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さても命は捨てえざる者也

2021年01月24日 17:10

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/24(日) 11:49:37.83 ID:lxwHAmf+
さても命は捨てえざる者也

北条氏が小田原合戦で敗戦し氏政・氏照が切腹したのは、天正18年7月11日のことであった。
その翌日には氏直の高野山行きが決定し、北条家臣団の他家への再仕官がすすめられたあと
残った一門衆・家臣の上下合わせて三百ほどの氏直一行が、小田原から出発したのは21日のことであった。

先行していた氏規が8月7日に大和の興福寺に着いたときの様子を、多聞院英俊
「哀れなる在り様也、さても命は捨てえざる者也、恥をさらし此くの如し、あさましあさまし」
と評しており、切腹しなかったことへの風当たりは強かったようだ。

翌年の2月7日には氏直赦免の内意が秀吉から家康へ伝えられ、氏直は堺に移ったあと大坂に移動した。
家康の陸奥九戸一揆出陣のため、一時的に交渉は滞ったが8月19日に大名として復帰している。
復帰した氏直は借財の整理をすすめていたが、10月29日までに疱瘡を患い11月4日に死去した。享年30。



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薄諸光の牛公事役銭徴収問題と自害

2021年01月16日 17:14

薄諸光   
526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/15(金) 20:12:44.52 ID:QrXZWoJ1
薄諸光の牛公事役銭徴収問題と自害

以下は秀吉が吉川元長に対し薄諸光が"文書偽造"をしたことをしらせる書状である。

わざわざ申し遣わします。薄という公家が諸国の牛に役銭をかけて取っていますが、秀吉は知りません。
間違いなく謀判で、言語道断の曲事です。あなたの国でも様々な所で徴収している者がいるでしょうから
この役銭を取っている者は公家でも門跡でも糾明し、全て捕らえて送るように。油断なく尋ね探して
絶対捕らえて下さい。そのために書きました。
(天正十三年)九月十八日  (秀吉朱印)
        吉川治部少輔(元長)とのへ

――『秀吉文書集 一六三三号』

薄諸光は山科言継の次男で薄以緒の婿養子となった人物で、薄家は伝統的に牛公事の権益を持つ公家である。
つまり実際は偽造文書ではないのだが、『言継卿記』によると永禄年間には山城・丹波・丹後の三国のみしか
役銭の徴収は出来ない状態であった。諸光は原状を回復しようとしただけであったのだ。

ところが織田政権は基本的に”当知行主義”を掲げて、国衆・寺社の争論を解決してきており、秀吉も
一月前には前田玄以に公家などにあてて”当知行主義”の方針を伝えている。(『曇華院文書』)

十月二日、諸光は牛公事のことで諸国の村々を混乱させた罪に問われて幽閉され(『兼見卿記』)
三日後の十月五日に妻と共に自害した。(『多聞院日記』)享年39。
『系図纂要』には「武命によって横死した」と記されている。



『多聞院日記』より、吉川平介着服事件の解釈

2020年10月01日 17:08

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 00:03:29.31 ID:A8tUaSNv
多聞院日記』より、吉川平介着服事件の解釈

天正16年12月7日、(吉川)平介という人、大納言殿(豊臣秀長)より紀伊国の大将として雑賀に城をこしらえ、富貴に暮らしていた。
「熊野山の木を売るべし」と命じられ、2万本を選んで切り出し、大坂へ輸送した。そして、売り上げを毎月、過分に「上之」。
関白はこれを聞き及び、「曲事である」と召し捕らえ、おととい5日、西大寺で誅殺させた。
「主には一円、無過事也」。秀長は天下の面目を失った。
跡には金子700枚を持ち、「上之」という。
「女子供は不苦云々」、不情不便なことであった。
天正17年1月5日、秀長は昨冬、熊野の木を売りつけ、関白の御意に合わなかった。正月のお見舞いでもお目見えがかなわず、仕方なく帰ってきたので寺々への諸礼がなかったそうだ。

※とにかく意味の取りにくい記事なんですが、いろいろと解釈できます。
浅学非才ゆえ、この有名な事件にほかの原典があるのかなど知らないのですが。
①(これが定説?)平介が勝手に着服した。その額は金子700枚に及び、その分をあとになって秀長が太閤へ献上した。
②金に汚いことで知られる(諸大名に高い値段で兵糧を売ろうとしたり)秀長が平介に命じ、大仏殿建設で高騰していた貴重な木材を普請用に提供せず、売り払った。(1月5日記事には平介のへの字も出ていない)
③これはかなり無理な解釈ですが、秀吉が秀長に命じ、熊野の木を売らせた。その代金のうち、かなりを平介が秀長に献上していた。太閤はそれを知って立腹した。
いずれにせよ、私の誤訳や勘違いがあると思うので、ご参考までに。

ちなみに、この記事の前後は聚楽第への落書きに対する処分であったり、秀吉の苛烈な言動がいろいろと記されています。
9月3日条では、
先般、関白の大事にしていた刀が盗まれ、ついに行方が知れなかった。
これによって男女があまた磔にされた。浅野弾正の甥も腹を切り、「諸方以外震動」。ひときわ機嫌が悪い様子で、「狂乱ノ始也云々」。頼朝の守り刀、一文字で無類の重宝だったという。ありかは未だに分かっていないそうだ。

と記されています。平介事件も秀吉が権力者としておかしくなりだしていたことを念頭に置いて考えるとおもしろいかもしれません。



380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 00:16:01.32 ID:SryfC8MZ
よく秀長が長生きだったら朝鮮出兵や秀次、利休の切腹は無かった説があるけど
ぎりぎり名補佐役の面目が立つ時期に死んだだけで後2~3年生きていたら粛清されていたかもな

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 00:56:20.22 ID:nLSNZYeT
秀吉自身の方針の混乱は
秀長・大政所・鶴松の死、秀次養子縁組と秀頼誕生が複雑に絡み合ってるからなんとも言えないかなぁ
少なくとも大政所が生きてる限り秀長の粛清はできないと思う

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 08:42:33.98 ID:pyId+6bq
大政所自体は諌めるだろうけど、それで秀吉がやめるかなぁ
正直秀長の当時の評判って悪いし

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 19:28:31.45 ID:SryfC8MZ
かーちゃんが生きていれば命は大丈夫だと思うけど朝鮮出兵の総責任者かな、大和紀伊召し上げ朝鮮半島切り取り次第とか言われそう

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 19:33:34.48 ID:mN8KDRpT
戦闘員が大量に余ってるんだから外征しなきゃ内乱になるだろ
そもそも唐入りが悪かったというのは結果論で、中華周辺異民族が中原目指すのは普通のことだし

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 21:05:28.44 ID:B1l19ekP
戦闘員でなぜか景勝の母親が浮かんだ

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 21:57:09.03 ID:r9WCf6jv
それ仙桃院

『多聞院日記』より、本能寺前後の話

2020年08月28日 17:10

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/27(木) 23:42:02.81 ID:+of7yAKA
多聞院日記』より
本能寺前後の話(一部、まとめにもあり)。奈良の僧侶が見聞きした、ウソも真実も混じった当時の情勢記録。
もろもろ、論文などに引用されていますが、改めて見返すと、あのときの世情を追体験できる記録なので、抜粋します。
また、多聞院英俊が一日の終わりに日記を記しているのではなく、なにか興味深いことを聞くとすぐに日記に記していたことも分かると思います。
英俊はかなりのニュースマニアだったと思われます。追記で「ウソ」などと記してもいますし。


天正10年4月
近頃、乾の方角から彗星が現れた。光の元は戌亥、末端は辰巳の方角。光の長さは10丈もあるように見えて、近年は見なかった長さだった。恐ろしいことだ(追記、「信長生涯ノ先端也」)
6月2日
筒井順慶が今朝、京都に上ったところ、「上様」(信長)がすぐに西国に出馬するといって、安土へ帰ったそうだ。なので、順慶も奈良へ帰った
信長が京都で殺害されたらしい。信忠も殺されたようだ。明智光秀と津田信澄が申し合わせて殺したという。(追記、「コレハウソ」)
未明のことで、朝方に漏れ伝わってきた。盛者必衰の金言があるので、驚きはしない。
諸国がことごとく(織田家に)反逆してくるだろうか。世は常ならず。日を追って眼前になった。状況はたしかにはわからない、どうなるのだろうか。
3日、未明から大雨が降った、京都の様子は確実な情報は届いていない。二条御新造に信忠が逃げ入り、正親町天皇を人質に取り、今上天皇も殺害された(追記、「ウソ」)。
京より注進があって、信長は本能寺で、信忠は二条御新造で殺害された。菅屋長頼、村井父子3人、福富秀勝、このほか小姓衆500~600人が殺された。
光秀はまず坂本へ入り、大津、松本、瀬田に陣取ったらしい。「細川殿」も死んだようだ。
今日、奈良の軍勢はことごとく大安寺、辰市、東九条、法花寺のあたりに陣取ったようだ。どうなることか。
4日
順慶と南方衆、井戸の軍勢が光秀勢のもとへ出陣したようだ、どうなんだろうか
5日
昨日、京へ出陣した筒井軍は撤退したそうだ。ならば織田信孝と申し合わせてのことだろうか。ありそうな話だ。
大坂において津田信澄が殺されたそうだ。光秀の婿で、一段の器量のある者だった。信孝、丹羽長秀、蜂屋頼隆などがやったのか。ただ、ウソかも知れない(追記、本当だった)
伊賀では織田信雄の勢力の城が空城になり、浪人衆が入城したようだ
安土は4日に光秀方の手に落ちた。佐和山(長秀の居城)には山崎片家が入った。長浜には斎藤利三が入った。
筒井軍は先日、京都へ向けた軍を近江に向けた。順慶は光秀と堅く盟約を交わしているとも言う。どうなるのだろうか。
9日
今日、河内へ筒井軍が出撃するという沙汰があったが、にわかに繰り延べになったらしい。また、郡山城へ米と塩をにわかに入れたという。なぜ方針を転換したのか。不審である。
10日
先日、京都へ向かった筒井軍は近頃、帰ってきていた。羽柴秀吉が近いうちに上洛するのが決まったので、これによって判断を変えたと聞こえてきた。
14日
昨日、光秀より藤田伝五が順慶のところに来て、同心せず交流を絶ったが、木津まで帰ったところでまた呼び返したという。なんなのか、心苦しい。
秀吉に順慶は味方すると誓紙を送っている、村田と今中が使いだったらしい
井戸覚弘、この間に病を患い、9日に死んだ。深くその死を隠したと言うが、本当かどうか。まったくのウソだった。
今日の朝方に郡山で順慶が切腹したと連絡があった。とてつもなくびっくりしていたところ、「順慶ではない、藤田伝五に腹を切らせた」と言ってきた。
肝を消していたが、それもウソだった。奈良中でそんな状態だった、天魔の所業である。
奈良中で資産を隠しだした。光秀の家来が隠したものを盗んだ者を2人殺したという。気持ちが沈む。
12日(後記か)
秀吉が摂津にやってきた、「猛勢ニテ上」。家康はすでに安土に着いて陣取りしているらしい。どうなるのか。光秀軍は八幡と山崎にいる。
。淀のあたりまで光秀軍は撤退するのではと噂されている。これによって奈良中は静かになった。
隠し物を盗んでいたのは井上九郎三郎の者どもで、3人を殺害し、いよいよ奈良は静まった。
13日
勝竜寺城が落ちた。秀吉は京に上り、光秀は坂本へ逃げ落ちたという。本当だろうか。

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/27(木) 23:42:56.34 ID:+of7yAKA
(続き)

14日
日中まで大雨が降った。うち続く大雨、これまでになかったことだ
15日
夜を通して雷鳴が鳴り、大雨が降った
去る12日、光秀軍は数千人の損害を出した。坂本へわずか30人ばかりで逃げ帰り、秀吉は大津まで前進した。
今日、山から見て見ると、比叡山の東の方が大きく焼けていた、と(誰かが)いっていた。必ずや、坂本の町を焼いて城を攻めていると風聞があった。
順慶は今朝、1000人ばかりで出陣した。昨今は6000~7000人ばかりで出陣していたという。
今夕、醍醐に陣取りしたが、秀吉が陣を見て、「曲事である」と言い、「すべて天下は信長の御朱印のようにしなければならない」と命じた。もっともなことだ。
5月の23日まで雨は降らなかった。24日より降り始め、20日以上降っていた。今日は雨がやんで天気がよかった(私の注記、本能寺前後はずっと雨が降っていた)
先日の合戦で光秀が討ち死にしたのは間違いないという、時が終わった
(日付不明)
順慶の行動は曲事と(秀吉方から)沙汰があって、またも奈良中で資産を隠す。気持ちが沈む。
17日
光秀は12日に勝竜寺から逃げて、山科にて一揆にたたき殺された。首も胴体も京都に移されたという。あさましきことだ。
細川幽斎の中間だったのを引き立て、信長が厚く恩を与えて召し使ったのに、大恩を忘れて曲事に至った。天命かくのごとし。
斎藤利三が生け捕られて安土へ勾引されたという。天命天命。
18日
本能寺では光秀をはじめ、首が3000ほどあるという。斎藤利三は17日に京で引き回され、首を切られたという。
21日
近衛前久が死んだというので、一乗院はもってのほか取り乱した。間違いなく(近衛生害は)ウソだろう。
29日
大乗院殿が安土より帰った。信孝と昵懇で礼があったというので、めでたいめでたい。信雄と信孝の考えが合わないので、諸軍勢がいまだ帰陣していないようだ。
7月6日
天下の様相は、柴田勝家、秀吉、長秀、池田恒興、堀秀政、以上の5人で「分取ノ様」にその沙汰があった。信長の子供はその議論の俎上にも上がらなかったようだ。あさましいことだ。
7日
天下の様相、信雄と信孝が争いをやめないので、両人とも秀信の名代を辞退し、信雄は伊勢と尾張、信孝は美濃、信包は伊賀(追記、「ウソ」)。
柴田は長浜(20万石)、堀は秀信のおもり、これによって近江中郡の20万石、長秀は高島郡、志賀郡、恒興は17カ所と大坂を知行した。
秀吉は山城と丹波(丹波は羽柴秀長の知行)、西ノ岡と勝竜寺以下、河内の一部を得た。
おおむね、秀吉が主張した通りだった。それなので下京六条に城をつくるという。(秀信の)名代はいないまま、5人で議論を交えて(秀信を)もり立てようということになった。
順慶は大和一円と宇治郡、宇多郡も知行したらしい。秀吉が推薦したそうだ。これで奈良は平穏か(追記、「ウソ」)。もっともなことだ。
このように決まり、欲がまざってまた、信長の子供がたくさんいるのに、まったく議論にならなかった、「クルイ」が出てきたのではないだろうか。
8日
今日、秀信(3歳)が秀吉のお供で京にいる。諸大名が御礼をしたそうだ



300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/28(金) 14:01:20.05 ID:X7bjes8W
コウモリが思ってた以上にふらふらしてた
信長様が生きてても判断が遅い!ってどっかで粛清されてたかも