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今は速やかに天意人望に応じて降参するべし

2018年12月25日 21:19

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/25(火) 19:01:46.98 ID:Ptb2kkHD
(掛川城の戦いの時)

掛川城再攻により、今川方が和睦を評議していると聞こし召し、神君(徳川家康)は岡崎に帰城して人馬を休めんと
された。すると尾藤主膳や気賀一揆が堀川城の旧塁に立て籠った。またこの頃、大沢左衛門佐基胤が再び今川に一味
して遠江敷智郡の堀江城に籠り、中安兵部定安・権田織部泰長らと同じく敵の色を顕した。

(原注:関白道長より四代の中務大輔基頼の子・持明院左京太夫通朝の十代・左衛門佐基久が遠江に居住し、丹波の
大沢を領した。今の基胤は基久より九代である)

そこで3月25日にこれを井伊谷三人衆の近藤石見守康用とその子・登之助秀用、同じく三人衆の鈴木三郎太夫重吉
(重時)・菅沼次郎右衛門忠久、野田の菅沼新八郎定盈らに命じて討手に向かわしめられた。

(中略)

また堀江城は井伊谷三人衆と野田の菅沼定盈が押し寄せ攻めたが、鈴木重吉が討死した。その後、日数を重ねて攻め
囲みなさったが、神君は4月12日に城中へ御使者を立てられて仰せ遣わされたことには、

「大沢は氏真の被官家人でもないにも拘わらず、旧好を忘れずに只今衰運の今川のために籠城し、日を経て苦戦する
その義烈はもっとも感銘を受けるところである。しかしながら、私は今遠江一円を手に入れて掛川も和睦した。今は
速やかに天意人望に応じて降参するべし。本領は相違なく与えよう」

これにより大沢主従はいずれも仰せに従った。よって御誓紙を下されると、大沢を始めとして中安兵部・権田織部も
皆降参した。この時、中安・権田の両人は御家来に召し出された。(原注:『東遷基業』『武徳編年集成』)

――『改正三河後風土記』


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