87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/20(日) 13:27:33.74 ID:rpnOy1Tz
丙申(1716年)三月十九日に、大村家の家老・富永五郎左衛門が申した事によると、今の大村伊勢守(純庸)は
藤原純友より三十三代の後裔であり、純友の子が伊予国に隠れ住み、その子の代に大村へ移った。
富永の先祖もこの時伊予から随臣した家人であったという。
南蛮人が我が国に来る始めは薩州種子島で、その後に豊後に来た。そして三度めに大村領に来たという。
現在もその地に、(キリスト教)寺院の跡がある。
これより、(大村)民部大輔純忠の代、元亀元年の春、南蛮人は初めて長崎に来た。この頃は長崎も
大村の所領であり、元々は長崎と称していた者の領地であった。
同二年三月、南蛮人は長崎に町々を建てて大村氏に対し地子三百目を出し、キリスト教の寺院を建てた。
その後秀吉の代に、南蛮人は博多に於いて秀吉の近習の者に無礼があったとして、長崎を追い出された。
(思うにこれは、薩摩陣(九州役)の時の事か)
この時、長崎は秀吉の御領となった。これは大村氏が地子銀を取って南蛮人に貸していたが、その南蛮人が
この地を没収された故であったという。
天正十六年に鍋島加賀守(直茂)に預けられたというが、それから四年ほどして、文禄元年より
寺沢志摩守(広高)を長崎の奉行とした。
(紳書抄)
大村氏の由来と長崎について。
丙申(1716年)三月十九日に、大村家の家老・富永五郎左衛門が申した事によると、今の大村伊勢守(純庸)は
藤原純友より三十三代の後裔であり、純友の子が伊予国に隠れ住み、その子の代に大村へ移った。
富永の先祖もこの時伊予から随臣した家人であったという。
南蛮人が我が国に来る始めは薩州種子島で、その後に豊後に来た。そして三度めに大村領に来たという。
現在もその地に、(キリスト教)寺院の跡がある。
これより、(大村)民部大輔純忠の代、元亀元年の春、南蛮人は初めて長崎に来た。この頃は長崎も
大村の所領であり、元々は長崎と称していた者の領地であった。
同二年三月、南蛮人は長崎に町々を建てて大村氏に対し地子三百目を出し、キリスト教の寺院を建てた。
その後秀吉の代に、南蛮人は博多に於いて秀吉の近習の者に無礼があったとして、長崎を追い出された。
(思うにこれは、薩摩陣(九州役)の時の事か)
この時、長崎は秀吉の御領となった。これは大村氏が地子銀を取って南蛮人に貸していたが、その南蛮人が
この地を没収された故であったという。
天正十六年に鍋島加賀守(直茂)に預けられたというが、それから四年ほどして、文禄元年より
寺沢志摩守(広高)を長崎の奉行とした。
(紳書抄)
大村氏の由来と長崎について。
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