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禁中より蘭奢待を賜ひ、家久に遣わす

2020年12月26日 18:29

797 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/26(土) 17:46:43.11 ID:1Nc7UExF
蘭奢待は信長以降だと『当代記』(寛永年間)、『新武者物語』(宝永年間)によれば、徳川家康本多正純大久保長安を派遣し
正倉院宝庫の調査を実施したが、実際には切り取らなかったといわれているが・・

近衛信尋本源自性院記』寛永5年10月1日条に「嶋津家久を訪ふ」、「禁中より蘭奢待を賜ひ、家久に遣わす」とあるそうで、
これはいつのものになるんだろうか?




西村義明「寿徳院玄由の閲歴について」『日本医史学雑誌』第四十六巻第2号より

798 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/26(土) 17:48:31.14 ID:1Nc7UExF
本源自性院記』のこの蘭奢待の記述は、テレビの「なんでも鑑定団」で取り上げられたこともありましたね、そういえば。



799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/26(土) 20:10:46.33 ID:IA6pxhFd
家久が京都に留学して公家と仲良くなってたよな
アレは何のためだったんだろう?

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/27(日) 00:49:30.72 ID:MrQcvooJ
伊勢参りの話か

807 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/31(木) 11:35:21.92 ID:dvxsBnop
>>798
これは、「なんでも鑑定団」に自分は蘭奢待を持ってるって出場者がいて、肝心の鑑定結果は贋物(香木としては本物)という顛末でした。
その番組中に天下人以外でも入手した例として、本源自性院記の記述が紹介されたとのことです。

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/31(木) 22:18:33.20 ID:VGYMyiZN
>>797
史上に切り取った記述があっても、その時切り取った分の全部が下賜された、とは書いてないので、
下賜した分と別に宮中にストックされてるんじゃね?

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/01(金) 02:25:15.50 ID:fcuIiM/Y
>>809
明治の時のは粗方下賜してしまったらしいが、殆ど小さい粒状か髪の毛の様な細く刻んだものばかりだったとか。
そういやある茶道家元所有の蘭闍待もそんな感じだった。
貴重過ぎて大きく刻めないのだろう。

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/05(火) 09:49:01.48 ID:Zpts00sW
蘭奢待といえばあの糸川英夫が香りを全化学合成しようと研究してたってほんとなんだろうか
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『当代記』より、岡本大八事件について

2020年09月01日 17:48

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/01(火) 12:59:56.15 ID:xeG/Ao3Q
慶長十七年三月二十三日、岡本大八という者、親は江戸に在住していた。
この大八は九州長崎の有馬修理(晴信)を駿府に於いて取り持つ物であった。

彼は有馬修理に、修理方より金銀を差し越され、これを各年寄衆、并びに女房衆に彼の取成しを以て
遣わせば、九州鍋島の知行地のうち三ヶ所を申し請けることが出来ると有馬修理に対して偽りの報告をし、
有馬はこれを真と心得、金銀を大八方に渡した。
しかし素より偽りの謀であり、何の沙汰にも及ばなかった。

有馬修理が、大八が金銀を得て私に領した事を言上すると、この二十三日に安倍川原において
火炙りと成った。

(中略)

大八罪過の砌、大八は
「大御所に従い、長崎で唐船の糸やかれこれについての使いとして遣わされていた長谷川左兵衛(藤広)を、
有馬修理は闇討ちしようとした。」と白状した。

このため有馬修理は大久保石見守(長安)に預け置かれ、その後甲斐国郡内に遣わされた。
彼の子息である左兵衛(直純)は、この科に関係がないとして、有馬家の本領は安堵され
前々のごとく長崎に居住した。

五月七日
有馬修理(九州長崎主)は去る月より甲斐国都留郡に置かれていたが、「殺害に至るべし」と
大御所よりの命が下った。

当代記

岡本大八事件について



毎年石見守は

2020年08月03日 18:51

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/02(日) 23:58:01.75 ID:UuWTnIX6
慶長七年の頃より、佐渡国で掘り出される銀が倍増し、一万貫目余りが幕府に納められた。
前に越後の上杉景勝が彼の地を領納していた時は、銀の産出も僅かであったという。
また石見国の金山も産出が倍増して四、五千貫目が納められた。これも前の森(毛利)輝元の
時代は僅かな産出であったという。家康公の分国となってから、このように成ったのである。

この両国は大久保石見守(長安)が拝領していたが、ただし金山については代官として携わっていた。
銀は幕府に先のように納め、毎年石見守は、三月には佐渡に下り、八月には伏見に上り、九月十月は
石見国に下り、金山を相改め、銀をいよいよ多分に納めた。

当代記

大久保長安は忙しかったんですね



大久保石見守長安はもともと猿楽師で

2016年05月31日 17:01

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/31(火) 04:53:20.22 ID:stBwp1a7
大久保石見守長安はもともと猿楽師で、出世した人物である。
徳川家康の話に出て来た折に長安は、

「もし私が佐渡を預かったならば、1万貫を上納仕りましょう」

と申し上げた。これにより長安は佐渡の代官を仰せ付けられた。
そしてその年、果たして長安は1万貫を上納した。

家康はこれ見て、長安はますます出世増進した。

――『武功雑記』



776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/31(火) 11:44:23.99 ID:zj+ISLhb
乱破崩れの山師だろうに

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/31(火) 13:52:24.78 ID:dIc2fj6+
佐渡守を預かると一瞬読み違えて
そこから正信による追い落としになったかとおもた

一里塚に榎を植える由来

2014年08月24日 18:59

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/23(土) 17:29:31.05 ID:6vgo74md
ある日のことである。
街道の整備を行っていた大久保長安は、将軍秀忠の御前に罷り出でると、

「街道の一里塚に植える木のことですが、植える木を松にしてしまうと、
道端の杉並木と紛らわしくなってしまいます。如何いたしましょうや?」と申し上げた。

秀忠は、「確かに松ではどうかと思われる。余の木(他の木)を植えよ」と命じた。

長安は、「然らばそのようにいたしましょう」と御前を下がると、
直ちに一里塚に榎の木を植えさせた。

長安は当時60歳、年を食って少し耳が遠くなっていたので、
秀忠が言った余の木(ヨノキ)と、榎(エノキ)を
聞き間違えてしまったのである。
これが起りとなり、街道の一里塚には榎を植えるようになったという。


「多摩の伝説」より

一里塚に榎を植える由来の話。
なお別バージョンで大久保長安が土井利勝に、秀忠が家光にそれぞれ置き換わっているものもあるが、
大久保長安のとぼけた逸話は珍しいと思ったのでこちらの方にした




24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/23(土) 17:50:48.32 ID:7YuriXv5
一里塚って墓のことだと思ってた
長い墓があるんだなーと…

榎もよい木

2011年11月20日 22:02

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/20(日) 12:45:50.36 ID:zVVQO1nD

ごめん これも既出だったね
お詫びに、悪い話でなさそうだけど一つ

慶長九年、街道整備の為に徳川幕府は一里塚を築いた
この街道整備だが、家康主体ではなく、秀忠が中心となって企画・推進したと言われる

『台徳院殿御実記』の巻一にも
「九年二月四日、公(秀忠)の仰として、東海・東山・北陸の三道に一里塚を築かしめらる」
と記されてある

家康が江戸~京都間の東海道の宿を設定し、伝馬朱印状と伝馬定書を下したのは慶長六年(1601年)正月
秀忠は江戸~京都を結ぶ、東海道・中山道・北陸街道の三つを一元的に統括し
東西の交通を掌握する必要があると考え、一里塚を築かせることにした

さてこの一里塚、榎がかなり多く植えられている その謎についての逸話

秀忠は一里塚築造の惣奉行、大久保長安に「よい木を植えろ」と命じた所
長安が「えの木を植えろ」と聞き間違えたからだという

でも榎もよい木だから間違っちゃいない





98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/20(日) 12:50:45.62 ID:MW30yS/y
あ、既出指摘じゃなくて単なる紹介のつもりだったんだけど
それはそうと一休の歌でも冥土の旅の一里塚とかあるけど、
全国的に整備されたのはこれが初めてか

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/20(日) 14:01:30.08 ID:uX8fZrCk
一里塚ってなんだ?一里ごとに馬を用意しておくのか。

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/20(日) 14:07:35.94 ID:ZG8kC+Jq
Wikipediaより


一里塚

一里塚(いちりづか)とは、大きな道路の側に1里毎に旅行者の目印として設置した塚(土盛り)である。

日本では、平安時代末期に、奥州藤原氏が白河の関から陸奥湾までの道に里程標を立てたのが最初と言われている。
室町時代の一休(或いは一休に近しい遊女・地獄太夫)が「門松は冥土の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなし」との歌を詠んでいる。

一里塚が全国的に整備されるようになったのは江戸時代である。慶長9年2月4日(グレゴリオ暦1604年3月4日)、江戸幕府は
日本橋を起点として全国の街道に一里塚を設置するよう指令を出した。一里塚の設置は、大久保長安の指揮の元に行われ、10年ほどで完了した。
一里塚には榎などの木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるように配慮されていた。また現存する一里塚の多くは道の片側にのみ存在するが
街道の両側に対で設置されるのが本来の姿である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E9%87%8C%E5%A1%9A

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/20(日) 15:02:52.92 ID:A7VRgClO
道路拡張の邪魔物になるアレだなw