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足利義昭、九州にて暗躍

2012年06月17日 21:06

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/16(土) 21:29:28.94 ID:MEQFHb/L
この時の公方は足利16代(原文ママ)権大納言源義昭であった。しかれども当時は
京都が荒廃の極みであったので、義昭公はこのころ、毛利右馬頭輝元を御頼りなされて中国に御下向され、
小早川隆景の領地、備前国深津へご住居されていた。

そうではあったが、将軍家の天下の再興の望みがあったので、今年(天正12年・1584)御帰洛したいとの理由で、
去る8月に上使として一色駿河守昭秀、槇島玄蕃充昭元を以って、九州の諸将へ御内書を発した。
この時輝元からも、その二人の上使に自分の使節として柳沢新右衛門を差し添えた。

別けても大友左兵衛督義統、龍造寺民部大輔政家、島津修理太夫義久のもとに上意の趣を伝えたのだが、
この三家はこの頃鼎の如く立ち並び、闘争の最中であったので義昭を援助する余裕はなく、上意に対しての
返答をとにかく引き伸ばし、このため上使たちは何も得るものなく帰っていった。

(北肥戦誌)

ちなみにこの頃の足利義昭による九州諸侯への協力要請は実際にあった話のようで、『寛政重修諸家譜』には
「島津義久、(天正12年)9月4日、義昭また書をたまわりて義久が力を借り帰洛せむことをこわれ、康次の太刀一振、
鞍一口を贈らるる」とある。

東国では小牧長久手により秀吉の拡大が停滞していた中、西国においても足利義昭が色々と暗躍していた、
という記録である。




985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 01:39:06.80 ID:H3WCTj/O
「16代」なのは再任官を代数に数えたからか
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