「フロイス日本史」から、戸次川の戦い

2017年05月30日 18:11

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/29(月) 21:31:52.86 ID:pxsQt+cT
(豊後国主の)嫡子は、薩摩軍が攻めてきた時に身を守り得るために、
他の二名の主将(仙石秀久長宗我部元親)とともにウエノハル(上原)と称するある場所に一城を築くことに決した。
だが彼らは心して真面目に築城の作業に従事しなかった。
彼らの不用意は甚だしいもので、饗宴や淫猥な遊びとか不正行為にうつつを抜かしていたので、その城は笑止の沙汰であった。
したがって(薩摩軍が来週した時に彼らが)助かることなど思いもよらないことであった。

ところで国主フランシスコの息子パンタリアン(田原)親盛は、司祭に対して、
もし府内で何事かが起こった場合には、司祭は家財を携えて城(妙見城)に身を寄せるようにと伝えていた。

薩摩の軍勢は惰眠をむさぼることなく、攻撃力を強めながら、漸次豊後に進入して領地を奪っていった。
豊後の指揮官たちは、常軌を逸した振る舞いによってますます油断の度合いを深めていた。

本年一五八七年の一月十六日(西洋暦)、薩摩の軍勢は、
府内から三里離れたところにあるトシミツ(利光宗魚)と称するキリシタンの貴人の城を襲った。
城主は府内からの援助を頼りに力の限り善戦した。
だが敵は攻撃の手を緩めず、ついに武力によって城内に進入し、その城主、ならびに多数の兵士を殺害した。

府内にいる味方の勢は、(利光の)城が占拠されているかどうか確かなことを知らないまま、
赴いて囲みを解くべきかどうか評定を続けていた。
結局、彼らは出動することに決め、栄えある殉教者聖フィビアンと聖セバスティアンの祝日に府内を出発した。

府内からは、仙石がその兵士を率い、土佐国主長宗我部とその長男がその兵士を伴い、
さらにパンタリアンも兵を率い、その他豊後の特定の殿たちが出発した。
清田と高田の人々に対しても出動するよう命令が出された。

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/29(月) 21:32:45.50 ID:pxsQt+cT
薩摩勢は、それより先(豊後勢の動静を)知らされていたらしく、余裕をもって策を練り、
準備を整え、一部少数の兵士だけを表に出して残余の軍勢は巧妙に隠匿していた。

豊後勢は、大きく流れの速い高田の川に到着し、
対岸に現れた薩摩勢が少数であるのを見ると、躊躇することなく川を渡った。
そして豊後勢は戦端を開始した時には、当初自分たちが優勢で勝っているように思えた。
だがこれは薩摩勢が相手の全員をして渡河させるためにとった戦略であった。
渡し終えると、それまで巧みに隠れていた兵士たちは一挙に躍り出て、
驚くべき迅速さと威力をもって猛攻したので、
土佐の鉄砲隊は味方から全面的に期待をかけられていながら鉄砲を発射する時間も場所もないほどであった。
というのは、薩摩軍は太刀をふりかざし弓をもって、猛烈な勢いで来襲し、鉄砲など目にもくれなかったからである。
こうして味方の軍勢はいとも容易に撃退され敗走させられて、
携えていた鉄砲や武器はすべて放棄し、我先にと逃走して行った。

豊後国の人たちは、河川の流れについて心得があったから助かったが、
仙石と長宗我部の哀れな兵士たちは他国の者であったから、浅瀬を知らず溺死を余儀なくされた。
こうしてその合戦と破滅において、二千三百名以上の兵士が戦死したと証言されている。
彼らの中には、土佐国主の嗣子や、かつて阿波の領主であった十河殿、その他大勢の貴人や要人が含まれていた。

薩摩勢は、その日の午後には府内から四分の一里の地点にまで到達し、
その途中にあったものをことごとく焼滅し破壊した。




「フロイス日本史」から、戸次川の戦いについての記述である。


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彼らが通過した後には、何一つ

2017年05月29日 18:40

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 19:30:37.93 ID:/C3l8YdE
もうすぐセンゴクで仙石が失敗しそうなのでそのあたりの話を


中務(島津家久)は、日向から三千の兵と、薩摩から五百名、および叛乱軍を率いて、すでに豊後領の宇目に入り、
嫡子(大友義統)の数名の家臣に属する小さな三つの城を無抵抗裡に占領した。
それからさらに進撃し、幾人かの身分ある人たちと老臼杵殿(臼杵鎮尚)がいる別の城の所在地であるミエ(三重)に向かった。
これらの者はただちに降伏して豊後の敵にまわった。
中務はそこに留まることとし、(家臣に)ごくわずかの兵を伴わせ、叛乱者たちに道案内をさせて送りこんだ。
豊後勢の恐怖と怯懦は驚くばかりで、〔とりわけそれがデウスの鞭であってみれば〕
彼らは薩摩軍の名が口にのぼるのを聞くだけで、屈強かつ勇猛で戦闘に練磨された者までが、
立ちどころに震え出し歯をがたつかせ、まるで軟弱な戦の未経験者のように降伏して、敵の言いなりになるのであった。

薩摩軍は、万事が思惑通りに運ぶのを見て、通過するナングン(南郡)の地、その他のところを焼き払い、
打ち壊し蹂躙し始めた。
彼らが通過した後には、何一つ満足なものは残っておらず、少しでも逆らう者は殺害された。
またそれに劣らず嘆かわしく、いなむしろ最大に嘆かわしく思われたことは、(薩摩勢)がおびただしい数の人質、
とりわけ婦人、少年、少女たちを拉致するのが目撃されたことである。
これらの人質に対して、彼らは異常はばかりの残虐行為をした。
彼らのうちには大勢のキリシタンも混じっていた。

(フロイス日本史)



800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 19:44:17.08 ID:12qJD4CN
>>799
キリスト教が嫌いな佐伯さんが勝ってるのは無視される

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 21:42:25.07 ID:AP3CGx9c
豊後の連中から奴隷を買ってたのはどこのどいつなんすかねえ

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 21:49:22.72 ID:DLlKPT0m
まっことでごわす

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 21:59:22.09 ID:12qJD4CN
>>802
豊後国で海外に奴隷売買したって記録はみつかってないな
肥前国ならあるけど

あまり有名でなく高尚でもない男であった

2017年05月29日 18:39

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 19:44:53.16 ID:/C3l8YdE
筑前、筑後、および豊前の一部をほぼ支配下に置いた薩摩にとって、今やこの島全体の絶対君主になるために残るは
ただ豊後に進出するだけとなった。
そこで彼らは豊後の殿たちと交渉し、種々の約束と甘言をもって彼らを味方に引き入れようと奔走した。
豊後の嫡子(大友義統)は、この状況について連絡を受けると大いなる危機感に襲われた。
そしてこの恐怖から、彼は関白殿に強く救援を懇請した。
というのは、豊前で戦っている勢は豊後から遠く離れたところにおり、薩摩軍とはかけ離れた別の戦に従軍していて、
急速に有利な戦況は望むべくもなかった。

関白は天下の主となった後、信長時代の仲間であった仙石権兵衛と称する尾張の人物に讃岐国を与えた。
彼は、あまり有名でなく高尚でもない男であったが、決断力に富み独善的で、その他それに類した性格を備えていた。
ただし以前から優秀な武将として知られていた。

関白はこの人物に豊後を援けに行くにように命じた。
そしてさらに、二年前に征服した土佐国のセニョール・チョウスガミ(長宗我部元親)に対しても、
軍勢を率いて豊後の援助に赴くように命じた。
だが自らが出陣するまで、もしくは敵との合戦を伝達するまでは、敵と交戦するのを差し控えるようにと言いつけた。
それゆえ(彼らは)約二千名あまりの実戦の兵士しか伴って行かなかった。

(これらの軍勢)は府内の市で、嫡子および伯叔父なる(田原)親賢の軍勢と合流した。
(親賢)は、(去る日向の合戦で)何千という生命を失わせた最大の責任を負う身であったから、
豊後が破滅して後は、自分の城から外へは決して出ようとしなかった。

豊後の上長であるペドゥロ・ゴーメス師は、贈り物を携えさせて、(既述の)異教徒の新たな主将たちを府内に訪問せしめた。
彼らもまた後には学院に来て手厚くもてなされた。
とりわけ土佐の主将(長宗我部元親)は、要請があれば、司祭や教会を援助する用意があることを示した。
この主将の嗣子である息子(信親)は、一、二度我らの修道院で説教を聴聞し、説話をよく理解したらしく、
キリシタンになりたいとの希望を表明していたが、その数日後に戦死した。



上の話とは少し時間が前後するけど、同じくフロイス日本史から
仙石についてのフロイス評入りの話


大友義統悪逆の事及び彦山の意地

2016年10月04日 17:42

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/03(月) 23:42:14.17 ID:9IRF6OyF
大友義統悪逆の事及び彦山の意地

天正九年秋、義統は大友家に反目する彦山を襲撃する。かつて大友氏の監視下にあった彦山だがこの頃は秋月種実との関係を強めていた
義統は嗣子に恵まれない十四代座主舜有の後嗣に自身の弟を押し込もうとしたがこれを嫌った舜有は娘婿・秋月種長の子を後嗣にと取り決めたことで
義統の狙いを封じた。そして義統への返答として彦山は義統の使者を殺害する
これに激怒した義統は清田鎮忠と上野鎮俊を大将に、彦山を滅ぼすべく日田郡へ陣を進めた
清田上野の両将は、まず彦山に降参勧告を行ったが彦山は拒否し戦いになる
秋月さらには龍造寺の援軍を得た彦山は一歩も引かず善戦したものの
激戦の末に大講堂を占拠した大友勢は一山の宗坊悉くに火を放つと彦山は一宇も残らず炎上した
この時山伏二人は「大友七代までも怨霊とならん」と罵り腹掻っ切り火中へ飛び込んだ。
こうして一ヶ月に及んだ大友の彦山襲撃で彦山は大きく勢力を失った
しかし彦山はその後も秋月氏さらには龍造寺氏と連携して反大友軍事同盟を結成し戦い続けることになる
さらには秀吉の九州征伐時には島津氏とも連携し豊臣(&大友)勢とも戦うが最後は衆寡敵せず豊臣勢に降った

参考資料:大友記、豊筑乱記、筑前戦国史など

ちなみにこの話は

宗麟公悪逆之事
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9168.html
の別バージョン

焼討を命じたのが義統だったり焼討後も義統に屈さず秋月・龍造寺・島津と連携して戦い続けているところなどが相違点





義統様の科ではない

2015年08月23日 11:16

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 00:03:40.48 ID:olujKR/6
大友家累代の佳名を失ったのは、全くもって義統様の科ではない。

彼の父上である宗麟様は仕合良く、九州の内六ヶ国を旗本に属し、豊後の府内は、大内氏の山口と共に、
西国の都はどちらかと言われるほど繁栄し、御威光浅からぬものであった。

ところが老年に成って切支丹宗になられ、分国残らずかの宗門に引き入れ、神社仏閣を破却し、
寺社領を横領し、仏の画像にて鼻をかみ、あまつさえ尻を拭き、石仏・木仏を雪隠の踏み石とするのを、
彼は手柄とし、氏神先祖の菩提所を崩し、仏壇、社壇の材木で雪隠を作り、先祖の位牌も打ち刻み、
牛や鹿を焼いて食い、悪逆の至り、語り尽くせぬほどである。

まして出陣の時も、吉日・吉方という事を選ばず、その出発に際し、どういう意味があるのか、
彼が崩した氏神の古宮の跡に籤入りを遣わすような所業をした。

そのようであるから、向かう所ごとに負け、ようやく本領の豊後だけは残ったが、これも島津に蹴散らされ、
府内の居城さえ守ることが出来ず、豊前の妙間嶽まで逃げ籠もり、府内の城も焼き払われ、一名危うい時に、
太閤様がご人数を出されたため島津は撤退し、その跡に入れ替わりに入って高名顔をしていた。
そして猶も悪行強く、大友の家が滅ぶべき時極まったのである。

高麗にて、唐人と戦わず、小西摂津守を捨て、聞き逃げをし、黒田甲斐守(長政)の先手伝の城に
ほうほうの体で逃げてきたのを、甲斐守先手、小河伝右衛門、勇士なれば城を堅固に保ち、
小西・大友両家の軍勢を引き受け、様々に働いたため、ようやく太息をつき、それより小河は名を上げ、
大友は日本一の臆病者と御接感情が出され、豊後国を召し上げられ、その家臣であった我も人も、
その時から乞食となり、いまこのように成ってしまったが、これも全くもって義統様の科ではない。
また前世の因果とも言いがたい。何もかも、悪事の根源は、皆これ切支丹宗のせいなのだ。

(古郷物語)

なんもかんも切支丹が悪いんや!という、古郷物語にある大友旧臣の述懐である。




192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 00:11:14.99 ID:PF18INwR
義統様を庇うつもりが無いだろ、コレ

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 01:32:20.39 ID:rQWpT49o
宗麟が酷いのは分かった
小河伝右衛門がすごいのも分かった
あれ?義統様は?

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 01:41:49.72 ID:tuUo6M3j
大友といい龍造寺といい嫡男はどうして暗愚なのか…

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 05:25:23.65 ID:5sHVmbwv
九州にはバカ世継ぎが
生まれやすいんですね

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 06:05:31.98 ID:mgYyhY0x
城焼いたうえに幼子を殺して意気揚々と死地に向かう戸次一族とかもおるしなあ(実際には悲壮だったんだけど、某やる夫のせいでキにしか思えなくなった)

大友義統の降伏

2014年07月08日 19:00

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 20:28:43.34 ID:GvJF/riw
慶長5年(1600)9月13日、豊後国速見郡石垣原で、西軍である大友義統の軍と、東軍の黒田如水の軍とが
戦った石垣原の戦いが起こり、大友軍はこれに打ち負けた。


翌14日、如水は義統の籠もる立石に押し寄せると、軍勢の配当を定め、先陣は母里太兵衛(友信)となった。
この時、義統方は昨日の敗戦により多くが逃亡し、残っている人数は800人ばかとなっていた。
黒田家の家老たちは「この軍勢で速やかに攻め寄せ、大友を討ち果たしましょう。あの有り様に成り果てても、
もし時間を与えては、また難しいことになるでしょう。」と申し上げた

しかし如水はこれを聞くと
「いやいや、合戦は無用である。扱いをかけ、大友を降参させて、生け捕って京都に送るべし。
先年、私が筑紫に下国してきた最初から、義統とは別して良い関係であった。今になって敵になったからと
いって、私の方に恨みがあるわけではない。また、今無勢になったからといって、情けもなく飼い鳥を殺すような
真似はしたくない。

それに、大友がいくら弱いと言っても、討ち果たすほどの戦いをすれば、味方にも損害が出る。
今回の戦争は今度に限ったものではなく、何時まで続くかわからないのだから、何としてでも
手勢を損なわないようにしなければならない。

母里太兵衛、扱いをしてみよ。『今日のうちに和議が整わなければ明日押し寄せ一人残らず打ち取る!』と
義統か田原紹忍(親賢)を強かに脅すべし。脅せば必ず降参の詫び言をするであろう。

昨日討ち取った者達は、大友家では名のある勇士達であった。しかし、かの家で身分高い者達のうち、
紹忍の首だけが見えなかった。彼は日頃臆病の名高き者であるから、紹忍方に申し使わせば、
必ず和睦に同心するであろう。物慣れたる者を使いとして、早く申し遣わすように。」

そう命じたため、太兵衛より使いを遣わした所。案の定紹忍は同心して義統に降参を勧めた。
大友義統も今や叶わぬと思い、使者を母里太兵衛の陣まで遣わし、降参を乞うた。
如水はこれを聞くと「降参のこと、一段と然るべきことです。内府(家康)へは良きように
申し上げますので、きっと罪もご赦免あるでしょう。残された士卒皆々の命は助けます。
ですので早くこちらに出てきてください。」と申し遣わした。

かくて大友義統は剃髪の姿と成って、主従10人ばかりにて、9月15日の早天、密かに母里太兵衛の陣屋へ
降伏した。残党たちは思い思いに落ちて行った。

(黒田家譜)

黒田家譜より、大友義統降伏の模様である。



645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/08(火) 19:52:37.87 ID:sx1Vv9RD
>>644
これは官兵衛のいい話じゃないのか?
黒田家譜にしては現実的な。

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/08(火) 20:02:58.14 ID:c9kq5T7b
田原紹忍ってまだ生きてたんだ
とおもったらこの1ヶ月後戦死か

大学が義統に内通する人物だからこそ

2014年07月01日 18:50

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/01(火) 10:36:57.87 ID:LVsMjkKJ
関ヶ原の役でのこと

前の豊後の国主・大友義統は、大阪にて毛利輝元の下知を受け、旧本国豊後を与えられ、
これにより九州へと向かっていた。

この情報を知った黒田如水は、義統を引き込み味方にするため、家来の宇治勘七という者に、
大神大学という牢人を添えて周防国上関に派遣した。

この大神大学という者は、はじめ大友義統の小姓であったのだが、義統が改易された後牢人となり
中津の町に居住していたのを呼び出して遣わしたのである。
この人選に対し、黒田家の家老たちはこのように申し上げた

「大神大学は義統によしみのある者です。もしかすれば我等を裏切り義統に内通することも考えられます。
ですので彼を使いに遣わすべきではありません。」

これを聞いた如水は

「私は、大学が義統に内通する人物だからこそ遣わすのだ。大学は我が中津の城の案内と
兵の多少を義統に告げるであろう。そうすれば、義統はこの城を攻める謀を思案する。

しかし、私は彼が攻めてくるより先に、こちらから速攻して勝負を決するつもりだ。
然ればどれほどこの城の案内を詳しく伝えても、何の役にも立たない。

私は大学に、今回の合戦の作戦を詳しく言い聞かせ、大友に告げさせる。
その上でこちらは、その裏を用いるのだ。

義統と面会した時、彼がもし大学を留めるようなことが有れば、勘七はそのまま座を下がって良い。
また、勘七は大友の船の数がどれほどか、よく見て参るように。」
そう命じた。

勘七・大学の両人は上関に派遣され大友義統を待ちうけ、如水からの、味方に勧誘する書状を渡し
口上を告げた。義統はその返書に如水の好意を謝し

「この分別は大事の思案ですので即時に決断できるものではありません。ですので豊後に着いてから
こちらから使者を以って委細申し届けるでしょう。」

と答えた。そして勘七が返書を受け取り罷り立とうとした所、案の定義統は大学を留めたのである。
勘七が御前を立ち去った後、義統は大学としばし物語った。一体どんなことを問われたのか、
その内容は知られていない。

(黒田家譜)

黒田如水の策謀についての逸話である。




612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/02(水) 08:21:03.61 ID:Wuhtwmpd
さすが官兵衛、そういえば、今週の大河でも敵城視察シーン的なのがあったな。

「大名に臆病者あり」

2014年06月09日 18:50

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/08(日) 21:31:39.48 ID:z+Y76WGw
太閤秀吉が、加藤左馬介(嘉明)に出した感状に、

「大名に臆病者あり」

という事を書いたものがある、これは、豊後に大友という大名があるが、その大友の事であるということだ。

(老人雑話)

義統の事がよっぽど悪印象だったのでしょうね…





吉弘嘉兵衛尉統幸の事

2014年02月28日 18:50

592 名前:1/2[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 20:14:49.01 ID:l7Nk7iCb
吉弘嘉兵衛尉統幸の先祖は大友の一族であり、代々先手の侍頭であった。
祖父も父も、みな吉弘嘉兵衛尉と名乗った。祖父は日向にて討ち死にし、父は後に宗甚と号し、
彼は高橋紹運の兄であり、すなわち吉弘統幸は紹運の甥である。
立花左近将監統虎(宗茂)は紹運の子であるので、立花宗茂吉弘統幸は父方のいとこである。

先年、豊臣秀吉によって大友義統が豊後を召し上げられた時、吉弘統幸も浪人したのだが、
黒田如水が彼を豊前に招き、重臣である井上九郎右衛門に預け置き、しばらく井上の領地に逗留していた。

その後立花宗茂の招きによって、筑後の柳川へ行き、浪人の間の扶持として知行二千石を与えられ、
数年居住していたのである。
この時、大友義統の嫡男である義乗は徳川家康の預りとなり、江戸の牛込という所に居住していた。

このような中、石田三成の挙兵が起こると、これを聞いた吉弘統幸は世の中の流れを考え、
「今回の事態は家康公のご理運となる事必定であろう。幸いにも義乗公は関東におられる。
これより関東に行って義乗公を盛り立て、大友の家の再興を果たそう。」と思い、立花宗茂
暇を乞うた。

宗茂は吉弘の話を聞くと、「その方の志、尤もな事である。」と暇を遣わし、その上道中の路銀として
黄金をいくらか与えた。吉弘はこれに感じ入り、申し上げた

「私は数年の間あなたに扶養して頂いたというのに、その御恩を報ぜず、只今御暇を乞い申した事は、
不義の至であり、本意にも背くことであるというのに、御暇を頂き、その上金子まで、このように多く
下されました。誠にこのお恵みは、忘れがたい事です。
これは我が先祖より伝わる刀でありますが、今度上方において、私もどのように成り果てるかわかりません。
ですのでこれを、形見としてお受取り下さい。」

そう言って忠光の太刀を差し出すと、宗茂は涙を流して

「そなたが義乗を盛りたてるため関東に参られることに、私も感じ入ったのだ。
私もその方のことを、左右の手のように、頼もしく思っていたのだが、義によりては命をも惜しまれぬ
事であるのだから、ここに留めたいとは思うけれども、力及ばぬことである。
また、その方の家に伝わる太刀を形見に賜るのは、感悦なる事である。ここにある私の脇差しも、
私が常に、身から外さず帯びているものであるが、これを、私の形見として受け取って欲しい。」

そう言って腰にさした脇差しを抜いて吉弘に与えた。吉弘はこれを受け取り、しばらくは顔も上げられず
泣いていたが、やがて暇乞し、関東に向けて出立した。

593 名前:2/2[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 20:15:39.16 ID:l7Nk7iCb
吉弘が大阪に到着すると、その時丁度、大友義統が差し置かれていた毛利氏の元から泉州堺に
上がって来ていることを聞き、急ぎ堺に行って義統と対面した。義統は

「いかに嘉兵衛尉、久しく相見なかったな。今度毛利輝元、増田長盛より承った事には、
秀頼公より本領である豊後を下され、その上当座の合力として、具足百領、馬百頭、鑓百本、
鉄砲三百挺、銀三千枚を賜り、急ぎ豊後に下り、九州を鎮めよということである。
私のやることは決まった!お前も良い時にやって来た、我が伴をせよ!」

吉弘はこれを聞くと、こう申し上げた
「いやいや、そんな事をすれば殿のお立場をいよいよ悪くし、ただ御運を尽き果てさせてしまうでしょう。」
これには義統も、側に居た木部元琢、竹田津一卜もこれを聞いて興ざめた様子であった。義統は、
「ならば、汝はどう思うのか?」と聞くと

「必ず、天下は内府(家康)の御手に入ることとなるでしょう。此の度の乱は、石田治部少輔の天下を望む
謀計より起こった事です。逆謀に加担して、一旦利運が来たとしても、悪名は末代まで残り、浅ましいことです。
その上これは、御身も御名も共に失ってしまいます。特に、義乗様は内府に属して、江戸に居られるのですから、
御子と共に、内府の味方をする事こそ然るべきと考えます。
これは大事のご分別です。どうか、能くご思案し、御後悔の無いようにお謀りになってください。
私は義乗様を盛りたてるため、立花宗茂に暇を乞うて、関東に参ります。殿も御暇を乞われるべきです!」

しかし義統は同心せず、吉弘は再三諌めたのだが承知無く、義統は豊後に下ろうと、その翌朝大阪へ行き、
そこから船で傳法という所まで出た。吉弘統幸は宿舎に帰ったが、そこで考えたことには、
『今、滅亡に極まった目の前の主君を捨てて、世に出ることになるであろう関東の義乗様のもとに参るというのは、
不義の事である。さて、もはや私の運命も尽き果てたようだ。ならば今、義統様の供をして豊後へ下り、
本国の土に成ろうではないか。』
そう決心し、大阪から船に乗って傳法に追い付くと、義統は大変に喜んだ。

その後、上関で黒田如水の使者が来て、如水からの異見状を吉弘も見て、色々と諫言したが、
やはり同心してはもらえなかった。豊後に下った後は、吉弘は宗像掃部と言い合わせ、快く討ち死にしようと
決心したが、黒田如水との決戦である石垣原の合戦に赴く時、大友義統の前に出てこう申し上げた

「今回の合戦にたとえ打ち勝ったとしても、畢竟、殿のご理運にはならないでしょう。
私はこの度、討ち死にすると決心いたしましたので、一生のご対面は、只今ばかりとお考えになってください。」
そう言うと、涙を流しながら立ち去った。そしてかねてからの言葉に違わず、終に戦死を遂げた事こそ
哀れであった。

吉弘統幸の旧恩を慕って馳集まった士卒も多かったが、彼らも一歩も引かずに討ち死にした。
吉弘のことは言うに及ばず、その家人まで、あわれ惜しき士共なりと、敵も味方も感じないものは居なかった。

その後、小石垣村と南石垣村の間、大家の西の傍らに、吉弘統幸の墓が築かれ、石碑を立て、その姓名を記した。
吉弘統幸は義あり勇あり、名高き士であったため、志ある武士はそこを通る時、必ず馬から降りて礼をなした。
彼が大剛の武士であったので近隣の民は、瘧を患った時はこの墓に祈れば必ず回復すると言い伝えた。

(黒田家譜)

黒田家譜より、吉弘統幸についての記録である。





594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 21:37:51.60 ID:feHyZ+X7
義統ぇ・・・

こんな兵力で九州制圧出来るはずないだろ
どう見ても時間稼ぎの捨石

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 23:48:52.64 ID:InhCTw8n
日向の時もそうだけど大友は下が義に厚いのに上がダメなんだよなあ

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/28(金) 03:10:32.56 ID:hrqRFxMJ
この人と上杉憲政は沢山の貴重な資料を後世まで残してくれた偉人なので大好きです

黒田如水・出陣演説

2014年02月19日 19:00

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/19(水) 12:49:11.70 ID:EyfveLt7
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦役が進行する中。九州では黒田如水大友義統との戦い、すなわち
石垣原の戦いを直前に控えていた。

ここで如水は、士卒に言い聞かせることがあると、軍勢9千あまりを広野にみな留め置き、
そこで大声で語りかけた

「今度上方において治部少輔(石田三成)が乱を起こし、内府公(徳川家康)を敵としたという事が
聞こえてきた。

治部少輔は、天性知恵なき臆病者である!その上総大将も居ない寄り合いの軍勢であるから、
諸大将は下知を受けず、諸人一致せず、彼らは必ず敗軍するであろう!

殊に、内府公は古今無双の良将であり、その下に属する味方も、みな優れたる武将、勇士が多く、
心も一同して内府公の御下知に従うのであるから、必ず、味方の勝利疑いなきこと、この手に既に
握ったかのように思われる!

これにより、それがしは今回内府公に一味して、九州を平らげんと思う故に、先に豊後に出兵し、
かの国にある敵どもを討ち従えた後、残る国々を治めるつもりである。
豊後の城はその大半が留守であり、これを接収するのはいと容易きことである。

そんな中、大友義統がかつて本国であった豊後を賜り、こちらに下ったとの情報が聞こえてきた。
太閤殿下の時代、私は大友の取次をした関係があったので、今回治部少輔に与することをやめさせ、
降参させるため、上関まで使いを遣わしたのであるが、これに同心しなかった。まったく痴愚の至り
であり、もうどうしようもない!まず、彼を退治するための出陣する!

義統は先年、朝鮮において大明人が来るという情報を聞き、敵をも見ずに逃げ退いたような
臆病者である!それゆえに豊後国を召し上げられ、毛利に預けられ、居るのかいないのか解らないような
状態で居たが、今回豊後に下り、私に対して挙兵するとは、実に片腹痛きことである。

今回出陣する士卒たちよ、良く心得よ!義統は大臆病者である!その下にある家人どもも、類を以って
集まり、上を学ぶ下であるのだから、皆臆病者と心得よ!大友の人数が例え何万騎あったとしても、
今度の合戦は百に一つも負けることはない!相手を強敵だと思って躊躇してはならない!

よいか!わたしは九州を片端から平らげようと思っているのだ!だから、合戦は今回に限ったものではない!
鑓、薙刀、刀、脇差しの刃をたしなんで、大事の時の用にたてよ!大友の兵たちは、武器を無駄に
破損させないよう、生け捕りにするか、峰打ちにして打ち倒してやれ!

総じて鷹を使う時、それが逸物であっても、最初から鶴を取らせるようなことはしない。先ず
鷺からはじめて、その後、鶴を取れるようにしていくのだ。
それと同じことである。大友の人数は鷺だ!若き者共もよくこれを捕らえ、諸士にも手柄を
させるであろう!相手は弱敵なのだから、棒で雪を撫でるように何の造作もなく一時に打ち払うであろう。

そして、大友義統を捕虜にせよ!彼を生け捕ったものには、直参や譜代に限らない、例え下人であっても
褒美として領地千石を与える!おのおの、随分精を出して手柄をいたせ!その功により、一層の
恩賞を与えるであろう。

九州には手強い敵は居ない!豊後を打ち従えてしまえば、九州を治めること、その勢いに乗じて実に簡単に
成せるであろう。さあ、はや打ち立て!!」

これを聞いた者達は、いすれも心の勇みが強くなり、たった今からでも敵を手の中で取り拉ぐように
思ったという。
(黒田家譜)

黒田如水、石垣原の戦い直前の、出陣演説である。




403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/19(水) 19:12:17.51 ID:bvc/8DBl
内心治部GJ!ぐらい思ってるんじゃないのかw

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/19(水) 20:09:33.52 ID:pFw0VTHk
まだ吉統登場してないのに既に罵倒が始まっている件

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/19(水) 21:02:54.68 ID:VIWRN4+1
「ゲェ!立花宗茂!」にならなくて良かったな。

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/19(水) 21:21:08.91 ID:/rYhpsZn
安定の吉統ディスり。黒田家譜はぶれない

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/19(水) 22:10:09.50 ID:UIPUBk/8
自分がやった悪事も全部大友がやった事にしとけばOKだ。

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/19(水) 22:41:16.18 ID:jVvDkbWD
知恵なき臆病者か。
つまりこの戦いは知恵と勇気で決まると。

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/20(木) 01:10:47.25 ID:wZinM8o6
>>403
治部頑張れ、勝たなくていいから粘れくらいじゃないかなw

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/20(木) 06:40:34.44 ID:cbil7jZC
仮に長期化したら天下取りの予定だったからな
関ヶ原が100日続けば第三勢力として挙兵し漁夫の利を得る算段だった、そう聞かされた際の長政の顔をご想像下さい

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/20(木) 14:37:29.89 ID:7vkze9SN
まーくんといい酒が飲めそうだなクロカン


小西行長、平壤からの撤退の模様

2013年12月24日 18:55

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/24(火) 15:06:35.56 ID:jofXKJj4
朝鮮の役の事

小西行長が籠った平壤城の外2里ばかりに、牡丹台という出城があり、ここにも小西は兵を籠めていたのだが、
唐人にこれを奪い取られ、平壤の本城ばかりとなってしまった。

大明の大勢がこれを取り囲んだ。大砲を多く放ち、その音は山岳に響き、異国の路程で数十里にわたって聞こえた。
また火矢を隙間もなく打ち掛け、その煙は天を覆い、火矢は城中に入って所々焼失したため、敵勢はその勢いに乗り
大勢が城に向かって攻め上がった。

城中からも矢狭間より鉄砲を激しく撃ちかけ、剣乾を連ねて防いだが、敵は激しく攻め戦ったため、敵味方に
討たれた者多かった。城中は既に危うい状態に見えたため、敵将の李如松の謀により、後ろの囲いを解いて、
逃げ道を開けて攻めた。これは城中の兵が必死になって戦えば、大明人に多くの被害が出ると考え、このように
したのである。

小西は勇猛であり、よく防戦したのだが、大敵に攻められ、城中の兵多く討たれ、初めは1万5千の兵で籠城
していたのだが、今では残兵わずか5千人を過ぎないばかりであった。
「この少勢で20万の大軍を防ぐことは出来ない。こうなっては明日には必ずこの城は攻め落とされるであろう。
ここで止む無く敵に討たれるよりは、一旦落ち延びて、後陣の味方と一緒になって防ぎ戦おう!
14里後方に大友(義統)の城がある。そこまで引き退いて、大友勢と一つになって籠城すれば、暫くは敵を防ぐ
事もたやすいことだ!」
そう兵たちに伝え、敵の囲んでいない方向から、正月8日の夜半に、密かに城を出た。前後に鉄砲・騎馬の兵を
立て、中に小荷駄・陣夫を包み、引き固まって退いた。

明朝卯の刻(午前6時頃)、大明の兵は平壤の城に攻め入ったが、一人の兵もなく、皆撤退した空き城であった。
このため、急ぎ撤退中の敵を追うべしと、手分けをして追手をかけたが、時刻が隔たっていたため追いつくことは
出来なかった。引き遅れた雑兵が少々あった程度で、戦闘には至らなかった。

小西が大友の城まで引き退き城中に入った。ところがそこでは、大友勢は既に一人残らず撤退した後で、小西勢は
皆力を落とした。これまでの戦いで士卒の力も尽き、まともな道も通らなかったため、ここで暫く休息を取ったが、
この城にあまり長く留まっては、敵に追いつかれると思い、また夜中に城を出、終夜撤退した。

ようやく夜が明けると、先の山中に中白の旗が見えた。それは黒田長政の家臣・小河傳右衛門の籠もる龍泉の城
であった。

小西行長はこれを見て、黒田は未だ撤退していないことを知り大いに悦び、諸卒に向かって言った
「さても軟弱なる大友かな!日本一の大剛の大将は黒田である!もはや黒田が城近し。一同賑わえ兵ども!」
これに士卒皆力を得て悦んだ。
(黒田家譜)

この小河傳右衛門の救援に寄って小西軍は明の追撃舞台を撃退し、撤収に成功する。
小西行長の、平壤からの撤退の模様である。




101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/24(火) 16:10:31.67 ID:zbFvnxAt
こないだ小西をこき下ろしたばかりなのに、今回は小西を持ち上げて黒田ageさせるとは…
さすが黒田家譜はブレない

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/24(火) 21:07:27.45 ID:R3dz8tgk
黒田家譜は登場人物が如水と噛ませ犬しかいない1ビット構造だから

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/24(火) 21:48:55.47 ID:CLsMyCiE
そして安定の大友吉統sage
輝元、三成とならぶ黒田家譜御用達の噛ませ犬がまた登板

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/24(火) 23:30:51.26 ID:PEnnqzNe
大友って改易される程やらかしたか?

仙石みたいに領国まで逃げ帰ったのか?w

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 00:29:19.82 ID:hKuDfixh
>>104
味方の無事を確認せずに拠点を放棄して撤退だから、同じくらいやらかしていると思う。

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 02:38:53.44 ID:r0eBolej
噛ませも何も義統ちゃんだからなあ
自ら意志薄弱で優柔不断とか言っちゃうくらいみたいだし
ただ朝鮮出兵での処罰などは政治的意図と秀吉の勘気が絡んでくるから何ともね

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 07:38:12.22 ID:pW4X5Oew
まるで社会に適応できないお前らみたいだなw
引きこもって酒浸りとか

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 07:51:20.97 ID:tiqlmTBX
>>102
でも隆景はageるばかりでsageはしないんだよな

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 11:29:41.55 ID:Jmsm6NZG
>>107
市松「夜まで飲もうか」

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 15:29:19.65 ID:mxnu+bBb
一条さん「女子もほしいぞな」

大友家改易後の吉統の家族

2013年11月16日 19:12

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 01:35:50.92 ID:b+Wwfrhp
1593年に大友家が改易された後、宗麟の後妻であるジュリアや、
吉統の妻子らは豊後の屋敷を追い出され、放浪生活をすることになった。
そんな時に柳川の領主の立花宗茂は、宗麟の強力な味方で忠実な友人で
あったため、彼女らを領地に招き保護したという。(イエスズ会年報)

しかし、吉統の妻で宗茂の叔母である菊姫が1594年に病死し、
その息子である男也(おとや)も96年に疱瘡で死亡すると、
ジュリアは残った孫達を連れてキリシタンの多い長崎へと旅立ち、
浦上渕村の庄屋となっていた元大友家臣の志賀親成の屋敷に迎えられた。
その地で吉統の娘である阿西(おにし)御前は桑の栽培や養蚕、機織の
技術・行儀作法を近隣の住民に教えたため桑姫と呼ばれて尊敬され、
1627年に彼女が病死するとその徳を讃えられ社に祀られたという。
(桑姫社由来等)

ソースがばらばらだけど、大友家改易後の吉統の家族についての話




633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 08:52:44.53 ID:QxHBvC8M
機織りはともかく桑の栽培・養蚕まで出来るとは出来る姫だなあ

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 15:32:27.70 ID:fqT3bCcl
養蚕は皇室でも昔からやってたけどね

大友義統、天正18年3月願文

2013年10月17日 12:46

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/16(水) 21:08:09.33 ID:KfPVblTs
これは中々強烈だな

> 134 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/10/16(水) 21:04:52.34 ID:yIg5aA8n
> 豊後の大友吉統が天正18年3月に柞原八幡宮(豊後)に願文を捧げてるんだけど
> その内容がかなり衝撃的だったので書いとく
>
> 「近年、豊前国に居住した官兵衛は 悪 逆 非 道 の人 である。
> 神明に背き、人心を妨げ、ほしいままに振舞っている。吉統はかねて諌める
> 気持ちがまったくなかったわけではないが、官兵衛の豊前での非道は歴然としている」
> とあって、続いてあいつが豊後に攻めてくる疑いがある。
> もし祈願成就(官兵衛を討つこと)したなら宇佐郡一円を神領として
> 寄進すると記している(柞原八幡宮文書)らしい
>
> 豊前で大友家を怒らせるような何か悪行を官兵衛がしたらしいんだけど
> 真正面から「悪逆非道」と書かれて本気で死ねばいいと祈願されているのは
> ちょっとすごい




495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/16(水) 23:18:51.76 ID:/eOjdWPc
多分、自分を敬わなかったとかそういう所じゃないすかねぇ
真面目に考えると、キリスト教関連か、時期的に小田原征伐関連?

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/16(水) 23:22:11.34 ID:uDTiWdCC
天正18年頃だと国人の弾圧じゃね?

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/16(水) 23:24:15.98 ID:6DazsPrl
>>494
キリスト教嫌いなのに、官兵衛の勧めでキリスト教の洗礼受けたら
秀吉が禁教令だして面倒なことになったのと、
官兵衛に謀殺された城井鎮房と縁戚関係だったからかな

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/16(水) 23:30:30.25 ID:PIiyUuFj
来年の大河で吉統が官兵衛のライバルとしていろいろ暗躍
するわけないか、情けないネタばかりだし
(耳川、内紛、戸次川、朝鮮で友軍助けず改易、石垣原、流罪)

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/16(水) 23:41:27.18 ID:6DazsPrl
黒田家譜にも載ってる吉統を見捨てられない
吉弘統幸の苦労はやって欲しいな

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/16(水) 23:48:23.99 ID:8bdtkuG3
\_______________________/
           ・・・と、思う吉統であった

           ,--、、,,,,,,,,,,,,,,,,
             {::::::::}三三三ミミミ`、、
            >ー-"'" ⌒,,ィシヽミミiミミ 、
         /     三彡彡彡ィ`、ミミミ`、
        /      シ彡彡彡彡ノ'ヽミミミ`、
        ,'        ,三彡彡彡彡彡ソ,ー--'
          l    _ _ """'彡彡彡彡彡ノi
       {;、 ';;;='''"""`  彡彡彡 - 、ノノi
          kr) .ィェー   彡彡' r、ヽ}彡i
        レ'  ..      シ彡' )ァ' /彡'
       {_,,,、 ;、      シ彡 ニンミミ{
        l         '''"::.   彡ミi
         ! ̄"`     ...:::::::: ノ""{
        l    .......:::::::::  /   \_
        `''ー- 、::::    /     /

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/17(木) 01:52:05.81 ID:nqn8GGwM
おそらく既得権益解体時のいざこざだろうな

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/17(木) 14:51:40.56 ID:vo/UBaTz
ふつうに黒田による城井一族謀殺の件での遺恨ではないかと
吉統の叔母(大友義鎮の妹)が城井鎮房の正室だから
大友家にとって城井は家臣で一門。叔母ともども騙し討ちにあってるわけで
大友家からすれば官兵衛の所業が「悪逆非道」に映っても別に不思議ではない

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/17(木) 18:36:59.07 ID:uBxFXaK2
磔にされた城井家の鶴姫とは従兄妹同士か

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/17(木) 22:15:14.44 ID:AVdTTAxR
豊前取られたのが悔しかっただけでは

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/17(木) 22:47:38.72 ID:Nih+ZW4X
経緯を普通に考えれば、義統がかんべー恨むのは当然なのに
「なんの逆恨みか知らんが願掛けで呪うとか相変わらず器の小さい奴だなあ」
ってフィルターがかかってしまうのは間違いなくこのスレのせいだな。

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/17(木) 23:28:57.38 ID:dfCilp8k
まぁ黒田関係の逸話はこのスレっていうか黒田家譜のフィルターが
大いにかかって美化されてるのは事実
江戸期に近世大名として残れなかった大友とかはその点不利ではある
同じ豊前を分けあった小倉6万石の毛利吉成(勝永の親父)と黒田孝高も
豊前入国後、城井氏の処遇をめぐってお互い嫌いあって険悪な仲になってる
毛利吉成はむしろ当初の所領安堵の約束を反故にされた城井に同情して
自分の領地の一部を鎮房に与えて、秀吉との間を仲介しようとしてたりする
逆に黒田家からしたらようやく手にした豊前の自分の所領が下手すると
どうなるかわからないわけで
案外、黒田孝高を嫌いな大名って多い気がする

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 02:43:25.94 ID:0hdfZqT/
戦国時代なんて、「自分以外は全員敵」くらいに思っていてやっと生き残れるような時代だろ。
そんな時代に隣あった大名同士の仲がいいなんてあんまりないんじゃないの?

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 06:49:34.81 ID:ZfsiqCJa
自分以外全員敵なんて事になったらあっという間に滅亡しちゃうよ

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 07:19:15.71 ID:2TpUc4PQ
政宗「」

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 09:41:57.47 ID:0I1EC4aM
>>509
そいつはいざとなったらママンが助けてくれるだろ

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 10:33:37.53 ID:kGAFFxhF
>>508
越前のヒャッハーの人ですね?

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 11:42:11.78 ID:ygfcrso0
>>506
関ヶ原時の国替えの時に年貢を持って行って細川とも一触即発な感じだったけど、
あれはNGMSの仕業だったっけ?
どちらにせよ黒田家にはあまりスマートなイメージは無いな。

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 11:47:17.67 ID:Y9el8FYG
鍋島とも揉めてるし、なんか黒田の施政ってねえ

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 14:09:46.03 ID:si0X43mw
隣の岡山の義理3があまりにデンジャラス過ぎて大して悪くないと思われてるんだろうなw

吉弘加兵衛尉のご利益

2013年08月14日 19:54

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/13(火) 19:39:14.86 ID:y6xeEluy
豊後国石垣原の合戦の時、大友修理大夫の味方、筧の城主・吉弘加兵衛尉という侍が、黒田如水入道の備へ物見に向かったが、
如水の郎党・井上九郎左衛門と渡り合うことになり、討死を遂げてしまった。

里人は後に、石垣原の近所の別府という所の浜に石塔を立て、吉弘加兵衛尉と書き付けて安置した。
加兵衛尉は名高い武士であったので、心ある侍はこの石塔を拝しながら通ったという。

一方、近所の人たちは、瘧で震えが止まらなくなると塩垢離をとり(海水で身を清め)、洗米やお神酒などを供えて、石塔を拝した。
すると、瘧はたちまちのうちに治ったそうだ。

後に、加兵衛尉の子どもがこの話を聞いて別府に行った。
そして、父の石塔に向かって語りかけたのである。
「父上!手向けられた洗米や神酒のせいで、墓所がめちゃくちゃ見苦しいことになっているではありませんか!
今後は、手向けなど取らず、塩垢離のみで本復させるようになさってください!
さもなくば、瘧を治すようなことなど、一切お止めになってください!」

それ以降も瘧治しの御利益は続いたが、息子の言葉通り、塩垢離をとるだけで治るようになったという。
(播陽諸所古今物語)





伊東家、豊後から退転

2013年06月17日 19:56

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 11:49:57.62 ID:VrAJmhBe
大友の諸勢が日向高城において敗北した為、大友を頼っていた入道殿(伊東
義祐)や祐兵は心苦しく思っていた頃、祐兵の室家(妻)が野津から御母堂の
旅館を訪ねて逗留していた。

彼女は容顔美麗であったので大友家は密かに祐兵を殺害しこれを奪おうと
謀っているとにわかに密告するものがあった。

そこで入道殿と祐兵に対し「急ぎ豊後から立ち退きましょうと」と家臣達が
諌めたが「武の家に生まれたものが、命を惜しんで妻女を奪わせる事が
できようか」と承引されなかった。

これによりも室家も救出して皆でともに脱出しようと河崎駿河守(祐長)ら
が密かに談じ、母堂の女中新大夫は頼りになるものであるから、これに
計らわせようと告知した。

城中の旅宿は警備も厳しくそのまま忍び出ることは困難であったが、新大夫
は寝殿の庭内に塵出しの隙間を見つけ「あそこから脱出させましょう。夜に
紛れてお迎えにきてください」と注進した。

これにより計画を定め、三位入道殿や祐兵は密かに旅館を逃げ出して室家の
脱出を待ち構えていた。

室家のお迎えには河崎駿河守に物馴れた侍を二名差し添えて、かの塵出しの
外で待ち構えていたところ、計画通り塵出しの隙間から脱出なされた。

駿河守は室家にお供して入道殿、祐兵が待っている場所へとたどり着いた。
両主は喜ばれ、皆で船に乗って伊予国へと赴いた。

(日向記)

伊東家が豊後から退転する模様である




878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 13:09:43.41 ID:G40qEFIS
そーりん自重しないなw

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 13:16:24.63 ID:VrAJmhBe
「大友家」とあるので宗麟かどうかは不明です。義統の可能性も十分です。
何より豊後退転をとりつくろうための創作の可能性も否定できないですし。

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 13:17:08.65 ID:aOSoVu2J
女が絡む時の宗麟は息子並にぼんくら

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 13:18:20.59 ID:aOSoVu2J
>>879
逆に考えると大友某に女を奪おうとされた!と言えば世間に納得してもらえるということでもあるw

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 13:39:51.07 ID:VrAJmhBe
>>881
は・・・反論の余地が無いw

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 15:19:00.41 ID:fisDmLvD
大友家危険度チェック

・妻女は見目麗しい
・評判の茶器を持っている
・仏に深く帰依している
・武士として八幡大菩薩は尊重している
・気分次第で沙汰が変わるのには我慢できない性質だ

1つでも該当した場合身の振り方の再考をお勧めします。
特に上2つ。

全部該当した場合大至急退転してください。
貴方とご家族の命と操が今まさに危険にさらされています。

神々の争い

2012年09月08日 20:30

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/08(土) 05:18:47.30 ID:XGjCSYo5
神々の争い

 武士に戦神と崇められている八幡神を祭る宇佐八幡宮。
 その由来は謎な部分が多いが元はどうも渡来系の鍛冶の神らしく、弓削道鏡の野望を砕いた
宇佐八幡神託事件など朝廷の庇護も厚く、九州最大の荘園領主として君臨していた。
 という訳で、八幡神は天津神として扱われる事が多い。
 また、宇佐八幡は神仏混合政策を主導していた事もあって弥勒寺という寺を抱え、国東半島は
六郷満山という仏教の拠点にもなった。
 さて、今度は国津神である。
 豊後の国の南部、祖母山を中心とした山岳信仰から、とある一族が豊後国に台頭する。
 大神氏。
 この一族、その祖が蛇神という血統を有していた彼らは豊後南部に根を張り、土地は貧しいが
港に適した地形から海上交易によって富を築き勢力を拡大していた。
 そして、彼らが持つ水軍は平家台頭の時代の流れに乗り、源平以前から九州最大の荘園領主であった
宇佐八幡と必然的に利害が衝突する。
 大神氏の子孫である緒方惟義は平家を見限り源氏につき、平家が避難していた宇佐八幡宮を焼き討ち。
 だが、平家が壇ノ浦にて滅んだ後の源頼朝と源義経の対立に巻き込まれた大神氏は義経側について失脚。
 時代は下がり、豊後に下向してきた大友氏はこの神々の争いを徹底的に利用し、
宇佐八幡信仰を利用して地元国人衆であった大神系国人衆を粛清してゆく。
 ただ、宇佐八幡は豊前にあり豊後とは隣とはいえ国が違うために、その八幡信仰を担ったのは
国東半島にある奈多八幡宮である。
 この争いは戦国時代になるまで続けられてゆく。
 大友家が合戦や血縁政策にて大神系国人衆を取り込めば、大神系国人衆はやばくなったら船を使って
伊予に逃げ出しほとぼりが冷めたら豊後に帰還する始末。
 その戦いの決着は全てを否定するこの男の信じる神によってもたらされた。

 大友宗麟『主の為に』

 大神系国人衆は小原鑑元の乱を最後に無力化されるが、宇佐八幡をはじめとする旧態依然として
既得権益の塊だった寺社勢力全てをキリスト教信仰によって大友宗麟は敵に回した。
 
 1561年 宇佐八幡宮焼き討ち

 こうして神の国を作ろうとした男の夢は耳川合戦の大敗にて散り、大友家もその息子義統の代に
朝鮮出兵の不手際にて滅ぶ。
 その不手際の一説に名前があがったのがキリシタンだった志賀親次というのは何の因果だろうか。

 天津・国津・仏教にキリスト教、豊後にはこのような神々が流れた残滓が残り、20世紀その後豊後こと
大分県は国東半島を中心に仏の里をキャッチフレーズに観光資源としてPR。
 最後まで残ったのは仏教だったという神々の争いとその顛末の話。




372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/08(土) 06:07:11.81 ID:aRY9MqBK
確かに信長っぽい
最終的にキリスト教に取り込まれてしまったが

雑談・大友義統絡みの逸話は後味の悪いのばかり

2012年08月31日 20:50

218 名前:名無しさん@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 22:37:06.50 ID:RIu1izbP
それにしても大友義統絡みの逸話は悪久とは違った意味で後味の悪いのばかりだな。
元はと言えば自身に原因がある、みたいなのばっかり。
これでもノブヤボ烈風伝の時は政治力が53なんだよな。
氏真や勝頼・クマーより高いなんてありえん……

219 名前:名無しさん@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 23:05:55.43 ID:qjBhSU8G
外交力だけはなぜか優秀な大友宗麟

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 23:08:53.81 ID:WbfbgHdm
宗麟はガチで優秀と思うけどね
その優秀さが霞むくらいダメ人間だけど

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 09:58:56.39 ID:vfSZnF2p
能力とそれを載せてる器の兼ね合いって難しいよね・・・

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 12:07:19.20 ID:2dSpdj6y
宗麟は優秀な重臣が死ぬまでは優秀さと愚かさが混在してたが・・・

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 12:21:36.78 ID:Q83zoGAC
優秀な分ちょっとずれると一気にものすごい所まで行くんだろうなあ

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 15:17:01.72 ID:zoGj/3B2
優秀なDQNほど始末が悪いもんはねえ。悪久とかまーくんとか

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 15:58:24.88 ID:mQclrRyc
秀吉「ほんと優秀で権力持ったDQNはたちわるいね!」

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 16:55:22.98 ID:zoGj/3B2
ラスボス止めることできるのっておかんか秀長ぐらいだしな・・・

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 23:50:33.63 ID:aFOMRCOA
>>219
宗麟は戦術家としては凡庸だが、戦略家・謀略家としては一流だぞ。
筑前を巡る争いでは、戦術面で負けても、朝廷工作や幕府工作。更には
大内残党や尼子を利用することで、最終的には北九州領有を確定させたし、
島津に大敗した後も、織田・豊臣を利用して、可能な限り退勢を押し止めている。
豊前の田原本家の謀反を鎮圧した時も手際がいいし。
ただし、むら気があるのが致命的ではあったが。

『豊後三老がいた時は・・・』と言われるのは、宗麟のこうしたむら気をよく抑え、
前線指揮官として、宗麟の戦術能力を補ったが故なんだろうなあ。

道雪とはなんと、武士冥加の強い侍なのだろうか

2012年08月18日 20:51

114 名前:1/2[sage] 投稿日:2012/08/17(金) 19:18:05.85 ID:BGjsCREX
戸次道雪が立花城に移って以来、方々での働きにおいて手柄忠節の多さにより、豊後の大友家より
感悦の使者が送られた。しかし筑後路も敵領であり、通路がないので、豊前より船で海路をもって
遣わされた。

さて使いより道雪には、第一の褒美として旗竿を遣わすとの旨が伝えられた。これはとりわけ道雪のため、
吉日を選びこの使者が帰国して報告を次第、船にて送り遣わすとの事であった。
道雪はこれを承り悦び申すこと限りなく

「さて旗竿の事、家の面目、一代の名誉、老後の本望、いったい何事がこれに匹敵するでしょうか。
出来る事なら御本国へ伺候して頂戴したいのですが、方々の敵が隙を伺っている状況です。
そこで、幸いにもご舎弟の田原殿(大友義統の弟・大友親家)が、御代官として筑後黒木城に
御座なされております。ですので旗竿を黒木まで届けて頂ければ、この老体が彼の地まで罷り越し、
田原殿の御前において頂戴仕ります。私は大きすぎる冥加は恐ろしいと考えています。御使者によって
ここに直接に送られるのはどうか御免なされるようにお願いいたします。」

この様にたって申し上げた。
使者が豊後府内に帰ってこの旨を伝えると、大友義統の周りは困惑した。

「道雪が恐縮するのはともかく、立花城から黒木城まで行くのに、筑後までの七里余りは大敵秋月の領分であり、
特に城下一里余りの所を通り、また筑後の問註所氏(一族の一部が寝返っていた)の領内を四里ばかり、
これも城下半里ほどの場所を通ると牛島という巨大な坂があり、これはいかなる鬼神でも通れないような
場所である。

道雪め、自分の手柄の程を人に知らせんがため、広量な御請を申し上げたのだろう。
そんなふうに言ってもどうせ、まさか黒木に送るとは思っていないだろう。」

その様に言って、再び使者を添えて、船にて立花城に直接送った。
この時の道雪への批判は、府内にも多くの道雪贔屓の人々が居たので、彼らから道雪へと伝えられた。


115 名前:2/2[sage] 投稿日:2012/08/17(金) 19:18:40.73 ID:BGjsCREX
さて、立花城にて道雪は旗竿を受け取り、その祝宴も終わり使者が船で帰っていったその翌夜半、
道雪は立花城の館を出て、翌日は高橋紹運の領地である三笠郡に逗留、下々の足を休めると、また
夜半に打ち立ち、秋月領である長者町と言う所で夜が明けた。そこかた甘木という町を通り筑後川を越えた。
甘木は秋月城から一里半ばかりの場所であったが、秋月城からこの道雪の一行に向かって
軍勢が駆けつけることはなかった。これは、その頃侍たちは何れも知行地に召し置かれており、
普段は百姓をやっており、軍陣やその他、人の要る時だけ呼び出し召し使うという時代であった。

そのため道雪の一行の直接に見、あるいは聞きつけた者たちだけが在々より集まり、「道雪は
少人数で通るのなら、これを討ち取るべし!」と前後から攻めてきた。

さて道雪はあらかじめ「大勢を引き連れていくのはかえって良くない」と、精鋭を300人ほど、
何れも徒歩にて召し連れ、きっと手負いも出るだろうと馬も少々引き連れ、自身は例の手輿に乗り
先手と手廻りの二手に分け、先を塞ぐ者たちは先手が追い払い、後ろからくる敵には自身がとって返し
蹴散らし、道雪に向かって来るもの達は打ち捨てにした。

この様にして秋月領内を難なく通りぬけ、筑後に入り問註所の城下半里ばかりの所を踏みつけ通り、牛島という
大坂を越えて、何事も無く黒木までたどり着いた。即座に大友親家に面談し、

「御旗竿をお預け頂き、これによる家の面目、弓箭を取るほどの者ならば皆望む程のものです。
老後の本望を遂げ、忝く存じ奉ります。
本来ならば御国元に参上して御礼申し上げるべきなのでしょうが、それがしが今他へ行ってしまえば
方々の敵たちが力を得てしまうと考え、ここまで罷り越しました。
貴方様は御屋形様の御代官であり、特に御兄弟でありますから、御屋形様を拝み奉るのと同じ事です。」

この様に御礼を懇ろに申し上げると、次の日早朝に黒木の城を出立する折、黒木城の軍勢は
問註所の城のある妙見獄を攻めることが決まっていた。
道雪一行は諸勢に先立ち妙見獄を通り過ぎ、問註所の領内を静々と通ったが、問註所の方では
防衛のため城に集結していたため在々に人はなく、心静かに秋月領まで進んだ。

秋月領内の者たちは、普段道雪に手ひどくやられているため、藪の中に隠れながら道雪一行を
監視する、といった有様であった。これによって道雪は何事も無く立花城に帰り着いた。

黒木において、大友親家に付き従っていた豊後の者たちは
「大軍勢で合戦をし、敵を蹴散らせばようやく通れるような場所であるのに、
わずか300人ほどの人数で、敵領12,3里の間を心静かに通り、道すがら遭遇した敵も打ち捨て、
しかも味方に負傷者もなかった。道雪とはなんと、武士冥加の強い侍なのだろうか。
あの人には軍神が乗り移っているのではないだろうか。」

そう、感嘆したそうである。
(古郷物語)




116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/17(金) 20:09:07.80 ID:1W5Q48/b
鬼武蔵に思慮があればこんなふうになれるのかな?

わかりあえない親子

2010年09月25日 00:00

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/23(木) 21:45:15 ID:kZ9n6Zgy
わかりあえない親子


耳川の大敗の後、勢力の衰えた大友家ではこの難局をしのぐため重臣たちから前当主・宗麟の国政復帰が求められた。
現当主・義統(宗麟の長男)としては面白くないが、家臣の突き上げに負けてしぶしぶ復帰を乞う。

「よろしい。しかし家督はは義統に譲っているのだから自分はあくまで補佐という形にする。
 だが大友の家を守るための命令には義統であっても従ってもらうぞ」


宗麟は耳川以前からすでに基督教信仰に耽溺して統治意欲を失っていた。
それでも彼なりに息子と領国のため責任を果たそうと再出馬を決意したのであるが…


それから5年後、義統から宗麟に宛てた書状。

「もはや父の助けはいらない。父は自分に家督を譲っておきながらあまりに国事に干渉し過ぎる」

中途半端な二元統治体制を敷いたせいで宗麟と義統は深刻な不仲に陥っていた。
「『憎まれっ子世にはばかる』という諺がある。案外ワシも長生きできるかもしれんな!わはは……」
老いたる豊後王は乾いた笑いを漏らした。





236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/23(木) 22:11:36 ID:eLib82Cu
親子ものってのは

・ダメ親父vs聡明な息子
・ダメ息子vs聡明な親父
・どちらも間違っていないのにすれ違いから生まれる悲劇

このどれかのパターンに当てはまらないと('A`)な気持ちになるな。

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/23(木) 22:16:07 ID:xQeGZTHo
マイナスにマイナスを掛けるとプラスになる筈なのに・・・

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/23(木) 23:27:50 ID:FtjEfdJZ
>>235
なんか現代でも同じような話ありそうで嫌だな…
しかし宗麟が国主として有能だったから家臣が嘆願したのか、それとも義統があまりにもダメだったからなのか

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/23(木) 23:31:45 ID:WdwEdyfi
脳内お花畑の宗麟より駄目ってそうとうなもんだぞw
まあ朝鮮征伐で改易されたとか考えると出来損ないだったんだろうけど

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/24(金) 00:38:08 ID:B8J2N3/G
朝鮮改易に関しては同じミスした黒田長政はスルーだから
秀吉に個人的に嫌われてた感があるな
>>239
宗麟に比べると義統は外交政略が決定的にヤバい
関ヶ原の時とか家康に謹慎を解いてもらった分際で西軍とか…


241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/24(金) 00:49:37 ID:No7vSvl3
キリスト教王国とか夢見たり無鹿とか名前付けたり完全に頭おかしいとしか思えないけど、
島津に圧迫されて秀吉に泣き付くとかは出来るんだよな




242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/24(金) 01:03:50 ID:YNnfnB4h
>>236
実父、義父、本人、ついでに後を継いだ弟と軒並み高スペックでしかも仲のいい高橋家=立花家なんてのもございます。
親子ともども高スペックのはずなんだけど、オヤジがチートすぎるのが細川家と黒田家。
実は高性能なのに評価低めの長男がいるのが毛利家と真田家ってところでしょうか。
高性能なんだけど、一族郎党どこか脳みそのネジが数本外れてしまってそうなのが森家。

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/24(金) 01:45:15 ID:ueLdhkQy
親は子供達より目立った実績は無いが、その子供達の実績故に親の種子と祖父の教育が評価される島津家

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/24(金) 07:50:41 ID:pUv4qlmY
親子のすれ違いが発端となり、どういうわけか「親の木像」が出現してしまう秋田家

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/24(金) 08:46:04 ID:03bkPfu2

  /i (~) iヽ
 《 ヾ⌒ソ /
.  {ヽ,二,,ノ}
∠(´●ω・´)ゝ 悪い話スレで話題になる親子っていったい・・・
  (:::::::::::::::)
   しωJ

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/24(金) 09:27:30 ID:ACxDMTZ9
>>243
義弘-忠恒-光久で考えても、とんでもない一族だな

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/24(金) 09:48:58 ID:qau+LEUc
中興の英主-戦えば負けの凡庸な主-それより器量が劣るとされた跡継ぎ

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/24(金) 17:14:39 ID:iSBF40Mp
>>241
>キリスト教王国とか夢見たり

それはない。

>島津に圧迫されて秀吉に泣き付くとかは出来るんだよな

甘いな。
大友宗麟は、信長の生前から臣下の礼をとり、耳川の合戦後の島津との和睦も仲介してもらっている。
さらに小牧・長久手の戦いの後にも秀吉に戦勝祝いの使者を送っていて、いざと言うときの備えは
していた。

そもそも莫大な幕府・朝廷への献金で、機内の確度の高い情報を分析していたからこそ
できたことだがな。




250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/24(金) 17:59:09 ID:B8J2N3/G
>>249
豪勢な献上品が逆に秀吉の警戒心を煽ってたと思う
せめて形式だけ島津に降伏して豊臣軍を先導してれば
国力を消費せずに6州くらいは安堵されたと思う
家康なんかと比べると其処らへんの政略判断が甘い
逆に島津は大友に比べると外交政略のミスが目立つのに
ギリギリの駆け引きだけは神がかってるもの


251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/24(金) 18:05:40 ID:ACxDMTZ9
宗麟って、情緒面で問題があったとしか・・・

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/24(金) 19:27:16 ID:GsHxpEdp
>>240
同じミスって、大友が改易されたのって聞き逃げのせいじゃなかったっけ?
黒田どころか、同じことした家なんてあったんだろうか…

265 名前:sage[] 投稿日:2010/09/24(金) 20:47:07 ID:xYzNhYKs
>>240
元々は東軍につく予定だったみたいだよ。
長男は江戸に人質として出仕してたし、
まぁその保険が効いて息子の代で高家になるんだが・・・。
西軍についたのは、寵愛してた側室との間に設けた子供を輝元に人質にとられたから。
だからって、それで西軍についちゃう時点で判断力はアレかもだけどね。
輝元は、家臣の粛清の時もだが、基本スペックは、やれば出来るダークな子。
西国の事情は家康より詳しいだろうし、輝元の「やれば出来るぉ」が、もう少し安定してればなぁ。

大友宗麟の次男坊に田原親家ってのがいるけど、

2010年09月25日 00:00

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/24(金) 18:50:26 ID:i0FMhLtm
宗麟の次男坊に田原親家ってのがいるけど、こいつ豊後侵攻のときに裏切って島津に内通してるんだよね。
兄貴の義統と仲悪かったからって…
いかに末期の大友がヤバい状態だったかわかるだろ

ただし戦後の親家は宗麟の取り成しで助命されて一緒に暮らし、
宗麟の最期を看取ってその葬儀を取り仕切ったとか(これはいい話か?)