武田左吉の子

2017年11月03日 20:57

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/02(木) 21:10:59.46 ID:j17J6I/M
織田信長足利義昭を戴いた上洛戦の時、近江北郡にて坂井右近将監の子である久蔵が、この時わずか13歳にて
鑓を合わせ、彼の働きに義昭ならびに信長より感状が与えられた。
その頃、武田左吉という者の子も同じ13歳で、信長の側に仕えていたが、久蔵の振る舞いを羨ましく思った。

信長は入京すると、京より青龍寺、山崎あたりに退いていた三好勢を続けて攻めた。
この時、武田左吉の子が一番に、三好の陣へ馬を入れた。彼は敵との距離が良い所で馬より降りて
闘おうと思っていたが、其の身、未だ幼く、また馬は癇が強く逸っていたため、降りること出来ず
そのまま敵陣の中に引き込まれ、討たれた。
志は猛しといえども、本意無きことである。

武田左吉はこの他に子が無く、後に土方彦三郎という者の弟を養子とし、その者は武田宮内と名乗った。

(士談)



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「軍兵どもはかがむな!当たらぬものぞ!」

2016年06月16日 12:26

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 04:22:34.61 ID:qyrPuhLC
大納言様(前田利家)も折々御話になり、戸田武蔵殿(勝成)や猪子内匠殿(一時)
なども御話になったことである。

信長公の御時代、柴田修理殿(勝家)、森三左衛門殿(可成)、坂井右近殿(政尚)は
各々が意気盛んな言葉を申した武辺者であった。

鉄砲の玉が撃たれ来る時、柴田は立ちながらおられて、「軍兵どもはかがむな!
当たらぬものぞ!」と、御申しになった。

一方では、三左衛門殿と右近殿などは、「柴田じゃというても絶対に当たらないなんて
ことはない。武者というものはかがむ時はかがんで、鉄砲や弓矢に当たらぬようにし、
攻め掛かる時は押し開き、何にも構わず掛かるものである」と、申された。

これに大納言様は、三左衛門殿や右近殿などの言い分は功者であると仰せられた。

――『亜相公御夜話』



851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 06:55:04.08 ID:t3AlYHdJ
>>850
柴田は脳筋だから付き合いきれなかった、というお話しですね

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 07:01:00.39 ID:t8BHoxnC
勝頼は脳筋じゃねえだろ

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 07:01:32.26 ID:t8BHoxnC
あ、勝家だった。富田さんのところいってくる。

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 08:11:20.86 ID:FrL4idmq
狂犬の話かと思った

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 15:00:01.08 ID:krlDiNlY
戸田勝成に猪子一時って織田家の古株なんだな
知らなんだ

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 21:35:19.91 ID:H0UyalCR
>>850
鬼武蔵は親父の言葉どおりしゃがんでたのかな
それで撃たれて死んだならかなり恥ずかしいな