山田事件

2018年05月22日 21:21

785 名前:1/2[sage] 投稿日:2018/05/22(火) 00:07:01.30 ID:yNjh7yJS
天文23年2月下旬、宗像家の家臣の中に、陶全羨(晴賢)き媚びへつらうものあり、
周防国に使いを立て讒言を行った
宗像氏男の後室は山田の邑に有り、旧好の臣達に密かに命じて、息女を豊後大友の方へ
遣わし、宗麟の子息のうち何れなりとも婿として宗像の家督を譲り、全羨様より遣わされた
氏貞様を攻め殺そうと議されております。ご油断なきように。』

これに全羨は大いに怒り、
「後室息女は先だって、男子を殺した時藍島に流すべしと申し渡したはずなのに、山田の邑に
召し置いているとは心得がたい!そういう事なら、宗像家の男子を殺したというのも偽りであろう。
この男子成人の上は彼に家を継がせるつもりなのだ。今は天下争乱の時であるから、この入道の
威を借りて暫くは当家に従う色を見せ、氏貞は私が宗像に遣わしたから、已むを得ず仮の主君として
頂いているのだろう。

急ぎ氏男の後室および二人の子供を殺し、その首を持ってくること無ければ、大軍で押し渡り
白山城を攻め破り、一人残らず妻子共に串刺しにすべし!」

そう、江良源左衛門賢盛を使いとして宗像家中に命じた。
これを受けて宗像の群臣は、石松和泉守の宿所に集まり詮議を行った。意見はまちまちであったが、
許斐氏鏡、占部貞安進み出て
「これはおそらく、家中に讒者があり全羨に悪しく申したものと考えます。あのように申せば
全羨が立腹するのも当然でしょう。ですが、後室息女共に何も知らず、明け暮れ山田の草庵にて
氏男様の菩提を弔い、また殺害された男児国丸様が、今も吉田飛騨守の元で養育されていると信じ、
毎日法華経を読誦し、その無事を祈られています。そのような方々を無下に殺すなど出来るでしょうか!?
遠賀の高倉に移し隠し置いて、全羨には事の仔細をありのままに申しましょう。
男子は先だって殺したことは事実です。また後室の陰謀ばるものは跡形もない虚言ですと申せば、
女子の事ですから、何事が有るでしょうか。ただ、後室母娘を高倉に遣わすべきです!」

そう申した所、吉田飛騨守が進み出た
「私は国丸様を預かりますと後室に嘘を言って殺害しました。しかし陶全羨は私が助け置いていると
疑われ、山口に召喚して殺すとの事です。またこの事が後室のお耳び入れば、私が今まで後室を
騙し奉り、3年前に国丸様を殺した罪は逃れがたいものとなります。
あなた方はいか様にも道を立てられよ。この飛騨においては、全羨の命に従い氏貞様を主君と
奉る上は別の主君など持ちません。後室息女を殺し全羨に首を見せ、3年前に国丸様を手に掛けた
ことも正直に申せば、我が身の科を免れ、また宗像社務七十九代の後栄ともなるでしょう。」
そう、言葉荒く申し、辺りを払うがごとく見えた。

占部日向守が進み出て「この上は誰に憚ることもない。氏貞様は年若いが我らの大将である。
明日、この事を申し上げて、氏貞様のお計らい次第に従うとしよう。」と申すと、各々も
最もであると同意し、この日、三月二十三日の評定はこれにて終了し、それぞれ宿所へと
帰った。

しかし吉田飛騨守は妻の弟である峰玄蕃を呼び
「今日の石松和泉守宿所での詮議では、占部、許斐の一族は道理を立てるような者が多く、老臣である
石松和泉守の言葉も出ぬ前から何かと申し立てたこと心得難い。あれでは明日氏貞様へどのように申す
だろうか。そうなれば我らの身の上にも大事となるだろう。
そこで、今夜の内に山田の邑に行き、後室息女を殺すのだ。お前も来い。」

玄蕃は驚き止めた
「これは大事の思い立ちです。しかしやはり、明日の御詮議次第とすべきではないでしょうか。」

786 名前:2/2[sage] 投稿日:2018/05/22(火) 00:07:35.16 ID:yNjh7yJS
ところが彼の姉である飛騨守の妻が説得した
「既に歳五十となる飛騨守の申される事に従わないとは何という若輩者でしょう。私達はあなたの
行く末を思えばこそ、代々の主君の妻子を殺すと申しているのです。飛騨殿のお供をして山田へ行き、
殺してくるよう、偏に頼み申します。」

そして飛騨守は
「ならば、私の存分ばかり聞いた所で納得しないだろう。中山勘解由左衛門は私の知古の友であり、
また石松和泉守は此の家の大老でも有る。この二人に相談いたせ」という。

玄蕃は先ず野中に相談すると、似るを以て友というが、彼もまた大悪人であり飛騨の意見が
尤もであると同意した。その足にて石松和泉守と談じたが、彼は既に七十あまりの年齢で、
老いぼれとなり人の言うことに従うだけで、もはや善悪の判断もできなくなっていたため、
「いかにも飛騨の申されること理り至極」と言うばかりであった。

そうして飛騨守は「今はこれまでぞ、明日まで引き伸ばせば何が起こるか解らない。」と、
玄蕃を同道して山田の邑に参り、後室の侍女に申し上げた

「実は俄に藍島に朝鮮よりの流船が来たため、我らはその見聞に遣わされる事となり、
その御暇乞いのためまかり出ました。」

これに対応した花見の少将と申す女房は
「今夜は二十三夜の御月待のため、今御行水をされております。暫くお待ち下さい。この事を
申し上げてきます。」
と申し、暫く待っていた所、後室は浴室より出て、姫君と共に窓前に座した。
少将が「吉田飛騨守、峰玄蕃が明日藍島への御用にて渡海すると、先刻より御暇乞のためとして
罷り出、お待ちされております。」と報告すると、後室は
「ならば待ちかねているだろう。ここへ」と飛騨を召され、玄蕃もそれに相従った。

飛騨守に向かって後室は言った
「この頃、うち続いて夢見が悪く、気にかかることが多いのです。どうでしょう、国丸殿には
何事も無いでしょうか?久しく見ることもなく、懐かしさだけが募ります。どうか良く良く、
養育をして下さい。」

そう言い終わらぬ内に、飛騨守は後室の御前に駆け寄り懐中より氷の如き短剣を抜き胸のあたりを
刺し貫いた。彼女は「あっ…」との言葉だけを最期に、そのまま空しくなった。
同時に峰玄蕃は姫君を刺殺した。
侍女である小少将、花見の少将、小萩、月白の四人は混乱し、「これはいかなる事か!?」と
両人に取り付いたが、彼らは二刀づつ刺し通し、四人共に斃れた。あはれと言うも愚かである。

(宗像軍記)

宗像家における「山田事件」についての記述である。


宗像氏男跡目の事

山田の怨霊



787 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/22(火) 07:48:43.97 ID:m1d/dBwZ
うーむ、えぐい。

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/22(火) 14:54:20.06 ID:hFRPbsPL
>>786
>うち続いて夢見が悪く
カーチャン…

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/22(火) 15:10:48.60 ID:fU0KShZ6
国丸って氏隆のことか?96まで生きてたよな
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夫の留守を守った妻

2018年03月09日 11:00

685 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/03/09(金) 04:06:05.15 ID:VpSRa6pd
夫の留守を守った妻

市川局。
石七郎兵衛尉経守の娘。一説に宮荘下野守基友の娘とも。
正確な名前は伝わっておらず夫は毛利元就の重臣、市川経好で周防、高嶺城番

1569年、毛利は九州へ上陸し豊前を攻略し筑前立花城攻略に向かっており
大友軍と激戦を繰り広げていた。

大友宗麟は毛利軍の背後をつくため元々周防を治めていたに大内氏の一族である大内輝弘を密かに周防へ上陸させた。
上陸した大内輝弘は大内の残党を糾合。
高嶺城へ襲いかかった。

夫、市川経好は九州へ従軍しており城中は留守を預かるわずかな兵と市川局や女中達のみであった。
しかも高嶺城は主郭を中心に、四方に郭を配している山城で、守りには不向きな構造。

しかし市川局は徹底抗戦を決意。
自ら総指揮をとり女中を従え,女中ともども甲冑を帯び,下知を加え,長刀をもって戦った。

大内軍は毛利軍が九州から戻る前になんとしても周防を制圧したい。
大軍で攻めるがどうしても高嶺城を落とせない。
焦った大内軍はとうとう諦めて包囲を解いてしまった。
守り抜いたのである。

その後毛利軍が北九州から救援に到着。
大内輝弘は敗れ自害した。


のちに毛利輝元から「比類なし」と称され感状を与えられた。
が褒美はなぜか夫の経好に。
長男の元教は大友宗麟に内通した罪で殺害される。

天正13年3月6日死去。 『萩藩閥閲録』



686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/09(金) 12:21:13.51 ID:2sJpI6MT
>>685
最後のオチが酷いw

欲の熊鷹股裂くる

2018年03月08日 18:32

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/08(木) 10:35:06.04 ID:RnHAl6SO
天正6年8月中旬の頃、大友宗麟公は豊筑肥の大軍を擁して日向に馬を向けた。
日向国は豊後の分国として本来属していたのだが、近年は漸く半国ばかりが大友の手に属し、
残りは皆御手に従わなかった。そのため、大友に属す半国の内、土持の城を御隠居所として
宗麟公は御座を移され、依然命に従わぬ残り半国を従わせるため大軍を起こし御弓箭に及んだのだ。
諺に言う『欲の熊鷹股裂くる』(あまりに欲が深いと、自分の身に災いをもたらすというたとえ)
というが、後になってその事を、思い知らされたのである。

当時は切支丹が行われていた最中であった。軍の首途として、松原八幡に矢入をし、社人のうち
害意を企てる者があるようなら討ち果たすよう命じられた。
しかしこのような中、松原八幡の社人衆は「八幡への報恩は今こそ」と決意し、鉾をよこたえ
兵仗を帯び身命を惜しまず、攻撃を加えられれば即座に反撃する姿勢を取った。これを見た寄せ手衆は
社人たちに気圧されている体に見えた。

『神いかり人恨れば必ず災害す』とはこのような事を申すのであろう。このように、まだ戦わぬ内から
早くも負けたような様子では、今度の御弓箭ははかばかしい事はないだろうと、人々みな眉をひそめた。

かくして、大軍を擁しながら、八幡宮への矢入は不吉の表れた事だったとは、後になって思い合った。
人々が案じたように、日向高城の一戦において立ちどころに敗北し、あまつさえ元々支配していた
日向半国すら敵に侵攻され、宗麟公は豊後へと引き取った。

これ以来、諸国の諸将は大友家より自立し、胡越千年の隔たり(気持ちが全くあわない事)となった。

(高橋紹運記)



589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/09(金) 23:50:29.63 ID:eFeStxnL
>>587
>諺に言う『欲の熊鷹股裂くる』(あまりに欲が深いと、自分の身に災いをもたらすというたとえ)

龍造寺隆信「呼ばれたような気がしないでもない」

高橋鑑種、謀反の意思

2018年03月07日 18:42

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/07(水) 17:43:25.01 ID:ctbP89i7
高橋三河守鑑種は、大友家の貴族、一満田殿の二男にして高橋家を継ぎ、筑前三笠郡を領し、
宝満、岩屋の城主でもあった。

そのころ、天下は戦国の最中であったので、四海九州で乱のない場所はなかった。鑑種は
才覚勇猛の武将であり、このような中で家の名を引き上げた。鑑種の弓箭の名は世上に響き、
三笠周辺の4,5郡も横領し、家も大となりその威勢は近国に並ぶもの無かった。
その驕慢の望みは豊後へと至り、遂には大友家への謀反の意思が生まれたのである。

鑑種はあまりに驕り、大友の御恩を背き、秋月種実、龍造寺隆信の語り合い、芸州(毛利)と
一味して豊後を敵とした。しかしその仔細を尋ねると、鑑種の舎兄である一萬田殿(鑑相)の妻女は
無双の美人であったのだが、御屋形(大友宗麟)がこれにお心を移され、自身のものとするため
謀って一萬田殿を誅殺したのである。この遺恨により、鑑種は大友家への逆意を含んだのである。

(高橋紹運記)


伊予日振島における戦後処理の逸話

2017年12月13日 19:35

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/13(水) 12:36:08.43 ID:RImMcwen
戸次川合戦敗退後、長宗我部元親は伊予日振島に逃れ
桑名将監を使者として、合戦詳細を秀吉公に知らせた
秀吉公はじめてそのいくさの詳細を知り
さても仙石手に合わざる合戦し
信親を討たさつる事の不便さよと仰せられ涙を流された

また合戦の三日後にあたる十二月十五日
大友宗麟は慰問状を日振島の元親に使わし
その内容は以下の通りである

この度のいくさはご挨拶の仕様もないが
無事御渡海の段は安堵に存じます
(長宗我部殿の当方に対する)これまでの様々な件に御入魂の次第は
永々忘却してはならぬ事であります
勝敗については戦場の習いにて、お気になさることもないでしょう
また兼ねて戸次利光城(鶴ヶ城)に差し向けられた鉄砲衆ですが
昨夜全員無事にこちらに帰還いたしました
そちらにお送りしたいと存じますが、船を揃えるのに難儀しており
船便があり次第お送りいたします

天正十五年十二月十五日
                         休庵宗滴判
追伸
 御子息信親戦場の儀については、様々な風聞があり
 未だ実否は分明ならず、奇怪千万な次第です
 こちらで詳細がわかり次第、お知らせ申し上げます

(続く)

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/13(水) 12:37:24.97 ID:RImMcwen
(続き)

信親遺骸返却について島津と交渉しつつ
合戦後十三日目には奥長門守を使者とし
宗麟がこもる丹生島城(臼杵城)へ鉄砲隊を派遣した
その際の書状の大意は以下の通り

この度敗戦の成り行き、都鄙において外聞を失い全く無念な次第です
されども今はお城を固守することが肝要であり
自分も加勢に馳せ、共に籠るべき所ですが
退陣口の仕合、覚悟に任せず困難なため
まずは有り合わせの鉄砲の人数を差し出しますのでお頼み申します

天正十五年十二月二十五日
                         長宮元親判

結局元親は土佐本国に帰ることはなく
敗軍を糾合し、丹生島城宗麟と連携を取りながら豊臣本軍を待ち
翌天正十五年三月の秀長軍到来をもってはじめて伊予日振島を出た

(土佐軍記その他)

長宗我部元親、伊予日振島における戦後処理の逸話である



504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/13(水) 12:57:19.08 ID:b83ZmTWr
この頃は宗滴と号していたのか

「フロイス日本史」から、戸次川の戦い

2017年05月30日 18:11

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/29(月) 21:31:52.86 ID:pxsQt+cT
(豊後国主の)嫡子は、薩摩軍が攻めてきた時に身を守り得るために、
他の二名の主将(仙石秀久長宗我部元親)とともにウエノハル(上原)と称するある場所に一城を築くことに決した。
だが彼らは心して真面目に築城の作業に従事しなかった。
彼らの不用意は甚だしいもので、饗宴や淫猥な遊びとか不正行為にうつつを抜かしていたので、その城は笑止の沙汰であった。
したがって(薩摩軍が来週した時に彼らが)助かることなど思いもよらないことであった。

ところで国主フランシスコの息子パンタリアン(田原)親盛は、司祭に対して、
もし府内で何事かが起こった場合には、司祭は家財を携えて城(妙見城)に身を寄せるようにと伝えていた。

薩摩の軍勢は惰眠をむさぼることなく、攻撃力を強めながら、漸次豊後に進入して領地を奪っていった。
豊後の指揮官たちは、常軌を逸した振る舞いによってますます油断の度合いを深めていた。

本年一五八七年の一月十六日(西洋暦)、薩摩の軍勢は、
府内から三里離れたところにあるトシミツ(利光宗魚)と称するキリシタンの貴人の城を襲った。
城主は府内からの援助を頼りに力の限り善戦した。
だが敵は攻撃の手を緩めず、ついに武力によって城内に進入し、その城主、ならびに多数の兵士を殺害した。

府内にいる味方の勢は、(利光の)城が占拠されているかどうか確かなことを知らないまま、
赴いて囲みを解くべきかどうか評定を続けていた。
結局、彼らは出動することに決め、栄えある殉教者聖フィビアンと聖セバスティアンの祝日に府内を出発した。

府内からは、仙石がその兵士を率い、土佐国主長宗我部とその長男がその兵士を伴い、
さらにパンタリアンも兵を率い、その他豊後の特定の殿たちが出発した。
清田と高田の人々に対しても出動するよう命令が出された。

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/29(月) 21:32:45.50 ID:pxsQt+cT
薩摩勢は、それより先(豊後勢の動静を)知らされていたらしく、余裕をもって策を練り、
準備を整え、一部少数の兵士だけを表に出して残余の軍勢は巧妙に隠匿していた。

豊後勢は、大きく流れの速い高田の川に到着し、
対岸に現れた薩摩勢が少数であるのを見ると、躊躇することなく川を渡った。
そして豊後勢は戦端を開始した時には、当初自分たちが優勢で勝っているように思えた。
だがこれは薩摩勢が相手の全員をして渡河させるためにとった戦略であった。
渡し終えると、それまで巧みに隠れていた兵士たちは一挙に躍り出て、
驚くべき迅速さと威力をもって猛攻したので、
土佐の鉄砲隊は味方から全面的に期待をかけられていながら鉄砲を発射する時間も場所もないほどであった。
というのは、薩摩軍は太刀をふりかざし弓をもって、猛烈な勢いで来襲し、鉄砲など目にもくれなかったからである。
こうして味方の軍勢はいとも容易に撃退され敗走させられて、
携えていた鉄砲や武器はすべて放棄し、我先にと逃走して行った。

豊後国の人たちは、河川の流れについて心得があったから助かったが、
仙石と長宗我部の哀れな兵士たちは他国の者であったから、浅瀬を知らず溺死を余儀なくされた。
こうしてその合戦と破滅において、二千三百名以上の兵士が戦死したと証言されている。
彼らの中には、土佐国主の嗣子や、かつて阿波の領主であった十河殿、その他大勢の貴人や要人が含まれていた。

薩摩勢は、その日の午後には府内から四分の一里の地点にまで到達し、
その途中にあったものをことごとく焼滅し破壊した。




「フロイス日本史」から、戸次川の戦いについての記述である。


とにかく大砲を早くよこせ

2017年03月23日 18:12

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/23(木) 13:14:43.44 ID:lIeg49m7
1568年(永禄11年)、豊後の王よりニセアの司教ドン・ベルショール・カルネイロに贈りし書簡

『私はジョゴ・バズ・ダラガンより貴方が支那に渡来されたこと、並びに貴方の病気について聞き、
甚だこれを悲しんでいる。そして更に悲しみが強くなるのは。このために貴方が日本に来ることが
不可能に成ってしまうと思ってしまう故である。

私は貴方がいかなる人かを聞き、また貴方の請求により総督が大砲(espera)を私に贈られたことを
聞きたるにより、貴方が私の領国に来ることを大いに希望していた。
この大砲はマラッカよりの船中にて(船の沈没により)失われたことは私の不運ではあるが、
安全に到着したのと等しくこれを感謝し、貴方に恩を負うと考えている。

私は大砲を得ることの希望を捨てていない。
私が(ポルトガル)国王の僕にして、またその友人であることは、デウスの事について、また私の領国に在る
キリシタン等、及びポルトガル人一同に対し庇護を加え、好遇を与えることで示し、またデウスが私に
生命を与え給う間は、常にこれを継続し、また貴方の要求されることをなすべきを以て、貴方が総督に
書簡を送り、私が大砲の贈与を受ける資格の有ることを通知されることを希望する。

私が再び大砲を求めるのは、私が海岸に住み、敵と境を接し、私の防御のためこれを必要とする事
大なるが為である。

私がもし領国を防衛し、これを繁栄ならしむ時は、領内のデウスの会堂、パードレ及びキリシタンたち、
並びに当地に来るポルトガル人一同もまた同様に繁栄するだろう。

先年、私はポルトガル王妃の書簡を接受したが、大いにこれを尊重し、宝物としてこれを首から下げている。
当地には王妃の如き方に贈るべき物は無いと雖も、私の領国に有るものは喜んで殿下に献ずるだろう。

この他述べたいことは多いが、長きに失するがゆえにこれを書簡に綴らない。
ジョゴ・バズ・ダラガンがその地に赴いた時に陳述するであろう。

1568年9月13日(永禄11年8月22日)』

(異国叢書)


とにかく大砲を早くよこせ、という大友宗麟の書簡である。



699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 11:19:30.51 ID:B6+kOeJd
>>695
時期的に対毛利で欲しかったんだろうな大砲w

1567年(永禄10年)、豊後の王よりの書簡

2017年03月20日 12:43

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/19(日) 19:39:01.77 ID:ZMAWX+2P
1567年(永禄10年)、豊後の王(大友宗麟)より支那滞在中のニセア司教ドン・ベルショー・カルネイロに送りし書簡

『最も尊敬すべき君

我らは貴方が本年、当地に来られることを大いに期待している。そして貴方の渡海を妨げる原因が小さくないことを
憂いているが、近く相まみえる事の希望を失っていない。

私が常に耶蘇教を庇護したいと欲していることは、既に貴方の耳に達していると信ずる。
私が山口の王(毛利氏)に対して勝利を望むのは、第一に彼の地にパードレ等を帰住せしめ、彼らが受けていたよりも
大いなる庇護を与える為である。
そして、我が希望を実現するため貴方の援助を必要とするのは、日本に硝石の来ることを一切禁止し、
ただ我が領国防御のため、カピタン・モール(官船の司令官)をして毎年品質良好な硝石ニ百斤をもたらす事である。

私はこれに対し百タイス(銀一貫目)、又は貴方の命ずるところの額を支払うであろう。
この方法によれば、山口の暴君は領国を失い、私の元にある正当なる領主(大内輝弘)がその国に入ること
可能になるだろう。私は貴方の手に接吻しよう。

本日陰暦第九月の十五日』

(異国叢書)

大友宗麟が、宣教師に硝石の禁輸を持ちかけていた書状である。



683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/20(月) 01:39:50.91 ID:dH4ZvUEi
>>682
この頃から毛利の九州への再侵攻に備えて輝弘を山口に送る計画してたんだな
対毛利戦の時はほんと色んな手を打ってて有能なんだけどな宗麟

隅州高城、日州耳川での大友家敗北により

2017年02月01日 09:17

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 18:51:07.68 ID:n10zVkN4
この年(天正6年(1578))、隅州高城、日州耳川での大友家敗北により、国々の城主、郡主は
大友家から背いた。

肥前の龍造寺隆信は、肥筑を討ち平らげ、大友・島津もろとも滅ぼそうと謀った。
同国の小田重光を謀って閨の中に殺し、筑後の蒲池鎮漣舞楽に事寄せ、肥州与賀宮にて殺した。
両人とも、隆信の婿であった。

また龍造寺は松浦、波多、大村、有田などを攻めた。或いは降参し、或いは籠城して大友に加勢を
乞う者もあった。

筑前では秋月種実が、肥後五箇山の城主・筑紫広門と同心し反逆を企て、城井、千手、長野、上原、
原田、麻生、杉、宗像などに手を付け、筑前、豊前を治めようとした。

肥前・肥後では、宇土城、川尻、合志、詫摩、赤星、和仁、相良、有動、小代、隈部、本山、天草山、
山田、津守といった者達が大友の下知に従わず、島津に内通し、あるいは龍造寺に同心した。

筑後では田尻、蒲池、三池、江上、豊持、豊穣、黒木、斎藤、草野、大鳥井らが皆龍造寺隆信
打ち負けて、隆信の幕下となった。
生葉郡井上城の問註所一族と、高良山良寛法印ばかりが、終始大友の味方として忠を成した。

(大友公御家覺書)

耳川合戦以降の、九州の有様について。



569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 20:03:55.01 ID:OjIdd8mX
隆信の西肥前勢攻めと鎮光忙殺は耳川前だなあ

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 23:50:32.13 ID:S12jdg3l
耳川後にしないと格好がつかないもんな

大友宗麟の日向出陣に

2016年10月30日 20:58

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/29(土) 20:13:58.54 ID:D/qq4jRl
天正5年(1577)、日向国伊東三位入道(義祐)は、薩摩の島津義久に打ち負け国を追われ、
豊後の大友宗麟を頼った、宗麟はこれを受け入れ、重臣を呼び出し、命じた
「伊東入道のため日向に出陣する。直ぐに国々へ陣触れを出すように。」

これを聞いた重臣の一人、斎藤重実は即座に申し上げた
「御出陣なされるという事は御尤もに思います。ですが、一旦下がって愚案を巡らして見るに、
これまで毛利陸奥守(元就)が度々我らに軍勢を差し寄越しましたが、遂に一度も利を得られず、
これについて子息(原文ママ)の右馬頭輝元は骨髄に思い入り、当家の盛衰に常に注目しています。

そのような中で島津義久と取り合いが起こり、御合戦で他に対処できない状況になれば、輝元が
豊前筑前に対し手を出すこと、疑いありません。そもそもこの両国は一度元就に内通した前例が
あるのです。輝元が旗を出せば、前々と同じようにするでしょう。

龍造寺隆信に関しても、彼は手の裏を簡単に返す、表裏者なのですから、我らが輝元、義久と
戦う状況になれば、彼も手を出してくること疑いありません。隆信一人でも、3万余りの軍勢を
有しているのですから、簡単に崩すことは出来ません。

それといいこれといい、今度の御合戦、大友家が直接関与すべき事ではありません。
ともかく、先ずは時をお待ちに成るべきです。」

そう出陣に反対したが、宗麟は承知無く、「急ぎ国々に触れを出し、各々支度をさせるように。」と
命じたため、斎藤も畏まり、御前を罷り立った。
その後、大友家老中である吉弘鎮信の元へ立ち寄り、終日日向出陣の事について相談し、様々に物語
した中で、吉弘鎮信はこう言った

「誠に、私ごときでは申しにくい事では有るが、今度の御弓箭は御大事な事だと考えます。
近年、大友家の御仕置は一つとして良き事がなく、御領分の六ヶ国の諸人は疲弊しています。それなのに、
何の好で一命を捨てて戦かおうとするでしょうか。

宗麟公は田原紹忍という大佞人を尊敬し、国家の仕置を彼に仰せ付けたため、御加恩は諸人を越え、
己が威勢のみを楽しみ、宗麟公に誤りがあっても、御異見など申し上げては御意に背き身のために
成らないことを痛み、とにかく御意をさえ取り請けていれば我が身長久であると心得、上にへつらい
下を掠め、あまつさえ宗麟公をたぶらかし、切支丹の敵であると、国々の大社伽藍を焼き払い、
或いは打ち崩し、咎なき出家、社人を殺されたこと、昔も悪行の例は多いと言えども、このような事は
終に承った事がありません。

今度の御陣は、仏神を破却された天罰に寄っても、お負けになってしまうでしょう。もし立花道雪が
旗本に居れば、そのように悪しきことばかりはないのでしょうが、現在毛利の押さえのために、境である
筑前に遣わされています。この事についても、宗麟公の御内意を知らない人は、当然の人事であると
考えているようです。ですが武勇に関して、道雪に劣らぬ人は、斎藤鎮実を始めとして、他の者を
遣わしても不足はありません、あれは道雪が近くにいることを、宗麟公が嫌がったため遣わしたのです。

吉岡宗観、臼杵越中が生きている間はお仕置きも良かったのに、両人が死んだ後は田原紹忍に仕置を仰せ付け、
国家は無道に成り、当家滅却の時期到来かと考えています。

島津中務(家久)が籠もる高城を攻めている間は、諸軍は戦うふりもするでしょうが、城中難儀に及べば、
義久の大軍によって後詰めがあることでしょう。その時、当家六ヶ国の諸軍の旗色は心もとないものです。
あなた方や私は、ただ身の恥を悲しみ討ち死にするより他ないでしょう。」

これを聞いて斎藤は
「仰せの通り、今度の出陣は、義統公を始めとして当然相談のあるべき内容ですから、様々に申し上げたのだが
ご承知無く、誠にご運の末であるのかも知れない。こんな事を言えば、島津に怖気づいているように思われるかも
しれないが、弓矢の道において島津に負けるとは夢々思わない。さりながら宗麟公が天理に背いて居る。
その咎から逃れることが出来るだろうか。
その家が滅ぶべき前兆として、様々な事が乱れるものなのだな。」
そう、涙を流して悔やんだという。

(大友記)

大友宗麟の日向出陣に対しての、大友家重臣たちの反応である。



入田丹後の最後

2016年10月07日 15:19

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/06(木) 19:39:45.16 ID:HlWdKe1k
大友義鑑が津久見美作、田口らに斬られ最後の体となった事は、早馬によって別府に湯治に出かけていた
大友義鎮へと注進され、義鎮は早急に帰還した。

義鑑にその三男到明子の擁立を勧めていた入田丹後守(親誠)は身の危険を感じ、一類を語らい己の居城に
立て籠もろうとしたが、戸次伯耆守(立花道雪)、斎藤重実の手の者がこれに追撃をかけたため、
入田は入城できず、彼は肥後国阿蘇惟豊が舅であっったので、彼を頼って落ちていった。

しかし、雨の中頼む木の元にも雨が漏っていた。惟豊は入田丹後に向かってこう言った

「あなたは御屋形様の咎を蒙り、討手を下された。
大軍を引き受け一戦を遂げ討ち死にすれば、亡き後までも面目であった。
しかし甲斐のない命が助かるために私を頼って来ることは、卑怯の至である。

代々相伝の主君に盾突いた悪逆人を、婿であるからと言って助けるべきではない。」

そして袈裟懸けに入田を斬った。
その首は豊後へと送られ、獄門に晒された。

その後、程なくして大友義鎮は、大友十八代目の探題となった。
若いが仕置宜しく、豊筑肥六ヶ国の上下万民は共に、この主君を上に戴いたことを喜んだ。
行儀作法は他国に優れ、いかなる世の末までも、誰がこれを傾けようとするだろうか。
目でたかりし世の中と成ったのである。

(大友記)

入田丹後の最後についてのお話。



大友義鑑の死

2016年10月01日 19:10

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/01(土) 18:33:01.29 ID:hdHYlRFK
大友義鑑には3人の子があったが、惣領である義鎮(宗麟)に家督を譲ろうとしなかった。
彼の後妻が産んだ、到明子殿という末子に家督を譲ろうと考えていて、義鎮に対しては普段から
対面することもなく、到明子殿への本意は深かった。

身分の高い者でも低い者でも、継子継母の関係ほど難しいものはない。
到明子殿の母は義鎮を失わせ、どうにかして到明子殿を大友家の当主に立てたいと日夜胸を痛めており、
彼女は家老の入田丹後守親誠を頼った。丹後は心得、それからはいつもよりも義鑑に忠を尽くし、抜きん出た
奉公をして義鑑から高い信頼を得、義鑑は何事も丹後に相談するようになった。

ある時、義鑑は丹後を召して問うた
「義鎮については、私は思うところがある。到明子に代を譲るのはどうだろうか?」

丹後、畏まり
「ご質問でありますから申し上げます。ご兄弟の皆様は何れも御器用にてあられますが、中でも
到明子御曹司は世に超えた人物であるところ、人々は広く沙汰しています。大友中興の祖である
親世公の生まれ変わりではないかとすら思われます。」

などと様々に褒め上げると、義鑑は大いに機嫌を良くした。

その後、義鑑は義鎮に対し、湯治のため別府へ出かけさせた。
そして重臣である斎藤播磨守、小佐井大和、津久見美作、田口といった人々を召して言い渡した
「私は到明子に家督を譲ろうと考えている。」

この言葉に一同は驚き
「一体どういう理由で義鎮様を差し置いて、後末子の到明子殿に家督を譲られるのですか!?
御意ではありますが心得かねます!」そう、一斉に反対した。
これに義鑑は何も言い返せず、機嫌を悪くし、重臣たちはそれぞれ御前を下がった。

義鑑は
「あの者達を誅殺し心のままにせん」と、その日の暮れに斎藤、小佐井の両名を召して、大門において
誅した。
この時、津久見、田口の2人も召されたのだが、詐病をして登城しなかった。彼らは斎藤、小佐井が
殺されたことを聞くと、
「我々ももはや逃げられぬだろう。ならば」

彼らは密かに大友屋形の裏門から入って二階の間に入ると、「到明子殿に久しくご対面していない。
さぞかし成長された事だろう。少々御目見得をさせて頂きたい」警備の者達にそう言いながら奥の高間へと
強引に入ると、そこに居た到明子を一刀に斬り殺し、引き取る刀で彼の母も害した。
そして一の台にいた局たちを一人残らず切り伏せ、田口は二階の間から居間へと通り、義鑑が上段に居たのを
駆け寄って斬った。
田口はお側の衆に討ち取られたが、大友義鑑もこれで深手を負い、天文19年2月9日、遂に儚くなった。
どういう御分別だったのだろうか。実に浅ましい事である。

(大友記)



139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/01(土) 22:27:51.55 ID:+ELXDe/8
>>138
その後の宗麟の酷さを見ると義鑑の考えが正しかったような…。
いやそんな事があったから歪んだというべきか?

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/02(日) 12:14:42.18 ID:H2n6JpLG
>>139
一次資料だと案外まともなんだけどな宗麟は

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/02(日) 12:33:26.78 ID:zc7ZWW+f
>>138
頼朝「兄より」
信長「すぐれた」
秀忠「弟など」
(●∀゚)「存在しねぇ!!」

(´・ω・`)「弟など存在しない…」

146 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/02(日) 12:37:06.65 ID:zszeXnAQ
>>145
隆元「ウチは弟達の方が優れてましたよ(胃をキリキリさせながら)」

147 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/02(日) 12:49:26.79 ID:hxDXM2tQ
元就「兄より優れててすみません。皆さん弟は大事にしましょうね」

148 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/02(日) 13:55:37.76 ID:zszeXnAQ
>>145
TDIE「皆々様の仰る通りでございます。兄より優れた弟などこの世に存在致しませぬ」(鎖帷子を着ながら)

国主の若い息子は

2016年07月15日 15:44

858 名前:御存じ豊後の大友さん家が、キリスト教にハマるきっかけ。[sage] 投稿日:2016/07/14(木) 20:31:40.10 ID:VYAaTYrJ
宗麟パパは熱心なキリシタン信者として有名だが、それは彼が晩年になってから。
確かに若い頃からキリスト教に興味津々で、教会に対しても面倒見がよかったが、
1575年以前までは、本人がいちばん熱中していたのは禅の教え。
臼杵にでっかい禅寺(寿林寺)を造らせ、京の大徳寺から偉いお坊さんを招聘して、
次男の親家を、成長後はそこの住持にさせようと考えていたという。しかし…


「国主の若い息子(次男)はなんとしても仏僧になりたがらなかった。彼は僧院で書物から学ぶどころか、
 武器をとり、撃剣、相撲、その他それに類した修錬に専念して、
 もし国主が自分を無理やりに僧侶にするつもりなら、 切腹して果てるか海で投身自殺する、と言った。
 国主は息子がどんなに恐るべき、かつ激しい性格か知っていたので、彼にとって息子のことは
 重荷であり憂慮の種であった。そこで彼がこの件でフランシスコ・カブラル師に助言を求めた時に、
 司祭は彼に、その息子が冷静になり、その激しく頑固な性格が克服されるためには、
 殿下が彼をキリシタンにさせる以外の救済法とては思い浮かびませぬ、と説いた。
 この忠告は国主には望ましいものに思われ、フランシスコ・カブラル師はその息子に
 理解力に応じて教えを授けた後、臼杵において洗礼を授けた。
 そして彼にドン・セバスチアンの教名を与え、国主は受洗の際に列席した」 
 (フロイス日本史・豊後編Ⅱ)


性格矯正のきっかけを与えられめでたしめでたし、と言いたいところだが、
結局この次男は「もともと性格が頑迷すぎる」上に虚栄心も強すぎたので
改宗も大して効果がなかった、と本書でバッサリやられてる。
親心を理解しない次男に対してもフロイスさんはじつに手厳しい。




859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/14(木) 23:19:46.26 ID:60TOaBpq
そんなにバトル派だったのに
朝鮮で逃げた卑怯者って言われちゃうのか

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/15(金) 00:44:28.04 ID:YKycFMfZ
>>859
君主の命令は絶対だからね

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/15(金) 01:49:02.09 ID:62hdoRhR
>>859
朝鮮で逃げて、天下一のヘタレ言われたのは
例の長男じゃなかったけか?
この話の主役の次男も、朝鮮で一緒に逃げてたのか?

伊東家累代の家臣

2016年06月09日 17:10

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 19:23:32.62 ID:CmxE+Ops
天正15年3月17日、島津中務家久(良い方)は豊後と日向の境である梓嶺から撤退する時、そこを佐伯惟定の
軍が追撃した、薩摩勢も山の中腹に踏み止まり、幾度も盛り返し戦ったが、終に敗軍し、家久は僅か七騎にて
引き上げるのを、佐伯惟定の軍師である山田匡得は追い駆け、これを討ち取ろうとしたのか、声を揚げた

「そこに落ち行かれるのは中務殿と見たるは僻目であろうか!?山田匡得、ここまで追い駆けたり!
軍は常の習い。夢にも余儀を存ぜず。静かに引かれよ!」

これを聞いた家久は、虎口を逃れた思いをし、また少し行って道の脇で休んでいた所、山上より人の声がして、
山田匡得がまた追いかけてきた!」と聞こえたため、家久は狼狽え、取るものもとりあえず逃げた。

山田匡得がこのように家久を見逃したのは、伊東家の日向没落の時、匡得の妻女並びに弟の新左衛門尉、
七兵衛尉が捕虜と成って薩摩に抑留されていたためで、もし家久を討ち取れば、彼らに害が及ぶことを
慮った為であった。

その後、島津家久からの使者が、山田匡得の元へ尋ね来た。その趣は

『貴殿は豊後表において、度々の高名、その比類なきことは世の人が遍く知る所である。
これは我が主君義久の聞こえに達し、もし豊後を立ち退き薩州に来るなら、三百町の地を宛行われる旨を
申し含まれた。』

との内容であり、書状には島津義久よりの、三百町を宛行うという直判書が添えられていた。

山田匡得は答えた
「私の武勇の聞こえが、義久公のお耳に達しただけでなく、三百町の地を宛行うとの事、見に余り
辱く存じ奉ります。その上私の妻子兄弟の者が、多年に渡り御厚恩を被っていますから、本来なら
参上して御助成を受けるべき所でしょう。

ですが、私は伊東家来の者です。二君に仕えるのは本意では有りません。
ですのでこれは、辞退させて頂きますので、そのように御報告下さい。」

一方、山田匡得の豊後での軍功非常に多く、大友宗麟より感状を下された。
そこには

『匡得、度々の高名比類なき手柄のほど感心せしめ候。これにより豊後において百五十町の地を
宛行う』

とあった、山田匡得は謹んで宗麟に言上した

「御感状の趣は身に余り、辱く思います。ですが私は伊東家累代の家臣です。
伊東家が日向の内に、些少の地でも安堵されれば、早速に帰参しようと考えているのです。
ですので知行頂戴のことは、幾重にも辞退させていただきたいと思います。」

そう再三に渡り申し上げるのを聞いた宗麟は、感動し涙を流して言った

「匡得の二君に仕えざるの心底、誠に以って感ずるに余りある。だが私は所領以外に、
一体何を恩賞に与えるべきか。
ああそうだ、幸い我が家が秘蔵する鎧が十領ある。この内からそなたの目利きに任せ、
好きな物一領を与えよう。」

そこで山田匡得は、ありがたく存ずるの旨言上して謝意を表し、即座に目利きをなして、
鎧一領と兜一頭を拝領したのである。

(日向纂記)



818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 22:07:19.41 ID:etFF9G+S
後から言ってきた大友が島津の半分かよw

大分名物、だんご汁事始

2016年04月20日 17:24

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 11:46:00.47 ID:IUZy39Ty
九州の雄、大友宗麟はアワビの腸が好物で常日ごろから食していたが、
あるとき戦場で食べたいと言い出した。
それを聞いた家臣たちはアワビを探しに出かけたが、
場所はあいにくと山の中、見つかるはずもない。
困った彼らは小麦粉をこねて伸ばし、「アワビです(すっとぼけ)」として出したところ、
たいそう喜ばれたという。
これが大分県の名物、だんご汁の始まりとか(諸説あり

先の地震で由布院のあたりにも被害が出ているようですが、
お前らもだんご汁を買って被災地を応援するがよい。うまいよ。
http://www.rurubu.com/season/special/gourmet/img/gourmetphoto/G00434_1.jpg




609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 12:22:43.13 ID:b/bo/+I+
今日のおやつは、朝鮮飴を食べて応援♪

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 17:35:49.46 ID:aUHcehPc
>>608
それ宗麟の悪い話な気もするが

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 17:57:55.63 ID:IUZy39Ty
>>610
現代まで伝わる名物を生み出したということで、そこはひとつ…

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 18:12:34.86 ID:CQRPzq1v
しかし練り物とアワビの肝を間違えるとは
宗麟はかなりのバカ舌なんだな

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 18:21:49.30 ID:U55pfKwR
宗麟「アワビ大好きっ!」

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 18:22:08.51 ID:IUZy39Ty
宗麟様の名誉のために別パターンも。

あるとき、宗麟は菊池氏の家臣を居城に迎え宴を行った。
(両者はドンパチやってたような気もするが逸話ではそうなってる)
その日のメインディッシュはアワビの腸だったのだが、
菊池氏の従者の数が想定していたより多く、アワビが足りない。
困った彼らは小麦粉(略
これが大分県の名物(略


615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 18:50:19.69 ID:ELGMQhwz
ノブはアワビの醤油付けが好きなんだっけ?

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 18:51:43.97 ID:fhHu8Jbn
>>613
人妻のか

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 20:46:47.62 ID:aUHcehPc
畠山義続「アワビは若いのに限るのに…」

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 21:01:11.45 ID:ELGMQhwz
人によっては小さいモノより大きいモノのほうがいいらしい

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/21(木) 04:29:16.50 ID:vt3vGCzo
義隆 義隆 盛隆「ふん!アワビなど大した事ないわ!」

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/21(木) 05:27:26.78 ID:QRy/Q4FX
政元「せやな」

賀井宗運「私が果てれば、肥後国には」

2015年10月07日 08:01

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/06(火) 23:55:49.58 ID:USoE7/SI
島津勢が肥後国立花山に進出してきたところに、同国三船の大友方、賀井鑑隆入道宗運が
軍勢を出しそれを撤退させた。
しかし島津勢は重ねて軍勢を出し、天正10年6月中旬に、竹ノ井原に陣取った。
賀井宗運は即座に駆けつけ、島津勢を追い崩し、敵300余りを討ち取った。

そして首実検をしている所、にわかに大雨降り、山水おびただしく出て、賀井宗運が床几に
腰掛けている場所にもしきりに押しかかった。

この時、宗運の嫡子である鎮隆はこの水から逃れようと、あちらこちらの高台を目指してうろつき
回った。これを見た宗運は激怒した

「日本一の不覚なる仁である!この程度の水に恐れ騒ぐ心では、強敵に向かって一体何の役に立つのか!?
私が死んだ後、おめおめと薩州の幕下になるだろう。何と口惜しいことか。
そうなれば南方の敵を、一体誰が防ぐというのか?ともあれ、宗麟公の御運の末こそおいたわしい。」

そう言って、その場より豊後に使者を立て、鎮隆不覚の次第の書付を添えて
『私は今日から、鎮隆を不快に仕りました。そうして、私が果てれば、肥後国には
南方の敵を防ぐものは一人もおりません。この事を判断材料にしていただくため申し上げます。』

これを宗麟近習の田原紹恩まで届けた。

その後程なく、賀井宗運は死去した。跡を継いだ鎮隆は一戦する事もなく、弱々と薩州の軍門に下った。
あまりに言う甲斐もない次第である。

(大友記)



410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/07(水) 01:07:49.59 ID:1xH6qmmt
臆病になるか勇敢になるかは教育に依るところが大きいだろうな

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/07(水) 02:27:59.24 ID:N54iHfZG
親父が教育してたわけじゃねーし

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/07(水) 03:30:16.09 ID:oLH+EMfC
漢は漢の背中を見て育つものよ

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/07(水) 04:01:42.71 ID:ZqHjIqi9
ガチホモ道ですか?小生には無理です。

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/07(水) 07:57:24.98 ID:BWaRqLqE
最後にオチか

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/07(水) 08:11:02.02 ID:vdUzC4zx
信玄の尻を見て育つ勝頼

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/07(水) 08:41:14.47 ID:HrkzhnAN
オチワロタ

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/07(水) 09:08:25.61 ID:a+C8R4Xw
単純に大友から心が離れてただけじゃないの?と言いたくなる

418 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/07(水) 09:45:43.35 ID:NM1zdpB1
大友最強

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/07(水) 14:48:50.73 ID:ryTEwD7T
やっぱり宗運の子は島津に降る運命なんだな
てか、加藤忠弘て"甲斐"宗運の血を引いてたんだな
"賀井"宗運をググってて意外なモノを拾った

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/07(水) 17:03:54.73 ID:vIRV7BMw
この戦の時期がよく分からんけど天正六年以降の大友は肥後に軍を派遣する能力も無いから仕方ない
たぶん天正十年じゃなくて八年にあった合戦の事だと思うけど
同年にあった龍造寺が赤星の人質処刑した事と関係あるのかな

421 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/08(木) 12:14:45.09 ID:zQMGvikz
葉を見れば木の状態はおおよそ分かる

義統様の科ではない

2015年08月23日 11:16

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 00:03:40.48 ID:olujKR/6
大友家累代の佳名を失ったのは、全くもって義統様の科ではない。

彼の父上である宗麟様は仕合良く、九州の内六ヶ国を旗本に属し、豊後の府内は、大内氏の山口と共に、
西国の都はどちらかと言われるほど繁栄し、御威光浅からぬものであった。

ところが老年に成って切支丹宗になられ、分国残らずかの宗門に引き入れ、神社仏閣を破却し、
寺社領を横領し、仏の画像にて鼻をかみ、あまつさえ尻を拭き、石仏・木仏を雪隠の踏み石とするのを、
彼は手柄とし、氏神先祖の菩提所を崩し、仏壇、社壇の材木で雪隠を作り、先祖の位牌も打ち刻み、
牛や鹿を焼いて食い、悪逆の至り、語り尽くせぬほどである。

まして出陣の時も、吉日・吉方という事を選ばず、その出発に際し、どういう意味があるのか、
彼が崩した氏神の古宮の跡に籤入りを遣わすような所業をした。

そのようであるから、向かう所ごとに負け、ようやく本領の豊後だけは残ったが、これも島津に蹴散らされ、
府内の居城さえ守ることが出来ず、豊前の妙間嶽まで逃げ籠もり、府内の城も焼き払われ、一名危うい時に、
太閤様がご人数を出されたため島津は撤退し、その跡に入れ替わりに入って高名顔をしていた。
そして猶も悪行強く、大友の家が滅ぶべき時極まったのである。

高麗にて、唐人と戦わず、小西摂津守を捨て、聞き逃げをし、黒田甲斐守(長政)の先手伝の城に
ほうほうの体で逃げてきたのを、甲斐守先手、小河伝右衛門、勇士なれば城を堅固に保ち、
小西・大友両家の軍勢を引き受け、様々に働いたため、ようやく太息をつき、それより小河は名を上げ、
大友は日本一の臆病者と御接感情が出され、豊後国を召し上げられ、その家臣であった我も人も、
その時から乞食となり、いまこのように成ってしまったが、これも全くもって義統様の科ではない。
また前世の因果とも言いがたい。何もかも、悪事の根源は、皆これ切支丹宗のせいなのだ。

(古郷物語)

なんもかんも切支丹が悪いんや!という、古郷物語にある大友旧臣の述懐である。




192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 00:11:14.99 ID:PF18INwR
義統様を庇うつもりが無いだろ、コレ

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 01:32:20.39 ID:rQWpT49o
宗麟が酷いのは分かった
小河伝右衛門がすごいのも分かった
あれ?義統様は?

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 01:41:49.72 ID:tuUo6M3j
大友といい龍造寺といい嫡男はどうして暗愚なのか…

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 05:25:23.65 ID:5sHVmbwv
九州にはバカ世継ぎが
生まれやすいんですね

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 06:05:31.98 ID:mgYyhY0x
城焼いたうえに幼子を殺して意気揚々と死地に向かう戸次一族とかもおるしなあ(実際には悲壮だったんだけど、某やる夫のせいでキにしか思えなくなった)

天主教のこと

2015年06月18日 18:01

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/18(木) 12:58:05.93 ID:KmJa9IYX
慶長19年正月、前田利常より使者を以って幕府に申し立てがあった。それは高山右近、内藤飛騨守(如安 )が
天主教を信じる徒であることが明白であるため、両人を召し捕り牢に入れ、京都所司代まで送ったことを
注進するものであった。
また京都所司代の板倉伊賀守(勝重)よりも、邪宗の徒数十人を召し捕った旨注進があった。
その後、高山、内藤を始め百余人を長崎に遣わし、長谷川藤広に命じて船に乗せ遠島に追放となった。

この天主教が日本に渡って来たのは、大友家より始まった事だという。
大友宗麟は大国を領し西海まで勢いを振るっていた頃、南蛮国と音信し彼の国の者と交易が始まったが、
この宗門を信じる者は交易でも必ず利益が多かったため、日本の民も追々邪宗門に入る者が多くなり、
大友宗麟も信じるように成った。それより追々広まり、京都にまで広まって、高山右近、荒木摂津守(村重)らも
みな邪宗の信者と成った。

ところが、荒木村重が織田信長に対し逆意を起こした時、邪宗の僧が一人、荒木方であった高山右近の元に
使者に立ち信長に味方するよう招いた。高山は即座に信長に帰服した。これによって荒木は叶わず逃げ去った。

この功績により、織田信長は邪宗の僧を取り立てた。そのため天下に邪宗が広まったという。


(明良洪範)



947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/18(木) 13:14:55.04 ID:WmjIKTeR
本能寺の時はイエズス会は右近に日本語では明智への帰順
ポルトガル語では帰順の反対の手紙を出したとかいうけど
この時もどっちに転んでもいいように日本語ポルトガル語で二枚舌使ってたりして

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/18(木) 17:18:14.07 ID:zJOa01Hx
邪宗の僧って誰のことだろう?

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/18(木) 17:36:57.06 ID:nJFH4AZE
>>948
オルガンティノ

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/19(金) 00:56:35.78 ID:ZqwZEobT
>>947
明智に強要されたからやで

源五郎の名

2015年04月02日 18:24

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/01(水) 20:38:45.41 ID:o8IDB0Fr
筑前の長尾城に秋月種実が人数を入れ籠らせた所を、大友方の石松源五郎詰めかけ、戦うたびに
一度も遅れを取らなかった。その忠功によって、彼は未だ郎党であったが御屋形たる大友宗麟の御前に
召し出され、石松の苗字を許され、以後石松隼人と名乗った。

ところが、その後も石松は秋月勢と戦ったのだが、石松隼人の名乗りを聞いて
「さては源五郎は向かってこないぞ!」と一斉に攻めかかってくる。
石松はこれを先途と戦うものの、敵は事ともせずに打ち掛かって来るので、石松は支えかねて引き退いた。

この戦いのあと石松は
「さても今度の一戦に打ち負けたのは、隼人の名に変えた故であろう。」
そう思って下された名を戻し、元の源五郎とした。

こうして、重ねて秋月勢と戦った時は、件の源五郎と名乗って突撃した所、秋月勢は踏み留まることも出来ず
忽ち敗軍した。

されば、人に知られた名は変えるべきことではないと、当時の人々は皆言っていたそうである。

(大友記)



芥田悪六兵衛

2015年03月31日 18:21

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/30(月) 21:36:15.85 ID:AwbfRslo
耳川の戦いで大友が敗北すると、筑前の秋月種実も、大友に対して反旗を翻した。
これを聞いた豊後の大友宗麟は、臼杵中務に三万騎余りをつけて秋月を攻めさせた。

豊後勢は秋月を十重二十重と取り巻き、日々夜々に攻め戦うこと数日に及ぶと、
秋月勢の勢いも次第に尽きていき、城に籠もる者はわずかに百騎にも足らなくなった。

種実は、これでは防ぐことはできないと、家の子郎党を集め様々の酒肴を調え、酒盛りをして
最期の名残を惜しんだ。

酒宴も半ばに種実は
「しかし数年の鬱憤を散じることが出来ず、明日は詰め腹を斬らねばならないこと、口惜しいものだ。」
そういって涙を流した。
この時、お酌をしていた芥田という少年、この時16歳であったが、彼は銚子を静かに置くと、
畏まって申し上げた

「明日、この芥田に采配を許してください。中務に近づき、組んで勝負を仕ろうと思います。」

種実これを聞くと
「出来もしないことを申す者かな。あれほどの大軍の中をどうやって分け入って中務と組み合うというのか。
詮無きことを申すものだ。」
そしてその言葉が笑壺に入ったか、大笑いした。

かくしてその夜も明けると、豊後勢は鯨波を作り押し寄せてきた。種実は今日を限りと考えていたので、
華やかな出で立ちで94人を前後左右に立て、臼杵中務の本陣を目掛け駆け出そうとした。

が、ここであの芥田少年が馬に取付き、「暫くお待ち下さい!仔細があります!」そう言い捨てると
真っ先に進んで、両陣の矢の口を留めて叫んだ

「大将、臼杵中務殿に申すべき事あって、人数ならぬ童が罷り向かいます!」

そうして持っていた鑓や刀、脇差しを抜き捨て静かに歩み寄り、「御本陣に通させたまえ」と言うと、
豊後勢は定めて秋月種実よりの使いであると考え、道を開いて通した。
芥田は大勢を押し分け、中務の前に来ると畏まり、

「種実より内證の事があって使いに参りました。先に、御近習の人々を遠ざけられ、御馬より降ろして
下さい。そうすれば、委細に申し上げます。」

中務これを見て、『未だ若年の者、その上無刀で来ており、仔細もないだろう。』と考え、
急ぎ馬から降り長刀を杖に突き「どういう使いであるか?」とさし俯いた。その時、

芥田は大力であったので、兜のシロコを掴んで引き伏せ、中務の脇差を奪いとるとたちまちその首を
掻き落とし、稲妻の影よりもなお素早く山の中に飛び入った。

大友の軍勢が、「すわ出し抜かれた!それを討ち取れ!」と追いかける所を、秋月勢が突撃し
四角八角に駆け破る。さすれば豊後勢は大将がいないため、色めき立って備はたちまち乱れ、
遂に敗軍した。

秋月種実は「危うき命が助かったこと、偏に芥田のはかりごとが当たったためである。」と
感状を与えた。この時種実は彼の名を、『芥田悪六兵衛』と、悪の字をつけて書いたそうである。

(大友記)



626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/31(火) 02:29:19.31 ID:f/9KBo8C
三万もおって本陣はえらい前線なんだなw
しっかし大友は総大将が討たれすぎや

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/31(火) 10:13:40.15 ID:1vN+SZCT
悪や鬼って、いつからネガティブな意味で使われだしたのかな?

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/31(火) 17:11:13.28 ID:fArFlw1y
いやネガティブな意味でも使われてるでしょ

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/31(火) 18:23:53.09 ID:VdUR7WPh
鬼武蔵の鬼は鬼畜の鬼

鬼小島の鬼は鬼神の鬼

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/01(水) 02:28:09.37 ID:6Hr1uTM5
悪は本来人並み外れた強い人をさす
だがそのような人はスタンドプレーを好んで命令に従わない
こうした流れで悪がよくないものとして捉え出した