96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/29(金) 03:19:43.35 ID:L0gBJ9YR
濃州稲葉山由来之事
そもそも当国稲葉山は不双の勝跡で、いわゆる和歌の名山なり。当山は3つの名があって“金華
山”“一石山”“破鏡山”とも申すなり。この場所を言う和歌はおよそ21首が万葉集に見える。
仁明帝の御宇に中納言行平卿(在原行平)は勅命によって、陸奥国より金華石を引かせられた。
この石が濃州に到着する。その頃またにわかに勅詔あって、行平を京に召し上げられた。行平
はかの石を捨てて上洛なさる。後にこの石を召して山の神と崇め“金太大明神”と号したという。
行平卿がこの時に歌を詠ぜられたことは、世に知られている。
そもそも当大明神は、人皇11代・垂仁天皇の第8の皇子・五十瓊磯城入彦命を祭る所である。
清和天皇の御宇、貞観元己卯年(859)2月、正一位因幡社と勅額を賜る。蓄奥の院峰権現
は陰神にして五十瓊磯城命の后という。
また峰の権現は垂仁天皇を崇めるともいう。いわゆる“岐山”と号す。麓の里を“岐阜”と号する
ことは往古よりの称号で、明応から永正(1492~1504)までの旧記に多く載せるとこ
ろである。後世に織田家が名付けたということは信ずるに足りない。
ただ一説に往古は加納を沓井・吉田と称して、岐阜を今泉・忠節・井の口・宗田と言ったのを、
織田家入城の時に及んで沓井・吉田を合わせて加納と言い、今泉から宗田までを岐阜と称した
のだという。
――『土岐累代記』
濃州稲葉山由来之事
そもそも当国稲葉山は不双の勝跡で、いわゆる和歌の名山なり。当山は3つの名があって“金華
山”“一石山”“破鏡山”とも申すなり。この場所を言う和歌はおよそ21首が万葉集に見える。
仁明帝の御宇に中納言行平卿(在原行平)は勅命によって、陸奥国より金華石を引かせられた。
この石が濃州に到着する。その頃またにわかに勅詔あって、行平を京に召し上げられた。行平
はかの石を捨てて上洛なさる。後にこの石を召して山の神と崇め“金太大明神”と号したという。
行平卿がこの時に歌を詠ぜられたことは、世に知られている。
そもそも当大明神は、人皇11代・垂仁天皇の第8の皇子・五十瓊磯城入彦命を祭る所である。
清和天皇の御宇、貞観元己卯年(859)2月、正一位因幡社と勅額を賜る。蓄奥の院峰権現
は陰神にして五十瓊磯城命の后という。
また峰の権現は垂仁天皇を崇めるともいう。いわゆる“岐山”と号す。麓の里を“岐阜”と号する
ことは往古よりの称号で、明応から永正(1492~1504)までの旧記に多く載せるとこ
ろである。後世に織田家が名付けたということは信ずるに足りない。
ただ一説に往古は加納を沓井・吉田と称して、岐阜を今泉・忠節・井の口・宗田と言ったのを、
織田家入城の時に及んで沓井・吉田を合わせて加納と言い、今泉から宗田までを岐阜と称した
のだという。
――『土岐累代記』
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