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利根にて利発にて、しかも利口なる人

2023年03月15日 19:29

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/14(火) 21:11:06.83 ID:r3YEvImd
土屋右衛門尉(昌続)が、山県三郎兵衛(昌景)に聞いた

「いつぞや、穴山(信君)殿が、馬場美濃(信春)殿に問われた、遠州浜松の徳川家康についての噂について、
馬場美濃殿は、『藝能はやく請取る人を利根者、座配良き人を利発者、武辺の勝れて仕る人を利口者』と、
美濃殿は教えられたと聞き及んでます。さて、では(武田家中の)諸侍の中に、利根にて利発にて、しかも
利口なる人は有るでしょうか?」

山県曰く
「信玄公の御家には、侍大将としては内藤修理正(昌豊)、足軽大将としては横田十郎兵衛(康景)と、
この二人が居ります。この他侍大将の中で、若手では小山田弥三郎(信茂ヵ)なども居ります。
そういった人物の中でも、川中島合戦の時討死なされた故典厩(武田信繁)様などは、物事相整った、
まさしく副将軍と言うべき人物でした。」

山県三郎兵衛はそのように申された。

https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1630338432/702
このお話の続きですね

甲陽軍鑑



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家康の事は良きように頼み入ります。恐惶謹言。

2019年07月29日 17:29

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/28(日) 23:37:06.23 ID:wJxV0U2v
(永禄13年)

駿河田中に御逗留の間に、織田信長より佐々権左衛門(長穐)を使者にして御音信があった。唐の頭20・
毛氈3百枚、そして猩々緋の笠。これは4年前に公方の霊陽院殿(足利義昭)と都へ御供仕り征夷将軍に備
え奉った時のもので、「弓矢に縁起の良き笠です」と信長は申されて、信玄へ送り進上なさった。

信長の使者がいる所で土屋平八郎(昌続)にその笠を下され、「信長の武辺にあやかれ」と信玄公は仰せら
れた。唐の頭は奥近習衆に下され、籤取りを仰せ付けられた。そうして2月下旬に江尻へ御馬を寄せなさる
と、江尻までまた織田信長より飛脚を御越しになされた。その御状は、

 三河岡崎の松平家康(徳川家康)は、私めが取り分けて目を掛けている者ですので、御引き回しを頼み
 入ります。そこで、その地に今川殿へ前々より差し置いていた家康の弟(松平康俊)を召し置きなされ
 ているそうですが、幸いですので家康の人質として甲府まで召し連れなさって、御心安く御用などを仰
 せ付けられますようにと、家康も私めの方へ申し越していますのでこの次第です。家康の事は良きよう
 に頼み入ります。恐惶謹言。

   2月18日                           織田上総守
      甲州法性院殿 人々御中                      信長

――『甲陽軍鑑』



今、この戦いに及んで昌続は

2016年06月23日 11:23

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/23(木) 02:54:12.79 ID:/cWLiVkI
土屋昌続は平八郎、右衛門と称した。武田信玄に仕え、使番となってしばしば戦功が
あったので武田家の長臣・土屋の称号を許され、侍大将となり兵士5千騎を預かった。

元亀2年、信玄が三河国加茂郡に出張った時、昌続は抜群の働きがあったので、
徳川家康および織田信長は伝え聞いてその武勇に感心した。同3年12月22日の
三方ヶ原の戦いの時には鳥居四郎左衛門忠広を討ち取り、功名をあらわした。

天正3年5月21日、長篠の戦いに武田勝頼に従って発向した。以前に信玄が死去
した時、昌続は殉死しようとしたが、高坂弾正昌信に、「今死ぬことは容易いが、
生きながらえて主君のために戦死することは難しいことであろう」と言われて強いて
止められ、その通りだと思って殉死を止めた。

今、この戦いに及んで昌続は、「今日の討死は高坂がかつて諌めたところだ」として、
織田家の陣に向かい、柵際に攻め寄せて自ら柵木を引き破り、なおも進んで奮戦して、
鉄砲の玉に当たって討死した。享年31歳。法名は道官。

――『寛政重修諸家譜』



881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/23(木) 07:44:59.38 ID:03GZzFDX
兵5千騎か…ふう。

土屋昌次の討ち死に

2013年07月26日 19:52

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/26(金) 18:05:36.79 ID:QyNlIWGn
土屋昌次(昌続)は武田信玄が死去した時に殉死しようとしたが、
高坂昌信に「今死ぬことは容易いが、生きながらえて主君のために戦死することは
難しいことであろう」と強いてとどめられ、その通りだと思って殉死を止めた。

その後の長篠合戦で昌次は「今日の討死は高坂がかねて諫めたところだ」として
織田家の陣に向かい、柵際に攻めよせて自ら柵木を引き破り、なおも進んで奮戦し、
鉄砲に当たって討死した。

――『寛政重修諸家譜』




774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/26(金) 23:22:25.91 ID:N8q5VtOC
>>772
厚恩を受けた家臣として、その主君に殉じるというのは立派だけど、兵を率いる指揮官としてはどうなんだろうなあ、と思わんでもない