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キリシタンはこのような卑しむべきものは見ない

2019年06月21日 16:30

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 00:17:36.40 ID:ktoSxB+q
国王(大友宗麟)にパンヤリヤン Pantaliao というキリシタンの一子(大友親盛)が有る。彼は年齢16歳で、
彼の父の兄弟である叔父(田原親賢 / 紹忍)の嗣子となった。

この田原親賢は先年報告した通り、養子のシマン Simao (田原親虎)がキリシタンと成ったため、これを
廃嫡した人である。

ドン・パタリヤンはキリシタンと成って既に4年であるが、思慮深く性質も良く、殊に良きキリシタンで
あるため、王は甚だ彼を愛している。この人については長く報告することも出来るが、簡略にするため
やだ2,3の事を述べる。彼は臼杵より4日路の城に居て、その叔父が承知しないためわずかに4,5人の
キリシタンの家臣が共に居る。叔父の妨害は甚だしいが、一層信仰を固くし、しばしばパードレ、イルマンたちに
書簡を贈って、常に彼のためデウスに祈ることを請い、その信仰については、これを捨てるならその前に死する
覚悟であることを、我々が疑わないようにと願っている。彼の求めに応じてパードレ一人が告白を聴きミサを
行うため同地に赴いたところ、彼の喜びは甚だしく、寸時もパードレの元を去らず、デウスが天使を降ろし
給うた思いがすると言った。復活祭の日は多数の異教徒に囲まれていて城を出ることが叶わなかったため、
キリシタンの家臣を集めて、立派な祭壇を設けて一同祈祷を成し、諸人の頭には薔薇の冠を置き、頸には
ロザリオを懸けた。終わって彼等を饗応し、貧民に食物を与えた。

付近の異教徒の貴族が彼の居城に来た時、彼に金の屏風を贈った。屏風は内部に木を用い、紙を合わせて
作った物で、日本人が部屋の壁掛けのような目的で使っている。
この屏風には異教徒たちが喜ぶ絵が描いてあったが、彼は難しい顔をしてこれを見、他の点では甚だ立派で
高価なものであったが、その面前でこれを焼かせ、使者には「キリシタンはこのような卑しむべきものは見ない」
と言った。

彼は臣民がキリシタンと成ることを非常に希望している故、デウスの御恵により彼等の君主に成った時には、
必ず皆洗礼を受けること疑いない。

(1584年1月2日(天正11年11月30日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

田原紹忍がキリシタン嫌ったのも、キリシタンが信仰を理由にこの金屏風の話みたいな事するからでは…。



184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 16:27:20.84 ID:u/Ny+gN0
>>181
奈多八幡宮大宮司の子がキリシタン嫌いでどこがおかしいの?
仮に彼がキリシタンとなった場合にどのようなことが起こりうるか考えろよ
デメリットしかないと思うけどな
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良き老王フランシスコは

2019年06月20日 17:09

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/20(木) 00:37:47.96 ID:EX6KxfGe
王(大友宗麟)は今(既に通信した通り)臼杵より3レグアのアクミ(津久見)と称する町にいる。
この頃、同所に甚だ良き家数棟を建て、その中にミサを行うべき立派な祈祷書を設けた。
彼は老後の休憩所(隠居所)として世子(大友義統)から、その滞在している地方を貰い受けることを
希望していたが、世子が昨年これを与えたため、ここに移った翌日、イルマン二人を招いて、
同地方に有る寺院三ヶ所にある仏像を尽く破壊し、一つも残らず焼く事を命じたためこれを実行した。

王はまたビセプロビンシヤル(ガスパール・コエリョ)より、同所に駐在するためのパードレ一人、
イルマン一人を請い受け、同地方の二千人を超える異教徒に説教を行わせることとしたが、一部は既に
洗礼を受け、他の者は今教えを受けている。
この町に居た坊主たちには甚だ親切に話させ、彼(宗麟)が既にキリシタンに成っている故、彼等も
キリシタンと成ることを勧め、己(の生活)を支えるに足るものを与えることを約束した。諸人皆これを
良しと考え、今ドチリナを授けられている、

この町は甚だ静かであるため、パードレ一人とイルマン一人が駐在していた小僧院には、豊後の国の
坊主達が木の箱の中に、他の立派な箱を納めたものを宝物として密かに蔵してあった。
この箱には釈迦の教えが、金の文字によって九巻に認められた、甚だ珍しいものが納めてあった。
この書物は彼等の習慣に従って製本され、確実なる文書によれば、これが作られて270年経っているが、
今も新しいもののように見えた。その一巻はインドの管区長に送るが、同所より尊師の元に送り、
坊主達がその宗旨の書物を尊重している事を御覧に供するであろう。

この他に彼等が甚だ珍重する、釈迦の門弟19人の絵を描いた19枚の紙を納めた箱がある、世子が
父なる王にこの地方を譲った後、豊後の坊主達は世子の元へ行き、急いでかの書物と肖像を取り出し、
パードレ達の手に入らないようにすることを願った。この宝物を失うだけでなく、これを焼かれることの
危険があったためである、世子は直ぐに人を遣わして書物と画像を王に請わせたが、良き老王フランシスコは
世子の使者の来る前に使いをイルマン等の元に遣わし、彼等が寺院に於いて第一に取り棄て、又は焼却すべき
ものはかの書物及び画像であると伝えさせた、そのためこの事は既に実行されており、世子に対しては
その使者が遅かった旨を答えた、

右のほか、王はイルマン一人を外の二つの町に派遣し、その住民に説教をさせた、これにより400人余が
キリシタンと成った、

(1584年1月2日(天正11年11月30日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)


うーん…



180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/20(木) 08:43:33.06 ID:3qib0QTB
庶民から金を巻き上げるアイテムなんだし焼却した方が後々良い事になる

何人たるを問わずこれに対して善をなせ

2019年05月18日 17:15

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/18(土) 10:44:19.20 ID:OD/uMuQG
当住院(豊後府内)の布教長であるパードレ・フィゲイロは、(豊後)国内擾乱し、略奪も頻りに行われ
危険多い頃、病人のキリシタンの告白を聴くため出張したが、途中に異教徒が多数出てきて、
槍を取り剣を抜いて彼を罵り、

「豊後の大身達は国内に会堂、またパードレが無からんことを望み、これを発見すれば悉く殺すことに
決したが、もし我等に金銭を渡せばお前を免すべし」

と言った。パードレは少しも聞こえない風をしたため、彼らはパードレを襲い、付近の山の後ろにある
林中に連行して殺そうとする様子を見せた。或いは直ぐに殺すつもりだったのかもしれないが、
パードレは、もし林中に連れて行かれてはこの事は人に知られず、救いを受けることも出来ないと考え、
歩行することを拒み、路上に留まって、

「私を殺そうと欲するならここで殺せ、私は銀を所有しない。また前進することも欲しない。」

と言った。ここに於いて彼らは再び協議し、一人は「殺すべし」と言い、もう一人は「この者を生存させる
べきではない。斬首すべき」と言った。しかし最後の一人は「たとえ犬であってもこれを殺す前には熟議を
要する」と言った。同地の領主が付近の城に在り、彼らの処置にこの領主が憤ることを懸念し、領主に
事の次第を告げ、然るべき処置を尋ねることとした。

我等の主の摂理により、この領主は25年前、豊後の王(大友宗麟)が己を殺そうとした謀反(天文22年(1553)の
一萬田鑑相、宗像鑑久兄弟、服部右京亮による叛乱)に於いて、これを鎮定した宗麟により彼の父並びに
大身二人、およびその子女、家族を悉く殺すことを命じた時、我が住院に逃れてきてその生命を全うした
人であった。

彼は、パードレが庇ってくれたおかげで命を救われ、また最近に成りパードレ・フランシスコ・カブラルの尽力に
よって国王が彼の罪を赦した事を考え、
「このパードレに少しも害を加えてはならない」
と命じ、既に晩になっていたため、その邸に宿泊させ危険より救った。

このようにして彼は安全に府内へ帰ったが、『何人たるを問わずこれに対して善をなせ』という諺が真である
事を見たのである。

(1580年10月20日(天正8年9月12日)付、パードレ・ロレンソ・メシヤ書簡)


老王は堅固な柱のように

2019年05月15日 17:44

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/15(水) 13:42:07.62 ID:vxZvkeB7
豊後の領内は(耳川の戦いにおける)国王(大友宗麟)の軍隊敗北の報を聞いて悲嘆している頃、
日本の領主達は常に領地を増加する機会を待っている者たちであるため、国王が兵力を失ったこの時を
最も良い機会であると考え、豊前、筑前、筑後および肥後四ヶ国に於いて多数の大身たちが叛起した。
彼らは皆、豊後の王並びにその配下の大身達の領地をできるだけ奪い、自ら領主にならんと欲し、
この目的を果たすため同盟を結んだ。

既に述べたように、龍造寺(隆信)は肥前全土の領主であったが豊後の周囲に有る先の四ヶ国に於いて
国王に対し激烈なる戦争を始めた。これによって豊後の事情は一層悲しむべきものとなり、我等
キリシタンに対する迫害者は力を得て迫害を行い、両王(大友宗麟・義統)を動かしてその意に従わせ
ようとした。

老王(宗麟)は堅固な柱のように少しも変わること無く、我等に対する愛と親しみは日々加わり、また信仰の
事については一層熱心を増したが、若王(義統)は漸次冷淡と成り、我等から遠ざかった。しかして国を
治めているのは彼であるので、彼が冷淡と成るに従って、我等に対する迫害は増加した。
先の四ヶ国の内、肥後と称する国の主だった大身の一人は国王の味方であったが、若王の元に人を遣わして
「今後デウスの教えを庇護することを止め、自らが希望する条件を守ることを神仏に誓わないのであれば、
自分も他の大身達も王に服従できない。」と伝えた。

このため若王は全く信仰を棄て、要求どおりに神仏に誓いを立てた。このようにして彼はデウスの御恵を
失い、再び昔の罪と暗黒に陥った。我が教の敵は若王が信仰を棄てたのを見て豊後に集まり、前よりも一層
悪しき条件を定め、偶像に収入を返し、慣例の祭儀を行い、世子がキリシタンと成り教化を援助することを
止めるよう要求した。世子はこの要求を悉く容れ、異教徒の慣例に従い神仏によって宣誓をなし、完全に
異教徒であることを公表した。

ただし我等に対しては、「これはみな強制させられた為やむを得ず成したことであり、その悪しき事、
また自分が臆病であることは承知しているが、領国を失わないためには他に方法はなく、このようにしなければ
大身達が我等に援助を与えないためである。」と弁解した。
この事は彼の大いなる誤りであり、もしその父のように信仰が堅固であれば、その望みに対して却って
好都合であっただろう。

このように若王が屈服したため、我等に対する迫害は増加し、迫害者は言葉によって侮辱するだけではなく、
各地において毎日のように死刑の宣告を下した。こうしてしきりに友人、並びに敵の使者が来て、間もなく、
或いは夜中に殺されるだろうと知らせたため、我等は毎日毎夜、絶えず恐怖を抱き死の準備をなした。
府内の住院においては夜になると上長(カブラル)が一同を激励し、死を迎える力をつけた後、互いに
抱擁決別し、終夜殺しにくる人を警戒した。

老王はしばしば我等を励ましまた慰め、もし事起こらば我等と共に死すべしとまで言ったが、騒ぎは大きく
敵は甚だ強力にして、さらに政治は既に老王の手に無かったため、我等の恐怖には正しい理由があった。

かくしてこの苦難は数日継続し、その間祈祷、ジシピリナおよび断食を成し、二ヶ月半の間は昼夜祈祷を
続け、イルマン達は各々時間を定め、常に何人か祈りをすることと成した。
若王が信仰を棄て、この迫害によりキリシタン達は嘲笑を被ったため、新たに洗礼を受けた者の多数は
信仰を棄てたが、老王および野津のレアンのように信仰堅き者も少なからず、その熱心は益々加わり、
また新たにキリシタンと成る者も絶えなかった。

(1579年12月10日(天正7年11月22日)付、パードレ・フランシスコ・カリヤン書簡)



耳川の敗戦後の、豊後国内

2019年05月14日 17:27

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/13(月) 19:50:33.25 ID:mxOrsGk9
老王(大友宗麟)は(耳川の戦いの敗北による)混乱の際、前に述べたように急遽出発し、食料も携えず、
所有の品の大半を失ったが、パードレが会堂に備え置いた十字架上のキリスト像を請うため人を遣わし、
これを携帯することを望む旨を伝えた。
またこのように大敗したが少しも恥じる所無く、デウスに対する信頼を失わない旨も伝えた。その後パードレが
王の陣所に到着した時、王は諸人の面前に於いて跪いて手を天に挙げ、現在の艱難に対して我等が主に感謝し、
パードレと語って彼は「キリシタンとして、このような不運に会うも心を変えず、むしろその熱心と
デウスに仕える希望はさらに加わった」と言った。この事を公言したのは、パードレに対する豊後の人たちの
不平と怒りを抑えるためであり、王の信仰がこのように固いことを聞けば、何人もパードレに対して無礼、
または害を加えることが出来ないためである。その後パードレと数回談話した際、「我等が主デウスは
我が意志と、私が日向においてキリシタンの教えを広めようと図っているのを知り給い、隠れたる御裁断に
よりこのような不測のことが起こった。しかしこれに満足し、己の弱き判断を捨てデウスの賢慮に
服従する。」と言い、また他の機会にパードレを慰めて、「デウスが私の軍隊を敗北せしめ給いしは、
この戦争においてデウスの教の最大の敵にして、帰依に反対していた者たちが多く死して、以後の教化に
便ならしむためであろう。」と言った。
若王(大友義統)もこれに劣らぬ勇気を示し、その父がパードレ・フランシスコ・カブラル対して言ったのと
同じことをパードレ・ルイス・フロイスに伝えた。

しかしながら豊後に於いては今回のことは全く神仏の罰であるとされ、我らに対する不平が大いに訴えられた。
よって若王の義兄弟の一人が彼を訪問し、「かくの如き不幸起こり、その部下たちは甚だしく憤慨しているが
故に、今後デウスのことに関係すべきではない。」と勧めたが、若王はこれに答えて
「従来臣下の意向を尊重し、また母(奈多夫人)の機嫌を損じ無いよう努力してきたが、今後は誰にも
譲歩せず、その(キリスト教の)救いのために適する事をする。」と言い、パードレ・フランシスコ・カブラル
臼杵に到着すれば、他人の意向に頓着せず、直ぐに自らキリシタンと成り決してこれを見合わすことはないと
宣言し、また自らキリシタンと成ることを示すため、ロザリオを取り、公にその首に懸けた。その後同一の事を
パードレ・フランシスコ・カブラルに語り、またシナのビジタドールのパードレに通信し、従来よりも遥かに
その信仰心が強くなったことを示した。

国王父子の決心がこのように固いのを見て、我が教の敵は、我等並びにキリシタン等に反対する言を成し、また
行動をすること出来なかった。キリシタンと成って多くの日を経たわけではない国王と、受洗の希望者に過ぎない
世子とが、古きキリシタンにすら信仰への疑惑を懐かしめるこの大いなる不幸に遭遇して、このように堅信を
保持しているのは驚くべきことである。豊後の王は多年非常に幸福であったが、キリシタンと成った直後に
この不幸が起こり、殊にこう言った事態は、かねて坊主たちが威嚇していた事にも関わらず、少しも心を動かさ
なかったのは、我等が主の大いなる御恵である。

その後ほぼ一ヶ月を経て、日向の軍隊の総指揮官であり、死んだと思われ、ゼザベル(奈多夫人)一同も既に
その死を嘆いていた、彼女の兄弟である田原親賢が表れ出た。この残酷なる敵が豊後に戻ってきたと同時に、
キリスト教への迫害は新たに起こり、我等に対する不平の声挙がり、姉妹である悪王妃、およびこの戦において
父子、兄弟、親戚を失った多数の大身及び武士たちは合同して、『今回のことは宣教師たちが豊後に於いて
教化をなし、偶像を破壊したことに原因を発するものである』と成し、我等を殺し、または当国より追放
することに全力を尽くす決心をなした。
戦争において死んだ者は多く、諸人敗戦を嘆いていた故に、我等は町に出れば多くの罵倒の言葉を聞いた。
しかしながら老王は、動かざる柱のように我等を庇護し、若王もまた強く信仰を守ったため、敵はその望む
所を行うこと出来ず、ただ不平を述べるのみであった。

(1579年12月10日(天正7年11月22日)付、パードレ・フランシスコ・カリヤン書簡)

耳川の敗戦後の、豊後国内の動揺の様子。



30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 12:40:43.36 ID:G3wFrSId
大友宗麟ってデビュー当時からピンチの時の判断が素早く的確
成功した戦国大名ってそういうものなんだろうけど

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 14:05:44.57 ID:9vYs8KUt
自分の首を取られたら終わりだからね
今川さんみたいになっちゃう

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 15:04:21.80 ID:x0PW2SgR
動かざる柱のようとか大敗しても恥じないみたいな姿勢はかっこいい

フランシスコ・カリヤン書簡より、耳川の戦い

2019年05月10日 16:42

17 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 09:28:01.42 ID:0VkCxDIG
両王(大友宗麟・義統父子)が日向及び豊後に於いて(キリスト教のために)為したる事は右の通りであるが、
それに対するパードレ等の満悦甚だしく、また大友統治下の諸国に於いて、帰依のために開かれた門戸は広く、
キリシタンたちが満足したことは、尊父も察せられるでしょう。
であるが他方に於いて我が教の敵は悲しみ、邪悪なるゼザベル(奈多夫人)と坊主達の不満甚だしく、
坊主たちは両王が寺院を破壊し彼らを侮辱したことに対し、神仏の罰が諸国に及ぶと脅したのであるが、
キリシタン並びに王達は、神仏がいかに激怒しても何もすること能わないのを笑った。

事情かくの如くであった時、我等の主デウス(御判断は我等には解らざれども、聖にして常に正しく、また
一般の幸福と成るものなり)は、日向の軍隊に油断の生じることを許し給い、これによりキリシタン及び
我等の喜びは嘆きに変じ、キリシタンに対する大迫害が起こり、豊後の王が多年領内に維持していた平和は
忽ち激烈なる戦争に変わり、国内の事情は一変した。
世の事は無常であり、日本の事情が変わりやすいこと、また我らが進まんと欲する道が、我等の主が定め
られたものと大いに相違していたことが、明らかに認められたのである。

日向に在った総司令官である田原親賢の油断と無能により、既に手中に在った勝利と、その指揮する全軍は
失われた(耳川の戦い)。軍隊は同国一帯の鍵であり、多数の兵の籠りたる一城(高城)を囲んだが、
それ以前に攻めた城においては少しも抵抗を受けなかったため、敵を軽蔑し警備を怠っていた。それに反し
敵である薩摩の王(島津義久)は少しも油断せず、高城の陥落が全領土の喪失と成るべきことを慮り、全力を
尽くしてこれを救援する決心をなし、噂によれば所領の三ヶ国より老人と少年を除き貴族及び平民の兵を
悉く召集して無数の兵を得、これを率いて城に向かって進軍した。そうして先ず伏兵を設け、全く警備を
怠っていた豊後の軍を平地に誘ってこれを攻撃した。城内の兵もまた打出て、豊後の軍を真ん中に挟んで
おおいに戦った。豊後の兵はよく防ぎ多数の敵を殺したが、大軍に対抗すること出来ず、大部分は戦死し、
残兵は戦場を敵に委ね、列を乱して敗走し、生命を全うするために全力を尽くした。

18 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 09:29:00.68 ID:0VkCxDIG
風評は事実より誇大に伝わり、また逃げる者には恐怖が伴うのが常であり、多数の敗残者は戦場より数レグワ
離れた老王(大友宗麟)の滞在地(無鹿)に着くと『全軍殺され、または敗走し、敵は急激に追撃し、数時間の
内にはここに到着し占領を始めるであろうから、少しも時を失わず豊後に遁るべし。』と言った。
多数の人が逃げ帰って同じことを繰り返したため、話は益々大きくなり、前よりも悪しき報伝わり、人々の
恐怖は甚だしかった。パードレ・フランシスコ・カブラルは王に対し、「同所は堅固であるから引き上げを
急がず、残りの軍隊を収拾すべきで、敵が急に来ることも無いし、味方の死者も話よりは少ないはず。」と
言い、王もその勧告に従う決心をしたが、部下の恐怖甚だしく頻りに騒いだため、遂にこれに負けて急遽豊後へ
撤退することと成った。夜中人をパードレに遣わして己の去る事を告げ、少しも躊躇すること無くイルマン達と
共に出発するよう命じた。この夜の混乱は甚だしく、王と共に逃げる者が途中の食料を携えることも忘れたため、
豊後までの3,4日路の間非常なる苦労と飢えを覚え、国王も妃も大いに困窮した。

パードレ・フランシスコ・カブラルおよびイルマンたちは、国王が同日午後、彼らの説得により一端、敗残兵を
収拾して同所に留まることを決断していたため、撤退の用意を少しもしておらず、王が撤退の使いを出した
直後には出発してしまったため独り後に残り、馬はわずかに一頭しか無く、しかもこの馬は、病気のため
付近の他の町で療養していたイルマン・ルイス・ダルメイダを迎えるために送る必要があり、どのようにしても
他の馬を得ることが出来ず、又これを捜す余裕もなく、しかももしすぐに出発せず豊後の王から離れた時は、
我等は敵、もしくは味方であるはずの豊後の逃亡兵から殺される危険があった。この兵士たちは異教徒であり、
パードレたちが国王をキリシタンとなしたが故に、神仏の罰が彼らに及んだのだと言い、そういった迷信を
抱いていたためである。
パードレ及びイルマン等は如何とも出来ず、会堂の最も大切な品を少しばかり従僕たちに運ばせ、冬の最中に
険しい山道を通り、食料も無く、肉体及び精神上非常なる疲労を覚えたが、王が恥じて引き返してくることを
懸念して前進した。彼らの困難は甚だしく、大いに飢餓に苦しみ、三日の道中を成した力があったのは不思議と
思うほどである。
日本の戦争の習慣に従い、全土は焼かれて居住する者もなく、食料も、夜休憩する家もなく、飢餓と寒気と
疲労のため、絶えず死に瀕していたが、我等の主の御助により。夜の宿泊所において従僕たちから少しの米を
与えられた。また山の険路において足を痛め、履物もなく、降雨のため水多く冷たい河を渡り、濡れた体を拭く
物もなく夜を過ごした。これにかかわらずダライニヤを唱えてデウスの一身を委ね、かくの如くしてデウスの
御恵により慰めを得た。
(1579年12月10日(天正7年11月22日)付、パードレ・フランシスコ・カリヤン書簡)

耳川の戦いの敗北についての宣教師の記録。やはり神仏の罰だったのでは。



19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 13:28:47.46 ID:C+7oiKRh
これは前スレの空気読まない学級委員長みたいな大鹿剣助も激怒

この世子は知識と思慮に富み

2019年05月07日 16:04

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/07(火) 09:13:21.50 ID:OfVUZcaD
その後8日、もしくは10日を経て、父王(大友宗麟)が土持に向けて出発する前、世子(大友義統)はイルマンを
招いてパードレに伝言を託した。
この世子は知識と思慮に富み、キリシタンとなりたる父の意に従わんと欲し、またすでにキリスト教の説教を
聞いており、これをよく悟って、デウスの教え以外に人間が救われる道はないと覚った故に、
妃(吉弘鑑理娘・尊寿院。洗礼名ジュスタ)とともにキリシタンとなる決心をしていたが、彼の領国は広大であり、
そこには神仏を崇拝しキリシタンの名を憎む有力なる大身が多いゆえに、彼は本年もそう成したように、
徐々に準備をし、少しづつ坊主の収入を奪い、寺社を破壊して国内の大身達に彼らの偶像崇拝が利益少ない事を
覚らしめるべしと言い、なお自筆にて認めた五、六ヶ条の重要なる点について、パードレ(カブラル)に質問した。

パードレがこれに対して返答をした後、世子は再び人を遣わして、『右の質問を成したのは領国を失うことを
怖れたためではない。デウス、霊魂、救い、楽土および未来の刑罰があることを悟って以来、国を失うこと、
また生命を失うことは少しも意に介していない。パードレがもし直ぐに、異教の者たちと一切の関係を絶ち、
寺社を破壊し、坊主たちを倒し、偶像を尽く焼き払い、領内の異教の儀式を廃し慣習を破ることを可とするのなら、
私はこれを成すだろう。
もし前に述べたように、徐々に国事を処理し、人々を誘導して騒擾または反乱を起こすこと無からしめる事を
可であるとするのなら、そのようにするだろう。』と言わせた。

パードレはこれに答えて「彼の希望は甚だ良き故に、我等の主デウスに、これを持続せしま給う事を祈りましょう。
またこのように重大なことはよく考慮し、十分に準備を成すことが必要であるから、徐々に準備を整えるのが
我らの主のために然るべきもので、祈祷を学びデウスのことを聴き、同時に領内のことを処理すれば、世子の
希望通りに来年のはじめには、洗礼を受けることができるでしょう。」と言った。

私(フロイス)が彼と同船して土持に赴く父王を訪問し、その船にて帰る時、夜中に長時間に渡り彼は私と語り、
ビジタドールのパードレはいつ来るのかと3,4回尋ね、その洗礼の際には私が列席することを希望し、また妃に
関しては、直ぐにキリシタンと成したいと言った。私はこれに答え、「ビジタドール及びパードレはデウスの御助け
によって来年来ることは疑いないと思われます。妃の洗礼に関しては、パードレ・フランシスコ・カブラルが
帰るのを待つのが良いでしょう。彼はしばらく日向にとどまる必要があるのですが、船を出して速やかに帰ることを
命じるのが良いでしょう。」と述べた。
(1578年10月16日(天正6年9月16日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

天正6年ころの、キリスト教に前のめりになっている大友義統の様子


傲慢なるゼザベルを罰するに

2019年04月29日 16:45

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/28(日) 22:12:33.03 ID:4q/y0leB
また国王(大友宗麟)は、邪悪なる王妃ゼザベル(奈多夫人)に対して憤懣を感じていたが、彼女によって
多数の子女を有していた故に、やむを得ず多年の間これを看過していた。そうして彼女による、デウスの教え
及びキリシタンに対する憎悪は益々加わり、キリシタンになろうと欲する者を引き止め、既に洗礼を
受けた者には転向を勧め、頸にかけているロザリオまたは彫像を無理に取って火中に投じ、デウスの教え
並びに会堂に対し、罪と偽りを重ね、その子である世子(大友義統)および国王の心を、我らに反対せしめんと
努力するが、かつてその目的を達したことはなかった。

我らの主デウスは正義の友である故に、傲慢なるゼザベルを罰するに、現世において与えることを得るべき
最も大いなる罰を以てし、生命が長引いているだけの死となされ給わった。
老王は長い期間をかけてこの処置の準備をなした。まず居住する家を新たに城外に作り、国の政治を
その子(義統)に譲った後、その家に移り、王妃のもとで仕えていた貴族の一婦人(林ジュリア)、すなわち
その子ドン・セバスチャン(大友親家)の妻の母にして、既に40を越え少しばかり病弱な人を密かに招いて
妻と成し、王妃は城内に留め置いた。

ゼザベルがこの時まで、数多の国の主として城中に於いては大いなる尊敬を受けていたのだが、たちまち
現世の栄誉を失い、以前に彼女に仕えた者が新たに王妃と成ったのを見て、親戚並びに大友家の大身たちは
再び彼女と共に住むよう王に請うたが、その目的を達することは出来なかった。
王妃はこのような不幸に耐えることが出来ず、しかし老王が一度決心したことはそれに固守することを
知っているがゆえに、短刀をそばに置いて自殺せんと計り、このため王女及び親類たちが昼夜これを
警戒した。

(1578年10月18日(天正六年九月十六日)パードレ・ルイス・フロイス書簡)

大友宗麟による奈多夫人離縁についてのフロイスの記録



947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/30(火) 10:18:03.84 ID:o0dmuEcy
>>944
この奈多夫人って言う人は、大友の庶流家で国東半島の大豪族の田原氏の分家の娘。
同時に、奈多八幡宮の宮司の娘「要は名門の神社のお姫さま」なんですよ。

有力庶流家に対する政略結婚の意味合いが有ったんでしょうね。
田原氏からの人質の意味もあるし、もし反抗しても分家が大友に付くんじゃ勝てる訳が
無い訳ですよ。

更に、田原氏から見ても家格の問題では最高の相手だから悪い話でもないですし。

で、この離婚って大友氏の水軍が離反し兼ねない大問題なんだよな。
瀬戸内海はさんで、毛利方の村上水軍と睨み合ってる状態。

この悪しきゼザベルは

2019年04月25日 15:05

918 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 20:42:49.55 ID:s59Jl9Ux
この頃世子(大友義統)が臼杵市外に在った時、新たにキリシタンと成った家臣の一人が、殿中に於いて
他の家臣と口論した後、剣を抜いて一人を傷つけ、死に至らしめた。よって大いなる騒擾が起こり、さらに
国王不在であったため事件は一層重大となった。殿中に於いて剣を抜いただけでも、本人並びに近親が
死すべきことは動かすべからざる規定であった故に、この青年はその父とともに逃げた。

彼がキリシタンであったが故に、反キリスト教である王妃(大友宗麟正妻奈多夫人)は、「キリシタンは
主君に仕えないだけでなく、叛乱を起こす者たちである。」と言って、この事件をさらに重大なものとしようとした。

この事件が起こって十五日後、他の新たにキリスト教に帰依した武士が喧嘩の後一人を殺した。この騒ぎの為に
大身および兵士が多数集まったため、国王(大友宗麟)自らこの事件に干渉して鎮圧する事となった。

その頃、世子が新たに帰依した一少年(教名エステバン)に対して不快に感じるところがあり、大身に嫁いだ
世子の姉妹の元に送り、これに仕えさせた。大身は仏の絵を求めることをこの少年に命じた。
しかし少年は答えて「私はキリシタンであるので、そのような絵を求めるために行くことは出来ない。」と
言い、他人を使わせるよう請うた。大身はこの返答を考慮して、遣いに別の少年を行かせたが、彼の妻である
王女は、その母(奈多夫人)と同じくデウスの教えを憎んでいたために、この事を聞いて好機であると考えた。

数日後、特にこの少年を呼び、坊主の僧院に行って、守(mamboris)と称する偶像の聖宝を求めてくるよう
命じた。少年はこれに「私が奉じているゼウスの教えに背く」と答え、他の者を派遣することを請うたが、
しかるに王女はこれを強要し、「もし自らこれを持ち来たることを欲さないのであれば、その家臣の一人を
遣わすように。」と言ったものの、少年は「悪魔のことであり、何の利益もないゆえにこれも成すことは出来ない」
と拒否した。王女は「守を求めに行かないのであれば、命を失うべし。」と言ったが、少年は「たとえ首を
斬られようともデウスに背いて罪となることは行えない。」と重ねて拒絶した。

この頃国王並びに世子は市外にあり、帰還は5、6日後の予定であったため、すぐにこの少年を殺すことは
無かったが、世子は既に国を治めていたため、彼の帰城を待ってこれを処分することと成った。
王妃はこの機会に世子に説き、国王並びに世子の家臣が悉くキリスト教より転向し、以後再びキリシタンに
成る者を無くそうと決意し、直接に国王の元に使者を遣わして、キリシタン一般について、彼らが神および
仏の教えを攻撃する以外のことは行わず、旧来の慣習を破壊し、臣民をして領主に背かせ国を滅ぼすこと、
その他それに類することを述べ、彼らがそのような事を教えているがゆえに、国を擾乱させないためにも、
キリシタンを国外に追放する必要があると伝えた。

この時王妃は、国王を怒らすために一切を出来だけ誇大に伝えたが、王はキリシタンの年来の友で
在ったゆえに、少しもその気持を動かすことは出来ず、王はむしろキリシタンのため弁明し、騒動の火を
消そうと努力された。

919 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 20:43:33.68 ID:s59Jl9Ux
王妃は老王に頼っては何事も出来ないと見、一方世子はその母に対して従順であり姉妹とも親しかったため、
これに頼って目的を達しようと決心した。世子はこれまでもキリシタン及びデウスの教えに好意を示して
いたが、その母および姉妹、その他異教徒である武士たちが多くのことを語ったため、少年を殺すことを命じ、
「キリシタンたちはその主人に服従しないゆえに、今後キリシタンと成ってはならない。」と決定した。

世子が帰ってくる前、少年の父母、親戚及び友人たちは涙と道理を以て少年を攻め、「王女が彼に
命じたことを成し、坊主の僧院へ行って守りを求めるべし。しかれば罪は赦される。」と説得したが、
少年は目を既に天と永久の命に向けており、父母の涙を軽視し、親類友人らの勧告を顧みなかった。
彼らが「今回限りこれを成すと言えば、王女は満足し、以後再び命ずることはない。また臼杵のキリスト教会の
破滅の原因にならないためにも、命令に従うべきである。」とまで言っても、少年は「私は生きたる
石の上に固く立っており、悪魔に仕える者がキリストの建築を倒さんとして起こした風雨の力もこれを
倒壊させることは出来ない。不屈の勇気によって、デウスに背くことは決して承諾できない。」と答え、
創造主のために命を捨てることを大いに喜んだ。

彼は夜会堂へ来た。我らはこれを激励し勇気づけた。いや、彼が堅実なる信仰を以て我らを力付けたと
言ったほうが良いであろう。そして、世子の帰ってくる前にどこかに隠れるよう懇願したが、彼はそれを
成すことを欲せず、「デウスの愛の為死すことを回避しない。」と言った。
結局世子が帰り、その母及び姉妹たちの勧告に従い、彼を殺すことを命じた。
この悪しきゼザベル(奈多夫人への蔑称)は他の武士にも悉く転向する事を命じ、もしこれに応じないので
あれば殺して一切を解決しようと計った。この頃異教徒たちはこれに大いに喜び、キリシタンに対して
様々な事を言ったため、弱き者たちは少なからず恐怖を感じた。

(1576年9月9日(天正四年八月十七日)パードレ・フランシスコ・カブラル書簡)


豊後の王の勝利

2019年04月21日 16:22

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/21(日) 09:14:51.28 ID:WjCbBoTL
この頃豊後の王が戦争に勝利を得たという報告が我らに達した。大内輝弘王が毛利占領下の山口に渡り、
(永禄十二年九月、大内輝弘の乱)、その地に軍備がないのを発見し、その大部分の占領を始めた。
この報が暴君(毛利元就)の軍隊に達すと、毛利軍は一晩の間に、大友方に悟られること無く九州の戦線より
撤退した。豊後の王(大友宗麟)の部将たちはこれを知り、大兵を集めたため、1ヶ月の間に城十ヶ所を
陥落させ、これによって戦争の目的であった二ヶ国(豊前、筑前)の主となった。

領内が安全と成った後、戦争中最も強かった肥前国の領主(龍造寺隆信)らから受けた危害に対して報復を
せんと決し、軍隊を同地方に差し向けた。ドン・ベルトラメウ(大村純忠)は、豊後の王が自分の領地と
接した龍造寺を滅ぼそうと来て、これを滅ぼした後自分にその刃を向けるのではないかと恐れ、しかし
大友に抵抗する力は有していなかったため、パードレ・コスモ・デ・トルレスに依頼して豊後の王と親交を
結ばんと決し、「王(宗麟)がもしこれを許諾するのならば、自分も大友の肥前攻めに兵を出して協力する」
と申し出た。

豊後の王は今日まで我々(宣教師)に対し何事も拒絶したことはなく、パードレ・コスモ・デ・トルレスが
今回請うた事も悉く許容したため、ドン・ベルトラメウは大いに満足し、その兄弟である有馬の王(有馬義貞
も又、豊後の王と親交を結び、パードレ・コスモに大いに感謝した。
ただしこのようになったのは、彼らが暴君(毛利)のために利益を計った事があったためである。

(1570年10月12日(元亀元年九月十三日)付、イルマン・ミゲル・バズ書簡)



御為なれば申すのである

2019年04月07日 17:15

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/07(日) 10:27:40.58 ID:ENAGpagC
豊後の大友と、薩摩の島津が相争い、大友は島津の領地に入って剽掠した。島津これを防いで
決戦は明日と決めたが(耳川の戦いか)、大友の兵士・大鹿剣助といって、その時18歳、しかも
初陣であったが、家老に向ってこのように言った

「味方に敗形あり、よく察して軍を定めるべきです。」
そう、具体的な根拠を引いて説明した。しかし家老は
「若輩の身として何を知っているというのか。無礼である」と怒り、剣助もまた怒り
「御為なれば申すのである、私は戦死する。貴殿はおそらく敗れ走り帰り、戦うことはないだろう。
この若輩者に劣れば大恥ですぞ。嗚呼、命が二つ有れば後を見て笑えるというのに!」
そう言い捨てて座を立った。

この時、剣助の親しい友人が彼を諌めた
「家老に向って言うべきではない言葉である。何を目当てに負けと見るのか。」
これに剣助

「お主たちは気が付かないのか!?私が陣中を巡った所、皆合戦を励もうという心がなく、財宝を
気にかけ、乱取りをして逃げる覚悟であると見える。家老としてこのように軍法が整っていないことに
気が付かず、怠緩を戒めてさえいないのに、何ぞや、さらに私を罵るなど暗愚の至である!
ともあれ明日は一番に御用に立って、久しく不埒な下知を受けないようにする。只今より以後を見て
私の言葉を思い合わせられよ。」

そのように答えたが、言葉を違えず衆目を驚かす働きをして遂に戦死した。そして剣助が言ったように、
大友の兵は大いに敗れた。
(武将感状記)



831 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/07(日) 17:01:18.84 ID:RgIuf1C1
>>830
どの家老だったのかな?

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/07(日) 23:59:31.14 ID:eLx1hWs2
剣助「正直、スマンカッタ。」

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/08(月) 12:29:20.31 ID:LOacRqRR
18歳でこのノリだと、剣助は間違いなくめんどくさい奴になってたな
すでに同年代からうざがられる雰囲気出てるし

硝石の当地への輸入を一切禁止し

2019年04月01日 16:41

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/01(月) 08:46:41.78 ID:giU8cdsj
最も尊敬すべき君

我々はあなたが本年当地に来られることを大いに待ち望んでいる。あなたの渡航を妨げる原因は
小さくないと想像するが、近くに相見える希望を捨てていない。

私が常にあなた方のコンパニヤ(イエズス会)を庇護せんと望んでいることは、既にあなたの耳に
達していると信ずる。私が山口の王(毛利元就)に対して勝利を望むのは、彼の地にパードレ達を
帰住させ、かつて彼らが受けていたよりもさらに大いなる庇護を与えたいためである。

しかしながら、私の希望を実現するのに必要なのは、あなたの援助により、硝石の当地への輸入を
一切禁止し、私の領国の防衛のために、カピタン・モール(ポルトガル船の司令官)をして、
毎年良質の硝石二百斤を持ち来る事である。私はこれに対し百タイス(銀一貫目)、またはあなたの
指定される金額を支払うだろう。

この方法によれば、山口の暴君は領国を失い、私の元に在る正当な領主(大内輝弘)がその国に入ることを
得るだろう。あなたの手に接吻する。

  本日陰暦第九月十五日(一五六七年十月一七日)

(一五六七年(永禄十年)付、大友宗麟より中国滞在中のニセヤ司教ドン・ベルシヨール・カルネイロ宛て書簡)



王は常に大いに歓待する

2019年03月30日 21:19

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/30(土) 07:24:05.14 ID:kZ7C7nJ0
私は時々当国の国王(大友宗麟)を訪問するが、王は常に大いに歓待する。
王は五ヶ国を領し、いつでも十二万の武装した兵を出せる故に、日本の最大の領主の1人である。

この日本の国は六十六ヶ国を有し、領主は一国、または二,三国、または四ヶ国ないし五ヶ国を領する
者もある。豊後の王もその一人なのであるが、私が訪問するごとに丁重に、そして愛を以て接する事は、
とても異教徒とは考えられないものである。
彼はデウスを尊崇し、異教徒ではなくキリシタンなのではないかと思うほど、キリスト教のことに
庇護を与えている。

思うにこの事は、彼ら日本人は占いを信じ、これに従って進退し、何事もその力に帰するという
習慣があるのだが、パードレが豊後国に来た時、彼がそれまで非常に切望していた男児に恵まれ、
またそれ以前に領していたよりも二ヶ国多く征服し、これによって日本の領主の中でも最も金銀に
富める者となった事によるのだろう。

(一五六四年十月九日(永禄七年九月五日)パードレ・ジョアン・バウチスタ書簡)

宣教師、大友宗麟のキリスト教への傾倒の理由をかなりクールに分析していた模様。



816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/30(土) 11:19:24.19 ID:O5/2aBkT
十二万は分からんが最大の領主の一人ってとこは誇張ではないな

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/30(土) 13:27:56.65 ID:BZhnTyJy
12万も最大動員兵力ということで考えれば、最盛期なら大げさではないからなぁ。

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/30(土) 19:40:03.09 ID:oe3Ai3u3
永禄7年は第二次国府台の戦い、川中島の戦い、三河一向一揆の年か

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/30(土) 20:10:05.91 ID:ALv0PpD+
宣教師のいう「国」ってどういうニュアンスなんだろな
ヨーロッパの小国一つくらいなのかな

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/30(土) 20:38:26.37 ID:zNhPWjNN
ヨーロッパでもまだ都市国家が健在な時代だから国=一個の町ぐらいなんじゃないの

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/31(日) 12:08:21.24 ID:xEI16gZJ
キリスト教に傾倒したくらいだし戦が嫌いだったんじゃないの?今山も耳川も後詰めだし総大将の任命にしても人選最悪だし。
一条を婿にするくらいだから類友だったんだろう。

国王はかくのごとくして殺したり

2019年03月24日 14:12

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/24(日) 02:06:50.71 ID:eMEw4cGy
国王(大友宗麟)が己に叛き、または叛逆を謀りたる大身を罰する方法はつぎのごとし。
王が死すべしと定めたる人は、当日これを解放して、何日死すべき旨を伝へしむ。叛逆者は殿下の命あらば
自殺すべしと答へ、王もし可なりと言へば大なる名誉とし、所有の最もよき衣服を着し、短剣を手に執り
胸より刺して腹の下にいたり、十字形に転じて一側より他側に腹を切りて死す。
かくのごとくして死する者は叛逆の譏りを受けず、相続人およびその家は従前のごとし。
右は皆悪魔の謀にして、彼等が自殺して地獄において大なる苦を受けんがためなり。

国王もし叛逆者に対して、自殺するなかれ、人を遣はしてこれを殺さしむべしと答ふれば、叛逆者は伝令に接して、
家臣、友人および子息等とともに武器を執りて、その家において戦闘の準備をなし、国王はこれを職とする
司令官、または市の理事官のごとき大身をして、充分なる兵を率ゐて行きてこれを殺さしむ。
市民は叛逆者が自邸、或は田野において攻撃を受くるを見物す。

双方まづ矢を放ち、更に近づきて槍を用ひ、最後に剣を交ふ。かくのごとくして叛逆者はその家臣子息および
家族とともに死し、その家は焼かれ、一族の名は滅び、彼等はその蒙昧なるため地獄に赴けり。

彼等はこのことにつきては全く盲目にして、名誉を重んず。国王は我等の到着前彼に叛起せる者数人を
かくのごとくして殺したり。
(一五五七年十月二十八日(弘治三年十月七日)付、パードレ・ガスパル・ビレラが平戸よりインドおよびヨーロッパの耶蘇会のパードレおよびイルマン等に贈りし書翰)



私は今日までデウスに対し不平を述べたことはなかった

2018年10月24日 18:19

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/23(火) 22:56:21.95 ID:3ItfLnKv
私は昨年の書簡で、豊後の王(大友宗麟)の甥にして婿である土佐の王(一条兼定)が、豊後に於いて
キリシタンと成りしことを報告した。この王は一人の家臣(長宗我部元親)が反乱したためその国を逐われて
豊後に滞在していたが、前の書簡に認めた如くその国に帰り、短期間に国を回復した。

彼は豊後に在った3,4ヶ月間デウスの事を聴き、よく事理を理解する人であったため、多くの質問をなして
キリシタンとなる決心を成すにいたり、しばしば私に洗礼を請うたが、考えることがありこれを延期していた。
そのような中私は下(ximo)の地方巡察に行くこととなり、もし土佐の王が私が帰る前に病に罹り、又は
その国へ帰る事態となれば、府内にとどまるパードレ(ジョアン・バウチスタ)に洗礼を授けるよう
予め定めておいた。

我らの主は、土佐国の大身たちがその国を統治するため、人を遣わして彼を招くに至らしめ給いしが故に、
直に洗礼を授け、彼はその国を悉くキリシタンとする決意を成して出発した。その国に着きて、我等の主の
御加護により短期間に土佐全国を領し、暴君(元親)は多数の兵とともに守っていた主要な一城のみを有した。

王は我等の主が彼に与えた御恵を忘れず、甚だ良き町に立派なるコレジョを建てることを命じ、その町、
およびその他の地において6,7千クルサド(1クルサドは銀40匁に当たる)の収入を得るべき地を寄進し、
又国内の主要なる町々には大なる家を建て宣教師に説教を始めさせた。

かくして土佐の多数の主だった者たちはすでにキリシタンと成らんとせしが、デウスの隠れたる裁断により、
破滅が近づくのを悟った坊主達が努力したため、形成はたちまち一変し、王は一戦において敵に破られ逃げ、
味方の大身の城に入った。王は同所に在って私が臼杵に着いたのを聞き、書簡を託して人を私のもとに
派遣した。書簡の訳文は次のとおりである

『尊師が下より帰られたのを聞き、この家臣を貴地に派遣して私のことを告げ、私のためにデウスに
祈られんことを請はしむ。尊師の出発後、我が臣下の者数人が使いを遣わして私を招き、再び土佐に入国する
途が開けた為、私は尊師の手によって洗礼を受けることを望んでいたが待つこと出来ず、府内のパードレに
洗礼を受けることを請うた。その後私が国に着いて、我等が主デウスの御助により、間もなく
ファタ(Fata・幡多)の城とその町の他は悉く占領した、同所にはトソガミ(tosogami・長宗我部)が
5、6千の兵とともに籠もっていたが、これを守り続ける見込みはなかった。

私は我等が主デウスより受けた御恵を思い、パードレが当国に来るために、直ぐに会堂を建てることとし、
これに大いなる収入を永久に寄進し、国内の他の町々に大いなる家を建て、説教を始めさせる事とした。
臣下の多数は、私がキリシタンと成った後、我等の主より大いに保護を受けたのを見て、キリシタンと成らんと
決心したため、人を遣わして説教を成す者の派遣を請わんとしたが、この時意外にも形成一変し、私は再び
追い出され、今は長島(Nangaxima)の城に在る。

私は今日までデウスに対し不平を述べたことはなかったが、それにもかかわらず、何故にこの不幸が
起こったのか疑惑を持たざるを得ない。我等の主が、もし私が罪人であるため罰し給うたとするなら、
敵は異教徒であり、その主君に謀反を起こした者であり、更に大なる罪人である。この故に、尊師に請う所は
この疑惑を解き、また私一人異教徒の間に居るが故に、デウスの事に関する書籍を送付される事である。

私は一人だが、今日まで日曜日(の礼拝)を忘れた事は無い。当所に、昔山口においてキリシタンと成りたる
トビヤス(Tobias)という盲人が有る。彼と語ることで喜んでいる。

我等の主デウスに、私のために祈り、常に書簡を送り給え。私も又これを成すべし。』

右の書簡に対し返書を送り彼を慰めた。デウスがしばしば、最も愛する者に艱難を与えたもう事を述べたが、
彼はこれにて慰められ、すぐに他の書簡を送り、已に安心し疑惑も懐かず、デウスに祈ることを請うた。

(1576年9月9日(天正4年8月17日)付パードレ・フランシスコ・カブラル書簡)

一条兼定が宣教師に送った、四万十川の戦いでの敗北を受けての書状の内容である。


宣教師も燻される

2018年10月22日 17:29

351 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote![sage] 投稿日:2018/10/22(月) 08:50:39.48 ID:2QB8bUrM
翌日の早朝、(大友家の)軍隊は2レグワ前進して敵に接近することになったため、私はその地方に
在住するキリシタンを訪問するため引き返すことと成った。彼等キリシタンの多くは私が何度か
この地を通過した際に帰依した者たちであって、かつてパードレを見たことが無かったためである。

軍隊は食事が終わると喇叭(法螺貝)を吹き、部将たちはそれぞれ部下の兵士、および行李(資材を運ぶ
部隊)とともに出発した。兵士は皆よく武装し、列を整えて馬上の部将に随い、宿舎を出るや、この宿舎に
火をかけた。

陣営は約1レグワの長さがあり、約30ヶ所に別れていたが、悉く竹木及び藁を以て造られていたため、
またたくまに恐ろしき大火となり、四方は叫喚と煙のため地獄のような様相であった。
しかし軍隊には労働者多数があり、この日の正午には朝焼いたのと同じ宿舎を備えた陣営が、
次の場所に出来るのである。

私は宿舎を焼かれたため希望より早く出発したが、この日、風は私が進む方向へ吹いたため、
1レグワあまりの間、この煙のため苦しめられた。

そしてこの軍隊は行進中も火を放ち、敵の諸村は終日燃えた。

(1570年10月15日(元亀元年9月16日)付イルマン・ルイス・ダルメイダ書簡)

敵も味方も燃やすし宣教師も煙に燻される大友軍



天井に血の足痕、急成長する松、飛び出る屏風

2018年07月31日 19:54

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/31(火) 18:56:09.83 ID:8q4xI7wn
天正5年の夏の頃、大友宗麟は体調を崩し、心地例成らざる状態であった。
この時、宗麟は天井に血がついているのを見つけた。それはよく見ると、巨大な人間の足の痕であった。
しかし宗麟は元来、そのような事に驚く人ではなく、少しも臆する景色無く
「これは私の病が平復し、却って盛んとなる印であろう!」
そう言って聊かも心に掛けなかった。

また或る時、座敷の庭より小松が生え出たように見えた所、俄に大木となって枝を垂れ葉を並べた。
番の者達あまりの不思議さに目も離さず警戒して居ると、この松次第に細くなり、幻のごとく消え失せた。
これこそ稀代の珍事と思っている所に、或る夜宗麟の座している畳の間より、6,7尺ばかりの屏風が出て
消えた。

これだけでなく色々と不思議のこと多かったため、人々不屈の前兆ではないかと怪しみ、何か事が起こる
予感をしていた。

(豐薩軍記)

これだけ色々あって特に動じない宗麟も相当な大物の気がしてきた。


985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/31(火) 20:38:20.77 ID:hhf0OESO
>>984
キチガイは心霊スポット平気って笑い話思い出した。

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/31(火) 22:46:01.24 ID:0jRcZv1l
池田輝政も怪異に動じない人だったよね
そういう人じゃないと大名は務まらないのではないのか

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/31(火) 23:52:35.83 ID:7ScV7NvP
心中どうであっても、こんな流言飛語に惑わされるようでは政治家は務まらないでしょ

989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/01(水) 10:59:09.65 ID:iwh3xFfI
平穏に家督が継げなかった人ほど肝が座ってたりする

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/01(水) 14:16:56.79 ID:dRV0UO46
父親に殺されかけたら生きてる人間が一番怖いってなるわなw

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/01(水) 19:09:50.79 ID:WxT6Ig3O
>>985
どちらかというと確固とした信仰心の賜物じゃね?
「これは悪魔が私の信仰心を脅かそうとしているのである」

992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/01(水) 19:16:49.06 ID:ShI8x7u0
>>990
信玄「せやせや」

されば流言とは

2018年07月30日 18:16

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/30(月) 16:47:23.05 ID:W5bsNJ4y
天正3年、臼杵の浦に明船が着岸し、このとき猛虎四匹、大像一匹、孔雀、鸚鵡、麝香、そのほか
書巻の名筆、あるいは絵讃、並びに綾羅綿繍伽羅猩々緋の皮二十間つづき、以下種々の珍宝が渡された。

天正4年の夏、南蛮国より大いなる石火矢が到来した。肥後国より修羅を以て、豊後臼杵丹生の島に
引き上げた。大友宗麟は大いに喜び、この大石火矢を『国崩』と号した。

然るに、誰言うと無くこの大石火矢を国崩と号したこと、大いに不可であると沙汰された。
また、それに続いての流言には、前に渡ってきた四匹の虎も不吉であり、日取りを以てこれを見るに、
その文字に違いが有ると言っても四匹の虎は滅ぶ日であり、これを不吉の相であるという。
またある人が言うには、尚書に珍禽奇獣国に育たわずと伝わり、これを育てるのは然るべからずと申した。

されば流言とは、根のない言葉が水のように流れ、世間に至る。これを流言とも残言とも言う。
天に口無く人をして言わしむとはこれであると、諸人密かに言い合った。
しかし宗麟はこれを聞いて、「一人虚を伝えれば万人実と伝う。一犬吠える真似をすれば万犬声を上げて
吠えるという事もある。」そう言ってこれらの話を気にかけようとしなかった。

(豐薩軍記)



出雲方面と九州方面でしっちゃかめっちゃか

2018年07月26日 20:05

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/26(木) 17:11:37.47 ID:DAZzVT8a
尼子勝久の尼子再興軍が出雲に入って以来、城をかすめ取ること15城、その軍勢は六千余騎に及んだ。
そこに赤松の浪人たちも馳せ集まり、伯耆国岩倉の城を攻め取り、美作の蘆田、三浦、市といった一族も
これに一味した。毛利方は伯耆国の高田城には香川美作守、長左衛門大夫を去年から入れ置いていたが、
敵方に攻め囲まれ、日々攻め合いが止むことなかった。

また毛利家臣の福屋隆包は石見国に入ると、石見、その他所々で敵が蜂起したとの情報を得て、
長門国の下関、及び筑前国の立花に、この旨を日々注進した。これによって吉川元春小早川隆景
先ず出雲伯耆の城を落とすべきであると、米原平内兵衛を、高瀬城を堅固に守るようにと三百余騎を付けて
出雲へと向かわせた。彼らは石見の浜田に5日滞留し、「却って尼子に一味すべきである」と内通した。

また南條伯耆、山田出雲は下関勝山に在ったが、敵が羽衣石を囲むとの注進があったためこの両人を向かわせた。
南条は急ぎ羽衣石に入り、山田出雲は岩倉へ押し寄せ攻め落とし、敵63人を討ち取った。しかし山田家の家人も、
梶屋藤兵衛、林甚四郎、同又兵衛、長安神左衛門、谷川久充、その他中間8人が討ち死にした。

また福屋隆包が石見から帰ってきたが、その理由を聞くと、森脇市郎右衛門が立花より上がり石見に
到着すると三子山に立て籠もり、隆包の出した廻文を持たせ廻らせていた出家を見つけ出し搦め捕えて
獄門にかけたのだという。

筑前立花城攻めの陣中では、出雲伯耆はみな尼子に与したと聞こえ、多くの兵卒を出雲方面へ向かわせた。
この頃立花城攻めの兵もやや減ったため、一刻も早くこの城を攻め落とすべきと、一時攻めに
攻め寄せた。この勢いによって敵兵も防ぎかねている所に、「城を明け渡せば一命を助ける」と申し送ると、
城兵たちもその意に任せ城を明け渡した。彼らは全員一命を助けられ、士卒残らず大友の陣へと送られた。

(安西軍策)

永禄12年ころの、出雲方面と九州方面でしっちゃかめっちゃかになっている毛利の様子。


毛利隆元と芸豊和平

2018年07月24日 17:54

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/23(月) 20:51:59.22 ID:lDBGrq6m
永禄6年、大友宗麟毛利元就とは昔日は和睦していたのだが、大内義長切腹の後不和となった。
元就は考えた、「大友宗麟は無双の弓取りである。その上防長両国には大内義長に好の有る者達も
多い。彼らは何か有れば、志を変じ大友に靡き従う可能性もある。」
そこで元就は長男隆元を両国の押さえとして周防に下し、岩国の永興寺に在陣した。

このような所に、大友宗麟はこの年の2月中旬、豊前国神田の松山城を2万余騎もいぇ取り囲み
攻め破ろうとしたが、ここを守る天野紀伊守が能く城を守り、非常に堅固であったため。大友は
遠攻めへと戦術を切り替えた。

しかしこの事は、九州の高橋、長野といった国衆達が元より毛利に志深かったため、毛利隆元
飛脚を以って知らされた。隆元は即座に「後詰めの軍勢を出す!」と彼自身が防府まで進み防長の
軍勢を集結させた。

ここで、京の将軍である光源院(足利)義輝公より、毛利には聖護院、大友へは久我大納言殿が
使いとして派遣された

『近年諸国兵乱の事、これらは偏に、上を蔑ろにするが如き所業である。然らば、大友毛利は
速やかに和睦し、中国九州を静謐にする事こそ肝要である。』

こう言った旨が仰せ下され、両家は大樹の高命に従い和平を成した。

これによって九州表は無為となったが、隆元は「今なら大友も強く反発しない」と判断し、
門司、下関の城に兵卒を入れその支配を固めた。
その上で周防を出立し出雲へと向かったが、途中の芸州佐々部の宿にて急病を患い、8月14日、
享年41にて終に逝去されたのである。

(安西軍策)

毛利隆元が、将軍による大友との和平を利用して関門海峡を確保していたというお話。しかし直後…。



102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/23(月) 20:58:21.15 ID:UveR13y3
隆元といい義信、信康といい長男早死にの呪いでもかけられてたんか??

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/23(月) 22:49:38.07 ID:ADf4FCYr
>>102
真田信之「ですよねー」

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/24(火) 04:18:49.02 ID:009fkQrR
>>102
義信じゃなくて義興だろ

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/24(火) 05:33:19.95 ID:RtqkchvC
>>102
武田信繁「せやろか?」