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信濃守が参った時には、合戦は既に

2021年04月04日 17:13

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/04(日) 14:27:56.52 ID:gauDwLhU
(関ヶ原の合戦の時)堀尾信濃守(忠氏)は大垣の押さえに置かれていたのだが、御合戦と聞いて
関ヶ原へ駆けつけた。彼は旗を二つに分け、夫に馬上の者を添えて、大方の早道程に急いだ。
馬上の者が三百ばかりもあっただろうか。

小雨が降り、霧は深く、人馬の息は煙のようで、旗は少し見えたが、馬上の物の具、指物は全く
見えず、轡の音、馬の足音ばかり聞こえた。
旗は黒地の折掛に、上に白い分胴があった。

鑓鉄砲、弓持ちといった歩行の者達は殆ど見えず、御本陣へ遠々と備えを立てた。

信濃守が参った時には、合戦は既に過ぎていた。

慶長年中卜齋記



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「帯刀殿の思し召しでもあれば、承りたい」

2016年08月22日 12:39

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/22(月) 03:26:52.13 ID:hhsYaD5R
堀尾信州(忠氏)は23歳で関ヶ原陣を勤めなさって功があった。
信州は帰陣以後に出雲・隠岐を拝領した。

信州は自らの縄張で城を築き、父・帯刀(吉晴)の後見を受けず
して完成させた。

信州が言うには、「帯刀殿の思し召しでもあれば、承りたい」との
ことであったが、ひとつの過ちも無かった。

その信州は26歳で死去した。

――『武功雑記』



30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/22(月) 08:12:16.67 ID:+u2AfNLo
人柱の祟りですな

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/23(火) 04:34:45.80 ID:WpCl8dTq
段階踏んでどーこーじゃないよっての
いい例なんだよね実際

軍が入り乱れている時には

2012年10月14日 19:29

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/14(日) 17:40:16.38 ID:A+cGN+Y6

関ヶ原本戦の直前、杭瀬川の戦いで有馬豊氏の家人・稲次右近
敵方の横山監物に組伏せられたが、右近の若党が監物を引き倒して
右近にその首を取らせた。ところが、そんな時に何者かが現れて
若党の首を切って逃げ去った。後に糾明したところ、その者は
堀尾忠氏の家人ということが分かった。

まったくの味方殺しだったので右近は訴え出たが、徳川家康
「何を言うか、軍が入り乱れている時にはそういうこともあるものだ。
そのまま捨て置け」と言ったということだ。

――『徳川実紀(天元実記)』




854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/14(日) 18:12:05.65 ID:fI6j+dl6
正宗「うむ。」

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/14(日) 18:42:12.26 ID:GKguxXju
神保相茂「………」

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/14(日) 19:54:47.54 ID:+u0sR4k9
家人「あれ、右近って敵方の大将じゃ?」
右近「それは島左近だ!」

堀尾吉晴は深く慎み

2012年09月23日 20:40

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 18:22:07.02 ID:BpCeoGsi

堀尾吉晴は十六歳より従軍して四十年あまりの間に大小の戦に臨み、
自ら先駆けて多くの敵を討つこともあれば、士卒を下知して城を落とし、
陣を破ることもあった。

しかし、吉晴はそれだけの武勇がありながら深く慎み、子息にさえ
己の武勇を詳しく話そうとはしなかった。それでも自然と世に知られた
高名は二十二度といわれる。

ある人が吉晴の子・忠氏に吉晴の武功について尋ねた。忠氏は父の武功に
ついて詳しく知らなかったので答えなかった。

この時、その人が「この道の嗜みがないから知らないのだな」という様子
だったので、忠氏は深く恥じて、吉晴に大坂貝殻塚を一人で取った時のことを

教えて欲しいと言った。吉晴は答えなかったが、忠氏が他人にその道を
好まないのだと思われたくない一心で重ねて尋ねると、ようやくあらましを語った。

親子の間ですらこのようであったから、他人に語ることはなおさら無かった。

――『名将言行録』




573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 18:43:07.33 ID:h3S9/X5f
堀尾吉晴って名前自体が温和な雰囲気あるよな。

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 18:45:11.51 ID:OMEEsOQL
謙虚さがより武名を高めたいい話
現代でも自分から武勇伝話す人は大体ハッタリ気質だよなw

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 18:59:00.04 ID:4Cw0SdeS
謙遜は美徳かもしれないが、
黙ったまま死なれると子孫や歴史家は困るんだよ。
ある程度の政治家や軍人は回想録ぐらい書いておいてくれ。
公開は死後でいいから。

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 19:09:33.54 ID:OMEEsOQL
>>575
たしかに歴史家は困るな
子孫は知行の面ではその通りだけど、
先祖の武名が高いと比べられたり同輩からの嫉妬で苦労しそうではあるかな

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 19:19:57.86 ID:QuUwL04t
仏の茂助と呼ばれてるけど、山内一豊の例のやつにも切れなかったのかな...(´・ω・`)


578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 22:30:21.21 ID:aXDYE3V/
普段は凄く物静かなのに、ハンドル握ると人が変わるみたいな


579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/23(日) 01:28:56.19 ID:yjCdr72Y
>>577
土佐に移ってからも両家には行き来があったらしいし
特にキレなかったんだろうね…えらいね…
もともと、それだけ仲良しだったってことなのかもしれないが

「私の見立てに狂いはなかった」

2012年09月11日 20:33

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/11(火) 18:36:57.61 ID:kKNGOlHu

岐阜の役の時、堀尾吉晴の子・忠氏は戦功を立てた。
吉晴はこの日の勝利の報告を聞き、首帳を見たところ、
「首一つ、十五歳、山田多門兵衛」とあるのを読みも終わらず、

「近頃まで竹馬に乗っていた童がもう功名を立てたかぁ。
父親が存命ならどれほど喜んだことであろうか…」と涙を流した。

また「梯子権八の功名が記されていないのは何故だ。
討死したならともかく、功名については上から三番目以内に
入っているはずの者なのに」と怪しんだが、やがて飛脚がやって来て、

「権八は一番に続いて首を取りましたが、手負いのために
首帳に記すのが遅れました」と告げたので、

「私の見立てに狂いはなかった」と言ったということだ。

――『名将言行録』





松江城普請の記録

2012年02月29日 21:54

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/29(水) 17:48:17.35 ID:DN5SVbqq
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦功として出雲を賜った堀尾吉晴月山富田城に入る。
翌年、吉晴の嫡男・忠氏並びにその家臣たちは、島根郡末次郷の極楽寺山を見立て、ここに新たな城を
建設する計画を立てた。

ところが忠氏はにわかに病に侵され、ついに逝去する。忠氏の子、忠晴は未だ10歳にもならなかったので、
この新城築城は中断された。
これを見た堀尾吉晴は家老たちにこう宣言する

「忠晴は未だ稚く、私はすっかり老いてしまった。そして新城を築くことは忠氏の志であり、
父が子の志を継ぐというのは順ならずと言うものである。
しかしこれらは全て私の為のことではない。天下のための事業である!新城築城を止めるべきではない!」

そして建築地を見てまわると、そこでは古より、宇賀ノ宮三所の荒神を祭っており、亀井田村(今の亀田村の事だろうか)、
奥谷の民たちによって春秋の祭りが怠らずに行われ、五穀の成就を祈り奉っていた。
彼らは吉晴に、この神をどうか他所に移させて欲しい、と伝えた。吉晴は「誠に然るべきことではあるが神慮のほども
測りがたい」と、この地の社司・門脇肥前定久を召し、神慮を聞かせ鬮を伺うと、3度まで鬮が当たったので吉晴は大いに喜び、
吉日を選んで宇賀ノ宮三所荒神を、亀田村奥谷の春日大明神のそばに移し、今に至るまで春秋の祭りは怠らないという。

また、築城予定地には巨大な榎があって、これも荒神であると言われていた。またそこは、大人塚といって
古代の人の物だという塚があったのを整地した土地でもあったためか、色々怪異の事が多く起こり、築城工事も
滞った。そこで意宇郡蘆高の神職・松岡兵庫に命じて祈祷をさせ、荒神は島根郡法吉村に移し、大人塚は同郡一成村に
移して、今宮と号し祭った。

その後三日二晩にわたり地割の祈祷を行った。今でも本丸において毎月二十八日に祈祷をするのはここから来ているという。

慶長12年に普請が始まり、同16年までの5年間の工事により、ついに城は完成した。
そして城下の末次、白潟の二邑をもって『松江』と名付けた。この理由は、外国の呉という国に松江という場所があり、
そこには鱸という魚と、ヒ菜という水草があって名物なのだが、これらが城下の宍道湖にもあって同じく名物であったため、
ここを松江と名付けた、と伝わっている。

この松江城は、湖から東西南北に堀を掘り入れたため船の走らないところはなく、往来自由でしかも後ろに高山を控え
前に大湖をたたえ、まさに天険の要害であった。

ただ、この城は外郭が未だ完成する前に吉晴が死去し、忠晴が家督を継いだといっても未だ幼年であり、
また幕府から特にこれといった仰せもなかったので、外郭の総門、木戸などは未完成のまま、今に至る。
(雲陽志)

出雲らしく、神々に気を使いながら築城したことの解る、松江城普請の記録である。




103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/29(水) 18:27:50.78 ID:1PP4EUDD
>>101
松江築城の時に人柱にされた娘が『この城をよこせ~』って言って化けて出て来るのに困った
後の城主の松平何とかさんが

つ コノシロ(魚)

でズバッと解決したなんて話もあるなw

それはさておき松江城いい城だよね、実戦的でいかにも茂助さんらしいというか


104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/29(水) 21:22:38.27 ID:/B7S0P0A
松江歴史館の説明だと、要害に築城しようとした義晴と平地に築城しようとした忠氏が対立してたけど、
忠氏が死んだ後、義晴が忠氏案を採用して今の場所になった、とのことです。

http://www.matsu-reki.jp/

徳川秀忠、「水野忠重殺害」の報に

2011年04月03日 00:01

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/01(金) 21:14:28.74 ID:62UdVtGC
関ヶ原直前の慶長5年(1600)7月19日、三河国池鯉鮒(現・愛知県知立市)において
水野忠重が加賀井重望に殺害されるという事件が起こる。
これにより「あの」水野勝成が急遽水野家の家督を継ぐことになったりと、色々な事が起るのだが、
この事件がひこ起こした最も大きな混乱は、水野忠重が加賀井重望に殺された酒席に
堀尾吉晴も同席しており、当初「堀尾吉晴が水野を殺した!」と見られたことである。

水野家から関東の家康に最初に届いた通報も、「堀尾吉晴による殺害」というものであった。
時に堀尾吉晴の嫡男・忠氏は、徳川秀忠に従い宇都宮にあった。

家康はこの情報に驚き、宇都宮の秀忠のもとに急報した。仮に堀尾吉晴が徳川家に対し
二心を持っていた場合、息子の忠氏も怪しい、と考えられるからである。

が、この知らせを聞いた秀忠は冷静であった。
彼は使者に

堀尾吉晴親子は、我が家に背くような者たちではない。例え承った通りに
堀尾吉晴が水野を殺害したのだとしても、忠氏に於いては、二心を持つような者ではない。
彼をこの件で召しだしたり監禁するような真似は、一切不要である。」

と答えた。

やがて関東にも水野殺害の詳しい状況が伝わり、堀尾吉晴の疑いは晴れた。
この時人々「中納言殿(秀忠)は人の心をよく知り召される」と感じ入り、また堀尾忠氏
後でこれを聞いて忝く思い、後の関ヶ原での前哨戦に於いて大いに働くことと成る。

ちょっと珍しい、徳川秀忠の関ヶ原前、関東でのいい話。




687 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/02(土) 05:31:35.09 ID:n8K4t/gZ
殿様が簡単に斬られちゃうって、、、
従者は何してんだよ!!

701 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/03(日) 16:29:51.42 ID:kcqPaJwv
>>684
暗殺が成功しました…
水野忠重→暗殺
水野信元→暗殺
水野信近→暗殺
暗殺の多い一家だな、戦じゃかなり有能なのにな

>>687確か責任とらされて2名ほど腹を切ってるはず、記録じゃ殉死扱いだけど

堀尾家水口略奪事件顛末

2011年03月30日 00:01

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 01:14:34.69 ID:4YtqyzhV
一応いい話として記録されているのだが…

堀尾信濃守忠氏の近習に、揖斐伊兵衛、堀尾作左衛門という者があった、何れも400石ずつの
知行であったという。

さて関ヶ原の決戦の後、堀尾家の家臣たちが、既に降伏していた長束正家の所領、
水口城下において略奪を働くという事件があった。
この事件に対し人々は、水口は落城した以上既に味方の地となっており、そんな所で
略奪をするような連中には、関ヶ原での武功もなかった事にされるだろうと、もっぱら噂し合った。

そんな噂を聞き及んだ揖斐伊兵衛は、同僚の堀尾作左衛門にこう語った

「今度我軍が略奪を行ったこと、後悔先に立たずと言いますが、このままでは我が堀尾家の、
江渡(河田木曽川渡河の戦い)での功も無効となるかもしれません。

ところで我らは信濃守(忠氏)様の旗本でありながら、さしたる功もありませんでした。
そこで今回の略奪の張本人であると名乗り、その責任をとって切腹すれば、堀尾家としての
責任は回避できるのではないかと考えます。いかがでしょうか?」

これを聞いて堀尾作左衛門

「それは尤もな事です。そういたしましょう!
しかし二人とも死ぬというのは詮のない事です。ここはクジで切腹するものを決めましょう。」
と伊兵衛に同意したうえで、さっそくクジを作り始めた。ところが揖斐伊兵衛、これに

「作左衛門殿しばし待たれよ。もし私がクジに当たって切腹いたせば、それがしは
死に得でござるが、貴殿は信濃守様の御一門であるのに伊兵衛に切腹させた、などと言われては
武士の面目が立たず生き損となります。

そうである以上、貴殿が切腹なされて私が生き残ることこそ、あなたの御為にも良いことでは
ないでしょうか?」

堀尾作左衛門はこの言葉を聞くと感激の涙を流し

「あなたのおっしゃることは一段尤もである!ええ、私が切腹いたしましょう!!」

と、盛り上がっているうちに堀尾家の方に徳川家康から、略奪の事赦免の御内意がもたらされ、
切腹のことも無くなった。

後に堀尾作左衛門は主君堀尾忠氏に
「我が事を話すようですが、お為になることと存じます。揖斐伊兵衛がいかに知恵深きものか、
という話です。」
と、この時の顛末を語り、これに感動した忠氏は、堀尾作左衛門、揖斐伊兵衛の両名を
三千石に加増したという。

と、いい話なんですが…、
揖斐伊兵衛さんのレトリックと、それに感動する堀尾作左衛門や堀尾忠氏がどうしても納得できない
わけで。基本口八丁で「作左衛門さん一人で責任とって死んでくれや」って事を言っている
だけではないか、と。

そんなモヤモヤとした気分の残る、しかしこの時代的にはこれでいいのですかねえ?
堀尾家の水口略奪事件におけるエピソード。




386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 01:53:42.25 ID:TP3R1ulM
うーん、確かに現代人から見ると揖斐が汚い立ち回りをしてるように見える
だけど主筋の一門を死なせるわけだから揖斐にもそれなりの覚悟がいると思うんだよな

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 02:30:30.02 ID:8rXibiK8
うーん
うーん
うーん
なんとも言いがたいな

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 03:15:40.33 ID:Tv/4GtKA
>>386
関ヶ原では、主君の九鬼嘉隆を切腹させたら、義弟の九鬼守隆に
鋸挽きで斬首の上さらし首にされた豊田五郎右衛門の例があるわけだしね。

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 03:16:16.12 ID:WIE5PMuG
家のために死ぬことの方が、生き残ることより価値がある

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 04:03:07.68 ID:1HIW+/X9
ひとの命の価値がめっちゃ安かったからなあ

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 06:07:51.88 ID:tdksv+0t
死ぬより生きるほうが難しい時代だったんだな

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 12:27:22.77 ID:54mYD9XN
>>390
考え方だよなぁ、命を的にご奉公。
うまくいくと、広大な領民付きの領地・・・結構いい値段だよな命

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 14:10:40.62 ID:jl621Qg5
まあ家康が戦後処理に忙しい間に事が上手く進んで良かったジャマイカ

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 14:26:41.43 ID:1HIW+/X9
>>393
保険金みたいなもんですからね>死後の恩賞
医療技術も発達してないから日本人全体が余命半年みたいな感覚でいたのかもしれませんな

「それ、オレの・・・」

2010年11月04日 00:01

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 18:41:45 ID:1zdyFUTe
「それ、オレの・・・」

小山評定の際に徳川軍に参戦する武将達が如何に誠意を示すかを話し合っていた。

山内一豊「戦働きで活躍を示すなんて皆言うよね。」
堀尾忠氏「オレだったら居城も民も皆徳川殿に差し出すくらいの誠意を見せるよ。」
山内「ほう・・・(ニヤリ)」

石田三成が兵を挙げたと聞くや
諸将が東軍西軍への去就に迷う中、一豊は真っ先に自分の居城である掛川城を家康に提供する旨を発言し
その歓心を買った。

要領の良い人間とタイミングを逸した要領の悪い人間の話。




308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 19:01:22 ID:6u8abJFa
>>306
しかし関ヶ原後の論考で言うなら

堀尾忠氏出雲24万石>>>>>>>>>>>>>(色々と越えられない壁)>>>
>>>>>>>>>>>>>>山内一豊土佐9万8000石(後に一豊自身の検地でも20万石)

なのだが。

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 19:05:14 ID:QYIbabVW
権現様「おや、土佐は50万石くらいはあると思っていた。悪いことしたのお」

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 19:15:59 ID:nwaLBOb2
堀尾も山内もほぼ倍増だから結果は同じか

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 19:24:48 ID:ngad/fgT
>>312
しかし堀尾さんの浜松12万石→出雲24万石は、畿内に近いことから言っても文句なく栄転だが、
山内さんの掛川5万1000石→土佐9万石(20万石)が栄転とは言いがたいんだよなー。
高知の人には申し訳ないけど当時の土佐って、僻地中の僻地の一つだし。

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 19:50:13 ID:v0z4I7VC
当時で栄転というと、近畿、東海道、北九州あたりですか

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 19:54:09 ID:nP9pUT1O
>>306
こんな有名な逸話がまだ出てなかったのか・・・
大河ドラマにすらなったのに、どんだけ戦国板の連中には人気ないんだ、一豊w

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 20:05:27 ID:EPHfTlkX
>>314
土佐の長曾我部が四国統一をしたのは、讃岐、阿波、伊予からしてみたら、土佐に侵攻するだけの価値が無かったから
という話もあるね。他の三国を押さえたとしても、それからは土佐以外の方向に進出した方が利益になるから

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 20:07:54 ID:QYIbabVW
三好長慶「やっぱり畿内だよねー」

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/03(水) 21:04:22 ID:PV1r30AC
>>417

逆だよ逆、有名すぎてドヤ顔で書き込んだと思われるから
有名すぐる逸話はみんな書き込まないんだよ