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「佐伯惟治魔法の事 并・栂牟礼城攻」続き

2022年07月26日 18:10

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/26(火) 18:06:33.78 ID:4M3K0vhM
佐伯惟治魔法の事 并・栂牟礼城攻」続き

その頃、豊後国内では苗字の騒動が起こり、人々が争うようになっていた。
佐伯の家は緒方惟栄(平家物語の緒方惟義とされる)の後裔であり、代々巴紋の旗を掲げていた。
戦の度に大友家の杏葉紋の旗と巴紋の旗が並んでおり、あたかも大将が二人いるようであったため、国中の侍が嫉妬した。
また子息・千代鶴を御曹司と呼ぶのは主君・義鑑公をないがしろにする行いであると非難する者もいた。
(これは文徳天皇の頃(850-858)より勅定で佐伯の家は御曹司と呼ぶことに定められたという)
とうとう佐伯惟治が祖母嶽大明神を勧請したのも逆心の表れであるという噂が出てきて、義鑑公の御耳に噂が達した。
義鑑公は惟治に使者を送り問い詰め、惟治は弁明の書状を何通も出したものの、讒者が書状をとりつがなかった。
そのため惟治は共に槍の名手である深田伯耆守・野々下弥左衛門尉を弁明のために府内に送り出したが、義鑑公により両人とも誅殺された。
そのまま惟治居城の栂牟礼城攻めとなったが、峰高く谷深く、難攻不落の地であった。
惟治も金の軍配で城兵を鼓舞し、また深田らの弔い合戦ということで士気が上がり、攻め手の大将・臼杵長景も苦戦した。
長景は城の堀を死人で埋め、雲梯・飛楼を造って城を攻めたがどうしても落ちるように思えなかった。
長景はかくなる上は武略で城を落とそうと使者を出して
「このたびの戦は私の本意ではありません。ただ義鑑公の御下知に従っているだけのことです。
しばらく豊後から日向に立ち退かれ、国を隔てて逆心のない旨を仰せられれば、この長景が謀叛の誤解を解くために全力を尽くしましょう」と再三申した。
惟治は疑っていたが、長景が熊野牛王宝印の神符に起請文を書いて送ってきたため、神仏を軽んずるべきではないと、小勢で御曹司千代鶴丸殿と共に日向に退散した。
残る城兵は降人となったが、中には「具足が欲しければ大将に渡そう」と長景に具足をほうり投げた直後に腹を切って死ぬ者もいた。
惟治が日向に退散の途中、黒沢というところで多田弥四郎の娘、若狭という女に水を所望したところ、若狭はわざわざ新しい柄杓で水を汲んできて馬上に捧げた。
惟治は喜び「再び帰ってきたら礼をしよう。それかお前を人に名を呼ばれるような者として取り立てよう」と約束した。
しかし惟治一行が日向に入ったところ、あらかじめ長景に内意を含められていた日向の新名党という者どもが襲ってきて、惟治一行は全員切腹した。
時に大永七年(1527年)十一月二十五日。惟治三十三歳、子息千代鶴殿九歳であった。
惟治は生前魔法を修めていたためか荒人神となって祟りをなした。
先の黒沢の若狭という女房も惟治遠行の後さまざまな奇特を現した。
そのため宮を作って惟治を富尾権現として祀り、黒沢ほか豊後のうちに十社、日向に六社建立し今に至るまで祭礼を行なっている。
日向の新名党は惟治を討って十日もしないうちに滅んだ。
臼杵長景も偽の起請文を書いた天罰のためか、惟治の祟りのためか、ほどなく死んだ。
このたび長景は才覚にはやりすぎたため、無実の惟治を殺してしまった。忠に似て不忠の至りである、と人々は言い合った。
そのため義鑑公は佐伯の家を惟治の伯父惟常に命じて継がせなさり、佐伯家は今に至るまで続いている。



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「大友興廃記」から「佐伯惟治魔法の事 并・栂牟礼城攻」

2022年07月25日 17:36

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/25(月) 17:21:07.54 ID:Z+mqbH+B
大友興廃記」から「佐伯惟治魔法の事 并・栂牟礼城攻」

大友義鑑公幕下の臣、佐伯惟治は豊後国祖母嶽大明神より二十一代の孫で家名が高かった。
また文武両道相備え、諸芸の風流人であり、豊後海辺郡佐伯栂牟礼の城主であった。
惟治は幼少の子息で御曹司と呼ばれている千代鶴に継がせ、府内に出仕させ、自分は在府も出仕もしないようになった。
あるとき惟治は山上寺の住持春好を師匠にして魔法を行う契約をなした。
こうして上半月は清浄潔斎の身となり魔法に専念したところ神変奇特があった。
身によりそう影が生じ、打てば響き、呼べば答え、あらゆることが思い通りとなった。
累代相伝の家老は何度も諌めたが、いっそう魔法に力を入れた。
また先祖の祖母嶽大明神を佐伯迫田に勧請し、金銀を散りばめた荘厳巍々たる神殿を造営した。
またその他さまざまな宮が荒れていたのを建立、再興した。
あるとき惟治は魔法の師匠の春好が穢れをなしたとして猪の肉を食らうよう命じた。
春好は「髪を剃り僧衣を着て以来潔癖の身であるのに破戒などしたらこれまでの修行も無意味になります」
と抵抗したが、惟治が刀を喉に当てて脅したため、仕方なく鹿の肉を食したところ吐血してしまった。
そののち惟治は春好を生害した。なおその討ち手はほどなく大病で死んだという。
またあるとき惟治は家臣に「あの白鷺を捕らえよ」と命じた。
家臣「弓矢もないのにどうして捕らえましょうや」
惟治「弓で射るのではない、抱き抱えて捕らえるのだ」
家臣はしかたなく白鷺に近づいたが白鷺は動くことなくそのまま捕らえられた。
それを見た家臣たちは「延喜の御代に醍醐天皇の命で鷺が捕らえられたため五位を授けられた話はあるが、このたびは魔法によるものである。
当家の行く末はいかばかりであろう」と嘆いた。

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/25(月) 17:23:12.83 ID:Z+mqbH+B
このあと大友義鑑に滅ぼされる話が続くが長いのでここまで。
この前、戎光祥選書ソレイユから出た稙田誠「寺社焼き討ち」には「栂牟礼実録」出典で同じ話があるのでたぶんそちらが元だろう。
その本にも書かれているが、この佐伯惟治の先祖とされる祖母嶽大明神は蛇で、
平家物語巻八「緒環(おだまき)」では緒方惟義の先祖が豊後の女と大蛇との間に生まれた大男の五代孫となっている。
(三輪山の神と倭迹迹日百襲姫命の伝説そっくり)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13594.html
大友興廃記」より「遣唐使の事」
こちらの稙田玄佐(植田玄佐)も蛇の子孫で紋も佐伯惟治と同じ巴紋なのに、美濃斎藤氏だったり蛇が雌だったりしてるのは伝承の過程でオスがメスにでもなったのだろうか。



賀来の騒動

2022年06月28日 18:21

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/27(月) 20:23:11.28 ID:g8wvbc94
両豊記」から豊後に鉄炮が来た享禄三年(1530年)に起きた「賀来の騒動」

大友家の譜代外様家臣の姓は三つに分けられる。
大友の先祖から血筋がつながっている一族を「御紋の衆」と言う。
いにしえより九州にあった丹部(田部)、漆島(辛島)、宇佐、大島の四姓や、そののち土着した藤原氏や清原氏を「国衆」と言う。
大友家先祖・大友能直に従って当国に来た諸士の系統を「下り衆」と言う。
こうして三つの衆に分かれ、それぞれ同じ衆の者と交際していた。
府内の大番役所では諸士が当番・非番で交互に勤めていた。
享禄三年の春、家臣たちの勤務状況を記した帳面に何者かが墨で線をひき「御紋の衆」の姓名がいちいち塗りつぶされていた。
さてはこれは国衆の何者かがなしたことだろうと御紋の衆の若輩の者どもは腹を据えかねた。
大友義鑑公も案じたものの、かえって騒動になってはいけないとそのままにしていた。
ここに国衆ではあるが、大友家に忠義を尽くしたために取り立てられていた本荘・中村というものがあった。
二人は御紋の衆の妬みを買っていた。
そのため清田越後守という若者に率いられた御紋の衆の若輩者、二百人が二人の屋敷を襲撃した。
本荘・中村両人とも奮戦したが、力及ばず切腹した。

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/27(月) 20:25:57.50 ID:g8wvbc94
翌朝、調子に乗った清田たちは千五百余人で賀来左衛門太輔という大身の国衆を討ち果たそうと押し寄せた。
賀来氏は大神氏であり、同じく大神氏の橋爪・大津留に加勢を頼んでいた。
清田勢が賀来の宿所に鬨をあげて突入するまさにその時、駆けつけた橋爪丹後守は三百余騎を率いて清田勢を追い散らした。
清田勢は多勢であったが驚きあわてたため、我も我もと逃げようと
増水していた川に飛び込んでしまい、溺れた者は数知れなかった。
橋爪は敵三十二人を討ち取り、川を渡った残党も討ち果たそうと追いかけたが、清田配下の加南田兵部という侍が三人張りの弓で矢数五百を次々と射立ててきたため深追いはしなかった。
賀来は橋爪のおかげで難を逃れたとはいえ痛手を負っていたため、翌日死んでしまった。
橋爪は家人たちに「このたびの働きは言語に尽くしがたいほど見事であった。
しかし君命に従ってこの手柄ならば厚恩にも預かるべきであるのに、理由もない遺恨のせいでこのような闘諍におよぶとは嘆かわしいことよ。」
と涙ぐんだところに大津留常陸介鑑康が二百五十騎を連れて到着し
「そこもとからの伝令が遅れてしまい、やっと到着した。首尾やいかん」と問うてきた。
橋爪が合戦の経過を語ると、大津留は肝をつぶし「比類なき大手柄かな」と讃嘆した。
とはいえ大友義鑑公のお怒りは大きく、大津留、橋爪とも勘気をこうむった。
ただ大津留は一戦もしていないということでほどなく帰参を許された。
この府内の騒動は国内に伝わり、ここかしこから府内にそれぞれの一族が集まってきた。
しかし古老たちが「君の御安全が一番の大事である。また国中が騒動するだけでなく、他国の嘲笑の的となろう。
姓氏について取り沙汰するのはやめよ」と申したため、
双方共にしばらく出仕を止められただけで騒動はおさまった。



異国船着岸 附・鉄炮の事

2022年06月26日 14:40

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/25(土) 22:49:22.14 ID:POeF0AOd
両豊記」より「異国船着岸 附・鉄炮の事」

享禄三年(1530年)の夏、南蛮国から大船九艘が豊後府内に着岸した。
商売目的であり、絹布・薬種そのほか重宝の珍物が数えられぬほどあった。
このことが諸国に知れ渡ったため、国々の商人が金銀を持ちきたって、我も我もと買い争った。
言語も文字も通じなかったが、南蛮人の方はあらかじめ予測していたのか大明の儒者を雇っていた。
こちらが保首座という禅家の学匠をもって書を遣わしたところ、三官という儒者が読んで、筆談で意思疎通をした。
儒者が言うには「我は大明国の者であるが、通訳のために雇われて来た。
船頭水主以下の者どもはみな南蛮人である。
我も南蛮のことについてはよく知らないのだが、船中を見るに、上下の礼儀がなく、
朝夕の食事も大勢が一つの大きな器から手づかみで食っていて、言葉にできぬありさまだ。」と申した。
この南蛮人どもは屋形に種々の重宝を献上したが、その中に兵具が二つあった。
長さは三尺余で鉄炮と言ったそうだ。
これが豊後における鉄炮の始まりである。
南蛮人どもは商売がうまくいったため順風満帆で帰国した。
そののち天文二十年(1551年)に着船した時には、南蛮の商主から石火矢という大きな鉄炮が献上された。
のちに臼杵丹生島で大友と島津が合戦した時、この大筒で薩州勢を撃ち殺し、落城を防いだということだ。
(「大友興廃記」では南蛮から大砲・国崩しが到来したのは天正四年(1576年)としている)

種子島以前とはいえ鉄炮を量産したわけではないようだ



真に奇特の大名であると

2020年05月26日 17:58

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/25(月) 20:33:54.33 ID:gtwwtRus
天文十二年(1543)秋、鎮西豊後の国主。大友修理太夫義鎮(原文ママ)は上洛して公方家へ拝謁し、
それより三条西殿へ属し奏聞を経て、前の公方、法住院(足利)義澄卿に、御増官、御贈位の儀を訴望した。
則ち勅許有りて、同九月十一日、法住院殿へ太政大臣従一位を贈られた。その御料は皆義鎮より調進された。
現在、一天下は乱中である中、真に奇特の大名であると、公方家はその忠義を御感悦のあまりに、
義鎮を九州の探題職に成した。

續應仁後記

これは大友義鎮(宗麟)の話にしていますが、実際に故足利義澄へ太政大臣の位を贈るよう奏上したのは、
義鎮の父の大友義鑑で、それも天文2年9月12日の事ですね。
この天文12年には、義鑑は幕府から肥後守護に任じられています。
そして九州探題職と成ったのは大友義鎮ですが、永禄2年(1559)の事であり、とにかく幕府と大友家に係る
いろんな事が混同されている記事となっています。



大友義鑑の死

2016年10月01日 19:10

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/01(土) 18:33:01.29 ID:hdHYlRFK
大友義鑑には3人の子があったが、惣領である義鎮(宗麟)に家督を譲ろうとしなかった。
彼の後妻が産んだ、到明子殿という末子に家督を譲ろうと考えていて、義鎮に対しては普段から
対面することもなく、到明子殿への本意は深かった。

身分の高い者でも低い者でも、継子継母の関係ほど難しいものはない。
到明子殿の母は義鎮を失わせ、どうにかして到明子殿を大友家の当主に立てたいと日夜胸を痛めており、
彼女は家老の入田丹後守親誠を頼った。丹後は心得、それからはいつもよりも義鑑に忠を尽くし、抜きん出た
奉公をして義鑑から高い信頼を得、義鑑は何事も丹後に相談するようになった。

ある時、義鑑は丹後を召して問うた
「義鎮については、私は思うところがある。到明子に代を譲るのはどうだろうか?」

丹後、畏まり
「ご質問でありますから申し上げます。ご兄弟の皆様は何れも御器用にてあられますが、中でも
到明子御曹司は世に超えた人物であるところ、人々は広く沙汰しています。大友中興の祖である
親世公の生まれ変わりではないかとすら思われます。」

などと様々に褒め上げると、義鑑は大いに機嫌を良くした。

その後、義鑑は義鎮に対し、湯治のため別府へ出かけさせた。
そして重臣である斎藤播磨守、小佐井大和、津久見美作、田口といった人々を召して言い渡した
「私は到明子に家督を譲ろうと考えている。」

この言葉に一同は驚き
「一体どういう理由で義鎮様を差し置いて、後末子の到明子殿に家督を譲られるのですか!?
御意ではありますが心得かねます!」そう、一斉に反対した。
これに義鑑は何も言い返せず、機嫌を悪くし、重臣たちはそれぞれ御前を下がった。

義鑑は
「あの者達を誅殺し心のままにせん」と、その日の暮れに斎藤、小佐井の両名を召して、大門において
誅した。
この時、津久見、田口の2人も召されたのだが、詐病をして登城しなかった。彼らは斎藤、小佐井が
殺されたことを聞くと、
「我々ももはや逃げられぬだろう。ならば」

彼らは密かに大友屋形の裏門から入って二階の間に入ると、「到明子殿に久しくご対面していない。
さぞかし成長された事だろう。少々御目見得をさせて頂きたい」警備の者達にそう言いながら奥の高間へと
強引に入ると、そこに居た到明子を一刀に斬り殺し、引き取る刀で彼の母も害した。
そして一の台にいた局たちを一人残らず切り伏せ、田口は二階の間から居間へと通り、義鑑が上段に居たのを
駆け寄って斬った。
田口はお側の衆に討ち取られたが、大友義鑑もこれで深手を負い、天文19年2月9日、遂に儚くなった。
どういう御分別だったのだろうか。実に浅ましい事である。

(大友記)



139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/01(土) 22:27:51.55 ID:+ELXDe/8
>>138
その後の宗麟の酷さを見ると義鑑の考えが正しかったような…。
いやそんな事があったから歪んだというべきか?

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/02(日) 12:14:42.18 ID:H2n6JpLG
>>139
一次資料だと案外まともなんだけどな宗麟は

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/02(日) 12:33:26.78 ID:zc7ZWW+f
>>138
頼朝「兄より」
信長「すぐれた」
秀忠「弟など」
(●∀゚)「存在しねぇ!!」

(´・ω・`)「弟など存在しない…」

146 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/02(日) 12:37:06.65 ID:zszeXnAQ
>>145
隆元「ウチは弟達の方が優れてましたよ(胃をキリキリさせながら)」

147 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/02(日) 12:49:26.79 ID:hxDXM2tQ
元就「兄より優れててすみません。皆さん弟は大事にしましょうね」

148 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/02(日) 13:55:37.76 ID:zszeXnAQ
>>145
TDIE「皆々様の仰る通りでございます。兄より優れた弟などこの世に存在致しませぬ」(鎖帷子を着ながら)

天文8年、豊後の大友義鑑は激怒していた

2011年08月11日 23:15

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/11(木) 19:24:43.82 ID:WsobpzMg
天文8年(1539)、豊後の大友義鑑は激怒していた。何故か?

それは同じ九州の大名、肥前有馬氏と日向伊東氏が京の将軍足利義晴に対し、
大友氏と同ランクの官職を与えてもらえるよう密かに運動していたことが発覚したからだ。

大友義鑑は京の将軍に対し猛烈な抗議文を贈った。

『有馬や伊藤は、大友から見れば被官並の家柄でしかありません。
そんな者たちに我々と同ランクの官職など、決して与えてはいけません!』

しかし足利義晴は大友の抗議をあっさりの却下。有馬・伊東は官職において
大友氏と同格になってしまった。大友氏にとってこの上ない屈辱的事件であった。

この事件があってから大友氏はそれまで以上に将軍家に接近し、のち、ついに
九州における室町幕府の最高職である『九州探題』を得ることと成る。

戦国時代には直接の争いだけでなく、官職などにより家格を上げる競争・暗闘もあった。
その、九州での一例である。
(大友家文書録)




380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/11(木) 19:53:38.52 ID:BdJKr394
3つの家は実際に何の官位を得たの?

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/11(木) 20:04:54.13 ID:WsobpzMg
大友義鑑がもともと修理大夫で、有馬・伊東のどちらも同じ修理大夫もらたw

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/11(木) 20:12:55.13 ID:TXrF6nz+
三者の関係は修理されなかった