(三河の物語)』




安藤帯刀「あのように諸役人を遇するのは」

2014年09月25日 18:50

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/25(木) 02:48:25.51 ID:HBI3MB18
徳川家康が駿河において、その十男徳川頼宣の邸へのお渡りが行われる事となった。
その頃土井大炊頭利勝は未だ家康のお側近くに使えており、家康より「今度の事で頼宣邸に先に向かい、
頼宣の家老・安藤帯刀直次が準備を指揮する様子を見学するように。」と仰せ付けられ、利勝は
毎日出向しその様子を見た。

ところが頼宣邸では、諸役人が帯刀の前に出て「この事はどうしましょうか?」と議する時、
帯刀が自分の意に適うことはそのまま了承し、そうでない事には「いや、それは良くない」とだけ
言って、内容について何の指示もしなかった。よってその者は同僚と重ねて相談し合った上で再び
帯刀の前に出てこれを伺うが、また意に適わない内容であれば幾度も前のようにし、終に納得すると
これを許諾した。

利勝は帯刀にこのように感想を漏らした
「私が思うに、物を問われたのに『良くない』とばかり言うよりも、直に『このようにせよ』と指揮したほうが
物事も早く終わるのではないでしょうか?」

帯刀これを聞いて
「私は犬馬の歳もすでに長けて、後はもう死ぬだけです。あのように諸役人を遇するのは、
まだ若き殿に、人物を作っておいて進ぜたいためなのです。

私の指示を受けてさえいれば済むと思ってしまえば、人々は何事も思慮を用いず、万事未熟のままで、
良き人物は出来ないものです。」

利勝はこの言葉に大いに感じ入り、「これが家康公が見習えと仰せになったことなのだ。」と気付いた。
そして後々機務を司るようになると、下僚より質問があった時、我が意に敵わない時は
「それはそうかもしれないけど、他に何かやり方がないかな?同僚と相談してもう一度言いに来て。
同僚と話し合いできないのなら、親族か家臣とも相談してみなさい。」
そうしていよいよ議論を重ねて、理にかなう内容になれば
「いかにも尤もである。その通りに行うように。」と言ったという。

(古諺記)



875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/25(木) 11:42:59.89 ID:ZTk2Q6/A
土井にしても安藤のやった事をそのまま引き写したわけではないのが
またいい話だなと思う

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/26(金) 22:05:15.59 ID:PSfpCP45
>>874
>私の指示を受けてさえいれば済むと思ってしまえば、人々は何事も思慮を用いず、万事未熟のままで、

ジャン・リュック・ピカード大佐の組織論かよ

日光の鉄燈籠に関する政宗の手紙

2014年08月22日 18:52

586 名前:sc→net未反映分のコピー[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 04:12:22.03 ID:k/wP8bZN
※顔文字を用いた逸話ですいません

日光の鉄燈籠に関する政宗の手紙

(●∀・)「よぁ、忠宗元気か?急ぎ用件に入るよ。家康のとっつあんの法要に合わせて、日光に諸大名が燈籠を献じるんだって?

江戸では噂になってるんだろうが、仙台にいる俺のとこにはそんな話はなかなか届かなかったよ。

ちぃ!油断した!

だがしか-し!そんなイベントを知らなかったじゃ済まされんだろ?

話を聞いてすぐに土井利勝を脅…、いや土井に頼んで伊達家が燈籠を設置するのに相応しい場所をゲットしたぜ!

石の燈籠じゃ期限に間に合わんから、みんなが驚く様な鉄製の燈籠を職人にオーダーしたよ!

手当を弾んで急がせて、10日くらいで作らせる。

完成次第日光に送らせるから安心しろ。」

(●∀゚)「(今井)宗薫よ、おめえとはマブダチだと思ってたのに、なんでこんな重要な話を手紙の端にも書かねえんだ?
危うく他家の笑い者になるとこだったじゃねえか!?」

(●∀・)「あ、(桑山)左近さん、江戸の噂話を知らせてくれてありがとう!政宗助かったよ!」
家康の一周忌に合わせ
政宗は鉄燈籠を献じに日光と江戸へと上がった

政宗の性格がよくわかる、日光の鉄燈籠献上の手紙にまつわる話




588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 07:41:22.12 ID:HYzwZq+e
>>586
土井さんに難癖つけて、対応するのは酒井さんか。

「誠に新田殿の子である。」

2014年07月11日 18:59

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/11(金) 07:23:11.10 ID:N+c+eHsk
文禄4年5月、徳川家康は京から江戸へと帰還したが嫡子秀忠は京の邸宅でその留守をしていた。
この時、太閤秀吉と関白秀次の間に事が起こった(秀次事件)。

秀次は目前の危険から逃れるために、秀忠を拉致し人質としようと謀り、早朝、特使を参らせ
朝餉に参るようにと迎えた。しかし留守居の大久保忠隣はその謀を察し、土井利勝を始め5,6人に
お供をさせ、密かに伏見の館へと移動させた。この時、利勝のすすめにより、竹田路を通らず、
大路を経てつつがなく伏見に到着したという。

伏見に到着した秀忠は太閤秀吉の元へと渡ると、秀吉は大方ならず喜んで、
「誠に新田殿(家康)の子である。」
と、大いに賞賛した。

これは、父・家康が都を出立する前、秀忠を密かに呼んで
「私が東に向かった後、必ず太閤と関白の間に事が起こるであろう。
その時お前は必ず、太閤の御方に参るように。」
と言いおいたためであったという。

(徳川実記:台德院殿御實紀)

秀次事件の時の徳川秀忠の脱出劇。秀吉が家康を「新田殿」と呼んでいるのが印象的である。




285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/11(金) 19:09:45.13 ID:zCem73+m
確か新田の末裔を自称してたんだよな

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/11(金) 19:28:03.08 ID:CplVdxw5
呼んでいるっつーより呼ばせてる

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/11(金) 20:13:05.63 ID:xrqO5+4h
乞食坊主の子孫

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/11(金) 22:34:57.93 ID:zCem73+m
なに、中国には流浪の乞食坊主から皇帝にまで成り上がった
いい意味でも悪い意味でもラスボスを更に強化したようなお方がいるんだし問題はない

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/11(金) 23:01:39.09 ID:N5Xc6OWK
跡継ぎの息子が殺されて、天下を簒奪されるが
実はその跡継ぎには生存説があるのも似てなくもない

どっちかというと大友皇子に近いが

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/11(金) 23:19:35.57 ID:NNvyJC9s
新田と家康の繋がりがわからない

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/11(金) 23:21:18.28 ID:P79Fed1y
清和源氏-新田氏-世良田氏-得川氏-松平氏
ということに一応なってるから

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/13(日) 08:50:27.09 ID:foBlReUX
岩松「新田の後継です」
由良「家系図強奪したったwwwこれで家系図繋げられるわwww」

岩松「もう家系図は渡さないぞ・・・」
徳川「くーださい」

土井利勝と鮭延秀綱のヒゲにまつわる話

2014年04月26日 18:48

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 11:53:40.54 ID:iOXbuZnl
土井利勝鮭延秀綱のヒゲにまつわる話

江戸初期の大名や武士の間では頬や顎にヒゲを生やすのは勿論の事、もみあげを伸ばすのも武士としての
武辺者の趣を示す嗜みのひとつでもあった

しかしある時土井利勝が綺麗さっぱりとヒゲを剃った出で立ちで登城した

諸大名は利勝の行為を不思議に思ったが、土井家中の剛の者、鮭延越前(秀綱)らの話からその理由が判明した

鮭延「殿(土井利勝)は歳を経てヒゲを蓄えるにつけ、なにかと神君(徳川家康)に似て来たと
噂をされるのを痛く気になされておる。
あらぬ噂(土井利勝は実は家康の隠し子だから容貌が似てくるのではないかといった噂)が過分になされぬ様に
ヒゲを落とされたのよ」

ヒゲ面の諸大名の中にあってヒゲを落とした事から
わけを知らぬ者にまで理由を詮索される意味ではちょっと悪い話





101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 15:40:18.27 ID:Zhc8gxkT
水野勝成「大御所と利勝とそれがしは従兄弟、水野の血が強いだけでござろう」

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 16:45:51.67 ID:iOXbuZnl
>>101
古河の歴史
http://culture.city.ibaraki-koga.lg.jp/rekihaku/tenjiannai/josetu/tosikatutokeihu.htm
土井利勝の出生については当時から徳川家康の子供とのうわさが広まっていたが、利勝自身はそのうわさをできるだけ避けていた。公には土居利昌と葉佐田氏の娘との子供となっている。また一方では家康の従弟の水野信元説も当時から唱えられていた。
江戸時代中期には藩内で藩主の家譜調査がおこなわれ、家康の子と明記されている。
近年、地元研究者の説でも実父は家康、養父が土居利昌(三河国碧海郡土居村早乙女小左衛門利昌 家康の家臣 知行500石)が有力視されている。

保科正之「…だそうです」

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 17:09:59.30 ID:6C8dYTeN
天一坊「ではわしが将軍御落胤である可能性も」

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 17:24:17.45 ID:/NUGOV8U
秀吉「ないない」

105 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/04/26(土) 23:13:07.92 ID:rE086cAs
秀頼「ですよね~w」

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/27(日) 00:10:29.27 ID:djLyE9Or
毛利秀頼は守護大名の斯波義統の御落胤だと思ってたら
異説があったんだ

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/27(日) 00:18:12.03 ID:A/y6LEAC
大野治長「そっちの秀頼かい!」

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/27(日) 00:20:06.52 ID:A/y6LEAC
土井家臣団は鮭延秀綱以下みんなもみあげとおひげもふもふなのに…

諸役人が土井利勝に用筋を伺う時

2013年12月25日 18:43

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/24(火) 18:39:14.87 ID:3S5L+UmG
諸役人が土井利勝に用筋を伺う時、利勝は心に叶わないことには、

「確かにもっともではあるが、未だなんとなくやり方があるだろうと
思うので、とくと仲間衆と相談なさって申し出なさい。

仲間衆の相談で極めがたいなら親類衆、または、御自分の家来などへも
相談なさって申し出なさい」と、言った。

その人がそのように相談し、了簡して申し出た時、
利勝は、まことにもっともだと思えば、

「一段ともっともに思う。ぜひともその通りにしなさい」と指示した。

――『名将言行録』




968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 19:00:02.21 ID:mxnu+bBb
正面切ってアホとかいうと殿中だろうが斬られるからな。斬られなくても遺恨とか残るし

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 19:15:17.03 ID:nYAmJCrs
安藤直次の人創り
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3314.html

帯刀の人材育成を利勝流にアレンジした感じで
この逸話と合わせて読むと面白いかも

970 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/12/25(水) 21:42:52.35 ID:XOExiR9t
侍女に薙刀習わせるのは、割と普通だと思うんだが

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/26(木) 02:44:29.50 ID:+DFDB6aD
女の人の武器って大体薙刀なイメージ
城内での戦闘には薙刀が扱いやすくて向いてるのかな

972 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/12/26(木) 09:06:45.31 ID:+qI3mXcu
長いリーチと小さな動作で隙を少なくして身を守るってのが薙刀つかう理由じゃなかったっけ?

これに利勝は返書して

2013年12月20日 18:55

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 18:14:48.12 ID:P2cxD71R
山口重政は大久保忠隣の事に連座して改易され蟄居していたのだが、
大坂冬の役の前に、土井利勝へ書を贈り、

「日頃、御厚恩を受けてはいますが、現在は御勘当の身なので報い奉る期がありません。
いま罪を蒙っていることは天下の人の知る所ですから、偽って大坂へ籠もったとしても、
城中に疑う者はおりますまい。

されば間隙を窺って秀頼公を刺殺し、日頃の御厚恩を報い奉れば、兵を労さずして
天下は平穏となるでしょう。そこで妻子を留めて人質にするつもりです」と言いよこした。

これに利勝は返書して「私は以前から貴所が精忠にして私のないことを知っています。
しかりといえども、貴所が初めより将軍家の親愛を得られていたことを知らない者はいません。

今、わずかな罪を蒙られているとしても、余程の事があるわけではないのですから、
人がどうして疑わないことでしょうか。その時には貴所の志は成し遂げられません。

もしまた、城中が信用して貴所の志が遂げられたとすれば、世間は必ず将軍家がさせなさったと
みなすでしょう。その時には万世に婿を害したとの謗りを受けなさることでしょう。
絶対に人臣の為すべきことではありません」と言いよこした。

重政は書を受け、涙を流してこの事を止めたという。

――『名将言行録』




915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/20(金) 18:23:29.29 ID:o3xsw6+T
士は己を知る者の為に死す的な良い話

井伊直孝の直言

2013年07月23日 19:52

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 08:18:39.22 ID:BTaLqH8H
井伊直孝の直言

秀忠様が諸大名を召して土井大炊頭利勝をもって来年嗣君に世を譲る
と仰せ出されたので、誰もがお祝いを申し上げているなかに井伊直孝
一人は黙然としていた。

利勝はそばに招いて「なぜそのようになさるのか」と問いかけると、
直孝は「天下乱れのもとになると存じますので、とても目出度くは
思えませぬ。」と答えた。

利勝が「その仔細は如何に」と問いただすと、直孝は「大坂の乱後、
すぐに江戸の石壁の営み、日光の御造営などが続き、天下の諸大名は
とても困窮しております。このような時に御代を譲られますと諸大名
は献上物への費えが嵩み、将軍宣下の祭礼を執行するにはなお困窮に
及び、重税を課して民を苦しめる他やりようがありません。これは
万民の嘆きとなり乱のもとになると存じます」と申し上げた。

利勝は「至極もっともな事である。この旨ありのままに言上しなさい」
と直孝を御次の間に伴って、利勝は御前へと進み出てしかじかの旨を
言上した。

秀忠様は即座に直孝を御前へと召され「汝が言うことはもっともで
あるが、既に公言してしまったからには止めがたい。今後もはばかる
事無く言って欲しい」と仰せられた。

直孝はそれは良くない事だと考えたので「そのように私の言う事を
もっともと言いながら用いられぬのは、いかに仰せとはいえ、よく
ありませぬ」と答えた。

暫くお言葉が無かったので、利勝が「私は既に年老いましたが、壮年
の者がこのような直言を申し上げた事は、誠に天下泰平の基でござい
ます。明日諸大名を召されて、掃部頭が申す事はもっともであるから
昨日の件は中止すると仰せ出されるべきでしょう」と申し上げたので
秀忠様は諌めに従われた。

直孝は「私の申す事を用いて頂き忝けなし」と謝し奉り御前を退去な
された。

秀忠様の諌めを受け入れる器量と、直孝の直言は君臣ともに立派なこと
だと世の人々は語ったと言う。

(明良洪範)

井伊直孝の諫言についてのお話




753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 16:41:41.36 ID:Df+LqmJd
>>752
状況よりも予定に合わせてしまうんだよな

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 18:04:19.22 ID:rC1gL2TW
>>752
秀吉「民に重税をかけて苦しめるとは、なんと酷い将軍なのだ」

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 19:54:28.75 ID:hXET5Q2J
>>753
卑近な例だけど、湿度も高い真夏日に、熱中症の危険が高いけど予定通り運動会を開くような感じか