長谷堂城の門の話

2014年09月01日 18:51

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 03:39:25.25 ID:Bq6cj/Aq
長谷堂城の門の話

元和の最上家信(義俊)改易により、山形南西の支城・長谷堂城は幕府の命令により上杉家に接収される事になった

出羽の各城も小国城は戸沢氏、延沢城・鮭延城は伊達氏により前後に兵糧庫を押さえられ収公された


上杉の代官「これが慶長の折に当家の山城守(直江兼続)が苦汁を呑まされた長谷堂城ですか。こうなってしまうと呆気ないものですな」
最上方の代官・坂上重内(坂光秀の子、坂光重か?)「平和な御世、当地は「長谷堂館(だて・たち・やかた)」や
「亀山の御楯(かめやまのみたて)」と呼ばれております。城ではなく、館、楯ですよ」
上杉の代官「…それがしには立派な城に見えますがな」


上杉の代官は兵糧庫を押さえると、米沢から連れて来た兵や人足らに城山の建物の破却を命じ、さっそく作業に取り掛かった

長谷堂城には代々門番を勤めていた某(なにがし)といった者があった

某「坂上様、上杉の奴腹が無茶苦茶をしております!狼藉を止められないのですか?」
坂上重内「接収というのは、普通は乱取をしてはいけないのが約束事だが、上杉家にとってこの長谷堂の「城」は因縁深い場所だからな」
某「最上家が改易されたからと言っても余りに酷うございます」
坂上重内「そちは重代この城を守り、その想いは海よりも深く、水と魚の様に切り離せぬ関係だものな。
…なにがあっても俺が責任を取るから、お前は城の門を持って帰れ」
某「ええんだが?」

某は長谷堂城門の扉戸を外し自宅に持ち帰ると、囲炉裏の梁上に隠した

門扉は代々その子孫に受け継がれた

門扉は左右2枚で、幅は合わせて約2メートル、高さは約1.9メートル
上杉軍が放ったとされる鉄砲の銃弾の跡も残る

1955年に紆余曲折を経て山形大学資料館に収蔵され、今に伝わる

「上杉家御年譜」「山形古話」ほか




658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 10:15:25.66 ID:4Q13TtUX
近くの名古屋城の門扉を思い浮かべてどうやって持ち帰ったんだ?
と思ってたら案外小さいんだな。

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 14:25:27.80 ID:N1E0Jmmn
そら小さいほど守り易くなるからな

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 14:29:30.83 ID:PZq97E5O
大きさが倍だと、16倍突破されやすくなるらしい

流体力学の本によれば、なんて

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 15:17:34.46 ID:QP9K5ZN6
そうか、城門をにじり口にすればいいのか

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 16:39:13.58 ID:Bq6cj/Aq
イメージをするなら長谷堂城門の扉戸一枚の大きさは襖(ふすま)やアパート・マンションの戸と同じくらいのもの
戸板周りの門柱や梁、屋根も揃えばそこそこのサイズにはなる

(2010年10月5日)山形大学は、高感度加速器質量分析装置を用いた年代測定で、伝・長谷堂城大手門扉が15世紀半ばから17世紀前半のものであると発表した

年代測定の結果、正面扉の回転支柱は文安2年(1445)から寛永9年(1632)に、また右側の回転支柱は寛正4年(1463)から寛永13年(1636)に伐採された木である確率が極めて高いことが示された

この扉は城の門番を務めた人物の子孫が代々保存してきたが、昭和30年(1955)に購入者が山形大学博物館に寄贈した

長谷堂城そのものは元和8年(1622)に最上氏が改易となると、廃城となっている(一部を編集)

http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4657519&id=57449661

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 17:04:29.91 ID:Bq6cj/Aq
>>662
かつての門番の子孫の方の家屋の建替(改築)時に「然るべき場所に寄贈する」といった約束での購入者といった表現になるらしいので、悪い意味ではないはず

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