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豊後の王の勝利

2019年04月21日 16:22

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/21(日) 09:14:51.28 ID:WjCbBoTL
この頃豊後の王が戦争に勝利を得たという報告が我らに達した。大内輝弘王が毛利占領下の山口に渡り、
(永禄十二年九月、大内輝弘の乱)、その地に軍備がないのを発見し、その大部分の占領を始めた。
この報が暴君(毛利元就)の軍隊に達すと、毛利軍は一晩の間に、大友方に悟られること無く九州の戦線より
撤退した。豊後の王(大友宗麟)の部将たちはこれを知り、大兵を集めたため、1ヶ月の間に城十ヶ所を
陥落させ、これによって戦争の目的であった二ヶ国(豊前、筑前)の主となった。

領内が安全と成った後、戦争中最も強かった肥前国の領主(龍造寺隆信)らから受けた危害に対して報復を
せんと決し、軍隊を同地方に差し向けた。ドン・ベルトラメウ(大村純忠)は、豊後の王が自分の領地と
接した龍造寺を滅ぼそうと来て、これを滅ぼした後自分にその刃を向けるのではないかと恐れ、しかし
大友に抵抗する力は有していなかったため、パードレ・コスモ・デ・トルレスに依頼して豊後の王と親交を
結ばんと決し、「王(宗麟)がもしこれを許諾するのならば、自分も大友の肥前攻めに兵を出して協力する」
と申し出た。

豊後の王は今日まで我々(宣教師)に対し何事も拒絶したことはなく、パードレ・コスモ・デ・トルレスが
今回請うた事も悉く許容したため、ドン・ベルトラメウは大いに満足し、その兄弟である有馬の王(有馬義貞
も又、豊後の王と親交を結び、パードレ・コスモに大いに感謝した。
ただしこのようになったのは、彼らが暴君(毛利)のために利益を計った事があったためである。

(1570年10月12日(元亀元年九月十三日)付、イルマン・ミゲル・バズ書簡)



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硝石の当地への輸入を一切禁止し

2019年04月01日 16:41

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/01(月) 08:46:41.78 ID:giU8cdsj
最も尊敬すべき君

我々はあなたが本年当地に来られることを大いに待ち望んでいる。あなたの渡航を妨げる原因は
小さくないと想像するが、近くに相見える希望を捨てていない。

私が常にあなた方のコンパニヤ(イエズス会)を庇護せんと望んでいることは、既にあなたの耳に
達していると信ずる。私が山口の王(毛利元就)に対して勝利を望むのは、彼の地にパードレ達を
帰住させ、かつて彼らが受けていたよりもさらに大いなる庇護を与えたいためである。

しかしながら、私の希望を実現するのに必要なのは、あなたの援助により、硝石の当地への輸入を
一切禁止し、私の領国の防衛のために、カピタン・モール(ポルトガル船の司令官)をして、
毎年良質の硝石二百斤を持ち来る事である。私はこれに対し百タイス(銀一貫目)、またはあなたの
指定される金額を支払うだろう。

この方法によれば、山口の暴君は領国を失い、私の元に在る正当な領主(大内輝弘)がその国に入ることを
得るだろう。あなたの手に接吻する。

  本日陰暦第九月十五日(一五六七年十月一七日)

(一五六七年(永禄十年)付、大友宗麟より中国滞在中のニセヤ司教ドン・ベルシヨール・カルネイロ宛て書簡)



夫の留守を守った妻

2018年03月09日 11:00

685 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/03/09(金) 04:06:05.15 ID:VpSRa6pd
夫の留守を守った妻

市川局。
石七郎兵衛尉経守の娘。一説に宮荘下野守基友の娘とも。
正確な名前は伝わっておらず夫は毛利元就の重臣、市川経好で周防、高嶺城番

1569年、毛利は九州へ上陸し豊前を攻略し筑前立花城攻略に向かっており
大友軍と激戦を繰り広げていた。

大友宗麟は毛利軍の背後をつくため元々周防を治めていたに大内氏の一族である大内輝弘を密かに周防へ上陸させた。
上陸した大内輝弘は大内の残党を糾合。
高嶺城へ襲いかかった。

夫、市川経好は九州へ従軍しており城中は留守を預かるわずかな兵と市川局や女中達のみであった。
しかも高嶺城は主郭を中心に、四方に郭を配している山城で、守りには不向きな構造。

しかし市川局は徹底抗戦を決意。
自ら総指揮をとり女中を従え,女中ともども甲冑を帯び,下知を加え,長刀をもって戦った。

大内軍は毛利軍が九州から戻る前になんとしても周防を制圧したい。
大軍で攻めるがどうしても高嶺城を落とせない。
焦った大内軍はとうとう諦めて包囲を解いてしまった。
守り抜いたのである。

その後毛利軍が北九州から救援に到着。
大内輝弘は敗れ自害した。


のちに毛利輝元から「比類なし」と称され感状を与えられた。
が褒美はなぜか夫の経好に。
長男の元教は大友宗麟に内通した罪で殺害される。

天正13年3月6日死去。 『萩藩閥閲録』



686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/09(金) 12:21:13.51 ID:2sJpI6MT
>>685
最後のオチが酷いw

1567年(永禄10年)、豊後の王よりの書簡

2017年03月20日 12:43

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/19(日) 19:39:01.77 ID:ZMAWX+2P
1567年(永禄10年)、豊後の王(大友宗麟)より支那滞在中のニセア司教ドン・ベルショー・カルネイロに送りし書簡

『最も尊敬すべき君

我らは貴方が本年、当地に来られることを大いに期待している。そして貴方の渡海を妨げる原因が小さくないことを
憂いているが、近く相まみえる事の希望を失っていない。

私が常に耶蘇教を庇護したいと欲していることは、既に貴方の耳に達していると信ずる。
私が山口の王(毛利氏)に対して勝利を望むのは、第一に彼の地にパードレ等を帰住せしめ、彼らが受けていたよりも
大いなる庇護を与える為である。
そして、我が希望を実現するため貴方の援助を必要とするのは、日本に硝石の来ることを一切禁止し、
ただ我が領国防御のため、カピタン・モール(官船の司令官)をして毎年品質良好な硝石ニ百斤をもたらす事である。

私はこれに対し百タイス(銀一貫目)、又は貴方の命ずるところの額を支払うであろう。
この方法によれば、山口の暴君は領国を失い、私の元にある正当なる領主(大内輝弘)がその国に入ること
可能になるだろう。私は貴方の手に接吻しよう。

本日陰暦第九月の十五日』

(異国叢書)

大友宗麟が、宣教師に硝石の禁輸を持ちかけていた書状である。



683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/20(月) 01:39:50.91 ID:dH4ZvUEi
>>682
この頃から毛利の九州への再侵攻に備えて輝弘を山口に送る計画してたんだな
対毛利戦の時はほんと色んな手を打ってて有能なんだけどな宗麟