132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/20(水) 18:59:23.26 ID:JwisvsqA
「大友興廃記」から「戸次鎮連、石宗に軍配相伝契約の事、ならびに諸葛孔明の事」
土持親成が逆心したため、大友宗麟公は天正六年(1572年)戊寅三月上旬、討伐軍を御発足なされた。
土持居城に近づくと狼煙が見えたため、さては薩摩勢への合図かとみな身構えた。
ここに宗麟公の軍配者・角隈石宗は武田流、小笠原流、そのほか方々の軍配相伝を受けた人であったが
石宗「この狼煙は合図ではありません。こちらには味方がいるぞと錯覚させるための策です。
煙は律気にのぼらず、呂気に靡いているため、敵の運がよくなることはないでしょう」
その後、首尾よく大勝し、土持親成を生捕にした。
助命嘆願の声もあったが親成は切腹させられ、これを憐れんだ人々は、童に至るまで敦盛の曲舞を替え歌して勇んで歌った。
佐伯惟教は不快に思い「人の驕りが言わせるのだ」と法度を厳しくしたため、この新曲舞はやんだ。
133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/20(水) 19:02:54.19 ID:JwisvsqA
さて戸次伯耆守入道道雪の猶子・山城守鎮連の陣所の隣家に軍配者・石宗は宿をとっていたため
戸次鎮連は石宗に「ほかのみなが狼煙を怪しんだのに貴公は策だと見抜きました。
どうかわたしに軍配を残りなく相伝くだされたい」と所望したところ
石宗「安いことです。師弟となった上は残らず伝授いたしましょう。
まず城の気についてです。そもそも気というのは烟霧雲などで窺い知ることができます。
城攻めの際、気が死灰のようになっていれば、城は滅亡する運命にあります。
城の気が東に靡けば、落城しにくいので策が必要です。
城の気が南に靡けば、攻めても落ちないので策が必要です。
城の気が西に靡けば、攻め手の勝ちで城は降参することになります。
城の気が北に靡けば、城の勝ちで攻め手の負けです。
城の気がどこへでも行った後に戻ってくるようなら、城主は逃亡します。
城の気が攻め手にかかれば、攻め手に病人が多いことになります。
城の気が高く上がってどこに行ったかわからないようなら、勝敗は見えないため持久戦となります。
城攻めして十日過ぎて、雷も雨もないようなら、敵城に助勢が来るか、味方側に裏切り者が出ます。
陣定めをしたあとに、それぞれ勝手に定めごとをするようであれば負けです。
また武者の勝色・負色というものがあります。
人数の備えがしっかりしていて人馬の足が見えないようなら勝ちです。
備えがバラバラで人馬の足が見えるようなら負けです。
また巴ということがあります。
一人がほかの隊の様子が気になってそばにより、ほかのものも影響されて近づき、順繰りに寄るようであれば巴のように見えます。これも負けです。
また日取りのことですが、
「味方の吉日は敵にとっても吉日だから方角こそが肝要である」と言う者がいますがよろしくありません。
その大将にとって吉日であれば、ほかの大将にとって吉日とはなりません。
また悪日を吉日、悪方を吉方に変える秘術もあります。
このようなことを知らずして戦場に出る者は、鰭のない魚が海中にいるような、翼のない鳥が野山にいるような、竿なくして舟に乗るようなものです。
またわたしの師は「古人曰く、上戦は戦をせぬゆえ、勝ちを白刃の前に争うは良将にあらず」と申しておりました」
鎮連「面白い話をありがとうございます。相伝の初めには気についてうかがいましょう」
石宗「それは臼杵において相伝いたしましょう」
134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/20(水) 19:05:47.88 ID:JwisvsqA
鎮連「では八陣についてですが、陣取りは八つに定まっているのでしょうか」
石宗「八陣というのは異国の諸葛孔明の八陣の図をもって沙汰しております。
八陣とは
魚鱗、鶴翼、長蛇、偃月、鋒矢、方円、衡範、雁行
を根本としてさまざまな陣取りがあります。いずれにせよ源はこの八陣です。これも書面で相伝いたしましょう。
鎮連「孔明とはいかなる勇士でしょうか」
石宗「孔明とは蜀の賢人です。
昔異朝に、呉の孫権、蜀の劉備、魏の曹操という三人があり、シナ四百州を三分していました。
曹操は才智世にすぐれて謀をめぐらし敵を防ぎ、孫権は士を労い衆を撫し、ともに故国を賊し政を掠めるものが集まり、帝都を侵していました。
劉備は最近王室から分かれたばかりで、仁義があり利欲を忘れたために忠臣・孝子が四方からきて教化し武徳を行なっていました。
こうして三人とも智仁勇を備えていたため、呉魏蜀は鼎立しておりました。
ここに諸葛孔明という賢人が隠遁して蜀の南陽山で歌を歌って暮らしておりましたが、劉備に招聘されても断りました。
そこで劉備は三度草廬に自ら赴き「我が身の欲ではなく天下万民のためにその才を発揮してもらいたい」
と誠を尽くし理を尽くし仰せになったため、孔明はついに蜀の丞相となりました。
劉備は「朕に孔明あるは魚に水あるがごとし」と武侯と号させました。
魏の曹操は臥龍・孔明をおそれ、司馬仲達という将軍に七十万騎を備えさせ蜀に侵攻させました。
劉備も孔明に三十万騎を備えさせ、魏蜀の国境である五丈原で両軍はあいまみえました。
しかし五十日の間睨み合うだけだったため、魏兵は不満に思い司馬仲達に進軍を乞うたのですが、司馬仲達は許可しませんでした。
ある時、仲達は生捕にした蜀兵から孔明の様子を聞いたところ
「孔明は士卒に礼儀を厚くし、同じものを食べ、夜は眠らず自ら見回りをし、昼は士卒と睦まじく交際する。
そのため三十万の軍勢は心を一つにしているのだ」と言ったため
司馬仲達は「味方は七十万だが心は一つになっていない、孔明が過労と酷暑のために病となるまでは待つべきである」
と魏の士卒が「四十里も隔てて敵将の脈を知ることがあろうか、臥龍を恐れるため言い訳しているのだ」と嘲るのも無視して出陣しませんでした。
ある夜、両陣の間に客星が落ち、火よりも赤く輝いておりました。
これをみた仲達は「七日のうちに天下の人傑を失う相である、孔明は必ず死ぬであろう」と喜びました。
七日後に孔明は死にましたが、蜀軍は孔明の死を隠して魏軍に兵を進めました。
司馬仲達は戦えば魏が敗北すると考えていたため、一戦にも及ばず五十里退却しました。
こうして「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と言われるようになったのです。
軍が散じたのち、蜀兵は孔明の死を知り全軍が仲達に降りました。
こうして蜀がまず滅び、次に呉が滅んで魏の曹操が天下を統一してのです。
私が思いますに、諸葛孔明のように、礼を保ち、世に畏れられたというのは、ともに大将が学ぶべき美点です。
もっとも多年宗麟公が数国を治めた御威光にはかなわないでしょうが。」
これは鎮連の児扈従の聞き書きを記したものである。
後日、鎮連は臼杵丹生島登城の折々に軍配一巻を伝授されたそうだ。
「大友興廃記」から「戸次鎮連、石宗に軍配相伝契約の事、ならびに諸葛孔明の事」
土持親成が逆心したため、大友宗麟公は天正六年(1572年)戊寅三月上旬、討伐軍を御発足なされた。
土持居城に近づくと狼煙が見えたため、さては薩摩勢への合図かとみな身構えた。
ここに宗麟公の軍配者・角隈石宗は武田流、小笠原流、そのほか方々の軍配相伝を受けた人であったが
石宗「この狼煙は合図ではありません。こちらには味方がいるぞと錯覚させるための策です。
煙は律気にのぼらず、呂気に靡いているため、敵の運がよくなることはないでしょう」
その後、首尾よく大勝し、土持親成を生捕にした。
助命嘆願の声もあったが親成は切腹させられ、これを憐れんだ人々は、童に至るまで敦盛の曲舞を替え歌して勇んで歌った。
佐伯惟教は不快に思い「人の驕りが言わせるのだ」と法度を厳しくしたため、この新曲舞はやんだ。
133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/20(水) 19:02:54.19 ID:JwisvsqA
さて戸次伯耆守入道道雪の猶子・山城守鎮連の陣所の隣家に軍配者・石宗は宿をとっていたため
戸次鎮連は石宗に「ほかのみなが狼煙を怪しんだのに貴公は策だと見抜きました。
どうかわたしに軍配を残りなく相伝くだされたい」と所望したところ
石宗「安いことです。師弟となった上は残らず伝授いたしましょう。
まず城の気についてです。そもそも気というのは烟霧雲などで窺い知ることができます。
城攻めの際、気が死灰のようになっていれば、城は滅亡する運命にあります。
城の気が東に靡けば、落城しにくいので策が必要です。
城の気が南に靡けば、攻めても落ちないので策が必要です。
城の気が西に靡けば、攻め手の勝ちで城は降参することになります。
城の気が北に靡けば、城の勝ちで攻め手の負けです。
城の気がどこへでも行った後に戻ってくるようなら、城主は逃亡します。
城の気が攻め手にかかれば、攻め手に病人が多いことになります。
城の気が高く上がってどこに行ったかわからないようなら、勝敗は見えないため持久戦となります。
城攻めして十日過ぎて、雷も雨もないようなら、敵城に助勢が来るか、味方側に裏切り者が出ます。
陣定めをしたあとに、それぞれ勝手に定めごとをするようであれば負けです。
また武者の勝色・負色というものがあります。
人数の備えがしっかりしていて人馬の足が見えないようなら勝ちです。
備えがバラバラで人馬の足が見えるようなら負けです。
また巴ということがあります。
一人がほかの隊の様子が気になってそばにより、ほかのものも影響されて近づき、順繰りに寄るようであれば巴のように見えます。これも負けです。
また日取りのことですが、
「味方の吉日は敵にとっても吉日だから方角こそが肝要である」と言う者がいますがよろしくありません。
その大将にとって吉日であれば、ほかの大将にとって吉日とはなりません。
また悪日を吉日、悪方を吉方に変える秘術もあります。
このようなことを知らずして戦場に出る者は、鰭のない魚が海中にいるような、翼のない鳥が野山にいるような、竿なくして舟に乗るようなものです。
またわたしの師は「古人曰く、上戦は戦をせぬゆえ、勝ちを白刃の前に争うは良将にあらず」と申しておりました」
鎮連「面白い話をありがとうございます。相伝の初めには気についてうかがいましょう」
石宗「それは臼杵において相伝いたしましょう」
134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/20(水) 19:05:47.88 ID:JwisvsqA
鎮連「では八陣についてですが、陣取りは八つに定まっているのでしょうか」
石宗「八陣というのは異国の諸葛孔明の八陣の図をもって沙汰しております。
八陣とは
魚鱗、鶴翼、長蛇、偃月、鋒矢、方円、衡範、雁行
を根本としてさまざまな陣取りがあります。いずれにせよ源はこの八陣です。これも書面で相伝いたしましょう。
鎮連「孔明とはいかなる勇士でしょうか」
石宗「孔明とは蜀の賢人です。
昔異朝に、呉の孫権、蜀の劉備、魏の曹操という三人があり、シナ四百州を三分していました。
曹操は才智世にすぐれて謀をめぐらし敵を防ぎ、孫権は士を労い衆を撫し、ともに故国を賊し政を掠めるものが集まり、帝都を侵していました。
劉備は最近王室から分かれたばかりで、仁義があり利欲を忘れたために忠臣・孝子が四方からきて教化し武徳を行なっていました。
こうして三人とも智仁勇を備えていたため、呉魏蜀は鼎立しておりました。
ここに諸葛孔明という賢人が隠遁して蜀の南陽山で歌を歌って暮らしておりましたが、劉備に招聘されても断りました。
そこで劉備は三度草廬に自ら赴き「我が身の欲ではなく天下万民のためにその才を発揮してもらいたい」
と誠を尽くし理を尽くし仰せになったため、孔明はついに蜀の丞相となりました。
劉備は「朕に孔明あるは魚に水あるがごとし」と武侯と号させました。
魏の曹操は臥龍・孔明をおそれ、司馬仲達という将軍に七十万騎を備えさせ蜀に侵攻させました。
劉備も孔明に三十万騎を備えさせ、魏蜀の国境である五丈原で両軍はあいまみえました。
しかし五十日の間睨み合うだけだったため、魏兵は不満に思い司馬仲達に進軍を乞うたのですが、司馬仲達は許可しませんでした。
ある時、仲達は生捕にした蜀兵から孔明の様子を聞いたところ
「孔明は士卒に礼儀を厚くし、同じものを食べ、夜は眠らず自ら見回りをし、昼は士卒と睦まじく交際する。
そのため三十万の軍勢は心を一つにしているのだ」と言ったため
司馬仲達は「味方は七十万だが心は一つになっていない、孔明が過労と酷暑のために病となるまでは待つべきである」
と魏の士卒が「四十里も隔てて敵将の脈を知ることがあろうか、臥龍を恐れるため言い訳しているのだ」と嘲るのも無視して出陣しませんでした。
ある夜、両陣の間に客星が落ち、火よりも赤く輝いておりました。
これをみた仲達は「七日のうちに天下の人傑を失う相である、孔明は必ず死ぬであろう」と喜びました。
七日後に孔明は死にましたが、蜀軍は孔明の死を隠して魏軍に兵を進めました。
司馬仲達は戦えば魏が敗北すると考えていたため、一戦にも及ばず五十里退却しました。
こうして「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と言われるようになったのです。
軍が散じたのち、蜀兵は孔明の死を知り全軍が仲達に降りました。
こうして蜀がまず滅び、次に呉が滅んで魏の曹操が天下を統一してのです。
私が思いますに、諸葛孔明のように、礼を保ち、世に畏れられたというのは、ともに大将が学ぶべき美点です。
もっとも多年宗麟公が数国を治めた御威光にはかなわないでしょうが。」
これは鎮連の児扈従の聞き書きを記したものである。
後日、鎮連は臼杵丹生島登城の折々に軍配一巻を伝授されたそうだ。
スポンサーサイト