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如意ヶ嶽城の怪異

2021年03月21日 19:02

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/20(土) 21:19:51.03 ID:F/WYy8iT
洛東の高山を如意ヶ嶽という。ここには昔、如意輪堂があって美々しき盛りであったと云われる、
この山に瀧があり、急雨五月の頃、京よりこの山を望むと瀑布がありありと見えて、いみじき壮景であった。

昔、当寺繁盛の折から、この瀑布の傍らに楼門があった。これすなわち三井寺の境地にして、
西方の門であった。そのためこれを号して「楼門の瀧」と言った。
往古、三井寺に役する者は、この道を往還したと云い伝わる。京よりかの寺に行く時は外の街道より
険難であるのだが、非常に近道になるのでそうなったという。

この山に有った城郭は(足利義晴が築城した中尾城の事か)、去る頃公方がいみじく執し給ったのだが、
その後不吉の聞こえ有りと云って廃荒した。
また、このあたりに昔、平氏の世に、俊寛僧都、平判官康頼その他の人々が、後白河院にすすめ奉って
平氏を滅ぼすべしとの相談の有った山荘の跡地であるといって、その礎石がある。
総じてこの一山には古の様々な寺院山荘があって、軒を並べたいみじき場所では有るが、廃亡は
時の運命でも有るのでせんかたなし。

さて、去る頃、ここの城が盛んであった折から、不思議の化物があって、人を入り絶えさせたと云い伝う。
奥の矢倉の下に勤め守る侍共、雨天の物寂しい折から、碁、双六などを持ち出して遊び戯れている時、
明かり障子の破れた所より、面の広さ三尺(約九十センチ)ばかりにして、三目、両口の鬼形のもの、
内をきっと見入った。これに戯れていた人々は興を冷まし、身の毛も立てて恐怖した。
既に夜更けであったのに、虚空より、鏑矢、太刀の音など聞こえて、化生の者まなこに遮り、恐ろしい山であると
云々。

この事は、常徳院殿(足利義尚)御家来の某という者が、最近まで長命していて、修学院の傍に
牢浪として閑居していたのだが、彼が詳しく語られた。

塵塚物語



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武蔵坊弁慶借状之事

2021年03月20日 17:54

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/20(土) 17:31:49.71 ID:F/WYy8iT
武蔵坊弁慶借状之事

昔慈照院殿(足利義政)が在世の頃、様々の道具、古き筆簡など、もろこし、わが朝の名人を尽くして
高覧あった。これによって将軍家に拝謁する人々は皆、珍しき筆跡を各々参らせられた。
或いは宸翰の類、その他掛け物など、あたかも山の如くに集まった。
その品々は、申すに違わず類なき見ものであったと言い伝えられている。

その中に、武蔵坊弁慶が手跡として、文が二十通ばかり、あなたこなたより集まった。
そこに書かれた言葉は、皆借用状であった。
或いは「痩せたる馬一疋御借し候へ」、或いは「砂金すこし預け給え」、或いは「絹一反、粮米一表
貸し給え」と、些細なものまで借りようとした文どもであった。
これは第一の見ものであるとして、上下喜悦して笑いあったという。

これに対して、将軍が仰せに成ったことには
「わずかに現代に残った文どもさえ、かくの如くの借用状である。弁慶が在世の頃には、一体どれほどの
ものを借りていたのだろうかと思うと、大変面白い。
そしてこの文を見れば、彼が無欲の者であったという事も明らかである。一日の蓄えが有っても、明日はまた
人の労志によって日を暮らしていたのだろう。このようであるのだから、定めてその借り物を返弁する事も
無かったのではないだろうか。

つまるところ、蓄財するつもりのない者という所が顕れていて、殊勝である。」
と、大樹(義政)も御感あったという。

現在の僧俗も弁慶のように振る舞うならば、人に疎まれることも無いだろう。
また、弁慶の姿が恐ろしく醜く絵に書かれるが、これは大いなる僻事と見えたり。
右の反故の中に、弁慶を「美僧なり」という事、数多その当時の僧共の文がある。
各別千万の事である。

塵塚物語

足利義政の収拾した文書の中に有ったという、弁慶の借用状について