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多々良浜の戦いにおける毛利軍の撤退について

2020年04月08日 19:27

907 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/04/08(水) 12:39:31.33 ID:7j1OFAgQ
毛利一門、その他大名は筑前に打ち出て立花の城拵え、普請手堅く相調え、秋月と対陣した。
そのような所に豊後国大友の軍兵二万余騎打ち出て立花に相向かった。そして大友の調略に、
大内義隆の落子が山口落城の時に母の懐中に抱かれ豊後国に落ち行き、その子が成人の後に
大内太郎左衛門尉輝廣(大内輝弘:(正確には大内政弘の次男・大内高弘の子))と名乗り、大友は
これを取り立て、大内家の諸浪人を抱え、その他手前の軍兵相添えて、都合一万二千余騎にて
毛利一門、および諸大名が悉く豊後(筑前の間違いか)に在陣した所で、周防国山口に討ち入り
築山に陣取り、高峯の城では毛利方の市川常吉が籠城した。

このような俄の押し寄せは思いもしなかったことで、城中には人数もなかったが、常吉は智謀を以て
城を堅固に保った。そのような中、市川常吉の子・少輔四郎は予てより高峯の麓に宅地を構え居住していた。
この少輔四郎が、大内太郎左衛門尉(輝弘)に一味したのである。常吉はこれを聞いて軍兵五十人を差し下し
少輔四郎を討ち果たした。これについて世間では常吉覚悟名誉の義と申された。

さて毛利元就の陣所に飛脚を遣わし、「山口如此」と注進すると、元就はこれを聞いて仰られた
「筑前立花へも豊後より猛勢打ち出て戦陣と成ることが告げ来て、また山口にこのような事が起こるとは
心もとない事である。さりながら山口の城には常吉を籠め置いてあるので、たとえ人数が無くとも
十日二十日は城は堅固であろう。立花に居る一門中、その他諸士悉く呼び戻し、この元就はここでそれを
待って山口に討ち入るべき。」(この時元就は長門国赤間関に在ったとされる)
そう宣われ、夜を日に継いでその手遣いをした。

元就は立花に仰せ遣わした
「その陣早々引き退くべきである。山口はこのような状況と成った。さりながらその陣の退き口は一大事の
事である。おそらく豊後より打ち出てきた軍兵どもが追尾し合戦に及ぶだろう。その事は言うまでもない。」

この旨が告げられると、在陣している毛利一門その他に、各々如何考えるかと尋ねられた所、宍戸隆家
申された
「只今のこの状況ではとかくに及びません。敵方が動き出す前に、日を移さず早々に各々引き退くべきです。
殿はこの隆家が仕りますので、それについてはご安心ください」
そう申したところ、吉川元春が申した
「隆家殿は一門を率いて退かれるべきです。この元春が殿を仕ります。」
これに対して、毛利隆元は言った
「元春は未だ若武者であり、隆家が殿をなされよ。」また隆元は「この立花の城一円を明け退くことは
無念の至である。只今はこのようになっても、何れも豊筑両国の事は捨て置かない。立花には名誉の士を
五、三人差し置く。」
として、桂右衛門太夫元重、浦兵部丞宗勝、坂新五左衛門就清の三人を立花の要害に籠め捨て置き、
各々一同に引き退いた。この時十二月二十九日であった。

宍戸隆家が殿を成した所に、退き口付近の豊後陣より追撃が千騎ほど、道五十町ばかり追い掛けてきた。
隆家は返し合戦して、追手の者百五十余打ち捨て、豊後衆は引き退いた。
これについて、宍戸隆家の事は申すに及ばず、その家中の者共についても『名誉の三合力』と讃えられた。
その中で隆家家臣の北野新左衛門は鑓下にて討ち死にし、以下二十六名が討ち死にした。

そこよりは心静かに毛利一門その他諸大名は、長門国の毛利元就の陣所に走り参り、かくて隆元は元就に
仰せになった
「今度、宍戸隆家が殿を成し、その三合力は比類ないものでした。それ故一門の者達、その他の軍兵も、
難なく退くことが出来ました。またこの隆元は、存ずる仔細在って、桂元重浦宗勝坂就清、彼ら三人を
立花の城に籠め捨て置きました。」

元就はこれを聞くと「隆家の武勇により一門その他が堅固に退いたこと、三合力浅からず、これもひとえに
当家の武運が長久であるという事なのだろう。また三人を立花に籠め置いた事は、隆元がこの元就の考えを
よく理解しているからであって、軍法はかくこそ有るべきである。そしてかの三人は定めて切腹するであろう。
武士の習いとは言いながら、大き中にただ三人残り置いて切腹すべきこそ、神妙千萬、不憫もまた至極である。」
そう感涙を流された。これを見る人聞く人も、皆感涙を流した。そうではあっても、弓矢を取る者の面目であると
各々感じ入った。

908 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/04/08(水) 12:39:47.06 ID:7j1OFAgQ
さて、立花の城では大将御引退の後、その夜は残った三人が覚悟し、思い思いのあり方で様々に物語などした。
坂新五左衛門申しけるは「この上は武勇の沙汰も無いだろう」と、武具を脱ぎ置き、帯を解き、焚き火に
当たって背をあぶった。
浦兵部は「死するとも歯噛みという下説がある。生頸を抜かれるのも口惜しい次第である」と、用心を呼びかけ
夜廻りをした。
桂右衛門太夫が申しけるは「この城の状況では、中々今夜は押し寄せて来ないだろう。明日、潔く切腹すべし。
このような寒夜に兵部丞が夜廻りするのは無益である。方々、家人を召し連れてこちらに入られ、酒を一つ
まいられよ。新五左衛門、背あぶりも大概にするのがいいぞ。さあ、こちらへ。」と呼び入れ、
「このような時節であり、座の高下は要らぬ。うち乱れて酒を飲もう。」と夜もすがら酒宴した。

新五左衛門が申した「それがし、宵より焚き火に当たっておりましたが、ここでひとさし、舞いましょう。」
そう言ってこの時出合面と錦戸切を舞った。一入の舞の出来に、上下感じ入った。

そのうちに漸次天は晴れ明け、かくて城中より敵方へことわりを申した
『毛利一門、仔細有って悉く退きて候。ここにある拙者たちは、桂右衛門太夫元重、浦兵部丞宗勝、
坂新五左衛門就清、城番として罷り在り候。どうか使いを出して頂きたい。切腹仕り、その上で
御城御請取あるべし。』

このように伝えると、敵方よりこのように申してきた
「これより申す事が、御返事となるでしょう。各々敗軍されたように見及び候。さては両三人、その番として
残られたか。名誉の義共に候。しかし御切腹は中々有るまじき義にて候。何方へなりとも、御望み次第に
送り参らすべし。」

それより互いに使者を立てて、「そういう事であれば羽片(博多カ)へ退くべし」と云い、敵方は軍兵百人相添え
彼らを羽片へ送った。三人は心静かに退き、名誉の義と申された。これは筑前国立花の物語である。

毛利元就記

いわゆる多々良浜の戦いにおける毛利軍の撤退について



912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/08(水) 18:19:23.69 ID:JgMZTM7o
>>907
元就って九州だと苦戦してるイメージあるなぁ

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/08(水) 18:43:21.26 ID:oQ0XNDO8
西へ行っても備前や播磨は切り取れたと思うけど、畿内大名や本願寺とかは破れなかったと思う
秋月とかは調略してたらしいが、尼子や大内の残党残してたのが運の尽き

921 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/04/08(水) 20:52:46.13 ID:TpSfU/aE
元就はしゃらくさいことしか言わないな
嫌われてたのも当然というべきか

943 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/04/10(金) 01:09:40.24 ID:jWZEcqZB
>>907
大友家も異常だよね
この戦いのあとは家老3家に豊後1国を任せちゃうとかさ
下剋上の時代にその忠誠度はどこから来てるのか謎すぎる

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 11:27:16.20 ID:wni+Wks1
>>943
上杉謙信と一緒で国政を司るのが嫌になったんじゃねーの?
キリシタンに傾倒するのもこの辺からでしょ
そもそもコイツに戦国大名としての器はないよ

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 12:07:58.69 ID:jWZEcqZB
>>947
確かに宗麟は当主になれたのは後の重臣たちのおかげという負い目があったのかもな
配下が優秀すぎてお飾り当主になっていたのかも

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 13:05:44.59 ID:cs1WhzJ5
若い頃はボンクラ、二家老に擁立されたら強豪、二家老死んだらボンクラ
二家老がすごかっただけじゃね理論成立しちゃうよね

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 14:51:03.68 ID:wfT8RyTh
息子のダメさ加減がその説の後押しになりそう

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 15:53:36.03 ID:tmPlr+RY
二家老しんだあとの宗麟って完全隠居してて一切政策に関わってないってのが最近の研究じゃ?
あとキリシタンに傾倒してないって話と

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 18:02:20.64 ID:jWZEcqZB
>>951
信長と毛利せめる約束してたり秀吉に泣きついたり動きは活発だと思うけど

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 18:21:28.18 ID:tmPlr+RY
>>952
泣きつきはむしろ家臣たちが完全隠居してた宗麟に泣きついて一瞬だけ復帰してもらったようであるって話
どうも隠居中に一切裁許とかを出してないようなのよね、宗麟
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豊後の王の勝利

2019年04月21日 16:22

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/21(日) 09:14:51.28 ID:WjCbBoTL
この頃豊後の王が戦争に勝利を得たという報告が我らに達した。大内輝弘王が毛利占領下の山口に渡り、
(永禄十二年九月、大内輝弘の乱)、その地に軍備がないのを発見し、その大部分の占領を始めた。
この報が暴君(毛利元就)の軍隊に達すと、毛利軍は一晩の間に、大友方に悟られること無く九州の戦線より
撤退した。豊後の王(大友宗麟)の部将たちはこれを知り、大兵を集めたため、1ヶ月の間に城十ヶ所を
陥落させ、これによって戦争の目的であった二ヶ国(豊前、筑前)の主となった。

領内が安全と成った後、戦争中最も強かった肥前国の領主(龍造寺隆信)らから受けた危害に対して報復を
せんと決し、軍隊を同地方に差し向けた。ドン・ベルトラメウ(大村純忠)は、豊後の王が自分の領地と
接した龍造寺を滅ぼそうと来て、これを滅ぼした後自分にその刃を向けるのではないかと恐れ、しかし
大友に抵抗する力は有していなかったため、パードレ・コスモ・デ・トルレスに依頼して豊後の王と親交を
結ばんと決し、「王(宗麟)がもしこれを許諾するのならば、自分も大友の肥前攻めに兵を出して協力する」
と申し出た。

豊後の王は今日まで我々(宣教師)に対し何事も拒絶したことはなく、パードレ・コスモ・デ・トルレスが
今回請うた事も悉く許容したため、ドン・ベルトラメウは大いに満足し、その兄弟である有馬の王(有馬義貞
も又、豊後の王と親交を結び、パードレ・コスモに大いに感謝した。
ただしこのようになったのは、彼らが暴君(毛利)のために利益を計った事があったためである。

(1570年10月12日(元亀元年九月十三日)付、イルマン・ミゲル・バズ書簡)



硝石の当地への輸入を一切禁止し

2019年04月01日 16:41

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/01(月) 08:46:41.78 ID:giU8cdsj
最も尊敬すべき君

我々はあなたが本年当地に来られることを大いに待ち望んでいる。あなたの渡航を妨げる原因は
小さくないと想像するが、近くに相見える希望を捨てていない。

私が常にあなた方のコンパニヤ(イエズス会)を庇護せんと望んでいることは、既にあなたの耳に
達していると信ずる。私が山口の王(毛利元就)に対して勝利を望むのは、彼の地にパードレ達を
帰住させ、かつて彼らが受けていたよりもさらに大いなる庇護を与えたいためである。

しかしながら、私の希望を実現するのに必要なのは、あなたの援助により、硝石の当地への輸入を
一切禁止し、私の領国の防衛のために、カピタン・モール(ポルトガル船の司令官)をして、
毎年良質の硝石二百斤を持ち来る事である。私はこれに対し百タイス(銀一貫目)、またはあなたの
指定される金額を支払うだろう。

この方法によれば、山口の暴君は領国を失い、私の元に在る正当な領主(大内輝弘)がその国に入ることを
得るだろう。あなたの手に接吻する。

  本日陰暦第九月十五日(一五六七年十月一七日)

(一五六七年(永禄十年)付、大友宗麟より中国滞在中のニセヤ司教ドン・ベルシヨール・カルネイロ宛て書簡)



夫の留守を守った妻

2018年03月09日 11:00

685 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/03/09(金) 04:06:05.15 ID:VpSRa6pd
夫の留守を守った妻

市川局。
石七郎兵衛尉経守の娘。一説に宮荘下野守基友の娘とも。
正確な名前は伝わっておらず夫は毛利元就の重臣、市川経好で周防、高嶺城番

1569年、毛利は九州へ上陸し豊前を攻略し筑前立花城攻略に向かっており
大友軍と激戦を繰り広げていた。

大友宗麟は毛利軍の背後をつくため元々周防を治めていたに大内氏の一族である大内輝弘を密かに周防へ上陸させた。
上陸した大内輝弘は大内の残党を糾合。
高嶺城へ襲いかかった。

夫、市川経好は九州へ従軍しており城中は留守を預かるわずかな兵と市川局や女中達のみであった。
しかも高嶺城は主郭を中心に、四方に郭を配している山城で、守りには不向きな構造。

しかし市川局は徹底抗戦を決意。
自ら総指揮をとり女中を従え,女中ともども甲冑を帯び,下知を加え,長刀をもって戦った。

大内軍は毛利軍が九州から戻る前になんとしても周防を制圧したい。
大軍で攻めるがどうしても高嶺城を落とせない。
焦った大内軍はとうとう諦めて包囲を解いてしまった。
守り抜いたのである。

その後毛利軍が北九州から救援に到着。
大内輝弘は敗れ自害した。


のちに毛利輝元から「比類なし」と称され感状を与えられた。
が褒美はなぜか夫の経好に。
長男の元教は大友宗麟に内通した罪で殺害される。

天正13年3月6日死去。 『萩藩閥閲録』



686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/09(金) 12:21:13.51 ID:2sJpI6MT
>>685
最後のオチが酷いw

1567年(永禄10年)、豊後の王よりの書簡

2017年03月20日 12:43

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/19(日) 19:39:01.77 ID:ZMAWX+2P
1567年(永禄10年)、豊後の王(大友宗麟)より支那滞在中のニセア司教ドン・ベルショー・カルネイロに送りし書簡

『最も尊敬すべき君

我らは貴方が本年、当地に来られることを大いに期待している。そして貴方の渡海を妨げる原因が小さくないことを
憂いているが、近く相まみえる事の希望を失っていない。

私が常に耶蘇教を庇護したいと欲していることは、既に貴方の耳に達していると信ずる。
私が山口の王(毛利氏)に対して勝利を望むのは、第一に彼の地にパードレ等を帰住せしめ、彼らが受けていたよりも
大いなる庇護を与える為である。
そして、我が希望を実現するため貴方の援助を必要とするのは、日本に硝石の来ることを一切禁止し、
ただ我が領国防御のため、カピタン・モール(官船の司令官)をして毎年品質良好な硝石ニ百斤をもたらす事である。

私はこれに対し百タイス(銀一貫目)、又は貴方の命ずるところの額を支払うであろう。
この方法によれば、山口の暴君は領国を失い、私の元にある正当なる領主(大内輝弘)がその国に入ること
可能になるだろう。私は貴方の手に接吻しよう。

本日陰暦第九月の十五日』

(異国叢書)

大友宗麟が、宣教師に硝石の禁輸を持ちかけていた書状である。



683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/20(月) 01:39:50.91 ID:dH4ZvUEi
>>682
この頃から毛利の九州への再侵攻に備えて輝弘を山口に送る計画してたんだな
対毛利戦の時はほんと色んな手を打ってて有能なんだけどな宗麟