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大内か、陶か、

2014年08月18日 18:51

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/18(月) 13:46:30.58 ID:040eP83M
天文20年(1551)、陶隆房が主君・大内義隆への反抗を強め、大内家が大寧寺の変に向けて
緊迫の度が増す中、大内配下の有力国人である毛利元就のもとには、大内義隆方、陶隆房方双方より
加勢の申し出が来た。

このような中、元就の前に児玉三郎右衛門(就忠)が座していたが、元就は児玉に
「どちらに与するべきだろうか?」
と尋ねた。児玉は少しも思案する様子もなく、即座に
「陶に一味然るべきです。」
と答えた。これに元就は笑い出し
「当家興亡の大事は今この時だというのに、いささかの思慮にも及ばないとは、
いい加減な意見なのだろう?」

「とんでもありません。この考えは兼ねてから我が心で量見していた物なのです。」

その後、元就は子の隆元、元春、隆景、その他の重臣たちを集め、このことを評議した。
ここで熊谷伊豆(信直)が発言した

大内義隆は、近年武業を取り失い、遊楽に浸っており、その家人は多くそれを疎み、
大内家内の権勢は、却って陶に及びません。大内義隆が勝利することはないでしょう。

尤も、主従が争う時、主を助ける事は義に当たります。ですが滅びようとするものに対し、
そちらに与して共に滅んでは益がありません。

そもそも毛利家は大内家に対し、重恩の家というわけではありません。時の権威に従って、
一旦麾下に属したにすぎないのです。ですから、ひとまず陶に一味して、重ねて
大内義隆の敗北後、その泉下の恨みを散ぜられる謀を行えば、当家はいよいよ興隆するでしょう。」

この言葉に元就は
「先に児玉が申したことも、今の熊谷の言葉と符合している。そして私が心に考えていることも、
その通りである、」

こうして一座の衆議はこれに決し、陶隆房に対し一味する返答を行った。

(芸侯三家誌)

毛利元就が陶に与することを決めた協議についてのお話。




968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/18(月) 15:26:10.22 ID:9GbdPUW0
書状で言ってることのかけらもないのがな

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/18(月) 16:09:54.29 ID:/Bls1iEJ
隆元がもどっててよかったな。

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/18(月) 16:20:32.05 ID:wRMqwQur
こんな状態でよく何年も持ったな

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/18(月) 16:21:55.31 ID:1+7elZ3Y
うーんこの元就クオリティ

学問も悪く学んでは

2014年06月16日 18:58

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/15(日) 23:23:36.67 ID:JL0uWGGY
学問をするものは、その国その家の知性であるのだから、何よりの宝である。
しかしこれも、悪く学んでは、中国の大内殿のようになってしまう。

どういう事かといえば、大内義隆殿は書籍に関してどんなものでも暗いということがなく、
七書などは空で覚えて、「良将は戦わずして勝つ道理なり、また戦って勝っても不慮の勝ちである」
などと言って、はかりごとの沙汰ばかりをしていた。
そのため大内殿の家中の者達は、近習も外様も皆、はかりごとの吟味ばかりしていた。

せめて一手の大将をするほどの者であれば、はかりごとを心にかけるのも当然であり、
開戦して討ち取れない敵にはかりごとを入れるが、こういう事は大将、あるいは家老、侍大将が
行うことである。
もし外様の侍たちが、計略を心がけて戦場での働きを心がけないなら、その大将の下に槍を突く者は
いなくなってしまうであろう。

学問をするのは良きことである。しかし、大内義隆殿の学問は滅亡の原因となった。
それは、大内家の大身者である相良遠江守、陶尾張守という二人が不和となったが、義隆殿は
相良を愛して、陶を殺そうとした。そのため陶は大軍を擁し義隆殿を攻めると、義隆殿は
かねてから心がけていたはかりごとをすることも出来ず、打ち負けて石見国の吉見氏を頼って、
その勢二千あまりで落ちていった所を、陶が追撃したため落ち延びることが出来ず、ついに
自害した。

しかし、もし日頃から槍の柄を取って戦う心がけのある士がいたなら、時の運で合戦に負けたとしても、
義隆殿の身はつつがなき様に防いで落とすことは容易かったであろう。
ところが、いらざる知略の工夫建てに年を暮らした為に、属し、従う武士まで言い甲斐のない死を
してしまったのである。

このたぐいの学問は、しないほうが良いのである。
(武道心鑑)


「学問で滅んだ」大内家に関してのお話しである。




521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/15(日) 23:44:12.83 ID:27sVN4UV
朝廷や幕府に対するはかりごとだろうな
公家化を戒める内容だ

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 00:41:25.49 ID:isHC7Fml
宇喜多某「謀ばっかやっとったらアカン言うこっちゃ」

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 02:30:02.46 ID:ihIZy5HE
あほう
大内のと田舎侍の宇喜多のとでは次元が違うわ

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 02:37:32.72 ID:Z2Z46jPS
× この類の学問はしない方がいい
○ 直接戦う人間は学問より武芸の方が重要

あと、陶を殺そうとしたことは不問なのが興味深いな。

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 07:09:15.53 ID:2H/v/CvX
謀反を正当化されたら困るでしょ

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 07:38:12.16 ID:wUphW9SS
平安時代には、とにかく大地から芽ばえたものはなかった。
武家が公卿に代わったというは、腕力が観念に代わったという意味にとられてならぬということは、さきにちょっと記した。
武家は腕力をもってはいたが、武家の強さはそれではない。
武家の強さは、大地に根をもっていたというところにある。
武家はいつも大地を根城としていたのではない。武家は腕力はある、武家と腕力とは離れられぬ。
が、大地に根ざさぬ限り、腕力は破壊する一方だ。
公卿文化は、繊細性の故に亡びる。
武家文化は、その暴力性・専横性などの故に亡びる。
腕力と大地とは一つものではない。腕力だけしかないものもある。
公卿たちでも大地が顧みられていたら、平安時代のようなことはあるまい、この点を深く考えなければならぬ。
平安時代に取って代わった鎌倉武士には、力もあり、またそのうえに霊の生命もあった。
力だけであったら、鎌倉時代の文化は成立しなかったであろう。
鎌倉文化に生命の霊が宿っていたということは、その宗教方面に見られる。
平安時代は、あまりに人間的であった。鎌倉時代は、霊の自然・大地の自然が、日本人をしてその本来のものに還らしめたと言ってよい。
『日本的霊性、鈴木大拙、岩波文庫より抜粋』

この文章を第二次世界大戦敗戦直前(昭和19年、東條内閣解散の年)に書いて出版した鈴木大拙

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 07:39:45.02 ID:wUphW9SS
>>526は>>520の関連レスね
もちろん逸話投稿ではない

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 12:31:13.34 ID:L2n+DHhu
>>525
神君氏真公「えっ」

謀神の佐東銀山城攻め

2014年05月11日 18:58

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/10(土) 23:48:43.24 ID:VaD36Z1o
謀神の佐東銀山城攻め

1541年1月、尼子晴久率いる3万の軍は毛利元就の居城、吉田郡山城攻略を諦め撤退。

これを受け、同時期に杉隆宣・内藤隆時の大内軍と小早川興景などから攻撃を受けていた尼子傘下の頭崎城(現在の東広島市)の平賀興定は大内氏に降伏。
現在の広島市周辺を支配していた尼子傘下の安芸武田氏居城、佐東銀山城の城主・武田信実と尼子の援軍の将・牛尾幸清は出雲へ逃亡(1年ぶり2度目)。
佐東銀山城には武田一族の武田信重と守備兵僅か300が残るだけとなり、
厳島と対岸の桜尾城(現在の廿日市市)を乗っ取り蜂起した厳島神主家も大内氏の攻撃を受け滅亡。

安芸における尼子の勢力は風前の灯となったのであった。

1541年5月、大内義隆は安芸を完全に掌握する為、毛利元就に佐東銀山城攻略を命じ、大内軍は武田傘下で隣接する安芸府中を支配する
白井氏を攻略すべく兵を出す。

かつて、大内の名将・陶興房と初陣の大内義隆が1万5千の兵で囲みながら落とせなかった堅城・佐東銀山城であるが、その時城を守った猛将・武田光和は
1539年に急死し、武田有力家臣の品川左京亮と香川光景は武田の後継と大内との抗戦か講和かを巡って内輪もめを起こし、品川に居城八木城を攻められた
講和派の香川は「終わりやね、武田も終わりやね」と、大内に鞍替えし、かつての同僚である熊谷氏らに援軍を要請。
これに敗れた品川一族は逃亡。新たな武田当主として城に入った、武田信実も一時逃亡。
この後、吉田郡山攻め前に牛尾率いる兵2000と共に帰って来たものの、先のとおり尼子の吉田郡山攻めが失敗すると再度、出雲へ逃亡。
もはや武田家の崩壊は誰の目にも明らかであった。

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/10(土) 23:49:51.84 ID:VaD36Z1o
しかし、堅城・銀山城に篭る武田方の兵は士気も高く、正に窮鼠の如し。
半年に渡る篭城戦を終えたばかりの毛利元就が動員できる兵力も戦に継ぐ戦でそう多くは無い。
主家よりの命令とはいえ徒に兵を損ねる訳にも時間を掛ける訳にもいかぬ。

元就は二つの策を立てた。先ず、城を正面切って大手門の東側から攻めるのではなく搦め手の安(現在の安佐南区上安、銀山城の北西側)より攻めること。
ただ、安の側にある長楽寺は武田家と通じており、ここから兵を進めようとすれば長楽寺が鐘を鳴らして城側に通報し、城兵が駆けつける。
先ずはその調略を行う毛利方であった。

毛利からの説得を受け、事ここに及んではと長楽寺も城側への通報を行わぬことを約束。

そして、念には念を・・・と、元就が講じた二つ目の策。近隣住民に千足の草鞋を作らせ、それを油に浸し、城攻めの前夜、闇の深い日に
火をつけて城の正面を流れる大田川へ流すのであった。
これを見て篭城軍は毛利は正面から攻め寄せてくると、戦力を大手門に集中させたのであったが、これこそ元就の狙いであった。

こうして正面からではなく、搦め手から攻め込んだ毛利軍は佐東銀山城を落とし、最後まで城に残った、武田信重は切腹。
同時期に安芸府中を攻めた大内軍も白井氏を倒し、これにて安芸の反大内勢力はほぼ一掃されたのであった。

なお、この時元就が千足の草鞋を流したことに由来する地名が、大田川対岸の広島市東区戸坂に「戸坂千足」として残り、
大内軍が越えた広島市東区中山から矢賀、山根町などに続く道を「大内越峠」(おおちごだお)として今も残っている。





尼子経久 我が子と相争う

2014年04月26日 18:50

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 00:59:40.83 ID:CIg+fgYk
尼子経久 我が子と相争う

謀聖と謳われた戦国初期の雄、尼子経久
彼には3人の優れた息子が居た。
長男、政久。父に劣らず知勇兼備にして各種の文化にも通じ、時の帝である後土御門帝にその文才・教養を称賛され、
まさに謀聖の跡継ぎに相応しい人物であったが、26歳にして戦死。
次男、国久。父以上の武力・軍才を持つと内外に評され、尼子家の柱石として武闘派の新宮党を率いて山陰・山陽諸国に
その武名を轟かすも、最期は甥晴久の集権体制を確立させる為に殺害されたとも、新興勢力の毛利元就の謀略により
甥・晴久に嫡男誠久はじめ、一族諸共殺害されたとも言われる。

そして、3男興久。彼は父経久が大内義興に従い上洛した際、山陽の覇者大内家との仲を深めんとする父の思惑により、
大内義興の偏諱を受け興久と名乗る。
その後、二十歳になるかならないかの頃、父の命を受けた興久は出雲一帯に大きな勢力を誇る塩冶氏に養子として入り
当主の地位を得、山陰における尼子家の勢力拡大に大きく寄与することとなる。
尼子家と塩冶家に出来た深い縁と蜜月の時であるが、それは長くは続かなかった・・・。
(続く)

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 01:02:28.85 ID:CIg+fgYk
尼子の最前線として隣国の大内やその麾下の勢力、独立した国人衆と相対する塩冶興久の
財政的負担と折衝の為の辛苦は尼子一族の中でも大きな物であった。興久は父経久と腹心
の亀井秀綱に対し、自らの知行を増やすよう申し出るものの、秀綱により却下される。

そして、興久はキレた・・・。
享禄3年(1530年)、興久は以前より親交を深めていた出雲の反尼子勢力の三沢氏や多賀氏、
また出雲大社・鰐淵寺・真木氏・妻の実家である備後山内氏・但馬山名氏と組んで父経久に
対しての反乱を起こす。
中国地方のもう一方の雄である、大内氏との結びつきが大きかったのも原因であるという。
自らの勢力圏の大半が息子の興久につき、謀聖・尼子経久は窮地に追い込まれる。が、
その後戦況は一変する。
塩冶興久が父へのトドメとばかりに支援を求めた大内家の新たな当主・大内義隆は両者共倒れ
を狙って興久ではなく、劣勢の経久に対して支援することを決めたのであった。
これにより戦況は一変、興久は徐々に敗勢が濃くなり妻の実家である備後山内家へ逃亡する。
しかしながらその後勢力を回復することは出来ず、1534年に自刃。
遺領は息子清久が継ぐ物の大半はその伯父・国久の管理下に置かれる事となる。
いずれにせよ、この後尼子家は経久の孫、晴久が家督を継いだ後に国久との間で仲たがいを起こし、勢力の衰退を招くこととなる。隣国の毛利元就はこれを反面教師としてとらえて三矢教訓状を作り、一門の結束を訴えたのか・・・?
いずれにせよ、尼子家が家族で争うこととなった悪い話。





大内とは目出度名字今知れり

2013年06月21日 19:51

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/21(金) 17:46:09.97 ID:6zvdUWEe
大内義隆は防州山口鴻の嶺の御館を普請し、並びに新造に屋形を輝くばかりに
磨き立てて夫人を移し参らせ、築山の御前と名付けて大切に扱った。

けれども姫君は都を恋しく思って事の折に触れては口に出すので、
義隆は、それならば当所に都を移そう、と一条より九条までの条里を割り、
四ヶ国の大身小身の屋形を甍を並べて造った。

京、堺、博多の商人は軒を争って建て続け、領国の諸侍は朝暮に出仕を遂げ、
囲繞渇仰は記すに遑なく、これに加えて諸門跡を始め公卿殿上人、
または五山の惟高和尚達を請待し、ある時は和歌管弦の遊び、

またある時は詩連句の会を明け暮れの業とし、その他、京都、南都よりも
猿楽の名人を呼び下して能芸を尽くさせ、さては茶湯を興行し、和漢の珍器を集めて
弄んでいるうちに、国々より諸商人が山口へ到来して日毎に京町が立った。

そのため防州は時ならぬ春が来て花の都と唱えた。京都はむしろ廃れ果てて
及ぶはずもなかった。故に、山口一条の辻に何者かが、九重の天はここにありとして
「大内とは目出度名字今知れり裏の字略せし大内裏とは」と表現したほどであった。

――『室町殿物語』

夫人は持明院基規の姫君ということになってるが、たぶん万里小路秀房の間違い。




548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/22(土) 10:23:44.97 ID:RnYjbJRF
夫人を大事にする義隆さんだと・・・・

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/22(土) 10:36:41.69 ID:Lt0Z5tqH
ここまで大事にした嫁さんなのに、子供が生まれなくて嫁さんの侍女に手出して離縁されちゃったりするのが義隆クオリティ。
別にガチホモってわけじゃないんだぜ?
衆道は上流階級のたしなみです(キリッ

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/22(土) 11:41:21.16 ID:I7iHMNEh
>>549
それ知っちゃうと何だかな~

大内滅亡のこと

2013年04月07日 19:02

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 15:46:13.00 ID:PtH2bR3D
中国の大内殿は、阿波の徳雲院(細川持隆)殿の舅の御家であったが、この御家が滅んだ様には、
こんな事が有った。それは天文20年(1551)の事である。

大内(義隆)殿が御茶数寄をなさろうと、堺の町のせうおう(武野紹鴎か)と申す侘び数寄の者を呼び下し、
四畳半の数寄屋を建てて、茶の湯を行った所、御内の家老に須江(陶隆房)殿と申す人があり、この人が

「大内家は16ヶ国の守護であるのに、四畳半ばかりの場所で茶の湯をするなど、沙汰の限りである!」

そう申して、陶殿は自分の茶の湯のやり方を紹鴎に見せた。
彼は大きな広間にかんす(茶釜)を数多据え、茶臼を数多取り並べ、大勢の小姓に茶を轢かせて
点てさせ、運ばせて紹鴎に飲ませ、

「陶が数寄はこの如くである!」

と言い放った。これに紹鴎は面目を失い、大内殿に暇乞いすらせず堺へと帰った。
このことは大きな遺恨と成り、大内殿は陶に対して悪心を起こし、また陶の方もそれを感じて、大内殿に対して悪心を持った。
そして両者の悪心は重なっていき、終に陶は大内殿を切腹させ、16ヶ国を陶が進退したのである。

ところが森(毛利)殿は陶に従わず、このため陶が毛利殿の城を取り囲んだ所、伊予の野島、来島といった者達が
毛利殿の味方をし陶殿の兵糧船を遮断したため、兵糧が欠乏し、陶軍が撤退を始めた所を毛利は討って出て
陶殿を討ち果たした。

これ以後毛利殿が中国西国13ヶ国を、太閤様の御代頃まで持ち伝えられた。
(三好記)

三好記より、大内義隆の滅亡についての逸話である




194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 16:55:51.90 ID:lWQzATh/
毛利が13ヶ国・・・だと

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 17:25:42.09 ID:QgSSx+3i
大内16ヶ国って確実に大友と尼子の領地も入れてるだろ

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 18:28:00.18 ID:WEgCBbGA
陶が居なきゃ、元々大内は持たなかったんじゃないの

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 19:01:24.04 ID:6e0cDLXg
最後の当主<筒だっけ

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 21:37:29.78 ID:CrUnkdXS
>>196
んなこともねえだよ。内藤とか実績のある重臣は他にもいる。
毛利は陶とやる時にそいつらを切り崩すのに全力を突っ込んでる。

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 23:13:19.35 ID:jTQp3WsN
てか、元就は隆房につく気満々じゃなかったっけか

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/08(月) 00:24:39.86 ID:mnZw7MK7
毛利側資料によれば、陶から義隆を諌めるために隠居させ、嫡子に跡を継がせるから協力して欲しい、という要請があって応じたけど、蓋を開けてみたら主殺しだったので引いた、ってことになってる。
かけらも信憑性無いけどな

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/08(月) 07:21:10.48 ID:LZJGEpGb
>>199
元就は陶につくと見せかけて他の国人調略のために時間稼ぎしてた
反旗翻してからの行動が非常に鮮やか

二人の義死

2013年03月27日 19:53

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 20:34:52.29 ID:IpqSO+4J
大内義隆の家臣に、宮部久馬介浅茅鹿馬介という、二人の小姓があった。
義隆はこの二人を別して大切にしていたのだが、ある時、とある女中からの支え口(中傷)により、
この鹿馬介を討つようにと、義隆より宮部久馬介に命ぜられた。

宮部は承って自分の宿舎に帰り考えた

「それにしても、なんと黙し難い仰せを被るものだろうか。私は鹿馬介と一緒に奉公仕り、
片時も放れたことはなかった。本当に入魂浅からぬ関係であるのに、彼にこんな事を一言も
知らせずして空しく討ち果ててしまえば、草葉の陰で、自分たちの契りはこんなものではなかったはずだと
どれほど恨むだろうか。

彼に知らせるなら、我も諸共に死ななくては面白くない。どうせここで死ぬのも主のため
なのだから、悪いことではない。」

そう思い定めると、浅茅の部屋へ行き、彼に言った

「私は大変情けなき仰せを被ってここに来た。義隆公より、それがしにあなたを討って来い、との仰せを
受けたのだ。しかし日頃から、親しくしていること他に異なる程の仲であるのに、一言も
あなたに知らせず、空しく討ち果たしては、冥土にて私は必ず恨まれるでしょう。
その上、あなたを討った私のことを、朋輩たちがどのように思うか、如何とも辨え難い。

こうなればあなたと刺し違えて、死出の旅路に赴こうと思う。」

浅茅はこれを聞くと

「さてもさても、日頃から互いをなおざりにしない関係であったのが、今ここに現れたのであろう。
あなたの心底は長く後の世までも忘れてはならない。
そして、かの女中の中傷に対して、真実を主君に申し開きをして死のう、と思ったが、
女を相手に論じても意味があるだろうか。

私は自害をしようと思う。なのであなたには、介錯を頼む。」

宮部はそのように言われて、笑い出して言った

「私の胸中を定めないまま、どうしてこの事をあなたに知らせるでしょうか?
仏神三宝も御照覧あれ!私はあなたとともに、相果てなければならない!」

浅茅、このように言われ「それならば仕方がない。であれば…」と、二人共に思い思いに
その意趣を細々と書き置きし、川の中瀬に行き、二人はしっかりと体を組んで、川の中に飛び込み
立つ白波と消えた。彼らの死を人々はみな、なんと殊勝な義死を遂げたものかと、褒めぬ者は
居なかった。

義隆は彼らの書き置きを見て千悔したが、もはや取り返しのつくことではなかった。
彼は中傷をしていた女を召し出すと、「あの者たちの追善にせよ」と、彼らが入水した中瀬にて
柴漬け(ふしつけ:簀巻きにして水中に投げ入れること)にして水の中に投げ捨てた、
と言われている。
(義殘後覺)




77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 20:43:58.53 ID:esRjIJAv
義隆絡みだとどうしても女中が言い寄っても衆道一筋で目もくれなかったので逆恨みとかそういう痴情のもつれとかの想像をしてしまう

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 21:38:31.77 ID:q4qhv8R/
>>75
こういう名を重んじる潔さはいいね。

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 22:20:11.63 ID:po4Uwlxd
義隆さんは調べもしないで気分でお裁き

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 22:21:54.59 ID:5gvxey5X
>>75
:::::::::::::::男 は こ            {::::::{
:::::::::::::::坂 て の      _ ,-v   、::::::、
::::::::::::::::を し       _/rァ  ̄ヽn  ヽ::::::ヽ
::::::::::::::::よ な     -こヽ__)ヽ へフ -‐':::::::::::}
::::::::::::::::::  く   /::::::://, 7′:::::::::::::::::::::/
::::_n_  遠   、:::::::::ー' //-‐  ば の よ オ
:::`ニl lニ  い   ヽ::::://\   か ぼ う  レ
::::`フ \:::::::::ヽ __ ノ:::ー':::::::::::::ヽ  り  り や 達
/'´|_|`ニ_::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::l  だ は く  は
:::::::ノ'r三7/::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::} か じ
::::::::`フ, 匸/l::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/  ら め
:::::: ̄´::: ̄´:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/   な  た


大内義隆公の山口退去

2013年01月17日 19:51

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/17(木) 01:57:41.77 ID:Qg3I4pHf
最近ものの本を手に入れたので、陶隆房の謀反から変な意味で有名になってしまった
大内義隆公の山口退去までを。

天文二十年八月二十八日、陶隆房は遂に謀反の軍を挙げ、それぞれ山口の西と南西より兵を進発させた。
山口の大内氏館に集った義隆方の緒将はここで一戦し館を枕に自刃することを主張たが、館は
防ぐに向いていないため法泉寺に拠を移すことを薦める者も居た。
また寵臣ら(纏めにあるアイツとか)がそれを推したため、義隆は館を捨て、大内氏館の北、山間の
法泉寺に入ることを決した。
それに従った兵三千余。本営を法泉寺に定め、迎撃のため冷泉隆豊らの緒将を近隣に配した。
ところがその夜、大内氏館退去を聞いた内藤興盛は叛旗を翻して陶方に参陣し、また
法泉寺にあった義隆方の兵はその多くが逃散してしまった。

明けて二十九日、本営の守りを補強するため隆豊ら緒将を本営に呼び戻すことになったのだが、
その使者に立ったのが阿川隆康
義隆の侍大将・先手衆であり、平素より自ら十人力を誇っていた人物である。
皆その最期の戦闘はどれほどのものになるかと期待していたのだが、彼は本営召還の命を隆豊らに伝えた後、
鎧兜を脱ぎ捨てて逃亡してしまった。
衆これを見て更に意気消沈したという。
昼頃になり、山口へ陶方の兵が押し出してきた。その数五千余。
それを迎えた隆豊らの緒将がいざ最期の戦と出戦しようとしたその時、ついと一人の兵士が進み出で、
陶方の不忠を罵り責めた。
陶方の兵はこれに恥じ入って進まず、また義隆方も敢えて出戦せず、矢戦のみ行ったあと
互いに退いたという。
その日、義隆は捲土重来を期して長門に逃れることとなる。
法泉寺に残った陶隆康(隆房の伯従父)は義隆の名を騙って陶方を引き付け、
その嫡子隆弘や貫隆仲と共に戦死した。

名があろうとあるまいと、その人の生き様は土壇場に現れるのだなぁと思った次第。




冷泉隆豊の最期

2012年11月29日 19:50

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 18:05:53.89 ID:iGTjITmr
大内義隆が無念の死を遂げた大寧寺の変の際、冷泉隆豊は最期の戦を
奮戦して敵に目に物見せてやろうと、五郎入道正宗がうった乱刃の
抜けば玉散るばかりの太刀三尺二寸を軽々と掲げ、多勢の中に打って出た。

隆豊は活人剣、殺人刀、向上極意の妙剣、十字手裏剣、沓ばう身などの
兵法の術を尽くして斬り廻ったので、もはや手先に向かう兵もいなくなった。

隆豊は「もう相手になる敵もいないか。雑兵なぞを太刀汚しに殺しても仕方ないな」
と立ち帰り、仏前で鎧を脱ぎ短冊を一枚取り出して
「見よや立つけぶりも雲もなか空にさそひし風のあとも残らず」と辞世を残す。

黄門定家卿の末流とはいえこのような時に歌を詠むとは思いもよらなかったが、
歌道に入魂したのでこのように口ずさんだ。優美な心である。

かくて隆豊は腹を十文字に切り、返す太刀で胸もとを突き立て夕の露と消える。
その死を惜しまない人はいなかった。

――『室町殿物語』





546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 18:31:49.44 ID:MIYs+5wb
囲いを突破してきたなく生きて再起を図ればいいのにな

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 18:59:30.64 ID:CG4P9gBD
定家の子孫ってことは公家なのかこの人?

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 19:22:44.14 ID:oQXW4n1B
公家→武家のパターン
一条さんとこと同じ

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 19:34:57.38 ID:oQXW4n1B
>>546
中国にはそのタイプの英雄が多いな。
まあ、広大な大陸だから逃走しながら闘争する戦術使いやすいのだろうな

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 19:42:51.96 ID:ynFq+kSp
母方に冷泉家の出身者が居た程度じゃなかったっけ

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 19:52:20.56 ID:dqla+REu
>>546
しかし再起を図ろうにも
周囲は大友・毛利・尼子だぞ?

小早川隆景の予言による最初の犠牲者

2012年06月29日 21:01

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/28(木) 22:16:18.78 ID:DdCRKXiK
 小早川隆景は幼名を徳寿丸といい、幼くして聡明さは他を絶していた。
13歳で人質として大内氏に行き三年を過ごして帰ってきたが、その際に父の毛利元就にこのように報告した。

「大内氏は必ず滅亡するに違いありません。
なぜならば、大内義隆の贅沢は度を外れていて、政治も自ら行わず家臣の陶隆房は諌言を尽くして、ついには
義隆の意に反するようになりました。
そこへ相良武任という者が義隆に阿諛追従して、隆房を讒言しました。
なので群臣は皆義隆を嫌い、武任を憎み、隆房に心を寄せる者が多くなっています。
主君が隆房を疎んじ、家臣一同が隆房に帰服しているような状況ですから、隆房が兵をあげるのは
時間の問題でしょう。」

元就はこれを聞いてうなずいたが、果たしてその後、隆景の予言したとおりとなった。


小早川隆景の予言による最初の犠牲者




220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/28(木) 22:24:04.30 ID:rXHmKKR5
隆景を件(くだん)扱いするなwwww

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 00:22:03.55 ID:hWKR8dCb
隆景が毛利宗家継いでたらどうなってたんだろ

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 00:27:14.93 ID:JDqW3Uy+
元春が生きてると成り立たないからifとしても想像しづらいw

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 01:02:50.87 ID:cbJOdNM1
兄弟仲が悪いままだったなら、あるいは……

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 01:21:25.21 ID:1uc45loy
隆景のワンマンに吉川家との溝が更に開いていく様子しか見えない
バランサーは必要なのだよ、でも輝元には無理なのだよ

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 02:34:30.81 ID:UQoMqn1U
隆景の人生に人質になってる暇なんて無いよなー

元春と隆景は隆元が死んだ後から責任感が出てきたんじゃねーかな?
毛利家伝統の若いころろくでなしな奴が年取るとめっちゃ真面目な原理で。

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 05:35:17.67 ID:BMIywk23
毛利家中って預言者多いなw

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 05:44:45.04 ID:tNfUpQeG
安国寺恵瓊は隆景の真似をしたかっただけなのかもしれないな。

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 07:16:30.68 ID:cyq+WLeb
これ隆景自身が義隆をたらし込んてないか?w

山口築山館の怪異

2012年04月27日 21:18

848 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/04/27(金) 06:55:28.68 ID:q7I+YgjL
史料価値なんて知ったことか!
ってことで角川書店の日本の伝説 35巻をソースにして一つ。

かつて応永の乱の主役たる大内義弘が築いた山口の築山館。
その庭園には「月見の松」なる名木があり、
その月影に映える枝ぶりは代々の当主の心を大いに和ませるものであった。

さて、天文十五年。大内義隆公の御世のことである。
この築山館にて松の枝に掛かる秋月を肴に義隆公が月見の宴を開いていたところ、
館の塀の上に怪しげな影の一つ、蠢くものがあった。
義隆公は大いに怪しみ、急ぎ宿直の者を呼びつけてこれを撃つように命じる。
命ぜられた武士、松原隆則は弓矢を取り出してひょうと射放つと、矢は狙いあまたず影を射抜き、
射抜かれた影はどうと庭へと崩れ落ちた。
この時射殺された影を改めて見ると、それはまごう事なき天花畑の山奥に潜む山姥の姿で、
これを見事退治した松原隆則は大いにその面目を施したという。

だが、常日頃になき妖怪の出没は、周防の人々によからぬ事が起きる予兆を強く感じさせた。
そして果たして五年後の天文二十年、陶晴賢の謀叛により大内義隆公は太寧寺に自刃に追い込まれ、
件の松原隆則も主君を守って遭えなく討ち死にを遂げてしまうのである。

大内家の衰運が妖怪を呼び込んだか、
はたまた妖怪の呪詛が大内家を衰亡に導いたか、
どっちにしてもいい話じゃなさそうなお話




849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/27(金) 09:10:13.58 ID:iboM5bqg
認知症の婆ちゃんが迷い込んだだけだったりしてな

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/27(金) 12:27:53.45 ID:ElSl2FII
>>849
ありうるw

吉川元春・陶隆房、義兄弟のいきさつ

2011年09月07日 22:25

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 20:17:03.56 ID:ONKexbTL
吉川元春は陶隆房(晴賢)と義兄弟の契りを交わしている。
それにはこんないきさつがあった。

毛利父子が山口に来ていたとき、大内家家臣の相良武任が義隆に提案した。

「義隆様、元就が尼子になびかないように、
 がっちりハートキャッチしとかなきゃいけませんよ。
 隆元に関しては、内藤興盛の娘なら義隆様に血筋も近いし
 あれを養子ってことにして隆元と婚姻契約結びましょう。
 あと、次男の元春、いい男っぷりですよね!
 元就と並び立つ良将の器って評判ですよ!
 で、ウチの陶隆房と元春を義兄弟にしちゃいましょう。
 隆房も勇猛さでは西国一です。
 あの二人に先陣を任せれば、かの蒙古の堅陣だって簡単に破れますよ!」

「グッドアイデア!」と思った義隆が、さっそく元就を呼んでこれを伝えると、
元就もこの提案を大いに喜んだ。

そんなわけで、大内の毛利つなぎとめ政策の一環として、
元春と隆房は義兄弟になったという。
夢もロマンもありゃしねぇので悪い話。

ちなみに三男の隆景については、義隆様が直々においしくいただきました。
「又四郎隆景は容姿はなはだ美なりしかば、義隆卿男色の寵愛浅からずして」って
陰徳記に堂々と書いてある。





735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 20:24:06.39 ID:FMAob7Di
>>732
政略結婚もとい、政略兄弟の契り
大内義隆って、隆元も美味しくいただいてなかったっけ?

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 20:37:34.59 ID:yeZlZEIy
男子は手当たり次第…
さすが中国の男色王の名は伊達じゃないな

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 20:37:57.81 ID:ONKexbTL
>>735
十五、六の少年が三年も山口にいて、あの義隆に手を出されなかったとしたら、
そっちのほうが不名誉ではなかろーか。
隆元は人質初日から贈り物攻めで大変大事にされたようだし、
当時の日記に義隆と隆元同宿の記述もあるようだし……
毛利家としては権力者に愛されて大変けっこうなことじゃないのかなw

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 20:47:57.28 ID:FMAob7Di
>>736
あの時代、男色は珍しくないと言われても
俺はノーマルでもほいほい食っちまうんだぜ というセリフが凄く似合うよね義隆さん


742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 21:05:16.02 ID:ONKexbTL
>>740のせいで青い狩衣を着た阿部さんが夢に出てきそうだ

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 21:13:28.58 ID:3s40ZfNQ
「息子があの好色野郎に!」
なんてきれて離反する君主いそうだなw

744 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/09/06(火) 21:42:53.33 ID:FMAob7Di
出世の為に娘を差し出す奴もいただろうが
出世の為に息子を差し出す奴もいたんだろうか

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 22:18:42.04 ID:FLHqO/Q0
>>744
基本中の基本だろ
お手つき小姓上がりで出世した武将なんてゴマンといるぞ

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 22:29:44.80 ID:wJtlgc53
松永弾正はまず美少年の弟が召し抱えられ、その縁で自分が取り立てられたとか

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 23:06:04.33 ID:DlOiYxB3
松永弟は丹波の赤鬼に殺されたんだっけか

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 23:46:57.44 ID:FMAob7Di
>>747
ああ基本なんだな
それでトラウマになっちゃった子とかいるのかなあ

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 23:50:18.80 ID:ONKexbTL
元就が義隆さんち行くのに当時花の盛りの隆景を連れて行く時点でゲフンゲフン。
「差し出す」と言うとネガティブなイメージだけど、
隆景を義隆の強力な庇護下に入れるのは、隆景本人にとってもいいことだよ。

同じ「陰徳記」からになるけど、隆景が継いだ小早川は、
家格からすると姉婿の宍戸などより低く、座配も下座だった。
ところが義隆の推挙で「屋形号(尊称)」をもらえたので、
宍戸より上座に座ることが許されたそうだ。当時は格式に厳しかったんだな。
たぶん家中での発言権も周囲の国人への影響力も増したはず。

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/06(火) 23:53:42.55 ID:FMAob7Di
これも閨閥って言うんだろうか…

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/07(水) 00:18:35.80 ID:aba4rV/4

> 出世の為に息子を差し出す奴もいたんだろうか

家光の御代には「尻の誉れ」という悪口があったという話があるが、ホントかね

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/07(水) 00:55:49.40 ID:DNcsBP+/
>>752
恥ずかしい話じゃないし、普通に楽しんだんじゃない
好き嫌いはあるだろうけど

秋月文種の御供衆任官運動

2011年08月13日 23:00

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/13(土) 16:13:52.86 ID:NlIHsOTA
天文9年(1540)のこと。筑前の秋月文種は将軍足利義晴の『御供衆』に任じられることを欲していた。
しかしこの頃、秋月氏が属していた大内義隆は、なかなかその事を幕府に推挙してくれない。
そこで、である。
秋月文種はついに、大内氏に黙って内々に、幕府への運動を始めたのだ。
しかも将軍家に求めたのは、後で大内氏との関係がこじれ無いよう

『あくまで将軍が秋月文種の忠義に喜び、自発的に御供衆の地位を授与した形にしてください』

というものであった。

「こんな都合のいい話が認められるか」
と将軍が思ったかどうか。結局、運動空しく秋月文種は御供衆の座を手にすることは出来なかった。

そして翌天文10年、秋月文種は驚愕する

自分と同じ筑前の国人で、同じく大内氏に属する麻生氏が、大内義隆の推挙により御供衆の座を授与されたのだ。

秋月文種は慌てて大内義隆に「自分も御供衆に推挙していただきたい!」と懇願した。
ところが義隆

「麻生氏はもともと、将軍直臣の家柄なので御供衆に推挙したんだが、秋月はそういう家ではないから
御供衆に推挙することはできないね。しかし五番衆なら推挙して差し上げられるのだが…」

五番衆は御供衆より格下なのである。同じ筑前の国人として、麻生氏より下だとされてはたまったものではない
ではないか!
どうも大内義隆、秋月文種が自分を通さず独自に幕府に接触したことを知り、そこでこのような目に合わせた節がある。

この後も秋月文種は大内義隆に、御供衆への推挙を懸命に働きかけたが、それを得ることはついに出来なかったという。

まさに藪をつついて蛇を出す結果となった、秋月文種の御供衆任官運動の顛末である
(常興日記)




402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/13(土) 17:27:00.02 ID:uAix8GJx
御供衆になると何かメリットがあるの?

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/13(土) 17:46:29.38 ID:NlIHsOTA
>>402
一番簡単なメリットを言えば公的な「信用」が違ってくる。
例えば今の社会でいえば、同じ事業をするにしても、公的な肩書きが何も無い人と、
元国会議員とか元高級官僚とか、そう言った肩書きを持っている人とではやはり後者の方が
広く信用され有利に成るでしょ。多くの人はその肩書きの後ろにある経験や人脈を見るから。

あと戦国時代で言えば、実力で圧倒していれば肩書きの影響は少ないが、実力で拮抗していれば
一般的にやはり肩書きのランクの高い人間の方に人は集まるんだよ。
これも現代も一緒だと思う。

もっといろんな意味や理由があるけど、とりあえず一番直接的なメリットはそういったところだな。

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/13(土) 18:52:14.95 ID:VHD2YWD7
高い官位や役職は、そのための付け届けに必要な財力の証明であったり、
仲立ちをしてくれる人との親密さのアピールであったりするんだよ。

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/13(土) 19:09:57.92 ID:Gl8YjL7n
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E4%BE%9B%E8%A1%86#.E7.BE.A9.E6.99.B4.E6.9C.9F

ここに秋月種方って文種の別名が載ってるけど、どういうことなん?


406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/14(日) 14:36:15.94 ID:2ddWbF0U
さーっと見てみると、番衆あるいは供衆になったと書いてる所があるから、なんらかの役職に就いたんじゃないの
ただ中央の記録に残ってないからよくわからないとかだったりしてw

大内義隆婦人貞子、義隆が下女に出したラブレターに

2011年05月14日 00:01

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 10:52:59.77 ID:zg7sWHRw
大内義隆と言えば男色女色区別なく、色事に実に名を馳せた人でもある。
そんな義隆があるとき、人もあろうに正妻・貞子(万里小路秀房(公家)娘)の侍女、おさいに
ラブレターを出した。

この亭主の浮気を知った貞子は、おさいにこのような和歌を送った

『頼むなよ 行く末かけてかはらじと われにもいひし言の葉の露』
(義隆様の言うことを信用してはいけませんよ?自分の愛は将来にわたってずっと変わらない、
なんて事をあの人は、私にも言ったのですもの)


大内義隆がどんなふうに女性を(もしかすると男性も)口説いていたか、みえてくるような
話であるw




137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 11:34:27.35 ID:W69l+B63
陶さんが八方美人ぷりに嫉妬するわけだ

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 11:59:23.99 ID:sdfBJIpw
生まれる時代を間違えたな、義降さん

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 12:07:25.13 ID:P1kJUoGw
陶さんには、お手紙こなかったから…

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 17:31:05.27 ID:1EOL3Cdz
山口の王の色狂い、ザビエルもあきれた。

相良武任の辞世の句

2010年11月01日 00:00

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/31(日) 19:38:45 ID:cm4c9LzF
相良武任の辞世の句を最近知って同情してしまった。

空蝉の つくしよしとは 思はねど 身はもぬけつつ なくなくぞ行く




185 名前:sage[] 投稿日:2010/10/31(日) 21:13:37 ID:m8oslHVx
>>184

周防守護代の家柄の、あの方が許しません。


191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/31(日) 22:54:54 ID:UmnmHU72
>>184
相良さんは人吉相良の一族らしいが人吉球磨の山ん中まで逃げればよかったのに・・・
表は2万石でも山深い盆地の人吉は実質10万石ってぐらい豊かなのにね。
他の九州南部地域と違い焼酎を米でつくってるしねえ。

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/01(月) 00:11:59 ID:Q8ALSc9m
>>184

大内義隆の寵臣だけあって辞世も風雅に溢れていますね
主君義隆が諦観の境地とも言うべき歌を残しているのに対して
あえて未練を残しつつと言うのもおもしろいですね。
関わりは無い人物ですが武田勝頼の辞世などはもう悲惨の一語ですが

「おぼろなる月もほのかに雲かすみ 晴れて行くへの西の山のは」

武田の弓勢も衰え僅かの供と逃げ惑い、小山田か北条を頼るつもりで東へと進んでいる筈なのに
もはや行き着く先は西方浄土であろう。

武田勝頼勝頼が落ち延びながら見上げた月は
きっと自身の雲行きと同じく雲で少し遮られた弓張り月だったのではと思いますが
弓張り月は秋の言葉なので雲懸った所も合わせて春の言葉である朧月が良く似合います
亡くなる寸前であろうともこれだけ言葉に趣向を凝らす古人は偉大ですね。

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/01(月) 01:04:29 ID:soExALX+
>>197
洒落た歌がよめるってかっこいいすなぁ




Wikipedia相良武任
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%AD%A6%E4%BB%BB

大内義隆が子どもだった頃

2010年10月25日 00:01

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 22:32:20 ID:gTWJuGdj
大内義隆が子どもだった頃、義隆は子どもたちが銭を玩具にして
遊んでいるのを見て自分も銭で遊んでみたいと思っていた。

これを聞いた義隆の守り役、杉重矩
「銭なんて汚らわしいものを、主君となるお方が見てはいかん!」
と思い、黄金の笄で銭を突き刺した。

そして「こんなものはポイだ!」と、
笄と一緒に銭を汚物の中に投げ入れる様を義隆に見せてやった。




883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 22:40:25 ID:MD5hxvLH
>>882
いい話…なのか?w
義隆の金銭感覚のなさを見ると教育方法を間違ったようにしか見えん