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昔といっても心がけの無い者は

2021年03月06日 18:55

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/06(土) 16:42:02.44 ID:3DU6FgfK
大久保彦左衛門(忠教)が、堀田加賀守(正盛)殿の元にに見廻りとして行き、様々古今の物語をした。
或いは武道について、或いは三河においての人の武功の事などを語った。

加賀守殿、その時彦左衛門に
「聞き候へ。今、昔のように合戦など有るなら、むしろ昔より現代の方が、心ばせの有る人もいくらも
有るだろう。あまりに昔と言っても、現代と大して変わるところはあるまい。すこし話を盛って
おられるのではないだろうか。」

このように言われ、彦左衛門はすこし気に当てられたのか
「たしかに、左様にこそあるべきです。却って昔より今の人の心のほうが猛々しいとも見えます。
さりながら、現代であっても心がけ次第でしょう。貴殿の親父である勘左衛門(正吉)殿は六十余りまで、
別に御心がけを設けられず、イナゴの首一つ取られたという事も聞きません。されば、昔といっても
心がけの無い者は、十人並みと思し召されよ。」と言った。

加賀守殿気色変わり、その座にあった人々は「彦左はおかしき事を申すものかな。」などと、
なんのかのと言いつつ、挨拶をして座は空いていったという。
誰が云うともなく、この事は語り伝えられた。

彦左殿は後先もなく物を言う人であるそうなので、さもあるのだろう。

備前老人物語



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そう、容赦もなく言うと

2021年03月05日 17:03

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/05(金) 15:44:26.80 ID:7aTXAXEA
江戸城西丸御殿の普請奉行は佐久間将監(実勝)であった。
普請が大方出来た頃、大猷院様(徳川家光)が御覧のために出御あり、将監も御供の中にあった。
そこにどういうわけか、大久保彦左衛門(忠教)が居合い、大猷院様より「普請を見よ」と
仰せ下された。これに彦左衛門「誠に結構なる御普請の次第に候。」と申した後に、将監の方を見て

「蟹は自分の甲羅に似せて穴を掘るという。ここは、その方の家の如くに御殿の普請も申し付けたのか?
勿論、この城にとって必要のない事ではあるのだろうが、合戦のための作法は、少しは有るべきである。

この鴨居などは兜の立物、又は鑓などを張り上げ申すこと成りかねる。また雪隠なども見たが、身一つ
ですら入りかねる。忙しき時は具足を着ながら脇差指し、肱をいからせても入るものである。
それぞれ、確かに有る習いなるぞ。」

そう、容赦もなく言うと、上様はどう思し召されたのか、何の御返事も無くそろそろと奥へ
行ってしまわれたという。

この話を誰が聞き伝えたのだろうか。世の中では、人が語ることを聞き伝えている。

備前老人物語



我が家のことをばかり書き立て子供に譲る

2019年01月30日 10:11

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/30(水) 09:13:39.85 ID:2nKS6+Gm
この書物を、徳川家の御譜代久しき衆がご覧になって。我が家(大久保家)の事ばかりを依怙に
書いたと思われるかもしれないが、そうではない。これを書き置いたのは人に見せるためではなく、
私(大久保忠教)は最早七十にも及び、今日明日にもどうなるかわからない。故に、今にもむなしく
なってしまえば、我家が仕える御主様(徳川家)が、どれほど久しい御主様なのか解らなくなる。
これは我が家が徳川家を御主様と仰ぎ奉ってから、当代の将軍様まで、九代に渡って御主様であることを、
我が倅に知らせるためであり、又、我々に至るまでの大久保家の辛労を知らせるために書き置いたのだ。

門外不出と申し置いているので、誰もご覧になることは無いと思うが、もし、たまたま落としてしまい、
ご覧になってしまったとしても、依怙に我が家の事ばかり書いたと仰せに成られるな。御譜代久しき衆は、
何れも自分の家々の御忠節の筋目、御譜代久しき筋目を書き立て、子供たちへ御ゆずりに成るべきだ。
私はこのように、我が家のことをばかり書き立て子供に譲る。であるので他所の事については書かなかった。
以上。

(三河物語)

大久保彦左衛門による、「三河物語」の執筆姿勢について



658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/30(水) 11:33:08.11 ID:Zda8tyr2
たまたま落として見られたら困るなぁ(チラッ)

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/30(水) 20:09:44.12 ID:xkje4xgK
でも写本はしていいよチラッチラッ

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 08:16:45.51 ID:kz6yugKM
面倒くさい爺いだってすぐ分かる

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 13:27:23.77 ID:g0VHlQx6
様式美だし

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 22:53:23.34 ID:qgNP5BQt
???「日記とは、死後公表されることをねらって、他人の悪口を書き連ねておく文章である」

人々が因果であると申し習わすのも

2019年01月29日 21:33

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/28(月) 22:54:14.43 ID:NfnBdDvr
又々ここに不審な事がある。犬打ち童に至るまでの人々が、本多佐渡守(正信)が、大久保相模守(忠隣)を
讒言したのだと言っていることである。
そのような事、人が知るはずもない内容を申している

そもそも本多佐渡は相模守の親である七郎右衛門(忠世)の重恩を受けた者であり、恩を忘れてどうして
そんな事をするだろうか。それは事情を知らない人の無責任な噂に過ぎない。
相模については、子の主殿を初め我々こそ知らないまでも、きっとその身の科も深かったのであろう。
その上であっても、佐渡が讒言するようなことはゆめゆめ有るまじきと、今においても思っている。
町人や民百姓まで正信が讒言したと申す理由はどう言うことかとも思うが、そういう事も有るかと、
不審では有るが、ともかくよく解らない。

佐渡について、若い頃はむごい人物だという評判はあったが、歳も寄り定めてその心も直ったのだろう。
佐渡守が若い頃には、七郎右衛門が朝夕の食事の援助をし、その女子供に対しても塩、味噌、薪に至るまで、
同じく援助し、彼が御敵を申して他国へ駆け落ちした時も、女子供を援助し、その後家康公へ御詫言を
申し上げて帰国し、先ず隼鷹匠と成り、その後色々と取り成しを申し上げ、四十石の御知行を申し受けて
出仕したが、その後も援助した。

このため、佐渡は年末年始には必ず、嘉例として大晦日の飯と元三(正月三日)の飯を七郎右衛門の家にて
喰った。関東へ移った後になっても、江戸にてその嘉例を続けたほどの佐渡である。どうしてその恩を忘れる
だろうか。

七郎右衛門が果てる時も、佐渡守を呼んで遺言に、相模に不沙汰無きようにと頼み入って果てたのだ。
その時も佐渡は七郎右衛門に向かって、「どうして不沙汰などしましょうか、御安心あれ。」と、しっかりと
申したというのに、その心を引き違えて讒言するようなことが有るだろうか。

昔は因果は皿の縁を巡る、などと言っていたが、今は巡ること無く直ぐに向こうに飛ぶようだ。
今においてはどうかとも思うが、人々が囁いている事は、そのように思われる。
良い因果は報われても見えにくく、悪しき因果が悪しく報いるのは見えやすい。そういう事であろうか。

佐渡は相模守御改易の後三年も経たずして顔に唐瘡が出て、顔崩れ奥歯の見えるほどに成りそのまま死に、
子である上野介(本多正純)は、御改易となり出羽国由利へ流され、その後秋田へ流され佐竹殿に預けられて、
四方に柵を付け堀を掘って番まで付けられた。人々が因果であると申し習わすのもこれでは仕方がないかも
しれない。

相模守の御改易も、大うす(デウス)御大事の御仕置きと有って京都に召し遣わされ、その後御改易となり、
また上野介御改易の時も、最上の仕置すべしと仰せ付けられ召し遣わされて、その後にて御改易を
されたのであるから、同じような状況であり、故に「讒言申した因果の報いか」と、世間にて犬打ちの童まで
申したのだろう。

(三河物語)


古き武辺者たちは目引き鼻引き笑っているのだ。

2019年01月22日 17:58

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/21(月) 22:07:09.62 ID:y1eQSZez
大阪夏の陣の後、京都にて大坂での働きの良し悪しについての御詮索が行われたが、或いは伝長老
金地院崇伝)に相申したるという人もあり、または宗哲法印(片山宗哲)に相たるという人もあり、
或いは自分たちで互いに言い合って証人に相立ちたる人もあった。事おかしき証人である。

昔は出家や医者などを武辺の証人に立てるような人に対しては、中々付き合いもしなかったものだが、
今の世は末世にも成り、出家と医者が武辺の脈を取り、或いは察すれば武辺と成るようだ。

又は、度々武辺をした者を、昔は武辺の証人として立てたもので、その生きている間に敵の顔が
赤いか黒いかも知らぬような者を、武辺の証人に立てるような事は、笑って腹筋が痛くなるほど
おかしな事である。
(又は度々の武辺したる者を、昔は武辺のせう人には立て有に、一代之内敵のかほの赤きも黒きも
しらざる者を、武辺のせう人に立る事、腹筋のいたきほどおかしき事なり。)

相国様(徳川家康)はもとより度々合戦を経験した、日本では勿論異国までも隠れなき御武辺第一の
相国様であるが、おかしく思われながらもそれなりに対応し打ち置かせられているので、そういった
報告をした者達で自分の説明が通ったと武辺顔をしている者も多い。しかしそれを、古き武辺者たちは
目引き鼻引き笑っているのだ。

(三河物語)


さて、因果というものは

2019年01月20日 19:05

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/19(土) 21:30:54.95 ID:r3vm1I6O
さて、因果というものは有るものだろうか。太閤秀吉、いにしえは松下嘉兵衛の草履を取っていた者であったが、
織田信長の御取立を以て人となり、今太閤の地位にまで至ったというのに、信長の御恩を忘れたか、
その御子である三七殿(信孝)をぬまの内海にて御腹を切らせ給い、尾張内府(信雄)の御知行を召し
北国に押し込め、御扶持の宛てがいもなく置いた。

さて又、太閤の御子秀頼も、相国様(徳川家康)を打ち奉らんと、大阪にて一度(家康暗殺騒動)、また伏見
にて諸大名に仰せ打ち奉らんと二度目(婚姻問題騒動)、会津御陣の御跡に諸大名を催して伏見の城を攻め殺し、
相国へ向かわせ給い、これが三度目(関ヶ原)、また去年謀反の企てをし諸牢人を扶持して敵対したこと
四度目(大阪冬の陣)、又当年手を出し合戦をし給う事五度目なり。(大阪夏の陣)

相国は御慈悲の有る方なので、四度目まではゆるしたが、助けたいとは思われたが、この上は是非無き次第、
助け置くものならば、又謀反を企てるだろう、よって腹を切り給えとて、御腹を切らせ給ふ。
これを見る時には、因果と言うものは、有るものだと感じる。

(三河物語)


茶がどうして人よりも

2017年08月22日 18:02

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 04:40:38.86 ID:lvwuulW2
宇治から幕府に茶を献上する時、その運搬途上は人々がこれを避けるのが
例であった。ある時に大久保忠教(彦左衛門)は、これの運搬中に出くわして
わざと避けなかった。

役人が忠教を叱ったところ、忠教は知らぬ振りをして「汝等は何する者ぞ?」
と問うので、役人は、「これはお上の茶である。よって道をあけねばならない」
と言った。

これに忠教は、「茶がどうして人より貴いものか。まして私は役人ではないか。
よって、汝等の方から私のために道をあけたほうがよい」と、答えた。

――『学生の漢文(近世叢語)』



158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 07:35:10.02 ID:+wZ6x60J
彦左…

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 12:52:18.34 ID:q3gY/N3F
>>157
答えた後どうなったのかってのが知りたいw
普通このテの話って「流石は○○よ」とかそんな感じ

讃岐守の子は油断できない

2017年03月11日 09:19

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 22:28:02.88 ID:so4sl6CD
寛永年中、島原表での一揆の折、諸手へ旗本より軍場御目付を遣わされるにおいて、人々は
大阪にて戦功あるものが仰せ付けられると思っていた所、思いの外、脇の人々の中より選考された。
これに居並ぶ老功の勇士たちが嘲笑っている中、何某とか言う若輩の人物も、御目付として選ばれた。
その人物には、幕府重臣・酒井備後守忠朝よりその旨申し渡され、彼も面目を施し、
お請け申しているその半ばに、控えの間より大久保彦左衛門が声高に言った

「世も末になったものだ!若輩の者共が軍奉行だ御目付だと言って戦場に向かう。
どれほどの功が立てられるものか!
座敷の上の軍場とは違い、料理を食うようにはいかないのだぞ!」

その嘲りの声殊の外高く、かの何某はこれを聞いて、控えの間に戻るとそのまま彦左衛門の居る
席に向かい、彼と言い合いを初めた。

この一座の者達も、みな痴れ者ばかりであったので(一座の輩、何もしれものの集りなれば)、
口論を止めようともせず、あわや事に及ぼうとする時、酒井備後守忠朝が聞きつけ
この部屋の障子を押し開くと、この何某を呼びつけ

「其方が左様な不覚悟とは誰も知らなかった。だから今度の選考に推薦したのだ!
大事の御使を承りながら、彦左衛門などと口論するなど、甚だ以て不届きである。
早々に支度して、罷り立てられよ!」

そう荒々しく言いつけると、何某もすぐに退出し、島原へと向かった。

その後酒井は彦左衛門に向かい
「其方はその老功や御役柄で、人が許すからと言いたいばかりを申される。
若き者は、何の功で武辺を得たかなど、誰のことであっても耳にかけようとするが、
貴殿からは鳶ヶ巣城の一番乗りの自賛を、毎度承っている。
その頃は16歳の初陣の高名と申されたのを、私も覚えている。

であるのに、その貴殿が今の若者に、彼らが若年にて高名できないなどという批判は心得がたい。」

そう、言葉穏やかに言うと、さすがの彦左衛門も閉口し。酒井は奥に戻っていった。

この後彦左衛門は同僚に向かって
「讃岐守(酒井忠勝 )の子(忠朝)は油断できないな。若いが理屈をする。恐ろしい恐ろしい。」
そう、賞美したとか。

(武野燭談)


人にとっては、一言であっても

2017年03月07日 21:37

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/07(火) 00:36:04.14 ID:sUTcU+gp
寛永14年、肥前島原にて切支丹宗門の一揆が起こった時。江戸より総軍令を遣わされることと成り、
将軍家光のお側に伺候していた板倉内膳正重昌が選ばれた。
ところが、その頃内膳正は病を患っており、老臣以下このことを聞くと

「別にこの役儀に相応しい器量のものを選ばれ、内膳正は御免あるべきではないだろうか。」

そう内々に相談し、何れも尤もであると賛同し、この趣を将軍家に申し上げることに定まった。
そこで大老である酒井讃岐守忠勝まで話を上げると、忠勝は聞くやいなや

「あなた方は内膳正という人間を解っていない。彼がこの度の御使を承りながら、病気のため
御免となったと仰せになれば、忝しとはよもや思わないだろう。
殊に、別人に代わりの軍監を仰せ付けられたと承れば、忽ち自害するような人物である。
ただそのままに、島原に遣わされるべきである。
仮に道中にて病死したなら、その時こそ代わりの人を使わさせるべきだ。」


「そのような事になれば、何かと日数を経る内に、一揆の蜂起はますます広がって
しまうのではないだろうか?そのことをどう思われるのか?」

この反論に讃岐守は笑って
「あれは土民の一気に過ぎない。一体誰が彼らに味方するというのだろう。
もしまた、この混乱を幸いに、幕府に対して反抗の色を立てる者が居れば、それこそ
我々にとって良き対応を試みる、良い機会となるだろう。
尚以て、板倉こそ遣わされるべきだ。」

内膳はこのことを聞き伝え、大いに喜んで早速準備をし、嫡子である後の内膳正重矩、
当時16歳であったのを同行させ、命を受けた即日出陣した。


しかしその冬の軍は思いの外手間取り、その事は将軍家まで聞き及び、重ねて松平伊豆守信綱を
差し向けられるべしとの事となった。

これを大久保彦左衛門忠教が聞いて、心易い同輩にこう囁いた
「あたら内膳正は討ち死にするだろう。不憫な事だ。」

彦左衛門察しの如く、松平伊豆守が発向したとの情報を聞くと同時に、板倉内膳正は一揆に猛攻を
仕掛け、深入りして討ち死にをし、息子重矩も深手を負った。

内膳正はこの日を討ち死にと覚悟し、出立の時、息子重矩に向かい
「私は今回、酒井讃州の一言によって、忝なくも総軍の支配を承った。
お前は相構えて、讃岐守の子孫に対し、無沙汰をしてはならない。」

そう重矩に、くれぐれもと言い含め打ち出たのだという。
人にとっては、一言であっても大事になる事もあるのだ。

(武野燭談)


御役料願書

2015年06月01日 17:58

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 22:27:09.74 ID:HMaA3uKM
寛文年間のこと。
将軍より旗本に、御役料(役職給付)を下されることがあった時、大久保彦左衛門と、
今村九兵衛の跡役を務める者の二名が「我々にも下されるべきなのに、未だ御役料の御沙汰が無いのは
どういうことか?」と、両人申し合わせ担当奉行である土屋但馬守数直に願い立てを行った。

これに対し土屋は
「あなた方は先輩であり、特に大久保、今村といえば、神君よりの旧臣でありますから、言いたい放題に
言いたいことを言っても、お上も格別に思し召されてゆるし置かれています。
で、あなた方は先に役についていたため、それを以って今回の御役料の件の願い立てを行ったのでしょう。
ですが、あなた方が現役の頃とは、時代も違い人も違います!

その上、今度下される御役料は、昨今は御加増もない時節であるので、小身の人々に、御扶持米のつもりで
下されるものなのです。あなた達は、御旗本の中で大身小身で分ければ大身の方ではないですか!
であれば、例え今回の件が上聞に達したとしてもその願い立てが叶うことはありません。
ですからあなた方の提出した願書は差し戻します。
というか、この願書がもし上聞に達したら、却ってあなた方の為に宜しくない結果になりますよ。
そもそも願いの筋が不当です!」

こうピシャリと言われて、大久保らは願い立てをやめた。

或る老人は「先役の大久保ならば、差し戻されるような願書は出すべきではないし、
また差し戻されてもそのまま請け取って帰るべきではない。」と批評した。

(明良洪範)




861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 22:47:56.01 ID:/5qo1QDO
彦左完全に老害になっとる

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/01(月) 11:47:59.91 ID:shuXFuYl
この頃の大久保忠教の石高って改易くらって再スタートの二千石だよな確か?

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/01(月) 12:00:40.89 ID:ZdL6vSb/
>また差し戻されてもそのまま請け取って帰るべきではない。

これは違うな。グダグダ言ってたら、周りから金に狡い奴と思われる
三河武士の価値観に反する

酒井忠勝、丸め込む

2015年05月30日 14:15

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 19:59:52.97 ID:Ltjm8IJj
徳川家光の時代のこと。

ある年の正月、具足餅の祝の時、大久保彦左衛門忠教、今村九兵衛の両人は未明から出仕したが、
山吹の間に用があってそこに出ている間、本席に両人の姿が見えず、このため両人は遅参したと思われた。

既に御祝いの儀式が始まった中、目付け衆は席を見廻り両人を見つけ、「御祝いはもう始まっています。
早々に御着座して下さい。」と言った。

当然彦左衛門は激怒した
「我々は今朝未明よりこちらに詰めていたのに、何の御沙汰もなく御祝いが始まっているとは意味がわからぬ!
神君の御代より、こういう事に御失念は無かったのに、今日忘れられたということが、我々が年老い、
もはや御用に立たずとの思し召しであるなら、もはや退出すべし!」

この大騒ぎで御祝いの進行が止まり、老中始め役人たちは大いに当惑した。それでも
『大久保彦左衛門は神君よりの旧臣にて今日の御祝いでも第一の人だから。』と役人たちが様々に挨拶し
機嫌を直してもらおうとしたが聞き入れず、ついに老中松平伊豆守信綱が出てきて
「完全にこちらの失念であったからこそ、役人たちも言葉を尽くしているのです。早く席について下さい。」
と説得した

しかし彦左衛門
「我々は御旗本頭である!であれば軍礼に、御旗本失念ということが有るだろうか!?
もはや一番座も済んだようだ。我々は洗い膳にて食うようなことはしない!
まったく長生きすれば、珍しきことを聞くものかな。」
そう嘲った。

これには伊豆守もさすがに腹を立て「彦左衛門殿、舌の和らぐまま言いたい放題にも程がありますぞ!
将軍家の御祝いに洗い膳などと言うことはありえない!」

彦左衛門からからと笑い
「伊豆守はずっと畳の上で、戦場は見たことも無い故に軍の言葉を知らぬと見えた。
二番座に出るのを洗い膳と言って、まことの武士は嫌うことなのだ。よく聞いて置かれよ!」

伊豆守、心中さらに怒りが増したが、これ以上言い返す事もせず、周りは伊豆守を甚だ気の毒に見ていた。

この時、酒井忠勝がふらりと出てきて、彦左衛門の手を取ると
「老人のお言葉、尤もです。ですが今日は格別の御祝いの事ですから、あまり時間が過ぎてしまうのは
いかがでしょうか?さあ、席に付きましょう。この忠勝が相伴いたします。」

すると彦左衛門も
「さてさて、讃岐守殿は天下の老中であるのに相伴するとは忝い。ならばいただき申そう。」

コロリと機嫌も直り着座した。こうして御祝いは滞り無く相済んだ。

(明良洪範)

伊達政宗さえ丸め込める酒井忠勝にとっては、大久保彦左衛門もこのとおりなのである。




850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 22:33:36.74 ID:Bt6VT78J
>周りは伊豆守を甚だ気の毒に見ていた。
この件で笑った

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 00:53:26.19 ID:W2vUN1nO
これならいい話ではござりませぬか

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 04:20:58.49 ID:3+oxdFGQ
一体両者の対応のどこに差異があったのか

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 04:31:28.55 ID:hAvvsUPh
>>852
知恵伊豆は知恵伊豆ってだけで叩かれる

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 05:37:41.51 ID:2wUbbVLP
三河者相手に真っ向からぶつかるのはよくない

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 10:04:48.21 ID:Hn2rc8Nn
最後の、そして最も面倒くさい人物だな

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 10:44:24.64 ID:JyBUmMSN
>>855
まあ、彦左衛門なんて大した武勲もない、ただ理不尽でうるさいだけのジジイだけどね。
でも、この時期になるとモノホンの武勲のある武功派はほぼいなくなっているからなぁ

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 15:58:22.86 ID:RileblEf
二大DQNがいるじゃないか

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 18:00:56.86 ID:1OZzOB6C
>>856
岡部元信を打ち取った武功があるだろ

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 19:53:34.38 ID:4LSw/tvs
酒井忠勝がかっこいい話

精進刀

2015年04月04日 16:12

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/03(金) 21:03:20.65 ID:0dA0hrZy
大久保彦左衛門がある時、坂部三十郎と雑談をしている時、坂部は
「座敷にて人を斬るのは二尺(約60センチ)以下の刀が良い。それ以上だと座敷での働きは自由に成らない。」
と言うと、彦左衛門

「昔、堀監物が家中の朋友に意趣を含んで、必ず討ち果たすと結審した時、一尺五寸の脇差を八、九寸にまで
磨上て首尾よく敵を討ち果たしたと、後に監物が話していた。これは突き抜いて仕留める心得である。
見事に切り放そうとすれな多くは仕損ずる。突く心得が有れば仕損じはない。足下が二尺以下というのも
放し討ちの心得というものだろう。

放し討ちというの至極難しいものだ。かつて池田勝入は、大事の敵を仕留めるのは組み留めておいて
突き刺せば、十中八九過ちはないと言われたものだ。
あの朝比奈弥太郎(後の水戸家老臣)は、常に三尺(約90センチ)の大刀を差して歩いているが、
外見は良いがあれでは働きは出来まい。人を斬らぬ刀なら、精進刀というものだ。」
そう笑って話した。

ところが、後で坂部三十郎がこの事を朝比奈に話してしまい、朝比奈は激怒。直に彦左衛門の家に押しかけ

「足下は我が刀を精進刀と言われたそうだ。精進か生物か、一つ試してご覧あるべし!」
そう凄んで大刀の鯉口を広げ、返答次第で抜打ちにするとの剣幕であった。

しかし彦左衛門は少しも騒がず
「成る程、足下の御刀は至極の切れ物と云う評判を聞いたゆえに、そこで精進刀と言ったのである。」

「それはいかなる訳か!?」

「されば、精進というものは仏の命日にするものであるが、これは直ぐ落ちる。精進落ちと言って魚を食う。
それで世俗で精進を落ちるというが、足下の刀に逢っては直ぐ落ちる。首も胴も落ちる。
であるから精進刀といった訳だ。」

そう弁解すると、朝比奈も「それで良く解った。」と機嫌を直した。

すると彦左衛門さらに
「足下が長篠合戦の時、甲州の中備の大将、内藤修理亮(昌豊)を討ち取ってお手柄をなされたが、
あの刀は、只今のお差料であろうか?」

「いかにも。この刀は一刻も身を離さず、少し寸が伸びたが度々手柄を現した道具ゆえ、
磨上もせずこのように常に帯びている。」
そう言って抜いて見せたのは、備前国長一の刀、二尺八寸二分。
そこで彦左衛門は聞いた

「足下は、あなたが討った内藤修理亮殿の命日には精進をしていると聞いたが、そうであろうか?」

「いかにも。修理亮殿の命日には、精進をいたし念仏を唱える。」

彦左衛門、我が意を得たりとばかり
「それではやはり精進刀ではないか!精進をするほどの大将を斬った刀なればこそ、足下の武名
天下に聞こえたのである。精進刀と言われて何故に立腹するのか?」

そう口に任せて説立てられると、朝比奈も大いに喜んで帰っていったと、「春村筆話」にある。

(刀剣談)




636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/03(金) 21:08:32.71 ID:qxruWlrD
どっかのガイキチな浅野さんは切ったから爺殺すのに失敗したわけだな。袴踏んで転ばしてからブスリとやればいいと
しかし三河武士は面倒くさいなw

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/04(土) 09:51:08.32 ID:d0LMNVy2
弥太郎が単純なのか、彦左の口が達者なのか

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/04(土) 09:51:23.02 ID:tV78Te7F
弥八郎並みの口八丁じゃないですかやだー

彦左が佐渡守を中傷する話

2014年12月27日 17:26

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/27(土) 03:54:17.29 ID:EDvBVJIg
また、ここに不審なことがある。犬を追っている子供まで皆が本多佐渡守(正信)が大久保相模守(忠隣)が中傷したと口にしている。
そんなことを世人が事を知らないので言っているのである。
佐渡は相模の親の七郎右衛門(忠世)に重恩を受けた者だから、恩を忘れてどうしてこんなことができようか、それは人の作り事だ。
 相模は子の主殿(石川忠総)を初め私どもの知らぬ、深い科がきっとあったのだろう。
絶対佐渡が中傷したなどということはないだろう。
今になってよくわかるけれども、町人、民百姓までがいうことだから、本当にそのようなことがあったのかと、不審には思うけれど、そんなことはわからない。
 佐渡は若いころはむごい者であると噂があったけれど、年もとったことなので、きっとなおったのであろう。
佐渡守は七郎右衛門が朝に夕に面倒を見て、女や子供を助け、塩や味噌、薪にいたるまで、面倒を見、(家康に)敵対して他国へかけおちしたときも女子を助けてやった。
そのうえ、詫びを入れさせ、国に帰してからは、先ず隼鷹匠として抱えられ、その後もあれこれととりなして、四十石の知行を与えられた。
その後も面倒を見て、除夜にはかならず嘉例として大晦の飯と元山飯を七郎右衛門尉のところで佐渡は食べたものだった。
関東へ(家康様が)お移りになった後でも、江戸でもそのことを嘉例としたほどの佐渡であるから、どうしてその恩を忘れようか。
 そのうえ、七郎右衛門が死ぬ時も。佐渡を呼んで遺言にも、相模をよろしく頼むいって死んでいったが、その時七郎右衛門に向かって
「どうしてなおざりに扱えましょう。ご安心ください。」
としっかり申したのに、もしやその心にそむいて中傷したのだろうか。
 昔は、「因果は皿の縁をめぐる」といったのに、今は「めぐり着かずに、すぐに報いが飛んで向かう」と言うことがある。
今どきどうであろうか、と思うけれども、「人にさえずらせよ」ということもあるから、そういうものであろうか。
「善き因果は報いがあってもおぼえがない。悪い因果が悪い報いを起こした場合は、わかりやすい。」
そういうものであろうか、佐渡は三年もすぎることなく顔に唐瘡ができて、顔半分がくさり奥歯の見えるほどになって死んで、
子である上野守(正純)は改易になって出羽の国、由利にながされて、その後秋田へ流されて佐竹殿にあずけられて、四方に柵を付け堀を掘られ、番を付けられた。
皆々口にするほどのことも確かにあることのようだ。相模守の改易も、デウス退治の処置とあって、京都に使いに行き、その後改易にあった。
また、上野守の改易の時も、最上の仕置きをせよと命ぜられて、使いに行ってその後改易になったのもおなじようなことだ。
さては中傷したので、因果の報いかと、また世間では犬を追っている子供まで言うようだ。
 『史記』のことばに、
「蛇はとぐろを巻いても吉方に首を向け、鷺は太歳の方角に背を向けて巣をつくり、燕は戌巳に巣を食い始め、鰈は河口に向かってはかたたがえをする。
鹿は玉女に向かって伏せる。」
とある。このように動物でも身の程に従う心があるそうだ。
 顔だけは人でも心は畜生であったか。
(三河物語)

彦左が佐渡守を中傷する話





春日局が急ぎの用あって夜中に駕籠を早めて登城した

2012年07月24日 20:52

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 18:01:14.49 ID:Jdgq08Qt
ある時、春日局が急ぎの用あって夜中に駕籠を早めて登城した。
その頃の春日局は飛ぶ鳥を落とすというほどの勢いであったから
門番もあえて止めようとはしなかった。

ところが平川まで来た時はそうはいかなかった。
御供の者が「春日局様が急ぎの御用あって登城である。早く門を開けられよ!」
と言うので番の者は責任者の大久保彦左衛門に仔細を伝えると、

彦左衛門は臥したまま起き上がりもせず「この大久保彦左衛門が御番仕って
おるからには春日殿といえど放置じゃ。そのように仰せられてもこんな夜更けに
通すことはできませんとでも言っておけ」と言った。

門番は(後で絶対問題になるよなあ…)と思いながらも仕方なく彦左衛門の
言葉を伝えたところ、春日局は「もっともです。ならば男どもはここに残し、
我ら二、三人の女だけで歩いて参ります。どうか御通し下さい」と懇願した。

それでも彦左衛門は返事もせず、結局春日局は夜明けまで門外で待たされて
しまった。あまりの扱いに春日局は泣いて徳川家光に訴えたのだが、家光は

「お前の憤りはもっともなのだが、お前も知ってのとおりあれは不分別の
強情者だから、もしもお前ではなくわしだったとしても必ず門を開けたかどうか
わからん。あれと出会ったのは運がなかったと諦めてくれ」と言うので

春日局もどうしようもなく泣き寝入りした。その後、彦左衛門を召し出した
家光はなんとはなしに黄金と佩刀を与えたという。

参考
あのようでも良きことがある


699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 18:09:07.73 ID:F182bNZX
結局急用はなんだったんだ

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 18:16:48.80 ID:GW9DHHV3
なんだ、お福殿がいつ門番の腕ヘシ折るか期待してたのに…

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 18:23:08.03 ID:g1kS2d94
徳川の歴代当主に愛されすぎだろ、彦左

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 18:24:35.40 ID:seoRqsr7
急いで自分が伝えたい用事と、急いで相手に伝えなければならない用事の違いかな
前者を権力で押し通そうとしたのを撥ね付けた(後者ならばお福も引き下がらない)

という話なんだろうが、断言してもいいが彦左はそんなことカケラも考えずに天然でやってる

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 18:33:23.93 ID:t5b9fEG9
春日局って城外に住んでたんだ…

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 20:01:05.12 ID:6vnHCr96
>>698
>家光はなんとはなしに黄金と佩刀を与えたという。
彦左を甘やかしちゃダメです

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 20:05:59.13 ID:BNwetyMc
悪いスレの、門番というだけで死亡フラグジンクスを破ったか

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 20:12:22.49 ID:gthLpY0h
>>706
徳川の門番だけは許される。
というか家康三河時代の徳川の門番ってこんなのばっかりだよねw
その意味では確かに彦左さんは最後の三河者だわ。

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 20:36:07.34 ID:g1kS2d94
もし徳川の守る城門を押し通ろうとした者が鬼武蔵なら・・・

多分、ガチの戦が始まる、一方的な虐殺じゃなくて
[ 続きを読む ]

駿河にて徳川家康が大久保彦左衛門と久々に会ったので

2012年07月22日 20:48

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 19:10:11.47 ID:hn2RZa6E
駿河にて徳川家康が大久保彦左衛門と久々に会ったので四方山話を
始めたことがあった。

「関ヶ原の戦の後は世も静謐になった。
まことに、わしにとってあの戦は死生の分け目であった。

我が方は挟み撃ちにされそうになったが、敵は一戦に打ち負けて
右往左往に逃げる有様は見苦しいものだったな。

それに比べて我が方は命を惜しまず、功を争わずまことに潔いではないか。
のう彦左衛門よ?」

(なっげえ話だなあ)


彦左衛門は長話にうんざりして帰りたくなった。


「なるほど一溜りに敗北とは見苦しいですね。

しかし上様が小山に御着陣の折、伏見より上方が敵だらけになった
との報があった時は、上様の御顔も真っ青になり、諸将も妻子を取られたと

聞いて顔を青くしておりましたが、太平となり青い御顔も元通りになられた
ようですから、まことに御運強くめでたいことです」


嫌味を言われた家康であったが笑って「彦左衛門はやく休め」と言って
彦左衛門を下がらせた。




641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 19:15:43.40 ID:EUNK3t/x
信長「鬼武蔵なら仕方ない
家康「彦左なら仕方ない
秀吉「お前切腹

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 19:17:57.56 ID:wWBUJrik
まあリアルな話、こんな事を目の前で言っても怒られない、処罰されない、ってのが家康の長所だったと思うよ。

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 20:09:30.58 ID:aLS48ZBu
この程度で処罰していたら、三河衆は全滅

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 20:50:13.82 ID:JZhqPn1C
三河衆を処罰したら謀反を起こされかねないしね、家康の勢力がまだ弱い頃だと特に

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 20:56:27.66 ID:CvNoAxIA
三河衆って直接家康に歯向ったことあったけ?

そういうのまったくないイメージだけど


646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 21:16:50.04 ID:mD428EP+
三河一向一揆を含めるかどうか

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 21:52:52.73 ID:0txqr0hm
三河一向一揆も傍からみてるとトムジェリっぽいしなw


648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 22:17:21.38 ID:eDSL+ZUQ
>>643
だから幕末期に頼みにすべき譜代大名がどれもこれもクソの役にも立ってない(ry


649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 22:54:30.28 ID:H+zr7FD7
>>645
大賀弥四郎

650 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/07/22(日) 13:33:23.96 ID:R8e/BZeY
大賀弥四郎は残忍な殺され方したんだな。

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/22(日) 14:36:35.24 ID:m/b7Hi1D
酒井さんは頑張っただろうにw

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/22(日) 15:06:33.20 ID:MsS3PSd1
石川数正さんは? 秀吉に恭順するか敵対するかの路線対立で追い出されたんだっけ

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/22(日) 15:22:33.65 ID:1i0xQXe2
>>652
追放じゃなくて出奔。

しかも、既に内通していた小笠原貞慶の人質もいっしょに連れて行ったので
かなり計画的だったと思われる。

654 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/07/22(日) 20:47:07.74 ID:0UtXdvam
常日頃からチクチク反抗してストレス発散してるから、歯向かうレベルまではいかないんだろうよ

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/22(日) 20:59:26.96 ID:D36IGPfX
>>640
小早川秀秋が動かないんで家康がテンパって癇癪起こしてるところを知ってる人からするとこの自慢は見苦しい。

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/22(日) 21:02:53.27 ID:m/b7Hi1D
小早川については最近色んな異説もあるしよくわからん。



ところで殿、三方ヶ原はお忘れかな?(・∀・)ニヤニヤ
まあ金ケ崎とか三方ヶ原の撤退戦は普通に凄かったと思うけど。家臣が。

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/22(日) 21:36:50.21 ID:pm1metR1
右往左往と見苦s…あ、島津…

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/22(日) 23:26:24.04 ID:1vpv/5Ne
>>656
だからこそ勝った立場で見て改めて見苦しかったんだろう


665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/23(月) 06:24:15.67 ID:zplBjgZc
>>640
関が原で毛利両川に挟み撃ちにされたらどんな反応してたことやら

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/23(月) 06:30:25.77 ID:vYHPOYQC
>>665
最近の説だと関ヶ原は2時間ほどの短時間で大勢の決した合戦で、三成の方からの
毛利や島津への出陣要請も、既に小早川秀秋が東軍として参戦した後だという事らしい。
つまりチャンスだから攻めろ、じゃなくて、ピンチだから助けて、だったというのね。

そりゃ空弁当もするだろw

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/23(月) 06:40:03.67 ID:zplBjgZc
>>666
チャンスだったとしても支援要請遅すぎのような
あの距離ではドンパチ始まった時点で南宮山の兵は即行動かなければ意味ないと思う

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/23(月) 07:45:07.73 ID:VufuxXm2
霧が深くて、戦場全体を誰も把握できてなかったって説もあるね。
みんな目の前の敵を叩くことしかできてない。
山上とかに布陣してると、どこに敵と味方がいるかもよく分からなかった。

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/23(月) 10:20:50.07 ID:s4fhGLHD
井伊直政「まったくもってその通り。」

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/23(月) 15:21:58.19 ID:9E24BlGw
家康が野戦上手と言われるけど、関ヶ原ではそれが発揮されたのかな?

大久保彦左衛門「わしの知っておる上様は」

2010年09月27日 00:02

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/26(日) 10:44:22 ID:DyMbKUrr
トン切ってごめん。昨日の中日新聞に彦左の話が載ってた。

お茶壺道中に居合わせた彦左(大久保忠教)は、茶壺付添いの武士に怒鳴られても
茶壺に頭を下げず(畏まったりしなかったってことかな? 意訳転載でごめん)、
「わしの知っておる上様は人間より茶葉を大事になさるようなことはしない!」って
怒鳴ったとか。

まとめでただの偏屈だと思ってたから、この話はちょっといいなと思ったw
しかしお茶壺道中ってすごく大変だったらしいね>近在の人達的に。
めちゃくちゃ威張られて、みんな関わり合いになりたくなくて「戸をぴしゃんと閉める」
→「トッピンシャン」になったとか




237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/26(日) 11:56:42 ID:ZqTZrxR+
さぁ、ご一緒に

めんどくせぇ~

250 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/09/26(日) 19:15:41 ID:BEdTIvEM
家康公は秀吉に
「高価な茶器は持ってないが、
命を投げ打つ家臣を宝物と思っている」
って言ってやったからなぁ。