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「流石に猛将かな」

2018年10月24日 18:18

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 04:42:32.22 ID:9BSVOAEC
(長篠の戦いの時)

また典厩信豊(武田信豊)は度々敵と決戦し勇を振るったが、味方は総敗軍となったので手の者どもも
あるいは討たれあるいは落ち失せて相従う者はわずかに3騎となった。典厩は小桜を黄に染め直した

鎧に龍頭の兜を身に着け、紺地に金泥で経文を書いた母衣を掛けていた。この母衣は信玄の遺言で勝頼
から典厩に譲ったものである。勝頼は土屋惣藏昌恒・初鹿野伝右衛門信昌のただ2騎を従え長篠を落ち

延び三河黒瀬の小松ヶ瀬を渡ろうと思い馬を抑えると、伝右衛門を呼んで「私が典厩に譲った母衣絹の
裏書には『四郎勝頼』という名を記しておいた。もしやこの母衣が敵のために奪われては勝頼の恥辱と

思うのである。汝は後を引き返し典厩にこの事を告げて、母衣を受け取って戻れ」とのことであった。
伝右衛門は「畏まり候」と申して引き返し、典厩に会ってこの事を申した。典厩はこれを聞いて

「某も左様に存じたので先刻母衣を押したたみ、青木尾張守信時に渡しておいた」と申してやがて青木
を呼んだ。その母衣の絹を取って、初鹿野へ渡そうとした典厩の言い様は、「信豊の父・左馬助信繁は

信濃川中島の戦いで信玄のために御身代わりとして忠死した。信豊も出来る限り父・信繁に劣るまいと
数年の干戈の間に粉骨砕身するところをいつの頃にか勝頼に見落とされ、信玄の御遺言で賜った母衣を

戦場で取り返されるとは身の恥、家の恥。口惜しく存ずる」と申した。初鹿野が馳せ戻り云々と申すと、
勝頼は典厩の言葉も耳に入らない様子で、その母衣を取って腰に挟んだ。初鹿野が往来する間に、

勝頼がゆるゆると馬を止めて待っていたのは、「流石に猛将かな」と敵味方ともにこれを感心した。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・甲陽軍鑑・武徳編年集成)』



359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 06:57:36.06 ID:pvYF8ZJA
お坊ちゃんの戯言はスルーの勝頼くん
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忠節の証

2013年09月01日 18:52

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/01(日) 00:45:05.77 ID:cEfABFN/
忠節の証

武田崩れにより、天目山に逃れようとした武田勝頼一行は土民に遮られそれも叶わず、
天目山麓の田野に陣をはり、最後の別れの宴を催すことにした。

宴もたけなわとなった頃、土屋昌恒は
勝頼に向かい、「こんな野原で最後の宴をせねばならなくなったことを思うと
心は乱れ、正気を失い、理性を失いそうなほど辛いことです。
このようになってしまったのがどうしてかと申せば、
家臣達が心変わりしたためですので、そうであるなら
御屋形様はこの私も裏切るのではないかとご警戒なさってはいやしないか、
ずっと案じておりました。
そこで、そのようなことは決してない証を、御目にかけましょう。」
と言って、5歳になる我が子に向かい
「お前は、まだ幼少なので、大人とともに歩むのは難しい。
だから先に行って、六道へ続くあの世の岐路で、
御屋形様が来るのをお待ち申し上げよ。私も御屋形様とともに行く。
さあ、西を向いて手を合わせ、念仏を唱えよ。」
と言った。それに対し昌恒の子は
「私は父上の子ですので、言いつけに従いそのようにいたします。」
と答え、楓のような手を合わせ念仏を三回唱えた。
昌恒は腰の刀を引き抜いて我が子の胸元に押し当て、刺し殺した。
勝頼はこの有様をご覧になり、
「なんということをするのだ。最後の言葉も他にかけようがあっただろうに。」
(あまりあへなき事を、いたしけるものや。さいごのこと葉をも、かけやうつるものお)
とおっしゃって涙を流し、供の者達も涙で小手の鎖を濡らしたという。

理慶尼記より雰囲気訳で。
忠節もここまでいくと悪い話な気もしますが、5歳の子の健気さに免じていい話にしておきました。





唯一のちょっといい知らせ

2013年07月14日 19:12

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/14(日) 15:12:23.32 ID:b5vxQ4Qx
 武田信玄の死後、後を継いだ武田勝頼は家臣たちから常に信玄と比較され、やりづらい
思いをしたが、そんな中でも長坂釣閑・跡部勝資の両名は積極的に支持してくれたので、
勝頼は この二人を側近として重用した。
 長篠合戦から七年後、織田・徳川の連合軍が武田領への侵攻を開始した。部下の寝返りや
領内の城が次々と陥落したなど良くない知らせばかり飛び込んできたため、戦況の不利を
認めざるをえない勝頼は守りの薄い本拠地の新府城を離れ、家臣の小山田信茂の居城である
岩殿城へ移って立てこもることにしたが、前途に不安を感じた将兵たちは移動途中で
次々と脱走していった。 (続く)

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/14(日) 15:14:52.69 ID:b5vxQ4Qx
>>688の続き
 手勢の数を大幅に減らしながらようやく笹子峠に辿り着くと迎えに来ていた小山田信茂
の兵は心を変じて勝頼の軍勢に 鉄砲を撃ちかけてきた。このせいで勝頼の兵はさらに逃げ、
わずか43人に減ってしまった。 この時、逃げた者の中に勝頼が重用していた長坂釣閑・
跡部勝資も含まれていた。
「雑人どもが逃げ散るのは仕方ないが、長坂と跡部だけは許せぬ。追いかけて討ち取れ」
 と勝頼は土屋惣蔵と安西平左衛門に命じ、2人は弓に矢をつがえて追いかけた。もう日が
暮れかかっていたが跡部は提灯を馬の鞍の前輪に結び付けていたのでよくわかった。
 土屋惣蔵の放った矢が跡部勝資の背中に命中し、射落とすことが出来たが、長坂の方は
暗闇にまぎれて逃げてしまった。土屋たち2人は跡部の首を持ち帰って勝頼に報告した。
 この報告は織田・徳川連合軍の侵攻以来、良くない知らせばかり耳にしていた勝頼に
とって唯一のちょっといい知らせであった。




690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/14(日) 15:26:11.49 ID:b1n0iIqo
>>689
この逸話の出典は何でしょうか?
どこかで読んだような記憶があるんだけど思い出せなくて

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/14(日) 15:34:19.15 ID:OpO7ySR5
甲陽軍鑑あたりじゃないの
長坂は勝頼と天目山で最後まで奮戦したはずだし、跡部も逃亡してないようなのに
二人まとめて逃亡したことになってる

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/14(日) 15:36:59.79 ID:FMG1rW/R
なんでこんなに嫌われてるんだろう

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/14(日) 15:50:01.36 ID:b1n0iIqo
甲陽軍鑑では跡部はいつの間にか逃げたことになってたし、
最近丸島先生に、信頼性が比較的高いと評価されてた甲乱記では、最後まで付いてきてたし…、
と思って調べたらわかった。この話、多分武田三代軍記だね

最後の二行が手元にある武田三代軍記とちょっとニュアンスが違う気もするけど、解釈の違いかな

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/14(日) 16:09:47.10 ID:b5vxQ4Qx
>>690
688-689の話は武田三代軍記をもとにしました

土屋昌恒の大演説

2012年01月05日 22:00

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/05(木) 15:41:32.78 ID:ymtgiK8i

よし、知名度の低さ払拭のために、ちょっと、手元史料から逸話をまとめてくるノシ




281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/05(木) 17:25:04.42 ID:ymtgiK8i
土屋昌恒の大演説(1)

武田家が長篠で手痛い敗戦を喫した際、敗走する武田勝頼の傍から離れることなく警護した土屋昌恒
その忠義を賞されて、戦死した兄土屋昌続と義父土屋貞綱の遺領と同心衆を共に引き継ぐことを認められ、
更に勝頼の側近として取り立てられて重く用いられることになった。
このとき、昌恒はまだ19歳(数えで20歳)。

幼い時から英明で知られた昌恒は、バリバリ仕事をこなし、
内政官としてもその手腕を発揮していった。
しかし、いかに昌恒が優秀であったとしても、まだまだ若年・若造に過ぎず、
信玄代からの重臣で、出頭人と呼ばれた跡部勝資の権勢には遠く及ばなかった。

それから、約10年が経ち、いよいよ昌恒がその本領を発揮できる歳になった頃には、
武田家は幾多の外交的失策を重ね、昌恒がいかに一人頑張ろうとも
すでに挽回不可能な状況に陥っていた。

そして、天正10年、木曽義昌の寝返りから始まった織田信長の武田征伐により、
武田家家臣団はあっという間に瓦解。
武田勝頼主従は、一門衆小山田信茂を頼って本拠地新府城から甲斐郡内の岩殿城へ向かうが、
先行して態勢を整え、迎えを寄越すはずの小山田から一向に連絡が来ない。
やむを得ず武田家宿縁の地天目山に逃れようとした勝頼主従は、天目山の麓、田野あたりで、
一帯が戦場になることを嫌った地下人を引き連れた武田家臣大熊備前守、甘利左衛門尉、
秋山摂津守らに鉄砲を撃ちかけられる。
時を同じくして、小山田信茂は既に勝頼を裏切り、関を閉ざして郡内への入領を阻んでいるとの報が入る。

ここで武田勝頼に対していつものように忠言する跡部勝資を見ていた土屋昌恒が口を開く。

続きます

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/05(木) 17:27:13.85 ID:ymtgiK8i
土屋昌恒の大演説(2)


跡部勝資「お館様。小山田が裏切ったからには、郡内への逃亡は不可能になりました。
     ここは、地下人たちの目をなんとかくらまして、天目山に逃れ一旦情勢を窺うべきです。」

これを聞いた昌恒は、他の者が発言する前に、勝頼に向かってこう述べた。
「私のような若輩者が発言するのは角が立つかもしれませんが、このような最悪の状況下においては、
 その者の年齢ではなく、その者の心が剛であるか否かでご判断ください。
 尾張守(跡部勝資のこと)様のおっしゃることはちょっと未練がましいとしか言いようがありません。
 こういう無分別な考え方こそが、今の最悪の状況を招き、
 武田家が滅亡の憂き目に遭っている原因に他なりません。
 よくよく分別をわきまえてください。

 数代に亘る家臣の小山田出羽守(信茂のこと)が敵となり、天目山の地下人にさえ背かれては、
 どんな鉄城鉄山に籠城したとしても、生き永らえられるとは到底思えません。
 侍は、死すべき時に死ななくては恥というもの。
 当家の祖、八幡太郎義家も侍は死すべきところを知るが肝要と言葉を残されております。

 たとえ兵が少なくなったといえども、新府城に留まって敵を迎え撃ち、
 命の限りに矢が尽き刀折れるまで戦った後
 一門ひとつの場所で腹を召されてこそ、武田の武名を顕し、
 信玄公以来の武勇の程を示せたというものです。
 それを人の道に反する小山田なんぞを頼ってここまで逃げ、身分卑しき者の手にかかって、
 御一門の屍を山野に晒すのは、後代までの恥辱だとは思いませんか?

 戦の勝敗は時の運ですので、戦って負けることは恥のようであっても実は恥ではありません。
 ただ戦うべき時に戦わず、死ぬべき時に死なないのは武門に傷をつけるものです。
 とある書に曰く、進むべき時に進まないのを臆病な将(臆将)といい、 
 引くべき時に引かないのを暗愚な将(闇将)といいます。
 とすれば合戦おける進退とは、結局のところ分別工夫によるものと言えます。

 ところが、尾張守(勝資)のおっしゃることは軽率で分別がないとしか言いようがありません。」

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/05(木) 17:34:58.02 ID:ymtgiK8i
土屋昌恒の大演説(3)


これまで昌恒には色々と溜まっていたものがあったのだろう。
ここでついに思いの丈を、怒りをにじませながら、終いには悲涙を流しながら言上する。

「…この期に及んでこんなことを申し上げてもしょうがないが、
 このまま胸の奥に仕舞っておくのも無念なのであえて言わせていただく。

 先年、越後にて景虎と喜平次(上杉景勝の事)が争ったとき、
 そこにいらっしゃる方々は欲をかいて黄金を欲しがり、
 景虎に対して不義となる判断をしたために、天下に悪名を広め、諸人から嘲りをうける結果となりました。

 そのため、武田家と北条家は同盟が崩れ、相互に怨敵とみなすことになり、
 ついには、このような状況にまで至ってしまいました。

 かつては、そこにいる方の邪欲によって当家は窮地に陥りました。
 そして今回、小山田を始として恩顧の侍達が、我らを見放しましたが、
 全ては、そこにいらっしゃる方の無分別な助言に起因します。

 敵は余所にいるのではございません。」

この言葉を聞いた跡部尾張守(勝資)は、一言も返答できず、赤面して平伏したという。

その後、覚悟を決めた勝頼主従は、織田方に対して最後の攻撃を仕掛けることとし、
昌恒は40騎ばかりを率いて死にもの狂いで突撃し「数千騎の敵を東西南北へ切散す」戦いぶりを見せた。
そして勝頼夫妻が無事自害したことを聞き届けると、
「人切りたるが面白サに、大将の御伴を外れるのは残念だ。
 さて皆の衆、最後の一戦をして、腹でも切るか」と言って、敵の大軍に向かって切っ先を並べて切り込み
一歩も引かず、戦場に屍が横たわり血が川のように流れるまで戦い、一人残らず討たれたという。



以上、軍記物のなかでは比較的信憑性が高いといわれる甲乱記より適当訳で。

ちょっと血生臭いけれど、バラバラになっていた主従が、最後の最期で一丸となった良い話?ということで。
長文失礼しました。




286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/06(金) 00:23:04.10 ID:5b5gkNPV
>>281-283
乙にござる

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/06(金) 00:42:02.93 ID:qrdv8HGD
昌恒さんは非の打ち所のない立派な武士だ

でもどさくさにdisられる勝資さんカワイソス
最後までなんとか可能性を探るのもそれはそれで一つの見解だと思うし

288 名前:281[sage] 投稿日:2012/01/06(金) 01:30:55.58 ID:8suojzJK
あ、昌恒が兄と義父を相続したときの年齢、よく考えたら間違えてた…
当時16歳じゃなく19歳(数えで20歳)でした。すみません、訂正します。

>>287
結果論になっちゃうけど、あと3か月耐えれば、本能寺の変で信長が死ぬから、
勝頼はともかく信勝は、跡部勝資の助言に従って逃がしておいた方が良かったかもしれない。
でも、同じ甲乱記によれば、信勝は死の直前に
「ただ妄念なるは、新府城で信長を待ち受けて討死すべきところを、
臆病者どもの異見によってここまで逃げてきたのは残念だ」
とか言っちゃってるから、信勝も武士としては立派だけど、脱出ルートは無理筋みたい。

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/06(金) 01:36:34.63 ID:Cv9UI7oY
武田の完全滅亡がなければ信長信忠に光秀の行動も変わるのだから
三ヶ月たっても本能寺が起こるとは限らない

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/06(金) 01:45:52.66 ID:fIYQS0EC
ああ、軍記物ではあるが、土屋昌恒ってのはそこまでの武士だったのか。

そうしてから>>271を見ると、「周りとうまくいかず」ってのも分かるね。

二十歳そこそこで一国に関わる大仕事していたら、それは気負いすぎてもしきれないくらいの辛さだろう。
責任感もものすごい重圧だろうし、他人に対して尊大な態度を取ってしまうのも分かる。

それで、どんな大事な仕事をしていても楽な仕事だと思えと言ったのかな。
臆病でもいいってのは、臆病と呼ばれても命を大事にって意味かも。
つらいなあ。

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/06(金) 01:51:13.97 ID:d7QqeiGu
家を背負うって大変なんだな
もうちょっとニートで頑張るか

292 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/01/06(金) 01:59:41.35 ID:9TxS8Mu8
>>276 >>280-283
ありがとう、勉強になった。先ほどは失礼。

片手千人斬りの逸話にばかり眼が行きがちだけれど、全てにおいて秀でた逸材だったんだな。
唯一足りなかったのが年齢(≒キャリア)だったのが泣ける >>276 >>280-283
ありがとう、勉強になった。先ほどは失礼。

片手千人斬りの逸話にばかり眼が行きがちだけれど、全てにおいて秀でた逸材だったんだな。
唯一足りなかったのが年齢(≒キャリア)だったのが泣ける (´;ω;`)
逸話を読むにつけ、もっと早く生まれていればと思わざるを得ない。
逸話を読むにつけ、もっと早く生まれていればと思わざるを得ない。

293 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/01/06(金) 02:01:49.21 ID:9TxS8Mu8
ごめん、ミスったorz

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/06(金) 02:02:33.62 ID:UGXA6SpJ
>>292
感動したのは色々二度言いました状態になってるので良く分かるが、
少し落ち着けw


295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/06(金) 02:03:58.16 ID:fIYQS0EC
ワロタwww

296 名前:281[sage] 投稿日:2012/01/06(金) 02:06:20.07 ID:8suojzJK
こんだけありがとうって何度も言われたの、久しぶりだw

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/06(金) 02:07:28.44 ID:16H/n99M
どうしてこうなったwww

その昌恒から敬愛されるかがみんも凄いが、
この人は武田滅亡の折どうしていたんだ??

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/06(金) 02:14:59.12 ID:fIYQS0EC
加賀美正行(3)を待て


と言いたいところだが
正行が「加々見長門」と同一人物なら、法善寺城で徳川方と戦い生害、と記述にぐふっ!!

この土屋惣蔵、今こそ主君に御恩返しを

2011年11月19日 22:21

671 名前:葉隠より[] 投稿日:2011/11/19(土) 15:40:33.57 ID:Z4wqyEaA
山本常朝
『武田信玄の家中には当時無類の剛勇の者が揃っていたが、
勝頼が天目山で討ち死にしたときには皆逃げてしまった。
そんな中、数年来主君から怒りを買って遠ざけられていた土屋惣蔵は踏みとどまり、

「日頃大口をきいておられた方々はどこへ参られた?
この土屋惣蔵、今こそ主君に御恩返しを致す」

と言い、ひとり討ち死にしたとのことだ。』




672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/19(土) 16:04:56.18 ID:MW6OyRz1
土屋昌恒って遠ざけられてたっけ?
どっちかと言うと小宮山友晴辺りのような気もするけど

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/19(土) 16:13:13.78 ID:vX1TCzU8
まぁ山本が後世の人だし
だが、こういう武人はかっこいいな

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/19(土) 18:50:05.81 ID:TN3Whwp1
天目山では跡部も一緒に殉死だよね
実は長坂も一緒だったというのが最近の見解だね

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/19(土) 18:57:37.85 ID:KCklEodZ
そういう意味だと跡部勝資や長坂光堅も実際には勝頼と命運を共にした忠臣だったと
最近は再評価されてつつあるな

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/19(土) 19:06:55.12 ID:KCklEodZ
もろ被りした

土屋昌恒ら金丸一族は武田家への忠誠ぶりがハンパないよな

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/19(土) 19:33:49.10 ID:e+DbJHcW
甲州金入りの箱を常に抱えてて手柄を立てると
惜しげなく与えるようなアホ丸出しのスタイルで
忠臣なんて生まれるのかね

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/19(土) 19:45:41.58 ID:8LpprzW3
天目山で、妻子一族全員殉死したため、
武田滅亡後ただの一人も徳川など他家に仕えたものがいなかった、
小原丹後守、小原下野守兄弟の小原一族もお忘れなく

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/19(土) 20:37:03.38 ID:EPJENNTy
井伊家に仕官した武田の遺臣連中には滅ぼされた恨みとかは無かったんだろうか

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/19(土) 20:50:52.37 ID:vqYTpSEf
滅ぼされて恨みがある連中は仕官しなかったんじゃね?
つか、むしろ徳川さんより織田さんの方に恨みはあるんじゃないのかな?
で、織田家に隠れて武田の遺臣を召抱えてたんじゃなかったような~
あ、一応許可は貰ってたかもしれん

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/19(土) 20:51:56.67 ID:H9LumBT5
上杉家や毛利家と同じように信長さえ滅びれば秀吉だろうと家康だろうと仲良くなれるさ
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土屋昌恒とその子・いい話

2008年10月16日 11:34

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/09/09(火) 01:32:06 ID:oIgI/cTc
武田勝頼の家臣に、土屋昌恒という者がいた。
彼は信玄の時代から、武田の次世代を支える逸材と期待されていた男であった。

さて、織田徳川による武田征伐が起こる。

御存知のように武田は次々と城を落とされ、家臣、一門が続々と寝返る中、
昌恒は常に勝頼の側にあった。やがて天目山に追い詰められ、勝頼が自害すると言う時、
彼は勝頼の自害の時間を稼ぐため、追って来る織田軍の兵を峡い崖道で迎え撃ち、
片手を蔦に絡ませ崖下へ転落しない様にし、もう片手で槍を振るい進軍を阻んだ。が、多勢に無勢、
後に「片手千人切り」と呼ばれるほど奮戦したものの、やがて討ち取られた。
しかし、彼が稼いだ時間のおかげで、勝頼たちは縄目の恥辱を受けることなく、自害する事ができた。

さて、戦後である。

この昌恒には、惣蔵と言う幼い息子がいた。織田の残党狩りを避け、親族のいた駿府の清見寺に匿われていた。
しかしそこは織田の同盟者である徳川家康の新領地。まもなくその存在は察知され、彼は徳川の手のものに
捕まり、家康の前に引き出された。
甲斐での、織田による残党狩りの禍々しい噂は、駿河にも聞こえていた。可哀想に、あの子も殺されるのだろう。
皆、そう思っていた。

ところが家康は、引き出されてきたこの、元の敵の子を、丁重に扱った。

「お主の父の最後は聞いた。わしは、お前の父のような侍を尊敬する。」

そしてこの少年に向かって言った。「出来れば、わしの息子、秀忠の、小姓になってくれないだろうか?」
彼は後、土屋忠直を名乗り、やがて上総国で2万石を与えられ、久留里城主となる。

侍の、命を捨てた忠誠は、自身も主家も滅びてもなお、子に福を与えることもある。と言うお話。