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「臆したる仰せかな」

2021年10月30日 16:24

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/30(土) 16:16:27.50 ID:tQVtBhVS
天文9年(1540)、近年元就朝臣(毛利元就)には尼子民部大輔晴久に様々憤る事があると
大内義隆と陶入道道麒(興房)は聞き及び、棹させば流されると喜んで、
「大内の幕下に属されれば、これからは水魚の思いをなし申さん」と厚く礼和を言って申し越された。

元就朝臣はいかが思いなされたのかやがて了承し、
芸州にいた尼子一味の侍どもの城を一時攻めに5ヶ所乗り崩し、晴久と手切れの色を立てなさる。
これにより晴久は吉田へ発向の旨を評議し、祖父経久(尼子経久)へも聞かせ申してこその事と思い、
しかじかの由を申された。
これに経久は「吉田出張の儀は無益である。まず石備両国を従えて国人どもの人質を取り堅め、
深固の利をもっぱらとしてその後に吉田へも出張するべきだ」と理を尽くして申された。

しかし晴久は、経久は老耄なされたので「御意見至理に存じ候」と謹んで申されながらも
内心では「臆したる仰せかな」と思い、ひたすら吉田へ出張の用意をするのみであった。

(中略。以下吉田郡山城の戦いの時)

吉田勢(毛利勢)はようやく3千に過ぎないため、城中の女童下部までことごとく堀際へ差し出て
竹の先や棒の先に箔紙を付け、あるいは金銀の扇子などを結い付け持たせて置きなさった。

宮崎では吉田勢が向かうと見て、一陣に控える高尾豊前守2千余騎(尼子勢)は柵際まで出て待ち受けた。
吉田勢が少しも臆さず攻め近づき柵を押し破り切り入ると、出雲勢もここを先途と防戦するも、
ついに叶わず左右の谷へ引き退き、二陣に続く黒正甚兵衛尉の1千5百余騎が渡し合って防戦した。
一方で陶、杉、内藤の宮崎の陣(大内勢)は、「元就は容易く勝利を得られることだろう。
それならば本陣の晴久と一戦するぞ!」と、2万余騎を三段に分けて青山猪山へ押し寄せた。

尼子下野守(久幸)は思慮深き侍で、必勝の見切り無くしては危うき合戦を慎んだので、
世人は“尼子比丘尼(臆病野州とも)”と言った。この人は何と無く、怒る様子もなかったのだが、
心深い憤りがあったのか居丈高になって言われるには、
「今日の戦はこれ以上ない程の味方の大事だ。何にせよ1人踏み止まって討死しなければ、
晴久の御開陣も成り難い。内々に口武辺なさっている人々は一手際のところである!誰か彼か!」

だが答える者は1人としていなかった。その時に下野は雑言吐散し、
「尼子比丘尼は今日の討死なり!御免あれ!」と打ち立ち、手勢5百余騎程が青三猪ヶ坂へ掛け出ると、
河添美作、本田豊前、已下下野に励まされ我先にと進み出た。

そうして陶の先手深野平左衛門尉、宮川善左衛門、末富志摩守2千余騎と入り乱れて戦い、
山上へ追い上がる時もあり、周防勢が追い下され三日市まで引く時もあり、終日隙間なく攻め合えば、
陶の先手の深野と宮川は討たれ、末富は深手を負ってやがて下人に助けられ味方の陣に入った。

元就朝臣の家人中原善左衛門は宮崎からどのようにして来たのか陶の手にいたのだが、
尼子下野に渡し合って大雁股を野州の眉の外れに射込み、馬から落ちるところを走り掛かって
首を取ろうとした。野州の同朋は主の首を探させまいと前に進み打って掛かるが、
中原は物の数ともせずに一太刀で打ち捨てた。しかし、その隙に下野の死骸を若党どもが
肩に掛けて味方の陣に逃げ入ったので中原は思う首を取れず、同朋の首だけを討って帰った。

――『安西軍策

安西軍策は江戸初期成立の軍記物で陰徳記の原資料といわれる
臆病野州は前段で吉田出陣に反対した久幸を晴久が臆病と罵倒したことに由来するとされるが
尼子比丘尼は世人の評由来で、晴久が臆していると思ったのは経久になっている



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大内義隆、方角を忌説

2020年04月24日 17:26

4 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/24(金) 10:24:21.43 ID:T4UpEmkq
大内義隆、方角を忌説


 大内左京太夫義隆は並びもなき大名で、周防国山口に住んでいた。
武道を忘れて、華奢を好んでいた。
常に甚だしいほどのの物忌みを行っており、
家人に屋敷を与える時は、
水性の者は北、木性の者は東、
火性の者は南、金性の者は西と定めていた。
もし木性の者は金性の子を産んだ時は、西の方へ預けていた。

 今按ずるにこれは大内氏のみの話ではない。
今の世(正徳頃)にも、この類はある。
 ある者は家を建てて地を移すのときに、
東北の間は鬼門なり、今年はあっちは金神なり、土用には土は動かさないとしたり、
水神・荒神の祈り、疫病・疱瘡の呪い、矢違・愛敬守、男女の相性、葬送の友引、名鑑・判占い等と忌み、
夢見、カラスの鳴き声、鶏の宵鳴き、犬の長吠え、幽霊、化物、野狐、金花?(ねこまた)などを恐れる。
 尼姥はもとより理に暗い者なのでさもありなん。
武夫がこのようでは、見る目も浅ましく、聞く耳も情けない。
もし書を読み理をわきまえ、吉凶禍福を請い求め逃れ避けようとする思いもせず、
万事万物全て天に任せていたら、宇宙の間に何を疑う事があるだろうか。

(広益俗説弁)

矢違はなんなのかわからないけど、お守りの一種ですかね
武士が迷信にとらわれるなって話なのでしょうが、割と信心深いエピソードありますよね



5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/25(土) 06:55:07.49 ID:e5r/qk9y
矢違は敵の矢が当たらないという御守りのことですよ

毛利元就が石見の山吹城を攻めたときにこの御守りで九死に一生を得たエピが地元に伝わってます

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/25(土) 20:53:04.74 ID:0aAtX73o
>>4
矢違のお守りについて
ttp://www.chofuku-ji.jp/temple

田手畷の戦い

2020年01月19日 21:24

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/19(日) 14:17:38.24 ID:ZiDYjxZ8
三前二島(筑前、豊前、肥前、壱岐、対馬)の守護である大宰少弐政資は、去る明応六年大内義興に滅ぼされた。
嫡子少弐高経も討たれ、家は既に断絶の様相であった。
ここに政資の次男が、父生害の時は十歳であったがこれを東肥前の馬場、横岳(資貞)らが、慈恩を忘れず同国
綾部の城に取り隠した。彼は成長の後父兄の古きことを思い出し、世の転変を伺い、どうにかして義兵を挙げ
会稽の恥を雪がなければと肺肝を砕いた。横岳資貞はこれを憐れみ、元服を進め、少弐資元と名乗られた。
彼は密かに廻文をまわして旧好の武士を招き、時を待ち、運を計った。

大内に付き従っていた肥前の諸士は抜け抜けに馳せ参り、また豊後の大内(政親)もこの事を聞いて、資元を
聟に取ったため、その威勢いよいよ強くなり、大内に対し謀を成した。

大内家はこれを伝え聞くと安からず思い、急ぎ討手を遣わそうとしたものの、思いもよらずそれが延引した所に、
少弐資元は対馬の宗対馬守義盛を通して京の将軍家に訴え、家断絶を嘆き申し上げると、将軍足利義稙公は
この訴えを御許容あって、肥前守に成し給わった。

大永の末の年、肥前国の筑紫尚門、朝日頼貫の讒言によって、大内氏(大内義隆)は少弐資元を滅ぼそうとし、
大宰府に在った大内の代官・杉豊後守興運は筑紫、朝日と談合して、享禄三年の秋、1万余騎を催して
東肥前に乱入した。この時少弐資元は多久の城に隠居し、新たに嫡子の少弐冬尚が綾部城を守っていたが、
馬場、横岳、武藤出雲といった人々を駆り催し、東肥前に出向して天地をひしめき防ぎ戦った。

杉の軍は勝ちに乗じ、少弐冬尚は退いた。神埼に陣していた龍造寺和泉守(家兼)は、家門である少弐の
難儀を聞き、一族を率して一つになり先陣に進むと、保、高木、小田、犬塚等の諸侍も鞭を上げて少弐に
馳せ加わり、田伝村にて相支え、ここを最後と戦ったものの、少弐方はついに敗色になって、先陣の龍造寺勢も
御陣が崩れようとした、その所に、

ここに誰とも知らぬ、赤装束の赤熊(の面をつけた)武者が百騎ばかり陣中より出て、追いかける敵を切り崩した。
杉方は思いもかけず突き返されたため色めき立った。これに剛忠公(龍造寺家兼)は大いに力を得て、自ら諸卒を
いさめ、突き戦った所、中国方は散々に敗北し、討たれる者数しれぬ有様であった。朝日頼重と筑紫尚門は
ただ二騎踏み留まり、「返せ返せ!」と呼に敵を数多討ち取ったが戦死した。その他少弐方が討ち取った
首は八百余級であった。

少弐冬尚は勝鬨を執り行い、龍造寺剛忠公の軍功を感じて、同国川副庄一千町を授けられた。大内は安からず思い
将軍家に少弐を誅するべしと訴えたが、御免無き故に双方無事となった。

かくして龍造寺剛忠公は御帰陣の後、あの赤熊武者について問うた所、その答えは
「彼らは本庄村の牢人、鍋島平右衛門尉清久父子とその一族です。年来彼の地に居住し、いかにしても
今後の機会に武功を顕して一所でも安堵を得たいと思っていた所に、今度の乱が出来て、これを幸いと
討ち出てきたわけですが、『中国方に付くべきか、少弐殿に参るべきか』と疑議を成し、本庄の神社に参り
鬮にて占い、その結果として参ったのです。」

これを聞いて、龍造寺剛忠公は御感のあまり、鍋島清久の嫡子・左近将監清正を聟に取ろうとしたが、既に
妻が有ったため、次男・孫四郎清房を、嫡子である龍造寺家純公の御娘に娶せ、本庄の八十町を聟への
引き出物とした。彼は後に、駿河守清房・法名剛意と名乗った。
これより龍造寺剛忠公の威勢次第につのり、近境を覆わんとした。

(肥陽軍記)

少弐勢が大内氏を破った田手畷の戦いと、鍋島清久の「赤熊の計」についてのお話。



553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/20(月) 21:12:49.07 ID:RWxrI8n9
>>549
熊さんなの竜造寺じゃなくてむしろ鍋島直茂のおじいちゃんだったのか
肥前の熊って異名となんか関わりあるのかなー

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/22(水) 19:08:20.57 ID:33CWx1bL
>>553
サラッと流されてるけど龍造寺家兼はこの時点ですでに77歳のお爺ちゃんだよな

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/23(木) 00:11:18.39 ID:wsaLouGR
>>573
凄いな。人望もあったんだろうな。

大寧寺の変と、宗像氏男の最期

2020年01月10日 16:39

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/10(金) 02:57:24.25 ID:WBNtECPA
天文二十年八月六日、宗像大宮司氏男、香月次郎左衛門隆光は宗像を出発し、同九日、山口に参着した。
相良遠江守武任を通して、大内義隆に参勤の御礼を申し上げたい旨を申し入れた所、同十一日、両人ともに
築山の御所に召され、義隆より「遠国よりの参勤、神妙である。」との言葉を頂き、また大友、島津などの
軍某もお聞きになられ、九国(九州)の太平を祝し、ご機嫌、殊の外麗しく、「両人ともに路次の労をも
休められよ。」と仰せになって、氏男、隆光は己の旅館に帰った。

そのような所に、同月二十六日、大内義隆の家老、陶尾張守興房の子息、五郎隆房は義隆公に怨みを奉る
事があり、逆心を企て山口を攻めんと若山の城より出撃したという話が聞こえたため、義隆は宗像氏男香月隆光
に五百余騎を差し添え千把ヵ嶽に差し向けられ、陶方の宮川甲斐守、江良丹後守の二千余騎と戦っていた所、
搦手の方面での合戦が敗れ、早くも築山の御所に火が掛かり、義隆公は行方も知れず落ちられたと、黒川刑部が
使いに来て伝えた、これを聞いて「今はこれまでである」と、宗像氏男香月隆光は打ち連なって長門国へと
落ちて行った、相従う軍勢は皆散り散りに落ちて行った。

深川の大寧寺に義隆が居られると聞いて尋ねて行ったが、はや昨日御自害されたと言われた。
両人ともに力を失い、「大内殿の家の滅亡、この時に究り、本来義隆公に従う義務のない公卿殿上人さえ皆討死、
或いは自害された。我等は武門に生まれ、生きて帰って誰に面と迎えるというのか。」
そう言うと、両人ともに腹を切って死んだ。あわれなる事共である。

(宗像軍記)

大寧寺の変と、大内義隆の跡を追った宗像大宮司・宗像氏男(黒川隆尚)の最期



742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/10(金) 20:02:13.30 ID:/JcGRl1J
>本来義隆公に従う義務のない公卿殿上人さえ皆討死、或いは自害された。我等は武門に生まれ

後世からみたら宗像氏は武士化した社家で
軍事貴族たる武門ではないように思えるんだけど
当人たちの「武門」意識は面白い

 宗像の家摂津守氏国(13世紀前頃)よりこのかたは、もっぱら武門となり……
 この氏俊(14世紀初頃)の時にいたりては、猶更武士をこととして、
 神職の事はなばかりにて、四季の祭祀を勤むる事をいといければ

743 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/11(土) 11:02:53.43 ID:Ihnuve94
厳島の神主家然りで武門とのつながり強いとそう言う風になってくんじゃないかな?

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 15:14:21.83 ID:Sy0WILvA
>>743
摂関家なんていう貴族中の貴族の土佐一条も、立派に武家扱いだしなぁ。

時代が南北朝まで遡ると、北畠顕家は、親の北畠親房が建武の新政以前でも権中納言、自身も参議で公卿なのに、ほぼ武家扱い。

もっとも、南北朝期は懐良親王とか護良親王みたいに
皇子ですら前線で戦っていたわけのわからない時代だけと。

なにゆえその始めよりその教えを当地方に弘布せしめず

2019年09月09日 18:13

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/09(月) 13:25:58.89 ID:bFJF2ZJX
(山口に於いて)他の人達来たりて、「デウスがもし全世界の救主、または統治者であるならば、なにゆえ
その始めよりその教えを当地方(日本)に弘布せしめず、今日に及んだのか。」と問うた。

「デウスの教えは世の初めより今に至るまで世界の各地において、人間の意中に明示されている。
無人の森林の中で成長した者も善悪を識別し、他人が己に対して成すことを欲しない事を、他人に対して
成すのは罪であると承知している。」

我等はかくのごとくして十誡を説明し、

「彼等の創造主もこれを教え給えるため説教者に付いて学ぶ必要は無く、第一誡の魂を造り給えしデウスの
あることは、理性を有する人間ならば、誰であっても考えつくことを得る。

父母がもし自力によって子を生むのであれば、望み次第にこれを有するべきだが、子女を望んで得ない者、
また望まぬのに多数を有する者がある。

人がもし己に対して他人がするのを欲しない事を他人に対して行わず、また彼を造りし者を崇敬すれば、
デウスの教えを聴いたことがなくても、デウスは己を救うべき光明を授け給うだろう」と答えた。

彼等はまた、「智力が充分ではなくこの事を理解するに至らず、また己を造りたる者を知らない者も
多いが、彼等は一体どうなるのか。」と問うた。

「彼等の智力が足りなくても、そのわずかに知る所を善用し、その知れる悪しき事を悉く棄てて善を
行うならば、デウスは御慈悲深く、また何事も見給う故に、彼が受けた恵みを善用するのを見て、
己の霊を救うために成すべき所を心中に感得せしめ、道理に反して木石を尊崇せず、人間を救う力のある
真の聖者を尊崇せしめ給うだろう。

このようにして自然の教えに従って生活すれば、デウスの御慈悲によって己を救うべき徳を獲得すべし。
懲罰を招く者は、その責は己に有り、我等の主デウスの御恵が欠けていたからではない。彼等は道理に
反したことを行い、創造主にあらざる木石及び人間を崇拝して多くの罪を犯した故に、救いを受けることが
出来なかったのである。」

右、ならびに他の質問をなせし者は甚だ多数であり、朝から夜に至るまで屋内に充満したが、
パードレ・コスモ・デ・トルレスは彼等を悉く満足させた。この地の坊主達は我等がその罪を攻めるが故に
我等を悪口し、或いは悪魔が一つの偶像を通じて、我等はその門徒であると告げたと言い、また悪魔が
我々の存在故に、天より投げた雷が王(大内義隆)の家に落ちたのを見た者が多いと語った。
また我等は人間の肉を食べると言って、我等を疵付けようとする者もあった。

主はまた戦争を起こして(大寧寺の変)我等に艱難を下し給うたが、戦争は国王が死んで止んだ。
当市は八日間火と血の中にあり、この際行われたのは勝者万歳の法律にして、或いは報復のため、
或いは略奪のため人を殺した。この期間我等を憎み、また我等の有する僅少なる物を略奪しようと欲した
者たちは、常に我等を捜索した。我等はしばしば大いなる死の危険を冒したが、主に仕えんと欲する者を
特に護り給う御慈悲深き御手は我等を一切より救い給うた。

(1551年10月20日(天文二十年九月二十一日)付イルマン・ジョアン・フェルナンデスフランシスコ・ザビエル宛書簡)

キリスト教の布教初期の、日本人からの有名な疑問と、それへの解答を記録した記事。
つまり「布教する前から神の教えはみんなの心の中にあったんだよ!」という話ですね。



あまり顕栄でない血統の一貴族

2019年08月28日 16:01

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/27(火) 22:09:29.53 ID:6GqkOQEB
山口の王大内氏(大内義隆)と、その後を継いだ王(大内義長)が死した後、あまり顕栄でない血統の
一貴族(毛利元就)が、智慮と勇気とによりかの十三ヵ国の領主と成るに至った。山脈と日本の銀の
鉱山とを有する石見国 Yuami がその中に在る。この王は生存中常にキリシタンの敵であって、かつて
パードレを国内に入れなかった。彼が死して後に残した三人の男子は皆武勇と才幹の有る者であったが、
国を継いだ長子(隆元)が間もなく死し、後に残った一子(輝元)は未だ年少であったた故、二人の叔父を
後見として領内の支配を委任した。

年長の方の叔父は名を吉川殿 Quicauadono (元春)と言い、年齢は六十歳に近く、金銀の鉱山を有する
沿岸の諸国を納めている、

もう一人の叔父は小早川殿(隆景)と言い、年齢五十歳で、豊後の対岸に在る伊予国を治め、また天下の君
との交渉に任じ、その兄よりも有名になった。ただし両人ともその甥輝元 Teromoto を主君と奉じている。

同人は山口より5日路の安芸国の吉田 Yoxinda という城に居る。かの王たち(約40年前山口に於いて殺された)
の死後、かつて山口には居住せず、副王及び諸役人のみをそこに置いている。織田信長はその死に至るまで
多年この小早川殿と戦い、その信長の総指揮官として実際に戦い、勝利を得て6,7ヶ国を占領した者が、
今天下の君である関白殿(豊臣秀吉)である。

この山口の市(現在1万の人口を有するという)は、破壊されるまで日本で最も優れて人口の多い市であったが、
今は全く、昔の繁栄と異なった状態である。

(1586年10月17日(天正14年9月5日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

フロイスによる毛利についての記述



大内とは 目出度き名字 今知れり

2019年04月03日 18:04

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/03(水) 13:51:06.14 ID:5i1rn27A
大内多々良の義隆は、防州山口、鴻ノ峰の御館を普請し、並びに新造に屋形を輝くばかりに磨きたて、
北の方(室町殿物語は持明院基規娘とする。万里小路秀房娘の誤認か)を移し参らせ、築山の御前と
号してかしずいた。

しかし姫君は都を恋しく思い、事の折に触れては言い出されたため、義隆は「ならば当初に都を移そう」と、
一条から九条までの条里を割り、四カ国の大身、小身の屋形を、いからを並べて造った。京、堺、博多の
商人たちも、軒を争い続けて店舗を建築した。大内領国の諸侍は、朝暮に出仕を遂げ、彼らがこれを
大切にすること記すにいとまあらず。

それだけではなく、諸門跡をはじめ、公卿、殿上人、又は五山の惟高和尚達を請待し、ある時は和歌、管弦の
遊び、またある時は詩、連句の会を朝夕の業とし、その他京都、南都(奈良)よりも申楽の名人を
呼び下し、能芸を尽くさせ、さらには茶の湯を催し、和漢の珍器を求めて弄んだ。

さるほどに、国々より諸商人が山口へ到来して、毎日のように市町が立った。されば防州には時ならぬ
春が来て、山口は「花の都」と唱えられた。

この当時の京都は廃れ果てており、山口の繁栄に及ぶべくもなく、であれば山口の一条の辻に、いかなる人の
手によるものであろうか、このような札が立った。「九重の天こゝにあり」として

 大内とは 目出度き名字 今知れり
         裏の字略せし 大内裏とは

(室町殿物語)

大内義隆の時代の、山口の繁栄の様子。



770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/03(水) 13:55:12.43 ID:xCkas3Ae
文化方面に行く人は……ね

“大内本”

2019年04月02日 18:09

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/02(火) 17:44:28.73 ID:caEwBzl0
大内介(大内氏)は西国一の大名であった。周防山口の城に居住した。紙を大明に遣わし、書物を
刷らせて取り寄せた。今に至って“山口本”とも“大内本”ともいう。

この家臣に陶氏あり。陶は後に大内を取って除け、繁昌した。大内は子孫かすかにして信長の時分
まではいたという。

毛利元就は陶・尼子などを滅ぼして大名となる。元就の父を弘元という。弘元の時は、いまだ微々
たるものであった。

――『老人雑話』


吉川元春と陶隆房の兄弟の昵契

2018年07月21日 18:14

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/21(土) 17:06:40.52 ID:t7W75aUO
天文18年8月3日、毛利元就、隆元、吉川元春小早川隆景の父子四人は山口へ下向した。
熊谷伊豆守、香川左衛門尉、飯田越中守、山県筑後守、山田の一族である羽仁己斐以下の者達も
これに従って下向した。大内義隆はこれを大いに喜び、毛利に随従してきた者達には安芸への帰国を許し、
毛利父子四人は山口に逗留させた。この時、大内義隆は家臣である内藤氏の娘を養女とし、毛利隆元との
婚姻を望み、婚約を調えた。

また吉川元春と陶隆房に兄弟の昵契を結ばせた。
この時吉川元春からは吉光の脇差が引き出物として出され、陶隆房からは、天下無双の名馬である「近江黒」が
出された。この馬は近江の六角氏より将軍足利義晴へ奉られ、柳営より大内義隆に下されたのを、陶隆房が
給わり、この度元春に進められたのだ、と聞き及んでいる。

(安西軍策)

陶隆房と吉川元春が義兄弟とされた時のお話


宗像大宮司より見た大寧寺の変

2018年05月20日 17:51

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/20(日) 17:45:33.12 ID:YeJdzbDA
天文20年8月6日、宗像大宮司氏男と香月次郎左衛門隆光は、宗像を出立して同9日、
山口へと参着した。そして相良遠江守武任を通して、大内義隆に参勤の御礼を申し上げたい旨を
申し入れると、同11日、両人供に築山の御所に召され、義隆より直々に「遠国よりの参勤
神妙なり」との言葉をいただき、また大友や島津の軍謀の事なども聞かれ、九国(九州)の
太平の事を祝し、ご機嫌殊に麗しかった。

そして「両人供に路次の労を休められよ」との仰せにて、宗像氏男香月隆光は自分の旅館に戻った。


このような所、同月26日に、大内義隆の家老である陶尾張守隆房は、主君義隆へ恨みを持つ
事があって、逆心を企て山口を攻めようと若山の城を出陣した、との情報が聞こえた。
宗像氏男香月隆光大内義隆に命ぜられ、五百騎あまりを付けられ千把ヶ嶽に差し向けられたが、
陶方の宮川甲斐守、江良丹後守率いる二千騎と戦いもみ合っている所に、黒川形部より使いが来て、
『山口の搦手が敵に破られ陶勢が乱入し、築山の御所にも火がかけられ、大内義隆は行方も知れず
落ち行かれた』と伝えられた。

宗像、香月は「今は是迄」と打ち揃って長門国へと落ちていくと、付き従う軍勢はみな散り散りとなった。
そんな中、深川の大寧寺に義隆が居るとの情報を聞き、ここを尋ねていったものの、早くも昨日
御自害されたと言われ、両人供に力を失い

「大内殿の家の滅亡は此の時に究った。本来そうする必要のない公卿殿上人までみな討ち死にし、
或いは自害されたという。我ら武門に生まれ、生きて帰って誰に面を向けるべきだろうか。」

そう考え、両人ともに腹を掻っ切って死んだ。あわれという言葉もない。

(宗像軍記)

宗像大宮司より見た大寧寺の変


宗像氏男跡目の事


大内家滅亡

2018年04月05日 17:54

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/04(水) 20:58:14.12 ID:Y93a5UA7
天文二十年七月、細川右京太夫晴元の軍勢が近江坂本より打ち立て京の相国寺に陣を取った。
しかしこれに敵対する三好筑前守長慶は、七月十四日、相国寺へ押し寄せ火をかけ攻め込むと、
晴元勢は一戦にも及べず散々に落ちていった。(相国寺の戦い)

この時、京はこのように乱れきっているが、西国は猶静謐であるため、公方足利義輝、および
細川晴元は、猶も三好が京に迫ることあらば、慧林院殿(足利義稙)の時のように、中国の
大内の元へ御動座あるべき由、内々に評定がなされた。

ところが、その年の天文二十年九月二日、大内義隆の家老である陶晴賢が謀反を起こし、
大内殿を攻めたところ、不慮の一戦叶わずして、義隆は長門国に落ちていった。

その頃、京都の大乱の故に、公家衆も多く大内殿を頼んで周防へ下向され、
禁裏様(天皇)をも山口に行幸されるようにと、大内は多年に渡り支度をしていた。

しかしこのような災い起こり、前関白二条尹房、持明院中納言元規、前左大臣三条公頼といった
人々がここにて自害した。
大内殿は長門国深川にて自害。御年四十五歳であったという。藤三位親世、藤中将良豊も
自害された。

この人々は都の乱を避けてこの国に下られ、このように亡んだこと。一業所感(人はいずれも、
同一の善悪の業ならば同一の果を得るということ)とも言うべきであろう。

陶晴賢は主を亡ぼし、豊後の大友義鎮(宗麟)を頼み、次弟を申し受けて大内八郎義長と号し、
山口の館に移しこれを主とし、自分は執事となり、心のまま振る舞った。
そして子息の阿波守(長房)に家督を譲り、入道して法名全羨と号した。

(足利季世記)

足利義輝細川晴元の周防亡命の計画が有ったとか、大内は山口に天皇まで迎え入れようとしていた
らしいとか、大内が亡びなかったら戦国史はどうなっていたんでしょうかね。



陶興房、我が子を殺害すること

2017年12月10日 17:56

陶興房   
401 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/12/10(日) 10:58:48.78 ID:OPxf38VL
陶興房、我が子を殺害すること

大内義興・義隆の家老を務め軍事政治に活躍した陶興房には1人の麒麟児とも言うべき嫡男が居た。
名を次郎興昌。彼は器量骨柄に優れ、父興房をして
「次郎は武も文も全備し、そのほかの芸能の道から弓馬は達者だし乱舞にも堪能、詩歌・管弦に至るまで、
人間がたしなむべき道では何一つとして劣ったものが無い。今の乱世において希有な存在である」

と評されるほどであった。しかし次郎は常日頃から何れ自らの主人となる筈の義隆を見掛けると、
「隋の煬帝の詩に出そうな大将だ。坊主くずれか流浪の公家みたいな事ばかりして、こんな人を武士が主君と仰ぐものではない」

と影で馬鹿にしており父の興房も次郎のその様な言動を知ると、一抹の不安を覚えた。
ある日越前より幸若太夫が下向して来た折、義隆は太夫に烏帽子折を所望した。その舞を見た者は貴賎問わず感動し、涙に袖を濡らさぬ者は居ないほどであった。
興房が宿に戻り次郎を呼ぶと
「お前は何時も好んで舞を踊っているが、幸若の音曲も習ってみるか?」
と言うと次郎は
「私が幸若を真似るのは実にカラスがカラスの真似をするようなものですが、父の命であれば、似せて舞ってみましょう」
と扇を手に取り、手拍子を打って舞った。
次郎の舞は、先に見た幸若の舞よりもさらに趣深いものだった。
興房は我が子の才能に驚くと共に、これでは次郎は才を鼻にかけて益々主人の義隆様を侮る様になるのではないかと不安を高めていった。

またある日、大明国から義隆に書簡が送られた際のこと。義隆は香積寺・国清寺などの長老西堂を呼び集め、その書簡を訳させた。
その末座に陶次郎も列席していたので、興房は自宅へ帰ると、次郎を呼び寄せ
「お前は今日の書簡の内容を覚えているか?」
と問うと、次郎は
「末座で一度聞いたところで覚えられるわけがないでしょう。しかし推量で内容を当ててみましょう」
と言うと硯に墨をすり、聞いた内容を書き記して読み上げた所、その内容は一字一句違わぬ上に読み上げる口上も非常に立派なものであった。
その後も興房は注意を払って次郎を観察していたが、次郎の器用才芸にはさらに磨きがかかり、また主人義隆を軽んじるような考え方もやめなかった。
父の興房は、
「次郎は将来、義隆卿を侮って主従の礼を乱し、大内家の頭痛の種になるかもしれない。主君の御ためを思えば、わが子など取るに足らない」
と考え、ひそかに次郎に毒を飲ませた。
次郎は十五歳(墓の説明には二十五歳)になった春のころに、哀れにも亡くなってしまった。

その後陶興房は、問田紀伊守の嫡子を養子として、五郎隆房と名乗らせ跡を継がせた。
(陰徳記)

陶五郎隆房、後の陶晴賢である。



402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/10(日) 13:59:52.11 ID:TC+Z/ZXd
>>401
なんという皮肉w

403 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/12/10(日) 14:37:48.38 ID:AbautfzL
陶さん家は興房の長兄である武護が在京中にいきなり摂津へ出奔して坊さんになって3年後に帰って来たかと思ったら次兄の興明を殺して家督を奪い、
当時筆頭家老の内藤弘矩を讒言で死に追いやった後讒訴がバレて義興から死を賜った末に興房が家督を継ぐと言う何か最近似た様なアレな事件が起きてたり何かもうアレよね…
義興義隆時代にまともに大内家に忠を尽くしたのが興房だけなんじゃねーか?って言う…

404 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/12/10(日) 15:03:34.26 ID:AbautfzL
て言うか、調べたら父親の陶弘護暗殺事件も色々闇が深そうだなぁ… 大内家の内情ェ…

槌山城降伏の事 平賀隆保切腹の様子

2016年12月04日 10:29

382 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/04(日) 07:02:14.27 ID:sRqYOh7K
槌山城降伏の事 平賀隆保切腹の様子

>>345の続き
毛利隆元率いる吉田勢と吉川元春率いる新庄勢は仕寄をつけ井楼を組み上げ間断なく城を攻め立てた。
城中はたまりかねて、平賀新四郎隆保・大林和泉守が切腹することで
諸卒の命に替わりたいと申し入れてきたので、それを許可した。
平賀はいよいよ自害するときになって、介錯の者に向かい、
「私が合図するまで打つな。もし合図よりも前に打ったならば、悪霊になって憑り殺してやるぞ。そのときになって私を恨むでない」
と介錯の者に言った。
隆保は刀を抜いて西へ向かい、八識田中に阿字の一刀を下し、
「生死又截、涅槃又截」と唱えて腹を十文字に掻き切ると、臓物をつかんで手繰り出し、何度も切り刻んで捨てたけれども、まったく弱る様子がない。
新四郎は槌山城主の菅田たちに向かって、
「腹を掻き破ったらもう死ぬしかない。どうすれば私は死なないでいられるだろう。
硯と料紙をくれ。最後に歌を詠もう」と言い、
すぐに硯と料紙が整えられた。

隆保は硯を引き寄せ筆を浸して、歌を一首詠んだそうだ。
筆の勢いや墨の乗り方は、平常のときとまったく変わらなかったという。
「昔の物語でならこのようなことを聞いたことがあるが、
今目の前でこのような勇士を目にするとは」と、人々は皆舌を巻いた。
その後、新四郎は「さあ、首を打て」と言ったので、介錯の者は首を打ち落とし、隆保は漸く果てた。
大林はこれを見届けた後、腹を一文字に掻き切り介錯を受け隆保に続いた。
槌山開城の後、尾和秀義大内義隆から派遣されていた者らは皆帰され、これを受け志和の米山城に籠る天野隆綱は元就に従い大内義長に属する事となった。

雲州侵略会議、大内家終わりの始まり

2016年10月09日 12:33

188 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/09(日) 01:11:35.87 ID:IrCiT5D0
雲州侵略会議、大内家終わりの始まり

1541年正月14日、前年より吉田郡山城を攻めていた尼子晴久の率いる三万の雲州勢は長き攻防の末、毛利元就と陶隆房率いる大内方の援軍の前に撤退を余儀なくされる。
余勢を駆った毛利元就と陶隆房はそれぞれ芸州の反大内勢力である、佐東銀山城の安芸武田氏と、桜尾城の友田氏を滅ぼし芸州の勢力はほぼ大内方へ靡く事となった。
また、先の吉田郡山城合戦まで尼子方だった芸備雲石の国人13名(三吉広隆、福屋隆兼、高野山久意、三沢為清、三刀屋久祐、本庄常光、
宍道正隆、河津久家、吉川興経、山内隆通、宮若狭守、古志吉信、出羽助森)が陶隆房に
「義隆卿が自ら雲州を攻められるならば、我ら13名は味方し先陣いたします。尼子を退治した暁には備雲石の三国から身分の大小に関わらず今の所領と同じだけの所領を御加増下さい」
と内応を申し出た。
是を受け陶隆房は直ちに主君義隆にこの事を申し上げ、雲州攻めを上申。義隆は叔父の大内高広、杉、内藤、青景以下の家臣や子らを集め相談した。
隆房は他の意見を聞こうともせず、尼子攻めを主張。その主張はこの機を逃しては先の13名の国人どもに義隆様は父君義興公に智勇劣ると侮られ、再び尼子へ掌返され今後当家に味方する者は無くなるでしょう。
1日も早く雲州を攻める決を下されます様にと、大変強い物であった。
誰もが押し黙る中、相良武任が進み出て、
隆房殿の仰る事はもっともながら、幾ら13名の国人が味方しようと今我らが雲州を攻めれば先の尼子晴久が毛利の吉田郡山を攻めた二の舞となるでしょう。
先代義興公も雲州攻めを画策したものの九州の敵が筑、豊を攻めた事に妨げられ、事を為し得ませんでした。また今の尼子方の郎党には英雄豪傑数多く、軍勢も当家が殊更多い訳ではありません。
ここは石州から陥れ、一城ずつ落として兵を堅め徐々に雲州を攻略してはどうだろうか?
隆房殿が戦いを急がれ敵をたちどころに打ち破ろうとするのは戦法として危うい。
先ずこちらが負けぬ工夫をし、戦わずして勝つと常々おっしゃっておられる事こそ、隆房殿の御父興房殿もご存知のところです。
今義隆公のご智勇、先代義興公に劣っておられる筈はありませんが、老功の将と若年の将とでは、世間の対応からして全く違います。
若き義隆公のご武勇のみを頼りに、敵を打ち破る事容易く思い数カ所の敵城を越え月山富田城まで進攻の作戦を立ててもご勝利かどうか甚だ確かではありません。
それにしても隆房殿が武勇を誇り敵を侮られるのは頷けない事です。
今少し他の国人の意見も聞くべきです。
と意見を述べた。次に冷泉隆豊
隆房殿、武任殿お二人の言い分どちらも理にかなっています。隆房殿が言われる通り敵の国人数名が同心して味方に加わりその上敵軍が吉田表で敗軍した折ですから、この破竹の勢いに乗り敵国を攻めるは道理にかなっています。
また武任殿が義興公の遠路ご進行の経験を例に出されたのもごもっともです。私からご両人の議を相兼ている謀りごとを申し上げましょう。

まず芸州へ進攻し、味方に与する国人たち、同じく備後の侍達から人質を取り堅められ、次に石州に暫く在陣して本庄、小笠原、更に雲州の三沢、三刀屋、河津などの人質も取り、
赤穴の城を攻め落として軍士を入れ、その後出雲に攻め入り降る者から人質を取り、敵するものは城を攻め、尼子の本拠を攻め急ぎする事なく、国中の城々を味方で守り堅め、謀りごとを先にして戦いを後にすれば敵は士気衰え、やがて降旗を立てるでしょう
と述べた。満座の者はこの意見に賛同し、その日の評定はこれで決着がついた。
しかしながら、隆房と武任とはこの時の議論に互いに含むところがあり、泥中に荊あるがごとく、たちまち不和となって、これがついには大内家滅亡のもととなったという事である。



189 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/09(日) 08:24:07.32 ID:Xify1bNh
相良のが陶よりまともな事言ってる気がする

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 08:39:49.17 ID:t9v3aFpB
冷泉発言は後年元就が行った尼子十旗&月山富田城攻略戦そのものだったりする
でも陶の性格からして相良や冷泉のような戦略を取るのは無理だろうな

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 11:40:43.39 ID:Oau9qfpR
>>189
ただの慎重論、臆病者あるあるです

192 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/09(日) 11:49:45.17 ID:YB5Da6Hm
>>191
お晴カス

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 14:26:28.85 ID:Oau9qfpR
>>192
臆病者久幸おつ

197 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/09(日) 15:07:23.02 ID:YB5Da6Hm
>>196
(晴賢の晴だったんだけどなぁ…まいっか)
その臆病尼子比丘尼に救われたのは誰でしたかのう?

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 21:57:38.33 ID:Oau9qfpR
臆病者あるあるですね

199 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/10(月) 07:43:12.23 ID:dtnoel3P
経久「晴久君、ちょっと話があるから雪隠裏行こうか」

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/10(月) 11:04:09.18 ID:M8uKGH4G
老害おつ

一休さんと次休さん

2016年09月24日 09:06

103 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/24(土) 06:59:51.42 ID:O5X/52cq
一休さんと次休さん

大永四年(1524年)、大内義興が嫡男義隆らと共に2万の兵を持って尼子経久に属する安芸の諸勢力を攻めた時の事。
安芸の守護武田光和が篭る銀山城を陶道麒(興房)と包囲した義隆であったが、堅固な銀山城の前に城攻めが長引いていた。
そんなある日、義隆は諸軍に備えを解かぬ様固く申し付けると、道麒を誘い根の次休蔵主の旧跡を見に土地の古老を道案内として出掛けた。

山を越え、谷を深く下り、道も細く丸木の橋も朽ち掛けた道を行き、漸く次休蔵主庵の跡へ着くと、
百年余りの歳月を経た為今や庵室は跡も無く成り果て、境界さえ見分けがたく、深い苔に礎も埋もれ、池の水は枯れ果て(以下長いので略)… と言った有様であった。
義隆は眼に映るものごとに心を動かされ、蔵主の昔のことを聞きたく思い、道案内の老人に話を乞うた。

古老曰く、申し伝えによれば百年余り前三蔵主とは。山城紫野の純蔵主(一休)、伊勢の養源寺の虎蔵主、それに安芸の次休蔵主のこととか、いずれも世に聞こえた禅僧であった。
その一人の一休禅師はある日「安芸の次休は深山の中に入り、跡をくらまし、名を隠そうとしておる。かの所に赴き、その邪か正かを見分けよう」と、次休に会いに紫野を旅立った。
次休蔵主は現在過去未来三世通達の僧ゆえ、一休の訪問を予め感知し、侍者に向かい
一休宗純が私を試みようとたった今、龍宝山を、出発したよ」
とおっしゃり、そののち
「今日こそ到着の日、美味い魚を取ってもてなしてやろう」
と遥か遠い川辺に出て、釣り糸を垂れていた。一休はもとよりこれを知らぬが、川辺まで来て釣り糸を垂れる次休に
「これ、おじいさん。次休蔵主の庵室を知っておいでか?」
と問うと、次休は
「あなたは純蔵主でしょう」
と答え、一休は愕然として
「あなたは神通方便でも得ておるのか?なぜ拙僧の名を知っておられるのか?」
と尋ねた。次休はこれに
「貴方は私を試みる為にここまで来たのでしょう、私が次休です。」
と、名乗り手をたずさえ庵室に入り歓談が始まった。

104 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/24(土) 07:00:01.39 ID:O5X/52cq
次休は自ら釣ったすずきの膾やじゅん菜の吸い物を進め
「あなたの旅の疲れを慰める為、わたしの神通方便をお見せしましょう」
と、皿の中の銀糸に作った膾をとって、むしゃむしゃと噛み
「この魚を再び元の魚に返してみせましょう」
と皿の上に吐き出した。」
すると、すずきはたちまち生き返って跳ね上がり、龍門三級の波を起こす程の勢いであった。
一休はこれを見て
「あなたは魚を再び生きた魚とされた(中略)拙僧はまたこの魚を仏にしてお目にかけましょう。」
と言うと、裳裾を高々と掲げて、
あああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!(ブリブリブリブリュリュリュリュリュリュ!!!!!!ブツチチブブブチチチチブリリイリブブブブゥゥゥゥッッッ!!!!!!! )
と敷物の上に糞を垂れ
「万法は一に帰す。食は尽く糞に帰す。されば糞中の虫である三世の諸仏は、この中に隠れておりますぞ。
昔の少康師は、一度南無と唱えれば、一体の仏、口より湧き出でさせ、続けて十声唱えれば、十体の仏を出したとか。
彼は口中より仏を出だす。拙僧は肛門から仏を出だす。少康師よりなお勝っていることよ」
と、手を打って大笑いした。

次休、これを見て「風顛漢め、人々をたぶらかすまいぞ」とおっしゃって、また一杯の水を口に含んで吐き出されると、炎となって空中にほとばしった。
一休は「あなたは孫博が草木をしてみな火光に変じた術を会得しておられるのか。(中略)拙僧もまた活手段を行じましょう」
と、鉢の水を飲んで、仏殿の内に向かい小便をし、「あなたは水を転じて火をなされた。拙僧はまた、山は是れ山、水は是れ水じゃによって、元の水に返したのじゃ」
とおっしゃった。
次休は「あなたは私を試みるがため、こうしてわざわざやって来られ、私はまたあなたの知恵を計るため、このような方便をお見せしました。
あなたはいまだ神通力を得ておらぬものの、自由自在の手段を用いられた。おかげさまで今日初めて高僧と言うものにお会いできたわけです。
我が禅宗、この国に伝わって年久しいが、今あなたが現れて、さだめし大いに世に興隆することでしょう」
と褒め称え給うたと申します。一休もまた「わたしもまた、生身の文殊支利菩薩にお会いできました」と、三度拝礼して、やがて暇乞いし、帰京した。(長いので以下略)


(陰徳太平記)



105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 07:57:01.24 ID:XO9yYF3G
ダイナミックすぎる

107 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/24(土) 09:18:00.61 ID:IZtf/wAU
とりあえずこの後は京に帰った一休さんが、次休がナンバーワンだと周りに語ったり次休が超能力で遠くの寺の火事を消したりする話を古老がして大内義隆から褒美貰って
大内義隆が、安芸を征服した暁には此処にまた大きな伽藍を建ててやると語って、大内義隆の安芸征服は是からだ、義隆先生の次回作にご期待くださいエンド

>>105
奇人と名高い一休さんも後世に脱糞ニキにされるとは思うまい

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 15:49:26.64 ID:VxWqyVUz
>>103-104
一休さんの奇人エピソード多すぎぃ!
時代がちょっとずれそうだけど劇中劇?だからいいか。

鷹羽の心根

2016年03月08日 13:11

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/07(月) 22:17:29.27 ID:iMfW4Wz6
(大内)義隆公は、ことのほか芸能や美しいものを愛し、講西寺に立ち寄った際に
その境内で演奏をしていた流浪の芸人の笛吹きを召し抱え、さらにはその者の子供が
美童であり鼓に秀でていたため小姓として、鷹羽と名乗らせた。
陶(隆房)殿が兵を挙げると、義隆公は吉見(正頼)殿を頼って長門の大寧寺まで
落ち延びたが、そこで塀に囲まれ自害することとなった。
鷹羽も義隆公に従っていたので同地で殉死するか戦って死んだと思われたが、ある日、
山口の地でこれを見かけた者があった。
「義隆公のお伴をしたのではなかったのか」と問うと、「我が死んだごときではご主君への
恩は返せぬ。かと言って戦う力もないので、私のような者でもご主君の敵を討つことができる
機会を探しているのです」と語った。
それを聞いた相手は、他の者に「命を惜しんであのような嘘をつくとは、生まれが賤しい者は
心情も賤しい」と語り、それを聞いた者たちも鷹羽を臆病者・恩知らずと罵り嘲った。
半年後、陶殿を毒殺せんという企みが発覚し、その下手人として台所に紛れ込んでいた
鷹羽が捕えられた。
陶殿は豪気なおかただったので、主君のために尽くそうとした鷹羽に感心し、右腕の肘から
先を切り落とすだけで、鷹羽の命を許した。
鷹羽が臆病者であるという悪評はおさまったが、片腕となった鷹羽は得意の鼓で稼ぐことも
できず、乞食などして糊口を凌いでいたので、口が悪い人は「身の程知らずのことを企んだ
罰である。元の身分に戻っただけのことよ」と笑いあった。
そうこうするうちに、鷹羽の姿は山口から消え、誰もそのことを忘れてしまった。
弘治元年、陶殿は大軍を率いて安芸厳島に上陸したが、そこで毛利軍に敗れ自害なされた。
厳島から引き揚げの際、毛利軍は自軍の中に見慣れぬ怪しげ者が紛れ込んでいるのを見つけ、
大内方の兵が毛利軍の振りをして逃げ延びようとしているのだと思い、これを殺した。
殺された者は右腕が無く、素性を問われて「義隆公の恩に預かった鷹羽という者である」
とだけ名乗り、後は経文を唱えるだけで何も語らなかったという。
これを伝え聞いた(鷹羽親子が召し抱えられた場となった)講西寺の和尚は、鷹羽の心根を
哀れに思い、小さな墓を建て祭ったということである。
(防長古老説話集)

非力な美少年が、何としてもご主人様の仇を獲ろうとして果たせなかった(あるいは
果たせた?)哀しくも美しい話



439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/07(月) 22:49:39.00 ID:ZeNQm+KB
史記の刺客列伝か侠客列伝に出てくるような剛の者だな。
結果、名が高く残ったいい話だと受けとりたい

茶入・玉堂

2016年01月07日 08:17

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 21:52:48.17 ID:H+6WH/5C
 周防の山口太守大内義隆公、陶尾張守の謀反によって、同国の菩提所大寧寺にて自害した。
さらに尾張守は大寧寺を焼き立てて、僧俗によらず切り捨てた。

その内の出家の者であった玉堂和尚は、大寧寺へ義隆公から寄付された名茶入を三、四つに割り、鉄鉢の底に入れ、
危ういところから命からがら助かり都へ上り、茶入をくっつけて売り払った。
この茶入は継ぎ手があるというのでかえって値段も上がったという。

 この和尚は玉堂と申すので、そのまま茶入の名となった。

 この僧は尾張守が滅亡の後、この金子で大寧寺を再興し今も残っている。甚だ殊勝な出家のものである。
(本阿弥行状記)

この茶入と思しきものが徳川ミュージアムにあるのですが、
特につなぎ目みたいなものは見当たりませんでしたね..



150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 22:35:33.17 ID:L9nbHTsQ
大寧寺と言う法灯を今に繋いだと言うことか

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/07(木) 02:53:24.13 ID:VhdIqWPd
そして宗教へと続く

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/07(木) 03:58:53.66 ID:8GTdO5fn
継ぎといったら古織という勝手な思い込みがあるが、先人がおるんやな

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/08(金) 03:23:54.44 ID:iX36EQHW
必要もなく壊してくっ付けたのと一緒にすべきなのだろうか

大内晴持の死

2015年04月15日 18:32

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/14(火) 19:58:05.31 ID:xEnJ2PJf
大内義隆による尼子氏の富田城攻めは、大内方として在陣していた備・芸・雲・石の国人である、
三澤、三刀屋、宮山、山名、出羽以下、13人が一同に心変わりし、尼子に内通、
天文12年4月晦日、彼らが一斉に富田城に入ったことで一気に形勢が変わった。
この時尼子に内通しなかったのは、毛利、平賀、三吉、福屋、熊谷、天野、益田と言った人々であったが、
彼らもこの内通劇に驚き、翌5月1日は諸陣以ての外の騒動となったが、ここは陶尾張守(隆房)が
固く下知して、翌日には静まった。

しかしこの事態に、陶は大内家の老臣を集めこう申し述べた
「今度国人達の心変わりによって、家城に残っている彼らの一族が、防州との通路を塞ぎ兵糧を断ってしまえば、
我らが軍士が飢餓に及ぶこと確実である。先ず今回は、この陣を引き払い、再び九州の味方を催して
出陣すべきと考える。」

この事、大内義隆に伺いを立て、5月7日未の刻(午後2時頃)、大内義隆・義房父子は経来木山を引き払った。

義隆父子は、湯屋より別々の船にて退いた。この時、義隆の船に、取り残された者達が乗り込もうと
取り付いたが、冷泉隆豊が長刀で彼らを切り払い、無事漕ぎ出した。

陶・杉・内藤といった重臣たちは、湯屋まで義隆父子を見送って、再びの雲州出陣の為であると、
船には乗らず、その勢三千ばかりにて、白潟に廻って引き退いた。

大内義隆の養子である周防介義房(晴持)の船には、あまりに多くの者達が乗り込み、船子たちは
猶も乗り込もうとする者たちを、櫓で打ち払い漕ぎ出そうとしたが、なおも慕い来て取り付いたため、
ついに船は転覆し、義房を始めとして一人残らず溺死した。

この周防介義房は、土佐の一条大納言房家卿の子息で、義隆姉の腹であったのを、三歳の時より
大内家の養子として、従五位下に叙せられていたが、この年十一歳になられたと聞く。あるいは二十歳という。

異書に曰く、この時義房は雲州得ノ浦に落ちたが、敵が夜に入って大勢にて押しかけて来たため、
味方の者達は周章狼狽し、義房も危うき所に、篠山九郎左衛門という、義隆寵愛の扈従が駆け上がり、
「我こそ周防介である!」と名乗って、手の者2,30人と共に防戦した。

この間に義房は落ち延び船に乗ったが、この船が転覆し溺死したのだという。
篠山は暫く防ぎ戦ったが、従兵達は皆討ち死にし、逃げるべき方法もなく、今は義房も落ち延びたであろうと
考え、自ら太刀を胸に当て、そのまま伏せて倒れ、貫かれて死んだ。

その後、篠山はその浦の祠に祀られ、浜の宮と号し、それは今も存在している。
(芸侯三家誌)





富田城攻めの陣取り

2015年04月14日 18:37

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/13(月) 19:36:33.44 ID:WbwXWuQx
大内氏による出雲攻めの時のこと。

異書に曰く、山口勢は出雲の畤地という所に到着すると、評議の上、そこから富田の向こう、経来木という山に
陣を寄せるべきとの話になったが、これに毛利元就が反論した

「尼子は近年、武威が少し衰えたといえども、未だ数カ国を領し、近国の武士の大半は旗下に属し、
そのほか家中の諸士に至るまで、経久以来代々の武備に慣れて、武辺剛者の侍ども、多勢立て籠もって
おりますから、味方に卒爾の働きがあっては、却って落ち度があるでしょう。

であれば、城を急に攻め抜こうとの戦略では、勝敗は甚だ測りがたいと言えます。

ここは、富田より4,5里も隔てて陣を据えられ、諸所に軍勢を分けて置き、近国より尼子への
兵糧運送の通路を差し塞ぎ、防州との通路には、つなぎの城々をかまえ人数を籠め置き、兵糧を運送せしめ、
長々在陣の覚悟にて、次々と奇計を設けて、攻め悩ますようにすれば、敵は次第に弱り、
必ず落城の功を経てられます。これこそ、味方必勝の謀というべきです。」

そう、再三意見を加えたものの、大内義隆の寵臣である田子兵庫助(あるいは豊後)が
「経来木山は地の利完全であり、ここに陣を据えれば、たとえ城中より敵打ち出て付懸ってきても
危うい事はなく、城下の建物を放火して、取り巻いて攻めるにおいては、他所より兵糧を運送することも、
城内に取り入れることも叶わないだろう。ならば城中耐え難く、すみやかに落城するであろう。

そのように敵を、奥深く怖れるように計らうのは、却って味方の勇気を挫く端緒とも成る。」

そう頻りに申すによって、遂に義隆は経来木山に陣を寄せたのだという。

(芸侯三家誌)

結果は言わずもがなである



667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/13(月) 23:56:02.71 ID:i2yHmMl5
大内に従わない豪族が背後を脅かして補給線を寸断したことが敗因ですね
陣地にした山は確かに良かった

刀・脇差しと扇・鼻紙

2014年12月31日 17:45

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 22:11:32.08 ID:/ob9LCCD
ある時、曽根内匠高坂弾正に問うた
「良き大将なのに無行儀である事があります。逆に悪しき大将なのに行儀が良いこともあります。
これはどういう事でしょうか?願わくば高坂殿のご意見をお聞かせいただきたい。」

高坂これに
「それは、例えば侍が急の用で家を出る時、刀・脇差しを挿したものの、扇・鼻紙を忘れる
事がある。しかしこの時、刀・脇差しは忘れていない。それと同じように、良き大将は無行儀であっても
主人として名を得ること、あるいは徳ある儀に関して少しも問題はないのである。

例えば、織田信長は行儀の荒い人物ではあるが、人の目利き上手であり、池田・柴田・滝川・木下・丹羽・
河尻・佐久間などと言う者共、武辺がなければ分別が優れ、いずれも小身である者達から目利きをし、
取り立てて一廉の侍と、近国、他国まで名を響かせた。
すなわち信長は、扇・鼻紙を忘れても刀・脇差しを忘れぬ心を持っているのである。

さてまた、中国の大内殿は文ありて行儀は良いが、人の目利きが下手であり取り立てられるほどの侍でも、
10人中9人まで役に立たない。しかしそんな者達に沢山の知行を与え、人に対する詮索も不行儀であり、
仕置も悪しくあったために、重臣の陶という家老に国をかすめ取られた。この事で、大内殿は行儀がいいが
悪しき大将と人に言われる。すなわち扇・鼻紙を正しく忘れないが、刀・脇差しを忘れる心の
持ち主であるということなのだ。」

(甲陽軍鑑)

それにしても甲陽軍鑑は、大内をdisる時、何故かくも情熱的なのか。





127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 22:18:08.31 ID:bR3TdRI4
そりゃ大内ほどのわかりやすい反面教師はそうそういないからな

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/31(水) 10:03:50.41 ID:xypsizFZ
義隆って元々そういう性質なのかな
それとも息子を失ったことで変わってしまっただけなのかな
元親も信親を失ってからだいぶ変わってしまったみたいだよね

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/31(水) 11:09:42.11 ID:xypsizFZ
文弱の素質はあったけど、晴持死なせるまでは上手く文武のバランスとって他国圧倒してたよね>義隆
人生どこに落とし穴があるかわからん

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/31(水) 21:48:16.67 ID:kYm45lMl
大内は急進的な拡張主義者
だからつかえる人材も使えない人材をバカスカ入れて勢力を拡張する
10人取り立てて半分無能でも半分ものになったらそれでいいや、というタイプ
こういうタイプは攻勢にはいいが、守勢に陥ると弱い
なんでかってリストラが下手だからだ
一方信長や秀吉は、味方だろうが何だろうが苛烈に首を切ることを恐れなかった
まあそれで恨みも買ったわけだが