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貝原益軒「朝野雑載」から大友宗麟の和歌

2023年04月06日 19:18

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/05(水) 19:27:04.81 ID:jWaTSmOW
貝原益軒朝野雑載」から大友宗麟の和歌

大友義鎮(宗麟)は諸芸に通じ、歌道にも達していた。
あるとき戯れにオウムの歌を詠んだ
「なびくなよ、しめておく野の女郎花 思ふかたより風はふくとも」
「なびくまじ、しめて置のの女郎花 思ふかたより風はふくとも」
この両首をどうしたわけか天子が聞こしめし、「雪の中の早苗」「蛍火の灰」という難題を豊後国に下されたため、この禁題にて義鎮が詠んだ

雪中早苗
富士うつる田子の浦わの里人は 雪の中にもさなへとるなり

蛍火灰
夜もすがらともす蛍の火も消て いけの真こもに、はひかかりけり

天子より題を下されたるこころを
思ひきや筑紫の海の果までも 和歌の浦波かかるべしとは

この三首を奏聞したため、叡感があったという。

※存斎(貝原益軒の兄)が言うには、終わりの歌は難題二つの歌に対する天子の賞賛の御製であろう

なびくなよ…なびくまじ…の両歌は
細川忠興「なびくなよ我が姫垣の女郎花 男山より風は吹くとも」
ガラシャ「なびくまじ我がませ垣の女郎花 男山より風は吹くとも」
に似ているが、本歌があるのだろうか

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/05(水) 19:31:53.70 ID:jWaTSmOW
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3316.html
名門武家の若者、後奈良天皇の求めに

こちらの話だと宗麟が若い頃に参内して後奈良天皇の前で「雪中早苗」一首を詠んだことになっていた



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髑髏敵を取る事

2023年01月29日 17:34

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/28(土) 23:12:19.22 ID:ODKO6Zvw
大友興廃記」から「髑髏敵を取る事」

筑前国生の松原合戦(大友宗麟に誅された原田親種の残党と立花道雪との戦)の三年ほど前、一人の中間がこの松原を通ると、道のわきに一つの髑髏があった。
中間は「これは我が昔討ち捨てた者の髑髏だ。なぜいまだにここにあるのだろう」と嘲笑って蹴回した。
ちょうど持っていた槍の石突で刺し貫いて、抜こうとしたがどうしても抜けなかった。
そこで松の枝に引っ掛けて両手で「えい」と前に引くと、槍の柄が抜けて槍の先端が、中間の肝から後ろに突き抜けたため死んでしまった。
死ぬ前に、ちょうど通りかかった人々にことの一部始終を語ったため、その頃の人たちはこれを聞き
「因果の道理は多いとはいえ、昔から今に至るまで、舎利首が敵をとったためしは少ないだろう。不思議なことだ」
と言いあったという。



683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/28(土) 23:52:52.06 ID:DwGfU4BG
ちょっといい話にも見える

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/29(日) 10:15:22.26 ID:ZWbxHB0m
自分の体の中心に向けて槍を引っ張ったのかな
不自然なような気もするが、まぁ話だからな

「大友興廃記」より「遣唐使の事」

2022年07月11日 18:33

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/11(月) 18:20:37.96 ID:cem3OHMR
大友興廃記」より「遣唐使の事」

大明国より唐船が豊後に天文十年(1541年)、同十二年、同十五年、永禄年間、天正三年(1575年)とたびたび到来し、猛虎四頭、大象、孔雀、鸚鵡、麝香、書画、錦繍綾羅、伽羅、猩猩の皮などがもたらされた。
そのため大友宗麟公もいろいろ進物を集め、金札銀札を調え、遣唐使を立てるために文武両道の達人を選ばれた。
ここに生国美濃の住人、齋藤某というものが国が乱れたため和泉堺に居住していたのを宗麟公が聞こしめし、使者をあもってめしだされた。
そののち入道して稙田玄佐と号した。
宗麟公より遣唐使を命じられ、いろいろ辞退したけれども再三の貴命、断りがたく了承し、金銀の王札、音物を携えて、数千里の海を越えて唐帝のもとで朝礼を拝した。
帝王より日本の勅使並みの扱いを受けたが、にわかに重病となり、帝より名医が差し向けられたが薬石効なく逝去した。
帝はこれを憐れみ国中の僧たちを集め丁重に供養し葬ったのち、玄佐の家人に種々の重宝を下賜した。
残りの者たちは帰りに嵐に遭い難破し、命からがら二十余人が宝物とともに帰朝した。
玄佐の嫡男虎松丸は三歳より母共に宗麟公の援助を受け、七歳の春より大友義統公に奉公しながら成長した。
なお稙田玄佐の先祖は清和源氏で多田満仲の頃より渡辺氏に入り(?)、藤原実綱と縁を結び、美濃斎藤家を継ぎ、数代を経たところ不思議なことがあった。
どこともしれぬ容姿に優れた女があらわれ奉公人となったが、一を聞いて十を知る聡明さであり、領主が言わぬうちから思い通りの働きをしたため、おおいに寵愛を受けた。
やぎて懐妊し、出産する段になって女は産室を作らせ、
「七日の間、どなたも入りませんよう」と伝えた。
三日を過ぎて領主は怪しみ、隙間からひそかに見たところ、恐ろしい姿の大蛇が子供を抱いて、赤い舌を出して子供を舐めていた。
領主は肝を潰し、人を集めて産室の扉を破って入ったところ、赤子だけで蛇は行方知らずであった。
産室は池となり、風の匂いがすさまじくなった。
その子を育てたところ、背中に巴の紋があり、子孫代々同じところに巴の紋が現れるようになったという。
これが稙田の起りであり、今に至るまで背中の紋は続いているという。

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/11(月) 18:28:06.43 ID:cem3OHMR
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13394.html
一祐働きの事 付、月山の長刀
こちらの話に出てくる「植田玄佐鎮定の嫡男で善三郎」が虎松丸のことだと思われる。
同じ「大友興廃記」出典ではあるが、「稙田」と「植田」で字が異なっている。
ついでに新井白石「西洋紀聞」では豊後の領主とフランシスコ・ザビエルについてシドッチが語っている箇所で
https://ja.m.wikisource.org/wiki/西洋紀聞
按ずるに、フランシスクスは、漢に波羅多伽兒人、佛釆釋古者といふもの、卽此也、
豐後の屋形は、大友左衞門督入道宗麟也、其使せしものは、植田入道玄佐(玄佐、もと淸和源氏にて、渡邊の家をつぎ、又齋藤の家をつぐ、家紋巴なり、其子名虎松、時に三歲也といふ)もとは、美濃國齋藤の族也、
天正十二年に、宗麟がために使して、ローマに死す、西人懷にせし册子に、一道人の甁を持て、童子の頂に灌ぐ所を、繪かきし圖を指示て、これ豐後の大名の子の、法を受くる圖也といふ、但し豐後の屋形、其使等の姓名を問ふに、其姓名は、つたはらずといふ

と植田玄佐が明ではなくローマに行ったとしている



小笠原宗忠、大神見介、臼杵主税介、渡唐の事

2022年07月03日 15:32

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/02(土) 19:17:50.79 ID:sNNpHE3Q
大友興廃記」から「小笠原宗忠大神見介臼杵主税介、渡唐の事」
小笠原晴宗の次男、宗忠は浪人として豊後で年月を送っていたが、これまたいたずらに浪人の日々を過ごしていた大神見介臼杵主税介とともに
「無為に過ごすよりは唐に渡り見物をしよう」ということで三人とも肥前長崎から海を越えて明の大王の都に渡った。
もともと大友宗麟公は明の大王と通交して遣唐使や明の勅使の往来もあったため、三人が宗麟公の御判の状を持参すると
明の天子も「懇切に遇せ」との綸言を発してくれたため、言語は通じないまでも文字により数日を暮らしていた。
あるとき禁中から遠くないところで謀叛が起きたため、御誅伐の綸言が将軍たちに申し付けられた。
宗忠たち三人は「われわれ三人に先鋒を仰せつけください。官軍は後陣で遊ばされよ」と申したところ、天子からのゆるしがでた、
三人はよろこび先手となり、わずか九十三人が籠る城へと向かった。
宗忠は小笠原の末子ではあるが軍法を極めており、槍の秘術を会得していた。ほかの二人も一流の槍の使い手であった。
城から出てきた敵兵を三人で六十八人討ち取り、大将も討ちふせ首をとった。
逃げた者どもは後軍の官軍が退治した。
明の天子の叡慮は浅くなく、望みの褒美を与えようと仰られた。
三人が言うには「先年、信長公が安土におわしたとき、道坊と言うものが
『信長公への一日の進物をください。自分の運を試そうと思います』
と申したところ、その日の進物は銅銭一貫文だけだったので、信長公は道坊を憐れんだということです。
明であればそのようなことはないでしょうから、一日の御調物を下されたく思います」
と奏聞した。
しかしその日の御調物は常々よりも少なかった。
かわった風流者だったためにこのような果報だったのだろう。
そんなこんなで明の都に一年滞在したのち、対馬・壱岐の間で嵐に逢いながらも壱岐についた。
宗忠「あら波に 船も酔へるかのみ吐て 危なき命 生(いき)の島かげ」
こうして三人とも大明国に武勇を残し、異国見物をして帰朝した。

小笠原宗忠の兄の小笠原晴定についての話は以下参照
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13514.html
信長公 鬼月毛という名馬を豊後へ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13522.html
小笠原晴定誅伐の事


272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/03(日) 10:29:49.56 ID:2nwEiHig
>>271
調物の件の意味がよくわからんのだが、誰か親切な人解説してもらえませんか?

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/03(日) 10:38:32.31 ID:htPLDiVZ
>>272
貢ぎ物のことだよ
あと安価ミスってるよ

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/03(日) 10:56:12.62 ID:ZJgGd5kV
租・調・庸の調

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/03(日) 11:53:21.91 ID:48uUtX46
ありがトン

異国船着岸 附・鉄炮の事

2022年06月26日 14:40

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/25(土) 22:49:22.14 ID:POeF0AOd
両豊記」より「異国船着岸 附・鉄炮の事」

享禄三年(1530年)の夏、南蛮国から大船九艘が豊後府内に着岸した。
商売目的であり、絹布・薬種そのほか重宝の珍物が数えられぬほどあった。
このことが諸国に知れ渡ったため、国々の商人が金銀を持ちきたって、我も我もと買い争った。
言語も文字も通じなかったが、南蛮人の方はあらかじめ予測していたのか大明の儒者を雇っていた。
こちらが保首座という禅家の学匠をもって書を遣わしたところ、三官という儒者が読んで、筆談で意思疎通をした。
儒者が言うには「我は大明国の者であるが、通訳のために雇われて来た。
船頭水主以下の者どもはみな南蛮人である。
我も南蛮のことについてはよく知らないのだが、船中を見るに、上下の礼儀がなく、
朝夕の食事も大勢が一つの大きな器から手づかみで食っていて、言葉にできぬありさまだ。」と申した。
この南蛮人どもは屋形に種々の重宝を献上したが、その中に兵具が二つあった。
長さは三尺余で鉄炮と言ったそうだ。
これが豊後における鉄炮の始まりである。
南蛮人どもは商売がうまくいったため順風満帆で帰国した。
そののち天文二十年(1551年)に着船した時には、南蛮の商主から石火矢という大きな鉄炮が献上された。
のちに臼杵丹生島で大友と島津が合戦した時、この大筒で薩州勢を撃ち殺し、落城を防いだということだ。
(「大友興廃記」では南蛮から大砲・国崩しが到来したのは天正四年(1576年)としている)

種子島以前とはいえ鉄炮を量産したわけではないようだ



大久保蔵人のこと

2022年06月03日 18:26

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/02(木) 23:19:58.24 ID:NuOKPlYc
豊後国の朽網(くたみ)の歴史を描いた「救民記」から大久保蔵人のこと

大久保蔵人は、朽網家に数代仕え、忠勤に励み戦功も多かった。
あの頭に角を生やした馬鬼を殺した時の長刀は、蔵人の死後に山原八幡宮に奉納したそうだ。
(馬鬼の話は
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13411.html
「大友興廃記」より「馬鬼退治の事 ならびに七不思議」
参照)
ある年に大友宗麟公は耶蘇の会主の僧を朽網に派遣しようとした。
朽網鎮則は大久保蔵人に命じて梨原で耶蘇僧を追い返した。
このとき宗麟公からはとくに咎めはなかったそうだ。
蔵人は鎮則に従って筑前・筑後の戦でも数度軍功を現した。
朽網氏が(豊薩合戦で島津に降伏し、その後の豊臣による九州平定の際に大友義統から討伐され)没落した後、
大友義統公も朝鮮の陣では、忠臣たちが新参の者どもの讒言により罪を得、戦で敗北することが多かったため、毛利輝元へ預かりとなってしまった。
関東大坂動乱(関ヶ原の合戦)のとき、大友義統公は毛利方として速見郡立石で黒田軍と合戦に及んだ。
大久保蔵人も駆けつけて義統公に拝謁し、軍奉行を命じられ、黒田如水と戦ったが鉄砲に撃たれて死んだ。



高森伊予守、志賀親度に加勢所望のこと

2022年05月26日 16:30

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/25(水) 20:11:44.38 ID:yj+RKTrs
「大友興廃記」より「高森伊予守、志賀親度(「道懌」表記を「親度」に統一)に加勢所望のこと

肥後国の高森伊予守は大友宗麟公の幕下であり、先年小原鑑元の逆心が現れ罰せられたのも彼の働きであった。
島津義久公の家老・新納武蔵守(忠元)の計略により、島津方の稲富新助が花山にて甲斐相模守(甲斐親英、甲斐宗運の嫡男)と合戦したが、島津方は敗れた。
その遺恨により新納武蔵守は高森の城を落とそうと、天正十二年十二月十三日(1585年1月13日)に三千騎で高森伊予守の城に攻め寄せた。
伊予守も奮戦し互いに鉄砲を撃ち合ったが、とうとう大手門を破られ、伊予守は降伏し城を明け渡した。
もとより伊予守は武略の上手であったため、これは一旦城を取らせて油断させる策略であった。

十五日に伊予守は樽肴種々の土産を調えて「和睦の盃を酌み交わしましょう」と城に行ったところ、稲富はよろこんで城に入れて宴会となった。
盃をさしかわしながら稲富が言うことには
「われわれも攻城の時、大剛の者が取り囲まれ若干の負傷者や死人が出ました。
詰めの城まで攻めていたならば、最後には落城させていたでしょうが、こちらも過半が討たれていたことでしょう。
伊予守の御芳志により死なずにすみました」
このとき、伊予守はみずからを智慧才覚のない無分別者と思わせるためこう尋ねた。
伊予守「島津義久公は隣国から徐々に智略をめぐらし、諸国の侍に内通させ、彼等が味方についたのちに豊後に御出兵なさるとうかがっております。
武士の習いとして「昨日の矢先に今日はひかゆる(昨日の敵は今日の友、の意?)」と言いますので
それがしも義久公御出兵の時には稲富殿の組に入りたいと思います」
稲富「義久公の豊後御出兵はありません。
肥後は島津の隣国なので、武蔵守が才覚をもっていろいろ調略をしましたが、それでも本当の味方は少数です。
まして豊後は宗麟公が御在国なので調略ののちに出兵など思いもよらぬことです」
それを聞いた伊予守は話題を変えたのち、次のように問うた。
伊予守「さる天正六年の冬、日向国高城において豊後の諸勢に若干の死者が出ました。(耳川の戦い)
敵味方いかばかり討ち死にしたでしょうか?」
稲富「敵味方六万六千人余りの討ち死にだったそうです。
中務(島津家久)が豊後勢の死骸を讃嘆して言うには
「武士の強弱は死骸でわかるものだ。
勝負は時の運。豊後勢は敵陣に頭を向けており、味方に向かった死骸はない」と感じられたそうです。
また、義久公の命令で弔いをしました」
伊予守「おもしろいお話です。私などはただの死骸としか見ないのに、中務がそのように気づかれるとは、屍にとっての面目といえましょう」

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/25(水) 20:16:39.85 ID:yj+RKTrs
そののち伊予守は家中の高森右京進を呼び出して
「お前は今回の降伏を無念に思っておるだろうが、これは稲富をだまして討つための策略である。
お前は密かに豊後に行って、志賀親度に我が意志を伝え、加勢を頼め」
と言うと、右京進は了承して豊後岡の城に行き、高森伊予守からの書状を披露した。
親度は書状を読むと、家中七組の頭(省略)に誰を遣わすべきか談合した。
談合の結果、大軍を差しむけ島津方をことごとく討ち取ろうと定まったところで
親度の嫡子・志賀太郎親次はその時十六歳であったが、こう発言した。
志賀親次「高森への加勢のために大軍を差し向けるのはもってのほかであります。
そのわけですが、肥前・肥後も薩摩に味方しているのは明らかです。
このたび高森を攻めているのは伊予守を敵としているのではなく、最終的に豊後をとろうと企てているからです。
わたしは遊山をすると、狩り、釣りの次には敵を討つ方法を考えるようにしておりますが、それは戦は猟に似ているからです。
猪は寝ているうちに勢子で取り囲み、魚は騒がないように遠くから網を回し、それぞれ囲いを狭めていきます。
もし初めから近くに網を回すと魚が騒ぐため、大漁は見込めないでしょう。
薩摩は名高い大将ですので、豊後を取るために周辺の国から大きな網を巡らせているのでしょう。
今、薩摩が高森を攻めているのは網の中の石を取り除いているようなものです。
島津義久は二、三年のうちに豊後を攻めようと考えております。
もしここで肥後に大軍を出しては、いくらか討たれて味方が弱体化してしまいます。
最後に大敵と戦わなければならないのに、いま人数を損なうのは不可であります。」
親度「わしもそう思うが、薩摩勢は三千ばかりあり、高森伊予守が援軍を請うているのだ。どうしたものか」
七組頭一同は親次の言葉に親度も同意したことで、お家の行く末は安泰だと感涙の涙を流し、
「親次様はまだ若いのにこのような名言を仰られるとは、お年を経ればどれだけの御分別が出てくることやら。
おそらくは九州に肩を並べるもののない名大将になるでしょう」と申した。
親度「それでは二千の兵を出そうと思ったが、親次の異見により雑兵を加えて千五百の兵を出そう。
侍大将には親次、朝倉土佐守(「留守の火縄」の朝倉一玄だろうか)、大森弾正を命じる」

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/25(水) 20:19:35.96 ID:yj+RKTrs
肥後国高森の近くにきた志賀親次は兵を陰に隠し、使者の高森右京進とともに高森伊予守の宿所を密かに訪ねた。
伊予守「城を攻めれば負傷者や死人が大勢出るでしょう。
一口を空けて夜討ちにして城を焼けば、敵は空いている口から出ようとするでしょうから、
われわれは城の案内はわかっておりますので搦手から詰めかけて尽く討ちましょう」
こうして豊後勢は同士討ちを防ぐため、同じ装備で合言葉を決め、夜討勢を五百、城から出てきたところを討つ伏兵を、志賀勢・高森勢でそれぞれ千おいた。
こうして十二月二十九日の明け方、伊予守はかねて用意していた火矢や松明を忍び口より投げ込んで、城中の大部分を占めていたボロ屋を炎上させた。
そこで前方・後方から鬨の声を挙げたところ、城中の稲富勢は慌てふためき兵を出してきた。
味方の兵は血気さかんに闘い、互いに敵を多く討とうと争った。
稲富勢も命を惜しまず、味方が倒れても顧みず、ここを死に場所と定めて戦ったが、どんどん討たれ少なくなった。
しかし稲富は戦巧者のため、わずかの勢で戦場を横切ったため討ち損じてしまった。
戦が終わり、死骸を数えると千八百余りを討ち取っていた。
志賀勢も負傷者は多数出たが、死人は五、六人もいなかった。
城は再び高森のものとなり、志賀勢は豊後に帰還した。
志賀親次は「このたびの戦では大いなる不覚をいたしました。薩摩勢は多く討ち取りましたが、大将である稲富を討ち損じました。」
と志賀親度に申したが
親度「悔やむでない。戦というものは必ずしも敵を討つのが勝ちではない。殺さずして退散させるのも勝利である。
それにしても高森伊予守の武略のために大勝利を得たものだ」と喜んだ。
そののち伊予守から志賀親度に加勢の礼があった。
親度が大友義統公に詳細を告げると、義統公は大いに感悦した。
義統公から親度と高森に御感状が与えられた。

のち天正十四年に肥後国を新納忠元が、豊後国を島津中書(家久)が討ち入った時、志賀から高森に援護の兵が出され、豊後国に高森を引き取った。
翌年、薩摩勢が退いた後、高森は肥後国に帰還した。
甲斐宗運御逝去ののち、「策を帷幄の中に巡らし、勝ちを千里の外に決す」とは高森伊予守のことであろう。



小笠原晴定誅伐の事

2022年05月18日 16:38

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/17(火) 20:41:27.78 ID:FCxFjtgU
大友興廃記」から小笠原晴定誅伐の事

古文に「筆は鋭く、墨は筆に次ぎ、硯は鈍い。しかし硯のように鈍いものは寿命が長く、筆のように鋭いものは夭折する」とある
小笠原刑部大輔晴宗というものはもとは義輝公方の家臣であったが、永禄の変で三好・松永により義輝公方が弑された時、たまたま大友家に来住していたためそのまま木付(杵築)に居住した。
晴宗嫡男大学兵衛晴定には人に勝れる大力があり、術芸に優れていた。
たとえば蛇に手縄を付けたものだとしても、馬と呼ぶようであれば乗って見せよう、と大言をはいていた。
天正十二年(1584年)の春の終わりに南郷岡の城主・志賀兵部入道※道懌(志賀親度、道益)のところに見舞いに行った。
なおこの岡の城は山の前後に大河が巡り、岩壁は四面にそびえ滑らかで、大木が盾の羽を並べたように林立し、鳥でなくては登りがたい名城であった。
(豊薩合戦のときに志賀親度の息子・志賀親次は、この岡の城で島津相手に「天正の楠木」と呼ばれるほどの籠城戦を行うことになる)
晴定は「これぞ九州第一の城郭であります」と挨拶し、道懌も晴定を馳走した。
酒宴がたけなわになった折、晴定は酔ったまま冗談めかして
「このような名城にありながら、野心がないとは心の鈍いお方ですな」と述べた。
これに対して道懌は何も発言しなかった。
悪事千里を行くのならいで、この雑言が宗麟公御父子の耳に入り、それから晴定が御前に呼ばれることはなくなった。
天正十四年には道懌に野心の風聞が立った。
そこで天正十六年の春、晴定を誅伐するための討手として臼杵美濃守が選ばれた。
宗麟公は晴定を召し、晴定が居住地の木付から臼杵に向かったところ、途中の産島の茶屋で美濃守は待ち構えていた。
美濃守「今時分に御登城とは、何の御用での御登城でしょうか」
晴定「とりあえず宗麟公のお召に従っての登城である」
その頃、晴定の家臣たちは干潟で潮干狩りをして遊んでいた。
美濃守は禿(かむろ)に茶を点てさせ、自分も飲み、晴定にもすすめて時分を見計らった後、刀をするりと抜き
「上意であるぞ!」と打ち付けた。
晴定も「心得たり!」と三尺八寸の刀を抜こうとしたが、あまりの大刀のため(または「あまりの大力」か)、刀のこじりを茶屋の腰板に一尺二尺突き通してしまい、抜くのが遅れてしまった。
美濃守は続けざまに三刀を入れて討ち取った。
さしもの名のある晴定も力が過ぎたため、かえって刀を抜く速さが遅くなり、無下に討たれてしまった。
ものごとに、過ぎたるは猶及ばざるが如し、というとおりである。
晴定は氏素性といい、骨柄といい、芸能の惜しい武士であったが若さの故このようになった。
ある人が言うには、「尾が剣に変じた牛がいた。牛はその尾を舐めると血の味で甘かったため舐め続けた。すると舌が破れて牛は死んでしまった」
晴定も舌のおもむくままに後先考えず悪言をはいてしまったため、その身を滅ぼすこととなった。牛と同じことである。
人はあまり好きたることに熱中すると過ぎたることになるため、好きでも無いことに心を寄せるべきである。

※「道懌」であれば「ドウエキ」となり「道益」と同じ読みなので、以前出てきた「道択(擇)」は「道懌」の誤字だと思われる



志賀親度裏切りについて

2022年05月16日 18:08

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/16(月) 15:38:23.73 ID:5/c1FEL1
2020年から新名一仁氏による現代語訳が出版されてきていることでも有名な
島津の老中・上井覚兼による「上井覚兼日記」から>>473の志賀親度(道益)裏切りについての箇所
(現在現代語訳が出版されているのは天正十二年十二月まで)

天正十四年(1586年)二月五日
…豊後の志賀道輝(親守)、近頃大友義統から勘気をこうむったため、迦住城遠方に隠遁となっていた。
そこですでに島津に内通していた入田(義実)と同心のよしを申してきた。

同年同月十六日
志賀道益(親度)と申す者は、道輝の子息である。
かの者は大友義統に召し仕われていた一之対(おそらく妾)を盗み取り扶養していたが、
慮外の振る舞いということで義統の勘気をこうむり、菅迫というところに籠居となっていた。
そこで入田方と一味のよしを申してきて、今年の春中に島津義久公の出兵があれば豊後平定のために案内すると言ってきた。
この者に限らず、大友の国衆はまとまりがなく、統制がとれていないようだ。
そこで使者に見参し、お酒をよこして閑談した。
使者は豊前・豊後国の絵図の写しを持参し、ここかしこの情勢をくわしく話した。
拙者は道益あての書状を託し、内通を承諾したよしを使者に申して帰らせた。
使者の申したことは重要な点も含めて、昨年の入田が内通した時の情報と一致していた。
皆知っているように豊薩和平のことは(天正八年に)京都(織田信長・近衛前久)により定められたが、
昨年の冬以降、大友義統が当家に対して筋目違いが歴然であった…

志賀親度が義統の妾を奪った理由
名馬を事後承諾で貰えたから、味を占めたわけじゃないと思うが



志賀道択、御馬を拝領と偽り取り帰る事

2022年05月14日 16:44

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/14(土) 16:10:03.34 ID:4gpgNxON
「大友興廃記」から志賀道択(志賀親度)、御馬を拝領と偽り取り帰る事

天正三年乙亥二月に信長公が信濃黒という名馬をくださった。
信長公の御意には「去年遣わした鬼月毛は世に過ぎたもので、遊覧用にしかならなかったであろう。
この信濃黒はいつもはのどかな馬で、体を飾って舎人をおおく付けてもなんの反応も示さない体たらくであるが、乗ると意のままになる、足の速い名馬である。
信長秘蔵ではあるが、わざわざ使者を送ってこられたので特別に遣わす」との仰せであった。
信長公の御意よりも優れた馬であったため、宗麟公のお召しの馬の中でも第一とされた。
ここに南郡岡の城主、志賀兵部親教入道道択(志賀親度入道道益)、丹生島登城の時、宗麟公は御機嫌であったので、暇をもらい、吉光の御脇差も拝領した。
道択はすぐに御厩舎の別当・雄城無難を訪ねたが留守だったため、御厩舎の舎人に馬を案内させた。
舎人「これは薩摩鹿毛、肥前黒、龍造寺粕毛、あれは山口黒、河辺岩石落…」と二百余の究竟の逸物の名馬を見せたあと
「これは御召料第一の御馬、信濃黒と申します。この春に信長公より参った馬でございます」
と言うと、道択はしげしげと見て、この馬以上の馬はないと思いいって、
道択「やあ舎人、この馬はそれがしが今朝拝領せよと宗麟公から仰せつかった馬であるぞ」
舎人「お言葉を疑うわけではありませんが、別当の無難も留守なのであい渡すことは、わたくしの分別ではできません」
道択は大いに怒り「殿から拝領を仰せ付けられたのに、無難が留守だからと言って渡せないとは何事だ」
と責めて、鞍をかけて打ち乗って「これは心地がよい」といいながら居城の岡の城に帰ってしまった。
そののち無難が帰ったので、舎人が「しかじかで…」と申した。
無難は不思議に思い、急いで登城しこのことを皆に尋ねると
「吉光の御脇差を拝領したことは聞いたが、御馬のことはなんとも存ぜぬ」と皆が言ったので無難は仰天し、ことのしだいを申し上げた。
吉岡掃部介(吉岡鑑興)、吉弘嘉兵衛尉(吉弘統幸?)、田北新介(田北鎮周には新介の名乗りはないようだ)といった老中衆は談合の結果、
「宗麟公の御機嫌を損ねるのを覚悟でありのままに伝えよう。
十のうち一つは本当に馬を遣わされたのかもしれない、十のうち九は道択がたばかって取ったのであろうが」
ということで、無難と老中がそろって汗をかきながら宗麟公にありのままに申し上げると
宗麟公はしばらく考えたあと「古くから軍の先を駆けんとするものは龍馬を求めると聞いておる。脇差を遣わした時の折紙に、信濃黒についても拝領遣わす、と書いておけばよかったものを」
とかえって興にいったように仰せられた。
思いの外の御返答で、無難も放心したように帰った。
良将の考えなさることは、諸人の智とは違うものだ。

※志賀親度(道益)は豊薩合戦の時に大友を裏切ったため、息子(養子)の親次により自刃させられた



信長公 鬼月毛という名馬を豊後へ

2022年05月13日 19:18

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/13(金) 16:58:04.81 ID:uwclWyl4
大友興廃記」より「信長公 鬼月毛という名馬を豊後へ遣わさるる事」

永禄の末、信長公が天下の権柄を執ることとなり、威を海内に振るうこととなったため、大友宗麟公は豊後から御祝いの使者を送った。
そののち信長公から鬼月毛という名馬を豊後に遣わされることとなった。
この馬は尋常の馬より遥かに長い顔で八、九寸ほどあり、骨がごつごつし筋が太かった。
眼は朱を差したようで、いつも怒り、常にいななき、歯噛みし、人にも馬にも食らいつくようだったので、鬼月毛と名付けられた。
宗麟公はこの馬を誰に乗らせようかと考えたところ、小笠原刑部大夫晴宗という、もともと義輝公方の侍があり、その子息で大学兵衛(大友興廃記によれば諱は晴定)というものが荒馬乗りの達人であった。
小笠原大学兵衛ではなくては乗りこなせられないだろうということで、明朝に乗ることになった。
鬼月毛は金覆輪の鞍、紅の大房に真紅の縄を八筋つけ、舎人八人が持ち、そのほかに綱を二本つけて計十人で馬場に引いてこさせた。
鬼月毛は轡を噛み切っていなないてやってきた。
宗麟公はじめ諸侍そのほか何人もが見物にやってきて見守る中、大学兵衛尉は白い小袖にかちんの上下、金ののし付きにした大小を差して、六尺あまりの巨体でゆらりと打ち乗った。
手綱、鞍、鎧などを例式のごとくにして、序盤から早駆けさせ、自在に操った。
のちには曲乗りの秘術をつくし、梯子を踏ませたり、碁盤の上に四つの蹄を縮めて立たせたり、
あるいは鞭を塀の向こう側に投げ捨て、その五丈あまりの塀を越えさせ、鞭の上をまっすぐにかけさせたりした。
宗麟公は御覧になり感じ入り、父親の晴宗方へさまざまな褒美を与えた。
鬼月毛は大学兵衛が乗りこなしたため、より速く駆けるようになり九州一の名馬となった。
日に日に見物人は多くなり、七町余の馬場を、人が四回か五回息をつけばたやすく往復するような俊足であった。
その後、馬術の上手なものが何人も挑戦したが、十人に一人か二人は腰を下ろすものの、馬が足を踏み出す前に諦めてしまい、
そのほかの八、九人は馬を見ただけで恐れて乗らなかった。
こうして大学兵衛は自由自在の御者として名誉に預かった。
厩舎別当の雄城無難は
「常の馬であれば我らとそう変わらないように見えるが、この鬼月毛ばかりは上手だけではなく力乗りでなければ乗りこなせない。
大学兵衛の力は馬よりもまさり、しかも上手のためこのように乗りこなせるのだろう」
と申したそうである。



「大将心持の事 附・星を祈る事」

2022年04月22日 17:29

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/22(金) 12:27:30.84 ID:BLpusYEu
大友興廃記」より「大将心持の事 附・星を祈る事」

薩摩の太守・島津義久公の家臣、河田大膳入道休叱(入道名が牛室である川田義朗?)は高名な軍法者であり、神変奇特のことが多かった。
たとえば力攻めしても落とせないような城郭を、祈祷により天から火を下すことで焼却するような神変があった。
まことに飛ぶ鳥を落とすほどの奇特をなし、かれが行くところ大勝を得ないことがなかった。
さるほどに、島津義久公は天正十四年(1586年)丙戌の冬、諸勢を豊後に発向すべきか運を占えと休叱に申し付けた。
休叱「運ははかるまでもござなく候。
豊後両大将の星は、それがし存知のことなれば、大友宗麟子息義統の星を祭りもうすべく候。
星の奇瑞、次第になされよろしからん」と申す。
さて宗麟公の星は禄存星、義統の星は破軍星に当たっていたため、休叱は両星をそれぞれ祈祷したところ、忽然として奇特があった。
この星回りであれば、運の甲は乙となり、島津が利を失うことはあるまい、と休叱は喜悦の眉を開いた。
一方、豊後においても津野隈越前守(角隈石宗と思われるがすでに耳川の戦いで戦死しているはず)という軍法者があって、宗麟公父子の星が怪しいのを見咎め
越前守「かくのごとくは敵のためになすところの災いか、または国中の大乱か、常のことにはあらず。我かく見る上は、念じ返さん」
と思い、宗麟公に言上申したが御同心なく、
宗麟公「運は天にあり」とただ天運に任せよとの御意であった。
孔子曰く「祭ること在(いま)すが如くし、神を祭ること神在すが如くす。」
宗麟公のお言葉はよろしくないと人々は言い合った。

島津の軍師が星を祈祷して、大友宗麟・義統親子の運を転じたという話



戸次鎮連、石宗に軍配相伝契約の事、ならびに諸葛孔明の事

2022年04月21日 17:59

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/20(水) 18:59:23.26 ID:JwisvsqA
「大友興廃記」から「戸次鎮連、石宗に軍配相伝契約の事、ならびに諸葛孔明の事」

土持親成が逆心したため、大友宗麟公は天正六年(1572年)戊寅三月上旬、討伐軍を御発足なされた。
土持居城に近づくと狼煙が見えたため、さては薩摩勢への合図かとみな身構えた。
ここに宗麟公の軍配者・角隈石宗は武田流、小笠原流、そのほか方々の軍配相伝を受けた人であったが
石宗「この狼煙は合図ではありません。こちらには味方がいるぞと錯覚させるための策です。
煙は律気にのぼらず、呂気に靡いているため、敵の運がよくなることはないでしょう」
その後、首尾よく大勝し、土持親成を生捕にした。
助命嘆願の声もあったが親成は切腹させられ、これを憐れんだ人々は、童に至るまで敦盛の曲舞を替え歌して勇んで歌った。
佐伯惟教は不快に思い「人の驕りが言わせるのだ」と法度を厳しくしたため、この新曲舞はやんだ。

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/20(水) 19:02:54.19 ID:JwisvsqA
さて戸次伯耆守入道道雪の猶子・山城守鎮連の陣所の隣家に軍配者・石宗は宿をとっていたため
戸次鎮連は石宗に「ほかのみなが狼煙を怪しんだのに貴公は策だと見抜きました。
どうかわたしに軍配を残りなく相伝くだされたい」と所望したところ

石宗「安いことです。師弟となった上は残らず伝授いたしましょう。
まず城の気についてです。そもそも気というのは烟霧雲などで窺い知ることができます。
城攻めの際、気が死灰のようになっていれば、城は滅亡する運命にあります。
城の気が東に靡けば、落城しにくいので策が必要です。
城の気が南に靡けば、攻めても落ちないので策が必要です。
城の気が西に靡けば、攻め手の勝ちで城は降参することになります。
城の気が北に靡けば、城の勝ちで攻め手の負けです。
城の気がどこへでも行った後に戻ってくるようなら、城主は逃亡します。
城の気が攻め手にかかれば、攻め手に病人が多いことになります。
城の気が高く上がってどこに行ったかわからないようなら、勝敗は見えないため持久戦となります。
城攻めして十日過ぎて、雷も雨もないようなら、敵城に助勢が来るか、味方側に裏切り者が出ます。
陣定めをしたあとに、それぞれ勝手に定めごとをするようであれば負けです。
また武者の勝色・負色というものがあります。
人数の備えがしっかりしていて人馬の足が見えないようなら勝ちです。
備えがバラバラで人馬の足が見えるようなら負けです。
また巴ということがあります。
一人がほかの隊の様子が気になってそばにより、ほかのものも影響されて近づき、順繰りに寄るようであれば巴のように見えます。これも負けです。
また日取りのことですが、
「味方の吉日は敵にとっても吉日だから方角こそが肝要である」と言う者がいますがよろしくありません。
その大将にとって吉日であれば、ほかの大将にとって吉日とはなりません。
また悪日を吉日、悪方を吉方に変える秘術もあります。
このようなことを知らずして戦場に出る者は、鰭のない魚が海中にいるような、翼のない鳥が野山にいるような、竿なくして舟に乗るようなものです。
またわたしの師は「古人曰く、上戦は戦をせぬゆえ、勝ちを白刃の前に争うは良将にあらず」と申しておりました」

鎮連「面白い話をありがとうございます。相伝の初めには気についてうかがいましょう」
石宗「それは臼杵において相伝いたしましょう」

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/20(水) 19:05:47.88 ID:JwisvsqA
鎮連「では八陣についてですが、陣取りは八つに定まっているのでしょうか」
石宗「八陣というのは異国の諸葛孔明の八陣の図をもって沙汰しております。
八陣とは
魚鱗、鶴翼、長蛇、偃月、鋒矢、方円、衡範、雁行
を根本としてさまざまな陣取りがあります。いずれにせよ源はこの八陣です。これも書面で相伝いたしましょう。
鎮連「孔明とはいかなる勇士でしょうか」
石宗「孔明とは蜀の賢人です。
昔異朝に、呉の孫権、蜀の劉備、魏の曹操という三人があり、シナ四百州を三分していました。
曹操は才智世にすぐれて謀をめぐらし敵を防ぎ、孫権は士を労い衆を撫し、ともに故国を賊し政を掠めるものが集まり、帝都を侵していました。
劉備は最近王室から分かれたばかりで、仁義があり利欲を忘れたために忠臣・孝子が四方からきて教化し武徳を行なっていました。
こうして三人とも智仁勇を備えていたため、呉魏蜀は鼎立しておりました。
ここに諸葛孔明という賢人が隠遁して蜀の南陽山で歌を歌って暮らしておりましたが、劉備に招聘されても断りました。
そこで劉備は三度草廬に自ら赴き「我が身の欲ではなく天下万民のためにその才を発揮してもらいたい」
と誠を尽くし理を尽くし仰せになったため、孔明はついに蜀の丞相となりました。
劉備は「朕に孔明あるは魚に水あるがごとし」と武侯と号させました。
魏の曹操は臥龍・孔明をおそれ、司馬仲達という将軍に七十万騎を備えさせ蜀に侵攻させました。
劉備も孔明に三十万騎を備えさせ、魏蜀の国境である五丈原で両軍はあいまみえました。
しかし五十日の間睨み合うだけだったため、魏兵は不満に思い司馬仲達に進軍を乞うたのですが、司馬仲達は許可しませんでした。
ある時、仲達は生捕にした蜀兵から孔明の様子を聞いたところ
「孔明は士卒に礼儀を厚くし、同じものを食べ、夜は眠らず自ら見回りをし、昼は士卒と睦まじく交際する。
そのため三十万の軍勢は心を一つにしているのだ」と言ったため
司馬仲達は「味方は七十万だが心は一つになっていない、孔明が過労と酷暑のために病となるまでは待つべきである」
と魏の士卒が「四十里も隔てて敵将の脈を知ることがあろうか、臥龍を恐れるため言い訳しているのだ」と嘲るのも無視して出陣しませんでした。
ある夜、両陣の間に客星が落ち、火よりも赤く輝いておりました。
これをみた仲達は「七日のうちに天下の人傑を失う相である、孔明は必ず死ぬであろう」と喜びました。
七日後に孔明は死にましたが、蜀軍は孔明の死を隠して魏軍に兵を進めました。
司馬仲達は戦えば魏が敗北すると考えていたため、一戦にも及ばず五十里退却しました。
こうして「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と言われるようになったのです。
軍が散じたのち、蜀兵は孔明の死を知り全軍が仲達に降りました。
こうして蜀がまず滅び、次に呉が滅んで魏の曹操が天下を統一してのです。
私が思いますに、諸葛孔明のように、礼を保ち、世に畏れられたというのは、ともに大将が学ぶべき美点です。
もっとも多年宗麟公が数国を治めた御威光にはかなわないでしょうが。」

これは鎮連の児扈従の聞き書きを記したものである。
後日、鎮連は臼杵丹生島登城の折々に軍配一巻を伝授されたそうだ。



石宗討死

2022年02月25日 18:15

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/25(金) 17:57:09.45 ID:OijCJTa7
「大友興廃記」から高城川原の戦い(耳川の戦い)における「石宗討死」

石宗は軍配者であり「当年、日向へ大軍を出しても利は得られないでしょう。
また、島津公は初代が比企尼の娘の丹後内侍と頼朝公との間の子であり、大友家初代と兄弟ですので出陣は止めるべきです」
と申し上げたが宗麟公は用いたまわなかった。
また当陣においても、駆け引きの利を説いたものの田北鎮周は用いなかった。
十一日の暁に、味方の陣の東から気が立ち、敵城の内になびいたのを見た石宗は
「野石の気」であると考え、星野・蒲池が二心を抱いていると見抜いた。
また南に「血河の気」という雲気が立って、味方の上になびいたため、
石宗は「この気が味方に向かいくるは、河にてほろぶべき雲気なり」と考え
鎮周に使者を立たせ「この味方にかかりたる雲気が変わるまでは出陣あるまじ」と申したが
鎮周は「この鎮周、元来下人の生まれにて、雲の上の軍はつかまつらず。
雲のことは龍に伝えらるべしと思いつる」と聞き入れなかった。
「吉事はなく悪事のみで、味方の利となるべきことは一つもない。
先陣の大将・鎮周の軍法を破り、大守(宗麟)の指図の目利き虚しくなること、不忠の上の逆心というべきである。
このうえ諸軍が鎮周に同意するとなると天運の末、お家滅亡の兆しであろう」
と石宗は思い入り、秘伝の巻物を焼いて、平人として討死した。

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/25(金) 17:58:30.72 ID:OijCJTa7
この石宗、在世の時は道学をおさめ、玉泉(天台宗)の流れをくみ四教三観の月を我がものとしていた。
また韓信の武略に通じ、誠に真俗倚頼、文武の達人であった。
ある年、奈良に入ったついでに吉野蔵王権現の御宝前で祈っていたところ、虚空より脇差一振りが降りてきた。
石宗はこのような奇特は祈るまでないと谷に向かって投げたところ、谷から風が起こって脇差を虚空に浮き上げ、しまいには石宗のところに戻した。
石宗は三拝して宝前を去った。この脇差は今も石宗の子孫が所持しているそうだ。
またある時は虚空をかける鴉を呼び寄せ、ある時は竹の枝に止まっている雀をその状態のまま、枝を折った。
さまざまな神変奇特を起こした故、島津方の本郷忠左衛門尉が石宗を討ったあと、薩摩では石宗を大明神として崇めたということだ。



「伊藤(東)満處と犬の糞」

2022年02月18日 16:16

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/17(木) 22:27:09.19 ID:SFDxaC0D
大正15年の「少年少女歴史ものがたり」から「伊藤(東)満處と犬の糞」

戦国時代、都には大嵐と雷という二人の相撲取りがいて、それぞれ東西の大関として名を轟かせていた。
ある時、豊後に興行に行き、竜王山の城下の茶屋で休みながら二人で自慢話をし
「この世に英雄豪傑は数多いが、力業では俺たち二人が日本一だな」と大声で言った。
するとくすくすという笑い声が聞こえたので「俺たちを笑うか?」と雷が睨んだところ、
「だって、日本一が二人もいることからしておかしいじゃないか」と、十五、六の少年が言った。
雷も「うう」と黙ってしまうと見物人も笑って「それで、どちらが日本一なんだい?」と聞いてきた。
少年も「それなら力比べをしてごらん」と言ってきたので、力士たちもその気になり、四股を踏むと、地震のような地響きがして見物人はみな逃げ去ってしまった。
少年はまだ残っていて馬鹿にしたような顔で「さあ相撲だ、のこったのこった」と言ってきたため、
力士たちは馬鹿らしくなり「やめたやめた、俺たち二人とも日本一でいいじゃないか」と言った。
すると少年が「でもお前たちは私の友達の原大隅守にはとても及ばないよ」と嘲笑ったため、雷と大嵐は怒って、少年に案内されて原大隅守の屋敷に向かった。
屋敷の門前には立て札があり「余と力比べを望まれる方は、その姓名を黒い碁石で門柱に記されよ」
と書かれていたため、力士たちは碁石を檜の門柱に親指でポツンポツンとめりこませ、玄関に入った。
取次のものに案内されて部屋に入ると、そこには一七、八の若者が着座していた。
若者は自分が原大隅であると名乗ると、床の間の大鹿の角を握って粉々にしてしまった。
大嵐と雷は驚いたものの、自分達も鹿の角を借りてめりめりと床柱に押し込んだ。
原大隅守は「これはお見事」と言いつつ、小指でその鹿の角をほじくり出したため、力士たちは驚いたが「今度は相撲でお相手したい」と言った。
そこで原大隅守は竹藪に行き、周囲一尺はあろうかという大竹を根本から二本の指で摘みあげたため、相撲取りたちはこれは敵わぬと逃げていってしまった。
それを見た最初の少年が笑っていると、原大隅守は大竹をちぎっては捨て、ちぎっては捨て、と土俵を作っているところであったが
原「伊東氏、どうしたというのです?」
伊東少年「二人とも逃げていったのですよ、あはははは」
原「おやおや、せっかく相撲場ができたのに、どうしてくださるか?」
てっきりいっしょに笑ってくれると思ったのに、とあての外れた伊東少年はまた何か思いついたらしく
「ではこの私、伊東満處(まんしょ)が二人に代わり、日本一を決めるために立たねばなりますまい」と言った。
原「いい加減にしてください。いくら貴君が御主君の一族にせよ、承知できませぬぞ」
伊東少年「まあまあ怒るでない、それにしても腹が空いたな、幸いここに犬の糞があるから君もやらぬか?」
と言いながら伊東少年は犬の糞を拾い上げ、原大隅守に半分すすめた。
原大隅守はますます怒ったが、伊東少年は「日本一の勇士ならこのくらい食えるだろう」と全部むしゃむしゃ食ってしまった。
原大隅守も負けん気を出して「貴公に食えて、私に食えぬわけがない」と、伊東少年が新たに拾った犬の糞を我慢して食った。
「ではこちらもどうだ?」と今度はぐにゃぐにゃするやつを差し出したため、原大隅守は閉口し
「もうおぬしを日本一とするから勘弁してくれ」と謝ったので、伊東満處は笑って承知した。

さてみなさん、伊東満處は本当に犬の糞を食べたのでしょうか?
馬鹿な、後に大友宗麟の使者としてイタリアに千々石ミゲルとともに洋行し、
時のローマ法王グレゴリー三世に、「この神の如き美少年に会う、死すとも恨みなし」と賛美された程の聡明な少年であった彼です。
(なおグレゴリオ13世は謁見後の翌月に亡くなっている)
実はポルトガル人からもらった犬の糞に似た菓子を食べ、原大隅守には慢心を戒めるために本物の犬の糞を食わせたのです。
おもしろいことに、そのあと伊東満處は熱烈なキリスト教信者となり、原大隅守はまた熱心な仏教信者になって、四国遍路の旅に上ったということです。



「大友興廃記」より高城川の戦い(耳川の戦い)

2022年02月14日 16:11

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/14(月) 01:22:41.38 ID:pM3JFnrJ
「大友興廃記」より高城川の戦い(耳川の戦い)

(大友の軍配者・角隈石宗が「彗星が出て不吉だから、四十九の厄年だから、大友氏と島津氏は両家とも家祖が頼朝の息子で御連枝だから」
といろいろ理由をつけて島津との戦をやめるよう、大友宗麟に諫言したが、結局は日向に繰り出すこととなり、十月十一日に大友軍が高城を包囲し戦闘が始まった)

互いに日夜鉄砲を打ち合って日を過ごしていたところ、島津義久公は鹿児島で十一月七日の夜に
「うつ敵は 龍田の川の もみじかな」という霊夢を見た。
義久「これ、天のあたえたまう所なり、軍は大利あるべし」と悦び、大隅・薩摩から十五から六十の土民・百姓まで戦に駆り出した。
四万の兵で十一月十一日に高城まで押出し、佐渡原に義久公本陣をおいた。
この時、白狐が義久公の御旗本より敵方へ向かったため、薩州の家の吉兆であるとみなした。
(この後、薩摩の布陣の説明が延々と続く)

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/14(月) 01:25:21.38 ID:pM3JFnrJ
大友軍の先陣、佐伯宗天(惟教)から御本陣に薩摩勢の援軍について注進をしたのち
宗天は「御旗本の到来を待つべし」と主張。
一方、もう一人の先陣大将・田北鎮周は「御本陣への注進には及ばず、ぜひ戦をせん」と主張。
宗天「大軍と大軍の合戦においてはさようのおもむきにては利を得ざるものなり。
まず敵の手立てを見計らい、味方の人数配置し種々の武略計略をもちいて勝ちをおさむるものなり」
また軍配者・石宗も「多勢を使うは大事のことなり。早速敵陣にかかりては勝利あるまじ。
その仔細は陣の形を見るに、この方よりかからんを待つらしくおぼゆ。
敵色を見計らい、この方にても策立てあるべし。」と宗天に同意。
田北鎮周「各々は申さるるになされよ。この鎮周においては目の前に見ゆる敵を、さようにのびのび見んような分別は一向に同心ならず。
明朝、鎮周先駆け討ち死にして見せん」とわが陣へ帰る。
石宗「鎮周、日ごろの覚悟よきとも、軍法に背く分別にてはよきことあるまじ。
人数のくばり、軍の手だてもいたずらなり。豊後にて申し上げたがごとく、当年大軍を起こすこと不吉なり。」
宗天「先陣を仰せつけられ、鎮周にわかに気を負い、無分別となる。
軍に利を失い、日ごろのほまれも水になるべし」と悔やむ。
諸軍将は鎮周に同心し、宗天の意見に従うものはわずかであった。これは不吉の相であった。
臼杵惣左衛門、柴田何左衛門、斎藤進士兵衛、この三人一同は、かくなる上はと
「鎮周、かくのごとき分別なれば、明朝討ち死にあるべし。諸軍勢も利を非に曲げてかかるゆえ、利あるまじ。
この食い違いを推し量るに、宗麟公の果報も末なり。御運かたむく端なるべし。
明日死ぬべき命ならば諸郡に先立ちて討ち死にせん」
ということで、十一月十一日申の刻のおわりに三人かけだして討ち死にした。

宗天は相備えを三段にしようと佐伯掃部介を使者として鎮周に使いを出したが、掃部介が鎮周の陣に行ってみると、かがり火をきかせて
大魚を焼き、明朝討死しようと酒宴をしていたため、掃部介は宗天の伝言を伝えず帰還した。
掃部介から鎮周の覚悟のほどを聞いた宗天は
「今度、鎮周よこしまなる分別にて討ち死にせんことのみ思い軍に勝つべきてだてなし。まばらけの軍にては利を失わん」と仰せになり、
御子息の惟真、鎮忠も「おおせのごとく、この度の軍はみな談合も不合なるものばかりにてよきことあるまじ」と賛同した。
とはいえ鎮周だけに戦をさせるわけにもいかないと、宗天軍も明朝の出陣を決意した。

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/14(月) 01:30:16.85 ID:pM3JFnrJ
翌、十二日の卯の刻の終わりに鎮周は田北勢を率い、宗天も陣を三段構えにした。
鎮周は薩州の先手・本郷(北郷?)の軍を突き、敵陣が魚鱗であるとみた宗天の勢は偃月に陣を変え、本郷の六千余の陣を打ち破り、本郷(時久と久盛?)を討ち取った。
味方後陣の勢も続けてかかり、敵勢を討ち取り、大利を得、敵に敗軍させ、財部までおいこみ、川辺に陣取ったため、高城のおさえも豊後勢の若武者も先陣に加わろうとかかっていった。
その時、敵はもとより鳥雲の陣を奥義としていたため、島津右馬頭(以久)が川上からより横槍を入れ、また城からは山田新助(有信)を侍大将として城中の人数を出してきて、
義久公も佐土原より旗本をよせてきて、豊後勢の陣の道を取り去った。
一方には大沼、または広い池があり、敵は地理案内のため、豊後勢を沼や池に追い込んだ。
こうして豊後勢は討たれて利を失い、宗天父子三人は戦死、鎮周も討死に、田北勢の武士も過半が討たれた。
宗天・鎮周が討たれたため、薩州が大利を得た。この戦いで敵味方六万六千余が討ち死にした。
宗麟公の御旗本から卯の刻に「辰の刻に御本陣をよせる」と使者がきたが、鎮周の型破りな無分別のために豊後勢はこのようになった。
これを議すると、宗天・鎮周がこの度、先陣の両大将をたまわり、股肱の臣として命を全うすべきでありながら、鎮周の無分別のために利を失ったことは、天命だったのだろう
十一月七日の夜、義久公の霊夢に出た
「うつ敵は 龍田の川の もみじかな」というお告げのごとく、豊後勢は池川にて大勢討ち死にし、天より勝利を義久公に授けたのであろう

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/14(月) 01:35:28.00 ID:pM3JFnrJ
なおこの後「宗天の人数 戦死の侍」の条があり、

佐伯宗天は平生、家臣に対しても礼をもって接していたことご書かれており
主君とともに敵に対して一歩も引かずに討ち死した家臣
百二十人の名前が数ページにわたって記されている。

佐伯宗天(惟教)と息子の惟真・鎮忠が戦死したため
豊後佐伯氏の家督は惟真の息子の惟定が継ぐことになる
↓この前出た話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13371.html
豊後の佐伯太郎惟定は、驍勇智謀の将であった



原大隅が大力を得たわけ

2022年02月11日 17:38

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/10(木) 19:26:03.42 ID:1Rfa/aIX
続き「大友興廃記」から原大隅が大力を得たわけ

大隅守の大力を得た由縁は、ある時、大隅、正善寺という寺からの帰り道に、柳?の下に女があって子を抱いていた。
なにか言いたそうだったため馬から降りると
女「この子を少しの間だけ抱いてください」
と言われたため、怪しく思い、脇差を抜いて口に咥えたまま子供を抱いた。
子供の力は強いように感じた。
しばらくすると女は帰ってきて子を受け取り、「望みはないか?」と聞いてきたので
大隅「我が屋敷に水が湧き出すようにしてほしい」
と言ったところ、女は「他に望みはないか?」と聞いてきたため
大隅「力も湧き出して欲しい」と言ったところこのような大力がついたということだ。
また一説には、大隅の母がよみがえって米を三粒持ち帰ったのを含むと大力となったということだ。
この大力は日田鬼太夫永勝以来だと人々は言った。
(このあと人皇六代孝安天皇の御代の日田永勝の相撲話)

いわゆるウブメの話ですな

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/10(木) 19:39:13.52 ID:1Rfa/aIX

六代孝安天皇の時にいたのは永勝の先祖で
永勝は六十八代後一条天皇の頃の人物と書いていた
日田大蔵氏の日田鬼大夫大蔵朝臣永季、通称「日田どん」のことらしい
1.9mで相撲で無敗だったそうだからある意味、進撃の巨人(作者は日田出身)




原大隅守の力の事

2022年02月10日 15:33

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/10(木) 00:47:33.93 ID:1Rfa/aIX
原大隅守の力の事

大友宗麟公の侍・原大隅守は吉野というところを領し、人より優れた力があった。
・ある時、肥後国・戸の口に南蛮國より石火矢500 挺来て、一挺16 人にて臼杵丹生島城の庭に並べた。
宗麟公は大隅を呼びて「一人して持ってみよ」と仰せければ、大隅筒先より起こし肩に乗せ庭を二、三度回りて元に戻す。
宗麟公、大力をまだご覧になりたいということなので、自然石の大きな手水鉢の場所を直させたが
満杯の水はこぼれなかったため、御感じになったということだ。
・ある時上方から雷、稲妻、大嵐、辻風という相撲取りが下向して勧進のため相撲をしたが豊後の者は勝てなかった。
その後大隅のいる臼杵丹生島に来て大隅と業を争うとした。
雷は鹿の角をつまんで砕き、大隅に力を見せつけた。
大隅はでは相撲を取ろうと門前に植わっていた大竹を庭に出してきて、竹を一節ずつつまんで潰し、丸めて両端をくっつけて土俵とした。
これを見た雷も辻風も驚き「諸国をめぐったがこのような力は見たことがない」と降参した。
・そのころ武宮武蔵守という宗麟公のおそばに背丈が八尺の大男がいた。
ある時、大隅は肩衣袴姿で武宮を両手ですくい、座上になおしたという。
・ある時、三重で売買をしていた者どもが乱闘騒ぎを起こし、二百人と百六十人で斬り合っていた。
そこにたまたま行き合った大隅が柄が一丈、刀が六尺の大長刀を持って二百人の方へとびこみ、
「ここに原大隅というものあり、あぶれ者に申さん、狼藉はさせまじぞ!」
と追い散らすと、残りのものも「お屋形様のお側の大力の大隅殿だ」と双方ともに逃げてしまった。

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/10(木) 00:52:05.76 ID:1Rfa/aIX
出典書くのを忘れていた。「大友興廃記」からです

・ある時、大隅守は伊勢大社に宿願の儀あって宗麟公に暇をつげ、ついでに土佐の一条中納言康政公(「大友興廃記」は一条兼定を、文書発給をしていた源康政と間違えている)は、
宗麟公の婿で大力と聞こえたので力比べをしようと康政公のところに名前を隠して出た。
康政公は広間にて盤持(大石を持ち上げて力比べをすること)をしようと持ちかけた。大隅は手加減をしてわざと負けた。
その後、康政公は大筒を褒美に出してきたが、「これは思いもよらぬ事」と辞退をしているうちに康政公の力が尽きてきて鉄砲の先が降りてきたため、
大隅は指を筒先に入れて鉄砲を水平にして受け取り、三度頭を下げて鉄砲を置いて去った。
「あの怪力は豊後の原大隅守であろう、ほかにあれほどの怪力はおるまい」と噂になったということだ。
・土佐を出ると十六端の舟に乗って帆柱を肩にのせ、舟中の評判になった。
摂津国兵庫では新造の大船で七、八十人であつかうものを一人で海へ引っ張っていったため、「鬼か神か」と人々は言ったという。
・兵庫から大坂につくと六月二十九日の住吉の神事で相撲を取っていた。
大隅が大竹の節を潰して帯に結んで出ようとすると「角力の勝負はつきました。どの国のどなたですか?」と聞かれたがはぐらかした。
洛中では大きな牛車と行き合ったため片手で押し出して通り抜け、伊勢に参拝して豊後に下向した。
宗麟公は大隅から旅の話を面白く聞き、知行をあてがったが、二、三年して御勘気があった。
知行没収されそうなところを佐伯惟教が口添えしてくれたため元の如くに安堵された。



「大友興廃記」より「城中水に渇すること」

2022年02月09日 18:18

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/08(火) 22:15:24.76 ID:EhFZQJMw
まともな白米城伝説を

大友興廃記」より「城中水に渇すること」
永禄十一年十月、毛利の吉川小早川が中国兵十万余騎をもって立花の城に攻めてきた。
立花の城代は鶴原掃部助、田北民部であったが、大友宗麟は戸次道雪、臼杵田原などに筑後の蒲池などを加えて五万五千八百騎の勢力をもって中国勢の後に陣を取らせた。
こうして18余度の合戦があったが立花の城はよく持ち堪えた。
ある時、城から「五月雨では物具にもかびが生えることでしょう、笑止なことです」ということで
「五月まつ はなたちばなの 城ぜめは くさるよろひの 袖の香ぞする」と送った。
一方中国陣からは「すぐに落城の嘆きが思いやられていたわしく思います」ということで
「あはれおもふ 人は矢倉の 夜の雨に なみだをそふる 山しろのうち」と返してきた。
その後、城中は水に渇し、久しく雨も降らなかったため人馬ともに難儀であった。
中国方は金ほりにたくみなものが多く、水の手を全て掘って絶ってしまっていた。
鶴原、田原の下知で白米に灰を入れ、山城高いところで多くの馬を出して湯洗いの真似をした。
(灰が混ざった白米はそのまま馬の飼料になったという)
これはまだ城には水があると敵に見せるための謀であった。
のちには米を袋に入れ、岩根の湿気のあるところに埋め置き、とりあげ、煎って食べた。

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/08(火) 22:33:26.16 ID:EhFZQJMw
ここから先はいい話

その後、水もなくなり勇力も尽き、こうなれば討死覚悟で撃って出よう、それこそ勇士の本意であろう、しかしその前に宗麟公に申しておこうと
宗麟の元に吉田弥六兵衛という忍びの上手を遣わしたところ
宗麟「思う仔細あり、早々に降参すべし」と仰られた。
城中に戻った吉田からそのことを聞いた鶴原・田北は吉川・小早川に降参した。
なお降参兵は元就の命令でみな宗麟の陣へ送り届けられた。
その後、大内の生き残りの大内輝弘・武弘の親子が宗麟より送られた三千余の兵とともに周防・山口に打ち入ったところ国人の多くが輝弘方についたため、毛利は劣勢となった。
こうして毛利は立花城を引き払い中国に戻ることになったが、誰も後に残ろうと言い出すものはなかったため、御一門の端ということで桂能登(元澄)が残ることになった。
その時、坂田新五左衛門と浦兵部という勇士が後に残ることをかってで、都合三百余人で籠城し、ほかの兵が中国へ戻るまで大友軍の足止めをした。
毛利兵は山口の小郡というところで輝弘軍を破り、輝弘は切腹した。
こうして役目も達せられたため、城中に残った将は切腹しようとしたところ
攻めての道雪は「中国勢残り居候をうちはたさんこと、籠鳥をころすと同じ。今度残り候者は、元就以来用に立ち候ども者なり。
このたびわずかの人数にて敵国に残りし志の勇者を、むざむざと打ち果たすこと、不便の至りなり。
鶴原、田北がこともあれば、中国へ送り届けしかるべき」
と城中に「忠節の至り感じ入り候。城中の衆、城を渡し、中国へおかえりあるべき」と道雪が申したところ、城中は同意した。
こうして籠城していた兵は道雪の志に感動しことごとく中国へ帰還した。
道雪は立花の城を任せられ、それ以来、立花道雪と名乗った。



328 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/08(火) 22:40:45.56 ID:7DijzLVu
>>326
東伊豆の河津城には少しだけ違った白米伝説がある。

この城は伊勢宗瑞の伊豆侵攻戦で落城したと云われる。
独立した山頂に在って水が乏しい城で、伊勢軍の火矢から起きた火災を消す水が無い。
そこで代わりに大量の白米をかけて消火した、と。

なお、
河津城の考古学調査に於いて十五世紀末期から十六世紀初頭の出土遺物群に不自然なほど多量の炭化穀物粒が認められている。

大友宗麟、猿のために岩屋重氏を殺すこと

2022年02月08日 16:30

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/08(火) 08:46:36.54 ID:EhFZQJMw
朝野雑載」より、大友宗麟、猿のために岩屋重氏を殺すこと
(「大友興廃記」にもほぼ同じ話があるのでそっちが元と思われる)

豊後国岩屋の地主岩屋五郎三郎重氏というもの、つねに猟を好み、ある時、鹿をいようと思い山に行き、岩壁に沿って鹿を追いかけたが、足を踏み外して岩上から落ちてしまった。
しかし岩の中腹の壇石に運良く落ちることができた。
岩を登ろうとしたがとりつくような出っ張りもなく、途方に暮れていると老猿が一匹来た。
老猿は重氏を見ていたが、しばらくして大勢の猿を集めた。どの猿も葛を手に取っており、重氏のもとに葛の端を下ろした。
重氏は不思議なことだ、とよろこび、葛をよりあわせ一本の大きな綱とした。
猿たちは大木に葛を絡めつけ、それぞれ葛の端を手に取り支えたところ、重氏は葛をよじのぼり、危うく命が助かった。
大勢の猿はすぐに逃げ去ったが、初めの老猿は残り重氏の方を見ていた。
重氏が帰ろうとすると老猿が後からついてきた。
重氏は恩知らずのあさましい小人だったため、その猿を一矢で殺してしまった。
宗麟公はこれを聞きたまい、重氏を呼んで仔細を問うと、翌日切腹させた。
宗麟公「重氏我に対して罪なし。子孫において仔細なし」と子供に父の領地全てを相続させた。
重氏にとって老猿は天地父母主君の次に来るほどの大恩人であるのに、恩を仇で返すとは禽獣にも劣ることだ。
そのため重氏の子孫にも老猿の精が祟りをなしたため、社をつくり、山王権現として祀ることになった。

関連
その行司に切腹を仰せ付けた



321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/08(火) 08:51:42.70 ID:UWWLnGEW
猿ものは追わず

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/08(火) 08:52:40.31 ID:EhFZQJMw
むしろ来るものを拒んだ結果