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あの兄弟の働きは良き膏薬

2018年10月31日 19:10

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/31(水) 03:54:41.31 ID:CQKUgdKl
(長篠の戦いの時)

5月21日、武田四郎勝頼は夜中より軍勢を追々繰り出した。また曙に備を立てて一備ごとに分かれて攻め
掛かる様子なので、織田・徳川両将はかねて仰せ合わされたように「軍勢は柵外に出てはならない」と堅く

制し、鉄砲3千挺ずつ用意して待ち設けた。信長卿は「今日敵を練雲雀の如くせんものぞ!」と仰せになる。
その頃、徳川御陣では大久保治右衛門(忠佐)が兄・七郎右衛門(忠世)に向かい「今日の戦で当手は本主、

織田勢は加勢である。万一織田衆に戦を始められてはこれ以上の恥辱はありません! 某が進んで足軽戦を
始め候べし! 鉄砲の歩卒を添えてください!」と言うのを、神君(徳川家康)は聞かれ「もっともである」

との仰せにより柴田七九郎康忠・森川金右衛門氏俊・江原孫三郎利金・日下部兵右衛門定好・成瀬吉右衛門
正一らの属兵を大久保兄弟に差し添えて先頭に進められた。成瀬は徳川の御家来であったが、

一度子細あって甲斐へ立ち越し、この年頃武田家に仕えたが、今回御内意あって帰参した。それゆえ武田家
の侍大将どもの旗指物をよく覚えているからと先手に加えられたという。

(中略。大久保兄弟は先陣を切って山県昌景勢と戦い活躍)

今日の大久保忠世・忠佐兄弟の戦場での働きを信長卿は御覧になって、「徳川家の中で金の揚羽蝶と浅黄に
黒餅の指物をしているのは、何と申す男か」と問われ、神君は大久保兄弟と御答えし、信長卿は「徳川殿は
良き人を御持ちだ。あの兄弟の働きは良き膏薬のようだ。敵に付いて離れない」と仰せられた。

(中略)

かれこれする間に神君は岐阜におられた。信長卿は今回の加勢を感謝されて神君を厚く饗応なさり、御供の
人々へも若干の被け物を賜われたが、信長卿は「長篠で見た髭は来ているか」と問われた。その時、大久保

治右衛門が進み出て「兄の七郎右衛門は供に参ってはおりません」と申せば、信長卿は「汝の兄弟は今回の
功抜群なり」と仰り、御自身の手で衣服を取って授けられた。大久保は大いに面目を施され、神君も殊更に
喜びなさって浜松へと帰られた。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談・三河物語・
   神君御年譜)』

417 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/10/31(水) 06:53:32.42 ID:zbk28BfY
流石は大久保、真田に付いて離れない。

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/31(水) 14:02:12.81 ID:hpbAKV9H
>>416
>金の揚羽蝶と浅黄に黒餅
どういう組み合わせだw

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/31(水) 17:03:16.97 ID:VrOWLq6S
こう、殿様が家臣などを褒めて色んなものを賜るというのがお話でよく出てくるけど
頂いた衣服や刀などなどって飾っておくもの?
馬とかの場合飾る訳にもいかないだろうから、乗ったり使うのが普通なのかな。

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/31(水) 19:07:11.87 ID:Df67X3vF
>>418
黒餅ってお餅じゃなくこういう黒の円の事だぞw
https://i.imgur.com/zAouSP3.jpg
zAouSP3.jpg

426 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/11/01(木) 10:30:04.24 ID:kmp/q02H
黒丸って言えばいいのに黒餅に見えたなんてよっぽどお腹空いていたんだな
もしかしたら本当に餅をぶら下げていたかもしれん
返り血を浴びて黒くなっていったんだろうな

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 11:33:31.48 ID:KZhZzpkc
菓子好きだから、そっちでイメージが浮かぶんじゃないの

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 19:25:38.00 ID:VVf5sW8r
>>426
黒丸だと黒で描かれた円(蛇の目)とも取られそうだし、便宜的に餅と呼称したのでは?

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 19:31:04.15 ID:6GoIIEmA
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤堂高虎#/media/File:Site_of_T%C5%8Dd%C5%8D_Takatora_and_Ky%C5%8Dgoku_Takatomo%27s_Positions.jpg
藤堂高虎の旗印(一番右)も「三つ餅」と言われてるな
Site_of_Tōdō_Takatora_and_Kyōgoku_Takatomos_Positions

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 19:46:51.86 ID:KZhZzpkc
高虎のは餅の逸話からきてるんじゃないの?

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 23:36:57.17 ID:eJY+p62H
>>436
多分逆。旗印が三つ餅だったから出世の白餅の話が作られた。

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 08:56:26.72 ID:PhpvOcLA
もしそうなら参勤交代の時に立ち寄る風習ができた吉田の餅屋はマル得だな
あと初期の高虎の逸話を見ると食い逃げが本当でも驚かない

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あれこそ山県である

2018年10月26日 17:22

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 13:28:58.92 ID:gqs82Hyy
(長篠の戦いの時)

大久保兄弟(忠世・忠佐)はこの輩(成瀬正一ら)と一同に柵より外に進み出て、武田の先手・侍大将の
山県三郎兵衛昌景の備に向かい鉄砲を撃ち掛ける。山県も始めの頃は軽卒を出し足軽迫り合いをしていた

が、次第に欺き引かれて堪えかね「あの柵を尽く押し破って進め!」と3千の赤備が一同に押し掛かった。
大久保兄弟は命じて思うままに山県勢を引き寄せ、3百余挺の鉄砲を隙間なく撃たせれば、先頭に進んだ

山県勢は散々に撃ち立てられた。その時、大久保兄弟・渡辺半十郎政綱・同弥之助・光池水之助らは山県
の属兵の広瀬郷右衛門昌房・小菅五郎兵衛元成・三科伝右衛門形幸といった名を知られた者どもと挑み

戦う。広瀬・小菅・三科も言葉を掛けて姓名を名乗り、馬上で突き戦8,9度に及び手負いて引き退けば
半十郎や水之助らは高名をなした。山県はそれには目もくれず3千余騎を手に付けて筋違いに織田勢・

佐久間右衛門信盛の柵を駆け破らんと押し掛かる。そこで信長卿は命じられて柵中より鉄砲を激しく撃ち
立てれば、山県勢はここに人塚を作る程に撃ち殺されたので、山県も堪えかねて引き退いた。

(中略。武田勢は鉄砲に苦戦するも、馬場信房・内藤昌豊が佐久間信盛・滝川一益を柵内に追い、信長は
柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉に命じて横から武田勢を攻撃させ、内藤がこれを迎撃する)

この時、山県は小山田・甘利らとともに撃ち残された勢を立て直して、柴田・丹羽・木下の勢を横合から
まっしぐらに打って掛かれば、柴田・丹羽・木下の人数は散々に突き立てられて敗走した。山県はこれを

追い打ちするかと見えたが、そうはせずにたちまち備を立て直して、徳川家の御本陣に打って掛かった。
御陣からは鉄砲を激しく撃ち立てれば、山県勢はまた撃ち殺される者若干なり。山県は白糸威の具足に

金の大鍬形を打った兜を身に着け、味方が討たれるのをものともせず、なおなお馬を進めたところ、本多
平八郎(忠勝)が「あれこそ山県である!」と命ずれば、筒先は山県に向かって放たれた。その弾が

飛んで来て山県の緩い糸の間から当たったため、山県は持っている采配を口に咥えて両手で鞍の前輪を
抑えてしばらく堪えていたのだが、ついにたまらず馬から真っ逆様に落ちた。味方がその首を取らんと
駆け集まるのを山県の従兵・志村又右衛門が敵に首を渡すまじと駆け寄り、その首を切って引き返した。

(原注:山県を撃ったのは大坂新助という者であると『勇士一言集』に見える)

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』



368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 20:06:25.04 ID:8I+DB0d/
>>365
敵に首を渡したくないから切腹した後に…ってのは解るが、戦場で戦闘の真っ最中にもやるのか(困惑

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/27(土) 00:18:52.69 ID:5EgtKHTm
>>368
討ち死にした大将の首を敵に渡せば敵の手柄となり、士気を挙げる材料とされる。
+ 首だけでも持って帰って供養しなければならない。

戦国時代どころか、戊辰戦争までやってた、当然のこと。

首争論

2014年12月10日 18:46

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/09(火) 22:31:54.60 ID:uKneZsTT
武田信玄の病状悪化・死去により武田の西上作戦が取り止めになり勝頼が相続するゴタゴタの間、徳川家康は天正4年七月十九日、長篠城を攻め落とした。
この徳川方の逆侵攻に勝頼は穴山梅雪を後詰として遠江に進行させた。
これを徳川軍は迎え撃ち、これまで一方的にやられっぱなしだった武田軍にとうとう勝利、
喜び沸き立つ徳川方の陣営のなかで起こった一幕を三河物語から

榊原小平太(康政)の同心に上方の牢人がいた。大久保治右衛門尉(忠佐)が手柄を立てて首を引っさげて帰ってくるところ、
その牢人が来て、仲間七八人に後ろから押さえさせ、治右衛門尉の首を奪っていった。治右衛門は汗を握り腹が立ったが、首を取り返すことはかなわず帰っていった。
そのとき、榊原小平太がその牢人を召し連れて御前へ出たのを戸田之三郎右衛門尉(忠次)が見て急いで治右衛門尉のところに行った。

「治右衛門尉は知らないのか。あいつは只今、榊原小平太が召し連れて御前へ出て行ったぞ。」
「かたじけない。よくぞ聞かせてくれた。」

治右衛門尉は彼の者が帰らないうちにと、御前へと急ぎ、三郎右衛門も「我も味方するぞ。」と着いていった。
二人して御前に着いて治右衛門尉は

「あの人が差し上げたという首級は、皆見たであろうように、我が打ちとって引っさげて帰ってくるところを、七八人がやって来てひったくったものです。
我らにかぎらず、久しい譜代衆は各々、知行を頂けなくても、譜代の主なので、自分も他人も女子を顧みず、一命を捨てて戦働きをしてきましたが、
あのようなものは過分の知行を与えられ配下を多く持っているので、いつもあのように働きましょうが、
小身の我らのような者は、いくら働いてもご奉公にはならぬことがあるでしょう。
しかしながら、彼等は待遇が良ければ御家にとどまりますが、悪ければ出ていきます。譜代衆は、良くても悪くても御家の犬なので出て行かないのというのに、
彼のしてもいない手柄を認められる事は、一段と迷惑であります。」

と発言した.これに榊原小平太が

「治右は謂れのない事を仰せられている。我らの同心の手柄は歴然としているのに。納得がいかぬ。」

と言えば、治右衛門尉は反論した。

「どちらが正しいかどうか、あなたがどうして分かるのだろうか。その場に来ていないのに、いらざることをおっしゃりなさる。
見ぬ京物語はせざる物です、どれだけ同心を連れていようとも、無かったことをあったことにはなるまい。」

そのとき、家康が命令した。
「治右衛門尉、余計な事は言うな。我家ではお前の武辺を避難するものはいないだろうに。我の存分まかせてておけ。」

治右衛門尉はかしこまって御前を退出した。件の牢人は、その場にいられなくなりどこへでもなく行方をくらました。



329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/10(水) 07:06:07.32 ID:0UZMtryH
> 人参失敗した

人生失敗した、に見えたw

徳川家康「将の志」

2014年04月11日 18:53

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/10(木) 21:29:49.12 ID:hW/qo2HE
まとめブログのコメント欄で権現様が泣いていたので、悪い話スレ>>921の後の話を。


家康公は忠佐が騒ぐのをお聞きになったが、何も仰らずに城内に入った。

その夜、大勢の家臣たちが家康公の御前に参り、今日の一言坂の合戦の話を申し上げていたが、
家康公が仰るには、

「今日、大久保、内藤、本多等がこの上なく苦戦していたため、儂は武田軍と戦わずに軍を引いた。
忠佐は、儂が合戦をせずに引き上げたことを情けなく思って悪口を言っていたな。

しかし、忠佐の申し分には一応は理があるように思えるが、大将の志には背いている。
大将たる者は死生をよく知り、戦うときは戦い、退くときは退くもので、これを良将というのだ。

士卒が戦場に残って主君の危機を救い、その場から落ちのびさせる事は古今珍しくない。
頼朝公が石橋山の合戦に負けた時、佐々木兄弟の4人が留まって敵を防ぎ、頼朝公を逃がした。
また、義経公が吉野山にて大勢の敵に追われた時、佐藤忠信がただ一人留まって敵を防ぎ、
義経公の命を救った。これらは全て、戦ってはいけない時を知り、
逃げて最後には勝利しようと思うがためなのだ。

もし忠佐がこのような類の話をも臆して逃げたというのなら、それは忠佐が自分の勇を誇って、
生地死地もわからずに儂を誹る匹夫の勇を持ち、将の志を察せられないためなのだ。

本多忠勝は、一言坂が戦うのに不利な地形であるのを察して、儂を諌めて引き返させた。
これはよく死生の地をわきまえている。つまり、儂は忠勝の武勇を賞したのではない。
奴が将の志を持っていると感じたために、我が家の良将であると賞したのだ。
敵を多く討って名を高めるのを良将というならば、渡辺半蔵や渥美源吾郎等は全員良将と呼ぶべきだな。」

御前の家臣たちは家康公の言葉に承伏した。
大久保忠佐は後でこの話を聞いて、本当に儂は大きな間違いをしてしまった、と後悔していたと聞く。



というわけで悪い話スレ>>921の後半と合わせて、「家康脱糞騒ぎ」の元の形となります。
要はこれは、一言坂が自軍に不利な地形であると判断したためにすぐに退却してきた家康と、
それを、武田軍が怖いから戦わずに逃げてきたと思った忠佐の話だったんでしょうね。


745 名前:739[sage] 投稿日:2014/04/11(金) 15:36:18.34 ID:Gnyuzyvu
>>739をちょっと訂正

原文では「本多忠勝は戦ふに利あるまじき地形を察して」となっているところを
分かりやすくなるだろうと思って「一言坂が」と付け加えましたが、三河後風土記をちゃんと読んでみると
文中でいう「利あるまじき地形」は一言坂の事ではなくその前に家康が布陣した三加野という場所の事でした。
申し訳ありません。

三加野から浜松に引き上げる途中にあったのが一言坂で、ここが徳川軍に有利な地形であったため、
大久保、内藤、本多隊は奮戦し敵をよく防いだ、というのが三河後風土記における一言坂の戦いの様です。


関連
家康の例の話についての雛型?


740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/10(木) 21:39:55.76 ID:hW/qo2HE
つまり、わかりやすくまとめると、

忠佐「なんで殿は武田と戦わずに帰って来たんだよ情けない!しかも撤退を進言した忠勝が『我が家の良将』だと!?
    ははーん、きっと殿は武田が怖くて仕方ないから戦わずに逃げ帰って来たんだな!?このうんこたれ!」

家康「忠佐はああ言っていたが、そもそも引き際を心得るのが大将というものでな(省略」

忠佐「ごめんなさい殿……儂が間違っていました」

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/10(木) 21:41:48.34 ID:1uYCKLZW
つまり家康によれば、忠信=士卒レベル、忠勝=将レベル
忠勝が佐藤忠信の兜を秀吉からもらった時に
「義経の家来の兜などいらん」と言ったのはこの家康の言葉を尊重したためだったり

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/10(木) 21:49:12.64 ID:hW/qo2HE
>>741
いや、多分それは違う
原文ではこの話の直前が有名な忠勝の一言坂殿軍の話だから、
むしろ家康を逃がそうとする忠勝を佐々木兄弟や忠信と重ね合わせて論じているんだと思う

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/10(木) 23:17:44.24 ID:REjmcdSE
権現さまと三河武士団は組織バランスが絶妙だな
大原雪斎から古今の兵法、学問を教わった権現さまと、三河の田舎武士たちの気質がうまく融合してる

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/12(土) 00:00:18.39 ID:z+vqym4m
一言坂は忠勝が単騎で武田軍に突っ込んだけど、
小杉左近に死兵に手出し無用とスルーされた戦いの場所だな

家康の例の話についての雛型?

2014年04月10日 18:53

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/09(水) 19:07:03.52 ID:jGflMwOB
徳川家康にまつわるちょっと悪い話の中でも有名なものに、三方ヶ原敗走時の脱糞の話がある。
概略としては次のようになる。

三方ヶ原で敗走した徳川家康は、山県昌景の軍勢に追い立てられ、
恐怖のあまりに馬上で脱糞をした。
浜松城について馬を下りた所で家臣の大久保忠世に発見され、
からかってくる忠世に対して「これは焼き味噌じゃ!」と返した。

この話は実は出典がわかっていない。
少なくとも三河物語や松平記、徳川実紀や朝野旧聞ホウ藁等には書かれていない話であり、
明治以降の本である日本戦史や徳川家康(山路愛山著)、
徳川家康公伝等にも採録されていない話なのである。
山岡荘八の小説以前には見られないので、あるいは彼の創作かもしれない。

しかし、全くの事実無根の話ではなかった。学者の小楠和正先生がこの逸話について調査しており、
著書「検証・三方ヶ原合戦」で次のように述べている。

>家康の脱糞の話は、NHKの番組担当者からも、その話の出所を調べてほしいと
>頼まれていたのであるが、三方ヶ原合戦のことと思い込んでいたため、
>三方ヶ原合戦についての記述だけを調べていた。そのため、どの史料をみてもなかった。
>ところが、『改正三河後風土記』によると三方ヶ原合戦の前の一言坂の戦いの話とし、
>「是等皆妄説なる故削り去りぬ」とあった。

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/09(水) 19:09:36.56 ID:jGflMwOB
これに従って『改正三河後風土記』の13巻、「遠州一言坂軍の事」を読んでみると、
次のように記述されている。

原書に大久保忠佐神君浜松へ御帰城の時、其御馬の鞍壺に糞があるべきぞ、
糞をたれ逃給ひたりと罵りたるよしをしるす。此日御出馬なければ逃給ふ事あるべきにあらず。
是等皆妄説なる故に削り去りぬ。

(原書(三河後風土記)には、家康公が浜松に帰って来た時に大久保忠佐
「馬の鞍壺に糞があるぞ。殿は糞を漏らして逃げてきなさったのか」と罵った話を記している。
しかし、この日には家康公の御出馬はなかったので、お逃げなさるようなことはなかったはずだ。
これらは全て馬鹿げた話なので、削っておく。)


また原書三河後風土記によると、元の話は次のようになる。

家康公が浜松城に入り馬より下りた時、
大久保忠佐が家康公に聞えるように大声を挙げて、馬の口取りに向かって
「その馬の鞍壺を見てみろ。糞があるぞ!殿は糞を漏らして逃げてきなさったのか!」
と悪口を言った。これは、家康公が本多忠勝の諌めによって一戦もせずに引き上げたのを
情けなく思い、かつ家康公が忠勝を我家の良将であると激賞したことに嫉妬したために、
このような悪口を言ったのである。



ということで、家康の例の話についての雛型?である。
ちなみに原書『三河後風土記』ではこの後に家康が頼朝の例を引いて
忠佐を諭したりする続きがあるが、そこそこ長いため省略。

改正三河後風土記については近代デジタルライブラリーのものを、
原書三河後風土記については、国文学研究資料館の
所蔵和古書・マイクロ/デジタルデータベースにおいて閲覧できるもの(740コマ)
を参考にしたので、原文を読みたい人はそちらからどうぞ。

続き
徳川家康「将の志」


922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/09(水) 23:06:46.41 ID:tCyx1SSq
彦左「誰だよ俺が書いたとか言った奴。」

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/09(水) 23:08:44.10 ID:qM/oaq/L
まああんたの兄だし

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/10(木) 03:02:58.67 ID:1/ALXeMf
嫉妬心から脱糞疑惑をでっち上げるという三河武士の心の闇について

正重よ、そういうことは

2012年10月03日 20:27

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/02(火) 23:14:36.58 ID:rr0ZzEuQ

小牧長久手の戦いの時、水野太郎作正重の隊下の同心が、森長一(長可)を銃で
撃ち落した。敵陣が色めくのを見て正重はただ一騎山の尾崎を下り突入していった。
徳川家康はこの様子を見て馬廻に命じて仕掛けさせ、敵陣を攻め破った。

戦後、家康は「今日の戦は大久保忠佐が先駆けになって大功を立てたな」と
感心した。正重は「これはそれがしと忠佐を見間違ったのだ」と思ったが、
無闇に言い争ったりはしなかった。ところが、重ねて軍功について論じた時、
またも家康が同じことを言うので正重は耐えかねた。

「山を下ったのはそれがしだ。あなたはその時、渡辺弥之助(光)と同じように
控えていたではないか。余人ならばこんな言い争いはしないが、あなたのような
何度も武功を立てた人が、上の見間違いをいいことに人の働きを自分の物に
しようというのか! あなたらしくもないことだ!」

光も「正重の申すことに些かの間違いもありません。それがしも見届けました」
と証言した。家康はつぶさに事情を聞き、「そうか、儂の見間違いだったか。
正重よ、そういうことは心に隠さずともよい」と懇意に諭したので
正重も畏まってその場を離れたという。

――『徳川実紀』




681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/02(火) 23:51:47.72 ID:/kQXZxDD
何か考えがあるのかと思ったら普通に見間違いだったのか

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/03(水) 00:27:39.09 ID:8y/DQByZ
見間違った家康のちょっと悪い話しかと思ったけど
正重も言うように忠佐さんほどの歴戦に武功ある者が
家康の言うことは絶対だからといって黙って手柄にしようとした?のは悪い話だな~w
当の忠佐さんはどう思っていたのか知りたいな