太閤の家において三奉行とは

2016年07月19日 18:47

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/19(火) 02:53:44.13 ID:wR6zY0cc
太閤の家において三奉行とは、石田治部少(三成)、増田右衛門(長盛)、
長束大蔵(正家)のことである。

四奉行は、先の3人に徳善院(前田玄以)を加えたものである。五奉行は
先の4人に浅野弾正(長政)を加えたものである。

――『武功雑記』



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宇都宮国綱改易後の結城朝綱への書状

2016年06月21日 21:15

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 11:35:27.38 ID:/z1n7eoo
真崎文書より宇都宮国綱改易後の結城朝綱への書状

返返、早々為脚力承候、忝候、宇都宮之様子何と候哉、一切不相聞候、以上、
来礼被見、忝候、仍不斗様子を以身上相果候、天道浅間敷存迄候、
然者、西国備前岡山へ可罷下由御諚候間、即罷下、岡山近辺号鷹辺山家ニ指入居候、
石治・増右、内存少も不相替懇切候間、其憑迄候、其方事何様ニも関東中堪忍候様、
尤候、当国へ被打越事、遠境と云、爰元堪忍無調之儀と云、必此方へ之儀叶間敷候、
其元取乱之様、令推量、扠々痛間敷候由存候、尤身之手前之儀可有推量候、巨細追々可申遣候、
恐々謹言、
(慶長二年) 霜月九日 国綱 
七郎殿へ

突然改易された事は天道によるものであったとしてもあまりになげかわしいものという悲しみ
増田長盛石田三成はこれまでと変わらず懇切に対応してくれるので彼等を頼みとしていること
改易された状況でも結城朝勝を岡山訪問を思いとどまって関東にいるようにと気遣っている手紙



876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 18:01:13.44 ID:zZxvwWud
>>875
宇都宮は最初取次は石田三成だったのが浅野長政に変わったんだよなあ
石田のままだったらこんなことにはならなかったのかなあ
佐竹は石田のままで石田がかばってくれたけど

弟はたしかに気性の荒いイメージはあってこう心配するのはわかる
しかし彼の行動は戦国を生き抜いた武将そのものだよなあ

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 20:09:28.38 ID:eaC71Bj5
タイトルのほうは結城朝綱になってるけど朝勝だよね

秀吉に実家を潰されさらには結城家を出ることになったけど終始豊臣方なんだね

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 22:02:58.19 ID:B/LRMvhn
>>877
豊臣方と言うより結城領を取り戻す為には秀康や家康の敵に回るしか方法が無いとも言える

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/22(水) 23:50:14.47 ID:HAdMnRVS
実家の宇都宮も潰されてる可哀想な坊っちゃん

増田長盛の切腹

2016年05月25日 19:52

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/25(水) 15:12:33.35 ID:4/B3iYED
増田長盛は関ヶ原の合戦のあと、高野山に登り出家し、その後高力左近太夫(忠房)に預けられ
武蔵国岩槻に置かれた。

大坂の陣が始まろうとした頃、高力は台命を承り、増田に面して

「御辺は太閤に御恩のある方ですから、豊臣家の様子を見たいという願いの有ることでしょう。
であれば、大阪に上られよ。

これはわたしの私的な考えでは有りません。駿府より免しのあった事です。」

増田はこれを聞くと
「大御所は天下の人君なればこそ、いまこの仰せを承りました。
しかし、私はもう老人です。これから大阪に上り、新付の兵を下知しても、たいした働きは出来ず、
返って私を抜擢した太閤の御眼力に徒なす恐れもあります。
ですのでこのまま、配所にて生命を終わりたいと考えています。」

大御所・徳川家康はこの報告を聞くと、「兎にも角にも本人の心に任せよ」と答えた。

その後、豊臣家が滅亡すると、増田は高力に対面し
「両御所が大阪に御出陣の時より、どうにかして主君の終わりを承らないようにと祈り続けていましたが、
天命によって終に滅びました。であるのに私は、今後何を楽しみに存命すべきでしょうか?
身の御暇給わり候らへ」

そう申し乞うて、切腹したという。

(新東鑑)




766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/25(水) 18:50:30.94 ID:6Eq4MEMp
あれ、増田って息子を大坂方にしたせいで切腹したんじゃなかった

速やかに退去せよ。

2016年05月22日 11:00

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 18:39:05.74 ID:MJ+Dsnbs
備前中納言殿(宇喜多秀家)御簾中(豪姫)が、最近産後のご病中に、物の怪が憑いたとあい見える。
きっと野狐の所為と太閤殿下は思し召され、御朱印を以ってこのように決定された。

日本の領域において、誰が公儀を軽んずるだろうか。天下において生命あるものから生命無きものまで、
すべて上意を重んじている。いわんや畜類がそれを畏れ従わないということが有るだろうか。
速やかに退去せよ。

こうなった上は、尚も取り憑き、この物の怪のために不慮の事態が出来すれば、当社(伏見稲荷社)は
即座に破却する。その上で日本国中に狐狩りを毎年かたく仰せ付けられ、その類を断ち、尽く殺し果たす
旨を御意として表明された。

社人はその旨をよく理解し、肝胆を砕いて御簾中が回復する為の祈祷をする事に専念すべきである。
恐々謹言


拾月廿日       石田治部少輔
               三成(花押)
           増田右衛門尉
               長盛(花押)

(伏見稲荷社宛文禄四年書状)

有名な秀吉による、豪姫狐憑きに対する反応である。



642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 18:55:34.87 ID:DObW0O0V
産後鬱だったんじゃないのかね

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 20:56:51.50 ID:pHCqulG8
ラスボスの恫喝が怖い

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 21:53:32.60 ID:teJVoUjd
犬千代がラスボスから 国宝大典太光世を借りパクする
ためのイベント

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/22(日) 00:49:25.25 ID:3/b36sce
>>642
今でいうとそういう医学的な言い回しがあることでも、
当時だと経験的にそういうことがあって原因は「物の怪じゃないかな」って話結構あるのかな

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/22(日) 08:43:01.02 ID:00wt5hra
レビー小体型認知症が知られたのって結構最近
幽霊見たって話は大抵これで説明出来る

鷹を一羽も持ちなさらない事の尊さから

2015年12月15日 17:24

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/15(火) 15:16:54.37 ID:p+/HRPcQ
 東照宮が伏見城に居られたとき、増田右衛門尉(長盛)を召されて、
「私達の事はあなたの方にも聞き及ばれている通り、若年のころから鷹狩りが好きなのですが
近年は国元を離れているので、只今は小鷹の一羽も飼っていません。
近々に鷹狩りに出かけたいので、あなた方に取り計らってくれませんか。」
との御上意があった。増田右衛門尉は

「もっともで至極のお考えと畏まってお受けいたします。」
とお請けられた。

 君は太閤様の代では鷹狩りの度にお供された面々へ申し付けて出かけられて、摂州茨木で一夜宿泊されました。

 このような他に上もいないほどの大身であるのに、鷹を一羽も持ちなさらない事の尊さから、君の身持ちを考えることができます。
(本阿弥行状記)




99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/15(火) 15:25:19.06 ID:SXIZwPjS
江戸に置いてきただけじゃ

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/15(火) 15:50:11.89 ID:MojCNmAT
>>98
裏がありすぎだろw

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/15(火) 16:37:59.45 ID:PYoQdxLi
鷹狩という物見

102 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/12/17(木) 02:26:31.03 ID:eAW26nJ1
孕石『…』

この余毒は今をもっても

2015年11月04日 06:05

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/03(火) 23:56:28.08 ID:bhR3e0Bl
 公儀の御普請等は、秀吉公の御代では長束大蔵正家、増田右衛門長盛が小身者から立身しましたものが担当しており、計算に熟達していましたので、
入札をさせるといつも安価なものを落札しました。
御普請がたとえば百貫目と思われたものを、五十貫目で済むような事になって、御物入りは甚だ減少しましたが、
請負の者どもは手間を省きますので、見ただけで甚だ粗末だと分かるような作業ををなします。

この余毒は今をもってもそのままでございます。このようなことに、御心得もあったほうがよいと思われます。
 (本阿弥行状記)



590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/04(水) 00:27:25.23 ID:RBafTIef
ああ、傾いてしまったのか

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/04(水) 02:14:17.45 ID:5iQ9a0fy
この辺は今も昔も変わらんなぁ

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/04(水) 07:10:00.13 ID:O4p6ypS3
そういや、いい話で
旭(姫)貸せい
みたいな話


593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/04(水) 08:02:33.05 ID:pK8faU3P
座布団あげてくれい

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/04(水) 10:31:18.40 ID:wD7WT3L3
やっぱ長束や増田って有能だったんだな

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/04(水) 12:51:27.24 ID:aF8ep+uU
消えた五十貫目は請負の者どもの給与が犠牲になったの?

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/04(水) 13:44:54.19 ID:q4LR4mSc
最低経費40のところを100と申請、60の仕事をして残り40は懐に
 ↓
50でやれと言われて、懐に10入れるために40の仕事で済ませる

こんな感じ?

598 名前:761[sage] 投稿日:2015/11/06(金) 20:48:34.36 ID:Wpc71CSp
安物買いの銭失いか~
二人の有能なイメージがちょっと崩れたw

天下の五奉行である者ならば

2015年10月24日 19:37

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/23(金) 20:34:40.00 ID:ylKYh0Uh
豊臣秀吉がある時、増田長盛石田三成に、代官衆の予算状況を調べるよう命じた。
その後、予算状況の確認はどうなったかと尋ねた時、両名は、三上与三郎のことについては
申し上げかねた。

秀吉が「どんな些細があるのか?」と重ねて尋ねると、両名
「三上は、だいぶ赤字となっています。」
「それは如何程か?」
「およそ十万石です。」

しかしこれを聞いた秀吉
「私の目違いにて、お前たちごとき者に予算状況を調べるよう申し付けてしまった。
三上与三郎が、名護屋に供した時に引き連れた人数を、お前たちは見ただろう?
そこから考えれば、あの数を揃えるのには十万石の赤字でもまだ不足だろう。
天下の五奉行である者ならば、そういう事に気がつくべきだ。」

そう仰せになったのである。

(武功雑記)



大和郡山城明け渡し

2015年01月22日 18:43

583 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/01/21(水) 19:33:21.89 ID:arHxozrM
太閤秀吉が逝去し、その後慶長五年(1600)、関ヶ原の逆乱の時、大和郡山城の増田長盛は、
西軍方であったため、関ヶ原の後詰として江州水口まで出陣した所で、関ヶ原において西軍が敗北したとの
知らせを受けた。そこで彼の地に留まっていた所に、徳川家康からは彼を討ち果たせとの上意があったものの、
様々に詫び言を申し上げ、法体となって高野山へと登った。

この増田長盛が大阪から出陣する時、郡山の城は大事の場所であると、自分に従う馬上の者達千騎のうち、
七百騎を郡山に残し、家老分の者達も大部分は残し置き、関ヶ原へは馬上の者三百騎を従えて出陣した。
増田長盛がこのように、知行と比べて人数多く従えていたのは、所領の大和郡山二十万石に加え、
紀伊和泉大和の代官職をも兼ねていた為だということである。

さて、関ヶ原で西軍が敗北すると、留守の郡山では、増田長盛は水口から高野山へと登った、
又は切腹した、あるいは討ち果たされた、遠流されたなど、様々に取り沙汰された。
そして郡山にも東軍の軍勢がまもなく押し寄せるという時、大和の国中の百姓たちは、牢人していた
かつての国侍を大将として一揆を起こし、郡山に押し寄せ、町口の端々に放火などし、あるいは乱取り(略奪)を
行った。
これに、留守居の家老たちは慌てふためき静めることが出来ずに居た。

これより以前、渡辺勘兵衛は(了)は牢人していて、秀吉の直臣に成ることを望んでいたが、それを
増田長盛が聞き、「秀吉公には時節を見て召し出して頂けるよう取り持つので、先ずは我が方に参られよ」
と声をかけ、そのため郡山に参り客分として、一万俵の合力を受け三の曲輪の中に居住していた。
それ故、大和領内の仕置などには関わっていなかったのであるが、このような緊急事態に、勘兵衛は
家老たちの所に行くと言った。

「このような混乱した事態は以ての外である、急ぎ方針を決定し、覚悟を決めなければならない。」

しかし家老たち
「このように乱れ、家中さえ治まりかねている有り様です。まして郷中などの事はどうしようもありません。」

「各々が支配が難しいというのであれば、私を物主として、その指図通りに従っていただきたい!」

家老たちはこのような状況であったので、ともかくもあなたの指図次第にすると彼に従った。
そうして勘兵衛は先ず、東軍が押し寄せてくるのも間もなくであろうからと、籠城することに決め、
諸士の妻子を人質に出させこれを本丸に入れ置いた。それから軍勢を二、三百人ほど用意し、
在所の村々にこれを派遣し、一揆の頭目達を召し捕り、あるいは首を刎ね、郡山の五町目という所で
獄門に掛けた。この処置によって国中はおおかた静まった。

さて、籠城の評議において、持ち口の手分けをしていた時、各々は「外曲輪は捨てて、二、三の曲輪にて
敵を迎えましょう」と意見した。しかし勘兵衛は承知せず「外曲輪にて先ず敵を迎えて様子を見、その上で
内曲輪に籠もるべきである。」と発言し、評議もこれに決まった。

郡山城攻めの軍勢には、筒井伊賀守(定次)、藤堂和泉守(高虎)、その他2,3の将が仰せ付けられた。
彼らは郡山から五里北の、山城国玉水という所まで来ると、そこから使者を以って城を自分たちに
明け渡すよう申し付けた。これに対し、渡辺勘兵衛以下家老たちはこう返答した。

『右衛門尉(増田長盛)の事ですが、今回の事について、一命御赦免あって高野山に登ったとは聞いておりますが、
右衛門尉からわれら留守居に対して、何事も申し越しては来ておりません。それが無いのに城を明け渡す事は
出来ませんので、右衛門尉から申し越しが来る前に慌てて我らが領内に押し入られるのは、どうかご無用に
なされますように。』

そして持ち口を固め、堅固に籠城の準備をした。
これを見た筒井定次は増田長盛の家老たちに、返り忠をいたして城を明け渡すよう申し越したが、それには
返事も出さず、使者を追い返し、『重ねてこのようなことを仰せ越した場合は使者を討ち捨てる!』と返答した。

584 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/01/21(水) 19:34:36.29 ID:arHxozrM
これに対し定次は、大和国はかつて筒井家の領国であったので、策を練り地下人などを組織し、夜間郡山に
押し入り乱取り、放火などをさせた所、渡辺勘兵衛は早速聞きつけ。人数二、三百で出撃し、郷人四、五十人も
討ち取り、あるいは搦め捕り、皆首を斬り獄門に掛けた。
その後は堅固に持ち固めたため、寄せ手の衆もうかつに手出しすること出来ず、これをどうにかするよう
増田長盛に申し遣わされた。このため、長盛は高田小左衛門という出頭の者を郡山に差し寄越し

『城を相違なく明け渡すこと。これまでの仕方、祝着である。』

と、渡辺勘兵衛には自筆の墨付を与えた。そして評議で城を明け渡すことに決し、寄せ手の衆に使者を以って
伝えた

「城は明け渡します。しかしながら城内には諸道具、金銀など多くありますので、お請取の時は、先ず番所に
置かれている御人数で諸道具、金銀等を受け取りに来られ、役人だけ城にお入りになって、その上で
紙面を以って道具、金銀を改めて頂いて渡し、そして城も明け渡しましょう。
尤もこの時、我々も城に残すのは役人だけで、他の人数は皆城外へと払い出しておきます。」

寄せ手もこれに同意し、郡山城の諸士は大安寺という伽藍跡へと移動し、家老たちも城を出てそこへと合流した。
これは渡辺勘兵衛がかたく命じたことであったが、勘兵衛自身はどういうことか、その屋敷に鎧武者を百人ばかり
も棒を持たせて隠し置いていた。

さて、寄せ手の軍勢が町口に留まり、番所に諸道具受け取りの人数が向かい、そこで門々の鍵が渡され、
それが開かれると、多くの雑人たちが本丸へと押し寄せて諸道具金銀の乱取りを始めた。

この様子を見た勘兵衛は「沙汰の限りである!」と言って彼の屋敷に隠し置いた人数を出し、門々の鍵を押さえて
取り返し、城に入った者たちを皆追い出し門を閉じ、寄せ手の大将衆に使いを立て
「始めの約束と違いかくの如き有り様である!この上は城を明け渡すことは出来ない!」
と申し渡し、先に大安寺跡に退かせておいた人数を呼び返し、寄せ手と戦闘する準備をした。
これに対し藤堂高虎より扱いが入り

「この体たらく、我々は少しも認知していない事である。とにかく、その方の望み通りにするので、
城の明け渡しをするように。」

そう申し遣わしたものの、勘兵衛は納得せず、もはや戦端を開こうという体になったため、再三扱いを入れ、
その間に南都興福寺の門跡である大乗院殿を頼み、彼により扱いを入れた所、「大乗院殿の御扱いであれば、
先の約束を毛頭も相違無いよう仰せ付けられ、お請取に成るでしょう。」とこれを受け入れ、
大将衆もまた、何れもその通りに申し付けたので、作法良く書道具金銀等紙面を以って改め請取渡し、
その上で城の請取をした。その時渡辺勘兵衛は、終始物主として城方の者たちを指導した。
彼が一人で指導する様子を藤堂高虎は感心し、後で自分の知行の十分の一を与える約束で召抱えた。

(大和記)

大和郡山城明け渡しについての逸話である。



585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/21(水) 21:51:13.71 ID:uMHudFVt
その後高虎から奉公構が出されるとは夢にも思わない勘兵衛だった

この身の暇を給わりますように

2014年09月08日 18:57

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/07(日) 23:49:46.11 ID:kKUD18SA
増田右衛門尉長盛は関ヶ原以降、高力左近に御預けとなり、武蔵国岩槻に差し置かれた。
その後、大阪の陣のため出陣がある、という時、高力左近は仰せを承り、増田に語った

「あなたは豊臣秀頼の御恩深き人です。今回の大阪の様子、秀頼の行末も見届けたいと
思われているでしょう。ですのでどうぞ、ここを出て大阪城に入城なされませ。
これは駿河の家康公が、お許しになった事です。」

増田はこれを聞くと
「家康公は誠に、天下の仁君であられる。その仰せを、私がどれほど有難く存じていることでしょうか。
尋常の大将では、それを許すことはないでしょう。

ですが、私は現在孤独の身分であり、大阪に参って新規の浪人たちを下知したとしても、おそらく
はかばかしい活躍をすることが出来ず、それは却って、私を抜擢した故太閤の御眼力に疑いを抱かせる
結果となるでしょう。

それは私にとっても残念なことでありますから、私はこのまま、この配所において生涯を終わりたいと思います。」

この事を家康は聞いて、「兎も角も、彼の心に任せよ。」と言った。


大阪城の落城を以って大阪の陣は終わり、秀頼は切腹して果てた。
増田長盛は高力左近を通して、家康に願い上げた

「今度の一乱の終わりを承りました。時節は参りました。
秀頼公が御自害された上は、何を望みに存命すべきでしょうか。
よって、この身の暇を給わりますように。」

そう申し置いて、切腹して果てたとのことである。

(明良洪範)




164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/08(月) 01:22:36.21 ID:1FrQwl0e
昔の人はよく自害できるよな
痛覚が鈍感だったのかな?

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/08(月) 01:43:05.49 ID:mNnIrhoM
息子に連座ではなく自ら死を賜ったのパターンか
ないこともない感じ

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/08(月) 09:09:52.88 ID:0MJuT7GH
>>164が泥酔すると、痛覚が鈍麻し自害しやすくなるので注意すべし

オルガンティーノは困った事態に陥っていた

2013年10月11日 19:38

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/11(金) 00:16:56.14 ID:WICHRbS2
 1591年、京にいる宣教師オルガンティーノは困った事態に陥っていた。彼は巡察師
ヴァリニャーノの一行が豊臣秀吉に謁見できるよう手続きをしていたのだが、秀吉は
巡察師の上洛を望んでいないだけでなく、不快の意向を漏らしていた。
 ある日、キリシタン大名の黒田官兵衛孝高が宣教師たちのために発言すると、秀吉は
「お前は性懲りもなくバテレンどものことを話すのか。お前がキリシタンであり、バテレンらに
愛情を抱いておったために、お前に与えようと最初に考えていたよりも低い身分にしたことを
お前は心得ておらぬのか」と言って黒田官兵衛の口を封じたので、黒田官兵衛はそれ以上、
発言することが出来なかった。
 それにも関らず、黒田官兵衛は宣教師たちの窮状を何とかしてやりたいと思い、同僚の大名
である 増田長盛に取りなしを頼んだ。長盛はその頼みを引き受けて、ただちに秀吉に進言した。
そのおかげで秀吉はインド副王の使節として巡察師ヴァリニャーノの一行の謁見を認めた。
(ルイス・フロイス書簡)





297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/11(金) 08:31:15.47 ID:RIj+WRDm
>>295
官兵衛さんについて、まだまだ一次資料からも出てくるってことか。

低い身分てどういうことだろ?
従五位下が他の武将と比べて低いとも思えないし
中津六郡のことかな?

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/11(金) 09:53:07.58 ID:0rnvDN+C
大河がきまってからぼつぼつ新史料出てきてるから楽しみではある
なお大河自体はまったく期待して無いもよう

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/11(金) 09:58:39.56 ID:LsGm1yaq
クロカン最大の手柄って北条を説得して開城させた事
見せ場は関が原で浪人集めて大友攻め
道糞の説得に失敗して幽閉されたのは愛嬌

「私がどうして豊臣家に背くだろうか」

2013年08月20日 19:51

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/20(火) 17:58:24.84 ID:pWR2sAz7
徳川家康が上杉景勝を征伐する時、蜂須賀至鎮もこれに従おうとした。

この時、増田長盛のもとより、太閤の旧臣の立場で家康に属することは不当である、
と至鎮へ申し送られてきた。至鎮はこれに、

「私がどうして豊臣家に背くことだろうか。ただ汝等に与しないというだけだ」と答えて、
五千余騎を率いて大坂の居邸に入り、凶徒等の攻撃に備えた。その勢い当たるべからず。

このために長盛等は和議を乞うたので、結局、至鎮は家康に従って下野国小山に至り、関ヶ原の陣にも従った。

――『寛政重修諸家譜』





渡辺了と田中角之助

2012年09月19日 20:33

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 18:34:46.79 ID:VDmDAEvd

関ヶ原の戦い後、渡辺了は主君・増田長盛の命があるまで郡山城を
接収させなかったが、この時、了は前もって妻子を本丸に入れて置いた。

対して田中角之助は妻子は足手纏いだとしてあらかじめ立ち退かせ、
自分だけ討死にする支度を整えていた。

だが、やがて長盛から城の受け渡しを命じる書状が来たので、
田中は城を渡して立ち去った。

田中は妻子を立ち退かせ、躊躇することなく城を去った。
しかし名声を高めた了とは違い、後世の批判を免れることはできなかった。

――『名将言行録』




天正15年、安芸の宮島水精寺歌会

2011年01月29日 00:01

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/27(木) 22:34:20 ID:+Dhh+RyE
1587年(天正15年)島津征伐に向かう途中、安芸の宮島の水精寺で歌会を開いた秀吉たちが詠んだ歌
豊臣秀吉
ききしより 眺めにあかぬ 厳島 見せばやと思う雲の上人

長束正家
宮島の 春の景色は 君が代の 風ふかぬとや花もしるらむ

増田長盛
ゆく舟も 君がみゆきの 折をえて 浪もしづけき春の宮島

石田三成
春ごとの 頃しもたえぬ 山桜 よも霧島の心ちこそすれ

大谷吉継
都人に 眺められつつ しま山の 花のいろ香も名こそたかけれ

ここで長束と増田のいう「君」=秀吉だよね。
あと大谷の「しま山」は島津とかけている、と思う
資料に歌の意味とか背景の解説がないんでなんとなくしか分からない…
詳しい人がいたらお願いします




547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/27(木) 22:55:03 ID:pwnIT3PV
大谷吉継の和歌を
「この宮島の景色は全国で有名なのは、都人が評価しているからなのだ(自分の目にはそうでもない)
同じように「島なんとか」とかも有名だが、実際はたいしたことないだろう」
と解釈してしまった
いや、三成でもあるまいし、そんな空気を読めないことは言わないか

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/27(木) 23:15:46 ID:I9P1dmMH
>>546
大谷さんのは素直に
『(秀吉などの)都から来た人々に眺められているためか、厳島の山に咲く山桜の色や香りも、
より一層引き立っているようである』

でいいと思うよ。

あと順に
秀吉『聞いていたよりもずっと眺めていて飽きない厳島の風景である。
    京の宮中の人々にも見せてやりたいものだ』

長塚『宮島のこの春の景色の中に、確かに君(秀吉の)の世の風が吹いているとは
   花も知らないであろう』

増田『海を行船も、君(秀吉)の行幸という素晴らしい時期を得たため、静かな波の中を
    進んでいく春の宮島の風景である』

石田『春のたびの、とりわけて花の盛んな時期の山桜である。
    その花の盛んな様は既に、ずっと南にある霧島にいるような心地がする』

こんな感じかと

550 名前:546[sage] 投稿日:2011/01/27(木) 23:55:00 ID:+Dhh+RyE
>>549ありがとうございます
ひらがなで「しま」って書いてあるから掛け言葉だと思いこんでた。
霧島って今噴火してるところだけど桜の名所なのか



551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/27(木) 23:59:17 ID:mvYmcyAc
ttp://www.city-kirishima.jp/modules/page059/index.php?id=18

桜特集するサイト市がつくっとるね
まぁ当時どうだったかは分らんけど適してはいたんじゃないか

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/28(金) 00:05:34 ID:gANGkQga
長束と増田は諂ってて好きになれんないかにもって感じだ

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/28(金) 00:10:29 ID:ug6x0t/F
秀吉は辞世も名歌だが、何気にこの歌もいいな。

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/28(金) 00:52:35 ID:swpyhMCd
秀吉の歌は変に捻ってないシンプルな構成だから俺も好きだわ

555 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/01/28(金) 05:43:55 ID:MhR7EtTZ
俺には大谷の歌は>>547の意味に思える。
ていうかこれ悪い話なのか?

増田長盛、三成に怒る

2011年01月21日 00:00

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/20(木) 01:27:28 ID:AmREw0Fa
さて、利家夜話収録の、http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5048.htmlによって深まった
前田利家と秀吉の奉行衆との対立から起こったおはなし。

豊臣秀吉の死の3年ほど前というから、慶長元年(1595)頃の話か。

その頃秀吉の奉行衆、石田三成増田長盛、長束正家らは、冷え切っていた
しかし秀吉の信頼深まり秀頼の後見となった前田利家との関係をこのままにすることも出来ず、
奉行たちは関係の改善を模索し、利家の重臣である徳山五兵衛、岡田長右衛門などに
働きかけていたが、なかなか芳しい結果を得られなかった。。

そんな中、石田三成が事前に連絡もなく利家の元を訪れ強引に対面し、それまでのことを謝罪、
関係修復を図るという挙に出た。

これを知って怒ったのが増田長盛である。三成は同じく利家との関係改善を模索している、
しかも同僚である増田にすら、その事を知らせず単独で行ったのだ。

増田は三成のやり方に激怒した。こうなったら意地でも三成の力を借りず、自分独自の力で
前田利家との関係を築かねばならない。彼は家臣に

「誰か前田家の家中に知っているものは居ないか!?」

と尋ねると、右筆の者が

「昔私と同僚であった南部小兵衛と言う者が、現在前田家で大納言(利家)様の
馬廻りをしております」

と言う。

「ならばそのつてを使うのだ!」

調べてみると南部小兵衛は前田家において、重臣の岡田長右衛門に目をかけられていることが
解った。そこから岡田長右衛門、神谷信濃といった前田家中枢の者たちに繋がりをつけ、
ついに前田家重臣筆頭というべき村井長頼を動かすことに成功。
村井の口利きで増田長盛は利家と対面を果たし、今後、懇意にすることを約束した。

この事があったために増田長盛は、そして石田三成もせっかく利家との関係修繕に成功した自分を
一切頼らなかった増田の態度にあてつけを感じたか、彼らは表面上は良い関係にみえても、
内側では互いに激しく憎んでいた、という。


もしかすると関ヶ原に置いて増田が、三成に同調する体を見せながら、東軍に西軍の内情を
知らせていたのはこの事があったためか、なんてことも想像させる、増田長盛、三成に怒る、
と言うお話。




474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/21(金) 00:45:03 ID:AtWaAOex
そんなこと思うのも仲が良いからこそって感じだな

こういうのは現代でも心当たりがあるな
お互い意地を張らなければ修復できるんだがなぁ

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/21(金) 18:50:52 ID:rZpsgktC
佐渡さんのように私心を捨てれば無問題…なわけねー

前田利家、妨害される

2011年01月19日 00:00

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/18(火) 00:54:44 ID:lClk80Z4
ええ、毎度おなじみ『利家夜話』より、他の資料には見えない秀次処分の後のちょっとした騒動。

文禄4年(1595)の秀次事件。この処分に一応の決着が見られると、豊臣秀吉は近習たちに
こんな事を言い出した

「秀次がいなくなった以上、この上は大納言(前田利家)が秀頼の御守りであり、わしに何かあれば
秀頼のことは彼に頼らねばならぬ。そこで、秀次の領地であった美濃、尾張、伊勢を、大納言に
任せようと考えている!」

この言葉に驚いたのは秀吉の奉行、石田三成増田長盛である。彼らはこのころ、前田利家とは関係が
非常に悪かった。そのためこの土頭ども(罵倒の言葉であろう。『頭に土が詰まっている連中』とでもいう意味か?)
が言うには(此土頭共申上候は)

「御意、誠にごもっともだと思います。
ですが、大納言殿は現在の武将の中でも無双の武辺者であり、なおかつ、しばしば腹を立てられる人でも
あります。
万一、大納言殿が上様に対しなにか気に入らないことがあった場合、その様な要地を手にしていれば、
その日のうちにも謀反をすることでしょう。

時に秀次様の伏見の御屋形は現在、番人を置いてそのままにしてあります。
大納言殿にはこの御屋形と、越中新川郡をご加増することで、上様のお気持ちは充分に伝わると思います。」

そう言われて秀吉も考えを変え、石田、増田の二人が言う通りにした。


さて、屋形拝領と加増のことを使者が伝えると、前田利家は忝くこれを受け、早速秀次の旧伏見屋形へと入った。
前田家の者たち、内部を見て大いに驚いた、座敷からトイレにいたるまで、黄金でで覆いつくされているのだ。
これに利家は

「この屋形の様子を見るに、さても関白(秀次)殿には、大それた望みなど無かったと思われる。謀反などというのは
どうやら嘘偽りであったのだろう。
わしらは子孫までも望みを持つ。このような座敷は必要ない!」

と、豪華な黄金の間を取り壊させた。これはすなわち、利家は天下に望みを持っているということであり、
石田、増田の警戒は正しかったんじゃないか?とも思うが、ともかくそんな事をしていると、秀吉が大国を
利家に与えようとしたのを石田、増田が邪魔をした、という情報が入り前田家中大いに怒る。
これにより利家と石田三成増田長盛との関係は一層冷却化した。

そして利家と奉行の関係悪化は、この後またややこしい事態を起こすのだが、その話はまた後日。

前田利家、美濃尾張伊勢所有を妨害される、と言うお話。




433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/18(火) 01:48:25 ID:jM64WJZi
天下を取るには金がかかる、蓄財に励まなかったとは、天下を望んでいなかった証拠だ!
という論法ですね。

うん、それは正しい。でもさ、使うべき所には使わなきゃ、天下なんて取れないんだよ、
又左さん。(^^;

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/18(火) 06:20:18 ID:ka5sZIIR
死ぬときの「貸した金は催促するな」って遺言を考えると、貯めた金を貸し付けることでいろんな人に恩を売ってたんじゃないかと思うんだがな。
石田とかが借金の口利きして、金貸しからリベート受け取ったせいで金借りた奴から恨まれたのを考えるとスマートな人心掌握だと思う。

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/18(火) 18:34:14 ID:3bu63EbZ
小野和泉「べ、べつに、あんたのためにお金を貯めたんじゃないんだからね。
     天下を取りたかっただけだよ。勘違いしないでよね。」

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/18(火) 18:56:57 ID:BIGOX6KN
小野さんはいい人だよね



後日談
増田長盛、三成に怒る

加藤清正、増田長盛と絶交す

2010年12月24日 00:00

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/23(木) 19:07:41 ID:C0tcKKZN
有名な逸話だけどまだ無いようなので

加藤清正は文禄の役の所業が豊臣秀吉の勘気を受け、処罰が下され切腹もありうる、と噂された。
このため清正は、弁明をせんと朝鮮より帰国。伏見に到着するとその足で増田長盛の屋敷へと向かった。

増田と対面すると、清正はまくし立てた
「私が今、高麗より直にあなたの所に参ったのは余の儀ではありません。

ご存知のように私は治部少輔(石田三成)の奴と大変仲が悪い。それ故に治部は太閤殿下に
ある事ない事私の悪口を申し上げ、殿下も遂に、それを誠と思し召され、私を切腹させよなどと
仰っているとの使いがあり、そのため急遽帰国したのです。

治部少輔と私が仲の悪いこと、殿下も内々にご存知のはずです。
そもそも私は数年来高麗に置いて忠功を成し、本来勲功こそ頂くべきなのに、讒言を誠に取られたために
斯くの如くに成り果てるとは、是非に及ばに仕儀でござる!」

これに増田長盛
「主計頭(清正)殿、あなたの数年来のご忠義は天下に隠れありません。そうであれば太閤殿下の
お怒りのことは、治部少輔と仲直り致せばそれで済むことではありませんか。

今の世の中に石田殿のことを治部の奴などと言う者は、日本中におりませんよ。
もしあなたにその気があるのなら、私は明日にでも治部少輔にこの事を申し、仲直りの
仲介をいたしましょう。
もしそうしなければ、今日のあなたのご相談を解決することは無理というものです。」

これを聞いて清正は激高した
「八幡もご照覧あれ!私は治部奴と一生仲直りすることはないと誓う!
何故ならあ奴は朝鮮国において数回の合戦に一度も参加せず、人の陰口ばかり言いまわり、
気に入らない人間を陥れようと企んだ!そんな穢き奴原と仲直りしてどうするというのか!?
例え太閤殿下のご機嫌直らず、このまま切腹仰せ付けられようとも、治部の奴めと仲直りするなど
絶対にありえぬ!」

そして怒気は長盛に向かう
「そもそもあなたの態度も納得できない!私は朝鮮に在陣中昼夜苦労し続け、帰国すると直にこちらに参った!
私の朝鮮での労苦に敬意を持ち、また日頃のよしみから考えても、玄関までとは申さぬ、せめて
次の間まで自ら出てきて、久しきことよ、懐かしきことよと出迎えるのが当然ではないか!
それなのに座に居ながら、頭ばかり捻り回しての挨拶とはいかなることか!?」

これは清正が無茶である。清正は先に連絡もなく長盛の屋敷に現れた上、その時長盛は別の客と
対面していたのである。長盛はその客との対面をわざわざ早く切り上げて、清正の相談に乗ったのだ。
(このあたり、清正側の人間の記録である『清正記』にも、正直に書かれている)
だが清正は怒りで道理も見えなくなっている

「もはや貴殿のような礼儀知らずと話し合いをしてもどうにもならぬ!今後は絶交致す!」

そう言い放って座を立ち返ろうとする。増田長盛はそれでも後を追いかけ
「そういう事ではない!とにかくもう少し私の話を聞かれよ!」

と説得しようとするが清正は耳を貸さず、長盛の屋敷を出た。
清正のこの日の態度に、加藤家の家臣たちは

「さてさて何という物狂わしい人であるのか。あのような讒言など、昔も今もある習いではないか。
そもそも清正様は三奉行(石田三成、長束正家、前田玄以か?)と仲が悪く憎まれている中、
右衛門少尉(長盛)殿だけは入魂していただいていたというのに、こんな事になってしまうなんて、
是非にも及ばぬ次第である。もはや太閤殿下のお怒りが解かれることもなく、切腹させられる可能性も
高いだろう。」

と、清正のやりようを大いに憤ったとのことだ。

以上、加藤清正増田長盛と絶交するに至る顛末のお話。




138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/23(木) 21:29:07 ID:1GePetwF
これなかったんだ
なんでもいいから怒りをぶつけたかったんだろうなぁ

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/24(金) 02:30:24 ID:IwLzb5Oh
普段から仲が悪い(嫌い)からこうなるんだな
勘気の内容もよくわからないのに初めから治部のせいと思い込むのは・・・
秀吉の機嫌を取ったり直接意見を言える立場なのに、この慌てようは心当たりがあるんだろうなあ

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/24(金) 02:58:56 ID:vGJsAUQ0
小西行長「どや。虎之助ってけったくそ悪い奴やろ?わいもほとほと困ってん。」