「常々伝授の兵法を使うのはこの時だ」

2015年12月30日 15:42

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/30(水) 11:20:22.23 ID:r+hYBIID
先の肥後太守・加藤清正の祖父は、大織冠・藤原鎌足の末葉・加藤因幡守清信
という人である。彼は尾張犬山に住み、斎藤山城守(道三)の幕下にいた。
山城守と織田信長が犬山で一戦した時、清信は討死して果てた。

清信死去の折、子息が1人いた。鬼若といって2歳であった。彼は孤児となり、
母に養育されて成長し、尾張愛知郡中村というところで光陰を送って、後に
弾正左衛門兵衛と号した。弾正は38歳で死んだ。

彼には1人の男子がいて、その子は3歳だった。彼は虎之助と名付けられた。
どうにか母に育てられて5歳までは中村に住んだ。ところで、豊臣秀吉の母公
(大政所)と虎之助の母とは従姉妹の関係だった。それゆえ、虎之助の母は、

「木下藤吉殿はいま近江の長浜で5万貫の領地を治められ、豊かな様子である。
この子を田舎で育てたのでは武士の作法も知り難い。只々、秀吉公を頼み奉ろう」
と分別し、虎之助を連れて長浜に至り、秀吉の母公に委細を申し入れると、
母公は殊の外もてなしてくれた。

また、両人はともに秀吉の目にかけられ、母公の側で養育されることになった。
虎之助は15歳になった時、母公に申し上げて、「私はあなた様のおかげで
成人いたしました。15歳とはいえ、背たけも高くなりましたので、前髪を
落として奉公を勤めたく存じます」と、言った。

母公は、「大人らしく申すものだ」と思って秀吉に詳しく話すと、秀吉はひとしお
機嫌が良くなり、密かに虎之助の眼差しを見て、「よく祖父の清信に似ているもの
だと存じる。前髪を落とし申すとしよう」と言い、すぐに彼を男になし加藤虎之助と
名付けた。こうして虎之助は初めて170石の領知を与えられ、奉公の身となった。

ところで、秀吉の家中に塚原小才治という兵法者で、卜伝遠類の武士がいたのだが、
虎之助は彼に従って兵法を修行した。ある時、長浜の町人所へ、人を殺傷して閉じ
こもった者がおり、町中が騒がしくなった。虎之助はその様子を聞き付けて、

「常々伝授の兵法を使うのはこの時だ」と思い、かの町人所へ走り行くと、四方は
人で満ち満ちていた。彼は大勢の中を潜り入り、狼藉人を打ち倒して綱をかけて、
手傷1つをも負わずに捕らえて出て来た。閉じこもった者は秀吉の足軽・市足久兵衛
という者だった。

その首尾を秀吉はつぶさに聞き、「常々かの者は普通の若者のようでもなく、役に
立つことだろうと思ったのだが、よくぞやったものだ」と言い、200石を加恩して、
木村大膳組の小物見役に仰せ付け、虎之助は明け暮れ勤仕した。

――『清正記』



123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/30(水) 20:53:53.21 ID:l9PrY5lP
清正は明智光秀と同じ美濃の土岐氏だから
桔梗紋を使ってたという説を聞いたことがある

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