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大久保忠隣改易

2019年07月22日 15:51

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/21(日) 19:06:48.78 ID:ARl2F+J7
一、翌年2月4日(1614)、大久保相模守(忠隣)江戸発足。上方筋で切支丹が起こったので
  仕置きのために上京。宗門の者どもを成敗して後、板倉伊賀守(勝重)をもって相模守の改易
  を仰せ付けられ、井伊掃部頭(直孝)に御預けなされた。

  この節、里見安房守(忠義)と佐野修理大夫(信吉)に改易を仰せ付けられた。ただ大久保相
  州の縁者たるによってこの如し。

  一族家来まで御咎めあり。相模守の子供の大久保右京(教隆)・同主膳(幸信)・同内記(石
  川成堯)、いずれも津軽・南部へ御預けなされた。大久保加賀守(忠常)はそれ以前に相果て
  られた故、孫(大久保忠職)が家督を致していたが、これは家康様の御息女・加納様(亀姫)
  と申す方の御婿である故、江戸の屋敷に閉門致した。

  森川内膳(重俊)は相模守の姪婿なので、酒井左衛門尉(家次)に御預けなされた。日下部河
  内守(正冬)、これは茂助(村越直吉。道伴の父)の娘を相模守の娘分に致して婿に致し、こ
  れによって館林の榊原遠江守(康勝)に御預けなされた。山口但馬守(重政)は縁者たるによ
  り御改易。

  谷六右衛門は相模守が取り分けて目を掛けられた故、松平将監に御預けなされた。石川主殿頭
  (忠総)は相模守の次男であるが、他名を継いだので知行の大垣に閉門致した。その他に摂津
  半兵衛は、その時は江戸奉行だったが当座の出仕を留め申した。

一、富田信濃守(信高)に改易を仰せ付けられた。もっとも罪科は相州とは別罪である。家康様は
  常々、御慈悲をもっぱら要に遊ばされたところ、御老年に及び厳しく御仕置きを仰せ出された
  と、世人は唱え奉ったという(家康様常々御慈悲を専要に遊ばされ候所、御老年に及び稠しく
  御仕置仰出され候と、世人之を唱ひ奉り候由)。

――『村越道伴物語留書』



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人々が因果であると申し習わすのも

2019年01月29日 21:33

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/28(月) 22:54:14.43 ID:NfnBdDvr
又々ここに不審な事がある。犬打ち童に至るまでの人々が、本多佐渡守(正信)が、大久保相模守(忠隣)を
讒言したのだと言っていることである。
そのような事、人が知るはずもない内容を申している

そもそも本多佐渡は相模守の親である七郎右衛門(忠世)の重恩を受けた者であり、恩を忘れてどうして
そんな事をするだろうか。それは事情を知らない人の無責任な噂に過ぎない。
相模については、子の主殿を初め我々こそ知らないまでも、きっとその身の科も深かったのであろう。
その上であっても、佐渡が讒言するようなことはゆめゆめ有るまじきと、今においても思っている。
町人や民百姓まで正信が讒言したと申す理由はどう言うことかとも思うが、そういう事も有るかと、
不審では有るが、ともかくよく解らない。

佐渡について、若い頃はむごい人物だという評判はあったが、歳も寄り定めてその心も直ったのだろう。
佐渡守が若い頃には、七郎右衛門が朝夕の食事の援助をし、その女子供に対しても塩、味噌、薪に至るまで、
同じく援助し、彼が御敵を申して他国へ駆け落ちした時も、女子供を援助し、その後家康公へ御詫言を
申し上げて帰国し、先ず隼鷹匠と成り、その後色々と取り成しを申し上げ、四十石の御知行を申し受けて
出仕したが、その後も援助した。

このため、佐渡は年末年始には必ず、嘉例として大晦日の飯と元三(正月三日)の飯を七郎右衛門の家にて
喰った。関東へ移った後になっても、江戸にてその嘉例を続けたほどの佐渡である。どうしてその恩を忘れる
だろうか。

七郎右衛門が果てる時も、佐渡守を呼んで遺言に、相模に不沙汰無きようにと頼み入って果てたのだ。
その時も佐渡は七郎右衛門に向かって、「どうして不沙汰などしましょうか、御安心あれ。」と、しっかりと
申したというのに、その心を引き違えて讒言するようなことが有るだろうか。

昔は因果は皿の縁を巡る、などと言っていたが、今は巡ること無く直ぐに向こうに飛ぶようだ。
今においてはどうかとも思うが、人々が囁いている事は、そのように思われる。
良い因果は報われても見えにくく、悪しき因果が悪しく報いるのは見えやすい。そういう事であろうか。

佐渡は相模守御改易の後三年も経たずして顔に唐瘡が出て、顔崩れ奥歯の見えるほどに成りそのまま死に、
子である上野介(本多正純)は、御改易となり出羽国由利へ流され、その後秋田へ流され佐竹殿に預けられて、
四方に柵を付け堀を掘って番まで付けられた。人々が因果であると申し習わすのもこれでは仕方がないかも
しれない。

相模守の御改易も、大うす(デウス)御大事の御仕置きと有って京都に召し遣わされ、その後御改易となり、
また上野介御改易の時も、最上の仕置すべしと仰せ付けられ召し遣わされて、その後にて御改易を
されたのであるから、同じような状況であり、故に「讒言申した因果の報いか」と、世間にて犬打ちの童まで
申したのだろう。

(三河物語)


二俣城請取

2018年09月06日 21:11

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/05(水) 01:48:42.24 ID:9PLLbYM4
この年(1575年)6月より大久保七郎右衛門忠世は蜷原の砦において、二俣城を乗り取らんと謀を
巡らせた。守将の依田下野守幸政(信守)は先より老病危篤であったが、6月19日ついに亡くなった。

その子・右衛門信蕃、その弟・源次郎信行(信幸)と善九郎信慶らは亡父の遺命を守って堅固に籠城し、
浜松よりもしばしば軍勢が向けられて攻められたものの、信蕃兄弟は厳しく防戦して義を守った。

12月に至ると城内は次第に兵糧米も尽き果てて、今は籠城も叶い難くなった。甲斐からも勝頼が印書
を遣わして、「只今後巻の人数を遣わし難い。これまで籠城した義忠は天晴手柄なり。

今は早く城を開いて甲州へ帰るように」と申し送られた。しかし依田兄弟はなおも義気弛まず城を枕に
討死せんと思い定めていた。そこに神君(徳川家康)より大久保新十郎(忠隣)・榊原小平太(康政)

をもって「依田兄弟が7ヶ月籠城して義心勇気をあらわしたことは感ずるに余りある。とはいえ後詰の
頼みもなき孤城を守って餓死するのは知慮の足りぬようなものである。速やかに城を渡して命を全うし、

後の功を立てられるべし」と、利害を説いて和睦を勧めなさった。依田兄弟もようやく得心して12月
23日に城を開けると定まり、新十郎と小平太が証人として城内に入ると、依田からは源次郎・善九郎

兄弟を証人に出した。ところが23日は雨が降っていたため、蓑笠を着て城を出るのは見苦しいとして、
翌24日、快晴を待って城内をよく掃除させて城兵をことごとく引き払い、二俣川で互いの証人を

取り返すと、静々と引き取って高天神城に入り、田中城をも守った。(原注:依田は蘆田を領したので、
蘆田とも称したという)神君もこの兄弟の振舞いを天晴頼もしく思し召し、御賞美なさったという。

さて二俣城は大久保忠世に賜った。

――『改正三河後風土記(蘆田覚書・東遷基業・武徳編年集成)』



251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 08:09:27.83 ID:lpRqTw82
依田家も神君に目を掛けられ後見に笠井肥後が付いたけどアホな子孫のせいで断絶したな

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 11:02:18.35 ID:8U+1XYjZ
げんじろうのぶゆきって……真田の倅みたいな名前だな

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 19:04:44.33 ID:tESTErXx
真田丸に徳川関係で出るかと思ったのに>依田信蕃

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 19:07:49.73 ID:tESTErXx
考えたら依田信蕃(のぶしげ)と依田信幸
昌幸とも縁が深いし、よけいにややこしい

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 19:46:20.58 ID:ZVw5fpoO
真田丸は登場人物の関係で依田は意図的に省いたって言ってたじゃん

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/07(金) 07:59:05.28 ID:RtFh+62U
>>253
出てたやん
徳川関係で出るってのが意味わからんけど

ともかくも仰せには

2017年08月11日 17:29

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/11(金) 08:04:22.14 ID:NJal55J9
大坂御陣の時分、石川主殿頭(忠総)は大久保相州(忠隣)の子なので
閉門でおられ、冬陣に御供することを佐渡殿(本多正信)に願われたが

叶わず、駿河にて上野介殿(本多正純)を頼られたがこれも叶わなかった
ので「この上は御成敗を仰せ付けられようとも、ままよ!」と、大坂へ上り、

隙あらばと心掛けなさった。さて、伯楽ヶ淵(博労淵)で本多雲州(忠朝)
討死の時、主殿頭は比類なき働きをなした。

されども御所様(徳川家康)は、(無断での従軍について?)ともかくも
仰せにはならなかったという。

――『武功雑記』


不届きに付き、かくの如くせしむる

2017年05月03日 18:48

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/03(水) 17:42:53.26 ID:lqY/8zPQ
大久保相模守(忠隣)の家来に、天野金太夫という者があった。
忠隣の親類であり、度々の戦功あって、その身の勤め、行跡、残る所無く、志ある義士であった。

大久保長安事件をきっかけに忠隣が身代没落すると、家中の諸侍は閉口し逼塞していた時分に、
下々は逃げ欠け落ちを致し、結果小田原の侍町では盗賊が多くなった。

この時、天野は断固詮索を遂げて、下人の徒者十余人を追補して一々に成敗し、その頸を町の出入り口に掛け
札を立てた

『主人の落ち目を見て不届きに付き、かくの如くせしむる。』

天野金太夫はその後、忠隣の身が終わるまで彼を見届けたという。

彼のような行動は、内に正しさを持っていなければ成り難い事である。

(士談)


今は、天下創業の御政務である。

2017年03月15日 19:17

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/15(水) 17:53:08.67 ID:FwIHOceO
ある人が言った
「大久保相模守忠隣、本多上野介正純などは、父祖代々御当家に仕えて大功のある人々の子です。
であるのにその一身が修まらざるによりて、最期には辱められ、彼らに縁のあった大名たちもまた、
名家、あるいは数代の武臣であったのに、多くがこの事によって改易されました。
これは非常に荒い御政務ではないでしょうか。」

これを土井大炊頭利勝が聞いた
「愚かなることを申す者かな。私などは今、武家(将軍家)執事職を兼ね勤めていると言っても、
子孫が君命に背くなら、他の者よりも罪を糾明されてこそ本意である。
またその上で、折が有れば、大久保・本多といった罪を問われた人々に存命の子孫が有れば、
宜しく召し仕わされる事、これが仁政である。

今は、天下創業の御政務である。
だからこそ、先ず御譜代より厳しく戒め置かれているのは天下に恐れられている。
御譜代の者が別してその罪を深くしてこそ、上の後威光が増すのである。

忠隣、正純の父である、大久保忠世、本多正信も、息子に対して泉下で憎んでいるだろう。
仮に存命していれば、共に子を勘当したであろう。
彼らはそういう人物であった。」

そう申されたという。

(武野燭談)



668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/15(水) 19:41:25.77 ID:jC7m6Npx
>>667
いい話じゃない?

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/15(水) 21:45:02.10 ID:kjNWxgyd
正純の父が正純
※訂正済みです
670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/15(水) 22:44:16.45 ID:ccF9VRfj
Oh!マサズミホンダJrのコトダネー

佐州は未だ御愁傷のうちに

2017年02月01日 09:17

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/01(水) 05:19:40.08 ID:ZRWtXzEx
本多佐渡守(正信)は、息女<三浦監物(重成)内室>が死去して、悲嘆の最中から
評定場へ出て、御用を心得なさったため、

「佐州は未だ御愁傷のうちに御出になられるのですか?」と、挨拶致された方がいた。

佐渡守はこれに、「どうして娘が1人死去致し申したからといって、御用を欠くべきこと
でしょうか」と、申されたという。

大久保相模守(忠隣)は息男・加賀守(忠常)が死去した時、強く悲嘆し、それからは
御奉公も勤め得ないように、思いなさったという。佐渡守と気持ちが異なっている。

――『武功雑記』



いま一言をもって日延べをお許しになられたこと

2016年05月29日 13:09

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 09:31:21.71 ID:9iJTYgQ1
慶長の末年、大久保相模守忠隣は本多正信の讒言により、所領を召し上げられた。

その時、安藤対馬守(重信)は小田原の居城を受け取るべしとの命を受け、大久保の
家老・天野金太夫を呼び、「当城内外の諸臣らは、今明日のうちに他所へ退出せよ」
との旨を命じた。すると天野は曰く、

「主人・忠隣の事は、不幸にして罪を蒙り、臣らは今この命を承って、公儀に対して
誰が異議に及ぶことだろう。されども、家臣がこの城を預かり守る主人の命令無くして
他に城を渡すことは臣たる者の道に非ず。

それに、いま城下にいる小臣奴婢などの類は多い。彼らがすぐさま退かなければ
ならないことについて、少なからず憂いがある。この事をぜひともお察しして頂きたい!」
と、言った。その言葉は意気盛んであった。

安藤はこれを聞くと、「私はいま上意のままに命令をなしている。しかしながら、
汝の言うことは実に道理である。日を延ばして城を渡すようにせよ。私がこの事を
取り計らおう」と言って、退いた。

天野は曰く、「わたくしめは、齢傾き見苦しくとも一刀を下して皺腹を切り、貴殿の
馬前を汚さんと思ったのに、いま一言をもって日延べをお許しになられたこと、幸い
これに過ぎず!」と、厚く感謝した。

さて、主人・忠隣からの下知を待って、その後は内外とも騒々しくはならずに神妙に
立ち去った。「大臣たる者の振る舞いはこのようでこそあるべきである」と、諸人は
感賞したということである。

――『明良洪範』



それほどまでの覚悟ならば

2015年06月22日 18:11

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 06:24:01.80 ID:SvJtWPb1
秀忠公の時代、大久保忠鄰が井伊直孝の預かりとなった。
井伊直孝は参勤に向かうにあたり、大久保忠鄰に、

「大久保殿、あなたは人の讒言により無実ながら罪の身となり、
私のところへ預かりになったと、世上でもっぱらの噂になっています。
このたびの参勤で江戸に上がり、このことを将軍さまのお耳に入れ、
すぐにでも帰参のお許しが出るようにしたいと思っています。
ですから、詳しい話を聞かせてください。」

大久保忠鄰は、

「ありがたいお心づかいです。
しかしながら、私は無実ではありません。おそらく、根も葉もない世間の噂話でしょう。
それをさも讒言があったとしてお許しをいただくとなると、はなはだよろしくない。
私のことなら心配無用です。」

と断った。

「見事な態度です。
ですが、このことは世間の噂として私一人が知っているのではなく、
大久保殿の無実については、証人も数人名乗り出ているのです。
天下の御政冶に今回のような理不尽があっては、幕府のためにもなりません。
いずれこの非を正し、御帰参となるようにするつもりです。」

井伊直孝も譲らない。(1/2)

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 06:51:46.83 ID:SvJtWPb1
すると大久保忠鄰は、

「井伊殿はなにもかも知っていると見える。
それならば、私も本心をお話しようと思う。
私がもし讒言にあったことを無念に思ったなら、すぐにでも弁解しています。
しかし今ようやく天下が治まり、日本国中が幕府を見習おうという時に、
役人の中に悪い者がいて、無実の者を讒言で陥れたと世間の噂話となったらば、
秀忠さまに悪名をお着せすることになり、諸大名たちも不穏の心をいだくかもしれません。
だからこそ無実の証明をせず朽ち果てることが、この時節の奉公であると覚悟したのです。
たとえ帰参出来ても、これほどの奉公を出来ることはないと思っているので、なんの苦もないのです。
出世の望みもないので、ここで何も言わず朽ち果てることがひとかどのお役に立つわけですから、
御とりなし御無用にお願いします。」

と本心を打ち明けた。
井伊直孝はとても感心して、

「貴方ほどの忠義の臣を埋もれさせるのは、天道にも反することでしょう。
私の出来るかぎりの力を使い、必ずや帰参出来るようにしたい。」

とさらに譲らない。
すると大久保忠鄰は怒りだし、

「私が、心底残らず本心を話しても、貴方は聞き入れてくれない。
どうしようもないので、このまま餓死いたす。」

と言い切り口を閉ざした。
井伊直孝は、

「それほどまでの覚悟ならば、もはやすべて大久保殿のお心にお任せします。
それにしても貴方の忠節、比べるものもございません」

と、感涙を流した(2/2)  【葉隠】




彦左が佐渡守を中傷する話

2014年12月27日 17:26

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/27(土) 03:54:17.29 ID:EDvBVJIg
また、ここに不審なことがある。犬を追っている子供まで皆が本多佐渡守(正信)が大久保相模守(忠隣)が中傷したと口にしている。
そんなことを世人が事を知らないので言っているのである。
佐渡は相模の親の七郎右衛門(忠世)に重恩を受けた者だから、恩を忘れてどうしてこんなことができようか、それは人の作り事だ。
 相模は子の主殿(石川忠総)を初め私どもの知らぬ、深い科がきっとあったのだろう。
絶対佐渡が中傷したなどということはないだろう。
今になってよくわかるけれども、町人、民百姓までがいうことだから、本当にそのようなことがあったのかと、不審には思うけれど、そんなことはわからない。
 佐渡は若いころはむごい者であると噂があったけれど、年もとったことなので、きっとなおったのであろう。
佐渡守は七郎右衛門が朝に夕に面倒を見て、女や子供を助け、塩や味噌、薪にいたるまで、面倒を見、(家康に)敵対して他国へかけおちしたときも女子を助けてやった。
そのうえ、詫びを入れさせ、国に帰してからは、先ず隼鷹匠として抱えられ、その後もあれこれととりなして、四十石の知行を与えられた。
その後も面倒を見て、除夜にはかならず嘉例として大晦の飯と元山飯を七郎右衛門尉のところで佐渡は食べたものだった。
関東へ(家康様が)お移りになった後でも、江戸でもそのことを嘉例としたほどの佐渡であるから、どうしてその恩を忘れようか。
 そのうえ、七郎右衛門が死ぬ時も。佐渡を呼んで遺言にも、相模をよろしく頼むいって死んでいったが、その時七郎右衛門に向かって
「どうしてなおざりに扱えましょう。ご安心ください。」
としっかり申したのに、もしやその心にそむいて中傷したのだろうか。
 昔は、「因果は皿の縁をめぐる」といったのに、今は「めぐり着かずに、すぐに報いが飛んで向かう」と言うことがある。
今どきどうであろうか、と思うけれども、「人にさえずらせよ」ということもあるから、そういうものであろうか。
「善き因果は報いがあってもおぼえがない。悪い因果が悪い報いを起こした場合は、わかりやすい。」
そういうものであろうか、佐渡は三年もすぎることなく顔に唐瘡ができて、顔半分がくさり奥歯の見えるほどになって死んで、
子である上野守(正純)は改易になって出羽の国、由利にながされて、その後秋田へ流されて佐竹殿にあずけられて、四方に柵を付け堀を掘られ、番を付けられた。
皆々口にするほどのことも確かにあることのようだ。相模守の改易も、デウス退治の処置とあって、京都に使いに行き、その後改易にあった。
また、上野守の改易の時も、最上の仕置きをせよと命ぜられて、使いに行ってその後改易になったのもおなじようなことだ。
さては中傷したので、因果の報いかと、また世間では犬を追っている子供まで言うようだ。
 『史記』のことばに、
「蛇はとぐろを巻いても吉方に首を向け、鷺は太歳の方角に背を向けて巣をつくり、燕は戌巳に巣を食い始め、鰈は河口に向かってはかたたがえをする。
鹿は玉女に向かって伏せる。」
とある。このように動物でも身の程に従う心があるそうだ。
 顔だけは人でも心は畜生であったか。
(三河物語)

彦左が佐渡守を中傷する話





「誠に新田殿の子である。」

2014年07月11日 18:59

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/11(金) 07:23:11.10 ID:N+c+eHsk
文禄4年5月、徳川家康は京から江戸へと帰還したが嫡子秀忠は京の邸宅でその留守をしていた。
この時、太閤秀吉と関白秀次の間に事が起こった(秀次事件)。

秀次は目前の危険から逃れるために、秀忠を拉致し人質としようと謀り、早朝、特使を参らせ
朝餉に参るようにと迎えた。しかし留守居の大久保忠隣はその謀を察し、土井利勝を始め5,6人に
お供をさせ、密かに伏見の館へと移動させた。この時、利勝のすすめにより、竹田路を通らず、
大路を経てつつがなく伏見に到着したという。

伏見に到着した秀忠は太閤秀吉の元へと渡ると、秀吉は大方ならず喜んで、
「誠に新田殿(家康)の子である。」
と、大いに賞賛した。

これは、父・家康が都を出立する前、秀忠を密かに呼んで
「私が東に向かった後、必ず太閤と関白の間に事が起こるであろう。
その時お前は必ず、太閤の御方に参るように。」
と言いおいたためであったという。

(徳川実記:台德院殿御實紀)

秀次事件の時の徳川秀忠の脱出劇。秀吉が家康を「新田殿」と呼んでいるのが印象的である。




285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/11(金) 19:09:45.13 ID:zCem73+m
確か新田の末裔を自称してたんだよな

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/11(金) 19:28:03.08 ID:CplVdxw5
呼んでいるっつーより呼ばせてる

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/11(金) 20:13:05.63 ID:xrqO5+4h
乞食坊主の子孫

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/11(金) 22:34:57.93 ID:zCem73+m
なに、中国には流浪の乞食坊主から皇帝にまで成り上がった
いい意味でも悪い意味でもラスボスを更に強化したようなお方がいるんだし問題はない

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/11(金) 23:01:39.09 ID:N5Xc6OWK
跡継ぎの息子が殺されて、天下を簒奪されるが
実はその跡継ぎには生存説があるのも似てなくもない

どっちかというと大友皇子に近いが

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/11(金) 23:19:35.57 ID:NNvyJC9s
新田と家康の繋がりがわからない

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/11(金) 23:21:18.28 ID:P79Fed1y
清和源氏-新田氏-世良田氏-得川氏-松平氏
ということに一応なってるから

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/13(日) 08:50:27.09 ID:foBlReUX
岩松「新田の後継です」
由良「家系図強奪したったwwwこれで家系図繋げられるわwww」

岩松「もう家系図は渡さないぞ・・・」
徳川「くーださい」

土井利勝、大久保忠隣・本多正純改易について

2012年12月17日 19:50

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/17(月) 10:05:37.76 ID:bP7jvpZP
大久保相模守忠隣、本多上野介正純などは、父祖より代々御当家に仕え、大功ある人々の子である。
然れどもその一身修まらざるにより、名を恥ずかしめ、それに縁座する大名もまた、名家数代の武臣であったが、
多くがこれに連座し改易された。

この事について、『荒き御政務である』との批判があった。
土井大炊頭利勝はこれを聞くと

「なんと愚かなことを申すのだろう。
私のような者でも今、武家(将軍家)執事職を兼ね勤めているが、もし子孫に君命に背くものが出れば、
他のものよりもきつく罪に問われる事を望む。

それに時期が来れば大久保・本多らも、存命の子孫があればそれが、宜しく召し使われるだろう。
それこそ仁政というものである。

今は、天下創業の御政務の時期である。まず譜代こそ厳しく戒め置かれなければならない。
にもかかわらず天下を動揺させるような行為をすれば、しかも譜代のものであれば別してその罪は深い。
これはお上の御威光を傷つけるものであるからである。

そんな事は、泉下の大久保七郎右衛門忠世、本多佐渡守正信も強く憎んだと想像できる。
仮に彼らが存命なら、子を勘当していただろう。」

その様に申されたという。
(武野燭談)

大久保忠隣本多正純改易への批判に対する、土井利勝の意見である




大久保忠隣の臣節

2012年10月04日 20:30

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 15:47:14.22 ID:2h63FlKR
徳川家の重臣・大久保忠隣が、本多正信・正純親子との政争に敗れ改易されたこと、これは有名である。
忠隣はその後、近江の井伊家において、流人として拘束されていた。

さて、元和2年(1616)4月17日、忠隣の改易を命じた徳川家康が死去した。
これにより名実ともに、かつて大久保忠隣が力強く補佐した将軍徳川秀忠の世となり、井伊家当主・直孝は
「もはや良き時分である」と、忠隣の元を訪れこの様に言った

「あなたはどうして将軍家に上書して、冤罪を雪がないのでしょうか?
もし、そう言った意志がおありなのなら、不肖ながら私も又、あなたの力になりたいと考えています。」

今や幕府有数の実力者でもある直孝の言葉であり、秀忠が忠隣に対し好意的であったこともあわせて、
直孝の後援があれば忠隣の名誉回復も容易ですらあっただろう。ところが

「お断り申す。」
忠隣は即座にそれを辞した

「昔から忠を以って退けられるということ、その例も多い。
私が今この様にあるのも、ただ天のなしたことであろう。

それにな、大御所様は既に身罷られた。なのに今更私が罪のないことを申し出るなど、これは
主人の過ちを天下に暴露するようなものであり、その様なこと私の素意ではない。

その上、強いて私の冤罪を雪ごうとすれば、今の将軍家に父である大御所様の過ちを認めさせるという不孝を
させてしまうことになる。そのような事をたかだか我が身一つと変えるなど、私には到底受け入れられない。

そうであるから、私は今のまま、このようにして臣節を全うすることが、最も良いのだよ。」

これを聞いて直孝は言葉も無く、ただ涙を流し忠隣の元を下がったと言う。


大久保忠隣の臣節、という逸話である。
(武士道美譚)




709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 15:54:32.53 ID:DtyhL/pC
忠教・政宗・三河の方々「めんどくさ… 」

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 15:54:33.46 ID:k/RK6xoz
>>708
いい話
葉隠にものってるね

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 15:57:33.36 ID:FJiAJpCG
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1816.html
板倉勝重にも復権を勧められてるね。しかし頑固だな。さすが三河武士。
青山さんもそうだったが…

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 18:15:46.38 ID:H5EgBvVS
彦左衛門とどっちが面倒なんだろ?

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 18:45:50.82 ID:gGJhXDyW
彦左は性格が悪いだけだと思う

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 19:49:50.25 ID:k/RK6xoz
彦左は腹の中と行動が同じだから裏表のない好人物ともいえる

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 20:01:15.20 ID:iNkf8eRx
冤罪を晴らすのがダメなら罪を許されたという事にすれば良いと思うんだけど、そういう問題じゃないんだろうな。

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 20:48:14.44 ID:+r+WOQwx
>>715
裏表がないのと好人物かどうかは別だと思う
例えば石田三成や織田信長とか

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 20:49:03.07 ID:j1Bn/kwv
>>716
罪を許されたって形式を正式にとると
それはそれで罪を正式に認めたことになるので面白くないって言うのがある気がする

こうなんというか微妙なとこなんじゃないかな

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 21:24:19.51 ID:k/RK6xoz
>>719
そういうこともあるかな。
話変わるが彦左の性格悪く見える部分て、
武士として油断大敵を表現するための行動を、
嫌な奴と受けとられてる部分もあると思うんだ。
新撰組の斎藤一の息子たちの話なんだけど、
明治期に入っても息子たちを武士として教育してたみたいで、
子供のころから家に帰って戸を開けると斎藤が隠れていて、
新聞丸めたものでいきなり頭打たれたりしたらしい(笑)
多分、常識に期待するなよ。
なにがあるかわからないのが世の中だって教えなんだと思う。
それも現代でやったらただの嫌なオヤジとしか思われず、
子供にとって悪影響のが大きくなるわな。
彦左の逸話も時代と武士の価値観から見るべきと思う

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 22:55:44.25 ID:K+7a1/nL
>>721
いぽう新田宮流の和田平助は
跡継ぎの息子を鍛えるために不意打ちしまくってノイローゼで死なせた

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 23:22:19.76 ID:k/RK6xoz
>>722
やりすぎたな…
斎藤一や和田平助は剣豪だから育て方も職人ぽいかな

山本常朝の武士の子育て論はまた違うから面白い
武士の子育ては町人とは違う
卑屈になるから絶対に脅したり恐がらすしつけはするなと言ってるんだよ
まあ、どんなやり方にも成功例、失敗例はあるだろう

イエズス会、駿府・江戸の旅

2012年08月29日 20:50

206 名前:1/2[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 22:36:13.04 ID:P8mOuui5
慶長12年(1607)、秀忠に将軍職を譲り駿府に隠居した徳川家康は、長崎に居たイエズス会員に
謁見を許した。その時の模様をキリシタンの側の記録より見てみよう

『…京都の知事(板倉勝重か)は京都より駿河に至る沿道の、公方(家康)の諸役人をして
師父に便宜を与えるため、彼らに宛てた回状をパエス師に授けました。プロバンシャルは京都の学院長
モレジョン師と、彼に常に従う師父一人と、日本人の法兄弟3人を伴い、8日後、駿府から5里ほど
離れた場所に到着し、そこで幕府よりの沙汰を待ちました。そして3日後、招きを受け駿府に入りました。

上野殿(本多正純)は人を遣わして我々が無事に到着したことを喜び、将軍の寵厚きソトサブロー殿
(後藤庄三郎か)は自ら我等のところに来て、我々のために周旋する旨を申し出されました。

翌日、謁見の儀式がありました。長崎の街に関係ある、とある大事件の為数日前に到着された
ジャン・ロドリゲス師もこの式に列席されました。上野殿は取次の役を勤められ、公方(家康)は
親切なる数語を述べられました。これは正式の謁見においては著しい名誉です。
かの国君はその謁見室から退かれたあと、近臣に向かい、謁見者の日本・支那に在る、同宗の人々に対する
権威が大なる事と、年々彼が命じた事について、そのまま従っていることに付いて長く語っておられたとのことです。

ここに摂理が密かに我等に幸いした一例として、特に語るべきことがあります。
それは謁見式の当日、公方の長子にも関わらず、正妻の子でなかったために位を継ぐことの出来なかった
越前公(結城秀康)薨去という凶報が駿府まで達したのですが、上野殿は、公方が若しこのことを知れば
謁見の式は延期され接待も厚く出来ないことを察知し、国君が謁見の前にこの報に接しないよう
全力をなし、越前より来る書状は全てこれを押さえ、その上謁見の時刻を早めにされました。
これは非常なる親切であり、大いに、我ら宣教師の利益となりました。

世の人々はこれにより、君主の意志の発表を待たずして我々が再びこの国内に滞在することを
許されたと考えて良い、と言います。日本の法によれば、追放令を発した人が、追放令を受けたものを
面前に出ることを許せば、この者は再び君寵を得たと理解されるためだからです。

我々は公方の子にて後継者たる人(秀忠)に敬意を表するため、江戸に向かいました。これにも上野殿は、
その父であり将軍の最も信頼されている顧問である本多佐渡殿(正信)宛の書状をプロバンシャルに与えました。


207 名前:2/2[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 22:37:19.82 ID:P8mOuui5
江戸は駿府より東方へ4日ほどの所にあり、途中には有名な山があります(富士山)。
この山は高く美しいため、日本の文士、美術家によって常に賞賛されています。
道は駿河より伊豆を経て相模に入ると、ここに日本の旧都にして、公方又は将軍の居所である
鎌倉があります。元は人家の数20万に上ったそうですが、この時は減じて、5千に満たないほどでした。
師父は2日間この地に滞在し古跡を見て回りましたが、中でも特に注意を引いたのは、
青銅の巨大な偶像が、田園の中に捨て置かれ、野鳥の休憩所となっていたと言うものでした。(鎌倉の大仏)

江戸に到着する2里前で、師父は江戸の信徒たちの出迎えを受けました。彼らは果物や食品などの
贈り物を携え我等を歓迎しました。

若き将軍(秀忠)は元来とても親切な方で、特に師父を厚遇されました。
城の最も奥の溜りの間には、帝国内で最も名高い僧が二人居ました。
一人はタイチャウラウ(大長老)、もう一人はガチャウ(学校か)と称され、彼らも将軍に
謁見するためここに訪れていたのです。京都の寺院の長老である僧侶数名もまた同室にありました。
ところがこの君(秀忠)は先に来た僧侶たちとの面会を後にし、先ずパエス師を召されたのです。

謁見式の後、本多佐渡殿、および相模殿(大久保忠隣)は師父を送って最後から一つ前の部屋に至ると、
宮中を案内するようにと命じました。この宮殿(江戸城)は壮麗であること公方の宮殿に劣らず、
装飾は黄金と最も名高い画家の手による絵画を以ってなされています。

師父が主な保護者である相模殿及び本多佐渡殿に暇乞いに行き、親切にて寛大である佐渡殿に、
日本の教会の利益を保護することを依頼し、布教の自由を求め、宣教師の説く聖法は日本の施政にも、
臣下の君主に対する服従にも、反対するところは些かも無く、全く道理に合い君主及び人民に、
むしろその義務を教えるものであることを言い添え、またこの教えは現世のために大いなる効用があり
来世のためにも更に必要なものであることを説き、佐渡殿より将軍に請うて、将軍の父君のごとく
庶民のみならず、諸侯及び貴族にも教会に入る自由を与えられることを懇請しました。

師父はこの様に好成績を得て駿河に向かって帰路につき、5ヶ月の愉快なる旅行の後、再び長崎に帰られました。』
(パジェー日本耶蘇教史)





208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 23:06:56.77 ID:I+akEOZd
悪い話なのか
読解力ないからどのあたりがどう悪いのか頼むわ

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 23:12:55.70 ID:P8mOuui5
簡単に言うと、5年後にこの宣教師たちが信頼した本多親子がらみで岡本大八事件がおきてキリスト教禁教に。

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 23:32:40.11 ID:tbpJN4Bp
オチを書かないのはどうなんだろう

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 23:43:57.43 ID:I+akEOZd
わかった
結局は禁教になるからキリスト教の伝来も悪い話な

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/29(水) 13:23:10.05 ID:3kFQk1eY
努力が必ず報われるとは限らないって話しだな

滅びの兆しは、大豆の味噌汁に白き飯

2012年05月07日 21:01

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/06(日) 20:32:08.32 ID:79jgw/fA
滅びの兆しは、大豆の味噌汁に白き飯
かって小田原攻めの際、三河武士の大久保忠教たちから糠味噌汁を振舞われ、溜り醤油を足して
味を調えれば味良くならんと言って、吊し上げを食らった井伊直政の息子、夜叉掃門こと井伊直孝
上野白井藩1万石の大名だった時、二代将軍秀忠の使いとして江戸から駿府に使いして大御所に
拝謁し、一連の報告を終えたあと大御所が尋ねた。
「何か面白き話でもあるか?」
「面白き話かどうかはともかく、近頃の小田原では、大豆の味噌汁が流行っております」
「ふむ・・・・・・大豆の味噌汁か。他には」
「城下の米が白くなりました」
「他には!」
「鯛の鱠と上方からのたまり醤油ももてはやされておりました」
「あいわかった。掃門、赤鰯に黒飯を忘れるなよ」
そういうと大御所は、井伊直孝との会見を終えた。
大久保忠隣没落の数年前の話である。
後年、井伊直孝は、「上に立つ者の心得は、兆しを捉えるの一事に尽きる。糠味噌が大豆味噌に
変わり、黒飯が白飯に、赤鰯が鯛の鱠に変わりしことに気づかぬようでは、家すら治められぬ。
ましてや天下をや」
夜叉掃門こと井伊直孝のちょっと良い話





62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/06(日) 21:23:32.57 ID:cTDmFpmn
>>58
因縁のたまり醤油w
ひこにゃん学習したな
それに比べて大久保さんェ…

黄ばんだ褌の三河武士精神もダレはじめていたのか?


63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/06(日) 22:59:06.48 ID:Qt2BuQow
>>62
ぱぱにゃんの溜り醤油の話ってまだ権現様の小姓やってた頃だから
小田原攻めの時ではないのでは?

しかし相変わらずひこにゃんは深い話をするな

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/06(日) 23:09:05.56 ID:rOF6ksBV
というかひこにゃんは何で自分の領地でも江戸でもない小田原の食生活の話を報告したんだろう
小田原だけが奢侈に慣れていっていたのか?

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/06(日) 23:20:13.71 ID:0Ofu/NYE
権現様の謎掛け論クオリティは晩年も健在か

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/06(日) 23:55:03.00 ID:IFYPWXhY
>>64
江戸を出て小田原で休憩して箱根超えて駿府着いてだから、そこで知ったんじゃないの?

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/07(月) 09:30:01.64 ID:GSwfz9LS
豆味噌はまだ高級品だった時代だね

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/07(月) 09:34:02.20 ID:E5PWroQU
三河武士なら焼味噌ぞ

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/07(月) 14:22:40.04 ID:hIxx0Par
焼味噌とはなんと贅沢な・・・・
三河武士は普段の心構えがなっとらん!

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/07(月) 14:53:54.21 ID:+JIFFMG9
金持ってないのが使わないと景気が悪くなるけどな。その点尾張様はわかっておられるようだが

命令も無いのに兵を動かすは軍法違反である

2012年02月17日 21:50

98 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/17(金) 02:16:18.81 ID:WhdLBxIG
上杉征伐に向かっていた最中のことである。下野国小山で石田三成挙兵の報告をうけた徳川家康は
決戦に備えて三男の秀忠に中山道を西上する様に命じた。サポート役に大久保忠隣牧野康成榊原康政
お目付け役として本多正信も帯同したこの部隊は進軍の途上、三成方の真田昌幸が籠る
上田城を攻撃した。その際、
窮地に陥った味方を救おうと、忠隣配下の杉浦文勝と康成配下の贄掃部が命令が無いまま兵を動かしたのだが、
正信はこれを

「いかに味方を救う為とはいえ、命令も無いのに兵を動かすは軍法違反である。
両名に厳しい処罰を与えるべきじゃ。」

と主張した。結果として文勝は切腹し、これに反論した康成は秀忠軍から外された。
武功派の忠隣らと、さしたる戦功もなく智謀で出世した
正信とはもともと馬が合わず、この一件がきっかけで不仲が表面化したという。
さらに戦後、正信が家康の後継者として二男の結城秀康を推薦したのに対し、
忠隣が秀忠を推した事などもあり、両者の溝はより一層深まっていったという。





107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/18(土) 09:32:00.36 ID:E47TbVU7
>>98
葵三代でのそのシーンよかった
大久保の家臣がいきなり名乗りをあげて
杉浦「主になりかわりお詫びもーす!」
忠隣「ひさかーつ!」
秀忠「何をするぅ~?(゚д゚)ポカーン」
と自害して忠隣が厳罰命じた正信睨みつけてた
その後次々斬首される兵達の断末魔 それを顔をそむけて聞く西田敏行のいたたまれない表情

秀次事件・秀忠脱出作戦!

2011年05月28日 00:00

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/27(金) 01:58:33.30 ID:/kq3CsKx
文禄4年(1595)、秀次事件の時のことである。

関白豊臣秀次謀反の噂高まった頃、当時京の徳川家の屋敷には、当時16歳の徳川秀忠があった。
秀次はこれに目をつけ、たばかって秀忠の身の上を確保し、その上で人質を盾に
徳川家康を頼って太閤秀吉に申開きをすべし、と考える。

4月3日の早朝、徳川家の屋敷に秀次よりの使者が来た
これに対応したのは徳川家重臣、多くも忠隣である。

「今朝は朝食をご馳走したい。どうぞ聚楽へと参るように。本来なら昨夜のうちに
伝えておくべきだったが、いささか事にまぎれてしまい、今になった。」

使者はそう忠隣に語り、直ぐに秀忠をつれてくるよう要求する。が、忠隣これに

「仰せ、承りました。ですがその…、秀忠様はまだ幼く、いつも日が高く上がってから
漸く起きだすのです。
関白殿下へのご返事が遅れるのは大変憚るべきことですので、お使いの方々は
一旦お帰りになって、この事を関白殿下にお伝え下さい。
忠隣は秀忠様が目覚められましたら仰せのことを伝え、必ず聚楽に参らせます。」

と、使者を返す。勿論秀忠が未だ寝ているなど、嘘である。忠隣はすぐさま土井利勝をお供に、
秀忠を密かに伏見の屋敷へと移し、その上で自身は京屋敷に留まった。
そのうちに秀次の使者が再び、催促のためであろう、徳川屋敷に訪れた。
忠隣これに対面して、曰く

「いやはやそれが、秀忠様ですが、かねてから茶会の約束があったそうで、今日の早朝、
伏見に行かれたそうなのです!私はその事をまるで知りませんでしたから、又いつものように
日が高くなってから起きる事よとばかり思っていたところ、たった今この事を知らされ、
返す返すも恐れ入ることでございます。」

と、心底恐縮している体で謝罪する。時間は既に午の刻あたり(正午ごろ)、追いかけて戻すことも
もはや無理であり、使者は如何とも出来ずそのまま戻っていった。
秀次は大変口惜しく思ったが、程なく切腹し果てられた、とのことである。

大久保忠隣の、秀忠脱出作戦についての逸話である。
(藩翰譜)