七郎兵衛の策略

2017年08月03日 18:22

堀秀政   
118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/03(木) 05:14:39.58 ID:UnR9P03U
賤ヶ岳の戦いの折、堀秀政の陣へは、佐久間玄蕃(盛政)の進出した中しきり方面、並びに賤ヶ岳方面より、
しきりに加勢助力の求めがあった。このため、秀政はすぐに兵を出そうとしたが、これを
堀七郎兵衛(利宗、あるいは道利)と云う者が抑えて申し上げた

「勝家の柳ヶ瀬の陣から玄蕃の陣に向けて、使いが切々と往来しているのを確認しました。これは、
玄蕃の行った中入から、早く引き取れと伝えているのだと考えます。
もし玄蕃が中入を引き取るとすれば、もと来た道を帰らず、中しきりを突き抜けて帰陣しようとするでしょう。
然らば我等はこれと一戦しなければならない場にあります。
また玄蕃が引き取らないのなら、勝家が必ず、本軍を中しきりに押し寄せて合戦を始めるでしょう。

この2つ以外の方針はありえません。ですのでここで我が兵を分散すること無く、その節を待たれるべきです。」

「しかし玄蕃が引かず、勝家も出てこなければどうするのか」

「その時は勝家の運がここに尽きた、という事です。」

そう言ったが、はたしてその通りとなった。

この堀七郎兵衛は、かつて明智光秀との山崎合戦の際、堀尾吉晴の軍が天王山に駆け上がり、秀政の軍も
その後に続こうとしたのを止め

「山上の味方は崩れるでしょう。然らば彼に続いては供崩れとなります。別の場所より登るべきです。」

秀政はこれを聞き入れ別の場所から登ったが、はたして先手の堀尾の軍は敗れた。しかし別場所より
上がってきた堀軍が横槍を入れる形となり、大利を得た。これも七郎兵衛の策略であった。

(士談)


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名人久太郎

2017年01月17日 17:48

堀秀政   
516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/16(月) 20:12:38.37 ID:7k/eFLeL
堀久太郎秀政、後に左衛門督という。武士から下僕に至るまでこれを扱うとき、下の者達に
情を尽くすことを第一に心がけていたため、配下に彼を恨むものは居なかった。

ある時、奉行の従者と、荷物持ちの者達が言い争っているのを聞いた。荷物持ちの者達が
このような荷は重すぎて持てないと抗議をしていたのだ。
秀政はその荷物を自分で持ち上げると、そのままあたりを往来してきた。そして
「私はあの荷物持ちの者達より力がある。なのに一里ばかりこれを背負って疲れ果てた。
彼らがこれを持つこと出来ないというのは当然である。」
そう結論した。

またある時の合戦の折、秀政自らの武者押しに旗指が遅れた事を周りは咎めたが、秀政は自らこの旗を負って
馬を駆けてみた。
「これは武者押しの時の私の乗馬が、肝が強い物だったために旗指が遅れたのであろう。」
そう考え、肝の弱い馬に乗ったところ、以後旗指が遅れることはなくなった。

彼は世に名人久太郎と呼ばれるが、このように配下の者達を使うに心を用いた故に、そう人は言ったのである。
小田原陣中に卒した。享年三十八であったとか。

(芳譚)



堀秀政は牛数十頭を買っておいた

2016年07月17日 17:31

堀秀政   
934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/17(日) 04:46:08.88 ID:E2S4ZJJR
相模の小田原の役の際、堀左衛門督秀政は、まず人を遣わして伊豆・相模・駿河・
遠江で、牛数十頭を買っておいた。

豊臣秀吉が箱根の険路に差し掛かった時、秀政は牛を使って兵糧を運んだ。他の
軍はこれに戸惑ったのだが、秀政1人はあらかじめ備えていたので憂いはなかった。

ある夜、風雨は甚だしく、天地は暗かった。秀政は曰く、「今夜は必ず盗人が現れる
だろう。我が士卒の馬鞍や兵糧などを盗人に取られるくらいなら、その怠りを窺って
私自らが取るとしよう」と、言った。

士卒はこの言葉を聞き、寝る者はいなかった。秀政はその夜、3度陣中を見回った。
他の陣は多くが盗みにあったのだが、秀政の陣は盗人が入ることはできなかった。

――『武将感状記』



935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/17(日) 08:09:22.63 ID:nRkj98x7
風魔の仕業

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/17(日) 10:55:06.08 ID:7EQPQjUy
Q太郎は小田原で若くして死んでるけど、風魔の暗殺って線も無きにしもあらず

会津を任せるに相応しい人物は誰か

2012年08月11日 20:56

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/11(土) 17:01:58.04 ID:2S2DspoA

豊臣秀吉は伊達政宗から奥州会津を没収した後、奥の要地である
会津を任せるに相応しい人物は誰かと考えていた。

そこで自分が相応しいと思う人物の名を書き記し、徳川家康にも
同じようにさせた。書き終わった後に札をひらくと、

秀吉が第一に堀左衛門、第二に蒲生飛騨守。
家康が第一に蒲生飛騨守、第二に堀左衛門、という結果になった。

秀吉は掌を打って「さてさて、名将の思慮は不思議にも一致するものだ。
順序は違えど、選んだ人物が同じとはな。徳川殿はいかなる心をもって
このように見定めたのか」と言った。

「まずは殿下の尊慮をうけたまわりたく思います」

「奥州の人は情の強き者なれば、左衛門のごとき者でなければ
鎮座することはできないだろうと思ったのだ。だから左衛門を第一とした」

「では某の愚意ですが、屈強な奥州人を左衛門のごとき猛烈な者に
治めさせれば、諺にいう『茶碗と茶碗の出合』のごとく、いずれ片方が
砕けることは避けられないでしょう。

氏郷は武略は言うに及ばず、文学にも志深く、和歌茶道を心得ており、
性質も温和です。そのような風流人ですから、屈強な奥州人を治めさせるには
もっとも相応しいであろうと思い、第一に記しました」

家康の意見を聞いて秀吉は「なるほどその通りだ。良い所に気付いたな」
と言い、ついには氏郷を選んだ。

――『徳川実紀(大業広記)』




7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/11(土) 19:07:40.34 ID:PVQ/QCRb
2人とも寿命以外は完璧超人だな

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/11(土) 23:55:04.44 ID:VkGDilvR
>6、でも東北の問題児のまーくんも数寄大名なんだけどな・・・よほど相性悪いんだな

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/12(日) 02:52:40.75 ID:9LqJqidb
>>25
だってそのまーくんへのお仕置きの後始末だし…

天正十年十月、堀秀政宛、柴田勝家書状

2012年03月07日 21:50

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 05:04:23.05 ID:L0jQzyS1
天正十年十月、堀秀政宛、柴田勝家書状

『覚

一・羽柴筑前守(秀吉)、約定違反のこと

一・清須において誓い、それぞれに印も押した置目について、秀吉は全く守っていない。
  政治の形が今までと全く変わったことに、庶人は不信を申し立てている。諸国の下々がそのように言っているのは
  当然のことである。政治が分明に、決まった通りに行われていればどうしてこんな事になるだろうか?

  羽柴筑前とこの勝家の間は、、元々は疎遠でなかったはずなのに、この頃では人々も不和だといっている。
  天下の織田家御分国を静謐にするという評定は当然のものなのに、清洲会議以来の秀吉の裁許は、言葉にもならない
  有様である。諸人がこれを不審に思うのも尤もである。
  
一・この勝家自身のことを言わせてもらえば、私は長浜を分配していただいた以外、米一粒、一銭足りとも私していない。
  申次の諸侍から、この事に対して私に嘆いてくるものが聊かあるが、そういった者たちにもその理由を申し使わして、
  道理のあるところをよくよく説明しているので、私の方では知行にも諸侍にも手心を加える事は一切無いのだ。

一・若子様(三法師)の事だが、惟住五郎左(丹羽長秀)より、岐阜に申し上げるべきだとの意見により、各一同の
  兼ねてからの約束通りに、岐阜から安土への御動座をされるようにと、岐阜へも、五郎左へも返事をした。
  その墨付は双方に存在している。

一・今度の上様(信長)のご不慮によって、天下は混乱し治め難き様相となった。未だ四方に敵があるのだから、
  内輪は対立を自重し、上様の行いを引き継ぎ四方に馳せ走る。上様がおられなくてもそのようにするのが
  本来で有るべきなのに、全くそのようになっていない。

  一方で家康の行動を見てみろ。彼は度々の上様の御動座によって、武田一類を尽く討ち果たし、その後の平定を
  仰せつかった。ところが北条が、彼らは上様御在世中は上様の御意に従っていたというのに、状況が変わると
  その態度を一変させ織田の軍を攻め家康と対陣に及んだ。事ここに極まって、天が味方もしてくれたのだろう、
  徳川家の者共は皆で一致してこれに立ち向かい、即座に追い崩し討ち果たした。誠に上様の時より続く軍忠、
  これは上様へのお弔いにもなるもので、かつ天下の誉れ、これに過ぎるものはないではないか!

  しかるにそんな事を考えもせず、御分国の内に私的に新城(山崎城)を建設するなど、様々な我意を通している
  秀吉は一体、誰を敵としているのか!?
  政治を担当するものがそのような事をするのは許されないものである。私と彼との関係が悪いといっても、
  今は心をあわせて、上様のご苦労によって治められた織田家御分国をあい治め、御分国の政治を、たとえ
  上様には及ばなくても、相守るべきなのである。
  このままでは結局共食いをして双方果て、織田家の領国も他人の国になってしまうだろう。
  これは我々一同の本位ではないだけではなく、天道にも背いた行いであろう。
  しかし今、情勢はそのような方向に向かっていることが、無念至極なのである。


                   柴修 勝家(花押)
天正十年十月六日
  堀久太郎殿』
  

清洲会議の約束を守らず独自行動を拡大する秀吉に対する、柴田勝家の危機感が溢れる書状である。
(南行雑録)







272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 06:59:47.53 ID:1pP/TvnR
>>270
平山優が「天正壬午の乱」で一部を紹介してた手紙だね。

秀吉と勝家が争い始めたせいで、予定されてた織田政権
からの援軍が貰えなくなったとあった。

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 07:43:57.22 ID:9YCq36jo
>>270
火事場泥棒的に甲斐、信濃掠め取ってる家康褒めてるwww
そこも織田領だから

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 07:50:37.32 ID:1pP/TvnR
>>273
それは事実誤認。
家康は、ちゃんと織田政権の許可を貰って侵攻してる。


275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 07:56:52.37 ID:4UlnHobY
「援軍を送れないのは~だからだよ」という勝家の書状か、なるほど

>>274
織田政権っていったい誰?

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 08:15:35.47 ID:1pP/TvnR
>>275
具体的に侵攻を認める書状を出したのは秀吉。

勝家の手紙でも判るように信長亡き後の織田家は、清須会議の
結果を受けて重臣の合議制で進めることになってた。
だから、織田政権扱いにしてる。

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 08:23:26.73 ID:2yGOlGLa
あと織田信雄からも織田信孝からも、家康に対して充分な援助ができないことを詫びる書状が出てたりするね。
織田家中では争っていても、対北条に関しては意識が統一されていた。
家康の甲斐信濃侵攻は、織田家の完全な支持のもとの行動だったわけだ。

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 08:28:48.98 ID:VeIse7g4
うーん、時代に置いていかれた感が漂う文面

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 08:43:37.32 ID:bmHT1+x3
>>273から漂う家康アンチの臭い

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 09:45:53.50 ID:iaQ7qK/H
ていうか、上杉や北条が攻めてきてるのに切り取られるがままにしておく方が問題だろ。
「織田から許可取ってないから黙って見てました」じゃ済まん。

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 10:22:28.35 ID:O9eygUz0
>>277
織田の援軍が、信雄からの三千で終わっちゃったからね。
北条との和睦の時には、ちゃんと信雄、信孝が仲介したけど。


282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 10:41:32.15 ID:N92JjHc1
埋められたり北条にボコられて逃げたりしたからしょうがない

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 12:16:21.79 ID:iCWn/gbD
肝心の織田家が内部で争いを始めていたから、家康がおいしくいただいてももしょうがない

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 12:27:57.43 ID:a20rsPRR
鬼武蔵さんが無責任に帰っちゃったのがいかんかったよね、河尻さん滝川さんが惨いめにあったの

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 13:12:49.90 ID:ouTTO3FR
滝川一益はともかく、
川尻も鬼武蔵も在地武士たちから恨み買いまくりだったからな…
逃げるか殺されるか二つに一つだったと思うよ

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 13:16:29.11 ID:Wc6mNpzP
鬼武蔵さんならそこは返り討ちにして欲しいところだが、足場が固まってない・
多勢に無勢・自陣は浮き足立ってるってのじゃ逃げるしかないわな。

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 13:18:32.88 ID:cXUR8w+6
いや、でも家康の甲斐・信濃獲りは、火事場泥棒とかおいしく頂いたとか、そんな
生易しいもんじゃなかったと思うぜ。確かにあの時しかチャンスはなかったとは
いえ、中身を見ると、けっこうムチャしてるから。ここぞとばかりに甲・信に大兵
力を送り込む余力があったわけでもないし。家康にとっても大きな賭けだったんじ
ゃないかと。
失敗して逆に徳川がぶっ潰れてた可能性も十分あったと思う。北条が出てきた後
なんか特にね。完全に数的不利の状況でぶつかったわけで。
当時の徳川にとってある意味、身の丈以上の冒険。

家康って、後に天下とっちゃったからイメージ的にちょっと大物感あるかもしれ
ないけど、独立後は対今川でも対武田でも対北条でも、基本的に相手の方が兵力的
にずっと有利な状況で、辛抱強く戦ってきた立場だったんだから。


288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 13:34:23.20 ID:ouTTO3FR
家康が秀吉に臣従するまでに戦った格下って真田くらいだよな・・・

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 14:41:17.84 ID:O9eygUz0
>>288
木曾義昌とかもいるよ。

本人が出馬してるケースだと、三河や遠江辺りの
国衆を相手にしてる時くらいかな。

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 19:55:30.71 ID:2TvwxyNL
その国衆だって今川や武田のついていたような連中だしなあ

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 20:19:43.49 ID:TTvOZGf5
三河一向一揆

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 20:20:27.93 ID:TTvOZGf5
真田だって当時は上杉配下だ

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/08(木) 09:15:48.51 ID:yyCUGesD
>>287
まぁそれだけのことができるからこそ織田も同盟という関係を続けわけだわね。

使えないならどこより先に信長が潰して自分の手駒置いてただろしうな。

清須体制の成立前後の、情勢とその分析

2012年03月04日 22:34

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/04(日) 08:06:20.03 ID:z1dbpBgd
「多聞院日記」、天正10年(1582)の記事より

6月29日
『大乗院(尋憲)殿が安土より帰られた。三七殿(織田信孝)から御念の入った御礼を受けたそうだ。
まずは大慶である。
伊勢の御本所(織田信雄)と三七殿との所領に対する存念が一致せず、諸軍勢が未だに集結したままであるという。』

7月6日
『天下の状況、柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽五郎左衛門(長秀)、池田紀伊守(恒興)、堀久太郎(秀政)の、
以上5人によって分捕りのようにされてしまった。
信長の子供たちはいずれも取り立てられなかったという。浅ましい、浅ましい。』

7日
『天下の状況、本所(織田信雄)と三七(織田信孝)との所領に関する論争のため、両人共に三法師の
名代を辞任し、信雄は伊勢を取り、信孝は美濃ばかり。上野殿(織田信包)へは伊賀一円だと言う

柴田勝家は長浜一円二十万石、堀久太郎は城介殿(織田信忠)の子供たちの御守りを命ぜられ、
そのためとして近江の中郡二十万石。丹羽五郎左衛門は高嶋郡と滋賀郡、池田紀伊守は十七所、大阪を取り、
羽柴筑前(秀吉)へは山城国一円、丹波国一円(これは筑前の弟小七郎のもの)、西の丘、勝竜寺以下、
河内にて東ノ山以上、それらが概ね、秀吉の意のままになったようである。

それから下京六条に城を建設するという話だ。ここに三法師を入れ、その名代を置くことはなく、
先の五人、柴田、羽柴、丹羽、池田、堀が常駐して意見申し上げ、盛りたてていくのだとか。

筒井順慶は大和国一円、宇智郡を与えられたそうだ。
これには羽柴秀吉が、筒井が所領できるよう熱心に運動したとのことである。
しかしこれで、大和は今後も静謐が保たれるだろう。

以上、このように相定まったが、かなりの問題が残されたままである。
なにより信長の子息達は大勢いるというのに、何れも全く取り立てられていない。
必ず何らかの狂いが出てくるだろう。』


清須体制の成立前後の、情勢とその分析の記録である。





256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/04(日) 17:43:44.24 ID:NMWqnEVD
>>254
Q太郎パねぇ。清洲会議出てないよなwwww

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/04(日) 18:29:51.94 ID:JM5TmENz
名人の立場もかなり微妙なとこだよな。誰からも気を遣われる

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/04(日) 20:24:05.38 ID:okSBeQKy
キュッキュキュッキュキュッキュ久太郎はね御守なんだ御守なんだ御守なんだけれど(ゴメン)

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/04(日) 20:25:15.00 ID:rACJ8lMi
信長が死んでなければ、長浜は名人のモノ

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/05(月) 02:19:21.78 ID:y/4ZV0Ux
高橋名人か

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/05(月) 17:29:42.68 ID:DCKxR8Nx
名人と蘭丸は同じ系統な気がするけど、蘭丸には森家の血が流れてるので....

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/05(月) 18:15:28.02 ID:c/g9TG66
ヒャッハー!になるとw

長久手合戦・堀秀政への批評

2011年11月25日 22:00

堀秀政   
160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 15:10:41.76 ID:fG26fPDD
天正12年(1584)小牧長久手、三河中入りを目指した羽柴秀次軍を徳川家康が破った長久手の戦い。
この時の堀秀政の働きに関する批評を見てみよう。

『堀久太郎(秀政)は三河衆の先手に打ち勝ち、そのまま討ち進むべき所を、その場を他の味方の部隊に任せ
自分たちは引き下がった。

もし、先手に勝利した勢いのまま、後続の徳川軍の旗本勢と一戦していれば、たとえ先の交戦で
疲弊した軍勢であるため、そこで自分たちの部隊は敗北したとしても、池田勝入、森長可の部隊は
無傷の新手として残っていたので、形勢としても最終的に秀吉軍が勝利する形に持っていけたはずである。

そうであるのに向かってくる敵を他の味方に譲って戦わずに引き下がったのだ。
これは自分の最初の勝利を無にする行為であった。

つまり堀秀政には、秀吉公への誠の忠誠心がなかったということであろうか、
それとも戦に不案内で、あの場に留まる戦術上の利点が解らなかったのだろうか?
(秀吉公へ誠の忠無御座候か、又不案内にて其利を不存候か)
(長久手合戦覚書)

名人堀秀政に対する、珍しく批判的な批評である。




161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 16:09:45.38 ID:IfoxjoTk
疲れた兵で戦えってのも無茶な気が

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 16:18:02.10 ID:6NgHtMm6
勝入さんも鬼武蔵も死んだのは本人たちの責任であって
別にQ太郎さんのせいではないのでは…と思ったけど違うのか

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 16:24:50.60 ID:jySik5yO
それぞれ勝手に戦ってる感じで全体としてのまとまりがないよね

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 16:26:07.68 ID:EW/YV1tC
まあ小牧長久手の時点では、
秀吉とゆかいな仲間たちって感じだからね

明確な上下関係も絶対的な優越性もまだない

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 18:12:14.91 ID:9Trhl71K
譜代の臣やよほど取り入りたい事情があれば別だが、この時点の関係でそんな捨石みたいな
真似する奴いたらその方がびっくりだわな。

ていうか、そもそもそんな本気で「決戦」までするつもりが秀吉にあったのか(or可能だったのか)?
家康のプライド潰さない程度にほど良く勝って和睦して政権に取り込むっていうのであれば
久太郎は過不足のないまさに名人級の進退を見せたともいえる。

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 18:27:45.48 ID:hUDrpAZQ
いくら名人でも秀吉の心底をそこまで見抜いた上の撤退とは思えん
仮に秀吉の形勢が悪くなって場合に備えて家康にも目を残しておきたかったとかじゃないのか?

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 18:46:55.06 ID:jySik5yO
総大将の秀次さんがまっさきに逃げてるから組織的に戦えないのはしょうがないけど
けど、取り残された池田森の両隊がなんか気の毒

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 18:56:57.49 ID:/O5RDxdR
そもそも隠密行動の別働隊なのに、敵の主力に遭遇して
戦えとか無茶言うな

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 19:03:34.02 ID:Hn0shKtX
>>168
最近の研究だと、秀吉の小牧長久手の中入り部隊は隠密でも何でもなく、むしろ家康に脅威を与えるため
大いに宣伝していたらしいぞ。

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 19:18:34.60 ID:1gtF8JjC
>>169
鬼武蔵が例によって放火しまくってたらしいしなw

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 19:20:16.71 ID:6NgHtMm6
鬼武蔵の行動で、事態が良くなったことってあったっけ…

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 19:26:49.31 ID:lSiYGdbZ
>>170
しかも白昼堂々とねw

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 19:44:53.54 ID:T8U9BEr7
>>171
高遠城とか、美濃帰還のときとかあるじゃないか!あるじゃないか!多分!
[ 続きを読む ]

堀秀政、出奔した弟の多賀秀種に

2011年02月11日 00:01

堀秀政   
671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/10(木) 11:53:44 ID:dQRhk+ML
堀秀政が北庄城を修築した時のことである。

秀政がその弟の多賀秀種の措置宜しきを得ぬとしてこれを詰責した。
これを口惜しきと考えた秀種は翌朝致仕して北庄を去ってしまった。。

秀政は弟の致仕を聞くと途中不便なこともあるだろうと餞に黄金十枚を送り、人をやって届けさせた。
その後秀政は黄金を包んでいた紙を一枚一枚のして箱に納めながらこう言った。
「およそ財というものは用いるべき時は黄金十枚でも惜しむべきでない。
 無用の時はこの紙十枚といえども無駄にしてはならない。私を鄙吝と思うな。」




672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/10(木) 12:14:52 ID:OUukF1Mc
Q太郎は若死にし過ぎ
せめて関が原くらいまで生きてれば


673 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/02/10(木) 12:15:59 ID:ShdENNEz
さすが名人Q太郎

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/10(木) 12:17:54 ID:rp56qvlX
家康「その通り!」
爆弾正「その通り!」
岡左内「その通り!」

又左「その通り!」

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/10(木) 13:47:55 ID:U6fv33hH
>>674
又左は別だw

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/10(木) 14:02:26 ID:W3BhpBnV
>>674
>>677
殿!我が城が攻められています!援軍を!!

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/11(金) 13:13:19 ID:NABWCRk9
>>678
待ってろよ!今そっちに銭を投げたからな!

徳川家康は、ライバル関係にある部隊を隣り合わせにすることが多かった

2010年10月04日 00:00

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/03(日) 20:43:37 ID:5DPniPEp
徳川家康は、戦の布陣のとき、ライバル関係にある部隊を隣り合わせにすることが多かった。
これは、部隊の奮起を促すためのものであった。

たとえば、三方ヶ原の戦いでは、石川数正の西三河衆と、酒井忠次の東三河衆を
隣り合わせに配置した。
彼らは「西衆に負けるな!」、「東衆に負けるな!」と奮起し、一時は山県昌景の軍勢を
押し戻す活躍を見せた。
しかし、疲れたところを横から内藤修理の攻撃を受け、敗走した。

また、長久手の戦いでは、大須賀康高を先鋒に、娘の夫である榊原康政を次鋒に任命した。
彼らは連携して豊臣秀次の軍を敗走に追い込むことに成功した。
ところが、次の敵を追う際、「大須賀衆に負けるな!」、「榊原衆に負けるな!」と
突然かけっこを始めてしまった。

かけっこは、次鋒のはずの榊原康政が先鋒の大須賀康高を追い越す、
という抜群の脚力を見せて勝ったのだが、敵前に出るまでにヘトヘトになってしまった。

そこを百戦錬磨の堀久太郎が見逃すはずもなく、2部隊は敗走を余儀なくされた。

家康としては、家臣の奮起を促して効果も現れてるんだけど、
なぜか敗北フラグになってる気がするのでこっちに。




440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/03(日) 20:52:14 ID:nzvxTtAc
そこは、名人久ちゃんを褒めるべきw

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/03(日) 21:34:34 ID:VIG3+ncU
堀も早く死にすぎたな。
亡くなったのが小田原征伐後なら関東のうち100万石もらえたのに。
確か秀吉のそういう書状が現存してたね。

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/03(日) 22:17:27 ID:oJ4CCXkG
>>440
敗走する部隊をまとめ上げて撃退ってんだからまさに名人芸

>>443
当時は所領は家でなく人に与える者と認識されていたから
秀吉の蒲生に対する処置はごく当然…らしい。

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/03(日) 22:18:28 ID:pC3qStxn
>>439
官兵衛は仲良しで固めたんだっけか?
どっちが良いかわからないけど、やっぱり一長一短なんだろうか

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/03(日) 22:28:37 ID:SSB5AuFa
蒲生騒動レベルの家中取り締まり不行き届きあったら
江戸時代でも減封改易は普通じゃね

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/03(日) 23:08:40 ID:NG8YTqy5
丹羽長重「よく分からない理由で大幅に減封されたうえ、有能な家臣も根こそぎ引き抜かれましたが
これが普通ならしょうがない」

黒田官兵衛、差出て申し上げるには

2010年08月25日 00:00

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/24(火) 17:10:40 ID:2LQHm6Sa
天正10年(1582)、本能寺の変を聞き備中高松より撤退、無事姫路城に戻った羽柴秀吉は
信長の弔い合戦として、明智光秀討伐を宣言する。そして家臣たちの前でその心を語った

「わしはこの姫路で籠城する準備は、一切しない覚悟である。
たった今、金奉行や蔵奉行たちを呼んでその旨、固く申し付けた。
今回は、大博打を打ちに行くのだ!」

これを聞いた堀久太郎秀政

「あなたがそう考えておられるように、今の世間の雰囲気は、あなたに取って博打の成目が
来ています。風も順風のように見えます。今こそ、帆を上げるべき時でしょう。」

すると御伽衆の大村由己

「その通り!世間の様子、物に例えれば桜の名木が、只今花の盛りと見えまする。
花見をするには今が最適でございましょう。」

これに黒田官兵衛、差出て申し上げるには

「先に高松で信長公切腹の報を聞いたとき、私は”今こそ天下取りの機会である”と申しましたが
その事、『主人に対して言い難いことを、よくも言ったものだ』などと、人々が囁いているように
承っております。

ですがあの時、殿様(秀吉)には、深くご愁歎なさっていたようには見えましたが、私はその
心の中を推量いたし、ああ言ったのです。

殿に取って目出度いことが起こりました。今こそ博打を打つべき時です。
先程、大村由己も申し上げたとおり、吉野の花も今や盛り、桜の花は、寒い季節に
見たいと思っても、時が来なければ絶対に見ることの出来ない花であります。
春の温かい雨や風を受け、自然に咲きいずるものであるため、我々人間の
心任せには出来ません。

さてこの度は光秀と天下分け目のご合戦と成ること、もはや確実です。
なんと目出度いことでしょうか。この合戦こそ、殿のお花見初めであると、私は考えております。」

秀吉はこれに対して何も言わなかったが、自分が心中に考えていることと一致していると
思ったのか、ただニコリと笑った、とのことである。


まあ、勘兵衛さんの、秀吉の心中を的確に把握したいい話といえばそうなんだけど、
秀吉も秀政も由己も、時期が時期だけになるべくオブラートに包んで発言しているのを、
これだけ露骨に口に出して言っちゃえば、そりゃあ警戒もされるわな、と思ったのでこっちに。




636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/24(火) 17:34:04 ID:IM9aFYur
博打・船と武士らしく喩える掘久、自然に喩える大村由己ときて勘兵衛はどう喩えるのか、空気読まずに
現実的な事かと思いきや
確かに空気は読まないがちゃっかりと由己の比喩に乗っかって上手いこと言ってるのな

>ただニコリと笑った
そしてココでなんか「にやり」と笑いあう勘兵衛と秀吉想像したw