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三好義継三家老の別心

2019年05月31日 15:25

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/31(金) 14:30:07.73 ID:lX7j0Ovy
霜月4日。信長御上洛、二条妙覚寺に御寄宿。

三好左京太夫殿(義継)が非儀を構えられたことにより、家老の衆である多羅尾右近(綱知)・池田丹
後守(教正)・野間佐吉(長前)の両三人が別心を企てる。

金山駿河は諸般を1人の覚悟に任せられたので、(両三人は)金山駿河を生害させて佐久間右衛門(信
盛)を引き入れて天守の下まで攻め込んだところ、(左京太夫殿は)叶い難しと思し召して御女房衆と
御子息達を皆刺し殺して切って出た。数多の者に手を負わせると、その後に左京太夫殿は腹を十文字に
切って比類なき御働きをされた。哀れなる有様なり。

御相伴の人数は那須久右衛門・岡飛騨守・江川。この3人が追腹仕って名誉の次第はこの節なり。若江
の城は両三人の御忠節に付き、(両三人に)預け置かれた。

――『信長公記』


義詰(義継)

長慶の息男である(実際は十河一存の子)。三好左京太夫と号す。天文の末より河内国若江に居住した。
将軍義昭公の妹婿なり。

天正の初めに義昭公を信長公が配流なされた時に「義詰は義昭公の妹婿で三好の惣頭なれば、とにかく
討ち果たせ」と、信長公が若江の城へ攻め寄せなさると、義詰の家老3人が信長公へ返忠した。

義詰は「この上は戦うべきにあらず」と大手の矢倉に上がって腹を十文字に掻き切り、臓を掴み出して
投げ捨てた。そして遊佐与伝という者を呼んで「介錯せよ」と申せば、与伝は畏まって太刀を振り上げ
るも、兜に妨げられて「介錯ならず!」と申した。

すると義詰は両手で兜を押し上げなされ、与伝は両手をかけて義詰の首を打ち落とし、差し上げて敵に
見せると、矢倉に火を掛けて同じく腹を掻き切って死んだ。

信長公は見なさって「天晴、大将かな。このような主君を持って逆心をなした家老どもの浅ましさよ」
と、惜しみなさったと聞く。

また一説に義詰は病死と言われている。誤りなり(三好義興との混同か)。

――『阿州将裔記』



961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/31(金) 17:07:14.84 ID:iWjrhi5I
>金山駿河は諸般を1人の覚悟に任せられたので

ここはどういう事を指してるんだろう

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/01(土) 08:55:47.76 ID:tqmeloYc
オラ達は信長様に逆らっちゃなんねえってあれほど口酸っぱく言ったのに主君を唆してひどい奴だ!そうなんですコイツが悪いんですよ佐久間様!金山責任とれ切腹だ!
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佐久間信盛、信長を諫める

2019年05月01日 16:21

853 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/01(水) 10:23:59.52 ID:Gr038wOZ
佐久間信盛、信長を諫める

1578年、河内の国人、三箇頼照・頼連父子が毛利氏に通じたとの噂が流れる。

噂を流したのは若江三人衆の一人・多羅尾綱知三箇頼照がキリシタンであり、多羅尾がキリシタン嫌いであったからと言う。噂を耳にして激怒した織田信長佐久間信盛に与力の三箇氏の処刑を命じた。

信長の命令にはいかなる異議も釈明も許されず、そのまま言葉通りに遂行する習わしであったにも関わらず、信盛はすぐに頼連を連れて上洛、信長に面会してまずは取り調べが必要だと説得した。
信長も了承して取り調べが行われることになり、三箇父子の無実が明らかになった。

三箇父子の危機は去ったように思えたが、多羅尾綱知は諦めず讒言し続けたため、信長は再び処刑の命令を下した。この時も信盛が信長と直談判、説得して翻意させたために三箇父子は救われたのであった。


(フロイス日本史)



855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 10:45:54.85 ID:UFjyl7fE
佐久間GJな逸話に思えるけど
こういうところで信長のヘイト獲得したのかも知れない

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 10:46:32.27 ID:ciO/1tRa
ないあるヨ

858 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/01(水) 12:29:05.60 ID:1MsaJoST
佐久間には他にも比叡山焼き討ちを思い止まるように訴えたり、有名な利根坂の時に信長に反論したりした話がある

この時も処刑の命令を翻意させているし、信長もその意見を無視することができないほどの存在だったんだろう

ただその度重なる直言で内心疎まれてもいたんだろうね

859 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/01(水) 16:51:22.06 ID:7sIQcVFh
個人的には信長信盛の仲ってそんな悪くない気がするけどなぁ
悪くないから、お互い言いたいこと言う
信長の追放って現代に置き換えれば謹慎だしね
信盛保養地で死ななければ、また復帰してたんじゃ?

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 18:28:41.75 ID:idjiVlFy
見た感じ日記っぽいし淡々としてるのはそのせいでは?

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 21:09:52.17 ID:OREag7aG
>>859
室町時代の追放の意味も知らんと適当なこと言ってはいかん

864 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/01(水) 22:03:55.38 ID:EFC/PbAa
信長は折檻状のあと、「佐久間親子は本来なら処刑すべきだが、長年召し使った者なので一度だけ助命する。しかし二度目は許さないので、忍びでも上方へ来るなら討ち果たせ」ていう厳しいお触れも出しているからそんな楽観的な状況ではなかったでしょうね

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 22:20:28.55 ID:XM3gZ2DZ
でも息子は許されて家は残ってるんDA

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 22:26:57.59 ID:SW8dwP43
>>865
信盛が死んで怒りのボルテージが下がったんじゃね

867 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/01(水) 22:39:36.34 ID:EFC/PbAa
気にするな!

ってのは冗談で、信盛の死の直後に息子は赦免されてるから、折檻状で両方厳しく非難されてるとはいえ、怒りの対象の主体はあくまで信盛だったってことでしょう

あと息子の復帰が許されたのは信忠の根回しもあったようですね

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/02(木) 01:08:49.52 ID:wp+473rn
尾張に佐久間自前の領地(様々な既得権益付き)があるのが邪魔だったって見方もあるしな
その理屈なら信栄が身一つで仕えるならなんの問題もない

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 01:54:08.01 ID:zpbEIlwA
佐久間追放は、裏で暗躍していた
明智の謀略だったってのを、次の
大河の麒麟がくるで放送されることを
密かに期待している

フロイス評の明智光秀がいいなぁ

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 02:11:48.68 ID:H+rOAgLT
麒麟て信長の花押なのにそんなタイトルに決まったのか光秀大河

三好氏躍進の秘訣

2011年10月06日 22:06

5 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/06(木) 12:31:20.92 ID:c5QU8yA0
今井用水相論に絡めた畿内の政争と事情 三好氏躍進の秘訣  

1553年 三好長慶が畿内に覇を唱えてから4年後
足利義輝は近江朽木から京都霊山に城を構え京奪還作戦を画策、その頃~

~京都・西岡~
西岡は小規模国人の乱立密集地帯で互いに持ちつ持たれつの関係で色々な揉め事が多かった。
今里村と上植野村の水論争いは、隣村の国人と茨木長吉(細川氏綱家臣)が仲裁していた、のが再発。
省略して書けばこうである

今里村方『洪水で川の瀬が変わったら、ちゃんと井上村中島の井出三段目下『まで』
    堀り取る事が慣習だったよね?なんでそれ無視した川筋掘ってんの?うちん所の水少なくなっちゃうじゃん』
上植野村方『ち、うっせーな』
今里方『秋田氏と長井氏が上植野村を支配していた時は問題なかったよね~』(両氏は没落したらしい)

~京都東山、三好長慶陣陣営~
三好長逸『なんか西岡で用水栽論で揉めてるらしいけど』
三好長慶『えっと、何処で?』 
長逸『今里村と上植野村』 
長慶『え?あれって氏綱家臣の茨木が仲介して終わったんじゃないの?』
長逸『それがカクカクシカジカ』
長慶『ちょっと公方との合戦で手が離せないから(忙しいし無理!)
   細川氏綱さんの家臣の多羅尾綱知にお願いできる?って≪細川氏綱さんから≫言って貰えないかな』
長逸『あいよ、じゃ、ちょっくら使いを走らせるわ』

多羅尾(何で終わった事を俺が、めんどくせーな、まあ適当にやっとくか)『おい、何で今更終わった事を蒸し返すんだよ』
今里・上植野『うるせー!外野は引っ込んでろ!細川家臣はお呼びでねーよ!タラオの癖に!』
~中略~
多羅尾『とまあこんな感じで、どうも今里・上植野両氏に問題があるようで(俺は悪くねーし)』
長逸『了解、長慶に報告しとくわ(お前本当に仲介してきたのかよ)』 長逸『とまあ、こんな経緯だったようだ』
長慶『そうか、じゃあ次は≪三好長慶から≫直々の頼みって事で、もう一度だけ多羅尾綱知にお願いできる?』
長逸『まあ、これでも駄目なら…って事だな』
長慶『そういう事』

多羅尾(また俺かよ!別の奴に行かせろよ!)
多羅尾『今度は三好長慶の命で来たけど、本当、お前ら争い止めろ!な!』
今里・上植野『うるせー!外野は(省略)』
多羅尾『やっぱり彼等は聞く耳を持たないようで(俺は悪くねーよ、解ってるよな)
長逸『わかった!よっしゃ多羅尾、お疲れ!(細川の面子を潰してくれて御苦労!)ゆっくり休んでいいよ(多分次は無いよ!)』

長慶『さて、霊山城の方も少し落ち着いた、長逸、今里の能勢氏に三好長慶が直接赴くと言伝をお願いできるか
   それと、双方の村の申次と検使に実況見分させろ、両氏の絵図を確認して
   第三者である井の内村の百姓の証言をよーく聞いてくれ』

そして西岡に検使和久与助が実況見分をし、結果は当然ながら今里郷惣中の勝訴となった。
こうして、三好氏は下の者達から公平性・積極性を買われていき畿内の信頼を得ていく
武家の家督相続(例 和泉松浦氏)なども
『細川だと色々メンドクサイからもう三好長慶だけに相談して決めるわ』
長慶『次、君が相続ね』→松浦家『合点承知』 などなど

出典は『能勢家文書』『松前彰家文書』今里村の『手日記』
高槻の水栽論とはまた少し前 
長逸と長慶のやりとりは長逸の取次ポジを利用したフィクションです
まあ長逸から岩成とか更に下っぱに言ってるのが普通でしょう