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上田表からの撤退

2013年02月07日 19:52

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/07(木) 02:09:33.53 ID:66hdrzrX
第一次上田合戦に徳川方は討ち負けていたので遠州へ軍使を送って加勢を願った。
これを聞いた家康公は「早く軍を引き取らせよ」と命令を下した。
けれど上田の城兵が食いついて戦を仕掛けるので、軍を引き揚げることが出来ないでいた。
そこで家康公は、井伊直政松平康重の両名を遣わした。
2人は五千人の軍勢を率いて、天正13年9月13日に上田表に着陣した。
先手の恥辱を晴らそうと思ったのか、二十日余り対陣して度々軍を仕掛けたが
城中からは一人も出てこず取り合わなかった。
そこへ真田昌幸の越後へ加勢を依頼したことと、武田勝頼の舎弟である龍峯という住職を取り立てて
一揆を起こそうと謀っていることを忍びの者から聞いた井伊直政は言った。

「越後から加勢を出すほどなら大軍であろう。
そして一揆が所々で起こるとなると、昌幸は思慮深い大将なので、いかなる謀をしておくかも測り難い。
味方の軍勢は遠く路を隔てているし、その上負け軍にて気疲れもしているし戦ったところで利もないだろう。
家康公からの命令は我々二人に人数を引き揚げて帰るようにとの仰せだ。
このまま戦を企て人数を討たせるなど詮もないことだ」

諸大将に談じ、これを受けた大久保忠世が言った。

「それならば押さえの兵として、我が弟の忠教をこの国に残しておくのが良いであろう」

兄から命じられた忠教は言った。

「某は所領に望みがあって残るのではない。主君の為とあれば兄の命令に従ってここに残りましょうぞ」

忠世は大いに喜んで井伊と松平に告げた。
小諸の城に大久保忠教を入れ置き、申し渡した。

「信州の先鋒衆の諏訪・保科・知久・遠山・下条・大草の面々は居城・居館に籠り大久保平助の催促に従うように」

そして11月、徳川勢はことごとく陣払いし上田表から引き取った。
それに際して段々に備えを立て、井伊直政松平康重の両人が殿としてはるか後ろから引き退いた。
城中から追ってくる相手と一戦する為であった。
これを見て、真田昌幸の家臣が言った。

「徳川勢力は既に人数を引き揚げているが、井伊と松平は僅か四、五百騎の軍勢で先手に離れて引き退いています。
これを食い止めるならば討ちとどめることが出来ましょう」

昌幸はこれを制して言った。

「以前に寄せ手の大久保が軍兵を引き揚げようとしたことが何度かあったが、
我が軍に食い止められて軍を帰すことが出来なかった。
今回はいまだ若年の井伊と松平周防守が来て軍を仕掛けている。
その軍立てを見ると以前の寄せ手などとは大いに違う。
その上、井伊が近藤登之助をはじめ遠州で名のある者や武田より降った者が多くきており
また、井伊も松平周防守も若年でありながら名高い剛の侍である。
今日の退き口の立て方を見ても尋常の者ではない。
彼らを少勢だからと軽はずみに打ち出たらこちらが不覚の負けを取るに違いないわ。
決してこれを追ってはならぬ」

はたして、井伊と松平の両人はやすやすと軍勢を引き揚げ遠州へと帰って行った。

『信州上田軍記』




324 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/02/07(木) 04:55:30.77 ID:OiFpSEIs
上田表

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/07(木) 09:48:01.53 ID:fyvbU8hm
ものは言い様、というか書き様だな

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/08(金) 07:36:28.76 ID:7F6/yvtr
>>323
真田パパは松平周防守を父親の方と勘違いしてないか?


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雑談・大久保彦左衛門について

2011年12月02日 22:00

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/02(金) 02:27:42.85 ID:fdNTSDUv
彦左の怨念ってのはさ、自分自身が厚遇されなかったことじゃなく、大久保一族(および三河以来の譜代
の家)に対する幕府の扱いについてのものだよね。
彼自身は八男坊だから、自分が出世して大身になることを夢見てたわけじゃなくて、兄の忠世やその嫡男
忠隣を支える役目で終える覚悟はあったと思うんだけど、それが結局はあんなことになっちゃった。

で、大久保一族って、子沢山の家系でやたら男が多いんだけど、彦左の兄弟とか伯父とか従兄弟とか、
数代にわたって、何人も何人も戦で討死にしまくってるわけで。
彦左的には、「俺のことはともかくとしても、徳川は大久保に足向けて寝られネェだろゴラァ!!」
ってのは、内心あったと思う。

でも、徳川の世になって、江戸幕府が地盤がためにとりかかった頃には、そういう、三河以来の譜代とか、
草創期の功臣の家、徳川家にとってある意味大きな「借り」のあるような家は、もはや煙たいだけだ
ったんだろうね。

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/02(金) 07:08:37.35 ID:sCxjp0wW
>>837
なんにせよ彦左は面倒くささはガチ

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/02(金) 08:56:19.19 ID:QkXd1MyT
幕府:兄貴の跡を継げよ
彦左:オレはそれだけ功がないからNO!
幕府:んじゃ、残念だけど改易するか・・・
彦左:うちの一族、徳川のためにどんだけ死んだと思ってるんだよ!!!!

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/02(金) 09:20:43.00 ID:XT6gJzQm
>>839
まぁそう言うことだよね、考えるだけでもうんざり

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/02(金) 09:58:18.69 ID:C6E4Go89
三河武士は乙女心なみに解析が難しい心をもってますから

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/02(金) 10:16:15.26 ID:FYQ1MMpN
兄貴の跡をつげないって言ったホントの理由があるような気がする
例えば今の禄を返上することになっちゃうからとかさあ

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/02(金) 12:17:02.31 ID:H4x3PSGm
めんどくさくない三河武士なんているんかいw

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/02(金) 13:38:56.54 ID:IatCf/He
>>842
今の録は自分の功で得たもの
それを一度「返上」して自分の功とは関わりのない領地を得たところで とかはありそうだな

なんとなく言いたいことも理屈も分かるっちゃ分かるんだがめんどくさいことこの上ないな

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/02(金) 13:56:18.48 ID:35EWdVZr
彦左が沼津の忠佐の家をつぐのを断わったのって、その時点ではまだ小田原の忠隣の家が大久保の
大黒柱としてしっかり存在していたってのが前提としてあったと思う。
彦左としては、沼津の家は、次兄の忠佐が長兄の忠世の家とは別に己の武功で一代で立てた家、と
いう考えがあったから、弟である自分がそれをただ貰っちゃうことにためらいがあったのではないかと。
自分はささやかな自分の知行を守りつつ、甥(といっても7歳年上)で大久保一党の棟梁である忠隣
を補佐していけばいい、と。
そしたら、翌年に忠隣改易。一気に大久保一族消滅の危機。

彦左「はぁ!?なんじゃそれ、聞いてネェよ!」

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/02(金) 21:00:48.90 ID:7FSBwmBh
>>845
解説ありがとう。彦左普通にいいやつじゃねえか!
彦左をただの老害扱いしてたやつは切腹すべきそうすべき

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/02(金) 21:52:37.59 ID:zJrWxZRl
家を守る、のも一族の重要な責務だけどね
特に弟などは
その意味では彦左は失格だ
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