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首奪い

2021年08月02日 17:29

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/02(月) 16:01:28.09 ID:V9FYJm3n
小田原の役、上州宮崎砦の戦いの時の事。上杉景勝勢のうち藤田能登守(信吉)、甘糟備後守(景継)らの
軍勢は北条方の宮崎砦を乗り崩し、敵勢を追撃した。

藤田信吉の組の夏目舎人助は組子を呼び寄せ真っ先に進むと、宮崎坂口にて敵を追い詰めた。
その敵の中に、茜の羽織を着け、味方に下知して殿をする武者があった。舎人はそこに乗り付け、
互いに馬上にて名乗りかけ、鑓を組んで突き落とし、組子の澤田作左衛門に「首を取れ!」と申すと、
作左衛門も上に乗り掛かって首を擦り落とした。とこそがその時、甘糟備後守の手明(予備兵)の者である
湯浅七右衛門が奔り来て、作左衛門を押し倒し、その首を取って逃げた。そこに舎人助が乘り付け、
湯浅の差物の絹を少し切り落とし、それを取り置いた。しして又組衆を下知し、南西方向へ追い打ちをかけた。

(中略)

湯浅七右衛門が奪い首をしたことについて、合戦後夏目舎人助は自分の組の澤田作左衛門を召して
甘糟備後守の所へ行き、申し上げた

「御内の衆が奪い首を致されましたので、その首を返して頂きたく、急度仰せ付けられますように。」

備後守はこれに
「我らの内に、そのような比興者が有るはずがない。しかしながら調べよう。その方にそれについての
証拠は有るか。」

舎人は澤田を呼び出し、「この者が取った首を、御内の者、彼は白地に黒二引の差物をしていましたが、
後から来て澤田を押し倒し首を奪いました。その証拠はここにありますので、その差物に
名札をつけてここに出して下さい。」
そう申して差物を取り寄せると、彼の差物は切り裂かれており、そこに舎人の持ってきた切れを
当てるとピタリと一致し、紛れもない事が解った、これに備後は殊の外立腹し

「このような臆病者を召し使ったのは私の不吟味である。それをそのまま置いては、諸人に悪事を
教えるようなものだ!」

と。かの者を召し出し手打ちにすると申されるとこを、舎人は制して「先ず我が方の大将である
藤田と御相談なさってください。他の備えの為でもあります。」と、奪われた首を持って帰り、
高名帳に付けた上で、藤田にこの事を申し伝えると、藤田はすぐに甘糟を招き、二人伴って御本陣へ参り
上杉景勝公に言上した。

これについて景勝公はこう仰せに成った
「武士であっても武道を知らない者は下人である。武士は本心の臓より思案工夫して分別する者である
故に、科があれば切腹をする。

下人は首元で思案する故に締まり無く、落ち着いた分別も無い。これ故に科あれば首を斬る。

女人は鼻先ばかりの智である故に、科があれば鼻切る事、古来よりの掟である。

その者は下人同然の臆病を働いた。諸人への見せしめの為にも、縄を付け陣中を引き廻し、首を斬り
獄門に懸け、札を添えて首を晒し置くように。」

と仰せ出されたために、斯くの如く仕った。

『この湯浅七右衛門と申す者、甘糟備後守被官である。今度宮崎表に於いて夏目舎人助が敵を突き落とし
組子の澤田作左衛門に首を取らせる所で、湯浅はこれを奪い取った、この事は大臆病者の働きであり、
筆にも尽くしがたい。その科により、御掟通りに申し付けた。湯浅の子々孫々は言うに及ばず、彼の
組にまで悪名が遁れられない。仍って件の如し。

 天正十八年三月十八日     奉行 甘糟備後守 』

このような札を添えて、七日の間路に晒した。これを見た加賀衆も一層、上杉家の弓矢の法を知った。

管窺武鑑



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五段三段と工夫して、不敗の地をふまえ、必勝の旗を掲げる。

2021年07月27日 17:10

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/27(火) 15:44:16.93 ID:IgnKSJfC
天正十五年の本庄繁長による庄内の尾鐺攻めの時の事について、本庄は夏目舎人助に物語された。

「尾鐺において攻め合いの際、最上方である上山田がこちらに内通し、堅く申し合わせたが、
必ずしもこれを頼りにしなかった。戦国の最中では、こういった軍略は敵味方ともにあるものだ。
『我を欺くべし』と深く企む心根は、不明の智では知り難い。世間の約束などは、手のひらを翻すような
ものであり、思い定めた志でさえ変わることもあるのだから、上山田が内通を悔いて取りやめる可能性も
ありえる。しかしそういった事を疑っていては、出勢することも合戦することも出来なくなってしまう。

こういう所をよく思案し、予定通り上山田が裏切れば、勝利は手中にしたようなものであるが、
万一これが、上山田が越後勢を討つための詭計であったならば、これこれの武略を以て変を打ち、
それに勝つための備えを定め、五段三段と工夫して、不敗の地をふまえ、必勝の旗を掲げる。
これこどが誠に、危うからざる戦法である。」

この事を夏目舎人助は訓戒されたのだと、後に私(著者・夏目軍八定房)に伝えたのである。

管窺武鑑



能州の武士道の吟味、諸人の勇気を励ます事、

2021年07月22日 17:08

326 名前:1/2[sage] 投稿日:2021/07/22(木) 09:42:43.72 ID:moX1rXdG
天正13年三月二日、藤田能登守(信吉)の家来で武笠藤兵衛という武士が、春日山下町において
上杉景勝公の御小姓衆と喧嘩を仕出した。武笠は郎党と二人で相手を三人斬り殺し、五、七人を
追い散らして町家の奥へ走り入り、小座席口のある所に取り籠もり、主従にて両口を堅めた。

この事を藤田の衆が聞いて駆けつけ町家を取り囲んでいた所に、奉行衆の者共も来た。
夏目舎人助も駆けつけ、様子を聞くとこれこれと説明された。
これに舎人助は
「他所の者が取り籠もったとしても、行きがかりの上は、状況によるにしても、見物で済ませるなど
出来ないことだ。況や藤田配下の者であり、手遅れして奉行衆の者に身柄を取られては名が廃る。」
と言って、その近隣にて木刀を一本取って差し、表口より押し入った。

籠もっていた者一人が「待ち受けたり!」と言って、飛び懸かって打ってきた太刀を受け止め、
引き組んで押し倒し、「取りたるぞ!」と言葉をかけた。そこにもう一人の取り籠もった者が
助け懸る所に、荒川山三郎という者が裏口の方に居たが、舎人の声を聞いて「先を越され口惜し」
と言うと裏口の板戸を蹴破り飛び入った。先のもう一人の男は、舎人に組まれた男を助けるのを止め
荒川に向かった。荒川も刀を抜かず、二尺余りの木刀を持ち、一つ二つ打ち合うと引き組んだ。
そこに、これも裏口から、彦部勘左衛門という者があったが、彼も荒川の跡に続いて押し入った。
荒川は早くも相手を組み伏せていたため、彦部は舎人の方へ助けようと駆け寄ったが、舎人は最初の者を
踏み伏せ、首に刀を当てて縄をかけた。

この様子を見て、また荒川の方を助け取り堅めたが、荒川は太刀、大脇差で、しかも抜けず、
科人の抜いたものは刀で、腰に挿していたのは、これも二尺ばかりの大脇差であったので、組んだ時の
役に立たなかった故、運の勝負を極めかね、剰え、上になり下になり、雌雄決し難く見えたため、
彦部は荒川を助け、共にこれを捕り固めた。

これらの科人のうち、舎人が絡め捕らえたのは下人で、荒川が捕らえたのが、主の武笠であった。
両人の大小を取り、二人の囚人を先へ遣わし、舎人はその後、春日山三の曲輪の藤田屋敷に帰った。

327 名前:2/2[sage] 投稿日:2021/07/22(木) 09:43:34.85 ID:moX1rXdG
然るに翌日、兼ねてからの約束にて藤田宅に、直江山城守(兼続)御近習の丸田周防、横目付の
山上三郎左衛門、その他五、七人が招待された饗宴があり、その場でかの武笠の喧嘩の事を語り、
最も無道にて重科であるとして、斬罪に決められた後、夏目舎人、荒川山三郎彦部勘左衛門
三人と、藤田の下の隊長・奉行が呼び集められ、これらの前で、藤田能登守が、かの武笠主従二人を
召し捕った事についての批評を述べられた

「今度の三人の働き、舎人助が第一、荒川が第二、彦部がその次である。
大勢押し寄せた中、一番に励んで押し入った性根は勝れている。相手は下人であったが、それは外からは
知り難かった。小座敷の両口を二人で堅めているというだけで、どちらに武笠が居るか知り難かった。
押し入るとそのまま楯突く者を相手にするとなれば、たとえ二人の者共が一所に立ち並び斬り向かったと
しても、少しも臆するような者だとは思われない。生死は運による事なのだから、たとえ討たれ斬死しても、
抜きん出た志は無類の誉れである。

荒川は主の武笠と組んだので、その功は上と言われるだろうが、常の作法とは吟味が違う。
常の法であれな、主従高下は遥かに隔たり、その状況での働きであれば、主を討ったものを上とし、
下人を討ったのを次とする。これは戦場、野合の場合である。それであっても、その場その時の緩急難易の
違いはある。殊更今回、主従の居所が解らなかったため、押し入った志の次第を吟味するに、
荒川は「舎人が組みたるを」という言葉を聞いて飛び入った。尤も荒川も心が臆していたわけではない。
待ち構えている所に、舎人が踏み入り、下人を取り詰めたのを、武笠がこれを助けようとした時に、
荒川に飛び入られて動転した所を、荒川は引き組んだ。舎人の働きほどではないが、普段から
「天晴人に劣るまじ」と心に油断無き故に、舎人に続いて間断なく押し入った故に、武笠も下人も
助け合う事が出来なかった。然れば第二の働きである。

彦部勘左衛門は、荒川が組み漏らさないとする所を助けて、取り堅めた事、勝負の結果の働き、
尤もの事である。であるが、舎人、荒川両人にて二人の者を組み、彦部には逢い手が無かった。
しかし荒川に劣らず急いで押し入った事であり、分別に於いて遅き心根では全く無い。今少し早ければ
必ず武笠と組んでいただろうが、それは荒川に越されたと言うだけである。一方で遅ければ、荒川は
禍に遭っていたかも知れず、それを助けたのは良き心繰りである。

さてまた、舎人は相手を一人で取り堅めたが、荒川は取り堅め難く見えるを以て、彦部はこれを助けて
ようやく両人にて取り堅めた上に、大勢が重なって刀脇差を奪ったという。荒川以外が太刀を打つのは
武士道不穿鑿である。

舎人の相手は舎人より力がなかった故に、抑えて縛ることが出来た。
荒川は武笠と力量が同じくらいであり、そのため取り堅めかねたのであろう。
人の力量は勇臆で異なるわけではない。その場その場の様子を以て、志の浅深を穿鑿して、勇の上中下を
定めることが尤もであると、私は存じている。各々は如何思し召すか。」

と申されると、一座の衆も、尤もと感じ入られた。この事は景勝公のお耳に達し、藤田を召し出され、
「少しの事にも、諸人が勇むように、善悪を能く批評して、勇怯を正しく穿鑿仕ること、偏に忠勤の
志浅からず。」と、呉服十重を下された、そのうち三重を舎人助に、二重は荒川に、一つは彦部に
配分された。能州の武士道の吟味、諸人の勇気を励ます事、このようであった。

管窺武鑑



328 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/22(木) 10:07:29.15 ID:3kVbbLt2
>春日山下町において上杉景勝公の御小姓衆と喧嘩を仕出した。武笠は郎党と二人で相手を三人斬り殺し、五、七人を追い散らして


最低でも景勝の小姓衆は8人は居たわけだけど、年端も行かない前髪だったとかで主従2人の武笠に遅れを取ったのかな?
8対2で遅れを取るって相当だけど小姓衆の顛末はお咎め無しだったのだろうか?また、喧嘩に至った発端も気になる。

花の慶次で景勝の小姓13人が慶次1人に全滅させられて、13対1で遅れを取るとは何たる醜態と兼続から評されてたけど、実際この事件で生き残った小姓衆も面目が立たない希ガス