大内晴持の死

2015年04月15日 18:32

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/14(火) 19:58:05.31 ID:xEnJ2PJf
大内義隆による尼子氏の富田城攻めは、大内方として在陣していた備・芸・雲・石の国人である、
三澤、三刀屋、宮山、山名、出羽以下、13人が一同に心変わりし、尼子に内通、
天文12年4月晦日、彼らが一斉に富田城に入ったことで一気に形勢が変わった。
この時尼子に内通しなかったのは、毛利、平賀、三吉、福屋、熊谷、天野、益田と言った人々であったが、
彼らもこの内通劇に驚き、翌5月1日は諸陣以ての外の騒動となったが、ここは陶尾張守(隆房)が
固く下知して、翌日には静まった。

しかしこの事態に、陶は大内家の老臣を集めこう申し述べた
「今度国人達の心変わりによって、家城に残っている彼らの一族が、防州との通路を塞ぎ兵糧を断ってしまえば、
我らが軍士が飢餓に及ぶこと確実である。先ず今回は、この陣を引き払い、再び九州の味方を催して
出陣すべきと考える。」

この事、大内義隆に伺いを立て、5月7日未の刻(午後2時頃)、大内義隆・義房父子は経来木山を引き払った。

義隆父子は、湯屋より別々の船にて退いた。この時、義隆の船に、取り残された者達が乗り込もうと
取り付いたが、冷泉隆豊が長刀で彼らを切り払い、無事漕ぎ出した。

陶・杉・内藤といった重臣たちは、湯屋まで義隆父子を見送って、再びの雲州出陣の為であると、
船には乗らず、その勢三千ばかりにて、白潟に廻って引き退いた。

大内義隆の養子である周防介義房(晴持)の船には、あまりに多くの者達が乗り込み、船子たちは
猶も乗り込もうとする者たちを、櫓で打ち払い漕ぎ出そうとしたが、なおも慕い来て取り付いたため、
ついに船は転覆し、義房を始めとして一人残らず溺死した。

この周防介義房は、土佐の一条大納言房家卿の子息で、義隆姉の腹であったのを、三歳の時より
大内家の養子として、従五位下に叙せられていたが、この年十一歳になられたと聞く。あるいは二十歳という。

異書に曰く、この時義房は雲州得ノ浦に落ちたが、敵が夜に入って大勢にて押しかけて来たため、
味方の者達は周章狼狽し、義房も危うき所に、篠山九郎左衛門という、義隆寵愛の扈従が駆け上がり、
「我こそ周防介である!」と名乗って、手の者2,30人と共に防戦した。

この間に義房は落ち延び船に乗ったが、この船が転覆し溺死したのだという。
篠山は暫く防ぎ戦ったが、従兵達は皆討ち死にし、逃げるべき方法もなく、今は義房も落ち延びたであろうと
考え、自ら太刀を胸に当て、そのまま伏せて倒れ、貫かれて死んだ。

その後、篠山はその浦の祠に祀られ、浜の宮と号し、それは今も存在している。
(芸侯三家誌)





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