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生の松原合戦の事

2023年01月29日 17:35

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/29(日) 16:22:59.59 ID:zGUfX6EG
悪いスレで名前にだしたので
大友興廃記」から「生の松原合戦の事」

筑前国高祖(たかす)から三里離れたところに生(いき)の松原という場所がある。
先年(天正二年、1574年)、原田親種が高祖城で謀反のため誅されたが、原田親秀は高祖城で秋月種実と内通し、大友からの離反を企んだ。
それを知った立花道雪は小野和泉守(小野鎮幸)、由布雪可(由布雪下、由布惟信)を先陣の大将として三千騎余で城下に放火しつつ、高祖城に迫った。
これに対して原田親秀は林慶に六千余騎を率いさせた。
林慶は多勢の力で立花軍を二里半ばかり追い、生の松原に陣取った。
立花道雪は引き返さず、海を背にして陣取った。
原田の軍兵は「こちらは多勢で勢いもあるので今すぐ攻めましょう」と諌めたが
林慶は「今は満潮であり、こちらが攻めると向こうは背水の陣で死に物狂いで戦うであろう。潮がひくのを待つべきだ」と言った。
一方、小野和泉守も立花道雪に対し
「今は満潮でありますが、潮がひいて干潟となれば兵どもにも臆病の心が生じましょう。
こちらは小勢とはいえ、今攻めるべきです。」と諌めた。
立花道雪は「原田勢が攻めてこないのもおそらくそう考えているからであろう。
敵も思慮深い者であるから、しばらく人馬を休めたのちに、こちらから押し寄せよ。」と言った。
そののち小野、由布それぞれ五百騎を率い原田の先陣に撃ちかかり、立花道雪も追撃した。
原田軍は高祖の城下までいったん退却したが、林慶は大剛の者なので、逆に小野和泉守を一、二町追い返した。
そこへ由布が横槍を入れて林慶を取り囲み、ついに小野和泉守の手で林慶を討ち取った。
立花道雪率いる後陣もその勢いに乗り、高祖城の二の丸、三の丸まで攻め込み、焼き立て、勝鬨を上げて帰還した。
この戦で原田勢の手負・死人は千二百余。
それに対し立花勢は手負三十人、死人十人だったという。
潮の干満を兵の剛臆に関連づける分別は、林慶も小野和泉守も同じように持っていた。
しかし立花道雪ほどの人を二里半も追い立てて、そのまま城に引き取っていたならば大勝利と言えただろうに、討たれてしまったとは、林慶の軍配が外れたというべきであろう。



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髑髏敵を取る事

2023年01月29日 17:34

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/28(土) 23:12:19.22 ID:ODKO6Zvw
大友興廃記」から「髑髏敵を取る事」

筑前国生の松原合戦(大友宗麟に誅された原田親種の残党と立花道雪との戦)の三年ほど前、一人の中間がこの松原を通ると、道のわきに一つの髑髏があった。
中間は「これは我が昔討ち捨てた者の髑髏だ。なぜいまだにここにあるのだろう」と嘲笑って蹴回した。
ちょうど持っていた槍の石突で刺し貫いて、抜こうとしたがどうしても抜けなかった。
そこで松の枝に引っ掛けて両手で「えい」と前に引くと、槍の柄が抜けて槍の先端が、中間の肝から後ろに突き抜けたため死んでしまった。
死ぬ前に、ちょうど通りかかった人々にことの一部始終を語ったため、その頃の人たちはこれを聞き
「因果の道理は多いとはいえ、昔から今に至るまで、舎利首が敵をとったためしは少ないだろう。不思議なことだ」
と言いあったという。



683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/28(土) 23:52:52.06 ID:DwGfU4BG
ちょっといい話にも見える

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/29(日) 10:15:22.26 ID:ZWbxHB0m
自分の体の中心に向けて槍を引っ張ったのかな
不自然なような気もするが、まぁ話だからな

柴田礼能の最期

2022年08月07日 15:21

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/06(土) 18:39:09.97 ID:ZiJm9/Jl
「大友興廃記」から槍に巧みなため宣教師から「豊後のヘラクレス」と呼ばれた柴田礼能の最期

天正十四年十二月上旬(1586年12月-1587年1月)に、島津家久は臼杵丹生島へ諸勢を繰り出し、大柳の裏の草木や岩陰から大友勢の様子を窺っていた。
そこへ先年南蛮国から渡来した大きな石火矢・国崩しを武宮武蔵守(武宮親実)が大手口より撃ちかけた。
大玉、小玉を二升ほど詰め込んでいたが、その響きは山、海に轟き、大柳の枝より上を打ち折った。
大小の玉に当たったり、大柳に押しつぶされたり、で若干の死人が出たものの薩摩勢は恐れず、かえって勢いを増して臼杵城に攻め込んできた。
豊後方の吉岡甚内は鉄砲を撃ちかけたのち、槍を振るい兜首を五つ討ち取った。また、利光彦兵衛、吉田一祐も高名をとった。
同じく豊後方の臼杵美濃守、柴田礼能は先陣として平清水口で薩摩勢と槍を合わせ、次々と討ち取り、互いに競うように敵を退けた。
しかし薩摩の者が町内の空き家に忍び込んでいて、柴田礼能を馬上から突き落とし討ち取った。
礼能の嫡男・柴田玄蕃丞(允?)は手勢二百騎を率い、敵を退け城中に戻ろうとしていたが、父の礼能が討死したと聞き、首を郎党に渡し「汝は城中に戻り注進申せ」と告げた。
郎党は「城中にお戻りになった方が良いでしょう」と申したが
玄蕃は言い捨てて敵陣へ取って返し、親の仇を討った後、自身も討ち死にした。
そののち薩摩勢も次第次第に引き取ったが、追軍をすると横矢がかかってきそうに見えた。
荒武者たちが追撃を望んだが、宗麟公御父子が仰られるには
「追撃で数十人討ち取ったところでたいして変わらないだろう。
味方に手負いや死人がない方が大利と言える。ことごとく引き取るように」
とのことで、戦は終わった。
そののち薩摩勢が来ることはなかった。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8059.html
柴田礼能については以前、「味方の八幡社ならばともかく、敵方の八幡社であれば敵だから焼いてもいい」と言ってた話が出ていた。



志賀親次の島津との合戦

2022年08月02日 18:30

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/02(火) 17:28:40.91 ID:3Lv4miiH
「大友興廃記」より志賀親次の島津との合戦

島津義久の舎弟、兵庫頭義弘が天正十四年(1586年)の冬、豊後朽網に在陣したため、大友家の大身の将どもは大友家を背き義弘に次々と従った。
ただ義弘は近くの親次の岡の城には攻めあぐねていた。
それどころか志賀親次の手の者が義弘陣所に忍び入り、小屋などをたびたび焼き払った。
また天正十四年冬の初めから翌二月の末まで、親次が攻め滅ぼした城は十五に上った。当時志賀親次は十八歳であった。

また肥後国坂足は豊後の幕下にありながら早々に薩摩勢に降っていたため、志賀親次は天正十五年三月十八日に阿蘇表に出て坂足を攻めた。
このとき志賀勢は宮ノ寺に陣を張ったが、岡城の雑兵の奴ばらは釣鐘を壊し、狛犬を焼き、社壇を破り、鳥獣を殺し、肉食をするなどの邪なる振る舞いをした。
さては軍に物の怪が取り付いたのではないかと人々はおそれた。
そんな折、薩摩勢の新納忠元、伊集院肥後守、入来院、祁答院らの四大将の軍が豊後日田から肥後国小国に到着し、この豊後勢の狼藉について地元の住人から聞き知った。
翌朝、薩摩勢の四大将は宮ノ寺の豊後勢に打ち掛かった。
豊後の先陣として中尾伊豆守、大塚典薬、朝倉伊予守、中尾駿河守、朝倉土佐守などが受けてたった。
しかし前夜に神前を穢し、その身も穢れに触れた奴ばらは、眼前に霧が襲って全く物が見えなくなり、草木を敵と思って斬りかかったり矢を放ったりした。
あたかも自ら首を刎ねてくれと言わんばかりであり、雑兵かれこれ百五十人が枕を並べて討死した。
中尾伊豆守は軍兵に「このたび山谷鳴動し、煙雲が味方を襲ったのはただごとではない。
軍気をうかがって退くべきだ」と言って退却した。
そののち豊後勢はなんとか態勢を立て直し、豊後、薩摩双方とも軍を引いた。
また朝倉一玄は「このたびの阿蘇表への出兵は、親次の勇み足であり、血気の勇に似た振る舞いであった。
若気の至りとはいえ、親次には似合わぬことであった」と言ったそうだ。

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/02(火) 17:33:37.41 ID:3Lv4miiH
なお志賀親次は熱心なキリシタンだったそうで。



「佐伯惟治魔法の事 并・栂牟礼城攻」続き

2022年07月26日 18:10

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/26(火) 18:06:33.78 ID:4M3K0vhM
佐伯惟治魔法の事 并・栂牟礼城攻」続き

その頃、豊後国内では苗字の騒動が起こり、人々が争うようになっていた。
佐伯の家は緒方惟栄(平家物語の緒方惟義とされる)の後裔であり、代々巴紋の旗を掲げていた。
戦の度に大友家の杏葉紋の旗と巴紋の旗が並んでおり、あたかも大将が二人いるようであったため、国中の侍が嫉妬した。
また子息・千代鶴を御曹司と呼ぶのは主君・義鑑公をないがしろにする行いであると非難する者もいた。
(これは文徳天皇の頃(850-858)より勅定で佐伯の家は御曹司と呼ぶことに定められたという)
とうとう佐伯惟治が祖母嶽大明神を勧請したのも逆心の表れであるという噂が出てきて、義鑑公の御耳に噂が達した。
義鑑公は惟治に使者を送り問い詰め、惟治は弁明の書状を何通も出したものの、讒者が書状をとりつがなかった。
そのため惟治は共に槍の名手である深田伯耆守・野々下弥左衛門尉を弁明のために府内に送り出したが、義鑑公により両人とも誅殺された。
そのまま惟治居城の栂牟礼城攻めとなったが、峰高く谷深く、難攻不落の地であった。
惟治も金の軍配で城兵を鼓舞し、また深田らの弔い合戦ということで士気が上がり、攻め手の大将・臼杵長景も苦戦した。
長景は城の堀を死人で埋め、雲梯・飛楼を造って城を攻めたがどうしても落ちるように思えなかった。
長景はかくなる上は武略で城を落とそうと使者を出して
「このたびの戦は私の本意ではありません。ただ義鑑公の御下知に従っているだけのことです。
しばらく豊後から日向に立ち退かれ、国を隔てて逆心のない旨を仰せられれば、この長景が謀叛の誤解を解くために全力を尽くしましょう」と再三申した。
惟治は疑っていたが、長景が熊野牛王宝印の神符に起請文を書いて送ってきたため、神仏を軽んずるべきではないと、小勢で御曹司千代鶴丸殿と共に日向に退散した。
残る城兵は降人となったが、中には「具足が欲しければ大将に渡そう」と長景に具足をほうり投げた直後に腹を切って死ぬ者もいた。
惟治が日向に退散の途中、黒沢というところで多田弥四郎の娘、若狭という女に水を所望したところ、若狭はわざわざ新しい柄杓で水を汲んできて馬上に捧げた。
惟治は喜び「再び帰ってきたら礼をしよう。それかお前を人に名を呼ばれるような者として取り立てよう」と約束した。
しかし惟治一行が日向に入ったところ、あらかじめ長景に内意を含められていた日向の新名党という者どもが襲ってきて、惟治一行は全員切腹した。
時に大永七年(1527年)十一月二十五日。惟治三十三歳、子息千代鶴殿九歳であった。
惟治は生前魔法を修めていたためか荒人神となって祟りをなした。
先の黒沢の若狭という女房も惟治遠行の後さまざまな奇特を現した。
そのため宮を作って惟治を富尾権現として祀り、黒沢ほか豊後のうちに十社、日向に六社建立し今に至るまで祭礼を行なっている。
日向の新名党は惟治を討って十日もしないうちに滅んだ。
臼杵長景も偽の起請文を書いた天罰のためか、惟治の祟りのためか、ほどなく死んだ。
このたび長景は才覚にはやりすぎたため、無実の惟治を殺してしまった。忠に似て不忠の至りである、と人々は言い合った。
そのため義鑑公は佐伯の家を惟治の伯父惟常に命じて継がせなさり、佐伯家は今に至るまで続いている。



「大友興廃記」から「佐伯惟治魔法の事 并・栂牟礼城攻」

2022年07月25日 17:36

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/25(月) 17:21:07.54 ID:Z+mqbH+B
大友興廃記」から「佐伯惟治魔法の事 并・栂牟礼城攻」

大友義鑑公幕下の臣、佐伯惟治は豊後国祖母嶽大明神より二十一代の孫で家名が高かった。
また文武両道相備え、諸芸の風流人であり、豊後海辺郡佐伯栂牟礼の城主であった。
惟治は幼少の子息で御曹司と呼ばれている千代鶴に継がせ、府内に出仕させ、自分は在府も出仕もしないようになった。
あるとき惟治は山上寺の住持春好を師匠にして魔法を行う契約をなした。
こうして上半月は清浄潔斎の身となり魔法に専念したところ神変奇特があった。
身によりそう影が生じ、打てば響き、呼べば答え、あらゆることが思い通りとなった。
累代相伝の家老は何度も諌めたが、いっそう魔法に力を入れた。
また先祖の祖母嶽大明神を佐伯迫田に勧請し、金銀を散りばめた荘厳巍々たる神殿を造営した。
またその他さまざまな宮が荒れていたのを建立、再興した。
あるとき惟治は魔法の師匠の春好が穢れをなしたとして猪の肉を食らうよう命じた。
春好は「髪を剃り僧衣を着て以来潔癖の身であるのに破戒などしたらこれまでの修行も無意味になります」
と抵抗したが、惟治が刀を喉に当てて脅したため、仕方なく鹿の肉を食したところ吐血してしまった。
そののち惟治は春好を生害した。なおその討ち手はほどなく大病で死んだという。
またあるとき惟治は家臣に「あの白鷺を捕らえよ」と命じた。
家臣「弓矢もないのにどうして捕らえましょうや」
惟治「弓で射るのではない、抱き抱えて捕らえるのだ」
家臣はしかたなく白鷺に近づいたが白鷺は動くことなくそのまま捕らえられた。
それを見た家臣たちは「延喜の御代に醍醐天皇の命で鷺が捕らえられたため五位を授けられた話はあるが、このたびは魔法によるものである。
当家の行く末はいかばかりであろう」と嘆いた。

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/25(月) 17:23:12.83 ID:Z+mqbH+B
このあと大友義鑑に滅ぼされる話が続くが長いのでここまで。
この前、戎光祥選書ソレイユから出た稙田誠「寺社焼き討ち」には「栂牟礼実録」出典で同じ話があるのでたぶんそちらが元だろう。
その本にも書かれているが、この佐伯惟治の先祖とされる祖母嶽大明神は蛇で、
平家物語巻八「緒環(おだまき)」では緒方惟義の先祖が豊後の女と大蛇との間に生まれた大男の五代孫となっている。
(三輪山の神と倭迹迹日百襲姫命の伝説そっくり)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13594.html
大友興廃記」より「遣唐使の事」
こちらの稙田玄佐(植田玄佐)も蛇の子孫で紋も佐伯惟治と同じ巴紋なのに、美濃斎藤氏だったり蛇が雌だったりしてるのは伝承の過程でオスがメスにでもなったのだろうか。



「大友興廃記」より「遣唐使の事」

2022年07月11日 18:33

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/11(月) 18:20:37.96 ID:cem3OHMR
大友興廃記」より「遣唐使の事」

大明国より唐船が豊後に天文十年(1541年)、同十二年、同十五年、永禄年間、天正三年(1575年)とたびたび到来し、猛虎四頭、大象、孔雀、鸚鵡、麝香、書画、錦繍綾羅、伽羅、猩猩の皮などがもたらされた。
そのため大友宗麟公もいろいろ進物を集め、金札銀札を調え、遣唐使を立てるために文武両道の達人を選ばれた。
ここに生国美濃の住人、齋藤某というものが国が乱れたため和泉堺に居住していたのを宗麟公が聞こしめし、使者をあもってめしだされた。
そののち入道して稙田玄佐と号した。
宗麟公より遣唐使を命じられ、いろいろ辞退したけれども再三の貴命、断りがたく了承し、金銀の王札、音物を携えて、数千里の海を越えて唐帝のもとで朝礼を拝した。
帝王より日本の勅使並みの扱いを受けたが、にわかに重病となり、帝より名医が差し向けられたが薬石効なく逝去した。
帝はこれを憐れみ国中の僧たちを集め丁重に供養し葬ったのち、玄佐の家人に種々の重宝を下賜した。
残りの者たちは帰りに嵐に遭い難破し、命からがら二十余人が宝物とともに帰朝した。
玄佐の嫡男虎松丸は三歳より母共に宗麟公の援助を受け、七歳の春より大友義統公に奉公しながら成長した。
なお稙田玄佐の先祖は清和源氏で多田満仲の頃より渡辺氏に入り(?)、藤原実綱と縁を結び、美濃斎藤家を継ぎ、数代を経たところ不思議なことがあった。
どこともしれぬ容姿に優れた女があらわれ奉公人となったが、一を聞いて十を知る聡明さであり、領主が言わぬうちから思い通りの働きをしたため、おおいに寵愛を受けた。
やぎて懐妊し、出産する段になって女は産室を作らせ、
「七日の間、どなたも入りませんよう」と伝えた。
三日を過ぎて領主は怪しみ、隙間からひそかに見たところ、恐ろしい姿の大蛇が子供を抱いて、赤い舌を出して子供を舐めていた。
領主は肝を潰し、人を集めて産室の扉を破って入ったところ、赤子だけで蛇は行方知らずであった。
産室は池となり、風の匂いがすさまじくなった。
その子を育てたところ、背中に巴の紋があり、子孫代々同じところに巴の紋が現れるようになったという。
これが稙田の起りであり、今に至るまで背中の紋は続いているという。

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/11(月) 18:28:06.43 ID:cem3OHMR
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13394.html
一祐働きの事 付、月山の長刀
こちらの話に出てくる「植田玄佐鎮定の嫡男で善三郎」が虎松丸のことだと思われる。
同じ「大友興廃記」出典ではあるが、「稙田」と「植田」で字が異なっている。
ついでに新井白石「西洋紀聞」では豊後の領主とフランシスコ・ザビエルについてシドッチが語っている箇所で
https://ja.m.wikisource.org/wiki/西洋紀聞
按ずるに、フランシスクスは、漢に波羅多伽兒人、佛釆釋古者といふもの、卽此也、
豐後の屋形は、大友左衞門督入道宗麟也、其使せしものは、植田入道玄佐(玄佐、もと淸和源氏にて、渡邊の家をつぎ、又齋藤の家をつぐ、家紋巴なり、其子名虎松、時に三歲也といふ)もとは、美濃國齋藤の族也、
天正十二年に、宗麟がために使して、ローマに死す、西人懷にせし册子に、一道人の甁を持て、童子の頂に灌ぐ所を、繪かきし圖を指示て、これ豐後の大名の子の、法を受くる圖也といふ、但し豐後の屋形、其使等の姓名を問ふに、其姓名は、つたはらずといふ

と植田玄佐が明ではなくローマに行ったとしている



伊東諸武夢想の事

2022年07月05日 17:50

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/04(月) 20:00:07.99 ID:BcLs7wOf
大友興廃記」から伊東諸武夢想の事
伊東三位入道(伊東義祐)は島津に破れ豊後に亡命し、田原紹忍の世話となっていた。
ある荒れ寺が気に入ったため、そこで気儘で風流な生活を楽しんでいたところ、何者かが
「のみしらみ、ねずみとなりて三位殿、たはらの下をはひまはりけり」と高札に書いて門前に立て置いた。
田原紹忍は歌道に明るかったため
三位入道は「さてはこれは田原の作ではないか?」と悔しく思い、中国地方を遍歴し、最終的に京において還行された。
息子の左京大夫(伊東義益)もすでに亡くなっていたため、伊東家滅亡と思われた。
しかし左京大夫の弟・民部大夫諸武(伊東祐兵)は聖人の行いに倣い、武勇があり、諸芸の風流の人であった。
家が絶えることを哀しみ、神仏をたのんでいた甲斐があり、秀吉公の援助で年月を送っていた。
ある夜の夢想に
「日に増して、しめとる帯のいとふとき」
とあったところで目が醒めた。
「帯(飫肥おび)」とは累代の本知であり、「日に増していとふとき」とは再び繁栄するという吉兆だと喜び、連歌興行をした。
ほどなく太閤秀吉公に召し出され、本領の内で知行安堵となったことこそ不思議である。



281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/04(月) 22:02:10.36 ID:lty1qK8d
考えたら「祐」の草書体を「諸」と取り違えたのかもしれない
祐兵(スケタケ)→祐武(スケタケ)→諸武ということだろう

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/04(月) 22:16:07.61 ID:hXjZB30E
しめす偏と言偏の崩し字はまったく別物だし、右と者もまあ似てるっちゃ似てるけど取り違えないでしょう
どっちも頻出の文字だし

小笠原宗忠、大神見介、臼杵主税介、渡唐の事

2022年07月03日 15:32

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/02(土) 19:17:50.79 ID:sNNpHE3Q
大友興廃記」から「小笠原宗忠大神見介臼杵主税介、渡唐の事」
小笠原晴宗の次男、宗忠は浪人として豊後で年月を送っていたが、これまたいたずらに浪人の日々を過ごしていた大神見介臼杵主税介とともに
「無為に過ごすよりは唐に渡り見物をしよう」ということで三人とも肥前長崎から海を越えて明の大王の都に渡った。
もともと大友宗麟公は明の大王と通交して遣唐使や明の勅使の往来もあったため、三人が宗麟公の御判の状を持参すると
明の天子も「懇切に遇せ」との綸言を発してくれたため、言語は通じないまでも文字により数日を暮らしていた。
あるとき禁中から遠くないところで謀叛が起きたため、御誅伐の綸言が将軍たちに申し付けられた。
宗忠たち三人は「われわれ三人に先鋒を仰せつけください。官軍は後陣で遊ばされよ」と申したところ、天子からのゆるしがでた、
三人はよろこび先手となり、わずか九十三人が籠る城へと向かった。
宗忠は小笠原の末子ではあるが軍法を極めており、槍の秘術を会得していた。ほかの二人も一流の槍の使い手であった。
城から出てきた敵兵を三人で六十八人討ち取り、大将も討ちふせ首をとった。
逃げた者どもは後軍の官軍が退治した。
明の天子の叡慮は浅くなく、望みの褒美を与えようと仰られた。
三人が言うには「先年、信長公が安土におわしたとき、道坊と言うものが
『信長公への一日の進物をください。自分の運を試そうと思います』
と申したところ、その日の進物は銅銭一貫文だけだったので、信長公は道坊を憐れんだということです。
明であればそのようなことはないでしょうから、一日の御調物を下されたく思います」
と奏聞した。
しかしその日の御調物は常々よりも少なかった。
かわった風流者だったためにこのような果報だったのだろう。
そんなこんなで明の都に一年滞在したのち、対馬・壱岐の間で嵐に逢いながらも壱岐についた。
宗忠「あら波に 船も酔へるかのみ吐て 危なき命 生(いき)の島かげ」
こうして三人とも大明国に武勇を残し、異国見物をして帰朝した。

小笠原宗忠の兄の小笠原晴定についての話は以下参照
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13514.html
信長公 鬼月毛という名馬を豊後へ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13522.html
小笠原晴定誅伐の事


272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/03(日) 10:29:49.56 ID:2nwEiHig
>>271
調物の件の意味がよくわからんのだが、誰か親切な人解説してもらえませんか?

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/03(日) 10:38:32.31 ID:htPLDiVZ
>>272
貢ぎ物のことだよ
あと安価ミスってるよ

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/03(日) 10:56:12.62 ID:ZJgGd5kV
租・調・庸の調

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/03(日) 11:53:21.91 ID:48uUtX46
ありがトン

井田次郎を討ちとる事

2022年06月25日 15:37

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/24(金) 22:26:12.05 ID:DUnRauTi
大友興廃記」より「井田次郎(井田親氏)を討ちとる事

立花城主・戸次道雪(立花道雪)、岩屋城代・高橋紹運がある時会合して評定することには
紹運「秋月種実は宗麟公に属せず、古所の城に籠り、われらが領土を塞ぐのみならず、ややもすれば立花・岩屋に手を回し人民を悩ましておる。
宗麟公も近日中に古所の城に押し寄せ、一戦すべしと思われていることだろう。」
道雪「かねてから我もそう思っていた。
とはいえ、かの城は三方は険阻にして山が高く鳥でなければ通えぬところで、一方は平地に続くといえど道が狭小な天然の要害である。
力攻めでは利を得ることはなかろう。
近くの大日寺は後ろに石垣山があり、前は平地である。
立花・岩屋、両城の兵六千人を出し、屈強な兵三千人を石垣山の後ろに隠しておいて
足軽の者を三百人ほど出し、種実の城下のあちこちに放火をさせ、秋月勢を誘い出すのはどうであろう。
足軽たちには弱々しく逃げさせ、大日寺まで引き上げさせれば、秋月兵は勝ちに乗じて寺まで来るであろう。
そこへ石垣山に伏せていた諸軍勢で四方から攻め寄せて、一人も残らず討ち取るのがよかろう」
紹運ももっともだと賛成し、ひそかに諸軍勢を石垣山に控えさせたあと、翌日の早朝からその企てを実行した。

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/24(金) 22:28:29.96 ID:DUnRauTi
秋月種実は城下への放火の件を聞き、井田左馬之助(井田親之)の嫡男、井田次郎(井田親氏)を近づけ
「急いで道雪・紹運の雑人らの首を刎ねよ」と命じた。
井田次郎は「それがし不才でありながら弓馬の家に生まれ、十三より侍一与の頭を仰つけられ、二十の今日にいたるまで数度の高名をあげました。
これはすべて君恩の厚きによるものです。
勝敗は軍勢の多寡で決まるものではなく、時の運によるものです。
このたび敵が小勢だからといってあなどるのは良将とはいえません。
とはいえ時を急がねばならぬ時に猶予するのは臆したと思われるでしょうから、すぐ出向きます」
と千人の兵を引き連れて道雪・紹運の足軽どもに打ち掛かっていったところ、足軽どもは大日寺を指して逃げていった。
秋月兵たちが五里ほど休まず駆け、疲れたところに石垣山に伏せていた兵、四千余が襲いかかって来たため、秋月勢は驚いた。
しかし親氏は下知して軍勢を鶴翼に開き、魚鱗の敵に当たり、命を惜しまず戦った。
とはいえ秋月勢は疲労のうえ小勢であったため、次々討ち取られていった。
親氏が討ち死にの覚悟を決めたところに、道雪の従者、十時摂津守(十時連貞?)が
「御名字を名乗りたまえ、組み打ちをいたそう」と言って来た。
親氏「名は名乗らぬが、組み打ちには応じよう」
と馬上でむずと組み、ともに落馬した。
十時は老武者で(連貞は当時35歳くらいのはず)、親氏は若武者のため、十時は押し伏せられて頸を掻き切られそうになった。
そこへ駆けつけてきた十時の郎党が親氏を打ち、親氏が弱ったところを十時は頸を掻き切った。
十時が親氏の相貌を見たところ、年の頃は二十ほどで、容顔世にすぐれ、たとえれば梨花が春雨に濡れて綻びているような美しさであった。
死骸をあらためると油箪に入れられた横笛が出てきたため、顔貌といい、常人ではあるまいと道雪・紹運に横笛とともに首実検ということになった。

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/24(金) 22:31:35.24 ID:DUnRauTi
両大将とも涙を流し、誰であろうと思っているところに紹運の兵に見知ってる者がいて
「これこそ秋月種実が家老・井田左馬之助親之が一子、井田次郎親氏と申す者です。
十二、三歳の時より勇者の誉れを得て、秋月家中では文武両道の忠臣として崇敬を集めている者でありました」
と申したため、道雪・紹運とも感涙し
「人の親として子を想う気持ちは誰でも同じである。親之も不憫なことだ」
と死骸に笛を添えて丁重に親之の方へ送り届けた。
親之は道雪の使者に「弓矢を取る者のならいとはいえ、戦場では子より先に死のうと心を定めておったのに、
ただ一人の息子である親氏に先立たれるとは、跡に残れる老いぼれの身こそ口惜しいことよ」
と不覚の涙を流し、使者もともに涙を流した。
親之は「愁嘆にひたってしまい、道雪の情けに礼を言わずすまなかった」と言ったのち、主君・秋月種実に息子・親氏の訃報を知らせた。
種実は驚き、いそいで井田の私宅に駆けつけ、頸と死骸を自分の膝の上に抱き寄せ、髪を掻き撫でて咽び泣いた。
種実「ああ幼稚の頃より我が膝の上にのせ、成人後もその才を頼もしいものと思っていたのに短命で死すとは
噫天喪予(ああ、天われをほろぼせり)」
と泣いては口説き、息絶えるかのようにのたまった。
そののち種実からも道雪に、親氏の死骸を送り届けたことへの礼があった。
老父・親之は「ただ一人の息子に先立たれ、老衰の身として甲斐なき命をながらうことよ」
と明け暮れに嘆いていたが、しばらくして合戦が起きた時
「このたびの合戦にて必ず討死すべし」と思い定め、
出陣の朝、親氏を葬った寺に詣で、本尊に暇乞いをしたあと、一首の歌を仏壇の左の柱に書きつけた。
「子を思ふ、道にはよしや迷ふとも、後の世照らせ、有明の月」
親之はその日の戦において先駆けをし、比類なき働きをしたあと、戦場のうちに命を留め、名を九州の青天に挙げたということだ。



高森伊予守、志賀親度に加勢所望のこと

2022年05月26日 16:30

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/25(水) 20:11:44.38 ID:yj+RKTrs
「大友興廃記」より「高森伊予守、志賀親度(「道懌」表記を「親度」に統一)に加勢所望のこと

肥後国の高森伊予守は大友宗麟公の幕下であり、先年小原鑑元の逆心が現れ罰せられたのも彼の働きであった。
島津義久公の家老・新納武蔵守(忠元)の計略により、島津方の稲富新助が花山にて甲斐相模守(甲斐親英、甲斐宗運の嫡男)と合戦したが、島津方は敗れた。
その遺恨により新納武蔵守は高森の城を落とそうと、天正十二年十二月十三日(1585年1月13日)に三千騎で高森伊予守の城に攻め寄せた。
伊予守も奮戦し互いに鉄砲を撃ち合ったが、とうとう大手門を破られ、伊予守は降伏し城を明け渡した。
もとより伊予守は武略の上手であったため、これは一旦城を取らせて油断させる策略であった。

十五日に伊予守は樽肴種々の土産を調えて「和睦の盃を酌み交わしましょう」と城に行ったところ、稲富はよろこんで城に入れて宴会となった。
盃をさしかわしながら稲富が言うことには
「われわれも攻城の時、大剛の者が取り囲まれ若干の負傷者や死人が出ました。
詰めの城まで攻めていたならば、最後には落城させていたでしょうが、こちらも過半が討たれていたことでしょう。
伊予守の御芳志により死なずにすみました」
このとき、伊予守はみずからを智慧才覚のない無分別者と思わせるためこう尋ねた。
伊予守「島津義久公は隣国から徐々に智略をめぐらし、諸国の侍に内通させ、彼等が味方についたのちに豊後に御出兵なさるとうかがっております。
武士の習いとして「昨日の矢先に今日はひかゆる(昨日の敵は今日の友、の意?)」と言いますので
それがしも義久公御出兵の時には稲富殿の組に入りたいと思います」
稲富「義久公の豊後御出兵はありません。
肥後は島津の隣国なので、武蔵守が才覚をもっていろいろ調略をしましたが、それでも本当の味方は少数です。
まして豊後は宗麟公が御在国なので調略ののちに出兵など思いもよらぬことです」
それを聞いた伊予守は話題を変えたのち、次のように問うた。
伊予守「さる天正六年の冬、日向国高城において豊後の諸勢に若干の死者が出ました。(耳川の戦い)
敵味方いかばかり討ち死にしたでしょうか?」
稲富「敵味方六万六千人余りの討ち死にだったそうです。
中務(島津家久)が豊後勢の死骸を讃嘆して言うには
「武士の強弱は死骸でわかるものだ。
勝負は時の運。豊後勢は敵陣に頭を向けており、味方に向かった死骸はない」と感じられたそうです。
また、義久公の命令で弔いをしました」
伊予守「おもしろいお話です。私などはただの死骸としか見ないのに、中務がそのように気づかれるとは、屍にとっての面目といえましょう」

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/25(水) 20:16:39.85 ID:yj+RKTrs
そののち伊予守は家中の高森右京進を呼び出して
「お前は今回の降伏を無念に思っておるだろうが、これは稲富をだまして討つための策略である。
お前は密かに豊後に行って、志賀親度に我が意志を伝え、加勢を頼め」
と言うと、右京進は了承して豊後岡の城に行き、高森伊予守からの書状を披露した。
親度は書状を読むと、家中七組の頭(省略)に誰を遣わすべきか談合した。
談合の結果、大軍を差しむけ島津方をことごとく討ち取ろうと定まったところで
親度の嫡子・志賀太郎親次はその時十六歳であったが、こう発言した。
志賀親次「高森への加勢のために大軍を差し向けるのはもってのほかであります。
そのわけですが、肥前・肥後も薩摩に味方しているのは明らかです。
このたび高森を攻めているのは伊予守を敵としているのではなく、最終的に豊後をとろうと企てているからです。
わたしは遊山をすると、狩り、釣りの次には敵を討つ方法を考えるようにしておりますが、それは戦は猟に似ているからです。
猪は寝ているうちに勢子で取り囲み、魚は騒がないように遠くから網を回し、それぞれ囲いを狭めていきます。
もし初めから近くに網を回すと魚が騒ぐため、大漁は見込めないでしょう。
薩摩は名高い大将ですので、豊後を取るために周辺の国から大きな網を巡らせているのでしょう。
今、薩摩が高森を攻めているのは網の中の石を取り除いているようなものです。
島津義久は二、三年のうちに豊後を攻めようと考えております。
もしここで肥後に大軍を出しては、いくらか討たれて味方が弱体化してしまいます。
最後に大敵と戦わなければならないのに、いま人数を損なうのは不可であります。」
親度「わしもそう思うが、薩摩勢は三千ばかりあり、高森伊予守が援軍を請うているのだ。どうしたものか」
七組頭一同は親次の言葉に親度も同意したことで、お家の行く末は安泰だと感涙の涙を流し、
「親次様はまだ若いのにこのような名言を仰られるとは、お年を経ればどれだけの御分別が出てくることやら。
おそらくは九州に肩を並べるもののない名大将になるでしょう」と申した。
親度「それでは二千の兵を出そうと思ったが、親次の異見により雑兵を加えて千五百の兵を出そう。
侍大将には親次、朝倉土佐守(「留守の火縄」の朝倉一玄だろうか)、大森弾正を命じる」

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/25(水) 20:19:35.96 ID:yj+RKTrs
肥後国高森の近くにきた志賀親次は兵を陰に隠し、使者の高森右京進とともに高森伊予守の宿所を密かに訪ねた。
伊予守「城を攻めれば負傷者や死人が大勢出るでしょう。
一口を空けて夜討ちにして城を焼けば、敵は空いている口から出ようとするでしょうから、
われわれは城の案内はわかっておりますので搦手から詰めかけて尽く討ちましょう」
こうして豊後勢は同士討ちを防ぐため、同じ装備で合言葉を決め、夜討勢を五百、城から出てきたところを討つ伏兵を、志賀勢・高森勢でそれぞれ千おいた。
こうして十二月二十九日の明け方、伊予守はかねて用意していた火矢や松明を忍び口より投げ込んで、城中の大部分を占めていたボロ屋を炎上させた。
そこで前方・後方から鬨の声を挙げたところ、城中の稲富勢は慌てふためき兵を出してきた。
味方の兵は血気さかんに闘い、互いに敵を多く討とうと争った。
稲富勢も命を惜しまず、味方が倒れても顧みず、ここを死に場所と定めて戦ったが、どんどん討たれ少なくなった。
しかし稲富は戦巧者のため、わずかの勢で戦場を横切ったため討ち損じてしまった。
戦が終わり、死骸を数えると千八百余りを討ち取っていた。
志賀勢も負傷者は多数出たが、死人は五、六人もいなかった。
城は再び高森のものとなり、志賀勢は豊後に帰還した。
志賀親次は「このたびの戦では大いなる不覚をいたしました。薩摩勢は多く討ち取りましたが、大将である稲富を討ち損じました。」
と志賀親度に申したが
親度「悔やむでない。戦というものは必ずしも敵を討つのが勝ちではない。殺さずして退散させるのも勝利である。
それにしても高森伊予守の武略のために大勝利を得たものだ」と喜んだ。
そののち伊予守から志賀親度に加勢の礼があった。
親度が大友義統公に詳細を告げると、義統公は大いに感悦した。
義統公から親度と高森に御感状が与えられた。

のち天正十四年に肥後国を新納忠元が、豊後国を島津中書(家久)が討ち入った時、志賀から高森に援護の兵が出され、豊後国に高森を引き取った。
翌年、薩摩勢が退いた後、高森は肥後国に帰還した。
甲斐宗運御逝去ののち、「策を帷幄の中に巡らし、勝ちを千里の外に決す」とは高森伊予守のことであろう。



小笠原晴定誅伐の事

2022年05月18日 16:38

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/17(火) 20:41:27.78 ID:FCxFjtgU
大友興廃記」から小笠原晴定誅伐の事

古文に「筆は鋭く、墨は筆に次ぎ、硯は鈍い。しかし硯のように鈍いものは寿命が長く、筆のように鋭いものは夭折する」とある
小笠原刑部大輔晴宗というものはもとは義輝公方の家臣であったが、永禄の変で三好・松永により義輝公方が弑された時、たまたま大友家に来住していたためそのまま木付(杵築)に居住した。
晴宗嫡男大学兵衛晴定には人に勝れる大力があり、術芸に優れていた。
たとえば蛇に手縄を付けたものだとしても、馬と呼ぶようであれば乗って見せよう、と大言をはいていた。
天正十二年(1584年)の春の終わりに南郷岡の城主・志賀兵部入道※道懌(志賀親度、道益)のところに見舞いに行った。
なおこの岡の城は山の前後に大河が巡り、岩壁は四面にそびえ滑らかで、大木が盾の羽を並べたように林立し、鳥でなくては登りがたい名城であった。
(豊薩合戦のときに志賀親度の息子・志賀親次は、この岡の城で島津相手に「天正の楠木」と呼ばれるほどの籠城戦を行うことになる)
晴定は「これぞ九州第一の城郭であります」と挨拶し、道懌も晴定を馳走した。
酒宴がたけなわになった折、晴定は酔ったまま冗談めかして
「このような名城にありながら、野心がないとは心の鈍いお方ですな」と述べた。
これに対して道懌は何も発言しなかった。
悪事千里を行くのならいで、この雑言が宗麟公御父子の耳に入り、それから晴定が御前に呼ばれることはなくなった。
天正十四年には道懌に野心の風聞が立った。
そこで天正十六年の春、晴定を誅伐するための討手として臼杵美濃守が選ばれた。
宗麟公は晴定を召し、晴定が居住地の木付から臼杵に向かったところ、途中の産島の茶屋で美濃守は待ち構えていた。
美濃守「今時分に御登城とは、何の御用での御登城でしょうか」
晴定「とりあえず宗麟公のお召に従っての登城である」
その頃、晴定の家臣たちは干潟で潮干狩りをして遊んでいた。
美濃守は禿(かむろ)に茶を点てさせ、自分も飲み、晴定にもすすめて時分を見計らった後、刀をするりと抜き
「上意であるぞ!」と打ち付けた。
晴定も「心得たり!」と三尺八寸の刀を抜こうとしたが、あまりの大刀のため(または「あまりの大力」か)、刀のこじりを茶屋の腰板に一尺二尺突き通してしまい、抜くのが遅れてしまった。
美濃守は続けざまに三刀を入れて討ち取った。
さしもの名のある晴定も力が過ぎたため、かえって刀を抜く速さが遅くなり、無下に討たれてしまった。
ものごとに、過ぎたるは猶及ばざるが如し、というとおりである。
晴定は氏素性といい、骨柄といい、芸能の惜しい武士であったが若さの故このようになった。
ある人が言うには、「尾が剣に変じた牛がいた。牛はその尾を舐めると血の味で甘かったため舐め続けた。すると舌が破れて牛は死んでしまった」
晴定も舌のおもむくままに後先考えず悪言をはいてしまったため、その身を滅ぼすこととなった。牛と同じことである。
人はあまり好きたることに熱中すると過ぎたることになるため、好きでも無いことに心を寄せるべきである。

※「道懌」であれば「ドウエキ」となり「道益」と同じ読みなので、以前出てきた「道択(擇)」は「道懌」の誤字だと思われる



志賀道択、御馬を拝領と偽り取り帰る事

2022年05月14日 16:44

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/14(土) 16:10:03.34 ID:4gpgNxON
「大友興廃記」から志賀道択(志賀親度)、御馬を拝領と偽り取り帰る事

天正三年乙亥二月に信長公が信濃黒という名馬をくださった。
信長公の御意には「去年遣わした鬼月毛は世に過ぎたもので、遊覧用にしかならなかったであろう。
この信濃黒はいつもはのどかな馬で、体を飾って舎人をおおく付けてもなんの反応も示さない体たらくであるが、乗ると意のままになる、足の速い名馬である。
信長秘蔵ではあるが、わざわざ使者を送ってこられたので特別に遣わす」との仰せであった。
信長公の御意よりも優れた馬であったため、宗麟公のお召しの馬の中でも第一とされた。
ここに南郡岡の城主、志賀兵部親教入道道択(志賀親度入道道益)、丹生島登城の時、宗麟公は御機嫌であったので、暇をもらい、吉光の御脇差も拝領した。
道択はすぐに御厩舎の別当・雄城無難を訪ねたが留守だったため、御厩舎の舎人に馬を案内させた。
舎人「これは薩摩鹿毛、肥前黒、龍造寺粕毛、あれは山口黒、河辺岩石落…」と二百余の究竟の逸物の名馬を見せたあと
「これは御召料第一の御馬、信濃黒と申します。この春に信長公より参った馬でございます」
と言うと、道択はしげしげと見て、この馬以上の馬はないと思いいって、
道択「やあ舎人、この馬はそれがしが今朝拝領せよと宗麟公から仰せつかった馬であるぞ」
舎人「お言葉を疑うわけではありませんが、別当の無難も留守なのであい渡すことは、わたくしの分別ではできません」
道択は大いに怒り「殿から拝領を仰せ付けられたのに、無難が留守だからと言って渡せないとは何事だ」
と責めて、鞍をかけて打ち乗って「これは心地がよい」といいながら居城の岡の城に帰ってしまった。
そののち無難が帰ったので、舎人が「しかじかで…」と申した。
無難は不思議に思い、急いで登城しこのことを皆に尋ねると
「吉光の御脇差を拝領したことは聞いたが、御馬のことはなんとも存ぜぬ」と皆が言ったので無難は仰天し、ことのしだいを申し上げた。
吉岡掃部介(吉岡鑑興)、吉弘嘉兵衛尉(吉弘統幸?)、田北新介(田北鎮周には新介の名乗りはないようだ)といった老中衆は談合の結果、
「宗麟公の御機嫌を損ねるのを覚悟でありのままに伝えよう。
十のうち一つは本当に馬を遣わされたのかもしれない、十のうち九は道択がたばかって取ったのであろうが」
ということで、無難と老中がそろって汗をかきながら宗麟公にありのままに申し上げると
宗麟公はしばらく考えたあと「古くから軍の先を駆けんとするものは龍馬を求めると聞いておる。脇差を遣わした時の折紙に、信濃黒についても拝領遣わす、と書いておけばよかったものを」
とかえって興にいったように仰せられた。
思いの外の御返答で、無難も放心したように帰った。
良将の考えなさることは、諸人の智とは違うものだ。

※志賀親度(道益)は豊薩合戦の時に大友を裏切ったため、息子(養子)の親次により自刃させられた



信長公 鬼月毛という名馬を豊後へ

2022年05月13日 19:18

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/13(金) 16:58:04.81 ID:uwclWyl4
大友興廃記」より「信長公 鬼月毛という名馬を豊後へ遣わさるる事」

永禄の末、信長公が天下の権柄を執ることとなり、威を海内に振るうこととなったため、大友宗麟公は豊後から御祝いの使者を送った。
そののち信長公から鬼月毛という名馬を豊後に遣わされることとなった。
この馬は尋常の馬より遥かに長い顔で八、九寸ほどあり、骨がごつごつし筋が太かった。
眼は朱を差したようで、いつも怒り、常にいななき、歯噛みし、人にも馬にも食らいつくようだったので、鬼月毛と名付けられた。
宗麟公はこの馬を誰に乗らせようかと考えたところ、小笠原刑部大夫晴宗という、もともと義輝公方の侍があり、その子息で大学兵衛(大友興廃記によれば諱は晴定)というものが荒馬乗りの達人であった。
小笠原大学兵衛ではなくては乗りこなせられないだろうということで、明朝に乗ることになった。
鬼月毛は金覆輪の鞍、紅の大房に真紅の縄を八筋つけ、舎人八人が持ち、そのほかに綱を二本つけて計十人で馬場に引いてこさせた。
鬼月毛は轡を噛み切っていなないてやってきた。
宗麟公はじめ諸侍そのほか何人もが見物にやってきて見守る中、大学兵衛尉は白い小袖にかちんの上下、金ののし付きにした大小を差して、六尺あまりの巨体でゆらりと打ち乗った。
手綱、鞍、鎧などを例式のごとくにして、序盤から早駆けさせ、自在に操った。
のちには曲乗りの秘術をつくし、梯子を踏ませたり、碁盤の上に四つの蹄を縮めて立たせたり、
あるいは鞭を塀の向こう側に投げ捨て、その五丈あまりの塀を越えさせ、鞭の上をまっすぐにかけさせたりした。
宗麟公は御覧になり感じ入り、父親の晴宗方へさまざまな褒美を与えた。
鬼月毛は大学兵衛が乗りこなしたため、より速く駆けるようになり九州一の名馬となった。
日に日に見物人は多くなり、七町余の馬場を、人が四回か五回息をつけばたやすく往復するような俊足であった。
その後、馬術の上手なものが何人も挑戦したが、十人に一人か二人は腰を下ろすものの、馬が足を踏み出す前に諦めてしまい、
そのほかの八、九人は馬を見ただけで恐れて乗らなかった。
こうして大学兵衛は自由自在の御者として名誉に預かった。
厩舎別当の雄城無難は
「常の馬であれば我らとそう変わらないように見えるが、この鬼月毛ばかりは上手だけではなく力乗りでなければ乗りこなせない。
大学兵衛の力は馬よりもまさり、しかも上手のためこのように乗りこなせるのだろう」
と申したそうである。



一条殿藤の奇特 附・飛梅 并・紫珊瑚の物語

2022年04月24日 15:51

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/23(土) 21:51:27.66 ID:5fJXLANX
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6484.html
天正二年、一条康政(たぶん兼定を勘違い)は

上記の話は「大友興廃記」では一条康政(兼定)暗殺の次に出ているが、古今の例については省略されているのでそこも含めて投稿

大友興廃記」より
一条殿藤の奇特 附・飛梅 并・紫珊瑚の物語

一条康政公(兼定)の家滅びて、天正二年甲戌に豊後国に渡海なさった。
御館を出立なさるときに、年来秘蔵の藤に暇乞いのために門前から戻り、馬の鞭で藤の糸を撫で上げなさって
「植えおきし 池の藤波 心あらば 今年ばかりは 咲くな匂うな」
と遊ばれたあと渡海なさった。
そののち、長宗我部元親が一条殿御自愛の藤を見ようと前述の御所に立ち入ったが、この藤は一房も咲いてなかった。
人々が不審がっていると、蜷川新右衛門尉の末裔で道馮(蜷川親長、道標)という人が元親のそばにいたが
道馮「康政はこの藤に名残を惜しんで
「植えおきし 池の藤波 心あらば 今年ばかりは 咲くな匂うな」
と詠んだそうなので、もしかするとそのためではないでしょうか」
と申したところ
元親「上代はともかく、今の末代でそのような奇特もなかろう」と同意しなかった。

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/23(土) 21:53:24.81 ID:5fJXLANX
道馮「それはそうですが、上代に咲く花は末代にも咲くのは道理です。
草木も春は花咲き、夏は繁り、秋は実り、冬は枯れるでしょう。
このように天地のいぶきが中より出るため、花には仏性があるといえるのです。
すべてのものは天理をそなえているのですから、この藤にも心があって、歌の心を天理の性に受けたのでしょう。
その昔、天神(菅原道真公)が筑紫に左遷された時、御跡を慕って梅は飛び、桜は名残を惜しんで枯れたところ
菅相公が不思議がり、哀れに思い
「梅は飛び 桜は枯るる 世の中に なにとて松の つれなかるらん」
と詠まれたところ松も飛び参って、今の世までも「飛梅」「追い松」と名を残しています。
また上野岑雄(かんつけのみねお)という人は、別れを嘆き、なれ親しんだ桜の木に対して
「ふか草の 野辺に桜し 心あらば この春ばかり 墨染めに咲け」
と詠んだところ、草木に心はないと世の人は言いますが、ものの哀れを知って墨染めに咲いたと承っております。

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/23(土) 21:55:09.45 ID:5fJXLANX
また異国でもそのようなことがあります。
田真・田慶・田広(以下「二十四孝」に収められている話。酈食其を煮殺した田広とは別人)という三兄弟がいました。
父の死後、父親の愛した紫珊瑚(花蘇芳)という木を三つに切って形見分けしようとしたところ、木は枯れてしまいました。
三人が「これからは鼎に囲んで見よう」と言ったところ蘇って元の色になり盛んに咲いたということです。
また摩頂松ということがあります。
玄奘法師(三蔵法師)が西域に行く時、霊巌寺の松を撫でていうには
「吾西に去らば汝も西に長ずべし。吾帰らばすなわち東へ向かえ」と約束しました。
はたしてのちに松はたちまち東に向かったため、玄奘の弟子はこれを見て師の帰還を知ったと言います。
康政も「ことしばかりは」と詠まれたので、来春は元のように咲くでしょう、そうなれば歌の奇特と納得されるでしょう」

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/23(土) 22:00:10.93 ID:5fJXLANX
と和漢の名木の奇特を述べたところ、元親も近習ももっともだとは思ったものの、来春咲くまでは承諾できかねる、と言い合った。
翌年の春、一年がまんしたぶん、藤は三尺ほどに咲いたため
人々は「道馮が去年言ったことは道理だった。道馮の予言通りの奇特だ」と感心した。
元親も我を折って、藤の奇特を認めた。
そののち、この奇特を太閤秀吉公が聞こしめし、この藤を召し上らせて、京都において一条殿(一条内基?兼定の息子の内政の元服を執り行っている)に進上なさったため、大変大事にされた。
あるとき奏聞したところ、天子もこの藤も御覧にいれたそうだ。
されば草木さえこのように振る舞うのに、譜代相伝の臣下が無下に浅ましいことをしたというのも、康政公の御代に一条の家自滅到来の時節だったということだろう。



一条兼定、暗殺事件について

2022年04月23日 16:20

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/22(金) 20:59:28.49 ID:BLpusYEu
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2285.html
一条兼定、暗殺事件
では一条兼定暗殺の実行犯、入江左近は元親に殺されたことになっているが別のパターンもある。

※入江生存パターン
大友興廃記」より
一条康政公は長曾我部元親により四国を追われ、豊後に逃れた。
このとき康政公の御台所(大友宗麟の娘)は土佐に置かれたままだったため、宗麟公は元親と交渉し、御幼少の姫君を豊後に返してもらった。
そののち康政公は豊後でわびしい暮らしをしていたため再起をはかり、伊予国の住人で法花津の城主・播磨守則延の援けで元親にしたがう三ヶ城を落とし、伊予戸島に居住した。
この時の書状
「二三年之間御弓箭を尽くし、懇意の段、悦喜浅からず候。
わけて干戈を方々に取り鎮められたるを以って、一城を預け置くべき者なり。
 三月八日 康政
  法花津播磨守殿」
そんな時、土佐において元親は康政公の侍・入江左近を近づけ、予州戸島へ入りて康政公をうつべしと言い含めた。
左近はかたじけなくも譜代の家臣でありながら元親に同心し、戸島に入って康政公に言うことには
入江「代々主従の縁を忘れがたくそうらえば、ここまで参り候」
康政公は企みとは思し召さず御喜悦して
康政「うちの侍にもうとみ果てられて、尋ね来るものなきに、入江ばかりは神妙なり」と信じてしまった。
こうして種々の物語をしているうちに夜がふけると
入江「今晩は私が番をいたしましょう」と言ったため、その他の御近習は皆宿所に帰ってしまった。
康政公が枕につき、側には児扈従一人だけとなった頃、入江は近づき康政公に一太刀浴びせた。
しかし夜着が厚く、切れなかった。
康政公は早業を習得していたため、刀を抜こうとしたところ、入江は二の太刀で左腕を打ち落としてしまった。
康政公は太刀を膝の間に挟んで、入江に一太刀入れたところ、入江は妻戸をくぐって浜に出て、船に飛び乗って逃げ延びた。
駆けつけてきた康政公の侍たちが追おうとしたが、他の船のともづなはとうに入江により切られていたため、他の船は全て流れてしまっていた。
こうして入江は難なく逃げ延びた。
そののち、康政公は法花津則延により道後に送られたが、そこで病死してしまったという。

※「大友興廃記」では一条兼定の名前を誤って、文書発給者の源康政の名前にしている。

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/22(金) 21:03:48.02 ID:BLpusYEu
※入江が狼に食い殺されたパターン

貝原益軒朝野雑載」より
一条関白房家公の子孫にして、土佐の公方である一条頼房公は、元親の逆心により追い出され、縁続きの豊後の大友義統を頼った。
しかしここでも追い出され、伊予の栗木に要害を構えたところ、一条殿の家臣である入江兵庫太夫というものが頼房の首を斬り、元親に捧げてほうびを得た。
ある夜、兵庫が山路を通っていると、狼が数百出てきて兵庫を食い殺し、白骨さえもなく、刀脇差だけが残った。
そののち長曾我部もだんだんに滅んだということだ。

朝野雑載」には「大友興廃記」から採ったとおぼしき話が色々あるが、この出典は別っぽい。
入江の最後も、前に出た話では元親に斬られたことになっているが、こちらだと狼に食い殺されている。
しかし一条頼房という名前はどこから出たのだろう



「大将心持の事 附・星を祈る事」

2022年04月22日 17:29

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/22(金) 12:27:30.84 ID:BLpusYEu
大友興廃記」より「大将心持の事 附・星を祈る事」

薩摩の太守・島津義久公の家臣、河田大膳入道休叱(入道名が牛室である川田義朗?)は高名な軍法者であり、神変奇特のことが多かった。
たとえば力攻めしても落とせないような城郭を、祈祷により天から火を下すことで焼却するような神変があった。
まことに飛ぶ鳥を落とすほどの奇特をなし、かれが行くところ大勝を得ないことがなかった。
さるほどに、島津義久公は天正十四年(1586年)丙戌の冬、諸勢を豊後に発向すべきか運を占えと休叱に申し付けた。
休叱「運ははかるまでもござなく候。
豊後両大将の星は、それがし存知のことなれば、大友宗麟子息義統の星を祭りもうすべく候。
星の奇瑞、次第になされよろしからん」と申す。
さて宗麟公の星は禄存星、義統の星は破軍星に当たっていたため、休叱は両星をそれぞれ祈祷したところ、忽然として奇特があった。
この星回りであれば、運の甲は乙となり、島津が利を失うことはあるまい、と休叱は喜悦の眉を開いた。
一方、豊後においても津野隈越前守(角隈石宗と思われるがすでに耳川の戦いで戦死しているはず)という軍法者があって、宗麟公父子の星が怪しいのを見咎め
越前守「かくのごとくは敵のためになすところの災いか、または国中の大乱か、常のことにはあらず。我かく見る上は、念じ返さん」
と思い、宗麟公に言上申したが御同心なく、
宗麟公「運は天にあり」とただ天運に任せよとの御意であった。
孔子曰く「祭ること在(いま)すが如くし、神を祭ること神在すが如くす。」
宗麟公のお言葉はよろしくないと人々は言い合った。

島津の軍師が星を祈祷して、大友宗麟・義統親子の運を転じたという話



石宗討死

2022年02月25日 18:15

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/25(金) 17:57:09.45 ID:OijCJTa7
「大友興廃記」から高城川原の戦い(耳川の戦い)における「石宗討死」

石宗は軍配者であり「当年、日向へ大軍を出しても利は得られないでしょう。
また、島津公は初代が比企尼の娘の丹後内侍と頼朝公との間の子であり、大友家初代と兄弟ですので出陣は止めるべきです」
と申し上げたが宗麟公は用いたまわなかった。
また当陣においても、駆け引きの利を説いたものの田北鎮周は用いなかった。
十一日の暁に、味方の陣の東から気が立ち、敵城の内になびいたのを見た石宗は
「野石の気」であると考え、星野・蒲池が二心を抱いていると見抜いた。
また南に「血河の気」という雲気が立って、味方の上になびいたため、
石宗は「この気が味方に向かいくるは、河にてほろぶべき雲気なり」と考え
鎮周に使者を立たせ「この味方にかかりたる雲気が変わるまでは出陣あるまじ」と申したが
鎮周は「この鎮周、元来下人の生まれにて、雲の上の軍はつかまつらず。
雲のことは龍に伝えらるべしと思いつる」と聞き入れなかった。
「吉事はなく悪事のみで、味方の利となるべきことは一つもない。
先陣の大将・鎮周の軍法を破り、大守(宗麟)の指図の目利き虚しくなること、不忠の上の逆心というべきである。
このうえ諸軍が鎮周に同意するとなると天運の末、お家滅亡の兆しであろう」
と石宗は思い入り、秘伝の巻物を焼いて、平人として討死した。

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/25(金) 17:58:30.72 ID:OijCJTa7
この石宗、在世の時は道学をおさめ、玉泉(天台宗)の流れをくみ四教三観の月を我がものとしていた。
また韓信の武略に通じ、誠に真俗倚頼、文武の達人であった。
ある年、奈良に入ったついでに吉野蔵王権現の御宝前で祈っていたところ、虚空より脇差一振りが降りてきた。
石宗はこのような奇特は祈るまでないと谷に向かって投げたところ、谷から風が起こって脇差を虚空に浮き上げ、しまいには石宗のところに戻した。
石宗は三拝して宝前を去った。この脇差は今も石宗の子孫が所持しているそうだ。
またある時は虚空をかける鴉を呼び寄せ、ある時は竹の枝に止まっている雀をその状態のまま、枝を折った。
さまざまな神変奇特を起こした故、島津方の本郷忠左衛門尉が石宗を討ったあと、薩摩では石宗を大明神として崇めたということだ。



「大友興廃記」より「馬鬼退治の事 ならびに七不思議」

2022年02月24日 20:29

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/23(水) 15:58:31.52 ID:ZuQNmClx
「大友興廃記」より「馬鬼退治の事 ならびに七不思議」

朽網に名山の九重嶽、前嶽、黒嶽があり、黒嶽は仙界で様々の奇特がある。
朽網三河守鑑康(耳川の戦いでは志賀親守とともに肥後口を担当)の代にあたって、黒嶽の麓にある八幡宮に年々神馬を奉じるに、前年に馬を広野に解き放って、翌年神馬をとらえて奉っていた。
ある年の祭りのとき、解き放った神馬が見つからず別の馬を神馬として放ったが、次の年もまた見つからなかった。
何かが馬を喰い殺したのではないかと人々が不審になっていると、樵や草刈りも帰ってこなくなり、実は辻斬りのためではないかとも言われた。
そのうち誰ということなく「先の神馬が馬鬼となって人馬を喰らっている」と流言が立った。
不審に思い、山を探してみると人馬の髑髏や舎利が多く見つかり、往来のものも先の馬が鬼となって人々を害していると噂したため、
三河守鑑康は退治を大久保蔵人と上高(しやうかう)因幡守の両人に仰せつけた。
蔵人は長刀、因幡守は弓を持ち、前嶽のふもとの屏風岩で、おびき寄せようとしたところ、常の馬より長い葦毛の馬がいきり立って歯噛みしてとびかかってきた。
因幡守は三人張りの弓で尖り矢を射たが馬には当たらず、二の矢をつごうとしたが、
蔵人は長刀の石突を屏風岩に突かせていたため、長刀がとびかかってきた馬の胸を貫いた。
明け方になり馬の死骸をみようとしたが、どこにも残っていなかった。
その馬の祟りによって蔵人の子孫に男子ができなかったため、石によって宮を造営し「馬鬼の宮」と号して年々祭った。
今成峠では、その時から今に至るまで清水が湧き出している。

朽網は希有なる所にて七不思議あり、曰く
鳴瀬川:河なき所に波の音あり
音無川:河水みなぎり、波あるが音なし
西の池:池の辺で高声する時は雨降る
念仏の池;池辺にて念仏唱えれば池に沸々と声あり
殺生石:人畜鳥獣、この石に触れて死す
雪中の青蓼:聞こえたるうそ?
仙白水:時々黒嶽より白水ふる

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/23(水) 16:08:06.89 ID:ZuQNmClx
なおこの殺生石も有名な那須の殺生石と同様、元は玉藻前が石になったもので
玄翁和尚が那須の殺生石を砕いた破片がここまで飛んできたという伝説があるらしい



377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/23(水) 18:47:48.53 ID:La6fcLzt
将門の首より飛んでるなぁ、殺生石の欠片

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/24(木) 08:35:29.92 ID:1vt0lxcq
いっそ殺生石で待ち伏せして殺生石に触れさせた方が楽に勝てたのでは?
大食らいの葦毛の怪物馬といえど、玉藻の前には勝てないだろうし

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/06(日) 07:52:20.64 ID:p6915eu/
>>376
那須の殺生石が割れたらしい
今度は破片は遠くへは飛ばなかったようだ

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/06(日) 13:32:53.93 ID:aEanwxFY
と言っても3年くらい前からヒビ入ってたのをなんとか繋いでたみたいだけどな

「大友興廃記」より高城川の戦い(耳川の戦い)

2022年02月14日 16:11

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/14(月) 01:22:41.38 ID:pM3JFnrJ
「大友興廃記」より高城川の戦い(耳川の戦い)

(大友の軍配者・角隈石宗が「彗星が出て不吉だから、四十九の厄年だから、大友氏と島津氏は両家とも家祖が頼朝の息子で御連枝だから」
といろいろ理由をつけて島津との戦をやめるよう、大友宗麟に諫言したが、結局は日向に繰り出すこととなり、十月十一日に大友軍が高城を包囲し戦闘が始まった)

互いに日夜鉄砲を打ち合って日を過ごしていたところ、島津義久公は鹿児島で十一月七日の夜に
「うつ敵は 龍田の川の もみじかな」という霊夢を見た。
義久「これ、天のあたえたまう所なり、軍は大利あるべし」と悦び、大隅・薩摩から十五から六十の土民・百姓まで戦に駆り出した。
四万の兵で十一月十一日に高城まで押出し、佐渡原に義久公本陣をおいた。
この時、白狐が義久公の御旗本より敵方へ向かったため、薩州の家の吉兆であるとみなした。
(この後、薩摩の布陣の説明が延々と続く)

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/14(月) 01:25:21.38 ID:pM3JFnrJ
大友軍の先陣、佐伯宗天(惟教)から御本陣に薩摩勢の援軍について注進をしたのち
宗天は「御旗本の到来を待つべし」と主張。
一方、もう一人の先陣大将・田北鎮周は「御本陣への注進には及ばず、ぜひ戦をせん」と主張。
宗天「大軍と大軍の合戦においてはさようのおもむきにては利を得ざるものなり。
まず敵の手立てを見計らい、味方の人数配置し種々の武略計略をもちいて勝ちをおさむるものなり」
また軍配者・石宗も「多勢を使うは大事のことなり。早速敵陣にかかりては勝利あるまじ。
その仔細は陣の形を見るに、この方よりかからんを待つらしくおぼゆ。
敵色を見計らい、この方にても策立てあるべし。」と宗天に同意。
田北鎮周「各々は申さるるになされよ。この鎮周においては目の前に見ゆる敵を、さようにのびのび見んような分別は一向に同心ならず。
明朝、鎮周先駆け討ち死にして見せん」とわが陣へ帰る。
石宗「鎮周、日ごろの覚悟よきとも、軍法に背く分別にてはよきことあるまじ。
人数のくばり、軍の手だてもいたずらなり。豊後にて申し上げたがごとく、当年大軍を起こすこと不吉なり。」
宗天「先陣を仰せつけられ、鎮周にわかに気を負い、無分別となる。
軍に利を失い、日ごろのほまれも水になるべし」と悔やむ。
諸軍将は鎮周に同心し、宗天の意見に従うものはわずかであった。これは不吉の相であった。
臼杵惣左衛門、柴田何左衛門、斎藤進士兵衛、この三人一同は、かくなる上はと
「鎮周、かくのごとき分別なれば、明朝討ち死にあるべし。諸軍勢も利を非に曲げてかかるゆえ、利あるまじ。
この食い違いを推し量るに、宗麟公の果報も末なり。御運かたむく端なるべし。
明日死ぬべき命ならば諸郡に先立ちて討ち死にせん」
ということで、十一月十一日申の刻のおわりに三人かけだして討ち死にした。

宗天は相備えを三段にしようと佐伯掃部介を使者として鎮周に使いを出したが、掃部介が鎮周の陣に行ってみると、かがり火をきかせて
大魚を焼き、明朝討死しようと酒宴をしていたため、掃部介は宗天の伝言を伝えず帰還した。
掃部介から鎮周の覚悟のほどを聞いた宗天は
「今度、鎮周よこしまなる分別にて討ち死にせんことのみ思い軍に勝つべきてだてなし。まばらけの軍にては利を失わん」と仰せになり、
御子息の惟真、鎮忠も「おおせのごとく、この度の軍はみな談合も不合なるものばかりにてよきことあるまじ」と賛同した。
とはいえ鎮周だけに戦をさせるわけにもいかないと、宗天軍も明朝の出陣を決意した。

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/14(月) 01:30:16.85 ID:pM3JFnrJ
翌、十二日の卯の刻の終わりに鎮周は田北勢を率い、宗天も陣を三段構えにした。
鎮周は薩州の先手・本郷(北郷?)の軍を突き、敵陣が魚鱗であるとみた宗天の勢は偃月に陣を変え、本郷の六千余の陣を打ち破り、本郷(時久と久盛?)を討ち取った。
味方後陣の勢も続けてかかり、敵勢を討ち取り、大利を得、敵に敗軍させ、財部までおいこみ、川辺に陣取ったため、高城のおさえも豊後勢の若武者も先陣に加わろうとかかっていった。
その時、敵はもとより鳥雲の陣を奥義としていたため、島津右馬頭(以久)が川上からより横槍を入れ、また城からは山田新助(有信)を侍大将として城中の人数を出してきて、
義久公も佐土原より旗本をよせてきて、豊後勢の陣の道を取り去った。
一方には大沼、または広い池があり、敵は地理案内のため、豊後勢を沼や池に追い込んだ。
こうして豊後勢は討たれて利を失い、宗天父子三人は戦死、鎮周も討死に、田北勢の武士も過半が討たれた。
宗天・鎮周が討たれたため、薩州が大利を得た。この戦いで敵味方六万六千余が討ち死にした。
宗麟公の御旗本から卯の刻に「辰の刻に御本陣をよせる」と使者がきたが、鎮周の型破りな無分別のために豊後勢はこのようになった。
これを議すると、宗天・鎮周がこの度、先陣の両大将をたまわり、股肱の臣として命を全うすべきでありながら、鎮周の無分別のために利を失ったことは、天命だったのだろう
十一月七日の夜、義久公の霊夢に出た
「うつ敵は 龍田の川の もみじかな」というお告げのごとく、豊後勢は池川にて大勢討ち死にし、天より勝利を義久公に授けたのであろう

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/14(月) 01:35:28.00 ID:pM3JFnrJ
なおこの後「宗天の人数 戦死の侍」の条があり、

佐伯宗天は平生、家臣に対しても礼をもって接していたことご書かれており
主君とともに敵に対して一歩も引かずに討ち死した家臣
百二十人の名前が数ページにわたって記されている。

佐伯宗天(惟教)と息子の惟真・鎮忠が戦死したため
豊後佐伯氏の家督は惟真の息子の惟定が継ぐことになる
↓この前出た話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13371.html
豊後の佐伯太郎惟定は、驍勇智謀の将であった