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そこに参加していた大谷刑部少輔吉隆は

2023年01月10日 19:31

547 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/01/09(月) 19:10:33.28 ID:vjiAFdO6
太閤となった豊臣秀吉が諸将を招き、自ら茶を立てた時のこと。

そこに参加していた大谷刑部少輔吉隆はライ病を患っていた。
茶碗が諸将を間を廻り、やがて吉隆の手に移った。
太閤殿下が自ら立てた茶であり、恭しく茶碗を口元に運んだところ、血膿の混じった鼻汁が茶碗の中に落ちてしまった。
弓矢を取っては万夫不当の勇者である吉隆もこれには困ってしまった。
居並ぶ面々は誰も気づいていないようなのでこのまま廻そうかと思ったが、血膿の混じった茶をわからぬとはいえ他人に飲ませるのはさすがに心が恥じる。
さてこの場をどう取り繕ったものかと途方にくれていると、その様子を見ていた太閤はそしらぬ顔で「刑部、その茶は加減が不味いからもう1度立て直そう。茶碗をこちらへ返せ」と手を伸ばしてきた。
それによって益々惑ってしまった刑部がまごまごしていると、太閤はひったくるように茶碗をもぎとると、血膿の入った茶をグッと飲み干してしまった。そして新しく茶を立てなおしてまわした。
面目を保つことができた吉隆は、ほっと吐息を漏らしたという。

有名エピソードの少し違う版。『豊臣秀吉言行録』より



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関ヶ原前の緊迫した通信事情

2022年10月04日 19:12

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/03(月) 19:27:03.40 ID:HQYAPPYE
慶長年中卜斎記』より
関ヶ原前の緊迫した通信事情

(七月十九日申の刻)増田長盛から石田、大谷蜂起の風聞を知らせる書状が家康方に到来。家康は写しを先手に遣わした。また、急ぎ代官衆に命じ、百姓による一里飛脚を宇都宮まで整備した。その後も風説あり、風説は収まるなどと真偽不明の書状が何通も届き、すべて写しを先手に送った
(二十一日)家康が岩槻に渡御してから上方の飛脚と書状が届かなくなった。その子細は織田常真が敵になり、美濃関ヶ原に軍勢を置き書状と飛脚を通さなかった。天を飛ぶよりほか、地上を歩いて届けるのは無理だと取り沙汰された
(二十二日)金森法印のもとに石田から書状が届いたが、金森は書状箱を開けず封をしたまま家康に差し出した。その状の内容は誰も知らない
(二十四日)この頃、上方からの飛脚状は3、4寸(10センチ前後)四方で結った髪の中に入れてやってきたそうだ。編笠の緒により混んで来たものもあったという。この二人が誰の遣わした使者だったかは忘れた
(八月十日、江戸)家康はご機嫌がよく、料理の間に午の刻にお出になり、「俺が料理をする。鶴を料理しろ」とおっしゃったので鍋を掛け火を起こした。御前には本多忠勝、某(卜斎)、全阿弥の三人がおり、料理は忠勝にご馳走され、家康は囲炉裏の近くにおられた。どこから届いたものか、家康はいかにも細かい字で書かれた書状を目に近づけてご覧になった。そして「去る朔日(ついたち)に伏見城が落城した」と誰にいうでもなくつぶやき、西の方角を向いてはらはらと涙を流された
(二十八日)福島、池田から書状到来。去る二十三日に岐阜城を落として首を進上した。川を渡って陣取りしたので御出馬あれとの内容。家康は「首は芝口に架けろ」と命じた
(九月三日、小田原着陣)永井直勝のもとに小早川秀秋の使者が到来したので報告すると、家康は「せがれ(秀秋=年が若い者をいやしめる蔑称)の言うことは真実ではないから取り合う必要はない」と命じた



漢城のこと、唐軍等の武装のこと

2021年05月09日 16:53

708 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/08(土) 23:32:21.87 ID:8ZD01rvz
この日(文禄元年十一月十七日)もあらまし漢城を見物した。大門の様子は五尺ほどの切石で
組み上げ、高さ三間、上に二階があり組物ゑどりの見事さは言葉に尽くせないほどだ。
門口は、丸くまた周囲五抱えほどの鐘がある。このような門が七つあって外郭十三里。峰から谷まで
全て石垣と築地でめぐらしてあり、いずれも切石が使ってある。その手際の見事さは例えようもない。
また内裏は王が退かれるとき自ら放火したそうで、その見事さは見ることができなかった。
しかし門が残っていた。六間ほどの広さで上に二階造りの立派な座敷がある。また門柱、戸辺には
鉄が貼り付けてあった。どれも素晴らしい絵模様がついている。鳳凰と白鷺、牡丹と白鶴である。
天井には龍が身をくねらせて寝ている。生きて動くように見え、恐ろしいほど。門の上に五抱えほどの
大鐘が吊られ、大太鼓もある。池には島がある。島の大きなものには石の柱で屋形が作ってあるように
見えるが、柱だけが残っている。その島には広さ三間ほどの石の反橋があり、欄干も石でできている。
池には二十人くらい乗れそうな船が二隻浮かんでいる。また掘があり、堀端には象、獅子、その他
唐の動物が石で彫り付けてある。大きな切石に鉄の輪が打ち付けてある。王の御代に象を繋いだのだと
唐人は言っていた。どれも日本の都に聚楽を添えたほどだと大谷刑部少輔殿が仰せられたそうである。
吉見家朝鮮陣日記』(毛利家の吉見元頼が配下の下瀬頼直に記録させた日誌)

「日本戦記 朝鮮役」より

709 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/08(土) 23:39:34.04 ID:8ZD01rvz
唐人の武具は馬上のものは半弓であり、足軽は五尺ほどの棒を振り回すのである。なかには長さ二間ほどの竹に
熊手がある。これは城がかりの道具である。鉄砲、台無(仏郎機砲か)はいうまでもなし。
出で立ちは漢南(華南兵)は総じて赤し。甲は白みがき。兀良哈(遼東兵)は総じて黒く、
朝鮮人は総じて白なり。いずれも三色のいでたちなり。
城攻め(蔚山)の次第は朝は六つ刻あたりから晩は五つ刻までであった。
上山助右衛門高麗陣覚書』(毛利家臣の記録)


※白磨き(日本甲冑のように塗装しない白銀色。甲冑用語としてもいわゆる西洋甲冑と同じ色合いをこう呼びます。)



宇喜田騒動とその後の波紋について

2021年04月02日 18:26

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/02(金) 15:27:20.49 ID:I1Do2lfE
その頃(慶長四年冬)、備前中納言殿(宇喜多秀家)の家老、浮田左京亮(坂崎直盛)、戸川肥後守(達安)、
岡越前守(貞綱)、花房志摩守(正成)の四人が、秀家への申し分が出来、この四人の衆、面々屋敷に
居ることは叶いがたしとして、高麗橋東北の角に、浮田左京の屋敷があったが、ここに引き籠もり髪を剃り、
家臣の者共を大阪町家の詰り詰りに遣わして、『屋敷に鉄砲の音が鳴れば、町中所々焼き立てるように。』
と、覚悟を定めていた。

これに対して扱い(調停)人として、大谷形部少輔(吉継)、榊原式部大輔(康政)、津田小平次の三人が
当たったが、式部大輔の扱い様悪しきとして、家康公の御気色を蒙り、関東に追い下された。
一方、大谷刑部少輔、津田小平次はこの時は家臣ではなかったため、御構い無かった。
大谷刑部少輔に対しては、殊の外御懇ろにて、折々に御相談の相手に成っていたのであるが、この頃より
御相談相手とされることは止んだ。彼が後に敵と成ったのも、この時の意趣からであると云われた。

(後の関ヶ原の折)、小山まで浮田左京、戸川肥後守は御供をした。岡越前守、花房志摩守も罷り下りたいと
様々に申し上げていたが、家康公は思召し有りとして、大阪に残し置いた。
そして四奉行が敵と成った時は、両人大和の郡山で、右衛門尉(増田長盛)の元に付け居られた。
これは、元より右衛門尉が家康公と裏で通じ合っていた故(下心能御座候故)である。

慶長年中卜齋記

宇喜田騒動とその後の波紋について



大谷は批拠を申す

2020年07月28日 17:21

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/28(火) 12:32:44.61 ID:hUBmOpWK
大谷刑部少(吉継)は内府公(徳川家康)に別して忠信であったのが、此の度の謀反(関ヶ原)に加担したのは
どういう事かと言えば、去る頃、宇喜多中納言(秀家)が家老の衆と主従の間で騒動があり(宇喜多騒動)、
大谷は中納言の理を専らに言い立てた。一方内府公は家老の者たちの主張を支持し、この事について
「大谷は批拠(比興)を申す」と宣われた事によって、この如く成ったのである。

当代記




234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/28(火) 13:00:12.13 ID:KZU+Tqw3
あー、これが関ヶ原であいつマジでなんで西軍についたのか意味わからんけど
直近であったの宇喜多騒動くらいだし、多分これだろうなーって言ってるやつかー

仔細が有り、丹波路を行く

2020年03月26日 17:57

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 10:09:52.35 ID:++oLtex7
慶長五年、奥州会津の城主・長尾景勝御討伐の時、細川越中守忠興は家康公の御味方にて宮津より出陣された。
父・幽斎は隠居の身であったので、田辺の城に居られ、忠興だけが出た。

こうして忠興は雑兵たち三千の人数にて六月十一日に宮津城を出馬された。この折に、御暇乞い申さんと、
田辺城に立ち寄り、その夜は田辺に宿陣した。幽斎は天守に上り、軍勢の行列を見物された。

忠興は若州を経て近江路へ打ち出ようと、丹後・若狭の境である吉坂まで進んだ。ここに、若州熊川には
近年関所が有るのだが、ここに敦賀の城主・大谷刑部少輔(吉継)が下知を加え、熊川の関所をいよいよ
堅固にして往来容易からざる様子が聞こえたため、忠興はこのように申した

「若州より近江路へ打ち出ようと思ったが、仔細が有り、丹波路を行こう。」

そうして吉坂より取って返し丹波路を山家へかかり、伏見へと出た。
幽斎はこの事を聞くと、こう申された

「刑部少輔になにか計りが有ったとしても、それで忠興の通行を妨害する仔細はない。
この頃世間物騒の時節であるのだから、むしろ関所に行き掛り、仔細を見届けて通るべきなのに、
吉坂まで進んでおきながらそこから取って返し、丹波路へ向かったのは不覚悟の至である。
忠興がもし存命して帰陣したとしても、対面は致すまじ!」
そう奥歯を噛み締めて怒鳴られた。

また一方、それから程なくして小野木重勝が田辺城を攻めた時、勅命とは言いながら、今少し永らえずして
幽斎が城を渡して京都に上ったことを忠興も悦ばなかった。

こうして互いに隔心が出来、段々と不和に成っていき、後にそれは次第に募り、父子の間の侍共が、一日に
二度に渡って鑓を合わせる事件も有った。

丹州三家物語



937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 12:43:09.56 ID:R6yK/SZl
サイコパス親子

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 12:52:06.74 ID:/s+X6SpC
命がけの親子喧嘩は戦国あるある

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 20:16:46.18 ID:MxcE7X8S
でも、もうちょっとこう広い心があってもいい二人

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 08:59:42.36 ID:vfGRF0A/
本人同士はまだいいが配下にやらせるのはちょっとなあ

大谷刑部屋敷の怪

2020年01月15日 17:44

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 12:21:03.23 ID:5IJy5yrq
その頃、大谷刑部少輔(吉継)は(関ヶ原へ)出陣の最中であったが、彼が跡に残した屋敷において、
不思議の怪があったという。

九月十三日の未だ宵に、刑部少輔の女房たち数多集まって、「今宵は名にし負う月の名残である。閨中ただ一人
見るらん」と云いし古言も、今身の上にしら露の、起き伏しに付けても殿の御事覚束なく、四方山の物語をし、
また古歌などを吟じ、或いは謡わせ舞わせなどして、月を詠み、酔を勧めて遊ばれていた折節、庭前の木陰に
大勢の声が響き、それらは大変哀れな泣き声であった。

大谷刑部の内室を初めその座にあった女房たちは「これは如何なる事ぞ」と怖ろしく思いながら物陰から
庭の面を見渡すと、男女、その数一、二百、たいへん気高い柩を担ぎ、幡、天蓋、挑灯等、堂々たる規式にて
葬送を行っている有様であった。

その場の人々はこれを一目見て、気も魂も身から出ていくようで、侍共を召し寄せて、「穿鑿せよ」と言っている
内に、消えたように居なく成っていた。

これを見聞きした人々は、折柄の凶しき事であり、忌を思わぬ者は無かった。
奥方の女性たちは恐れおののいて、内室の御手を引き「御休み候へ」と帳内に誘い入れ、大勢の女房衆が
前後左右にかこみ、御伽いたし、勤めた。

そうして留守居の家老達、出頭の面々は次の間に伺候して、槍、長刀の鞘を外し、鉄砲には火薬を込め、
弓は弦をくい締め、内室を守護する体で寄り挙り、色々の雑談をしつつ
「先程の葬送は、狐、狸の技であったのだろう。しかり妖は徳に勝たず。」
などと祝言して居た所、また最前の庭中に、大勢の声で、どっと笑う音がした。

これに女房たちは申すに及ばず、警護の武士に至るまで「是は是は」と肝を消し、皆々あきれていた時、
いと怪しげなる声音にて、

「少しも驚き申さるるな。おっつけ御不審晴れ申さん。」

と高らかに叫んで、かき消す如く失せた。
それより内議評定して、
「これはそのまま捨てておくことは出来ない。軍の様子を聞くため、またこの次第をお知らせするため。」
と、委細の事を書きしたため、早々に飛脚を遣わした。

そしてその遣いが未だ到着しない間に、関ヶ原敗軍して、刑部少輔はたちまちに自害したと聞くと、皆
腰抜け、力を失いてあきれたという。

(石田軍記)

大谷刑部屋敷の怪



748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 23:12:59.43 ID:vFBKfcLy
>>744
妖怪の知らせ…?

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 23:29:46.81 ID:kXcRoRmC
>>744
    r⌒\// ////:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ //// //
    (´ ⌒)\ ///::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|// //
ポッポー ||  \|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| _/ /ヽ        /ヽ
     人   ...\    +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;/ /   ヽ      / ヽ
    (__)     \    ( (||||! i: |||! !| |) )    /__/U  ヽ___/  ヽ
また (__)天狗か .\+  U | |||| !! !!||| :U  /__/   U    :::::::::::U:
    (・∀・#)       \   | |!!||l ll|| !! !!|/| | 天 // ___    \     ::::::::|
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/旦|――||// /|      <   天 >  | |  |U |    |        :::U::|
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|_____|三|/      < の の >     ヽ      .....:::::::::::::::::::::::<
────────────< 予 仕 >─────────────
      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \< 感 業  >天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!   
/⌒ヽ  / ''''''     ''''''  ヽ<.!    >こういう天狗のように鼻が立ってたのが
|  /   | (●),   、(●)   | ∨∨∨∨\天狗の天狗なんだよな今の天狗は
| |   |    ,,ノ(、_, )ヽ、,,     / ヤダヤダ \天狗の天狗を知らないから
| |   |    `-=ニ=- '    /〃〃∩  _, ,_  \天狗の仕業じゃ!  , ;,勹
| |   !     `ニニ´   `/  ⊂⌒( `Д´) <\          ノノ   `'ミ
| /    \ _____ /      `ヽ_つ ⊂ノ    \        / y ,,,,,  ,,, ミ
| |    ////W   / )、._人_人__,.イ.、._人_人_人     / 彡 `゚   ゚' l
| |   ////WW /<´ 天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!>\  〃 彡  "二二つ
| |  ////WW /    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒   \|  彡   ~~~~ミ

和泉様御鑓先の敵は

2020年01月04日 16:33

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/04(土) 14:14:49.52 ID:zP+MkFWP
権現様(徳川家康)は九月十四日の昼時分に赤坂にお着きに成り、先手の上方衆はその夜、青野ケ原へ出て
野陣をし、翌十五日の未明に、いずれも青野ヶ原を御立ちになって関ヶ原へ出られた。
この行程で、藤堂新七郎は先手にまぎれ参り、朝駆けで取った首を取り出して本陣へと向かった。
これは諸手の一番首であったので、権現様へ高橋金右衛門が持って御上げした。

その後、和泉様(藤堂高虎)御鑓先の敵は、大谷刑部少輔(吉継)、脇坂中務(安治)、小川土佐(祐忠)、
平塚因幡(為広)の四人あったが、脇坂中務と小川土佐は和泉様才覚にて裏切りを仕り、大谷刑部少輔人数と
一戦した。刑部少輔家臣の湯浅五助と申す母衣の者を、藤堂仁右衛門が討ち取った。その他敵を数多討ち取った。

そして藤堂玄蕃が討ち死にし、そのほか御家中の者達も多く討ち死にした。権現様衆の村越兵庫殿もここで
討ち死にした。

権現様はこの働きを御忠節に思し召され、後帰陣後、後褒美として伊予半国を拝領に成り、和泉様の所領は
都合二十万三千石となった。

(藤堂家覺書)

関ヶ原に関する藤堂家の記録



479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/04(土) 14:30:04.66 ID:m4Y0etBc
便乗した朽木は残り
藤堂にあらかじめ内通していた小川は改易とは

忍城の戦い

2019年11月28日 18:45

624 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/11/28(木) 14:18:17.20 ID:oSsDNnzT
小田原の役の折

武州忍城の城主である成田下総守氏永は、舎弟左衛門佐泰喬(泰親)、及び田山豊後守、奈良、玉井、
以下五百余騎にて小田原城に籠もり、忍城には留守を置いていた。(中略)

忍城では豊臣軍が迫ると、近隣のすべての地下の農民、商人、社家、山伏、さらに15歳以上の
小冠者(元服して間もない若者)までもかき集めて、彼らを堀裏に置いて旗を差させ、敵方に
多勢が城に籠っているように見せかけ、また鉦や太鼓を用意しておき、敵が不意に攻めてきた場合は
これを打ち鳴らして他の手より救援させるようにと重々に仕組みを手配して、忍城には都合
二千六百二十七人が立て籠もった。

城将の成田氏長の正室は太田美濃守入道三楽斎の娘で、息女が一人有あったが、この娘とともに
この城に籠城した。彼女らは母娘共に容貌麗しく、優れて甲斐甲斐しく操ある女性であった。
「私達は女の身であると雖も、父祖も夫も、数代の弓矢の家に生まれ、たとえ氏長が留守であろうとも
このような時に至って武名を貶めること有るべからず。」
そう言うと、城代の成田肥前守をはじめ、一族家臣等に下知し、士卒の心を一つにして、城を枕に
すべき旨を、心から申し渡した。すると城兵たちは恥の有る者も無い者も、女性にてさえかくの如き
なのだと、感じ入らぬ者は居なかった。

寄せ手は、石田三成大谷吉継長束正家を大将として二万余騎にて館林城を落とすと、一両日
人馬の息を休めて、六月四日に忍城へ押し寄せた。生田口と下忍口は石田治部少輔、早見甲斐守、
北条左衛門太夫、並びに佐竹・宇都宮の衆七千余人、人丸墓山を本陣として大宮口までを打ち囲んだ。

佐間口は長束大蔵少輔、伊東丹後守、結城左衛門督晴朝、水谷伊勢守勝隆、岩上但馬守らが加わり
四千六百余人、

長野口は大谷形部少輔、松浦安太夫、鈴木孫三郎以下六千五百余人、これは北谷口までを受け持ち
陣を張った。

これらの攻め口は全て水田の池地であったため近づくことが出来ず、遠巻きに構えていた。皿尾口は
中江式部少輔、野々村伊予守、および江戸川越の五千余人、ここもまた僅かに細道が有る程度で、
左右は深い沼であり、足を踏み入れれば進むことも退くことも自由にならない有様であった。
それでも寄せ手は砦をひとつ乗っ取りそこに陣を付けた。そして持田口の一方をわざと開けておいたが、
これは城兵を放心させて城を攻め落とそうという術であった。

そもそもこの忍城のあるこの地は全体が大沼であったのを、成田氏長の祖父である中務少輔親泰が
多年多くの人力を用いて築かせた城塁であり、さりながら今なお四面深田であり人馬の駆け引きも出来ず、
故に今度の豊臣軍も、寄せ手は攻めあぐね暫くは攻めるのを見合わせたものの、だからといって
攻めねば城の落ちることはないと諸隊は相談し、鬨の声を挙げて矢鉄砲を打ち込み戦うものの、
足場が悪いため死傷者は数しれぬ有様であった。

そのような中、城方では下忍口にて別府小太郎、野澤金十郎の二人、共にこの時二十歳であったが、
先駆けして奮戦し、小太郎は深手を負って倒れ、これに寄せ手の武者が駆け寄り首を取ろうとした所に、
小金井善忠の郎党・橋爪孫兵衛という者が馳せ合わせ、かの武者を討ち取り別府を城内に引き入れた。

また皿尾口にては寄せ手は馬より下りて徒士となって攻めかかったが、城兵の松橋内匠助という
鉄砲の手練が、大筒で試しに撃ち出した所。進軍してきた寄せ手の兵七、八人がたちまち命を落とし、
これによってこの方面の軍勢は裏崩れを起こして引き上げた。中江、野々村はこの体たらくを怒り、
「この口は足場が悪いので力攻めは無理だ、策を以て攻めるべきである、」と、井楼を二ヵ所に作り
そこに大筒を仕掛けて城に向かって撃ち込んだ所、暫くは城方からの攻撃が止まったという。

625 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/11/28(木) 14:19:06.84 ID:oSsDNnzT
ここで石田治部少輔が提案した
「この城は要害の地であり、また兵糧、矢弾も多く籠め置いてあると聞く。であれば、早期に陥落させる
事は難しいだろう。そこで城郭の四方に堤を築き、そこに利根川荒川より水を引いて水攻めにすべきだ。」
そういう訳で、近隣にこの工事のことを触れ、過分の米銭を与えて人足をかき集め、昼夜を問わず
土石を山のように運ばせ四面に堤を築かせた。

ところが、この時忍城内に籠もっていた農夫、商人らも、夜中に密かに抜け出て土石を運び賃銭を取り
それにて米穀を買い求めまた城中に入った。工事を担当する奉行の者達はこの事を聞きつけて

「この城に糧を入れるのは木の根に水を与えるようなもので、こんな事ではいつまで経っても
城が落ちることは有りません。城内より出てくる人夫は搦め捕って首を刎ねるべきです!」
と訴えたが、石田治部少輔はこれを聞くと頭を振って

「いやいや、そのような事をすべきではない。堤さえ出来れば城兵は片端から溺れ死ぬのだから、
たとえ米穀が城内に充満していても何の意味もない。また、もし彼らを誅殺した事で、これに関係のない
外の人夫たちが恐れて逃げ去ってしまっては、堤はますます完成しなくなる。何も知らぬ体にて
堤の完成を急ぐのだ。」

そう言って、日夜下知を励ますと、幾程もなく堤は完成した。
「それでは」と、利根川を防ぎ留めて江原堤に水を流したが、この時、五月雨の時期が終わると
炎天が続いていたため水の流れも乏しかった。そこで荒川を防いで水を流した所、水は滔々と流れ
溢れた。これに城兵たちは高地へ集まったが、それほど困った様子もなかった。

そのような中、同月十六日の申の刻(午後四時頃)より空曇り雷鳴轟き、夜間には豪雨と成った。
ところがこれによって、寄せ手の築いた堤が、川西という所より五、六間も切れたかと思うと、
新しく築いた堤だったためあちらこちらが押し破られ、逆水となって寄せ手の陣所に押し寄せ、浸水に
よって若干ながら人馬が溺死に及んだ。その後水は引いたが、道は深泥の如くと成り、馬の蹄も
立たない有様で、寄せ手も遠巻きにして徒に時を過ごすしか無かった。

(関八州古戦録)

「忍城の戦い」について

続き
彼らを謀ったのである


館林城と決定命婦荒御前

2019年11月27日 16:07

385 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/11/27(水) 13:07:06.45 ID:pmzO3enF
豊臣秀吉による小田原の役の折

東上野の館林城主は北条美濃守氏規であったが、彼は豆州韮山に立て籠もっていたため、
この城は南条因幡守が城代として在り、板倉の真下越前守、飯野の淵名上野介、大島の片見因幡守、
小泉の富岡六郎、藤岡の富田又十郎、以下五、六千人がこれを守っていた。

この館林城攻めの軍勢として、石田治部少輔三成、長束大蔵少輔正家、大谷刑部少輔吉継、
早見甲斐守守久、野々村伊予守雅春、伊東丹後守長実、中江式部少輔直澄、松浦安太夫清長(宗清)、
鈴木孫三郎、並びに佐竹義重、宇都宮国綱が東国の先方衆の陣代としてこの軍勢に列し、五月二十二日、
館林城へ押し寄せた。

この城の盗難は躑躅ヶ崎といって渺々とした深い湖沼であり、人馬が通行するのは不可能であれば、
攻め手は味方を三手に分けて、三方より攻め掛かった。西の大手は石田、速水、中江、並びに
佐竹宇都宮勢七千余騎、佐川田の渡を越えて佐野口より押し詰め、大谷原の松林に陣を取った。

東方は下外張口の搦手より長束、野々村、伊東ら六千八百余騎が、東北の加保志口は大谷、松浦、鈴木ら
五千六百余騎、都合一万九千四百余騎にて三方より囲み鬨の声を上げた。

一方、館林城中は多年激しい戦に慣れている勇士達であり、手ぐすねを引いて集まった者達が、
殊更に屈強の要害に籠もっているのだから、ここに支えかの所を防ぎと頑強に防衛し、簡単に
落ちそうに無く、寄せ手は遠攻めをして三、四日が過ぎた。
この時、石田三成が諸将に対してこのように提案した

「この城の東南に大沼があり城方にとって手明きとなっている。このため彼らは残りの三方に
集中して防戦し、故に屈強に抵抗している。そこで、人数を分けて大袋山に入って大木巨木を
切り倒してあの沼に投げ込ませ、また周辺の家を破却し、これらを用いて道を付けて攻め寄せれば、
敵兵は持ち口が分散され味方が攻めるのに有利と成ると考えるが、如何であろうか。」

これを聞くと諸将は皆然るべきであるとして、近くの郷村に触れを回し、料足(賃金)を与えると
呼びかけると、人夫二、三百がたちまち集まり、近辺の山林より大木を刈り出し昼夜を分かたず
大沼へ投げ込むと、二、三日の間に八、九間ばかりの二筋の道を付けることが出来た。
その間三方の寄せ手は意図を汲んで隙を与えず攻め立てたため、城兵はこの防御に手一杯となり、
大沼の方面へ人を出すことが出来ず、攻め手は難なく道を付けることが出来たのである。

さて、明日は四方より押し詰め総攻めにすべしと、手分け手配も定め、夜が明けるのを今や遅しと
待ち受けていた所、その夜、松明が二、三千ばかり灯され、続けて夥しい人の声がどよめき響き、
また普請している音も聞こえた。寄せ手は「城中に多数の者達が居るとも見えないのに、堀切、柵などを
付けているのだろうか。」と訝しみ囁きあいながらこれを聞いた。

一方で城中の方は敵勢を見て「何と夥しい敵兵であろうか。今はもはや四面このような状況であり、
我等はもはや牢の中の獣、籠の中の鳥の如くであるから、城から落ちることすら出来ない。
明日は潔く一戦をして討ち死にしよう。今生の暇乞いに、今宵は快く最期の酒盛りをすべし。」
と一献を催し、夜明けを待った。

386 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/11/27(水) 13:07:52.31 ID:pmzO3enF
夜が明け日が既に曉天に至った頃、石田治部少輔、佐竹、宇都宮ら四千余騎にてかの大沼に押し寄せ、
持ち盾械楯を先に立てて、それぞれに馬を乗り放って進み、近づいて見てみた所、二筋まで付けた
道の材木が尽く泥中に沈み込んでおり、どうにも渡れる状況ではなかった。
これに寄せ手は大いに驚き「さては前夜の人夫の音はこれであったか!」と言い合ったが、猶も
不審は晴れないまま、他の三方の攻め口にこの事を伝えた。

丁度その頃、山中城が落城し、そこを守っていた北条左衛門太夫氏勝は降伏、豊臣軍の案内として
こちらに着陣していたのであるが、これを聞いてはたと思い出した
「これは全く城兵の仕業ではない。かつて赤井但馬守がこの城を築き始めた時、野狐の変化が
地形の指南をしたという。その野狐は今以て城中にて祀られ鎮守の神として崇められていると聞く。
尾引曲輪がそれである。かつて永禄九年の秋、南方(北条)の軍勢が当所に押し寄せた時も、
このような神変があって囲みを解いた事がある。決定命婦荒御前というのがその野狐の名であるが、
これが成したことであろう。」

このように申し、また諸将も手をこまねいて奇異の思いをなしており、このような所に長陣は
無益であり、ここは和議をなして片時も早く忍城へ向かうべきだと考えていたため、この氏勝より
城内の南城、真下、富岡等へ矢文を射込み扱いを入れると、城方もこれに同意し、同月晦日に
城兵は退散した。これによって石田大谷が城を請け取り、数百ほどの番兵を置いて忍城へと向かった。

(関八州古戦録)

館林城の狐については、まとめentry-144.の『赤井照光と狐と館林築城・いい話』を参照


小田原城、早川口攻めと豊臣秀吉

2019年11月09日 18:28

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/09(土) 12:33:12.19 ID:vMeEitIm
笠懸山に一夜城を築いた豊臣秀吉は、その高台よりつくづくと小田原城を見下ろすと
「北条家五代の間、面々と工夫をこらし修営を加えた名城だけ有って、塁壁高く、
水流は深く掘られ、要害堅固である。」と感心し、これを力攻めすればいかに多くの損害が
出るか、またそれによって敵に利を与える事を悟った。そこで、後はただ長陣を張って
ゆるゆると攻め落とすことだと考えた。

そうして間断なく攻めはするが無理押しをせず、連日鬨の声を上げて敵を脅かし、矢弾を飛ばすことを
一日も怠らなかった。毎日数万の鬨の声と、数千の銃声が山野にこだまして天地を轟かせ、
磯山嵐か沖津風の如く五里十里の間に響いた。それが昼夜を分かたず行われたのである。

しかしながら城中でも、早雲以来累世の恩を被る関東武者四万五千余りが、既に生命を投げ出して
城の要所要所を固め、大筒を仕掛け、盛んに寄せ手に撃ちかけるので、上方勢も城壁に
近づくことが出来なかった。

秀吉は韮山城攻めに加わっていた北畠内大臣(織田)信雄、細川幽斎・忠興父子、福島左衛門太夫(正則)を
呼び戻して小田原城の攻め口に向かわせた。その中より特に細川忠興を呼ぶと

「小田原城の、早川口の松山に敵は砦を築いた。これまで色々と攻撃したがどうにも落ちない。
そなたが計略を以て落とすように。」

と命じた。忠興は「畏まって候」とこれを受け、早速早川口に向かうと、先ず土嚢を用意し、弾除けの
竹束を作って砦へ近づいたが、その夜、たまたま城兵が打って出たのを、忠興の家人がこれを迎え撃って
戦い、敵の首級三つを得た。

翌日、忠興自身が指揮をして。堀際六、七間ほどまで接近した。

その翌日、笠懸山より早川口を見下ろしていた秀吉が、側に在った大谷刑部(吉継)に尋ねた
「遠くの大松の影に夥しい旗が立っている。あれは敵の旗か?」
「いいえ、あれは細川越中殿の旗印でございます。」
「なんと、よくあれほどの近くまで。」
「細川殿はご自身の働きで、今夜にもあの堀を埋めるのだと申されていました。」
「そうか、あれを落とせば今度の城攻めで一番の手柄である。」
秀吉はそう言ってにっこりと笑った。そしてその通り、程なく忠興は早川口の松山砦を落とした。

しかしこのような長陣に成ると必ずこういった事が起こるように、「徳川家康織田信雄はが
敵方に内通して反旗を翻す。」との噂が流れ、これが秀吉の耳にも入った。しかし秀吉は素知らぬ顔を
していた。

そして天正十八年四月十五日のこと、秀吉は突然、先達の案内も立てず近習の侍童五、六人を連れただけで
家康と信雄の陣を訪ねた。当然ながら家康も信雄も秀吉を快く迎え、陣中に酒宴を張った。
鼓、太鼓の音も心地よく、謡も出て、三人は何の拘りもなく歓談し、秀吉は家康、信雄の陣に
夜明けまでのんびりと過ごした。

これ以降、謀反の噂はたちまち霧散し、誰もが安堵に胸をなでおろした。

(関八州古戦録)

秀吉が細川忠興の活躍を促し、また家康信雄謀反の噂を消す、というお話。



大谷吉継はこのことを聞いて思った

2016年02月06日 15:07

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/05(金) 18:59:38.80 ID:mLQrqOXT
大谷刑部少輔(吉継)は徳川家康に無二の忠節を申し上げ、大事の相談の在った時も、心底に残す所無く
家康の御為を大切にした人物であった。

ところが、宇喜多黄門(秀家)家中において不慮の紛争が起こった時(宇喜多騒動)、大谷はこれを取り持ち
榊原康政も引き加えて紛争を解決しようとしたが失敗、戸川肥前守、宇喜多左京、岡越前守、花房志摩守などは
宇喜多秀家から討ち手を向けられれば打って出る!」と、その時の相印として上下皆坊主にした。

これを家康は聞き及び、康政を叱りつけた
「関東よりお前と交代する平岩主計頭が既に上ってきているのに、式部(康政)はどうして関東に下らず、
要らぬ他家への取り持ちをしているのか?そのように欲にふけり、取り持ちに対する礼物を欲しがるような
者だったとは思わなかった!」

康政はこれを聞くやいなや、どこにも暇乞いすらせず早々と関東に下っていった。

大谷吉継はこのことを聞いて思った
「式部をそのようにお叱りなされたということは、私も同様に思われているということだ。
それにして言い方があるではないか。取り持ちをしたのを礼物目当ての汚らしい心中であると仰せになったことは、
草履で面を踏まれたのも同然だ!」

そう家康を怨み、腹を立てて泣いたという。

(玉露叢)



97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/05(金) 21:06:05.15 ID:dLnsTis+
康政を挑発して帰還させ、宇喜多家の騒動の泥沼化→弱体化させる魂胆ですか?

さらに、大谷吉継に至っては

2016年02月04日 09:22

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/03(水) 20:57:26.92 ID:SFRxxhq/
慶長4年正月21日、加賀大納言(前田)利家、並びに奉行衆よりの使いとして、
元長老の生駒親正らが徳川家康の屋敷を訪れ、
「太閤御他界以後、数ヶ月も立っていないというのに、各大名と御縁組を行ってっている儀、
我儘である。」
との内容の抗議を申し上げたという。

奉行衆よりは、大崎少将(伊達)政宗、福島正則、蜂須賀家政の3将に使いがあった。
その内容は、各々が奉行衆に相談もなく徳川秀忠と縁組をしたことは、御掟を背き
不届きのことである、という物であった。

伊達政宗はこの返答に
「私は知らないことだ。今井宗薫とかいう堺の町人がこの才覚をしていると聞いている。」
と言うばかりであった。その後奉行衆は、宗薫を呼び出し詮議をした。

福島正則と蜂須賀家政の返答の内、蜂須賀は
「我ら阿波守護家は太閤の御爪の端にも連なる者です。そんな我々が家康公親子と婚姻を取り行えば、
万端その御意を得ていないといっても、これにより家康公が、猶以って秀頼公に御無沙汰することが
無くなると考え、この事は然るべしと判断し、婚姻を申し上げたのです。」
そう答えた。

この事により、諸大名は思い思いの行動をした。
内府公には、池田輝政とその一党、福島正則、黒田如水・長政父子、藤堂高虎、森忠政、
および新庄駿河守その他小身衆が集まり、また有馬法印則頼、金森法印、織田有楽という人々も、
何れも関東方であった。
大小身共に、毎夜内府公の御屋形に詰めていた。

さらに、大谷吉継に至っては
「もし家康公に敵が攻撃してくれば、私がいつでも先手を仕り、奉行共と一合戦いたします!」
そう宣言し、自身の屋敷に人数を集め奉行衆の軍勢を待ち受けていたという。

(玉露叢)



249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/03(水) 23:03:53.96 ID:sqK6NI4q
良い時代があったのだな

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/03(水) 23:09:51.66 ID:DsX79652
なぜここまであからさまに家康の味方をしていた大谷が関ヶ原では反家康を旗幟鮮明にしたのか
(脇坂みたいにこっそり通じて、秀秋+脇坂朽木赤座小川といっしょに寝返ってもよかったのでは)
そして関ヶ原後、大谷については賞賛こそされ、謗られることがほとんどなかったのか不思議

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/03(水) 23:11:49.05 ID:9jmumgSk
前田が嫌いなだけやん

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/03(水) 23:14:02.86 ID:DsX79652
なるほど丹羽長重と同じだったと

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/03(水) 23:37:13.58 ID:9jmumgSk
そう考えればしっくりこないか?

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/04(木) 00:57:58.65 ID:u32bMwyM
家康は上杉征伐の直前あたりでも景勝に縁談持ちかけたりして
(子供いないのに上杉家の誰に縁談したのか謎)
輝元が怒ったりしてるから

大谷刑部の異見

2015年07月28日 13:05

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/27(月) 21:14:05.27 ID:5zjdTLTt
石田三成は己の才知を誇り、常に人を見下していたが、大谷刑部(吉継)とは親しみ深く、
彼からは異見であっても聞いた。

大谷刑部は元より知謀深き者ゆえ、太閤秀吉にも取立てられ五奉行の列にも加わった。
そんな吉継がある時、三成にこのように言った

「貴殿は常に金銀を貴く思い、人に対しても、金銀を与えさえすれば何事も成るかのように思い、
自分の家人たちに対しても、そのようにしているように見える。
だが、それは心得違いである。

もちろん、金銀は世の宝の第一である。だが、用い方が悪ければ害にもなり、特に家来には
別して実意を以って接しなければ、心服することはない。実意によって服していなければ、大切の時の
用には立たない。であれば、人は使いようによるものなのだ。

主人が貧しい時は、利を与えることが出来ないため、おのずから家来に対しても礼儀が厚くなる。
そのため、家来も主人への思い入れが深くなる。

主人が富んでおり、禄も多く与え、その他の物も快く与える家では、家人も悪い顔はせず、主人も
それを見て心から仕えていると考えてしまうが、家人の方は仕えている以上この位のことはするものだと、
その待遇が過分などとは思わず、君臣共に実義薄くなり、初めはその家を望んで来た者でも、後には
見劣りするようになり、貧しき主人の礼儀厚き者ほどには、思い入れてもらえないものなのだ。

だが、一概にそう言えるわけではない。
貧しくて礼儀なければ心離れ、少しの困難でも家が滅びてしまう者も多い。
貧しくても、常に甘苦を分かち、家来の風雨寒暑をも自身が受けるように思う、志深き将であれば、
困窮の中にあっても、命を惜しまず主の先途を見届ける者も有る。
源義経の漂泊に従った者達の諸行を考えてみるべきであろう。

金銀で人を使おうと思うのは、人心の離れる元だ。何事であっても、実意には帰服するものなのだ。」

三成はこの吉継の異見を忝く思い、その誠意に起伏し心から謝礼した。

(明良洪範)




453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/28(火) 02:17:32.49 ID:elWaZyez
>>449
世間知らずな宗茂とかも浪々の折はみんなよく尽くしてくれてたもんなあ

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/28(火) 09:08:35.06 ID:IHKs+A9Y
宗茂「おっと、雨が落ちてきたか、干し飯を取り込まんと…いや、いかん、いかん、そんなことをしたらかえって家来共が悲しむ」

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/28(火) 09:50:16.81 ID:8FKcYLz6
高粱飯うめー

大谷吉継から真田昌幸に宛てた書状

2014年09月29日 18:51

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/28(日) 23:01:04.84 ID:Fkn7+NjH
真田家文書より、大谷吉継から真田昌幸に宛てた書状を二通紹介。


眞房州様 白以

貴札快然の至りに候、然る処久しく御意を得ず、御床しさにて候、御茶法御手前相極め候哉、
拙者式漸く相済み候条、御隙に於いては一夕おぼしめし□□(不明)候はば、本望たるべく候、
積欝御事、面上を以て申し承るべく候間、書中具にせず候、恐々謹言、

十二月九日 (花押)

(お手紙をいただき快然の至りです。このところ長い間お会いせず、お懐かしい気持ちです。
お茶の作法、お手前を極められたのでしょうか。私の用事はようやく済みましたから、
お暇な時には一晩思し召して□□くだされば本望です。
御心配のことはお会いして承りますので、手紙では詳しく書きません。)


眞房州様 白以

明朝、成らるべき旨忝く存じ候、尤も参を以て御礼申し入るべく候へども、
却って御六ヶ敷(むつかしく)思し召さるべくと其の儀なく候、常之御食時分に御出で成らるべく候、
何さま是より御左右申し入るべく候、恐々謹言、

十一月朔日 (花押)

(明朝、お出でになる旨嬉しく思います。もっともこちらが伺ってお礼を言うべきなのですが、
かえってわずらわしく思し召すと思いそれは致しません。いつものお食事時にお出でください。
いずれにせよこれよりこのお知らせを(注:家の者に?)伝えるつもりです。)


舅同士けっこう交流していたようだ。




901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 01:02:59.02 ID:ex4PbjiF
真房州ってかっこいいな

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 01:09:09.07 ID:24dHlvKC
>御心配のことはお会いして承りますので、手紙では詳しく書きません。
手紙は史料としての価値は高いけどこれが困る、後々の人の為にもっと詳しく書いて。

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 01:13:09.64 ID:RWi86YPV
吉継も兄ちゃんも短命だったのが惜しまれる

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 01:18:44.02 ID:vH8Rg91z
兄ちゃん充分長生きしただろ!

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 01:19:38.65 ID:hxlk00UX
兄ちゃんは色々ストレス抱えてたから仕方がないな

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 02:24:59.53 ID:dJvQXJbK
さる御仁曰く、人間の寿命は125歳らしいからな
93歳じゃ天寿を全うしたとは言えん

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 05:15:53.01 ID:hwXjMjDR
信之の母方の従兄弟の石田重家も103歳で死んだから
徳川に抗った親を持つと短命で死んでしまうんだな

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 15:32:39.08 ID:DQjemt6O
守光居士・成沢道忠「まだまだ若いのぉ」

さてさて、律儀なる若者である

2013年11月20日 19:02

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/20(水) 06:58:35.49 ID:KSi/G5u7
関ヶ原も既に大勢は決まり、東軍による追撃戦に入った、申の刻(午後4時頃)過ぎの事である。
藤堂家の藤堂仁右衛門(高刑)は、あまりに戦い続けたため息切れし、谷水を探し山の間に入った。

すると一町ばかり先に、武者が一人うずくまっていた。怪しく思い近づくと、それは
大谷吉継の重臣、湯浅五助ではないか。
仁右衛門はこれ幸いと、彼に向かって声をかけ氏名を名乗った
「湯浅殿!鑓合わせ致そう!」

湯浅五助は名誉の大剛とは雖も、今朝からの合戦に、負傷もし疲弊していた。
そのためか、槍を構えても下鑓になり、そこに仁右衛門は、右の高股を突くと、五助は
尻から倒れた。しかし倒れながらも咄嗟に仁右衛門の鑓を切り折った。

そこで仁右衛門は太刀を抜いて飛び掛ったが、そこで五助は声を上げた
「申し上げたいことがある!待ち候へ!」

仁右衛門が動きを止めると、このように言った

「只今山際に埋めたのは、我が主君、刑部少輔の首である。
癩病にて、その面貌甚だ見苦しく、そのためこれを隠し埋めたのだ。
そなた以外にこれを知るものは居ない。どうか必ず、人に漏らさぬよう頼み申す!」

これを聞いて仁右衛門は感心した
「さてさて、なんと忠臣であろうか。成る程、武士たるもの、誰もそのようでありたいものよ。
承知した。軍神にかけて他言すまじぞ!」

五助は大いに喜んだ
「さすがは藤堂の甥であるぞ!さらば、我が首参らせん!」

立ち上がり一鑓合わせて、そして討ち取られた。

それから仁右衛門は、湯浅五助の首を主君高虎の実検に入れた。
高虎は大いに喜び、仁右衛門を徳川家康の本陣まで召し連れて
「私の甥が、名にしおう湯浅五助を仕留めました」

そう家康に申し上げた。家康も大いに喜び、
「仁右衛門、若年ながら比類なき手柄である。ではあるが…」

家康は仁右衛門に尋ねた
「湯浅五助は其の方に、容易に打ち取れるような武将ではない。どのようにして仕留めたのか?」

仁右衛門は彼を討取った様子を申し上げた。すると家康は
「五助ほどの者が、主人である刑部の先途を見届けずに討取られるような事はあるまい。
刑部が切腹したことは解っているが、その首の行方は現在まで捜索しても未だ知れず、不審に思っている。
もし刑部の始末を五助が取り扱ったのであれば、五助は何か心にかかることを、そなたに言わなかったか?」

仁右衛門は言った
「なるほど、刑部少輔の首については知らないわけではありません。ですがその事について私は、
絶対に言わないと五助と約束いたし、その上で鑓を合わせ仕留めたのです。
只今の上意が重いものであるからといってこれを話せば、私は武士を欠いてしまいます。
この上は、不届きであると私に刑罰を申し付け下さい。」

これを聞いた家康は、機嫌よく高笑いした。そして
「さてさて、律儀なる若者である。有り体に言えば、和泉(高虎)からも抜群の褒美を与えられただろうに…」

と、彼を御前近くまで呼び寄せ、手ずから刀を与えた。そして
「仁右衛門の鑓は切り折られたそうだな。これを遣わせ。」
と、側に立ててあった鑓もまた与えた。
これらは今も、仁右衛門の家に残されている。

(平尾留書)






五奉行異聞

2013年08月29日 19:52

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/29(木) 17:39:23.25 ID:rt3oW6BU
別記によると、今年、前田玄以、増田長盛、石田三成、長束正家、大谷吉継が五奉行と定められた。

しかし、大谷は癩病を煩って後年には病が眼中に入り、盲目となったので奉行職を辞退したが、
大谷は朝日御方の甥で政所の従弟であるうえに、才智があって節操があり、篤実な者なので、

豊臣秀吉は深く惜しんでしばらくはその願いを受け入れなかったが、病気は良くならず、
奉行職が欠けてしまったので、浅野長政を加えたのだという。

――『新東鑑』




243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/29(木) 18:14:07.55 ID:uERcNAWU
朝日姫の甥で北政所の従弟ってことなのだろうか
だとしたら世代があわないような
大政所の甥で朝日姫の従弟ならありえるけど

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/29(木) 18:48:02.57 ID:rt3oW6BU
>>243
たぶん北政所の母親の方ですね。
(大谷は政所殿の御母、朝日御方の甥にて、政所殿とは従弟といひ、)

『千人斬り』顛末

2013年07月08日 19:52

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/07(日) 20:03:44.16 ID:xk/RjgvK
天正14年(1586)正月二十一日、この頃『千人斬り』と号して、大坂の町人の内、人夫風情の者を
数多討ち殺すという事について様々な風聞があった。

その内容は、大谷紀之介(吉継)という関白殿(秀吉)の小姓衆の一人が、悪瘡を気に病み、
千人殺してその血を舐ればその病は平癒する、と信じているため、そのような事をやっているのだと
云々されていた。これは全く、世上の風説である。

今日二十一日、この事が関白殿のお耳に入り、

「このような風説が広まっているのに、それを報告しなかったのは曲事である!
町奉行の者たちは殺すべきであるが、今回は、命だけは助けてやる。」

と、大坂の町奉行の3人を、追籠(自宅に閉じ籠めて謹慎させること)とした。
関白殿はこのことを仰せ付けになって、今日御上洛された。そして、

 盗人事 人ヲ切事 博奕事 酔狂事 徒者事

の五ヶ条を禁制とし、それを高札2枚にして掲げた。
この時高札には一つにつき金10枚が打ち付けられた。2枚の高札に、金20枚である。

そのような中、先の千人斬りの容疑者と思われる者が、大量に捕らえられたと
噂された。二月の二十七、八日にはこの真犯人とされるものが顕れ、
三月四日ごろに処刑された。
この者は、宇喜多次郎九郎という人物であったという。

この宇喜多次郎九郎が処刑されるまで、あれは大谷紀之介の所業であるという風聞は
一円に語られていた。
(宇野主水記)

本願寺顕如の右筆、宇野主水の記録した、大谷吉継の千人斬りの風聞についての顛末である。




21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/07(日) 20:21:14.07 ID:eehFXxPU
既出だけど、犯人が捕まった部分は新しいな

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/07(日) 20:31:24.27 ID:ujqMYHcb
犯人逮捕への圧力が冤罪を産むのです

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/07(日) 21:41:20.78 ID:m9lyyG8z
「大量に捕らえられた」と言う容疑者はどうなったのだろうか
ちょっと心配になる展開

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/07(日) 21:43:40.00 ID:m9lyyG8z
>>21
既出のも捕まってた。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5392.html


幽斎忠興不和の事

2013年06月25日 19:57

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/24(月) 20:09:44.41 ID:RYB1E3S1
慶長5年(1600)、この年の奥州会津の城主・長尾景勝討伐の時、
細川越中守忠興は徳川家康の味方として宮津より出陣された。
細川幽斎は隠居の身であったため田辺城に留守をされ、忠興のみが
景勝討伐に出た。

こうして細川忠興は、雑兵たちを含めて三千の人数にて6月11日、宮津城を出馬され、
御暇乞いを申すためとして、父幽斎の在る田辺城に立ち寄り、その夜は田辺に宿陣した。
幽斎は天守に登り、軍勢の行列を見物された。

さて、忠興は若狭を通って近江路へ出ようと、丹後・若狭の国境である吉坂まで
進んだのだが、若狭の熊川にはその頃関所が有り、しかもそれを、敦賀の城主である
大谷刑部少輔(吉継)が命じて、非常に堅固なものにしたため、そこを往来することは
容易くないとの情報を得た。

ここで忠興は
「若州より近江路へ出ようと考えていたが、存ずる仔細が有るので、丹波路を進むこととする。」
として吉坂から取り返し、丹波路を山家へ進んで、伏見へと出た

この事を幽斎は聞いて、激怒した
「形部少輔に何か謀があったとしても、忠興の通行を妨害するような理由はない!
この頃は世間物騒の時節であれば、とにかく関所まで進み、逆に形部少輔の様子を見届けて
通るべきだったのに、吉坂まで進んでいた陣を取って返して丹波路へ出るなど、これは
不覚悟の至である!

忠興がもし生き残り、帰陣してきたとしても、私はあいつと対面しない!」
そう、奥歯を噛み締めて怒った。

一方の忠興は、西軍の小野木重次らが田辺城を攻めた田辺城の戦いにおいて、
幽斎が勅命とは言いながら、いま少し耐えようともせず城を渡して京都に上ったことを、
大変不本意なことだと考えた。

これにより、父子の間には互いに隔心が出来、段々と不和になっていき、
その悪感情は次第につのり、ある時など父子それぞれの侍たちが、1日の間に
2度まで槍を合わせたことが在ったそうである。
(丹州三家物語)

幽斎忠興不和の事、というお話





937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/24(月) 20:26:09.68 ID:pQ9LQrMi
そこはホラ、お玉様が間を取り持ってだね…あっ…

家康・前田利家対立の時の大谷吉継

2013年04月27日 19:50

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 09:51:14.26 ID:UjUwTEYi
良い話でも悪い話でもないが

秀吉死後の所謂家康の婚姻問題において、諸侯は家康派と前田利家派の2派に別れ一触即発の状態となった。

徳川家康には、池田輝政、福島正則、黒田如水・長政親子、藤堂高虎、森忠政、そして新庄駿河守などの小身衆、
また有馬法印、金森法印、織田有楽らが味方した。
大身小身共に、毎夜家康の屋敷に詰めていた。

中でも大谷刑部少輔吉継は、

「もし家康公に向かって敵が攻めてくれば、何時であっても先手を仕り、奉行衆共と一戦いたす!」
(若し家康公へ敵取かけ候はば、何時も先手を仕り、奉行共と一戦仕るべき)

と申され、自身の屋敷に人数を集め敵を待ち受けられていたそうである。
(玉露叢)

大谷吉継の、家康派としての活動が特筆されている記録である




424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 10:54:21.46 ID:3I0DzSas
その大谷吉継が最後の最後に家康を裏切ったという悪い話か
まあでもこの前発売された歴史街道では吉継の子孫が
「最後に武将として大きな存在である家康に挑みたかったのだろう」(ちょっとうろ覚え)とか言ってたね
子孫が親藩である越前松平家に仕えられたのも吉継が家康の信頼を得ていたからだとも

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 11:17:08.90 ID:Lo4acF+I
越前松平ってどちらかと言うとお上に睨まれていた人が集まっている感じだが

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 11:27:44.35 ID:2yI8hEp+
そうした人材の受け皿としてはよかったんだろうね>越前松平家

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 12:28:53.41 ID:KmFhVaoa
北陸関ケ原はちょっと前まで敵だった、前田が味方で、
味方だった大谷と丹羽が敵になってて面白い。

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 12:29:06.45 ID:Tfoo7lvo
制外というのを上手く使って放置しとくと徳川にとって危険だが使わないのも惜しいような連中を集めてた感はある

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 12:38:57.55 ID:gRbdHG7j
つくづく徳川パネェ

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 15:57:17.01 ID:NA5LBGAu
>416、タヌキさんの場合道理が通ってれば文句言ってもいきなり斬られることはないだろうし。平八郎に折檻されるか友に冷笑されるかはともかくとして。
これが末期のラスボスとかだと首がポーンしかねない