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あの兄弟の働きは良き膏薬

2018年10月31日 19:10

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/31(水) 03:54:41.31 ID:CQKUgdKl
(長篠の戦いの時)

5月21日、武田四郎勝頼は夜中より軍勢を追々繰り出した。また曙に備を立てて一備ごとに分かれて攻め
掛かる様子なので、織田・徳川両将はかねて仰せ合わされたように「軍勢は柵外に出てはならない」と堅く

制し、鉄砲3千挺ずつ用意して待ち設けた。信長卿は「今日敵を練雲雀の如くせんものぞ!」と仰せになる。
その頃、徳川御陣では大久保治右衛門(忠佐)が兄・七郎右衛門(忠世)に向かい「今日の戦で当手は本主、

織田勢は加勢である。万一織田衆に戦を始められてはこれ以上の恥辱はありません! 某が進んで足軽戦を
始め候べし! 鉄砲の歩卒を添えてください!」と言うのを、神君(徳川家康)は聞かれ「もっともである」

との仰せにより柴田七九郎康忠・森川金右衛門氏俊・江原孫三郎利金・日下部兵右衛門定好・成瀬吉右衛門
正一らの属兵を大久保兄弟に差し添えて先頭に進められた。成瀬は徳川の御家来であったが、

一度子細あって甲斐へ立ち越し、この年頃武田家に仕えたが、今回御内意あって帰参した。それゆえ武田家
の侍大将どもの旗指物をよく覚えているからと先手に加えられたという。

(中略。大久保兄弟は先陣を切って山県昌景勢と戦い活躍)

今日の大久保忠世・忠佐兄弟の戦場での働きを信長卿は御覧になって、「徳川家の中で金の揚羽蝶と浅黄に
黒餅の指物をしているのは、何と申す男か」と問われ、神君は大久保兄弟と御答えし、信長卿は「徳川殿は
良き人を御持ちだ。あの兄弟の働きは良き膏薬のようだ。敵に付いて離れない」と仰せられた。

(中略)

かれこれする間に神君は岐阜におられた。信長卿は今回の加勢を感謝されて神君を厚く饗応なさり、御供の
人々へも若干の被け物を賜われたが、信長卿は「長篠で見た髭は来ているか」と問われた。その時、大久保

治右衛門が進み出て「兄の七郎右衛門は供に参ってはおりません」と申せば、信長卿は「汝の兄弟は今回の
功抜群なり」と仰り、御自身の手で衣服を取って授けられた。大久保は大いに面目を施され、神君も殊更に
喜びなさって浜松へと帰られた。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談・三河物語・
   神君御年譜)』

417 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/10/31(水) 06:53:32.42 ID:zbk28BfY
流石は大久保、真田に付いて離れない。

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/31(水) 14:02:12.81 ID:hpbAKV9H
>>416
>金の揚羽蝶と浅黄に黒餅
どういう組み合わせだw

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/31(水) 17:03:16.97 ID:VrOWLq6S
こう、殿様が家臣などを褒めて色んなものを賜るというのがお話でよく出てくるけど
頂いた衣服や刀などなどって飾っておくもの?
馬とかの場合飾る訳にもいかないだろうから、乗ったり使うのが普通なのかな。

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/31(水) 19:07:11.87 ID:Df67X3vF
>>418
黒餅ってお餅じゃなくこういう黒の円の事だぞw
https://i.imgur.com/zAouSP3.jpg
zAouSP3.jpg

426 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/11/01(木) 10:30:04.24 ID:kmp/q02H
黒丸って言えばいいのに黒餅に見えたなんてよっぽどお腹空いていたんだな
もしかしたら本当に餅をぶら下げていたかもしれん
返り血を浴びて黒くなっていったんだろうな

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 11:33:31.48 ID:KZhZzpkc
菓子好きだから、そっちでイメージが浮かぶんじゃないの

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 19:25:38.00 ID:VVf5sW8r
>>426
黒丸だと黒で描かれた円(蛇の目)とも取られそうだし、便宜的に餅と呼称したのでは?

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 19:31:04.15 ID:6GoIIEmA
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤堂高虎#/media/File:Site_of_T%C5%8Dd%C5%8D_Takatora_and_Ky%C5%8Dgoku_Takatomo%27s_Positions.jpg
藤堂高虎の旗印(一番右)も「三つ餅」と言われてるな
Site_of_Tōdō_Takatora_and_Kyōgoku_Takatomos_Positions

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 19:46:51.86 ID:KZhZzpkc
高虎のは餅の逸話からきてるんじゃないの?

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 23:36:57.17 ID:eJY+p62H
>>436
多分逆。旗印が三つ餅だったから出世の白餅の話が作られた。

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 08:56:26.72 ID:PhpvOcLA
もしそうなら参勤交代の時に立ち寄る風習ができた吉田の餅屋はマル得だな
あと初期の高虎の逸話を見ると食い逃げが本当でも驚かない

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あれこそ山県である

2018年10月26日 17:22

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 13:28:58.92 ID:gqs82Hyy
(長篠の戦いの時)

大久保兄弟(忠世・忠佐)はこの輩(成瀬正一ら)と一同に柵より外に進み出て、武田の先手・侍大将の
山県三郎兵衛昌景の備に向かい鉄砲を撃ち掛ける。山県も始めの頃は軽卒を出し足軽迫り合いをしていた

が、次第に欺き引かれて堪えかね「あの柵を尽く押し破って進め!」と3千の赤備が一同に押し掛かった。
大久保兄弟は命じて思うままに山県勢を引き寄せ、3百余挺の鉄砲を隙間なく撃たせれば、先頭に進んだ

山県勢は散々に撃ち立てられた。その時、大久保兄弟・渡辺半十郎政綱・同弥之助・光池水之助らは山県
の属兵の広瀬郷右衛門昌房・小菅五郎兵衛元成・三科伝右衛門形幸といった名を知られた者どもと挑み

戦う。広瀬・小菅・三科も言葉を掛けて姓名を名乗り、馬上で突き戦8,9度に及び手負いて引き退けば
半十郎や水之助らは高名をなした。山県はそれには目もくれず3千余騎を手に付けて筋違いに織田勢・

佐久間右衛門信盛の柵を駆け破らんと押し掛かる。そこで信長卿は命じられて柵中より鉄砲を激しく撃ち
立てれば、山県勢はここに人塚を作る程に撃ち殺されたので、山県も堪えかねて引き退いた。

(中略。武田勢は鉄砲に苦戦するも、馬場信房・内藤昌豊が佐久間信盛・滝川一益を柵内に追い、信長は
柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉に命じて横から武田勢を攻撃させ、内藤がこれを迎撃する)

この時、山県は小山田・甘利らとともに撃ち残された勢を立て直して、柴田・丹羽・木下の勢を横合から
まっしぐらに打って掛かれば、柴田・丹羽・木下の人数は散々に突き立てられて敗走した。山県はこれを

追い打ちするかと見えたが、そうはせずにたちまち備を立て直して、徳川家の御本陣に打って掛かった。
御陣からは鉄砲を激しく撃ち立てれば、山県勢はまた撃ち殺される者若干なり。山県は白糸威の具足に

金の大鍬形を打った兜を身に着け、味方が討たれるのをものともせず、なおなお馬を進めたところ、本多
平八郎(忠勝)が「あれこそ山県である!」と命ずれば、筒先は山県に向かって放たれた。その弾が

飛んで来て山県の緩い糸の間から当たったため、山県は持っている采配を口に咥えて両手で鞍の前輪を
抑えてしばらく堪えていたのだが、ついにたまらず馬から真っ逆様に落ちた。味方がその首を取らんと
駆け集まるのを山県の従兵・志村又右衛門が敵に首を渡すまじと駆け寄り、その首を切って引き返した。

(原注:山県を撃ったのは大坂新助という者であると『勇士一言集』に見える)

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』



368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 20:06:25.04 ID:8I+DB0d/
>>365
敵に首を渡したくないから切腹した後に…ってのは解るが、戦場で戦闘の真っ最中にもやるのか(困惑

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/27(土) 00:18:52.69 ID:5EgtKHTm
>>368
討ち死にした大将の首を敵に渡せば敵の手柄となり、士気を挙げる材料とされる。
+ 首だけでも持って帰って供養しなければならない。

戦国時代どころか、戊辰戦争までやってた、当然のこと。

忠次がいわれざる無礼を振舞ったせいで

2018年09月09日 18:21

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/09(日) 06:54:02.22 ID:ecWFEVIE
織田殿の命を受けて甲信の諸城を守った諸士は皆々城を捨てて上洛すればその昔信玄に滅ぼされた諏訪頼重
の伯父・新太郎満隣の子・小太郎頼忠は旧好の家人を催して諏訪郡に押し入り高島城を乗っ取って20余年
の蟄懐を開いた。

信玄のため追い出された小笠原長時の弟・洞雪斎も上杉景勝の助けを得て深志城に還入し、川中島の旧領主・
村上信濃守義清の子・源吾国清(山浦国清)も越後より勢を催して、景勝の扶助で川中島を領略した。

(中略)

一揆の首長・大村三右衛門は誅に伏すといえども甲斐は未だ穏やかならず、所々に悪徒蜂起の聞こえあり。
これを静謐ならしめよとの仰せを蒙り、大久保七郎衛門忠世は甲斐に赴き上口に陣した。

石川長門守康通・本多豊後守広孝とその子の彦次郎康重・岡部次郎右衛門正綱らも同じく赴く。忠世は康通・
正綱らと議して佐久郡諏訪に赴き、諏訪小太郎頼忠を説諭して御味方となす。また大草左近知久・大和頼元、
同じく式部頼氏・下条らも同じく帰順せしめたのであった。

(中略)

14日に酒井左衛門尉忠次に信濃一円を賜り、忠次は東三河の勢を引き連れて伊奈口より諏訪に至り、諏訪
小太郎頼忠方へ使者を立てて「信州一円は某が拝領したので、これからは我が下知に従うべし」との由を

申し送った。頼忠は大いに怒って、「私は大久保忠世の勧めによってこそ徳川殿に従ったのだ。どうして
忠次の下知を守ろうか!」とたちまち敵の色をあらわし、高島に籠城して矢石を飛ばし忠次らを拒んだ。

忠次は高島城を取り囲んで東三河勢をもって攻めるも頼忠はまったく雌伏せず、その国人も多くが忠次の
下知に従わずに北条へ内通せんと見える由が聞こえたので、

忠次の信濃所領のことは停廃なされ(原注:武徳編年集成)、なおも忠次ならびに東三河勢をもって高島城
を囲ませ攻めさせられた。24日、城兵が松平又七郎家信の陣に夜討した。家信はわずかに13歳。

武田の家人が多かったのでよく戦って敵を退けた。26日、松平主殿助家忠は兵を偽って引き出し伏兵を
設けて多くの者を討ち取った。(原注:家忠日記・武徳編年集成)

(中略)

8月朔日(1582年)、北条氏直は甲斐を攻め取るために、4万余の人数で信濃海野口より甲斐若御子へ
発向せんと信濃役行者に出て梶ヶ原まで着陣した。この由が徳川家御本陣に聞こえて、高島城攻めに参った
酒井忠次以下の輩は皆白須まで引き返しせしめた。

3日、忠次ならびに大久保忠世・本多広孝・大須賀康高・石川康通・岡部正綱らは、乙骨(原注:武徳編年
集成に音骨)まで着陣した。この時までも氏直の大軍が間近の梶ヶ原にいるとはまったく知らなかった。

大久保の家人・石上兎角之助という者が6日夕に佐久郡蘆田小屋八ヶ嶽の方より来たり、この由を告げた。
諸将は大いに驚き、この地の庄司太郎左衛門は忠世が常に諸事用達をさせた者だったので、この者を見に

遣したところ、向かいの草木茂る中に敵が充満していた。「追い付けてここへ来ます!」との報告を受けた
諸将は、「この小勢ではどうして合戦叶おうか。しかし、夜中に引き取っては追い討たれて良くないだろう。

夜明けに早々に引き取ろう」と、その夜の将卒は用意して夜明けを待った。明けて7日(原注:柏崎物語・
武徳編年集成)、すでに打ち立たんとするに及び、忠世は、「私がせっかく諏訪小太郎を味方に引き入れた

というのに、忠次がいわれざる無礼を振舞ったせいで諏訪を北条方にしてしまった。だからこのような大事
に及んでしまったのだ!」と言った。忠次は大いに怒って口論し、今日の後殿を争ったために時刻

は移って巳の刻に及んだ。敵は早くも向かいの原に押し寄せてきた。諸将はいろいろと講和して一番は酒井、
二番は大須賀、三番は石川、四番は大久保、五番は本多、六番は穴山、七番は岡部と定まった。

――『改正三河後風土記』



一段の事である。そのまま夫婦にせよ

2017年01月13日 11:31

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/13(金) 03:54:25.69 ID:FY55/4W4
小笠原越中に罪あって、大久保七郎右衛門(忠世)に御預けになった時、
また女子に罪あって同所に御預けの者がおり、女子と越中は密通した。

この件が権現様(徳川家康)の御耳に達したところ、御意に、

「一段の事である。そのまま夫婦にせよ。越中もすぐに呼び出して、召し
使うとしよう」と、仰せられたという。

――『武功雑記』


○ 安藤帯刀物語

御意に違えた女を家康公は大久保七郎右衛門に御預けになられ、二俣
の城へ遣し置いた。

その後、小笠原権之丞<後に越中と云ひしなり>が御意に違えたのをも、
七郎右衛門に御預けなさったところ、この者は二俣で以前の女と一所に
なり、夫婦となった。

「とりわけて御咎めなさるべきです」と、申しあげたところ、家康公は御機嫌
にて、「そういうこともあろう。権之丞も召し帰すとしよう」とのことで、

すぐに召し帰しなさり、御使いなさったということだ。寛仁大度なり。

――『山鹿素行先生精神訓』


追放された権之丞の父親の話か。



509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/13(金) 12:06:57.31 ID:uhhPYp01
御意に違えた
つまり身籠ってしまったのがいけなかったんだな

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/13(金) 14:48:30.25 ID:WQ/oJQJy
女のほうは朝日姫の侍女だな、孕んでたんで越中にお下げになったのだろう

兵は偽りの道である

2016年03月05日 14:08

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/05(土) 07:35:27.90 ID:3KJccw/e
ある時、徳川家康物語の折、大久保忠世が言った
「奥州一揆(葛西大崎一揆)の時のことです。蒲生氏郷伊達政宗に謀られ、名生城を攻め懸けましたが、
危うい合戦に打ち勝ったのはまさに武功の大将です」

家康はこれを聞くと
蒲生氏郷は武勇の士であり、武功とは言いがたい。
おおよそ”功”と言えば、智謀勇あって勝つことを武功と呼ぶ。”功”は”いさお”と読むと、
これは「功績」を意味する。
また”剛”は強きを意味する。氏郷は武剛と呼べるであろうが、謀は不足している。
第一客戦(敵の領内での戦争)の法をわかっていない。

敵国に入るには、郷導を5人も10人も求めて、地理および士民の風俗、粮の有無を案内者に
尋ねた上で働くのが定まった法である。然るに案内者を求めなかったのは智謀の足らざる所である。
これによって不覚を取ったといえる。

氏郷が伊達政宗を唯一の案内者と頼み、彼が申すのを真実としたのは智の不足である。
政宗が味方だからといって、その言葉を真実と受け取るのは愚かなことだ。
勇士の習いとして、人を出し抜き独り功を立てんと思う輩は、偽り、謀を構えること、
その例多い。昔、佐々木高綱は梶原景季の馬の腹帯が伸びていると偽って先に登った。
近くでは九戸城攻めの時、堀尾帯刀が病気と偽り、先陣と定められていた氏郷を出し抜き、
九戸城をただ一人で攻め落として蒲生の手を失わせたという例がある。

そもそも名生を攻める前、政宗に思うところあって氏郷を茶に招いた時、氏郷は政宗の
企みを察し、郎党も含めて用心していた。それなのに政宗の、高清水のほか敵は居ないという
言葉を事実と心得、案内者も求めず名生城を攻め立てたのは、正直に言って全く智謀がない。

兵は偽りの道である。ではあるが、偽りを以って躰とはしない。実を以って躰とし、偽りを
権に用いる。
戦争では虚実の変がある。これを判断できなければ、いざという時、必ず失う物が多くなる。」

この言葉に、一座伺候の者達は皆感心した。

(伊逹秘鑑)



279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/05(土) 09:59:03.17 ID:6uru3vLx
俺が氏郷ならDQNをぶっ殺してラスボスには、こいつが黒幕でした
って事後報告するわ

DQN殺して、咎められるとは到底思えん

280 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/03/05(土) 10:31:57.42 ID:rfLBdCmG
何、このゲーム脳

281 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/03/05(土) 11:24:16.14 ID:RMpi+8RN
>>278 一行にまとめると「政宗を信用するとか、バカなの?死ぬの?」ってことか。

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/05(土) 11:51:18.60 ID:2PJRhSNT
家康は甲斐で一揆を扇動して、河尻秀隆を殺してるから
大崎葛西で一揆を扇動した政宗の心理も良く分かった事だろう

工場長は優秀なんだけど順風満帆な人生のせいで、悪人に対応する
スキルが不足している気がする

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/05(土) 14:17:51.74 ID:ZeMm1oSb
上手いこと言うね

大久保の六股

2015年03月19日 18:42

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/18(水) 20:28:54.88 ID:ILNG2ltH
大久保の六股

小田原を領した大久保相模守家に、六股と称する名刀がある。
これは大久保忠世が帯びていた備前長義の刀であり、忠世はこれを『老の杖』と名付けていた。

ある時、忠世の屋敷に盗賊3人が忍び入ったことがあった。
これに気がついた忠世は、この長義の刀を抜いて、その3人の高股を斬って落とした。
これにより、六股と呼ばれるようになったのである。

その後この刀は、大久保家において無二の宝として伝えられ、藩士が誓言する際にも、
「長義の御刀もご照覧有れ。偽りは申さず!」
などと言うほどに、神霊ある重器として尊んだという。

(刀剣談)




後の4人は誰だかわからない

2014年02月06日 19:03

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/06(木) 15:01:46.67 ID:8SKyAvCh
幕末の酒井家・出羽庄内藩の藩士が、藩や地方の関連文書を収集して編纂したものから


神祖(家康)が三川(三河)に居られた頃は、配下に侍大将が8人いた。

大久保忠世は家中に集められた人質を管理していた。
酒井忠次は5000の兵を預かり、先陣の大将であった。織田信長から東国33カ国の武功の者と賞賛されたお方である。
大須賀康高はその次、本多忠勝も軍勢を率いる。

後の4人は誰だかわからない。
(大泉叢誌)

他の4人については本当にこれ以上書いてありませんw





292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/06(木) 17:09:03.14 ID:uujho66q
スルーされたのは石川数正と鳥居元忠辺りか?あと誰だろ?

信州伊那郡知久氏の転変

2013年02月09日 19:50

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/09(土) 01:54:48.17 ID:UuXjbRZo
かつて武田信玄に滅ぼされ、信州伊那郡を追われていた知久氏という豪族がいた。
その武田家が滅亡すると、信玄に討たれた知久頼元の子・頼氏は20数年ぶりに
本領を回復し、神之峰城主となっていた。
本能寺の変後は徳川家康に従い、家康の命に従って軍事行動を起こしながら、
回復した所領の仕置に取り掛かるなど頼氏は活発な活動を展開する。
その甲斐あってか、天正11年6月には、かつて武田信玄に焼き討ちされていた
文永寺を再建した功績により、従五位下に叙されるなど、領内は不安定ながらも
知久氏は再興に向けて、少しずつ歩みを進めていた・・・かに思われた。

が、翌天正12年の11月、突然頼氏は徳川家康のいる浜松へ呼び出され、自害を
命じられた。詳細な資料は残っていないものの、一説には、木曾義昌に同調して
羽柴秀吉に通じたという嫌疑をかけられたからだとも言われている。

頼氏の没落と前後して、伊那郡には奥三河の菅沼小大膳定利が入部し、知久氏の
家臣団および頼氏の遺児・万亀は定利の支配下に組み込まれ、知久氏は自立した
国衆としての地位を失うこととなった。
ところが定利は知久衆や万亀に対し尊大に接し、傍若無人な振る舞いをしたと伝えられ、
それに憤り「この恨みいつか晴らしてくれん」とつぶやいた知久氏の家老・知久右馬介は、
後日茶会に招かれた際に謀殺されてしまった。

この事態に身の危険を感じた頼氏の妻は万亀とともに遠州へ逃れ、大久保忠世を頼って
菅沼定利の非道ぶりを家康に訴えたが、結局定利の行動は不問に付され、彼はその後
飯田城、関東転封後は上州吉井2万石の大名に取り立てられてた。

本能寺の変後、甲信へ勢力を広げる中で、しばしば家康の三河衆と現地の豪族との間で
軋轢が生じていたようで、この菅沼定利以外にも、家康から二年という期限つきながら
信濃の統括を任された酒井忠次は「家康公は信濃を私に下されたのだ」と公言してはばからず、
家康からの委任を受けたことを背景に、諏訪頼忠に対し高圧的な態度をとり、結果として
頼忠の離反を招いている。

ちなみに、知久氏のその後に触れておくと、万亀は大久保忠世の庇護の下にあったが、
後に忠世のとりなしで家康の小姓に取り立てられた。万亀は後に知久則直と名乗り、
関ヶ原の合戦後に信州伊那郡の旧領阿島に3千石を与えられ、旗本として復活を遂げた。
定利に謀殺された右馬介の遺児もまた、則直に仕えたと伝えられている。





上田表からの撤退

2013年02月07日 19:52

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/07(木) 02:09:33.53 ID:66hdrzrX
第一次上田合戦に徳川方は討ち負けていたので遠州へ軍使を送って加勢を願った。
これを聞いた家康公は「早く軍を引き取らせよ」と命令を下した。
けれど上田の城兵が食いついて戦を仕掛けるので、軍を引き揚げることが出来ないでいた。
そこで家康公は、井伊直政松平康重の両名を遣わした。
2人は五千人の軍勢を率いて、天正13年9月13日に上田表に着陣した。
先手の恥辱を晴らそうと思ったのか、二十日余り対陣して度々軍を仕掛けたが
城中からは一人も出てこず取り合わなかった。
そこへ真田昌幸の越後へ加勢を依頼したことと、武田勝頼の舎弟である龍峯という住職を取り立てて
一揆を起こそうと謀っていることを忍びの者から聞いた井伊直政は言った。

「越後から加勢を出すほどなら大軍であろう。
そして一揆が所々で起こるとなると、昌幸は思慮深い大将なので、いかなる謀をしておくかも測り難い。
味方の軍勢は遠く路を隔てているし、その上負け軍にて気疲れもしているし戦ったところで利もないだろう。
家康公からの命令は我々二人に人数を引き揚げて帰るようにとの仰せだ。
このまま戦を企て人数を討たせるなど詮もないことだ」

諸大将に談じ、これを受けた大久保忠世が言った。

「それならば押さえの兵として、我が弟の忠教をこの国に残しておくのが良いであろう」

兄から命じられた忠教は言った。

「某は所領に望みがあって残るのではない。主君の為とあれば兄の命令に従ってここに残りましょうぞ」

忠世は大いに喜んで井伊と松平に告げた。
小諸の城に大久保忠教を入れ置き、申し渡した。

「信州の先鋒衆の諏訪・保科・知久・遠山・下条・大草の面々は居城・居館に籠り大久保平助の催促に従うように」

そして11月、徳川勢はことごとく陣払いし上田表から引き取った。
それに際して段々に備えを立て、井伊直政松平康重の両人が殿としてはるか後ろから引き退いた。
城中から追ってくる相手と一戦する為であった。
これを見て、真田昌幸の家臣が言った。

「徳川勢力は既に人数を引き揚げているが、井伊と松平は僅か四、五百騎の軍勢で先手に離れて引き退いています。
これを食い止めるならば討ちとどめることが出来ましょう」

昌幸はこれを制して言った。

「以前に寄せ手の大久保が軍兵を引き揚げようとしたことが何度かあったが、
我が軍に食い止められて軍を帰すことが出来なかった。
今回はいまだ若年の井伊と松平周防守が来て軍を仕掛けている。
その軍立てを見ると以前の寄せ手などとは大いに違う。
その上、井伊が近藤登之助をはじめ遠州で名のある者や武田より降った者が多くきており
また、井伊も松平周防守も若年でありながら名高い剛の侍である。
今日の退き口の立て方を見ても尋常の者ではない。
彼らを少勢だからと軽はずみに打ち出たらこちらが不覚の負けを取るに違いないわ。
決してこれを追ってはならぬ」

はたして、井伊と松平の両人はやすやすと軍勢を引き揚げ遠州へと帰って行った。

『信州上田軍記』




324 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/02/07(木) 04:55:30.77 ID:OiFpSEIs
上田表

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/07(木) 09:48:01.53 ID:fyvbU8hm
ものは言い様、というか書き様だな

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/08(金) 07:36:28.76 ID:7F6/yvtr
>>323
真田パパは松平周防守を父親の方と勘違いしてないか?


永禄7年(1564)正月13日、法師、やっちまう

2011年08月27日 22:39

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/27(土) 17:48:30.58 ID:1ki89kUV
三河一向一揆の最中のこと。

永禄7年(1564)正月13日の早朝、上和田にあった家康方の大久保党は、その前日、
11,12日と一揆勢に押し寄せられたことに怒り、今度はこっちから押し寄せようと井内村まで下り
一揆の根拠地の一つ、針先の寺の近い浦地まで押し寄せると、一揆勢も同じようにそこまで
進出、双方鉄砲の打ち合いとなった。

この時大久保勢の大久保七郎右衛門忠世と一揆勢の本田彌三郎は正面で対峙し、互いに互いを鉄砲で狙う。
同時に発射!
と、彌三郎の弾は外れ、忠世の撃った弾は彌三郎の股をかすり、本田彌三郎、その場にうち倒れた。
が、浅手であったため味方に助け起こされ針崎の城内に引き入った。

こういった所に、針崎に籠っていた浄妙寺という一向宗の僧、これを見て進み出て、
重藤弓(全長170~180cmの世界最大級の長弓)を持ち、三河での説法で鍛えた声で

「しゃらくさく堀を越えて戦に来たお前たちに、我らが大軍の武者をこれ以上手負わせてなるものか!
私が相手をしてやる!」

と、片肌も脱がずに弓を引こうとした。

この姿がどうにも似合わず可笑しいもので、寄せ手の者たちこれを見て

「弓を射る作法も知らないとは、いらざる法師の腕立てかな!」

と声をかけるとこの浄妙寺

「法師だからといって、弓を射る作法を知らないということがあるか!」

と片肌脱ぎにした。『右肩』を。

はい。弓を射る時脱ぐのは左肩であるのが常識です。浄妙寺さん、やっちまったわけです。
これには敵だけでなく味方も、戦の手を止め声を上げてどっと笑ったそうである。

三河一向一揆の中の、ちょっと可笑しなエピソード
(三州一向宗乱記)




566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/27(土) 19:38:16.34 ID:xtbQWOIP
はずかしいw
後で思い出して悶絶しそう

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/27(土) 19:58:51.64 ID:GrrDZcSN
やっちまったな坊主!w

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/27(土) 20:36:33.21 ID:QfdOZ6Cm
>重藤弓(全長170~180cmの世界最大級の長弓)

いやもっと長いよ、普通でも2メートル以上はあるはず。

この重藤弓というのは本来武将が持つような格式の高い弓のはずなんだが、
それを射方も知らない坊主が持ち出してきたところにおかしみがある。

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/27(土) 20:38:47.56 ID:/uyGzAn+
ここまだ笑われていざ射てみればものすごい威力と精度とかだったら伝説だったなw

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/27(土) 20:46:28.09 ID:eXZh1iW2
あれ相応の技術を要求されるから、それやったら天才どころの騒ぎじゃねぇよw

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/27(土) 21:16:05.87 ID:6pTFi6De
天地を喰らうの張飛並みだったら面白かったんだけどね

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/28(日) 03:19:31.67 ID:LqePyUMB
なんかもう太陽でも射れそうな弓だな

三河者たち、緊急の大ピンチで

2011年03月26日 00:00

503 名前:1/2[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 22:52:31.85 ID:bmRiC4wc
さあみんな、めんどくさい三河者劇場が始まるよー!

天正10年(1582)8月、いわゆる天正壬午の乱の真っ最中である。
信濃乙事(おっこと)には徳川軍甲斐・信州入りの先鋒と言うべき七手衆、酒井忠次大久保忠世岡部正綱
石川康道大須賀康高本多広隆・康重親子、そして穴山衆が軍を集結させていた。
いずれ劣らぬ歴戦の勇者、徳川軍の誇る戦争のベテランたちであった。

と、その夜、徳川方の信州国人、依田信蕃より知らせが入る

「北条氏直の軍4万3千が、この乙事から1里(4キロ)しか離れていない柏原に集結しています!」

驚いた七手衆から大久保忠世は偵察を出すと、たしかに北条軍の存在を確認、しかも乙事に向かって
進軍している。明朝にはここに押し寄せるであろう。対して七手衆はわずか3千!しかも乙事は
防備に向いた地形ではない

「直ぐに徳川勢力圏である甲斐に撤退するしか無い!」

誰もがそう思った。が、この三河者共が先ず始めたのは喧嘩であった
大久保忠世が吠える!

「左衛門尉(酒井忠次)のジジイ!あんたが諏訪頼忠をちゃんと味方に出来ないからこの有様になったんじゃ!」

諏訪頼忠の抱き込みに失敗した酒井忠次を罵った!これに忠次も

「なんだと新十郎(忠世)!?お前も北条軍の接近に気づかなかったくせに!」
「ジジイが信濃任されて張り切り過ぎて、信濃は俺が支配するとかいい気な事言ってるから信濃国人を
離反させ、そのせいで情報が入らなかったんだろうが!」

売り言葉に買い言葉。七手衆のトップ格である酒井大久保、頭に血がのぼり口論をヒートアップさせる。しかし

他の人々「あ、あの、それは後でいいのでそろそろ撤退しませんか?」

ごもっとも。罵り合っている間にも北条軍は近づいてくるのである。喧嘩している場合では全くもってないのである。
そこで酒井忠次

「お主達先に撤退せよ!わしは全員が撤退するまで、ここに残る!」

そうは言っても責任を感じていた忠次は、皆を逃がすため自分がここに最後まで踏みとどまる!と言ったのだ。
老武者(55歳)の感動的な決意ではないか。が、残念ながら三河者はそんな事に感動するほど、甘くない

504 名前:2/2[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 22:54:39.44 ID:bmRiC4wc
大久保「なんだとジジイ!まさかそれで今回の責任チャラにする気か!?そんな事絶対にさせんぞ!
     先ずジジイから撤退しろ!」
酒井「なんだとこのクソガキ(50歳)!わしが殿軍するって言ってるんだから素直に先に撤退しろと言っておるのだ!」
大久保「馬鹿言うな、ジジイこそ先に撤退しろ!あんたが撤退するまで俺は絶対に撤退しないからな!」
酒井「ンだとこいつめ!わしだってお前が撤退するまで撤退などするものか!」

バトル再燃。もう子供の喧嘩レベルの意地の張りあいで収拾のつかない状況である。そうしているうち

偵察「あの~、北条軍の先鋒が沢を越えて、もう目と鼻の先に来ちゃいました」

岡部・石川・大須賀・本多親子・穴山衆「お前らいいかげんにしろ!!」

さすがにこれ以上はまずいと二人は無理やり引き離され、酒井忠次はいろんな意味で責任を取らされ
彼の部隊が最初に撤退することになった。
しかし忠次、これに腹の虫が収まらない

「なんと不名誉な。なんでわしが最初に撤退せねばならんのだ…。そうだ!おい、撤退するときわしの陣に火をかけろ!」
部下「え?そう言うのは全員の撤退が終わってからやるものでは…?」
酒井「いいからやれ!」

と、自分の撤退と同時に陣屋に火をかけた。夜である。その火は接近中の北条方からもバッチリ見える

北条方A「ややっ!徳川の陣屋の方から火の手が上がったぞ!」
北条方B「さては我々に気づいて撤退したか!急ぎ追うぞ!」

北条軍、火の手を目印に殺到し始めた!

酒井「やあみんな、北条軍が急接近してるみたいだよ?君たちも早く撤退してね。じゃ!」
と、酒井忠次さっそうと駆け去る。これには大久保忠世はじめ一同「あのキ○ガイジジイ!後で絶対殺す!」と
怒り心頭だが、とにかく他の者達も大急ぎで撤退を始めた。
この時の撤退は、殿が岡部正綱、二の手に穴山衆、三の手に大久保忠世、四の手に本多広隆・康重親子、
五の手に石川康道、六の手に大須賀康高、最後七の手が酒井忠次という陣容であった。


…で、何が恐ろしいってこの戦場生まれ戦場育ちのベテランウォーマシンどもはこの撤退で、大喧嘩した
酒井大久保も含めて、北条軍が攻勢に出れば各自連携してこれを防ぎ、北条軍が一旦下がれば各自に
威嚇を行い、あたかも一個の有機生命体のように、予めの打ち合わせがなくとも連動して行動し、
なんと、遂に甲斐までほぼ無傷での撤退に成功したのである!(史実)
あんな喧嘩してたのに!グダグダで滅茶苦茶な撤退開始だったのに!

三河者、緊急の大ピンチで通常営業の巻。




505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 23:03:59.76 ID:w5Q318qD
梅雪が死んだあとの穴山衆って徳川直参扱いだったの?

しかし、真田さんとこはよくこんな奴ら相手に勝てるなー。

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 23:07:15.83 ID:10g3/AbD
平山優の「天正壬午の乱」から引用したのか。
あの本『三河物語』を史実として扱ってるからなぁ。

史料的価値が高いとされる『家忠日記』では、諏訪撤退のくだりは
普通に軍を引いたようにしか書いてないけどね。
『三河物語』では三河衆が切った張ったの大活躍して北条を振り回して撤退したように書いてあるけどさ。

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 23:14:20.86 ID:f5x4eJ3r
なんか読んだことがあるようなないような・・・

三河一向一揆、大久保忠世と本多九郎三郎

2011年01月22日 00:00

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/21(金) 00:31:34 ID:K9+ECi2O
三河一向一揆での話である。
永祿6年(1563)11月25日、土呂と針崎の一揆勢は上和田へと押し出した。
これに岡崎の徳川家康は自ら出陣、両軍は激突したが、しばらくして一揆勢は敗勢となり
妙国寺の方面への逃げ出した。

これは一揆勢の罠であった。

彼らはわざと逃げ出し追い来た徳川勢を、針崎の森に置いた伏兵をもって討つ、
という作戦であったのだ。いわゆる捨て奸(すてがまり)である。

さて、この撤退する一揆軍の殿を務めていたのが、本多九郎三郎という侍であった。
これを徳川軍の大久保忠世が見つける。忠世と本多九郎三郎は、古くからの友人であった。
忠世、本多を追いかける。本多も忠世の姿を認めると引き返し、「勝負!」
互いに打ち戦った。しかし勝負がつかず

「寄れや!組もう!」
「心得た!」

互いに武器を投げ捨て、組み合いを始めた。
上に下にと揉み合っていたが、本多のほうが力優っていたか、忠世はついに組み伏せられた。
大久保忠世、絶体絶命!…と、忠世、本多に向かってこう言い放った

「いかに本多殿!忠義に背き、一揆に与するのみならず、昨日や今日までの朋友の
よしみを忘れ、私の首をとって、一体誰の見参に入れようというのか!?」

本多九郎三郎、これを聞くと

「確かになあ…。お前のような友人を討ち取っても、感状を得るような事ではないのだ…。」

と忠世を引き起こした。すると二人、

「くくく…」
「あっはっはっはっは!」

互いに大いにうち笑い、そしてまた、左右に別れた。


ちなみに一揆勢の捨て奸だが、家康がいち早く、一揆勢の逃げ方がおかしいと気づき
「追い打ち無用!深入りするべからず!」
と命令を出したためその計略も虚しくなり、妙国寺から土呂、針崎へと引き上げたそうである。
そんな、三河一向一揆でのヒトコマ。




330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/21(金) 00:42:33 ID:xMtPNWWs
三河一向一揆が腰砕けになったのって、三河武士は一向門徒である以前に三河武士であったという
ただそれだけの理由だよな

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/21(金) 00:43:37 ID:89GZHsF0
三川武士は一向宗以上にめんどくさい戒律があるからな

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/21(金) 00:55:17 ID:snAnfnoR
大久保なんて名前を見ただけで面(ry

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/21(金) 03:23:17 ID:8lGyJpFP
確かに大久保一族は皆三河武士濃度高いよな

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/22(土) 12:23:55 ID:8bWr5mnx
一向一揆に参加した本多衆は、大久保忠世の仲介で徳川家に復帰するんだよね
もちろん正信さんもこの中に入ってる
このときは仲良かったんだけどなあ

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/22(土) 13:38:53 ID:JHn6gVjb
現代社会と同じだね
会社が小さい頃は力が弱いから生き残るために社員が一丸となって頑張るけど、
会社が大きくなって余裕が出てくると社員が増えたり派閥が出来たりして軋轢が生じ始める

『徳川実記』より信康切腹を巡る諸々

2010年12月15日 00:02

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/14(火) 01:01:00 ID:SqtyEf0o

長篠合戦の大敗後、武田勝頼の打った起死回生の一手は徳川家の取り込みであった。
その成否は判らないが、武田への内通を疑われて家康の正室と嫡子が殺された事だ
けは確かである。

家康に正室の築山殿を斬るよう命令を受け、それを遂行した野中重政は、浜松に帰
還し、主君に報告を挙げた。
しかし家康から帰ってきた言葉は、
「……謀反とは言え、女の事だぞ。どうにでもやりようはあったろうに。馬鹿正直
に命令通り殺してしまったのか?」
その言葉を聞いた野中は、家康の本心を知り、その心を汲めなかった自分を恥じ、
自ら蟄居したと言う。


また、嫡子・信康の身柄が大久保忠世に預けられた時、守役の平岩親吉が家康の元
に出頭し、
「若君の悪評は全て中傷に過ぎません。例え本当の事であったとしても、それは守
役の自分に全ての責任があるのです。私の首を刎ねて織田様に差し出せばそれで良
いではないですか!」
と抗議した。
家康はそれに答えて
「信康の謀反など、私だって本気で信じてはいないさ。でも、徳川家は織田の援助
無しにはやって行けない。お前の首で信長殿が納得するなら、お前の言葉に従うの
も良いだろう。だが、信長殿が納得するには信康の首が必要なのだ。それが判って
いるのに、信康に加えてお前と言う忠臣の首を斬ってしまうのは私に取って何より
の恥なのだよ」
と、涙を流して平岩を説得した。
平岩も言葉もなく、号泣しながら退出せざるを得なかったと言う。

信康の死後、家康主従が幸若舞を見る機会があった。
源満仲が我が子を討つよう家臣に命じた際、その家臣は自らの子を殺し、主君の子
の身代わりとした、という演目であった。
幸若舞を見ながら、家康は大久保忠世に一言だけ声を掛けた。
「……忠世、お前はこの舞を良く見ておくが良い」


『徳川実記』より信康切腹を巡る諸々。
「お前も子供は可愛いか」が有名だけど、忠世も言われてたんだねぇ。




35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/14(火) 01:30:19 ID:OdMzCbUJ
>>33
忠輝「なるほど、子を嫌う親はいないということですね」
秀康「生まれた時から手元に置いて大切に養育するよね、普通」

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/14(火) 01:39:29 ID:S1SBfOqb
>>35
ちゃちゃ入れるのもあれだがあんたら相当大事にされてるぞ。
特に秀康は家康が本当に父親かどうか相当怪しいというのに。

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/14(火) 01:46:41 ID:o3i2IefM
ラスボス「茶々に入れただと!鋸挽きの刑に処すべきか、磔刑に処すべきか」

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/14(火) 01:53:58 ID:R/MXzwvL
下ネタ自重w