FC2ブログ

つまり土岐の御筋目なのです

2020年11月03日 18:30

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/03(火) 16:37:46.78 ID:0vCwYBzP
斎藤山城守(道三)は男子三人を設けた。長男は義龍と申した。
ある時、山城守が他行にて城を空けた所、義龍はその母に向かってこのようにうに言った
「山城守殿は美濃一国を従え信長を聟に取るほどの威勢がありますが、筋目のない侍であるように承ります。
武士は氏を威勢に仕るものであるのに、口惜しいことです。」

これを聞くと母は涙を抑え、
「幼き心にそのように口惜しく思われたか。然しながら、その方には並びなき系図があります。
密かにめのとにお尋ねなさるように。」
と言って、またさめざめと泣いた。

義龍は不思議に思い、めのとに密かに尋ねると、めのとは承って「声が高いです」と、
小声になって申した事には
「御父山城守殿は筋無き都の笠張りと承ります。或夜の夢のお告げにより、大殿様(土岐頼芸)に
奉公され、日々立身され、御家老まで上られ、終に大殿様を亡ぼし御台様を奪い取り、国を横領成されました。
古は大桑と申す所に御在城あったのですが、城内が狭いということで。この稲葉山に城を構えました。

若君はその時、御母君の腹中におられました。つまり土岐の御筋目なのです。
どうか他の人に漏らさないで下さい。御舎弟御両人は山城守殿のご子息です。」

そう悉く語ると、義龍は無念に思い、後見である日根野彌右衛門(弘就)と云う者を語らい、
「山城守殿は我が親の敵である。どうか打ち取り、我が無念を晴らしてほしい。」と、涙とともに
申した所、彌右衛門承り、

「この儀は私にお任せ下さい。先ず家中残らず、下々まで御情けをかけられ、『若君ほどの殿はあるまじ』と
一家中に思い入れさせ、その時に至れば、私に考えがあります。ですのでその時までは顔色にもその気持を
出してはなりません。」と、よくよく諌め、そのため義龍は家中に残らず御情けをかけられたので、今では
『この君の御事ならば御馬の先に立ち、御命に代わらんものを』よ思わぬものは居なかった。

ある時、山城守殿鷹野に出たが、彌右衛門は「時こそ至れ」と、若君を語らい御舎弟両人を、御振舞として
呼び出し、義龍、彌右衛門は手づから膳を据え、折を伺って兄弟の首を、水もたまらず打ち落とした。

それより大手を固めて門を閉め、矢倉矢倉に弓鉄砲を仕掛け、用心厳しく構えたため、山城守殿は鷹野より
俄に取って返して合戦に及んだものの、一家中一味の上は是非もなく討ち死にした。誠に、栄華盛ん也と雖も
主を殺せし天罰が無くなるわけではなく、幾程もなくして、あえなき死をしたのである。

その後日、日根野彌右衛門は備中守と成った。義龍は政道正しくあったので、信長公の下手に立つことは
無かった。しかし龍興の代に至り、おごり強く政道正しからざるによって、信長のために終に滅ぼされた。

堂洞軍記

いわゆる、斎藤義龍土岐頼芸のご落胤である、というお話のソースですね。



440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/04(水) 11:44:58.15 ID:jCrSrMeR
道三の専制君主制を打ち倒す名分が必要だっただけ
義龍が有能だったとしても結局は宿老制を敷いて傀儡止まり
スポンサーサイト



斎藤山城先祖の事

2020年05月02日 17:55

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/02(土) 15:21:10.72 ID:2s/eWQiV
斎藤山城先祖の事

斎藤右京太夫龍興の由来を詳しく尋ねるに、三代以前斎藤山城守と申すはその昔、都において賤しき
笠張りであった人として生まれ、「ああ、むなしく朽ち果てるのも口惜しい。いかなる侍でもなって
小知をも汚したきものよ」と心中に深く思ったので、まず清水へ七月七夜籠ったのである。

満する夜の夢に「みのふまへてかさをはれ」という夢を見て、我ながらも不思議に存じ博士にこれを
尋ねれば、「なるほどこれは有り難き御告げなり。急ぎ美濃路へ御越しになって、良き大名を御頼み
なされ」と申したので、それならばと博士の申すに任せて美濃国を志して罷り下った。

するとその頃美濃国の大将を土岐美濃守時益と申して、大桑の城郭を構えていらっしゃった。笠張り
は便りを求めてこの君に仕え、中間奉公を勤めた。夢の告げは頼もしく、昼夜奉公は油断無く相勤め、
土岐の御気に入ること限りなし。

ある時、鷹野に御出になろうと催された。するとどうしたことか御鷹がそれて、かの中間の部屋梁9
尺長さ2間の長屋の中に3間柄の槍をかけてあったのだが、身の方2間は屋内に石突は外へ出ていた。
その槍の柄にかの鷹が止まった。土岐殿はじかに御居へなられ、「この小さき長屋の内に3間柄の槍
を嗜むとは只者にあらず」と感じ思し召し、御知行百石を下し置かれた。

それより立身して“斎藤山城守”と申し、御家老まで経上ったことこそ不思議なことである。それよ
り下々に情けをかけ、段々首尾を纏い時至り、土岐殿を打ち滅ぼし奉り国を押領し、「大桑は城内が
狭い」と井の口稲葉山に城を構え美濃国を切り従え、あまつさえ信長公を婿に取ったのも、かの夢の
告げであったのだろうか。(後略)

――『堂洞軍記




139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/02(土) 15:51:05.46 ID:UQtgzfg2
身延前で傘を張れ

法華宗に入信しろ、てことかと思った

土岐頼芸の美濃没落と後半生について。

2020年01月24日 16:42

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/24(金) 02:22:41.06 ID:bm+Lmzcj
土岐左京大夫頼芸は、織田信秀の情けにより。天文年中、大桑に入城した。彼は山城守(斎藤道三)のやり方を
深く憤り、どうにかして彼を滅ぼそうと、父子共に密々に計略を廻らせていたが、その陰謀が山城守に聞こえ、
秀龍大いに怒って即座に大軍を率い、天文二十二年、大桑に押し寄せた。

大桑城では思いもかけない事態であったので防ぐことも出来なかった。その日は揖斐光親がたまたま参り合わせ、
これを見て一番に駆け出て防ぎ戦ったが、お目にかかりに参るためだけに率いていた人数でしかなく、
続く味方はなく、その上深手を負い叶わず在所へと引き退いた。

山城守は勝ちに乗じて城に火をかけ焼立てた。このため、頼芸父子の近習である山本数馬、不破小次郎、以下
七騎は、一旦越前へと落ちて頂き、その上で再び一戦を遂げるべきでありますと申し上げたことで、父子とも
城の後方、青波という所に出て、そこから山伝いに山本数馬の在所である大野郡岐禮という里に落ちられた。

山城守は逃さぬと追手を掛け、河村図書国勝、林駿河守通村を両大将としてこれを追わせた。
しかしこの時、林駿河守が心変わりをしたのか、佐原という場所からどこともなく落ちて行った。
また河村図書も、三代相伝の主君に弓を引く事は冥罪恐れ有りと思い、頼芸方の山本数馬へ密かに矢文を
射掛けて内通をした。山本数馬もこれを心得、やがて七騎の侍とともに後ろの山に登って喪服を着し、
「太守御父子は生害された!」
と披露して葬礼を執り行い、柴を積んで火を放ち、火葬の体に見せた。
また河村は川を隔てて戦うふりをして乱れ矢を射掛け、合図の勝鬨をあげて井ノ口に引き取り、稲葉山城に
入り、かくと告げた。

これにより頼芸主従七騎は越前の方へ落ちられ、朝倉義景を頼ったが、しっかりと取り合ってもらえず
甚だ疎略に扱われたため、ここにも永く有ることは出来ず、遥かに上総国に落ち行き、萬喜という所に、
幽なる体にて居られた。武運の突きた故だろうか、眼病を患って程なく盲者となり、入道して
名を宗藝と号した。

天正十年、稲葉伊予守良通入道一鉄が、この頃は大野郡清水に居住していたが、この頼芸の事を聞いて
いたわしいと思い、昔の好を忘れず、君臣の義黙し難しと、同国厚見郡江崎の里に忍び居たる、頼芸の
六男・一色蔵人頼昌を御使として遣わした。

天正十年二月十八日に江崎を出発し、その日に清水に参り、十九日に太田に泊まり木曽路を経て、
三月二日に上総国萬喜に到着した。彼は変わり果てた父の有様を見て涙を止めることが出来ず、
かれこれと日を過ごし、四月七日に岐禮の里に着いた。そこに、新たに小さな館を設え、下女二、三人を
置き、大変丁重に扱う様子が見えた。これに頼芸も有りし昔、この里を落ちたこと、また一鉄の志浅からぬ
事を感じ、御落涙をなされた。

それより直ぐに、一色頼昌は七郎右衛門を以て先立って清水の一鉄のもとに、かくと申し使わした。
一鉄法師も翌日参られ、懇ろに申され、山本数馬に委細を申し付けて帰られた。数馬は後に、山本次郎左衛門と
名を改め、頼芸に始終付き従い奉公をした。また稲葉一鉄公より合力として二百石、数馬に十人扶持を給い、
頼芸は心安く暮らしたが、程なく病に伏し、老病の故であろうか、同年十二月四日、八十一歳にして
卒せられた。庵室の号を用いて、東春院殿左京兆文官宗藝大居士と号した。

(土岐累代記)

土岐頼芸の後半生について。



斎藤道三下剋上のこと

2020年01月23日 17:22

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/23(木) 12:01:44.81 ID:AGp9/dHI
土岐左京大夫頼芸は、山城守(斎藤道三)が佞臣であることを知り給わず、朝夕膝下を離さず寵愛した。
そのような中、山城守は多年国家を奪うという志深き故に、諸将を懐け、国中の諸士に心を睦み従え置き、
太守を疎むように仕向けた。このため葦出の城中においては君臣の間も心々になって、太守を疎む有様に
成っていた。

秀龍(道三)「時分は良し」と、密かに大軍を集め、天文十一年、稲葉山城を打ち立て葦出城に攻め寄せた。
葦出城では思いもよらぬ事に慌てふためき、散々に成って落ちていった。太守頼芸も、防ぎ戦うことにも
及ばず落ちて行き、寄手は城に火をかけた。悲しいかな、先祖頼康より八代の在城が、一炬の灰燼と成った
のである。

頼芸嫡男の太郎法師丸は村山より一番に駆け付け、父と一手に成って山城守方の大軍を穫り破り切り抜けられた。
村山、國島といった人々もここを専らと戦った。揖斐五郎光親も手勢を率いて三輪より駆け付け、村山と
一所になって大勢を追い散らし武功を顕し、太守に見まえた。太守は法師丸も揖斐五郎にも、不義の無いことを
知って後悔され、すぐに両人に対する勘気を免した。
鷲巣六郎光敦は道程遠き故にその日の暮れ方に馳せつけ、残る大勢を追い散らし頼芸御父子が尾張へ
落ちるための殿をした。

かくして太守頼芸は、尾張古渡の城に入り、織田備後守(信秀)を頼んだ。信秀は彼らを熱田の一向寺に
入れ置き、それより濃州の国侍である不破河内守(光治)、稲葉伊予守(良通)、安藤伊賀守(守就)、
氏家常陸介(直元)と示し合わせ、多勢を以て濃州に打ち入ろうとした。この事を山城守聞いて、叶わずと
思ったのか、和談を乞い、揖斐五郎光親の三輪城へ頼芸父子を移し入れ、揖斐五郎、同弟與三左衛門は、
清水島両下屋敷へと退いた。その後、織田信秀の計らいにて、頼芸と秀龍の間を和睦させ給うにより、暫く
国穏やかであった。されども太郎法師丸は尾州に留め置かれ、織田信秀が烏帽子親となって元服させ、
土岐小次郎頼秀と名乗らせた。後に宮内少輔頼栄と改めた。その後、信秀の計らいで、頼芸父子を
大桑城を修復して移らせ給った。

(土岐累代記)

斎藤道三下剋上のこと


かくして、斎藤左京大夫は日を追って権勢つのり

2020年01月22日 17:13

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/22(水) 14:11:40.49 ID:9a4ADqU9
かくして、美濃土岐家において斎藤左京大夫秀龍(斎藤道三)は日を追って権勢つのり、左京大夫を改め
山城守を称したが、これは生国を思う故の名であると言われる。普段は葦出城に詰めて土岐頼芸の膝下に居た。
然るに山城守大いに驕り、好色にふけり、太守(頼芸)の妾に三芳ノ御方という美女がおられたのだが、
山城守は一途にこの御方に心をかけ、ある時近くに人もなかった時に、太守に向かってかの御方を乞うた。
その様子は、否と言えば忽ちに刺し殺す体に見えたため、太守も
「それほど思うのならば召し連れて参れ」
と言ったため、山城守も大いに悦び、稲葉山の城に連れて帰った。この人は既に懐妊しており、出産の後
男子ならば斎藤の家を継がせる旨を、くれぐれも仰せ付けたため、山城守の長子として、斎藤新九郎義龍と
名乗らせた。

太守には七人の子があった。長男は土岐猪法師丸であり、後に太郎法師丸と改めた。
次男は次郎といい、三男は三郎と申し、四男は四郎、五男は五郎、六男は六郎という。
この六郎は三芳ノ方の子で、斎藤新九郎と同腹の兄である。彼は三芳ノ方が山城守の館に入った後は、
殊の外頼芸より憎まれたため、頼芸のめのとである林駿河守通村が、彼を自分のニ男、当時三歳であった
林七郎右衛門通兼の後見として、自分の下屋敷の有る厚見郡江崎という所に匿った。
駿河守の在所は、同郡西ノ庄という所であった。

この六郎は、後に一色蔵人頼昌と称し、後に通兼を召し連れて岐禮に参り、父頼芸の老後を介抱して、
後に稲葉一鉄の情にて清水に住した。
七男は斎藤義龍であり、これ頼芸の種である。後に一色左京大夫義龍と名乗り、稲葉山の城に威を奮った。

ところで、頼芸の長男である太郎法師丸はその器量、伯父左京大夫頼継に似ており、国中無双の美童であった。
山城守は太守の寵にほこり数度無礼の働きのみならず、秀龍はこの太郎法師丸の男色を愛で、度々艷書を
送ったため、太郎法師は大いに怒り「主従の礼を失うこと奇怪なり。」と、ある時太郎法師丸をはじめ
氏族の面々、旗下の小童数名が、葦出城下にて的場の前を馬乗りして山城守が出てきたため、これに
太郎法師丸は怒って古里孫太郎、原弥二郎、蜂屋彦五郎以下若輩の面々、的矢をつがい、城内殿中まで
追い込んだ。(筆者注:的場の前を乗馬で通る事が無礼であると思われる)

太郎法師丸はこのような山城守の不義を戒めようと、或夜秀龍出仕の帰りを待ち受け、めのとの村山越後守の
末子市之丞という若輩者と語らい、殿中の廊下の暗い場所に待ち受け、一太刀斬りつけた。
しかし山城守は剣術の達者であり、抜きあい、受け流して這う這うに逃れて稲葉山に帰った。

こうして山城守はつくづくと考えた。「この太郎法師丸様をこのまま差し置いてはよき事は無い。
どうにかして彼を失わなければ」そう企み、それより折りに触れ太郎法師丸の大人しからざる様子を
頼芸に讒言した。ある時、登城して太守に申し上げたのは
「太郎御曹司は伯父揖斐五郎(光親)殿と御心を合わせ謀反の心が見えます。御曹司はまだ御幼少ですから
何の御心も有りませんが、伯父の揖斐五郎殿が御曹司を進めて御代を奪い取ろうと考えているのです。」
と様々に讒言すると、太守は元来愚将であるので、これを誠と思った。しかしながら流石に父子兄弟の
事であるので、そのままにして時が過ぎた。

それから幾程もなく、揖斐五郎が在所より参勤して葦出へ登城し、頼芸公に申し上げた
「先日、鷲巣六郎が同道してここから瑞龍寺へ参詣に行った折り、戸羽の新道にて山城守と行き合いました。
山城守は乗馬のまま礼儀もなさず、横合いに本道を駆け通りました。なんという奇異の曲者かと、六郎光敦が
諸鐙を打って追いかけましたが、山田ヵ館の辺りにて見失い、是非無く帰りました。
それだけではありません、法師丸に対しても常々無視をして甚だ無礼の仕儀、これも偏に御寵愛にほこり
自分が凡下であることを忘れ、御長男をはじめ我々に対してまで無礼を成すこと、無念であります。
願わくば法師丸、そして我々に山城守の身柄を渡してください。彼の頸を刎ね、今後の旗本の見せしめと
致します。」

そう、たって望んだが、頼芸はもとより山城守に騙され太郎法師丸についても揖斐五郎についても悪しく
思っていたため何も答えず、「さては山城守の申す所は尤もである。どうにかして法師丸も五郎も
失うべき。」と思し召されたため、その様子はただならぬ御不興に見え、五郎殿は甚だ面目無く三輪へと
帰った。

(土岐累代記)

大河も始まったということで、斎藤道三土岐頼芸に取り入った様子について



752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/23(木) 00:03:59.06 ID:wsaLouGR
何と言うか、これでもかと言うくらいの蝮っぷり