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関ヶ原前の緊迫した通信事情

2022年10月04日 19:12

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/03(月) 19:27:03.40 ID:HQYAPPYE
慶長年中卜斎記』より
関ヶ原前の緊迫した通信事情

(七月十九日申の刻)増田長盛から石田、大谷蜂起の風聞を知らせる書状が家康方に到来。家康は写しを先手に遣わした。また、急ぎ代官衆に命じ、百姓による一里飛脚を宇都宮まで整備した。その後も風説あり、風説は収まるなどと真偽不明の書状が何通も届き、すべて写しを先手に送った
(二十一日)家康が岩槻に渡御してから上方の飛脚と書状が届かなくなった。その子細は織田常真が敵になり、美濃関ヶ原に軍勢を置き書状と飛脚を通さなかった。天を飛ぶよりほか、地上を歩いて届けるのは無理だと取り沙汰された
(二十二日)金森法印のもとに石田から書状が届いたが、金森は書状箱を開けず封をしたまま家康に差し出した。その状の内容は誰も知らない
(二十四日)この頃、上方からの飛脚状は3、4寸(10センチ前後)四方で結った髪の中に入れてやってきたそうだ。編笠の緒により混んで来たものもあったという。この二人が誰の遣わした使者だったかは忘れた
(八月十日、江戸)家康はご機嫌がよく、料理の間に午の刻にお出になり、「俺が料理をする。鶴を料理しろ」とおっしゃったので鍋を掛け火を起こした。御前には本多忠勝、某(卜斎)、全阿弥の三人がおり、料理は忠勝にご馳走され、家康は囲炉裏の近くにおられた。どこから届いたものか、家康はいかにも細かい字で書かれた書状を目に近づけてご覧になった。そして「去る朔日(ついたち)に伏見城が落城した」と誰にいうでもなくつぶやき、西の方角を向いてはらはらと涙を流された
(二十八日)福島、池田から書状到来。去る二十三日に岐阜城を落として首を進上した。川を渡って陣取りしたので御出馬あれとの内容。家康は「首は芝口に架けろ」と命じた
(九月三日、小田原着陣)永井直勝のもとに小早川秀秋の使者が到来したので報告すると、家康は「せがれ(秀秋=年が若い者をいやしめる蔑称)の言うことは真実ではないから取り合う必要はない」と命じた



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老いたりとも槍の又左

2022年09月29日 15:54

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/28(水) 21:56:23.61 ID:TRfck96B
利家夜話』より
老いたりとも槍の又左、というお話
長いので要約、かぎかっこ内のみ読み下し

秀次事件で連座しそうになった浅野長政親子
石田治部と増田右衛門と仲が悪く密告され、左京(幸長)は舅の利家を頼った
利家はさっそく、秀吉と北政所を密かに訪ねようとした
すると、伏見城の城門外には抜き身の槍がわざとたくさん並んでおり、奉行が左京を挑発しているようだった
それを見た利家は乗り物から下りて、激怒する

「おのれら何事ぞや。今は日本の侍は申すに及ばず、唐まで従ひ中、浅野弾正(長政)父子程の者、自然不届の事に極り御成敗なられ候とも御門際に抜身を仕まつること、さてもさても沙汰の限りなり。左様の事をば奉行の奴原知るまじ。算用の事や人の口にて痛き申す事などは存ずべし」と音声高らかに叱った
「おのれらめ。その槍の鞘はめましき(お飾りくらいの意か)か」と怒ると、御威光を恐れて奉行衆は櫓の中で小声になり、「さやはめ候へさやはめ候へ」と申したので、さっと鞘をはめた
お供していたものは、かように気味のよいことは見聞きしたこともない、初めて見たと話した

なお、前後に磯貝なる者が「似せ判」をしたとあるんですが、これはなんなんでしょうか



421 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/09/29(木) 17:35:41.44 ID:GnixVJCR
>>419
幸長の舅って利家でした?と思ったけど婚約だけしてたんだね

家康の伏見城入城

2021年04月13日 17:50

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/13(火) 13:29:09.18 ID:XJHU+raM
(慶長四年二月、徳川家康石田三成等による伏見の家康屋敷襲撃の風聞などにより、伏見城の支城である
向島城へと移ったが)
「向島に御座されるのは如何か、伏見の城を明けるのでお移り然るべし」と、三奉行(長束正家
増田長盛前田玄以)が頻りに申してきた。大谷刑部少輔(吉継)が内々の使いとして肝煎と成り、
雅楽頭(酒井忠世)、帯刀(安藤直次)、式部少輔(榊原康政)が表の使いとしてこれに合意し、
四月六日、伏見城にお移りと成った。(創業記に閏三月十三日午の刻伏見の城お移りとあり)

鑓五十本持たせ、御先の小姓、その他の詰衆五十余輩が歩行にて御供をした。御乗物、鑓二本、
長刀一、挟箱二、御跡に三河守殿(結城秀康)が馬に御乗りになり、白き袷袴にて、供の衆二十人ばかり
お連れに成った。御家人については、いつであっても罷り出て御目に掛かるべしとの事で、
この日は上記の人々のみで、他には誰も御供には罷り出なかった。

慶長年中卜齋記

家康の伏見城入城について



思うに、返らぬことでは有るが

2021年02月01日 18:11

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/01(月) 16:37:00.04 ID:s06oUcHl
関ヶ原の合戦の前に、石田治部少輔(三成)は、一騎駆にて佐和山より大阪に馳来たり、
増田右衛門尉(長盛)に参会し、密に談ずるべき事ありとして、数寄屋に入って物語をした。

初めは何事を語っていたのか、やがて三成は
「せめてこの上は五畿内の諸浪人共を集め、無二無三の合戦を行わねば叶いがたし、いかが考えるか。」
と言った。

これに右衛門尉は
「尤も然るべき事であるが、それではこちらから企んだような事となる。とにかく時節が至るのを
待って、天道に任せることこそ然るべきである。」
と応えた。

治部少輔は微笑して言った
「太閤様の患いが御快気されていた時、貴殿や我らたちを召され、『汝らに百万石づつ下そう。
何故ならば、私は今度の病気中に様々なことを考えた。汝らを大名にしておけば、万事心安かるべしと
思ったのだ。』と仰せになった。

その時皆々目を合わせ、『さても有難き仰せかな。何と申すべき言葉もありません。ですが、
人の口も有ること故、重ねてこそ仰せをば奉ります。』と、その時はたって辞した。その事を
思うに、返らぬことでは有るが、くやしき事である。あの時百万石を領していれば、現在、
何の不足があっただろうか。とにもかくにも、私は人数を持っていない以上、思うに益なし。
口惜しき次第である。」

そのように語ったとのことだ。

このような大事の事を、一体誰が聞き伝えたのだろうか。しかし私は確かに、人が語っているのを聞いた。
不審なることである。

備前老人物語



【ニュース】九鬼氏に剃髪禁じる書状 石田三成ら五奉行通達

2020年06月12日 17:43

126 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/06/12(金) 12:01:16.61 ID:U6CsS30m
ニュース「九鬼氏に剃髪禁じる書状 石田三成ら五奉行通達 鳥羽市教委」
https://news.yahoo.co.jp/articles/e55878b95cf98410de3d035aa58aa1fc1ba67758


許可なくハゲると怒られるでござるの話



129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/15(月) 19:00:38.89 ID:FUJyT+vk
>>126
そら、人望なくすわな、
ハゲをハゲと言うだけでも謀反ものだのに。

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/16(火) 12:37:23.76 ID:lklO+LpT
嘉隆はともかく、
守隆は子供も居ないのに急にハゲたら
何事かあった→秀吉死んだと受け取られるのはありえるから
ほいほいハゲられても困るってのはよく解る

日曜大工中にペンキが髪にかかったからついでに丸刈りにしたらいつのまにか浮気がばれて頭丸めたことになったのでよく解る(隙自語)

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/17(水) 23:42:29.47 ID:crQi+9Pc
秀吉の死に際して古田織部の親父が殉死してるけど
こういう殉死も怒られたり、やめろって通告出したりしてたんだろうか

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/18(木) 07:18:19.29 ID:ZRrTS4LA
大名じゃないし勝手にすれば?

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/22(月) 21:00:53.80 ID:e7wXX+Ce
>>132
そんなにふるおりの親父が秀吉から恩顧を受けたか微妙だよなあ。美濃出身だし、ふるおり自身も直接的な関わりは中国征伐からだろうし、人脈的にはどっちかというと光秀よりだし
息子を見いだした秀吉に感謝していたのかな、そこそこの禄ももらったみたいだし。そんな人はたくさんいるけど

豊臣秀吉と白戸摂津守の不思議な因縁

2019年11月25日 18:59

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/25(月) 12:10:50.25 ID:lHObEgwQ
豊臣秀吉による小田原の役の折、

陸奥国南部の岩城常隆も、小田原へ参向して関白殿下に聘礼し、それより御暇を賜って帰国するが
その途中、鎌倉を一見したいと彼の地に駕籠を向けた所、その途中に病によって重体となり、鎌倉の
星ヵ谷という場所に旅宿して療養するもそのかい無く七月二十二日に、二十四歳にて卒去した。

彼には子息が無かったため、家臣達が急ぎ相談して、佐竹義重の三男に能化丸(後の岩城貞隆)という
今年八歳になる子が有ったのを養子として、秀吉公が、北条氏が降伏し小田原の役が終わった後、
野州宇都宮に動座された所に、岩城家の重臣である白戸摂津守が能化丸の介添えして旅陣へ推参し、
増田右衛門尉長盛を通じて事の次第を伝えた所、殿下はこの主従を召し出して対面され、家督相続と
本領安堵を命ぜられた。

実はこの白戸摂津守は秀吉公が古くから知って居られた老兵であった。それはかつての事、
岩城家の家臣である白戸、行間、窪田の三人が微服にて忍びで伊勢大神宮に詣でた事があった。
この時、

「こんな機会がまた有るとも思えない。この折に将軍家の巨城も見物したい。」

と、江州安土に立ち寄り、商家に寄宿して暫く逗留した。この間に織田信長が、安土にて京都、奈良、
堺あたりの猿楽に堪能な者達を集めて興行をする、と知り、
「奥羽の辺土では見ることの出来ない、誠に田舎への土産話にこれ以上のものはない。」
と、宿の主人に頼み込んで安土の城中に入れてもらい、これを熱心に見物した。

また舞台、楽屋に入り役者の名などを尋ねていると、殿下、当時は未だ木下藤吉と名乗って居られたが、
彼は例のごとく目早き生まれつきで、彼らを見つけると
「安土表には珍しき風俗の武士である。」
そう思って側に近づき、彼らが何者かを問うと、三人はありのままに自分たちについて申した。

これを聞いて藤吉は喜び
「はるばると離れた東国の衆に、このような場所で不意に出会うとは、思いもかけない事である。」
と、まるで古くからの友人であるかのように暫く物語をし、「誠に胡越を隔てていますが、今後は
便が有れば互いに連絡を取り合いましょう。」と固く約束をして別れた。
その後、白戸は国元より藤吉に対して良馬一疋を贈った。

それから年月が隔たったが、「主君の重代な用であるのだから、然るべき便りである。」
と、能化丸を伴って宇都宮に出かけたのである。

(関八州古戦録)

豊臣秀吉と、岩城家家臣・白戸摂津守の不思議な因縁についてのお話。
信長を「将軍家」と認識していたのですね。



383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/25(月) 20:42:13.15 ID:sOe6IZ1g
この頃は木下ではなく羽柴だろうに

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/26(火) 23:57:33.86 ID:vG3JWnEg
その白戸に岩城の家督をやろうかって内々に話があったと武徳編年集成には書かれているとか

流石増田の子だ

2018年08月15日 11:17

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 22:30:22.72 ID:q6HYpvs1
大阪五奉行の一人であった増田右衛門尉(長盛)は、関ヶ原の後、高力左近(清長)へ御預となり、
武蔵国岩槻に置かれた。

増田長盛の息子である兵太夫(盛次)は、大阪冬の陣の折は将軍秀忠の軍勢に加わり
大阪表へ参ったが、戦いにおいて寄せ手の宜しき噂を聞く度に苦い顔をし、少しでも城方の
宜しき情報を聞けば喜悦していたという。

冬の陣和睦の後、駿府城に置いてこの事を徳川家康の耳に入れた者があった。
家康はこの話を聞くと

「それは近頃、奇特なる心入れであるな。流石増田の子だ。」

これだけを言い、何の咎めも無かった。

夏の陣の折も、もし牢人でいるようなら召し出し、親の長盛への監視も緩やかにせよと命じた。
しかし大阪夏の陣で、増田盛次は大阪城に入り秀頼の家臣として、長宗我部盛親の部隊へ入り、
5月7日、藤堂高虎の部隊と戦い、討ち死にした。

親の増田長盛も後日、武州岩槻にて切腹したという。

(駿河土産)



170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/15(水) 02:16:29.78 ID:5wQcQ5X+
ましたは二重スパイだったという説があるけど、三成寄りというよりは豊臣寄りだったんかな

太閤の家において三奉行とは

2016年07月19日 18:47

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/19(火) 02:53:44.13 ID:wR6zY0cc
太閤の家において三奉行とは、石田治部少(三成)、増田右衛門(長盛)、
長束大蔵(正家)のことである。

四奉行は、先の3人に徳善院(前田玄以)を加えたものである。五奉行は
先の4人に浅野弾正(長政)を加えたものである。

――『武功雑記』



宇都宮国綱改易後の結城朝綱への書状

2016年06月21日 21:15

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 11:35:27.38 ID:/z1n7eoo
真崎文書より宇都宮国綱改易後の結城朝綱への書状

返返、早々為脚力承候、忝候、宇都宮之様子何と候哉、一切不相聞候、以上、
来礼被見、忝候、仍不斗様子を以身上相果候、天道浅間敷存迄候、
然者、西国備前岡山へ可罷下由御諚候間、即罷下、岡山近辺号鷹辺山家ニ指入居候、
石治・増右、内存少も不相替懇切候間、其憑迄候、其方事何様ニも関東中堪忍候様、
尤候、当国へ被打越事、遠境と云、爰元堪忍無調之儀と云、必此方へ之儀叶間敷候、
其元取乱之様、令推量、扠々痛間敷候由存候、尤身之手前之儀可有推量候、巨細追々可申遣候、
恐々謹言、
(慶長二年) 霜月九日 国綱 
七郎殿へ

突然改易された事は天道によるものであったとしてもあまりになげかわしいものという悲しみ
増田長盛石田三成はこれまでと変わらず懇切に対応してくれるので彼等を頼みとしていること
改易された状況でも結城朝勝を岡山訪問を思いとどまって関東にいるようにと気遣っている手紙



876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 18:01:13.44 ID:zZxvwWud
>>875
宇都宮は最初取次は石田三成だったのが浅野長政に変わったんだよなあ
石田のままだったらこんなことにはならなかったのかなあ
佐竹は石田のままで石田がかばってくれたけど

弟はたしかに気性の荒いイメージはあってこう心配するのはわかる
しかし彼の行動は戦国を生き抜いた武将そのものだよなあ

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 20:09:28.38 ID:eaC71Bj5
タイトルのほうは結城朝綱になってるけど朝勝だよね

秀吉に実家を潰されさらには結城家を出ることになったけど終始豊臣方なんだね

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 22:02:58.19 ID:B/LRMvhn
>>877
豊臣方と言うより結城領を取り戻す為には秀康や家康の敵に回るしか方法が無いとも言える

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/22(水) 23:50:14.47 ID:HAdMnRVS
実家の宇都宮も潰されてる可哀想な坊っちゃん

増田長盛の切腹

2016年05月25日 19:52

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/25(水) 15:12:33.35 ID:4/B3iYED
増田長盛は関ヶ原の合戦のあと、高野山に登り出家し、その後高力左近太夫(忠房)に預けられ
武蔵国岩槻に置かれた。

大坂の陣が始まろうとした頃、高力は台命を承り、増田に面して

「御辺は太閤に御恩のある方ですから、豊臣家の様子を見たいという願いの有ることでしょう。
であれば、大阪に上られよ。

これはわたしの私的な考えでは有りません。駿府より免しのあった事です。」

増田はこれを聞くと
「大御所は天下の人君なればこそ、いまこの仰せを承りました。
しかし、私はもう老人です。これから大阪に上り、新付の兵を下知しても、たいした働きは出来ず、
返って私を抜擢した太閤の御眼力に徒なす恐れもあります。
ですのでこのまま、配所にて生命を終わりたいと考えています。」

大御所・徳川家康はこの報告を聞くと、「兎にも角にも本人の心に任せよ」と答えた。

その後、豊臣家が滅亡すると、増田は高力に対面し
「両御所が大阪に御出陣の時より、どうにかして主君の終わりを承らないようにと祈り続けていましたが、
天命によって終に滅びました。であるのに私は、今後何を楽しみに存命すべきでしょうか?
身の御暇給わり候らへ」

そう申し乞うて、切腹したという。

(新東鑑)




766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/25(水) 18:50:30.94 ID:6Eq4MEMp
あれ、増田って息子を大坂方にしたせいで切腹したんじゃなかった

速やかに退去せよ。

2016年05月22日 11:00

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 18:39:05.74 ID:MJ+Dsnbs
備前中納言殿(宇喜多秀家)御簾中(豪姫)が、最近産後のご病中に、物の怪が憑いたとあい見える。
きっと野狐の所為と太閤殿下は思し召され、御朱印を以ってこのように決定された。

日本の領域において、誰が公儀を軽んずるだろうか。天下において生命あるものから生命無きものまで、
すべて上意を重んじている。いわんや畜類がそれを畏れ従わないということが有るだろうか。
速やかに退去せよ。

こうなった上は、尚も取り憑き、この物の怪のために不慮の事態が出来すれば、当社(伏見稲荷社)は
即座に破却する。その上で日本国中に狐狩りを毎年かたく仰せ付けられ、その類を断ち、尽く殺し果たす
旨を御意として表明された。

社人はその旨をよく理解し、肝胆を砕いて御簾中が回復する為の祈祷をする事に専念すべきである。
恐々謹言


拾月廿日       石田治部少輔
               三成(花押)
           増田右衛門尉
               長盛(花押)

(伏見稲荷社宛文禄四年書状)

有名な秀吉による、豪姫狐憑きに対する反応である。



642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 18:55:34.87 ID:DObW0O0V
産後鬱だったんじゃないのかね

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 20:56:51.50 ID:pHCqulG8
ラスボスの恫喝が怖い

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 21:53:32.60 ID:teJVoUjd
犬千代がラスボスから 国宝大典太光世を借りパクする
ためのイベント

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/22(日) 00:49:25.25 ID:3/b36sce
>>642
今でいうとそういう医学的な言い回しがあることでも、
当時だと経験的にそういうことがあって原因は「物の怪じゃないかな」って話結構あるのかな

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/22(日) 08:43:01.02 ID:00wt5hra
レビー小体型認知症が知られたのって結構最近
幽霊見たって話は大抵これで説明出来る

鷹を一羽も持ちなさらない事の尊さから

2015年12月15日 17:24

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/15(火) 15:16:54.37 ID:p+/HRPcQ
 東照宮が伏見城に居られたとき、増田右衛門尉(長盛)を召されて、
「私達の事はあなたの方にも聞き及ばれている通り、若年のころから鷹狩りが好きなのですが
近年は国元を離れているので、只今は小鷹の一羽も飼っていません。
近々に鷹狩りに出かけたいので、あなた方に取り計らってくれませんか。」
との御上意があった。増田右衛門尉は

「もっともで至極のお考えと畏まってお受けいたします。」
とお請けられた。

 君は太閤様の代では鷹狩りの度にお供された面々へ申し付けて出かけられて、摂州茨木で一夜宿泊されました。

 このような他に上もいないほどの大身であるのに、鷹を一羽も持ちなさらない事の尊さから、君の身持ちを考えることができます。
(本阿弥行状記)




99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/15(火) 15:25:19.06 ID:SXIZwPjS
江戸に置いてきただけじゃ

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/15(火) 15:50:11.89 ID:MojCNmAT
>>98
裏がありすぎだろw

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/15(火) 16:37:59.45 ID:PYoQdxLi
鷹狩という物見

102 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/12/17(木) 02:26:31.03 ID:eAW26nJ1
孕石『…』

この余毒は今をもっても

2015年11月04日 06:05

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/03(火) 23:56:28.08 ID:bhR3e0Bl
 公儀の御普請等は、秀吉公の御代では長束大蔵正家、増田右衛門長盛が小身者から立身しましたものが担当しており、計算に熟達していましたので、
入札をさせるといつも安価なものを落札しました。
御普請がたとえば百貫目と思われたものを、五十貫目で済むような事になって、御物入りは甚だ減少しましたが、
請負の者どもは手間を省きますので、見ただけで甚だ粗末だと分かるような作業ををなします。

この余毒は今をもってもそのままでございます。このようなことに、御心得もあったほうがよいと思われます。
 (本阿弥行状記)



590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/04(水) 00:27:25.23 ID:RBafTIef
ああ、傾いてしまったのか

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/04(水) 02:14:17.45 ID:5iQ9a0fy
この辺は今も昔も変わらんなぁ

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/04(水) 07:10:00.13 ID:O4p6ypS3
そういや、いい話で
旭(姫)貸せい
みたいな話


593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/04(水) 08:02:33.05 ID:pK8faU3P
座布団あげてくれい

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/04(水) 10:31:18.40 ID:wD7WT3L3
やっぱ長束や増田って有能だったんだな

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/04(水) 12:51:27.24 ID:aF8ep+uU
消えた五十貫目は請負の者どもの給与が犠牲になったの?

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/04(水) 13:44:54.19 ID:q4LR4mSc
最低経費40のところを100と申請、60の仕事をして残り40は懐に
 ↓
50でやれと言われて、懐に10入れるために40の仕事で済ませる

こんな感じ?

598 名前:761[sage] 投稿日:2015/11/06(金) 20:48:34.36 ID:Wpc71CSp
安物買いの銭失いか~
二人の有能なイメージがちょっと崩れたw

天下の五奉行である者ならば

2015年10月24日 19:37

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/23(金) 20:34:40.00 ID:ylKYh0Uh
豊臣秀吉がある時、増田長盛石田三成に、代官衆の予算状況を調べるよう命じた。
その後、予算状況の確認はどうなったかと尋ねた時、両名は、三上与三郎のことについては
申し上げかねた。

秀吉が「どんな些細があるのか?」と重ねて尋ねると、両名
「三上は、だいぶ赤字となっています。」
「それは如何程か?」
「およそ十万石です。」

しかしこれを聞いた秀吉
「私の目違いにて、お前たちごとき者に予算状況を調べるよう申し付けてしまった。
三上与三郎が、名護屋に供した時に引き連れた人数を、お前たちは見ただろう?
そこから考えれば、あの数を揃えるのには十万石の赤字でもまだ不足だろう。
天下の五奉行である者ならば、そういう事に気がつくべきだ。」

そう仰せになったのである。

(武功雑記)



大和郡山城明け渡し

2015年01月22日 18:43

583 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/01/21(水) 19:33:21.89 ID:arHxozrM
太閤秀吉が逝去し、その後慶長五年(1600)、関ヶ原の逆乱の時、大和郡山城の増田長盛は、
西軍方であったため、関ヶ原の後詰として江州水口まで出陣した所で、関ヶ原において西軍が敗北したとの
知らせを受けた。そこで彼の地に留まっていた所に、徳川家康からは彼を討ち果たせとの上意があったものの、
様々に詫び言を申し上げ、法体となって高野山へと登った。

この増田長盛が大阪から出陣する時、郡山の城は大事の場所であると、自分に従う馬上の者達千騎のうち、
七百騎を郡山に残し、家老分の者達も大部分は残し置き、関ヶ原へは馬上の者三百騎を従えて出陣した。
増田長盛がこのように、知行と比べて人数多く従えていたのは、所領の大和郡山二十万石に加え、
紀伊和泉大和の代官職をも兼ねていた為だということである。

さて、関ヶ原で西軍が敗北すると、留守の郡山では、増田長盛は水口から高野山へと登った、
又は切腹した、あるいは討ち果たされた、遠流されたなど、様々に取り沙汰された。
そして郡山にも東軍の軍勢がまもなく押し寄せるという時、大和の国中の百姓たちは、牢人していた
かつての国侍を大将として一揆を起こし、郡山に押し寄せ、町口の端々に放火などし、あるいは乱取り(略奪)を
行った。
これに、留守居の家老たちは慌てふためき静めることが出来ずに居た。

これより以前、渡辺勘兵衛は(了)は牢人していて、秀吉の直臣に成ることを望んでいたが、それを
増田長盛が聞き、「秀吉公には時節を見て召し出して頂けるよう取り持つので、先ずは我が方に参られよ」
と声をかけ、そのため郡山に参り客分として、一万俵の合力を受け三の曲輪の中に居住していた。
それ故、大和領内の仕置などには関わっていなかったのであるが、このような緊急事態に、勘兵衛は
家老たちの所に行くと言った。

「このような混乱した事態は以ての外である、急ぎ方針を決定し、覚悟を決めなければならない。」

しかし家老たち
「このように乱れ、家中さえ治まりかねている有り様です。まして郷中などの事はどうしようもありません。」

「各々が支配が難しいというのであれば、私を物主として、その指図通りに従っていただきたい!」

家老たちはこのような状況であったので、ともかくもあなたの指図次第にすると彼に従った。
そうして勘兵衛は先ず、東軍が押し寄せてくるのも間もなくであろうからと、籠城することに決め、
諸士の妻子を人質に出させこれを本丸に入れ置いた。それから軍勢を二、三百人ほど用意し、
在所の村々にこれを派遣し、一揆の頭目達を召し捕り、あるいは首を刎ね、郡山の五町目という所で
獄門に掛けた。この処置によって国中はおおかた静まった。

さて、籠城の評議において、持ち口の手分けをしていた時、各々は「外曲輪は捨てて、二、三の曲輪にて
敵を迎えましょう」と意見した。しかし勘兵衛は承知せず「外曲輪にて先ず敵を迎えて様子を見、その上で
内曲輪に籠もるべきである。」と発言し、評議もこれに決まった。

郡山城攻めの軍勢には、筒井伊賀守(定次)、藤堂和泉守(高虎)、その他2,3の将が仰せ付けられた。
彼らは郡山から五里北の、山城国玉水という所まで来ると、そこから使者を以って城を自分たちに
明け渡すよう申し付けた。これに対し、渡辺勘兵衛以下家老たちはこう返答した。

『右衛門尉(増田長盛)の事ですが、今回の事について、一命御赦免あって高野山に登ったとは聞いておりますが、
右衛門尉からわれら留守居に対して、何事も申し越しては来ておりません。それが無いのに城を明け渡す事は
出来ませんので、右衛門尉から申し越しが来る前に慌てて我らが領内に押し入られるのは、どうかご無用に
なされますように。』

そして持ち口を固め、堅固に籠城の準備をした。
これを見た筒井定次は増田長盛の家老たちに、返り忠をいたして城を明け渡すよう申し越したが、それには
返事も出さず、使者を追い返し、『重ねてこのようなことを仰せ越した場合は使者を討ち捨てる!』と返答した。

584 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/01/21(水) 19:34:36.29 ID:arHxozrM
これに対し定次は、大和国はかつて筒井家の領国であったので、策を練り地下人などを組織し、夜間郡山に
押し入り乱取り、放火などをさせた所、渡辺勘兵衛は早速聞きつけ。人数二、三百で出撃し、郷人四、五十人も
討ち取り、あるいは搦め捕り、皆首を斬り獄門に掛けた。
その後は堅固に持ち固めたため、寄せ手の衆もうかつに手出しすること出来ず、これをどうにかするよう
増田長盛に申し遣わされた。このため、長盛は高田小左衛門という出頭の者を郡山に差し寄越し

『城を相違なく明け渡すこと。これまでの仕方、祝着である。』

と、渡辺勘兵衛には自筆の墨付を与えた。そして評議で城を明け渡すことに決し、寄せ手の衆に使者を以って
伝えた

「城は明け渡します。しかしながら城内には諸道具、金銀など多くありますので、お請取の時は、先ず番所に
置かれている御人数で諸道具、金銀等を受け取りに来られ、役人だけ城にお入りになって、その上で
紙面を以って道具、金銀を改めて頂いて渡し、そして城も明け渡しましょう。
尤もこの時、我々も城に残すのは役人だけで、他の人数は皆城外へと払い出しておきます。」

寄せ手もこれに同意し、郡山城の諸士は大安寺という伽藍跡へと移動し、家老たちも城を出てそこへと合流した。
これは渡辺勘兵衛がかたく命じたことであったが、勘兵衛自身はどういうことか、その屋敷に鎧武者を百人ばかり
も棒を持たせて隠し置いていた。

さて、寄せ手の軍勢が町口に留まり、番所に諸道具受け取りの人数が向かい、そこで門々の鍵が渡され、
それが開かれると、多くの雑人たちが本丸へと押し寄せて諸道具金銀の乱取りを始めた。

この様子を見た勘兵衛は「沙汰の限りである!」と言って彼の屋敷に隠し置いた人数を出し、門々の鍵を押さえて
取り返し、城に入った者たちを皆追い出し門を閉じ、寄せ手の大将衆に使いを立て
「始めの約束と違いかくの如き有り様である!この上は城を明け渡すことは出来ない!」
と申し渡し、先に大安寺跡に退かせておいた人数を呼び返し、寄せ手と戦闘する準備をした。
これに対し藤堂高虎より扱いが入り

「この体たらく、我々は少しも認知していない事である。とにかく、その方の望み通りにするので、
城の明け渡しをするように。」

そう申し遣わしたものの、勘兵衛は納得せず、もはや戦端を開こうという体になったため、再三扱いを入れ、
その間に南都興福寺の門跡である大乗院殿を頼み、彼により扱いを入れた所、「大乗院殿の御扱いであれば、
先の約束を毛頭も相違無いよう仰せ付けられ、お請取に成るでしょう。」とこれを受け入れ、
大将衆もまた、何れもその通りに申し付けたので、作法良く書道具金銀等紙面を以って改め請取渡し、
その上で城の請取をした。その時渡辺勘兵衛は、終始物主として城方の者たちを指導した。
彼が一人で指導する様子を藤堂高虎は感心し、後で自分の知行の十分の一を与える約束で召抱えた。

(大和記)

大和郡山城明け渡しについての逸話である。



585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/21(水) 21:51:13.71 ID:uMHudFVt
その後高虎から奉公構が出されるとは夢にも思わない勘兵衛だった

この身の暇を給わりますように

2014年09月08日 18:57

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/07(日) 23:49:46.11 ID:kKUD18SA
増田右衛門尉長盛は関ヶ原以降、高力左近に御預けとなり、武蔵国岩槻に差し置かれた。
その後、大阪の陣のため出陣がある、という時、高力左近は仰せを承り、増田に語った

「あなたは豊臣秀頼の御恩深き人です。今回の大阪の様子、秀頼の行末も見届けたいと
思われているでしょう。ですのでどうぞ、ここを出て大阪城に入城なされませ。
これは駿河の家康公が、お許しになった事です。」

増田はこれを聞くと
「家康公は誠に、天下の仁君であられる。その仰せを、私がどれほど有難く存じていることでしょうか。
尋常の大将では、それを許すことはないでしょう。

ですが、私は現在孤独の身分であり、大阪に参って新規の浪人たちを下知したとしても、おそらく
はかばかしい活躍をすることが出来ず、それは却って、私を抜擢した故太閤の御眼力に疑いを抱かせる
結果となるでしょう。

それは私にとっても残念なことでありますから、私はこのまま、この配所において生涯を終わりたいと思います。」

この事を家康は聞いて、「兎も角も、彼の心に任せよ。」と言った。


大阪城の落城を以って大阪の陣は終わり、秀頼は切腹して果てた。
増田長盛は高力左近を通して、家康に願い上げた

「今度の一乱の終わりを承りました。時節は参りました。
秀頼公が御自害された上は、何を望みに存命すべきでしょうか。
よって、この身の暇を給わりますように。」

そう申し置いて、切腹して果てたとのことである。

(明良洪範)




164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/08(月) 01:22:36.21 ID:1FrQwl0e
昔の人はよく自害できるよな
痛覚が鈍感だったのかな?

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/08(月) 01:43:05.49 ID:mNnIrhoM
息子に連座ではなく自ら死を賜ったのパターンか
ないこともない感じ

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/08(月) 09:09:52.88 ID:0MJuT7GH
>>164が泥酔すると、痛覚が鈍麻し自害しやすくなるので注意すべし

オルガンティーノは困った事態に陥っていた

2013年10月11日 19:38

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/11(金) 00:16:56.14 ID:WICHRbS2
 1591年、京にいる宣教師オルガンティーノは困った事態に陥っていた。彼は巡察師
ヴァリニャーノの一行が豊臣秀吉に謁見できるよう手続きをしていたのだが、秀吉は
巡察師の上洛を望んでいないだけでなく、不快の意向を漏らしていた。
 ある日、キリシタン大名の黒田官兵衛孝高が宣教師たちのために発言すると、秀吉は
「お前は性懲りもなくバテレンどものことを話すのか。お前がキリシタンであり、バテレンらに
愛情を抱いておったために、お前に与えようと最初に考えていたよりも低い身分にしたことを
お前は心得ておらぬのか」と言って黒田官兵衛の口を封じたので、黒田官兵衛はそれ以上、
発言することが出来なかった。
 それにも関らず、黒田官兵衛は宣教師たちの窮状を何とかしてやりたいと思い、同僚の大名
である 増田長盛に取りなしを頼んだ。長盛はその頼みを引き受けて、ただちに秀吉に進言した。
そのおかげで秀吉はインド副王の使節として巡察師ヴァリニャーノの一行の謁見を認めた。
(ルイス・フロイス書簡)





297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/11(金) 08:31:15.47 ID:RIj+WRDm
>>295
官兵衛さんについて、まだまだ一次資料からも出てくるってことか。

低い身分てどういうことだろ?
従五位下が他の武将と比べて低いとも思えないし
中津六郡のことかな?

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/11(金) 09:53:07.58 ID:0rnvDN+C
大河がきまってからぼつぼつ新史料出てきてるから楽しみではある
なお大河自体はまったく期待して無いもよう

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/11(金) 09:58:39.56 ID:LsGm1yaq
クロカン最大の手柄って北条を説得して開城させた事
見せ場は関が原で浪人集めて大友攻め
道糞の説得に失敗して幽閉されたのは愛嬌

「私がどうして豊臣家に背くだろうか」

2013年08月20日 19:51

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/20(火) 17:58:24.84 ID:pWR2sAz7
徳川家康が上杉景勝を征伐する時、蜂須賀至鎮もこれに従おうとした。

この時、増田長盛のもとより、太閤の旧臣の立場で家康に属することは不当である、
と至鎮へ申し送られてきた。至鎮はこれに、

「私がどうして豊臣家に背くことだろうか。ただ汝等に与しないというだけだ」と答えて、
五千余騎を率いて大坂の居邸に入り、凶徒等の攻撃に備えた。その勢い当たるべからず。

このために長盛等は和議を乞うたので、結局、至鎮は家康に従って下野国小山に至り、関ヶ原の陣にも従った。

――『寛政重修諸家譜』





渡辺了と田中角之助

2012年09月19日 20:33

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 18:34:46.79 ID:VDmDAEvd

関ヶ原の戦い後、渡辺了は主君・増田長盛の命があるまで郡山城を
接収させなかったが、この時、了は前もって妻子を本丸に入れて置いた。

対して田中角之助は妻子は足手纏いだとしてあらかじめ立ち退かせ、
自分だけ討死にする支度を整えていた。

だが、やがて長盛から城の受け渡しを命じる書状が来たので、
田中は城を渡して立ち去った。

田中は妻子を立ち退かせ、躊躇することなく城を去った。
しかし名声を高めた了とは違い、後世の批判を免れることはできなかった。

――『名将言行録』




天正15年、安芸の宮島水精寺歌会

2011年01月29日 00:01

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/27(木) 22:34:20 ID:+Dhh+RyE
1587年(天正15年)島津征伐に向かう途中、安芸の宮島の水精寺で歌会を開いた秀吉たちが詠んだ歌
豊臣秀吉
ききしより 眺めにあかぬ 厳島 見せばやと思う雲の上人

長束正家
宮島の 春の景色は 君が代の 風ふかぬとや花もしるらむ

増田長盛
ゆく舟も 君がみゆきの 折をえて 浪もしづけき春の宮島

石田三成
春ごとの 頃しもたえぬ 山桜 よも霧島の心ちこそすれ

大谷吉継
都人に 眺められつつ しま山の 花のいろ香も名こそたかけれ

ここで長束と増田のいう「君」=秀吉だよね。
あと大谷の「しま山」は島津とかけている、と思う
資料に歌の意味とか背景の解説がないんでなんとなくしか分からない…
詳しい人がいたらお願いします




547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/27(木) 22:55:03 ID:pwnIT3PV
大谷吉継の和歌を
「この宮島の景色は全国で有名なのは、都人が評価しているからなのだ(自分の目にはそうでもない)
同じように「島なんとか」とかも有名だが、実際はたいしたことないだろう」
と解釈してしまった
いや、三成でもあるまいし、そんな空気を読めないことは言わないか

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/27(木) 23:15:46 ID:I9P1dmMH
>>546
大谷さんのは素直に
『(秀吉などの)都から来た人々に眺められているためか、厳島の山に咲く山桜の色や香りも、
より一層引き立っているようである』

でいいと思うよ。

あと順に
秀吉『聞いていたよりもずっと眺めていて飽きない厳島の風景である。
    京の宮中の人々にも見せてやりたいものだ』

長塚『宮島のこの春の景色の中に、確かに君(秀吉の)の世の風が吹いているとは
   花も知らないであろう』

増田『海を行船も、君(秀吉)の行幸という素晴らしい時期を得たため、静かな波の中を
    進んでいく春の宮島の風景である』

石田『春のたびの、とりわけて花の盛んな時期の山桜である。
    その花の盛んな様は既に、ずっと南にある霧島にいるような心地がする』

こんな感じかと

550 名前:546[sage] 投稿日:2011/01/27(木) 23:55:00 ID:+Dhh+RyE
>>549ありがとうございます
ひらがなで「しま」って書いてあるから掛け言葉だと思いこんでた。
霧島って今噴火してるところだけど桜の名所なのか



551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/27(木) 23:59:17 ID:mvYmcyAc
ttp://www.city-kirishima.jp/modules/page059/index.php?id=18

桜特集するサイト市がつくっとるね
まぁ当時どうだったかは分らんけど適してはいたんじゃないか

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/28(金) 00:05:34 ID:gANGkQga
長束と増田は諂ってて好きになれんないかにもって感じだ

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/28(金) 00:10:29 ID:ug6x0t/F
秀吉は辞世も名歌だが、何気にこの歌もいいな。

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/28(金) 00:52:35 ID:swpyhMCd
秀吉の歌は変に捻ってないシンプルな構成だから俺も好きだわ

555 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/01/28(金) 05:43:55 ID:MhR7EtTZ
俺には大谷の歌は>>547の意味に思える。
ていうかこれ悪い話なのか?